竹島

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>>パルマス島事件

投稿者: banjogbari 投稿日時: 2003/02/11 19:45 投稿番号: [1110 / 18519]
>主旨が理解できないので確認したいのですが、決定的期日が島根県編入に設定されるとお考えなのですか?

必ずしも決定的期日を定めるとは限らないと思いますが(マンキエ・エクレオの場合も定めませんでした)、実のところ決定的期日についてはよくわかりません。
私の投稿の趣旨は、1905年以前に日本側に朝鮮側の未成熟な権原と競合できる「(未成熟な)権原」があるのかなと思ったものですから、つい1905年と書いてしまいました。

>暗黙の承認

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/11 19:30 投稿番号: [1109 / 18519]
やはりこれは、間接的な仮定に近いのではないかと思う。

よく引き合いに出されるマンキエ・エクレオ事件では、間接的な仮定は考慮されなかった。
この事件はイギリスとフランスの間で争われたのだが、先ず両国間にその帰属を定める条約がないことを確認し、イギリス側に政府の古文書があることが重視された。
尤も、これらの島には定住のための家屋などもなったので、同一に論ずることには多少無理があるかもしれないが、その地での裁判や徴税の記録などは人の定住が困難な獨島には適用出来ないだろうね。
「暗黙の承認」を推測するだけでは、間接的な仮定に過ぎないだろうと思う。

ただし、東国文献備考が公式に日本側に渡された記録があれば、少し事情が違ってくるかもしれないが、ここのところは実際良く分からない。

>パルマス島事件

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/11 19:28 投稿番号: [1108 / 18519]
> 15世紀の三峯島探査により発見された島の権原が未成熟であっても、1905年以前に日本側の実効支配の証拠がない場合、

主旨が理解できないので確認したいのですが、決定的期日が島根県編入に設定されるとお考えなのですか?

わからないね

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/11 17:39 投稿番号: [1107 / 18519]
>確かに明確な承認ではありませんが、東国文献備考に記された「于山島は倭の所謂松島なり」との記述に対して、日本政府は何の行動も起こしていませんし、太政官指令に見られるように、実質的に承認していたとも考えられませんでしょうか。

先にも述べたように、未知数なのだが、軽々に判断することは避けようと思う。
まあ、考え方としては面白いんじゃない。

暗黙の承認

投稿者: banjogbari 投稿日時: 2003/02/11 17:35 投稿番号: [1106 / 18519]
確かに明確な承認ではありませんが、東国文献備考に記された「于山島は倭の所謂松島なり」との記述に対して、日本政府は何の行動も起こしていませんし、太政官指令に見られるように、実質的に承認していたとも考えられませんでしょうか。

>パルマス島事件(2)

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/11 17:09 投稿番号: [1105 / 18519]
「暗黙の承認」が承認として認められるかどうかは未知数だね。
ただし、「発見」も「継続的かつ平穏な占有」も政府の行為でなければ認められないと云うのがマンキエ・エクレオ島事件の判例だろうね。パルマス島事件も政府の権原を争ったものだ。
だからこそ、官の史料を重視するわけだね。言い換えれば、民間史料はゴミ屑同然に扱われるのが国際司法裁判所の判例と云うことになるのだが、問題の金自周の探査結果を官側の記録と見ても差し支えないのではないか。
峻険な高山や、上陸が困難な岩礁は、その存在を知っているだけでも権原になるだろうし、他国との競合が一切存在しなければ、これだけで充分なのだが、獨島の場合は他国が絡むので問題になるのだと認識した方が正しいかもね。

念のいったことで。。。

投稿者: p_qfs_q 投稿日時: 2003/02/11 17:09 投稿番号: [1104 / 18519]
Am_I_AHO_1stさんは、九州で虐げられた在日外国人、
半月城さんは在日朝鮮人でしたかね。

皆様の怨念をも感じる『竹島は我が領土』
のご主張の源泉はどこから沸いてくるのか興味のあるところです。

たくさんの似たような質問も受けたでしょうが、

Q:あなたのお住まいの母国日本で竹島を韓国領土と主張するその意図?

Q:さわやかに在日外国人として日本に暮らしていて、あえて竹島は韓国の領土だと主張するその意味は?

パルマス島事件(2)

投稿者: banjogbari 投稿日時: 2003/02/11 16:45 投稿番号: [1103 / 18519]
15世紀の三峯島探査により発見された島の権原が未成熟であっても、1905年以前に日本側の実効支配の証拠がない場合、日本側が朝鮮側の公式記録を知り得たことが証明できれば、暗黙に承認していたことになり、承認の効果が発生する可能性はないでしょうか。

パルマス島事件

投稿者: banjogbari 投稿日時: 2003/02/11 16:33 投稿番号: [1102 / 18519]
発見による権原が他国による継続的かつ平穏な実効支配に道を譲ることはありますが、この場合、日本側に実効支配の証拠が必要では?

RE2:>備辺司謄録の見方

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/11 14:54 投稿番号: [1101 / 18519]
ネット時代を迎えて、文字コードの問題は複雑化し解決が難しい問題の一つです。

さて、根本的な解決方法としては、初めから韓国語環境のみでセットアップされたPCをもう一台準備する方法がありますが、一台のPCで日本語環境との混在には問題が発生するようです。

一台のPCで多言語混在表示をお望みの場合ですが、例えば、MS社の製品をお使いの場合であれば、グローバルIMEをインストール刷るのも一つの方法です。

http://www.netomo.com/netomo/japan/html/netomo_helppage_faq_8.htm

上記に加えて、韓国のサイトを閲覧する場合には、予めブラウザの表示言語を韓国語優先に設定する方法もあります。
例えば、InternetExplorereをお使いでしたら「インターネットオプション」の「全般」タブを選択し、その中から「言語」の設定を韓国語優先に変更してみてください。

>『東国輿地勝覧』と于山島2

投稿者: hakkoda1297 投稿日時: 2003/02/11 14:37 投稿番号: [1100 / 18519]
半月城さん、こんにちは。

いつも、詳細な資料を紹介していただき、大変勉強になります。
ただ、その解釈の点について、もしよろしければ若干お教え下さい。

>輿地勝覧は『世宗実録地理志』の二島説を本説に採用し『高麗史』の一島説を
>一説として紹介するにとどめました。

の部分ですが、もし輿地勝覧の編纂時に朝鮮政府が二島説を採用していたのなら、
わざわざ一島説を紹介する必要はなかったのではありませんか?

また

>輿地勝覧と同年代の日本地図は存在しないようですが、それから半世紀後の
>安土桃山時代に描かれた日本の代表的な地図に「日本地図屏風(二曲一隻)」が
>あります(注4)。そこには対馬と壱岐はほぼ同じ大きさに描かれているのを
>はじめ、千葉県の東に佐渡島と同じくらいの大きさの島がふたつ描かれました。
>これはもちろん存在しません。さらに本州は東西に伸びた形に描かれました。
>16世紀の地図はえてしてこの程度で、不正確で当たり前です。

の部分、特に一番最後の部分ですが、16世紀の地図が一般的に不正確であるから
こそ、国際司法裁判所の判決などでも、領土に対する主権の帰属の判断にあたっては、
「(発見による)未成熟な権原」(パルマス島事件判決)や、「中世の事件に
基づく間接的推定」(マンキエ・エクレオ島事件判決)ではなく、「後代の
法にしたがって有効な実効的占有に基づく権原」(マンキエ・エクレオ島事件判決)を
重視するのではありませんか?
朝鮮の地図が同時代の日本の地図と比較して正確だから、それが領土主権の根拠と
なるとは、ちょっと考えにくいのですが(そもそも、なぜ比較対象として同時期の日本の
地図が出てくるのかも疑問です)。

ご多忙のなか申し訳ありませんが、もしお時間がありましたら、以前一度ご質問
させていただきました

「いわゆる『竹島日本領派』の学者でさえ、竹島の実効支配の有無などを問題に
する者はいない」

とのご発言についても、その詳細をお教えいただければ幸いです。
それでは。

> 『東国輿地勝覧』と于山島2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/11 14:30 投稿番号: [1099 / 18519]
>16世紀の地図はえてしてこの程度で、不正確で当たり前です。

朝鮮について補足しますと、朝鮮王国時代には大韓帝國期を含めて、一度も正確な全国図は作製されなかったのでないでしょうか。
朝鮮末期の全国図を見ても、緯度経度を表示している場合であっても、単に古地図をなぞったものに緯度経度らしき線を描き加えた程度で、せいぜい測量地図へ移行する過渡期の図としか云えないのではないでしょうか。

『東国輿地勝覧』と于山島3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/11 13:47 投稿番号: [1098 / 18519]
   そうした時代の制約を考慮するとき、輿地勝覧でとくに重要なのは、朝鮮王朝は1531年以前に正確な位置は不明ながら、東海に于山島と鬱陵島の二島を認識していたということと、二島二名説が『世宗実録 地理志』についで本説になったということです。

(注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シング文化社,2001
(注2)『新筯東國輿地勝覧』巻之四十五、蔚珍縣
http://kyujanggak.snu.ac.kr/home/digital.htm
復刻版(朝鮮史學会発行,1930)
  (句読点は復刻版のままですが、上記サイトの奎章閣の原本に句読点はありません)
蔚珍縣 于山島、鬱陵島。   一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌〓1〓2空。南峯稍卑。風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二日可到。一説于山、鬱陵島本一島。地方百里。
  新羅時恃險不服。智證王十二年。異斯夫為何琵羅州軍主。謂。于山國人愚悍。難以威服。可以計服。乃多以木造獅子。分載戦船。抵其國誑之曰。汝若不服。則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。
  高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆。獻方物。
  毅宗十三年。王聞鬱陵地廣土肥。可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視。柔立回奏云。島中有大山。從山頂向東行。至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩。有村落基址七所。或有石佛鐵鍾石塔。多生柴胡藁本石南草。
  後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃。多珍木海錯。遣使往觀之。有屋基破礎宛然。不知何代人居也。於是移東郡民以實之。及使還。多以珍木海錯進之。後屡爲風濤所蕩覆舟。人多物故。因還其居民。
  本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨爲按撫使。刷出。空其地。麟雨言。土地沃饒。竹大如杠。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。
  世宗二十年。遣縣人萬戸南邕。率數百人往捜逋民。盡俘金丸等七十餘人而還。其地遂空。
  成宗二年有告。別有三峯島者。及遣朴宗元往〓3。因風濤不得泊而還。同行一船。泊鬱陵島。只取大竹大鰒魚。回啓云。島中無居民矣。
〓1、やまかんむりに業、ぎょう
〓2、てへんに掌、とう
〓3、不の下に見、べき
(注3)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注4)神戸市博物館『古地図セレクション』(第2版)神戸市体育協会,2000

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『東国輿地勝覧』と于山島2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/11 13:45 投稿番号: [1097 / 18519]
   高麗太祖13(930)年、その島民の使いである白吉と土豆が貢ぎ物をもってきた。
   毅宗13(1159)年、王が聞くところでは、鬱陵の地は広く土地が肥え、民が居住できるとのことだった。そこで溟州道(江原道)監倉使の金柔立を派遣し調査させた。金が島から帰って奏上した。島には大山があり、山頂から東に行くと1万余歩、西には1万3千歩、南には1万5千歩、北には8千余歩で海に至る。村落の跡が7か所あり、石仏や鉄の鐘、石塔がある。柴胡藁本石南草が多くはえている。
   高麗時代、武臣政権の崔忠獻が武陵島は土壌が肥え、珍木や海産物が多いと発議したので人を派遣し調査させた。破損した家屋がみつかった。いつのころのものか判然としない。ここに東郡民を移し実際に住まわせた。遣使は帰り、珍木や海産物を進呈した。その後、しばしば風濤のため舟は転覆し犠牲者が多く出た。よって居住民を引きあげさせた。
   朝鮮王朝の太宗時代、その島に逃げる流民がはなはだ多いと聞く。再び三陟の金麟雨を按撫使に命じ島民を連れ戻した。その地は空になった。金麟雨はいった。土地は肥え豊饒である。竹は旗竿のように大きく、ネズミは猫のように大きく、桃は升のように大きい。すべて物はこんな具合である。
   世宗20(1438)年、県人で萬戸職の南邕を派遣した。数百人をひきいて逃亡民を捜査させた。盡俘金丸等70余人を連れ戻した。その地は遂に空島となった。
   成宗2(1471)年、三峯島に人がいると告げる者あり。そこで朴宗元を派遣し探索させたが、風濤のため行けずに戻った。同行の一船が鬱陵島に到達し、大竹やアワビなどを持ち帰った。島に居住民はいないと奏上した。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   以上が于山島の項に関する記述のすべてですが、内容は『三国史記』や『高麗史』『朝鮮王朝実録』などの引用が大半です。したがってエピソードの内容はほとんど同じです。その一方、それらの史料どうしには食いちがいがあるので、輿地勝覧はそれらを整理する必要に迫られました。
   最大の問題は東海にある島の数で、一島なのか二島なのかでした。『高麗史』は「一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる」として、一島説を本説に採用しました。
   ところが『世宗実録地理志』は二島説を本説に採用し「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる」と記述しました。

   ふたつの史料の食い違いですが、輿地勝覧は『世宗実録地理志』の二島説を本説に採用し『高麗史』の一島説を一説として紹介するにとどめました。これはその後の史実を加味したためと思われます。
   前回書いたように、成宗の時、朝廷にとって未知の島である「三峯島」探索が行われました。その際、金自周の一行は「三峯島」に行ったことがある金漢京も知らない島を発見し、図形を記録して持ち帰りました。こうした史実を加味してか輿地勝覧は二島説を本説にし、二島二名としました。

   こうした史料の発展をみようとしない人がいます。前回紹介した川上健三氏ですが、史書では高麗史の一島説が古く正しく、他の史料はそれを若干修正したにすぎないと主張しました(注3)。その結果が、金自周の描写した島を無理に鬱陵島に当てはめるという愚挙をおかしました。また、史料の古さを厳密にいえば、堀和生によれば『世宗実録地理志』がわずかに『高麗史』より成立が古いようで、この点からも川上健三の主張はまちがっているようです。

   輿地勝覧の二島二名は具体的に地図にも表現されました。付属地図の「八道総図」です。そこで于山島は鬱陵島よりやや小さめに、しかも鬱陵島の西側に描かれました。于山島の位置や大きさをよく知らないままで地図が作成されたようでした。
   これを今日の視点からみるといかにも信頼性が低い地図に見えますが、それでも八道総図は同じ時期の日本地図と比べると、むしろその正確さには驚かされるくらいです。
   輿地勝覧と同年代の日本地図は存在しないようですが、それから半世紀後の安土桃山時代に描かれた日本の代表的な地図に「日本地図屏風(二曲一隻)」があります(注4)。そこには対馬と壱岐はほぼ同じ大きさに描かれているのをはじめ、千葉県の東に佐渡島と同じくらいの大きさの島がふたつ描かれました。これはもちろん存在しません。さらに本州は東西に伸びた形に描かれました。16世紀の地図はえてしてこの程度で、不正確で当たり前です。
(つづく)

『東国輿地勝覧』と于山島1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/11 13:41 投稿番号: [1096 / 18519]
   半月城です。
   ハングルの創成など文化面で輝かしい業績を残した世宗は、地理書『世宗実録 地理志』も残しましたが、これ以降、地理志編纂の伝統は朝鮮王朝にしっかり根付きました。
  『世宗実録地理志』が完成するや、さっそくその翌年(1455)から新しい地理志の編纂が始まりました。梁誠之の『八道地理志』です。注目すべきは、この地理志に初めて地図が添付されたことです。それも朝鮮の八道の地図に限りませんでした。周辺の日本や明、遼東図なども添付されたようでした。
   この地理志は成宗9年(1478)に完成しましたが、すぐれて資料価値が高かったようで、それゆえに軍事上の観点から取り扱いが問題になりました。朝廷で「地理志と地図は官衙で保管すべきで、民間に流布してはならない」とされ、一般には流通しませんでした。そのため発行部数も少なく、戦乱などで散逸してしまったのか現在に残りませんでした。わずかに、地方志の『慶尚道續撰地理志』だけが伝わりました。

   付属の地図も伝わりませんでしたが、朝鮮の地図だけは『東国輿地勝覧』に引き継がれたとされています。『東国輿地勝覧』は八道地理志の直後から編纂が開始され、成宗12(1481)に完成しました。残念ながらこの初版は伝わっていません。かわりに第四版にあたる『新増東国輿地勝覧』(1531)が現存しますが、これは第1級の史料とされているようです。日帝時代の1930年に『三国史記』や『三国遺事』についで古書としては三番目に朝鮮史學會から復刊されました。
   ウェブでは、下記ソウル大学奎章閣のサイトで影印版をみることができます。正式書名は『輿地勝覧』ですが、俗称は『新増東国輿地勝覧』です。
   http://kyujanggak.snu.ac.kr/home/digital.htm

  『輿地勝覧』の性格ですが、これは自然地理書というよりは人文地理に近く、故事古典が豊富に記載され、歴史地理書あるいは読史地理書のように読みやすいのが特徴です。これは中央集権という政治体制の必要性からきたようでした。
   当時の地方行政ですが、地方長官などは科挙に合格した官吏が中央から派遣されました。任期は、腐敗や地方勢力の肥大化を防ぐため、監察使(道長官)は1年、守令は5年と短く設定されていました。しかも地元出身者を避けていましたので、観察使はその地方の事情に疎くて当然でした。そうした地方長官や、かれらを統括する中央の官吏が地方の事情を把握するのに役立つよう『東国輿地勝覧』は編纂されました(注1)。

   前置きが長くなりましたが、『新増東国輿地勝覧』(輿地勝覧と略す)に于山島、鬱陵島はこう記されました(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『新増東国輿地勝覧』蔚珍縣 于山島、鬱陵島
   一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、鬱陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。
   新羅の時、その地がけわしいことをたのみにして服属しなかった。智證王十二(511)年、異斯夫が何瑟羅の軍主となった。異斯夫はこういった。于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができる。そこで木製の獅子像を多く作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくや、こう偽りを言った。
「お前たちがもし服属しないのならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
   これを聞いて、その国の人々は恐れおののいて降伏した。
(つづく)

RE:>備辺司謄録の見方

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/11 13:39 投稿番号: [1095 / 18519]
   半月城です。RE:1074, Am_I_AHO_1stさん
>当該資料は、國史データベース中の「中世史」にて閲覧できますが、UNICODEではなく"euc-kr"で記述されております。

   アドバイスありがとうございました。
   国史編纂委員会のサイトは euc-krとunicodeとが混在していて、しかもブラウザの日本語ieは通常unicodeに対応しているので、euc-krの備辺史謄録がみられませんでした。
   悪戦苦闘の末、何とかフリーソフトの「ピョンジ」でeuc-krの文をエンコードして見られるようになりました。次のステップとして、euc-krをブラウザieに組み込んでunicodeとeuc-krを切り替えて即座に読めないものか思案中です。どなたかくわしい方がおられましたら教えてください。

頑張って半けつさん

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/10 16:41 投稿番号: [1094 / 18519]
遠回りはいいからさ。「聞いた、見た、触ったかもしれない」以外の証拠をはやく出してよ。楽しみにしてるよ。

                      半けつファン倶楽部会員より

>>>『成宗実録』と三峰島1

投稿者: banjogbari 投稿日時: 2003/02/10 14:45 投稿番号: [1093 / 18519]
レスありがとうございます。

未成熟な権限が無効なら、潜在主権も無効にされる可能性がありそうですね。

>>『成宗実録』と三峰島1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/10 14:27 投稿番号: [1092 / 18519]
マンキオ・エクレオの判例では、イギリスとフランスは1066年に遡った未成熟の権限に基づき、領有権を主張していたらしい。
それに対して判決では未成熟の権限は、法の変化に伴い、「新たな有効な権限に置き換えられる」べし。新たな有効な権限とは実効的支配である。
という論法らしいですよ。

半けつさんへ

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/10 14:00 投稿番号: [1091 / 18519]
あららら。健忘症も極まったというところでしょうか。私は半けつ通信の熱烈なファンでもありましてね。TPOにあわせた解釈なので整合性を考えてないのかしらん。

「竹島は鬱陵島の属島」
http://www.han.org/a/half-moon/hm062.html
   松島(現・竹島=独島)は竹島(現・鬱陵島)と隣同士で、「一対」あるいは属島という認識は、日本や朝鮮で古くから根強くあったようでした。

こんなのもあるね。
http://www.han.org/a/half-moon/hm063.html
そして、両国政府の交渉で鬱陵島の朝鮮所属が決定した際に、その属島たる松島=独島も、ごく自然に日本の版図からはずされたのである。

>自藩領ではないと公式回答しました。
「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」に対して「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」でしょ。解釈に問題あるんでないの?まぁ前後をトリミングしてるからわからんけどね。

今後とも資料提供よろしくね。できれば、トリミングなしで、半けつ解釈もなければ最高。

不自然なのは当たり前!

投稿者: microvax2_2003 投稿日時: 2003/02/10 02:06 投稿番号: [1090 / 18519]
だって!こじつけや嘘を拡大解釈するのが、韓国・朝鮮人の専売特許じゃないか。

日本人の「根気負け」と「呆れさ」をさそって諦めさす事が最終目的だからだよ。

本当に汚い奴らなんだから!その認識を忘れてはいけない。

今までは、日本人の「情」と「戦争に負けた弱み」(戦争の恐怖感)で取り込んできたが、そー何回も同じ手段はきかない。だから基本戦術をかえてきてるんだよ(歴史からみたら同じ事してるだけだがね!)。

あいつらの本質と目的をはっきり把握する事だよ。

不自然

投稿者: zephenda 投稿日時: 2003/02/10 01:44 投稿番号: [1089 / 18519]
どうして川上氏の挙げた不審点を無視してその結論に行き着きますかね?それは貴方の憶測であり、史書自体はそれが竹島と符合しない事実もあるし、竹島だとも言っていないので、結論としては信憑性に足らないものと言わざるを得ません。即ちこれは証拠不十分で棄却ですよ。だから川上氏も言及する必要なしと考えたのではないですか。

「自然なようです」とか「思われます」で議論をしないでください。これは領土問題なのですから。

学者?

投稿者: zephenda 投稿日時: 2003/02/10 01:31 投稿番号: [1088 / 18519]
誰その学者?
名前と学説を列挙希望。
て言うか、そう言う人たちはどういう風に日本領だということを証明しているの?

>『成宗実録』と三峰島1

投稿者: banjogbari 投稿日時: 2003/02/09 15:09 投稿番号: [1087 / 18519]
金自周たちの三峰島探索は政府による「発見」に該当しませんでしょうか。
「狼たちの」国際法でも15世紀頃は「発見」により領土取得出来たはずですので、時際法(その当時の法を適用する)では明らかに領土取得の要件を満たしていると見て差し支えないのでは。

『成宗実録』と三峰島

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/02/09 13:40 投稿番号: [1086 / 18519]
さて。

何度も書きますが、朝鮮が支配していたという根拠が示されない限り、日本の領有権に対するネガティブキャンペーンを何度繰り返しても全く無意味です。

また、一定の結論を先に設定して都合の良い記述を抜き出し、不足部分を個人の憶測で補うことでいくらでも先に設定した「結論」に合うような筋書きを作ることは可能です。

一般に上記の手法はある種の運動家が良く使う手法のようですね。

いまどき騙される人は少ないと思いますが、注意されたほうがいいかも知れません。(苦笑)

furieowkさん

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/02/09 13:31 投稿番号: [1085 / 18519]
さっそくのご回答ありがとうございます。

>「日本海竹島外一島地籍編纂方伺」(付属書類の中で「外一島」を松島と明記)を提出して判断を仰いでいます。
とありますが。

なるほど、この附属書類というのをちょっと探して確認してみます。
時間がかかるかもしれませんが。

本文中にありますが。

投稿者: furieowk 投稿日時: 2003/02/09 13:12 投稿番号: [1084 / 18519]
>このとき日本の内務省は、松島(=今の竹島)の帰属について、両島(ウンルンドと松島)が、朝鮮領土であると結論しました。

>しかし「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため内務省は、翌年の1867年3月17日に太政官に「日本海竹島外一島地籍編纂方伺」(付属書類の中で「外一島」を松島と明記)を提出して判断を仰いでいます。
太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ次のような文書が起草されました。

>紙内務省伺日本海竹島外一島地籍編纂之件   右ハ元禄五年朝鮮人入島以来旧政府該当ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候申立候上ハ   伺之趣御聞置之通御指令相成可然哉   此段相候成
  御指令按
  伺之趣竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事


↑ここで「竹島外一島」は本邦と無関係と言ってますが、松島(=現竹島)を放棄するなんて言ってないでしょ。どこに松島って書いてあります?「竹島外一島」ですよ。


答え

「日本海竹島外一島地籍編纂方伺」(付属書類の中で「外一島」を松島と明記)を提出して判断を仰いでいます。

とありますが。

外務省の姿勢

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/09 08:23 投稿番号: [1083 / 18519]
   半月城です。
   furieowkさん、RE:1080
>すなわち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は両島を日本領ではないと公言、この指令は4月9日付で内務省から島根県に伝えられ決着した。
>この決定に対しては外務省も異議をとなえていません。
>このような過去のいきさつから、日本の外務省が竹島を日本領と主張できないのもうなずけます。

   ところが、外務省の外交青書は毎年のように「竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本の固有領土であり、このような日本の立場は一貫している」とくりかえしています。
   今では「竹島日本領派」の学者ですら「形式的には、松島(今日の竹島)もまた「本邦無関係」とされることになったのである」と発言している現状を外務省はすこしは直視すべきです。

>1866年からの真相を語る

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/02/09 08:18 投稿番号: [1082 / 18519]
fuyieowkさん、はじめまして。

>当時、日本はウンルンドを竹島と呼び、今の竹島を松島と呼んでいました。

↑ここまでは誰も文句なし。ウルルンドは朝鮮(韓国)領と認めます。

>このとき日本の内務省は、松島(=今の竹島)の帰属について、両島(ウンルンドと松島)が、朝鮮領土であると結論しました。

>しかし「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため内務省は、翌年の1867年3月17日に太政官に「日本海竹島外一島地籍編纂方伺」(付属書類の中で「外一島」を松島と明記)を提出して判断を仰いでいます。
太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ次のような文書が起草されました。

>紙内務省伺日本海竹島外一島地籍編纂之件   右ハ元禄五年朝鮮人入島以来旧政府該当ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候申立候上ハ   伺之趣御聞置之通御指令相成可然哉   此段相候成
  御指令按
  伺之趣竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事


↑ここで「竹島外一島」は本邦と無関係と言ってますが、松島(=現竹島)を放棄するなんて言ってないでしょ。どこに松島って書いてあります?「竹島外一島」ですよ。


>このような過去のいきさつから、日本の外務省が竹島を日本領と主張できないのもうなずけます。

>要するに松島(=今の竹島)を日本が朝鮮領とみなしているのです。


↑のかどうかは、上記で言っている竹島外一島の「外一島」が松島=現竹島なのかどうかにかかっているんでしょ?

そこを証明してくださいよ。

それより、その前に朝鮮国が日本より先に竹島(=独島)を領有していたという証明ができていないでしょ?

まず、そっちのほうから先に証明してくださいよ。

期待してま〜す。

henchin_pokoider01さんへ

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/09 08:08 投稿番号: [1081 / 18519]
   半月城です。
   henchin_pokoider01さん、RE:1065
>半けつさんは、竹島は鬱陵島の「属島」って言い切ってましたよ。だから鬱陵島の渡航禁止に伴い自動的に竹島も放棄したんだって。

   これは私のことでしょうか?
   そうだとしたら、私の名前や発言を改竄、歪曲するのはやめてください。私の発言は下記にあるように、当時の幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったし、その一方で竹島(鬱陵島)渡海免許を取り次ぐなど、もっとも関係が深かった鳥取藩は、松島(竹島=独島)は自藩領ではないと公式回答しました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&action=m&mid=682&mid=

1866年からの真相を語る

投稿者: furieowk 投稿日時: 2003/02/09 03:59 投稿番号: [1080 / 18519]
当時、日本はウンルンドを竹島と呼び、今の竹島を松島と呼んでいました。
このとき日本の内務省は、松島(=今の竹島)の帰属について、両島(ウンルンドと松島)が、朝鮮領土であると結論しました。
しかし「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため内務省は、翌年の1867年3月17日に太政官に「日本海竹島外一島地籍編纂方伺」(付属書類の中で「外一島」を松島と明記)を提出して判断を仰いでいます。
太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ次のような文書が起草されました。

別紙内務省伺日本海竹島外一島地籍編纂之件   右ハ元禄五年朝鮮人入島以来旧政府該当ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候申立候上ハ   伺之趣御聞置之通御指令相成可然哉   此段相候成
  御指令按
  伺之趣竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事

この指令按は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、寺島宗則、大木喬任などによって承認・可決され、同年3月29日正式に内務省に指令された。
すなわち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は両島を日本領ではないと公言、この指令は4月9日付で内務省から島根県に伝えられ決着した。
この決定に対しては外務省も異議をとなえていません。

このような過去のいきさつから、日本の外務省が竹島を日本領と主張できないのもうなずけます。
要するに松島(=今の竹島)を日本が朝鮮領とみなしているのです。

『成宗実録』と三峰島2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:56 投稿番号: [1079 / 18519]
  「三石列立」と表現された景観は、鬱陵島がふさわしいのか、竹島=独島がふさわしいのかは、両島を見比べてみないと何ともいえないところです。しかし、そのほかの描写からして問題の島を鬱陵島とするのは種々の点で無理ではないかと思われます。
   まず、金自周が鬱陵島を描写するとしたら、北海岸の大巌柱付近しか説明しないのはあまりにも不自然で考えにくいところです。その一方で、周囲が数十kmもある大きな島を説明するのに、小さな「巌石(がんせき)」まで取りあげるのは不自然といわざるをえません。
   これは、金自周たちが描いた島はそのような大きな島ではなく、小さな島を描写したので小さな巌石まで記述したとみるのが自然なようです。また「海水が通じて流れている」という表現も竹島=独島のほうがより真に迫っていることもたしかです。
   一方、川上氏は竹島=独島で最大の島を「中島とするのはあたらない」と書いていますが、その島が最大であるのなら、私にはさして不自然な表現には思えません。むしろ、川上説にしたがえば、鬱陵島本島が「中島」、観音崎や一本立島が「小島」、孔岩が「巌石」に相当することになりますが、そうなると「中島」は小島とは比較にならないくらい巨大でありすぎて、中島という表現自体が成り立たず、川上説はもっと「あたらない」ことになります。

   また川上氏は、小島の「観音崎」を大巌柱の付近としていますが、10万分の1の地図でそのあたりには小島は見当たりません。わずかに孔岩という岩があるのみです。一方、
島の東なら至近距離に観音島がありますが、この小島は鬱陵島の西側からはもちろんみえません。金自周は船を島の西に碇泊して観察しているので、たとえ方向を多少変えたところで観音島は本島に重なり、その間に海水が通じて流れていると認識することは不可能に思われます。
   さらに、もし金自周たちがたどりついた島が三峰(鬱陵)島なら、同島に二度も行ったことのある金漢京たちが気がつかないはずはありません。とくに、この島には「海から顕著な目標」になっているほどの3本の大巌柱があるとのことなので見逃すはずはないと考えられます。それにもかかわらず、実録に目的とする三峰島に行ったとの記述がないのは、やはり金自周は同島でなくほかの島を見たためと思われます。

   以上のように川上氏の反論は根拠が薄弱なようです。やはり金自周がみた島は今日の竹島=独島と見るべきと思われます。
   余談ですが、川上氏は外務省の調査官として竹島=独島を日本領とすべく竹島=独島の史料を調査研究し前掲の著書を出版しましたが、そのなかでなぜか明治政府が竹島、松島を放棄した重要な太政官指令だけはまったくふれませんでした(注4)。それを公表すると日本に不利になるので、故意に資料隠しをしたのではないかと疑われます。そうした著書であるだけに読むときは細心の注意が必要です。

(注1)朴永圭『朝鮮王朝実録』新潮社、1997
(注2)『成宗実録』(巻68)成宗7(1476)年6月癸巳條
下書永安道觀察使李克均曰 今見卿啓 知鏡城金漢京等二人 辛卯五月 漂泊三峰島 與島人相接 又於乙未五月 漢京等六人 向此島 距七八里許 望見阻風 竟不得達 此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壮健可信人三人 同漢京等入送捜覓
(注3)『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條
兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老 與前日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日 於鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串 一八日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形 別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發船遭風 不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味 再由此路出入 至畫島形而來 今若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『成宗実録』と三峰島1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:54 投稿番号: [1078 / 18519]
   半月城です。朝鮮史料シリーズをつづけます。
   1470年、成宗は12歳で第9代の王になりましたが、治世にたけていたようで儒教思想による王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成させたようで、その意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、成宗の時代は朝鮮開国以来もっとも平和な時代で、その後期には平和的すぎて退廃的な雰囲気も生まれるほどでした(注1)。

   成宗元年(1470)、朝廷に東北の永安道(咸鏡道)観察使から、賦役逃れの「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りました。
   朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のうち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見つけたものの、居住民を発見できませんでした。
   その報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はちがうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し島民とじかに接したことがあるという鏡城の金漢京たちを派遣しました。
   1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)離れた地点において島を望見することができましたが、風が強かったため上陸しませんでした。これらの記録からすると、蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
   しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわしい調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを一行に加えました。金自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実録にこう記録されました。

『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
   25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島がある。みな海水が通じて流れている。
   また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさのため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。

   島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知ることができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川上健三氏はこう記しました(注4)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   高麗大学校申教授は、上述のように「金自周の語った三峯島の形状は、今の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方に三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいったものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西島の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむしろ鬱陵島に比定する方が、一層自然である。
   すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。
   金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石などの付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比定することは適当でない。
   さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立しているという光景である。これは、鬱陵島北端近くの三本立の奇勝を指していると考える方が、より適切である。
   三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あたかも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているからである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

重要なのは官撰史料

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:50 投稿番号: [1077 / 18519]
   半月城です。
   kusuo1さんは鬱陵島一島説にこだわるあまり、一島説以外の史料は見ようとしないようです。しかも、論証に官撰史料ではない私的な史料を多用しているようですが、それらはいくら寄せ集めても朝鮮政府の見解にはならず、領有問題にはあまり参考になりません。
   たとえば kusuo1さんが結論を導くのに重視した金正浩の地図がそのいい例です。金正浩は地図出版の罪により刑死しましたが、これから察せられるように、かれの近代的な地図は官撰地図ではないので領有問題には参考になりそうにありません。朝鮮の官撰史料では一島説が次第に否定されていくのですが、その過程を私は書きつつあるところです。

陳腐ですが

投稿者: the_prettiest_girl0308 投稿日時: 2003/02/08 19:17 投稿番号: [1076 / 18519]
ネットも社会の縮図ではありますから。とにかく、実りある議論がなされる事を望みます。

このトピも

投稿者: big_face3 投稿日時: 2003/02/08 14:43 投稿番号: [1075 / 18519]
在日朝鮮人どものプロパガンダに利用されてるだけになっとるのう...。

前は良トピだったが、朝鮮人が絡むだけでこんな惨状になる。

本当に悪性のバイ菌のような民族だな...。

>備辺司謄録の見方

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/08 12:08 投稿番号: [1074 / 18519]
Am I AHOです。
お察しのとおり、国史編纂委員会のサイトで「國訳備辺司謄録」を閲覧することが出来ます。
当該資料は、國史データベース中の「中世史」にて閲覧できますが、UNICODEではなく"euc-kr"で記述されております。
これは韓國語を表現するための文字コードですが、UNICODEではなく、韓國工業規格のようです。愚生の場合はブラウザに韓国語フォントをインストールする事によって閲覧しております。文字化けする場合には、エンコードし韓國語を指定することにより解読することが出来ます。
インストール方法については、下記URLを参考にして下さい。

http://docs.yahoo.co.jp/docs/help/korea/index.html

ちなみに、ご紹介いたしました史料は検索語「武陵」でヒットします。
ただし、画面左上の"Quick Search"は使いづらいので、必ず韓國史データベース中世史画面から検索するようにしてください。

備辺司謄録の見方

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/07 22:33 投稿番号: [1073 / 18519]
   半月城です。
   Am_I_AHO_1stさん、備辺司謄録の紹介をありがとうございます。その出所は下記の国史編纂委員会のサイトと思われますが、史料がうまく見れません。サイト内にある UNICODEフォントの組み込みだけではダメなようですが、何かをダウンロードするのでしょうか?
http://www.nhcc.go.kr/

>>属島

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/06 11:06 投稿番号: [1072 / 18519]
それは、勅令と島根県編入の間の話しだけに興味深いですな。半けつさんは、一切触れておりませぬ。都合が悪いのかな?

その組合法には、操業領域や組合設立目的とかは書かれていないのでしょうか。インターネットで探したけど見つかりませんでした。
日本と同様、地方と中央や現場で混乱してたのでは?

>『世宗実録 地理志』と于山島

投稿者: kusuo1 投稿日時: 2003/02/05 23:14 投稿番号: [1071 / 18519]
『世宗實録「地理志」』の原型となる『新撰八道地理志』(一四三二年成稿)が成立する前年に撰進された『太宗實録』には、すでに于山島の名が見えてゐるのである。そして、『世宗實録「地理志」』にはその『太宗實録』の記事が引用されてゐるので、于山島の記事も『太宗實録』を典據としたとみてよいであらう。

  事實、『太宗實録』の記事は、武陵島(鬱陵島)條の註のみならづ、『世宗實録「地理志」』の本文にも數多く引用されてゐる。それは『太宗實録』の選者である尹淮や申穡が、『世宗實録「地理志」』の編者でもあつたからである。

  その、『太宗實録』(卷三三)十七年二月壬戌條には「按撫使金麟雨、于山島より還り、(中略)居人三名を率ゐて以つて來たる。その島の戸おおよそ十五口、男女併せて八六」とある。

  この記事から『太宗實録』では于山島には人が住めると認識されていくのである。その意味で、この『太宗實録』の記事は、『世宗實録「地理志」』に「于山、武陵二島」と併記させ、註記には「一云于山、鬱陵島本一島」と記述させた原點と言へる。


  後年、粱誠之は『世宗實録「地理志」』の于山武陵二島に基づき「八道總圖」や「江原道」の圖を描くが、それが『東國輿地勝覽』に收載され、後世を迷はせることになるのである。粱誠之の圖には、于山島は、鬱陵島と陸地の中間の位置に、鬱陵島とほぼ同じ大きさに描かれたため、あたかも實在する島と思わせ續けてきたからだ。


  今日、朝鮮時代の古地圖と言はれるものの多くは、この粱誠之の地圖に由來するが、その誤謬も踏襲されている。

  英祖十一年(一七三五年)には、この種の地圖による誤解が起きてゐた。『國朝寶鑑』英祖十一年正月條によると、江原道監司の趙最壽が凶年を理由に三年一往の鬱陵島掃討の中止を上啓したが、廷臣「其(鬱陵島)の西に于山島なるもの有り、また甚だ廣濶」とし、鬱陵島掃討を命じている。英祖十一年といへば、鬱陵島の歸屬問題から四十年もたつていない時期である。この時すでに鬱陵島周邊に廣闊な于山島があると信じられていたのは、粱誠之等の地圖で形成された認識が一般化していたからであろう。

 

しかし、實際に鬱陵島を目撃した人々の鬱陵島認識は、粱誠之の地理觀に惑わされてはいなかった。

  『東國輿地勝覧』にも関与した金宗直は、「羽陵行」の中で「于山一点滄溟の中」と詠み、李光庭も「狐嶼隠隠として中に高起す」としたが、江原道に配流された李山海も「海気澄朗なれば則ち領東よりこれを望む、一片の蒼烟の如し」と「鬱陵島記」に記してゐる。いずれも一點、狐嶼、一片と鬱陵一島の存在のみを記し、古地圖では陸地と鬱陵島の中間にあるとされる于山島には觸れていない。
  この事實は、粱誠之らの古地圖によって形成された鬱陵・于山島像とは違って、現実に即した鬱陵島認識が別に存在したことを示してゐる。そしてそれは英祖三十三年(一七五七年)、洪良漢の発意で編集された『輿地図書』に至つて確定し、于山島の名も消えていくのである。

  さらに、この鬱陵島像は朝鮮時代後期の地理學者金正浩の『大東地誌』にも継承され、やうやく鬱陵島一島のみの近代的な地理観が確立するのである。
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