竹島

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『東国輿地勝覧』と于山島1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/11 13:41 投稿番号: [1096 / 18519]
   半月城です。
   ハングルの創成など文化面で輝かしい業績を残した世宗は、地理書『世宗実録 地理志』も残しましたが、これ以降、地理志編纂の伝統は朝鮮王朝にしっかり根付きました。
  『世宗実録地理志』が完成するや、さっそくその翌年(1455)から新しい地理志の編纂が始まりました。梁誠之の『八道地理志』です。注目すべきは、この地理志に初めて地図が添付されたことです。それも朝鮮の八道の地図に限りませんでした。周辺の日本や明、遼東図なども添付されたようでした。
   この地理志は成宗9年(1478)に完成しましたが、すぐれて資料価値が高かったようで、それゆえに軍事上の観点から取り扱いが問題になりました。朝廷で「地理志と地図は官衙で保管すべきで、民間に流布してはならない」とされ、一般には流通しませんでした。そのため発行部数も少なく、戦乱などで散逸してしまったのか現在に残りませんでした。わずかに、地方志の『慶尚道續撰地理志』だけが伝わりました。

   付属の地図も伝わりませんでしたが、朝鮮の地図だけは『東国輿地勝覧』に引き継がれたとされています。『東国輿地勝覧』は八道地理志の直後から編纂が開始され、成宗12(1481)に完成しました。残念ながらこの初版は伝わっていません。かわりに第四版にあたる『新増東国輿地勝覧』(1531)が現存しますが、これは第1級の史料とされているようです。日帝時代の1930年に『三国史記』や『三国遺事』についで古書としては三番目に朝鮮史學會から復刊されました。
   ウェブでは、下記ソウル大学奎章閣のサイトで影印版をみることができます。正式書名は『輿地勝覧』ですが、俗称は『新増東国輿地勝覧』です。
   http://kyujanggak.snu.ac.kr/home/digital.htm

  『輿地勝覧』の性格ですが、これは自然地理書というよりは人文地理に近く、故事古典が豊富に記載され、歴史地理書あるいは読史地理書のように読みやすいのが特徴です。これは中央集権という政治体制の必要性からきたようでした。
   当時の地方行政ですが、地方長官などは科挙に合格した官吏が中央から派遣されました。任期は、腐敗や地方勢力の肥大化を防ぐため、監察使(道長官)は1年、守令は5年と短く設定されていました。しかも地元出身者を避けていましたので、観察使はその地方の事情に疎くて当然でした。そうした地方長官や、かれらを統括する中央の官吏が地方の事情を把握するのに役立つよう『東国輿地勝覧』は編纂されました(注1)。

   前置きが長くなりましたが、『新増東国輿地勝覧』(輿地勝覧と略す)に于山島、鬱陵島はこう記されました(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『新増東国輿地勝覧』蔚珍縣 于山島、鬱陵島
   一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、鬱陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。
   新羅の時、その地がけわしいことをたのみにして服属しなかった。智證王十二(511)年、異斯夫が何瑟羅の軍主となった。異斯夫はこういった。于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができる。そこで木製の獅子像を多く作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくや、こう偽りを言った。
「お前たちがもし服属しないのならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
   これを聞いて、その国の人々は恐れおののいて降伏した。
(つづく)
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