★「竹島」は日本固有の領土です
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清朝公文書、台湾属島は大鶏籠山まで
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/26 22:30 投稿番号: [9080 / 9207]
奥原敏雄
1683年の版図編入後の台湾府(およびその後の台湾省)の彊界は、当時の総ての清朝公文書が大鶏籠嶼(現在の社寮島)と明記している。例えば一七一七年の『諸羅県志』(周鐘誼■※注1)は台湾北部の台湾県の「北界」を大鶏籠山と記し、一八七一年の『淡水庁志』(陳培桂■ ※注1)も大鶏籠山を「沿海極北之道止」と誌し、その他『台湾府図纂要』(清刊)も『淡庁極北之区』、同様に一八四〇年の『台湾道姚瑩稟奏台湾十七国設防状』(上述『基隆市志』参照)も「淡水極北」と明示している。
このようにみてくると、一六八三年以前においては、琉球久米島の手前の島々はすべて(台湾を含む)今だ中国領 でなかったことがあきらかである。さらに一六八三から一九〇四年までは、大鶏籠嶼より以北の綿花、花瓶、彭佳諸 嶼、尖閣列島は、すべて帰属不明のままにおかれていたことになる。したがって後に触れる古文書の解釈にあたっ ても、右の歴史的事実と矛盾しないように解釈することが必要となる。
*
1683年台湾編入後の清朝公文書によると、台湾県の台湾北部の「北界」を大鶏籠山とする。綿花、花瓶、彭佳嶼を琉球領土であると清朝は認識していた。
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清国は釣魚山黄尾嶼を琉球王国領と認識
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/26 16:59 投稿番号: [9079 / 9207]
井上清
要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手が
かりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉
球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの
二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。
すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針 路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六 日未刻、釣魚山ヲ取リ、申刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書 いてある。 そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉刻、釣魚山ヲ過 ギ、戌刻、久場島ヲ過グ、……一二日未刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と 赤尾嶼に当る。
*
1838年以前から 清国冊封使だちは久場島 久米赤島と琉球王国の島名で記録していました、時は維新前の江戸、琉球王国時代、つまり清国は釣魚山、黄尾嶼 赤尾嶼を琉球王国の領土と認識していた事になります、
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釣魚嶼、黄毛嶼島名は中国領根拠にならん
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/25 22:07 投稿番号: [9078 / 9207]
井上清
一五三四年、中国の福州から
琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五
月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転し、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「十日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇アラズ。(中略)十一日夕、古米山(琉球の表記は久米島)
ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。
彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はな
い−−その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、
もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖の
『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
*
1534年 冊封使陳侃は福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転し、平嘉山ヲ過ギ、十日に釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ ・・現中国はここに出て来る鶏籠頭、黄毛嶼などは明人が命名したのだから中国領だと主張しています。しかし鶏籠頭は台湾であり、1683年に台湾が清国版図に入るまでは中国領土ではないのです、つまりここに記された鶏籠頭、釣魚嶼、黄毛嶼などの島名は中国領根拠にはならんのですね。
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1905年綿花花瓶彭佳三嶼台湾へ行政編入
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/25 16:21 投稿番号: [9077 / 9207]
次に、綿花、花瓶、彭佳三嶼の台湾への行政編入の時期についてであるが、第二次世界大戦後の一九五四年に台
湾で刊行された基隆市文献委員会編『基隆市志』によれば一九〇五年(光緒三十一年)のことで、この年、轄区の
再調査が日本政府によっておこなわれ、これらの島々が行政編入されたことをあきらかにしている。この点は一九六
五年の『台湾地方自治誌要』によっても、確認されている。
このように花瓶、彭佳などの島嶼が台湾に行政編入されたのは日清戦争以後のことであり、しかも、台湾を統治下 においていた日本になされたものであるということを、台湾側の公文書によって明らかにされている。言い換えるなら ば、中国によって彭佳嶼などが台湾の付属諸島として法的に扱われたことは、第二次世界大戦以前に一度もなかっ たということになる。
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台湾が中国版図に 1683年
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/25 15:04 投稿番号: [9076 / 9207]
台湾が中国の版図に編入された年については、一六九六年の高拱乾撰『台湾府志』によれば、康熙二十年とされ
ている(台湾自康熙二十年始入版図)、康熙二十年は、一六八一年にあたる。もっとも『台湾府志』が康熙二十年と
したことは後に訂正され,一七六五年の余分儀?『続修台湾府志』以後の清潮公文書は、康熙二十二年としている。
したがって台湾が中国領になったものは、一六八三年ということになる。このことは、郭汝霖が冊封使として渡琉して
百二十一年後に台湾がはじめて中国の版図に入ったことを意味する。陳侃に至っては、さらに百四十九年後のこと
になる。井上清氏が台湾を『紛れもない中国領』とした前提は、これによって崩れたことになる。
*1683年といえば、安龍福の生きた時代です、清国による台湾領有1683年が
最重要な尖閣解決根拠になる、
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中国は1958年 領海12カイリ宣言
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/25 12:12 投稿番号: [9075 / 9207]
照屋健吉
中国は一九五八年に、それまで三カイリだった領海を、一二カイリにする宣言を出した。その宣言で南沙諸島澎湖 諸島、台湾などの記述はあるが、尖閣諸島について記述はない、
*
中国12カイリ宣言時 尖閣諸島は自国領では無い認識だったのでしょう、しかし1968年頃尖閣諸島近海に石油埋蔵がとび込んでくると、欲に目がくらんだ。前後の見境いもなく はじも外聞もなく 尖閣諸島はおれのもんだと人が 否 国が変わったのですね。
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西太后の釣魚台下腸文書 偽物
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/25 11:10 投稿番号: [9074 / 9207]
尖閣諸島の史的経過と現状 沖縄テレビ報道部
照屋健吉
台湾の有力者(林金茎元駐日代表)主張する領有の根拠の一つに、清朝廷の西太后が、一八九三年に詔を發
して「尖閣諸島から扶桑という薬効顕著な薬草を採取した盛宣懐と言う人物に感謝して尖閣諸島を与えた」文書が存
在するというものである。それは日本がこの地域を日本領にする閣議決定の二年前のことであり、「清朝の領有意志
の表明が先だ」というものである。この西太后の文書なるものは、尖閣諸島の領有権問題で中国、台湾サイドの人
が好んで主張するが、こともあろうに中国の権威ある研究者が偽物であると断定している。呉天頴の「甲午戦前釣魚
列嶼帰属考」はその分書の形式などから、偽物であると断定している。
この本は北京の外交出版社が出版し、愛知学院大学の水野明教授が監訳しているもので、一九九六年一二月の
北京市第四回哲学社会科学優秀成果一等賞を受与された権威ある研究書である。偽の文書である理由として呉
は、詔諭の材質、文体、玉爾、作文の慣例など慎重に比較し、清朝の公文書とは異なっていると断定している。
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西太后の釣魚台下腸 1893年
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/24 23:46 投稿番号: [9073 / 9207]
尖閣列島の領有権 奥原敏雄
第三の西太后の詔書についても、その押印が公的なものでないなど信憑性に大いに疑問があるだけでなく、これ
以外に中国の実効的支配を立証する証拠のないことを明らかにする結果となった。だが、仮にこの詔書が真正なも
のとしても、これを実効的支配の証拠とみなすべきか否かについては、台湾の国際法学者の間でも意見を異にして
いる。この詔書は西太后が、薬草採取の用に供せられるべく盛宣懐に釣魚台など三島を下腸したとされるものであ
るが、盛宣懐自身は結局釣魚台などに赴くことのなかったことが台湾の新聞などで明らかにされている。これにたい
してわが国は、すでに西太后詔書の八年前に尖閣列島にたいして主権を行使している(明治十八年内務・外務両大
臣の同意を得てかつ政府の列島調査の命を受けて、沖縄県知事が出雲丸を派遣、列島の踏査を行った)。したがっ
て、西太后詔書の信憑性いかんにかかわりなく、わが国の領有権主張を弱めることにはならない。
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シーボルトの尖閣諸島 経緯度をもって
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/24 19:37 投稿番号: [9072 / 9207]
☆
大著「NIPPON」シーボルトの尖閣諸島
「NIPPON」は1832年から1851年にかけて、二十分冊の形で少しずつオランダで出版された。ドイツ語で書か れている。当時、欧州で刊行されたものとしては、もっとも精緻な日本研究書であった。日本研究の精華として、読ま れた。
☆「日本」第六巻
第十三編
琉球諸島
原題
日本の近隣諸国と保護国−−琉球諸島についての記述。
日本の文献および日本の学者の報告に基づく琉球諸島 についての記述
第一章
琉球諸島の位置、名称、区分、および大きさ
琉球諸島は日本の最南端にある薩摩の国の南に位置し北緯二十四度より二十八度、グリニッチ東経百二十三よ
り百三十度十五分の地域にひろがっている。
***************************************
この経緯度のなかに尖閣諸島は入っている。この緯度と経度の内にある島嶼はすべて琉球諸島として定義されて
いるのである。最初に経緯度をもって琉球諸島の範囲を定義したのは、シーボルトである。この経緯度からみると、
喜界島が北と東の界となり、与那国を西界とし波照間を南界としていると思われる。当時は経緯度は正確に測定で
きなかった。とくに経度がきちんと測定できなかった。だから今日の目からみると、かなりおかしいのは仕方がない。
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朝鮮人vsスルガ銀行の裁判
投稿者: vaibs_o2 投稿日時: 2009/01/24 11:50 投稿番号: [9071 / 9207]
あなたがたは聞いているだろう。この国で多くの人々が,分けられ,隔てられ,貶められてきたことを。
あなたがたは知っているだろう。この国で多くの人々が,蔑まれ,差別され,搾取されてきたことを。
あなたがたは経験しただろう。この国で,あなたがたの友人,あなたがたの家族,あなたがた自身が,奪われ,閉じ込められ,希望を捨てさせられてきたことを。
だが,我々が作ろうとしているアメリカは,そのようなアメリカではない。
黒人も白人もない。アジア系もヒスパニックもネイティブアメリカンもない。共和党も民主党もない。金持ちも貧乏人もない。子どもや高齢者が虐待されることもない。女性だから,男性だからと言われることもない。同性愛者も異性愛者もない。障害者も健常者もない。外見や出身・出生・民族・宗教の違いで差別されることもない。あるのは1つのアメリカだけだ。
我々が作ろうとしているアメリカについて,悲観的になったり,そんなことは不可能だと思う人たち,まだ不合理な差別を続ける人たちがいたら,今夜の我々の勝利が,悲観主義・差別主義に対する答えだ。我々は歴史を作ったのだ。我々が歴史を変えたのだ。そう,我々の答えは,Yes, we can!
なぜなら,我々は約束したのだから。我々の約束は必ず果たされると我々は信じているのだから。我々が信じれば,世界を変えることは必ずできるのだから。
.............................................第44代アメリカ大統領 Barack Obama
今,この世界のどこかで,ミクロのレベルの闘いが続けられています。
この小さくても重要な闘いは,明日も,1週間後も,1年後も続けられるでしょう。
我々も,あなたがたと同じく,苦しみや差別に満ちた世界を変える闘いの一員であることに誇りを持っています。
我々も,輝かしい歴史を作っているあなたがたの仲間であり続けたいと願っています。
闘うあなたがたの姿は,闘わない者からは嘲笑されるかもしれません。
歴史を作ろうとしている我々の姿は,傍観者からは滑稽に見えるかもしれません。
しかし,我々は,信じていたいのです。
あなたがたの自己犠牲の闘いが歴史を作ってきたのだということを。
我々は信じているのです。
我々のミクロのレベルの闘いが世界を変えてきたのだということを。
違法銀行スルガと闘う被害者の会VAIBS
エイリアンカード裁判についてはこちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/vaibsuruga
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
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尖閣中国領の根拠 昔から台湾付属
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/24 11:32 投稿番号: [9070 / 9207]
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尖閣 探検と開拓時代、そして跡地
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/24 10:31 投稿番号: [9069 / 9207]
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黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/23 00:42 投稿番号: [9068 / 9207]
井上清
右にいう柳大佐の「実験筆記」も「沖縄志」も私は見ていないが、この水路誌は釣魚島を「和平山(ホアピンサン)島」と漢字で書いて英語名のルビをつけ、黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島」、赤尾嶼は「爾勒里(ラレリ)岩」と書いている。これらは、それぞれ、Hoapin-San, Tiau-Su, Raleigh Rockと、前記英国軍艦サマラン号の航海記に書かれている島嶼のことであり、これが一八八四年版の『英国海軍水路誌』によるものであることは明らかである。
*
黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島
Tiau-Su,
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遊歴日本図経 傳雲竜 尖閣郡がでてくる
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/23 00:12 投稿番号: [9067 / 9207]
遊歴日本図経
遊歴日本図経のなかの尖閣諸島
「遊歴日本図経」は傳雲竜が日本で、1889年(明治二十二年)に書き上げた報告書である。傳雲竜は当時、新進
の気鋭の官吏であった
**************************************
清王朝の官吏、傳雲竜は、政府の派遣で、1887年から1889年にかけて日本を始め、アメリカ、カナダ、ペルー、キ
ューバ、ブラジル各国を歴訪した。傳雲竜は、調査、視察の結果を報告書『遊歴日本各国図経』にまとめ、図と表の
形で各国の歴史、官制、政事、外港、経済、文物制度などの基本状況を政府(総理各国事務衙門)に報告(-109
近代日中語彙交流史――新漢語の生成と受容――
笠間叢書271
沈国威
笠間書
**************************************
探索と情報収集を命じられた傳雲竜は、一年以上も日本に滞在している。日本を特に重視したのである。遊歴日本
図経は、日本で、印刷された。傳雲竜は帰国後すぐに総理衙門にこれを提出し称賛を得た。1893年には、すでにそ
の一部が公刊されている。小方壷斎刊輿地叢鈔のなかに抄録されたのである
「淅江と日本」(編著者
藤善真澄
関西大学東西学術研究所
平成九年)によれば、淅江図書館蔵の「遊歴日本
図経」には「御覧」という朱印がおしてあるという。これは皇帝が見たということであろう。この刊本には当時の中国に
おいて著名な人物の序が四つもつけられている
「遊歴日本図経」には、多数の図表が収められているのが特徴である。表の一つに、尖閣諸島がでてくる。「図経
六
島表」に、「……鳩間
沖之神
与那国
尖閣郡
低牙吾蘇」とされている。「州南諸島」の一部とされている。こ
の郡は群の誤記である。尖閣郡と低牙吾蘇の二島がでてくる。日本側の史料をみれば、尖閣群島の範囲に低牙吾
蘇島が当初入っていなかったことは明らかである。それを反映している。
日本の尖閣領有を認めている有力な史料である。この刊年は日清戦争の前、つまり、日本の編入(正確にいえば
今日、「先占」とされている手続き)のなされる以前であることに注目しなければならない。 この表においては島と嶼
がきちんと区別されている。これが中国人の伝統的な考えである。傳雲竜が日本政府の資料を丸写ししたものでは
ないことは明らかである。繰り返すが、島と嶼は厳然として区別されている。
尖閣郡や低牙吾蘇は島の方に区分されている。
この日本遊歴図経は、公刊された著名な著作である。その上、政府が派遣した官吏が政府に対して提出した報告
書であったということがとりわけ重要である
尖閣諸島の日本帰属を認める中国史料は調べれば続々と出て来るであろう
これは メッセージ 9066 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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釣魚島に関する中国外交部声明 1971年
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/22 22:56 投稿番号: [9066 / 9207]
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page030.html
釣魚島(尖閣列島)に関する中国外交部声明
一九七一年十二月三十日付
日本佐藤政府は近年らい,歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視して,中国の領土釣
魚島などの島嶼(しょ)にたいして「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに,アメリカ
帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略・併呑するさまざまな活動をおこなってきた。このほ
ど,米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで,米日両国政府は公
然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは,中国の領土と主権にた
いするおおっぴらな侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものである。
米日両国政府がぐるになってデッチあげた,日本への沖縄「返還」というペテンは,米日の軍
事結託を強め,日本軍国主義復活に拍車をかけるための新しい重大な段取りである。中国政
府と中国人民は一貫して,沖縄「返還」のペテンを粉砕し,沖縄の無条件かつ全面的な復帰を
要求する日本人民の勇敢な闘争を支持するとともに,米日反動派が中国の領土釣魚島など
の島嶼を使って取引をし,中日両国人民の友好関係に水をさそうとしていることにはげしく反
対してきた。
釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に,これらの島嶼はすでに中国
の海上防衛区域のなかに含まれており,それは琉球,つまりいまの沖縄に属するものではなく
て,中国の台湾の付属島嶼であった。中国と琉球とのこの地区における境界線は,赤尾嶼と
久米島とのあいだにある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などの島嶼で生産活動にた
ずさわってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて,これらの島嶼をかすめとり,さらに当時
の清朝政府に圧力をかけて一八九五年四月,「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列
島の割譲という不平等条約−「馬関条約」に調印させた。こんにち,佐藤政府はなんと,かつて
中国の領土を略奪した日本侵略者の侵略行動を,釣魚島などの島嶼にたいして「主権をもっ
ている」ことの根拠にしているが,これは,まったくむきだしの強盗の論理である。
第二次世界大戦ののち,日本政府は不法にも,台湾の付属島嶼である釣魚島などの島嶼を
アメリカに渡し,アメリカ政府はこれらの島嶼にたいしていわゆる「施政権」をもっていると一方
的に宣言した。これは,もともと不法なものである。中華人民共和国の成立後まもなく,一九五
◯年六月二十八日,周恩来外交部長は中国政府を代表して,アメリカ帝国主義が第七艦隊を
派遣して台湾と台湾海峡を侵略したことをはげしく糾弾し,「台湾と中国に属するすべての領土
の回復」をめざす中国人民の決意についておごそかな声明をおこなった。いま,米日両国政府
はなんと不法にも,ふたたびわが国の釣魚島など島嶼の授受をおこなっている。中国の領土と
主権にたいするこのような侵犯行為は,中国人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおか
ないであろう。
中華人民共和国外交部は,おごそかにつぎのように声明するものである−釣魚島,黄尾
嶼,赤尾嶼,南小島,北小島などの島嶼は台湾の付属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同
様,昔から中国領土の不可分の一部である。米日両国政府が沖縄「返還」協定のなかで,わ
が国の釣魚島などの島嶼を「返還区域」に組み入れることは,まったく不法なものであり,それ
は,釣魚島などの島嶼にたいする中華人民共和国の領土の主権をいささかも変えうるもので
はないのである,と。中国人民はかならず台湾を解放する!
中国人民はかならず釣魚島な
ど台湾に付属する島嶼をも回復する!
これは メッセージ 9065 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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船を竹嶼に繋留し竹嶼に宿泊 村川家漁師
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/21 23:08 投稿番号: [9065 / 9207]
http://toron.chu.jp/take/outline/jukdo.html
竹嶼写真
3月26日午前8時、船を近くの伊賀島(鬱陵島の近傍の小島・竹嶼)に繋留し鬱陵島を遠望したところ、島の様子が普段とは違っていた。
多くのアワビが干されていて、島で何ものかが漁をしているようだった。
村川家の船頭達は方策を話し合ったが、結論が出なくて、翌朝、鬱陵島に上陸することにした。
村川市兵衛舟頭
平兵衛
同
黒兵衛
「元禄六年酉四月朝鮮人召つれ参候時諸事控」(大谷家文書)
* 船を竹嶼に繋留し竹嶼に宿泊 翌朝鬱陵島に行った、つまり竹嶼を基地にしている様ですね この竹嶼を村川家漁師達が「松島」と呼んでいたら安龍福との会話も意味が通じます、
これは メッセージ 9061 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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安龍福の供述に疑問あり
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/21 21:26 投稿番号: [9064 / 9207]
これは メッセージ 9056 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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関心のある方はぜひ!
投稿者: mou_unzari2008 投稿日時: 2009/01/20 22:58 投稿番号: [9063 / 9207]
「
アジアの真実
」というブログの2009年1月9日に記載されていたことなんですが、
教科書検定と学習要領の改訂に関して文科省が意見を公募しているそうです。
締切は、「義務教育諸学校教科用図書館検定基準案」が平成21年1月24日、
「高等学校、特別支援学校学習指導要領改定案」が21日、明日まで。
なんで、自分で公募に応じないかというと、勉強不足で歴史的経緯に疎く、うまく竹島問題や強制連行がねつ造であることを説明できないためです。
このトピの方なら、詳しいのではないかと投稿させていただきました。
「アジアの真実」のURLは
http://ameblo.jp/lancer1です。
リンクの貼り方がわからない為、お手数をおかけしますが、興味のある方、ぜひ、ご覧になってください。
乱文にて失礼いたしました。
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9063.html
1875年 佐田作成朝鮮全図 松島は・・
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/20 16:07 投稿番号: [9062 / 9207]
これは メッセージ 9061 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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伊賀島(鬱陵島近傍小島・竹嶼)に繋留し
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/20 12:02 投稿番号: [9061 / 9207]
http://toron.chu.jp/jp/take/ahn/tenmatu.html
1692年(元禄五年)、村川家が鬱陵島で猟をする朝鮮人に出会った状況と、その顛末
1692年(元禄五年)、朝鮮は空島政策を採っていたが、朝鮮の漁民たちが鬱陵島に渡り、鮑(アワビ)や若布の採取を始めていて、日本人と出会うことになる。
2月11日、村川家の船は米子を出帆し隠岐島の西郷に寄港。
3月24日、風待ちをして隠岐島の福浦をから鬱陵島に向けて出航。
3月26日午前8時、船を近くの伊賀島(鬱陵島の近傍の小島・竹嶼)に繋留し鬱陵島を遠望したところ、島の様子が普段とは違っていた。
多くのアワビが干されていて、島で何ものかが漁をしているようだった。
村川家の船頭達は方策を話し合ったが、結論が出なくて、翌朝、鬱陵島に上陸することにした。
村川市兵衛舟頭
平兵衛
同
黒兵衛
「元禄六年酉四月朝鮮人召つれ参候時諸事控」(大谷家文書)
これは メッセージ 9060 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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あわび(鮑) 平安時代から珍重され
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/19 22:11 投稿番号: [9060 / 9207]
これは メッセージ 9059 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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1417年 6人の大臣と意見が対立
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/19 18:56 投稿番号: [9059 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
(1417年2月8日)
大宗実録17年二月乙丑
右議政韓尚敬が6人の大臣に命じ、于山武陵から住民をどう退去させるか協議した。皆このように言った。「武陵の住民を退去させない方がよいでしょう。五穀を給付し、農機具を与えて、安心して農業をさせましょう。そして帥撫使(武官?)を派遣して年貢を定めればよいではないですか。」
しかし、工曹判書の黄喜だけは反対し、「彼等を定住させずに、速やかに退去させるべきです。」と申し上げた。
王曰く「住民を退去させるのがよいであろう。これらの人民は今まで使役を逃れのんきに暮らしてきた。もし年貢を定めて武官を常駐させれば、必ず恨みを持つだろう。よって、これ以上長く停留させるわけにはいかない。金麟雨を安撫使に留めておき、于山武陵地域にもう一度派遣して住民を島から退去して本土へ戻るよう引率させよう。」
*
工曹判書と王だけが住民を退去させると強情に主張していますね、6人の全大臣と意見が違います、
1693年
安龍服
「この島より北に当たる島があって三年に一度国主宛ての用で、鮑を取りに来ている、
*北に当たる島つまり竹嶼に鮑取りに、三年に一度国主宛て。これは仲間からの情報だとは思うが・・
これは メッセージ 9054 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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問題は朝鮮人に論理的思考が欠けている事だ
投稿者: jesterkenken 投稿日時: 2009/01/19 01:44 投稿番号: [9058 / 9207]
火事場泥棒あるいは、居座り強盗と考えた方がいい。イスラエルの使用した白燐弾とやらを落としてやりたいとの希望を持つ。44名もの日本人漁民が死傷、3,929人が抑留され、328隻の漁船が拿捕されたのだ。
これは メッセージ 82 (senjin_marudashi さん)への返信です.
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籌海図編1562 竹島記載
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/18 00:15 投稿番号: [9057 / 9207]
これは メッセージ 9056 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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安龍福に三種類の地図
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 18:38 投稿番号: [9056 / 9207]
*
安龍福が生きた時代には『八道総図』1481年、朝鮮八道古今総図1674、 東輿備攷1682の三種類の地図しかなかった。三種類の地図により安龍福が考えるウサン島は欝陵島の西、西南、及び北にある事になる、そして安龍福は北に重点をおいた。
これは メッセージ 9055 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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朝鮮八道古今総図1674 北にウサン島
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 18:01 投稿番号: [9055 / 9207]
これは メッセージ 9054 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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三年に一度国主宛ての用で、鮑を取りに
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 17:12 投稿番号: [9054 / 9207]
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/988125/%88%C0%97%B4%95%9F/3/
1692年(元禄5年)3月、村川家の船が鬱陵島に行った時、島に多くの鮑が干されているのを見つけた。また置いていた漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡もあった。
「元禄六年酉四月朝鮮人召つれ参候時諸事控」(大谷家文書)
■ 現代文
内一人は(日本語が)通じる者で、二人とも船に乗り、こちらの船へ来たので乗せた。いったいどこの国の者かと尋ねると、「朝鮮かわてん国村の者」と言うので、この島は国より拝領し、毎年渡海している島なのに、なぜ来たのだと尋ねると、「この島より北に当たる島があって三年に一度国主宛ての用で、鮑を取りに来ている。国元を二月二十一日に同じ様な船十一艘で出船し、難風に遭い五艘に五十三人以上乗せこの島へ三月二十三日に漂着、この島の様子を見ると、鮑がいるので、逗留し、鮑を取った」と言った。
これは メッセージ 9053 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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安龍福は村上家に『朝鮮八道之図』を示し
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/17 12:47 投稿番号: [9053 / 9207]
『村上家文書』
1696年(元禄9年)5月、日本の隠岐に安龍福ら11人を乗せた朝鮮船が着岸。取り調べたところ、安龍福は『朝鮮八道之図』を示し、日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であり、松島は子山(于山)という島であって朝鮮領に属するとし、自分たちは伯耆守へ訴願するためここへ立ち寄ったと説明している。
*
安龍福が生きた時代には『八道総図』1481年、東輿備攷1682の二種類の地図しかなかった、そして安龍福の頃 つまり1650〜頃には東輿備攷によると、鬱陵島が于山島を押しのけて前面に出てきましたね。日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であると龍福は村上家にのべております。さがしていた于山島は鬱陵島の北又は東北にあると安はみていたようです、しかし安龍福は『八道総図』を村上家に示し説明し、その地図には于山島が主島で鬱陵島はうしろにありました。つまり安龍福は地図にのってる于山島、鬱陵島は朝鮮領であると主張しているのですね。
これは メッセージ 9051 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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粛宗時代(在位1674年〜1720年)
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/16 14:09 投稿番号: [9052 / 9207]
これは メッセージ 9050 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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東輿備攷1682になんと200年を要した
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/12 12:53 投稿番号: [9051 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
Dongyeobigo (東輿備攷) Uljin, Gangwon Province, ca. 1682
*
東輿備攷1682によると、武陵島が鬱陵島の手前西南に表示され別の名は于山島と注意書きされています、この頃から地図に変化が見られてきますね、それに鬱陵島が半島から半身望める位に頭角を伸ばしてきました、『八道総図』1481年から、ここまで来るのに実になんと200年間を要しています、
つまり半島の人々は、少なくとも200年間 半島東沖に「于山島」を朝な夕なに眺め、
教えて下さい 彼方に見える島はなんと云う島ですか?
ばかだねえ あんた だから無学はこまるよ
官撰八道総図にも描かれているかの有名な「于山島」ですよ、当時こんな会話もみられたでしょう。
これは メッセージ 9048 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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八道総図は世宗実録地理志を底本にして
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/11 23:38 投稿番号: [9050 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%94%BC%8C%8E%8F%E9%92%CA%90M/#4
Yahoo!掲示板「竹島」#1069 2003/ 2/ 5 半月城
さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。
そのため改訂作業はたえず継続する必要があります。
『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。
梁誠之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しました。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらはもちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につながりました。
*世宗実録地理志はその後、改訂に改訂を重ね、東国輿地勝覧(八道地理総図)に引きつがれました。つまり八道総図は確かに世宗実録地理志を底本にしております。
これは メッセージ 9049 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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逆も真なり 二島は県の東 半島から見た
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/11 15:43 投稿番号: [9049 / 9207]
『世宗実録』地理志1454年
江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る
*この世宗実録地理志の「于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に・・・」の記述は次の時代27年後に反映される事になるは当然の事。
八道総図1481年の于山島では鬱陵島の西に于山島が記載されているが・・
*
この八道総図では于山島が半島から一番手前にあり、半島から望み見る事ができます、これはつまり27前の世宗実録地理志の「于山・武陵の二島は県の正に東の海の・・」の記述を反映された結果と見るはごく自然です。
*つまり逆も真なり、
世宗実録地理志の「于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に・・・」は八道総図により朝鮮半島から望み見た事になりますね。
これは メッセージ 9048 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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八道総図 半島からまず于山島が見える
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/10 20:04 投稿番号: [9048 / 9207]
『世宗実録』地理志1454年
江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る。二島はお互いにそれほど遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅時代には于山国と称していた。一説に鬱陵島と言い、百里四方ある・・・
『八道総図』1481年の于山島
東国輿地勝覧付属の八道総図(鬱陵島周辺部)
于山島が描かれている地図は多数見つかっているが、その内最も古い地図は1481年(成宗12年)に編纂された『東国輿地勝覧』付属の『八道総図』である。鬱陵島の西に于山島が記載されているが、実際には鬱陵島の西にこの様な大きな島は存在しない。仮にこの図の通り二つの島があるとしても朝鮮半島からは一つに見える。東西に分かれた島は鬱陵島の想像図であることが分かる。
*『八道総図』によると、半島からのぞみ見れば最初に于山島が目に入ります、鬱陵島は于山島のうしろに入り半島から見えない事になりますね、つまり
半島から見えない鬱陵島は、これ又半島から見えない竹嶼に比定できます
八道総図の鬱陵島は世宗実録地理志の武陵に比定され
又、今までの朝鮮実録によると、
于山、武陵には住民がいたから武陵は独島には比定出来ません。
これは メッセージ 9047 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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武陵島を何が何でも欝陵島に比定 韓国
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/09 22:04 投稿番号: [9047 / 9207]
http://toron.chu.jp/take/krobject/hanm1.html
太宗実録 巻23、太宗 12年(1412年) 4月 15日(己巳)條の記録でも
流山国島人白加勿等十二名 来泊高城 於羅津言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息周 回八息
流山国島 人百加勿 など 12人が高城 於羅津に来て停泊して言うのを、
"私たちは武陵島で生長したが、その島の中の人戸が 11戸で、男女が皆 60余人なのに、今は本島に移して来て暮しています。
この島が 東東で 西西まで 南より 北までが皆 2息 距離で、まわりが 8息 距離です。
と言って武陵島は所帯数 11号、人口 60余人で表現しているし、
武陵島の島まわり(周回)が 7息と発言していて、太宗 17年の記録(8息、15戸、86名)と大きい差を見せない。
*
最初に「命議政府 議處流山國島人
江原道觀察使報云」の箇所がカットされているのがおわかりでしょうか、何か都合が悪いからカットしたのでしょう、それに百加勿が武陵島の島まわり(周回)が 7息と発言していると韓国は云っているが、百加勿は流山國島の島まわりを述べたのですよ、我の推測の範囲ですが韓国は「武陵島」を何が何でも欝陵島に比定しなければならないせっぱつまった問題があるらしい、
これは メッセージ 9046 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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流山(ユサン)新羅時代の于山(ウサン)
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/09 19:05 投稿番号: [9046 / 9207]
これは メッセージ 9023 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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Re: ★「竹島」は日本固有の領土です
投稿者: zaougongen90 投稿日時: 2009/01/09 13:19 投稿番号: [9045 / 9207]
この人の発言こそが恥ずかしい。
憲法改正して、一番文句をいい、恐れるのは、隣国の韓国・北朝鮮である。
本気になれば、両国とも、2日で制圧できる。
それをやらないのは、日本人のお情けである。
感謝しなさい。
これは メッセージ 9015 (japanpoors さん)への返信です.
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『海東諸国記』1471年に 対馬
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/09 11:54 投稿番号: [9044 / 9207]
これは メッセージ 9043 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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偽使者、辛戒道の妄言により対馬は・・
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/08 19:32 投稿番号: [9043 / 9207]
http://www.kotono8.com/2008/12/08tsushima.html
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226八道総図
■世宗実録
ただし、この「応永の外寇」の後、厄介な事件が起こった。これについては村井章介著『中世倭人伝』(岩波新書)が詳しいので、少々長くなるが引用したい。この本は『朝鮮王朝実録』を主な典拠としている。
一四一九年の応永の外寇後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。こうなるとこまるのは、朝鮮交易をおもなたつきとしている対馬人のほうで、なんとか交易を復興させようとする。そこで「時応界都」または「辛戒道」――これはおなじ人名の音の異なった表記だが、日本語でどんな字があたるかわからない――なる対馬人が、一四二〇年、宗都都熊丸(つつくままる)(のちの貞盛)の使者と称して朝鮮へ渡った。
時応界都は、「対馬島は土地がやせており、生活がとても困難です」と訴え、「もしわが島を、貴国境内の州郡と同様の一州とし、都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」と上言した(世宗2閏正己卯)。これを受けた国王世宗は、対馬を慶尚道の所属として、上申はかならず同道観察使を介するよう命じ、“宗氏都都熊丸”という印文の印章を対馬へ送った(閏正壬辰)。
ところがその後、都都熊丸の意をうけた別の使者仇里安があらわれ、この措置につよく抗議した。
(※原典引用部分中略、訳文を後記)
仇里安は、「辛戒道の言はこちらの関知するところではない、対馬が慶尚道に属するなどという説は、史籍をひっくりかえしてみても、長老にたずねてみても、ぜんぜん根拠がわからない」と主張した。朝鮮側は、「そのことは古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたのも領土の拡張をもくろんでの措置ではない」と説明したが、仇里安は納得しない。ついに「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻めることは日本の本国を攻めることとおなじだ」といいだした。
この問題は、対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、対馬の所属はもと通りとなって、決着した。
しかし「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側がのんだわけではない。のちに編纂された官撰の地誌『新増東国輿地勝覧』では、対馬島(テマド)は釜山浦(プサンポ)などとともに慶尚道東萊(トンネ)県の項に掲げられており、「即ち日本国対馬州なり、旧我が雞林(慶州キョンジュの雅名)に隷す、未だ何時に倭人の拠る所と為りしかを知らず」と説明されている。また、一五四二年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある(中宗37 5乙未)ように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側ではむしろ常識だった。
倭人の側にもこの見方をとる者がいたことは、辛戒道の発言に明らかだ。かれが宗氏の使者だというのはいつわりで、対馬で朝鮮交易に携わっていた人々のうちで宗氏とはちがう立場を代表する者だと考えられる。かれらにとっては、対馬が日本・朝鮮のどちらに属するか、といったことより、朝鮮半島との交易を維持することこそが大事だった。
これは メッセージ 9041 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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竹島プロジェクト2009
投稿者: siso_noli 投稿日時: 2009/01/08 17:57 投稿番号: [9042 / 9207]
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
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1562『籌海図編』に竹島と対馬
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/08 17:02 投稿番号: [9041 / 9207]
これは メッセージ 9040 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/9041.html
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