偽使者、辛戒道の妄言により対馬は・・
投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/08 19:32 投稿番号: [9043 / 9207]
http://www.kotono8.com/2008/12/08tsushima.html
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226
八道総図
■世宗実録
ただし、この「応永の外寇」の後、厄介な事件が起こった。これについては村井章介著『中世倭人伝』(岩波新書)が詳しいので、少々長くなるが引用したい。この本は『朝鮮王朝実録』を主な典拠としている。
一四一九年の応永の外寇後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。こうなるとこまるのは、朝鮮交易をおもなたつきとしている対馬人のほうで、なんとか交易を復興させようとする。そこで「時応界都」または「辛戒道」――これはおなじ人名の音の異なった表記だが、日本語でどんな字があたるかわからない――なる対馬人が、一四二〇年、宗都都熊丸(つつくままる)(のちの貞盛)の使者と称して朝鮮へ渡った。
時応界都は、「対馬島は土地がやせており、生活がとても困難です」と訴え、「もしわが島を、貴国境内の州郡と同様の一州とし、都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」と上言した(世宗2閏正己卯)。これを受けた国王世宗は、対馬を慶尚道の所属として、上申はかならず同道観察使を介するよう命じ、“宗氏都都熊丸”という印文の印章を対馬へ送った(閏正壬辰)。
ところがその後、都都熊丸の意をうけた別の使者仇里安があらわれ、この措置につよく抗議した。
(※原典引用部分中略、訳文を後記)
仇里安は、「辛戒道の言はこちらの関知するところではない、対馬が慶尚道に属するなどという説は、史籍をひっくりかえしてみても、長老にたずねてみても、ぜんぜん根拠がわからない」と主張した。朝鮮側は、「そのことは古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたのも領土の拡張をもくろんでの措置ではない」と説明したが、仇里安は納得しない。ついに「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻めることは日本の本国を攻めることとおなじだ」といいだした。
この問題は、対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、対馬の所属はもと通りとなって、決着した。
しかし「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側がのんだわけではない。のちに編纂された官撰の地誌『新増東国輿地勝覧』では、対馬島(テマド)は釜山浦(プサンポ)などとともに慶尚道東萊(トンネ)県の項に掲げられており、「即ち日本国対馬州なり、旧我が雞林(慶州キョンジュの雅名)に隷す、未だ何時に倭人の拠る所と為りしかを知らず」と説明されている。また、一五四二年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある(中宗37 5乙未)ように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側ではむしろ常識だった。
倭人の側にもこの見方をとる者がいたことは、辛戒道の発言に明らかだ。かれが宗氏の使者だというのはいつわりで、対馬で朝鮮交易に携わっていた人々のうちで宗氏とはちがう立場を代表する者だと考えられる。かれらにとっては、対馬が日本・朝鮮のどちらに属するか、といったことより、朝鮮半島との交易を維持することこそが大事だった。
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226
八道総図
■世宗実録
ただし、この「応永の外寇」の後、厄介な事件が起こった。これについては村井章介著『中世倭人伝』(岩波新書)が詳しいので、少々長くなるが引用したい。この本は『朝鮮王朝実録』を主な典拠としている。
一四一九年の応永の外寇後、対馬と朝鮮の関係が一時断絶する。こうなるとこまるのは、朝鮮交易をおもなたつきとしている対馬人のほうで、なんとか交易を復興させようとする。そこで「時応界都」または「辛戒道」――これはおなじ人名の音の異なった表記だが、日本語でどんな字があたるかわからない――なる対馬人が、一四二〇年、宗都都熊丸(つつくままる)(のちの貞盛)の使者と称して朝鮮へ渡った。
時応界都は、「対馬島は土地がやせており、生活がとても困難です」と訴え、「もしわが島を、貴国境内の州郡と同様の一州とし、都都熊丸に印章を賜れば、貴国に臣としての節義を尽くしましょう」と上言した(世宗2閏正己卯)。これを受けた国王世宗は、対馬を慶尚道の所属として、上申はかならず同道観察使を介するよう命じ、“宗氏都都熊丸”という印文の印章を対馬へ送った(閏正壬辰)。
ところがその後、都都熊丸の意をうけた別の使者仇里安があらわれ、この措置につよく抗議した。
(※原典引用部分中略、訳文を後記)
仇里安は、「辛戒道の言はこちらの関知するところではない、対馬が慶尚道に属するなどという説は、史籍をひっくりかえしてみても、長老にたずねてみても、ぜんぜん根拠がわからない」と主張した。朝鮮側は、「そのことは古籍にはっきり書いてあるし、慶尚道の所轄としたのも領土の拡張をもくろんでの措置ではない」と説明したが、仇里安は納得しない。ついに「対馬は日本の辺境だから、対馬を攻めることは日本の本国を攻めることとおなじだ」といいだした。
この問題は、対馬側の強硬な申し立てに朝鮮側が折れ、対馬の所属はもと通りとなって、決着した。
しかし「対馬は日本の所属」という命題を、朝鮮側がのんだわけではない。のちに編纂された官撰の地誌『新増東国輿地勝覧』では、対馬島(テマド)は釜山浦(プサンポ)などとともに慶尚道東萊(トンネ)県の項に掲げられており、「即ち日本国対馬州なり、旧我が雞林(慶州キョンジュの雅名)に隷す、未だ何時に倭人の拠る所と為りしかを知らず」と説明されている。また、一五四二年の政府高官の発言に、「日本・対馬は輔車相依の国」とある(中宗37 5乙未)ように、対馬を日本とは別の独自の領域だとする見方は、朝鮮側ではむしろ常識だった。
倭人の側にもこの見方をとる者がいたことは、辛戒道の発言に明らかだ。かれが宗氏の使者だというのはいつわりで、対馬で朝鮮交易に携わっていた人々のうちで宗氏とはちがう立場を代表する者だと考えられる。かれらにとっては、対馬が日本・朝鮮のどちらに属するか、といったことより、朝鮮半島との交易を維持することこそが大事だった。
これは メッセージ 9041 (hamakaze_matukaze さん)への返信です.
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