★「竹島」は日本固有の領土です

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松島巡視要否 外務省公信局長 田邊太一

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 21:41 投稿番号: [9120 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/07/1877.html

1877年 - "松島"に関する様々な意見:「松島巡視要否ノ議」 外務省公信局長 田邊太一

次の文書は当時外務省公信局長だった田邊太一によるものです。この中で、武藤平学によって1876年に提出された"松島"の開拓を願い出る要望書、「松島開拓之議」についての省内での論議を要約しています。文中から分かるように、日本人は武藤の言う"松島"がどの島を指しているのか、明確には分からない状態でした。鬱陵島の于山島であると考える人たちや、記録局長の渡邊洪基の文書にまとめられたように、ある者はそれとは別の無人の島だと考える人たちもいました。

文書はおそらく1877年か1878年に書かれたものですが、1881年にこうした調査の経緯を記した北澤正誠の「竹島考証」の下巻に載っています。

「松島の儀」外務省記録局長 渡邊洪基

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 21:25 投稿番号: [9119 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1878.html

1878年 - 「松島の儀」外務省記録局長 渡邊洪基

「松島の儀」は、外務省記録局長の渡邊洪基によって1878年に書かれました。その中で、武藤平学によって1876年に提出された"松島"の開拓を願い出る要望書、「松島開拓之議」についての省内での論議を要約しています。

渡邊は、武藤の要望書の中の"松島"が、もし鬱陵島であるならば、その島松島は朝鮮に属するものの、もし鬱陵島でなければ、それは日本に属する島であることと、Liancourt Rocksは日本の領土であることを明記しています。渡邊はこの謎を解くために、調査船を当該域へ派遣する事を促します。果たして明治政府は1880年に実際に調査船(軍艦天城)を派遣し、この1876年の武藤による要望書の中の"松島"が事実、鬱陵島である事を確認するのです。

武藤平学から『松島開拓之議』提案を受け

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 15:50 投稿番号: [9118 / 9207]
地籍編さんのため、内務省から一八七六年に島根県に照会

「内務省が島根県に照会する三カ月前、外務省では、武藤平学から『松島開拓之議』という提案を受け、検討を始めた。この松島とは現在の鬱陵島だ。同じ政府内で、鬱陵島について、内務省は竹島、外務省は松島と別の呼称を使っていた」

松島の開発を禁止しました(太政官指令)

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 15:01 投稿番号: [9117 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?p=373

日本国内の松島に関する論議

日本政府は、1876年に“松島”開発の要望、「松島開拓之議」が出始めるまで、竹島と松島の位置についての謎を急いで解く必要が無い、と考えていたことは明らかです。それは、まさに松島が実際には何処に位置するのか、と言う論議をよびおこしました。外務省には“松島”が鬱陵島であると考える人と、鬱陵島に隣接する于山島だと考える人とがいました。最終的に、1877年の3月29日に日本政府は次のようなあいまいな表現の返答で“松島”の開発を禁止しました(太政官指令)。

“竹島ともう一つの島については、わが国と関係が無いものとする。”

論議の対象であるにもかかわらず、松島と言う名前がこの答弁に使われていないことにお気づきでしょうか。日本は既に竹島(鬱陵島)が朝鮮領だとみなしてきたので、その名称を決定の中に含めることは問題が無かったのです。しかし、“松島”に関する論議はまだ結論が出ておらず、そのため、”竹島ともう一つの島”と言う表現を使うことで、松島の帰属についてあいまいにし、最終的な決断を避けるために逃げ道を作ったことは明らかです。

竹島渡海一件  松島へ行くという口実で

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/12 12:07 投稿番号: [9116 / 9207]
当時の浜田藩は財政がひっ迫していました。そのことを知った八右衛門は浜田藩勘定方橋本三兵衛に、「竹島に渡って自然のまま放置されている竹木を伐採し、海産物を持ちかえれば藩の利益になります」、「私が今まで見た地図には竹島は白のままで朝鮮国の色も塗ってないので、島の所属はないと思われます」、「お国のためと思ってした事で命がなくなるのなら、喜んで死にましょう」と語ったと、森須和男氏はその著『八右衛門とその時代』に書かれています。この計画には、さらに浜田藩家老岡田頼母(おかだたのも)や年寄役松井図書(まついずしょ)も加わり、最終的には藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)の決裁を仰ぐことになりました。康任は当時幕府の筆頭老中という要職にあり、江戸住まいでした。まもなく江戸屋敷から「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い」、「持ち帰った物は大坂以東へ流出させてはならない」と渡海を許可しているともとれる含みのある回答がありました。

  喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、八右衛門と資金提供の淡路屋善兵衛、重助、新兵衛、久米蔵、音五郎、安吉、新作という水主の8人で、浜田を天保4(1833)年6月15日出港しました。直接竹島を目指しましたが、強風と悪天候で長州の見島へ流されてしまいました。やむを得ず海岸沿いに東上し、隠岐へ渡って大谷・村川家が70余年にわたって竹島渡海の基地にしていた福浦に到着しました。順風を待って7月17日福浦を出港、まず松島が見えてきましたが、岩礁だけの島であることを知っていましたので、上陸せず直接竹島を目指し同月21日到着しました。

*   「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い。喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、

1870年 佐田白芽ら朝鮮を調査

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/12 02:23 投稿番号: [9115 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?p=373

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/kaiteishinsenchosenzenzu-1875/03.jpg
佐田の朝鮮全図にリヤンコ島(松島)記載無し

日本の調査団が韓国(当時の朝鮮)を調査

1870年、日本の調査団(明治政府外務省出仕の佐田白芽ら)は、鬱陵島の隣に“松島(ソングド)”と呼ばれる島がある、と知らされました。このことが現在の竹島(Liancourt Rocks/独島)を当時松島と呼んでいた日本人に、混乱を与えたことは想像に難くありません。下の文章は日本の報告(朝鮮国交際始末内探書)のうち、関係箇所の翻訳です。

“竹島と松島が朝鮮の附属になった経緯について
松島は竹島(現在の鬱陵島)の隣の島で、松島に関するこれまでの記録がない。竹島に関しては、元禄期(1688-1704)に暫らくの間、朝鮮から人が居留していたが、現在は以前と同じく無人島となっている。その島は竹や竹より太い葭(アシ・ヨシ)が生えている。人参なども自生しており、また海産物も豊富であると聞いている。”

韓国人はしばしば、上記の報告の題名を指して、日本が松島(Liancourt Rocks)を朝鮮領として認識していた事を証明する、と主張しますが、報告の内容を読めばそれが誤りであることが分かります。この題名から、日本が何故日本領である松島(Liancourt Rocks)のことを朝鮮領と言う人がいるのか、と言う謎が解けたと考えていることが、私には伺えるのです。この謎に対する答えは、朝鮮人がいう”松島(ソングド)”は鬱陵島に隣接する付属島で、日本人が同じく“松島(マツシマ)”と呼ぶLiancourt Rocksではない、ということです。この日本の報告は、1882年に高宗と李奎遠が述べた、「“松島(ソングド)”は鬱陵島に隣接する松竹島の別名の一つである」との内容と一致します。

この日本の報告には、日本側には鬱陵島の“松島”についての記録が無い、と記述されていますが、このことからも、この報告に述べられている“松島”は、Liancourt Rocksの示しているのではないことが分かります。日本は、“松島(マツシマ)”と言う島嶼に関する記録を確かに持っていたからです。それだけではなく、鬱陵島を“松島(マツシマ)”と呼んでいた日本人さえもいたらしく、それは恐らく、1789年の英国の地図が事実誤認に影響されたのだと思われます。

島嶼放置は無主地になりますね

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 21:08 投稿番号: [9114 / 9207]
浙江省か福建省に所属なのか不明、島嶼をどこにも所属させなかったら放置とみなされ無主地になりますよ、今後の検証が必要。

島嶼、所属させた先の省が不明瞭

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 20:59 投稿番号: [9113 / 9207]
1562年 浙江総督胡宗憲は本書の巻一「沿海山沙図」で「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」「古米山」「馬歯山」   那覇へ   これらの島嶼を海防区域内に入れたと云う。
現中国は海防区域内に釣魚嶼を入れたから先に先占し、実効支配していると主張しております。しかし   これら島嶼を所属させた先の省が不明瞭です。

島嶼、所属させた先の省が不明瞭

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 20:50 投稿番号: [9112 / 9207]
1562年 浙江総督胡宗憲は本書の巻一「沿海山沙図」で「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」「古米山」「馬歯山」   那覇へ   これらの島嶼を海防区域内に入れたと云う。
現中国は海防区域内に釣魚嶼を入れたから先に先占し、実効支配していると主張しております。しかし   これら島嶼を所属させた先の省が不明瞭です。

鶏籠山は明国領土だったのか・実は琉球国

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 00:48 投稿番号: [9111 / 9207]
馬英九総統は二〇〇三年に行った講演で次のように述べている。

「国際法上重要なのは、中国が釣魚台を有効に支配してきた事実だ。有名なのは一五六二年、明の倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲の書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれていることだ。これを日本の学者に見せたら、『倭寇の侵略路線図であって海防を意味しない』と言うので、私は『もちろん海防だ』と答えた」

そこではたしかに東支那海に「釣魚嶼」が浮かんでいる。そしてその右側には「鶏籠山」とある。この鶏籠山は釣魚嶼と同様、琉球―福建間海域での航海指標となっていた台湾島北端の山である。そしてその山の麓は当時、明国の海防拠点ではなく、倭寇の根拠地だったのだ。
なぜならこの最果ての島であれば、明国の討伐軍が追って来なかったからだ。鄭舜功が一五六五年に書いた『日本一鑑』にもその地に倭寇がいることを書いている。

*   倭寇討伐最高統帥胡宗憲の参謀である鄭若曽が書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」には「鶏籠山」も描かれている。この「鶏籠山」を明国も鄭若曽も琉球国の領域と認めていた。馬英九総統は「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれているをもってして明国領土だと主張しています、それでは「沿海山沙図」に「鶏籠山」も描かれているが、その「鶏籠山」も明国領土であったと馬英九総統は主張するのだろうか。

胡宗憲が鄭若曽に命じ編纂させた籌海図編

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/08 23:32 投稿番号: [9110 / 9207]
1562年   中国:倭寇対策に手を焼いてきた明の浙江総督胡宗憲が地理学者の鄭若曽に命じて編纂させていた「ちゅう海図編」全13巻が、このほど完成した。鄭若曽は前年、倭寇関係者から直接収集した情報なぢにより「日本図ちゅう」を著していたが、本書にも同じ情報が全面的に活用されている。

内容は、世界図や、明の沿岸地方図などの地図を中心とし、日本との交通・貿易の沿革、日本の事情、明の沿海における防備施設の状況、倭寇の歴史や被害、その動静などを総括的に記述したもの。このころの日本人が明から生糸100斤を銀50〜60両で買い、帰国後約10倍の値段で売りさばいていたことなど、日明貿易の実情にも詳しい。海防のための倭寇研究書として著された本書は、以後、中国の日本研究に多大な影響を与える。

鄭若曽琉球国図の台湾は琉球国領域

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/08 23:17 投稿番号: [9109 / 9207]
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heisyo/12.htm
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page109.html#境界は既に画定していたのではないか
鄭若曽は我が国(中国)の海防研究の創始者で、彼の海防の専門書『籌海図編』『海防図論』『江南経略』は明王朝後期の倭寇に抵抗する戦争とその後の海防についての計画に対して、ともに模範としての働きをしました。
鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつてみなしていた。

* 鄭若曽の琉球国図は琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域としていた。彼の海防の専門書『籌海図編』海図にある島列内の東番、台湾は琉球国の領域としていた。そうなると・・・?

東番の野蛮人は領民では無い 清国拒否

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/08 14:11 投稿番号: [9108 / 9207]
鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつてみなしていた。清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在していた。台湾、東番、琉球と いう「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。

*台湾島は西の台湾地域と東の東番地域に二分されていたのです。清国による台湾領有は1683年だが、この時の獲得領域は西半分の台湾地域だけと云う事になりますね、東地域の東番までには及ばなかった。清国としては台湾の西半分が領域認識でしたので、明治期宮古島の漁民が東番地域で原住民に虐殺された事件で、明治政府は清国に抗議したが、東番の野蛮人は領民では無いと清国に拒否されたいきさつがある、考えてみれば、もっともな話ではある。

清代になってから台湾島の西南部を領域に

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/07 21:15 投稿番号: [9107 / 9207]
☆   今(清代になって)、版図に入っているのは……台湾島の西南部のみ、

  台湾通志は清末台湾にて編纂されたものである。清の官僚郭起元による「慎防守議」が収録されている。要約する
と「全台湾三千余里、版図に入っているのは二千余里近くでそれ以外は生蕃が雑居し、状態は予測を許さないもの
がある」と報告されている。日本側の認識と一致している。

  鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつ
てみなしていた。ただ実際には当時も澎湖島や台湾島には琉球国の力は及んでいなかった。そこへ明代に進出して
じわじわと漢民族が領域を広げていったという形になっている。しかし東番はずっと存在していたのである。

  台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。琉球と「台湾府」の間には東番
という国があったのである。だからこそ琉球と中国は接壌の状態にあるとは相互に認識されなかったのである。

  しかし明代にも徐々に漢民族の居住地域が拡大しつつあった。

  清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。そして次第に漢民族が
先住民族を圧迫し、あるいは同化し、その支配領域を拡大して行きつつあった。漠然と開拓が進んでいくのを清国政
府はむしろ長らく押しとどめようとしていた。蕃界への立入りを禁じたのであった。しかし開拓は進んでいった。花綵列
島のすべての地の分割がやがて完成するはずである。

  だが十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在していた。台湾、東番、琉球と
いう「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。清国が台湾島のこの曖昧な領域をなんとかしなければな
らないと思うようになったのは、勿論、列強の進出に対抗せねばならなくなったときである。そして東番の存在を否定
するようになった。明治新政府は、東番を存在するとみなした。西から手を伸そうとしたのである。清国と日本はこの
領域で争った。台湾島原住民居住地域の取合いが起きることになる。列強は日本を支持しなかった。大陸に列強が
勢力を拡大することを考慮してみると、日本の臺灣獲得は明らかに計画の邪魔となるからである。琉球諸島が日本
に帰属するのさえ、実はかなり邪魔であった。ましてそれ以上南に日本の力が伸びることは好ましくないのであっ
た。臺灣そのものにも列強は関心をもっていた。中国のものとしておけば、はいりこむ機会が将来あるかもしれない
のである。

  明治初期はまだ先住民支配地域は確固として存在していた。だから周辺にある無人島の帰属も曖昧なままだっ
た。しかしやがてこの帰属曖昧な土地の帰属も完全に定るはずであった。清国と琉球は隣接することになるはずであ
る。だが清国と琉球は隣接することなく、終ったのである。両国の間にある帰属曖昧な土地は、分割されずじまいで
あった。間に先住民地域がある状態で、やがて日清戦争が起きる。

* 台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。

琉球と日本は共に扶桑(世界樹)であ る

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/07 19:42 投稿番号: [9106 / 9207]
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page109.html#境界は既に画定していたのではないか
senkaku−note・尖閣諸島問題   Ⅳ

☆   弱水             

***************************************

弱水とは、崑崙山を取り巻いて流れ、水に浮力がなく、生身の人間にはそれが渡れないことから、神性を持たぬもの
が崑崙山に近づくことを防いでいる川であった。山海経海内南経では建木は弱水のほとりに生えているとされてい
る。(-165)

――西王母と七夕伝承   小南一郎   1991年   平凡社

***************************************

  建木とは天地をつらぬく世界樹である。崑崙山は世界の中心とされた。台湾には南崑崙山という地名もある。建木
≒若木≒扶桑という関係が成立する。扶桑の側に弱水があるわけである。

  台湾府志には、鶏籠のすぐ北側には弱水があると恐れられていることが再三書かれている。乗りだせば生きて帰
れないという。台湾府が琉球を非常に遠く感じていることがよくあらわれている。これを思えば、半架諸島さえ台湾府
志の領域図に入らないのも当然である。弱水は扶桑の国を取巻いているものであった。それが台湾島の北をひたす
ほど迫っているというのはどういうことか。考えてみればわかることである。琉球の人々が我と日本は共に扶桑であ ると述べたことも思い出される。

* 台湾府志には、鶏籠のすぐ北側には弱水があると恐れられていることが再三書かれている、乗りだせば生きて帰 れないという。琉球と日本は共に扶桑である。

Re: 独島を守る聖母マリア像を作ったニダ!

投稿者: fujiwara6419 投稿日時: 2009/02/06 22:28 投稿番号: [9105 / 9207]
>民族の共存と平和を祈る「独島(訳注:竹島のこと)を守る聖母像」が、鬱陵島にそびえ立った。

こんなしょうもないもんを作っている暇があるということはよっぽど経済危機への備えがあって余裕しゃくしゃくということかい、バカチョンさんたちよ!?(冷笑)

金テハン神父というのも相当怪しいやっちゃな!?

独島を守る聖母マリア像を作ったニダ!

投稿者: aopbnwat 投稿日時: 2009/02/06 10:06 投稿番号: [9104 / 9207]
  ■「独島を守る聖母像」奉献

  民族の共存と平和を祈る「独島(訳注:竹島のこと)を守る聖母像」が、鬱陵島にそびえ立った。

  大邱大教区・道洞教会(主任:金テハン神父)は2月1日午前10時30分、ミサの後に現地(慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑道洞270)で「独島を守る聖母像」の奉献式を行なった。

  繰り返される日本の独島領有権主張に苦しむ韓民族の時代的痛みを共にし、独島守護と民族繁栄を祈るために奉献された「独島守る聖母像」は、高さ2.3m、幅 60cmの大理石像で、李グァンス(ヤコブ)さんが製作・寄贈した作品だ。

  2010年の教会設置50周年記念事業の一つとして奉献された聖母像は聖堂から23m上にあり、独島を眺めて祈る姿をしていて、鬱陵島を訪れる信者のみならず一般の人たちにも観光名所となる見込みだ。

  金テハン主任神父は、「独島に神様の平和が根付き、民族の正しい相生の道を開いて繁栄の枠組みを確固たるものにすることに貢献するために、この行事を用意した。これから毎年、聖母被昇天の祝日である同時に光復節である8月15日に『独島守る聖母様の日』行事を用意する計画だ」と語った。


>聖母マリアを持ち出してまで竹島の領有を主張する糞ウリども。
無茶苦茶である。

3年経過後はロシアへカラフト放棄義務ナシ

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/03 16:44 投稿番号: [9103 / 9207]
二国間の平和条約に間しては、日本の義務は、この条約の最初の効力発生ののち三年で満了する。ロシアとの平和条約はSF条約で義務づけられていたカラフトチシマの放棄は白紙に戻りますね、つまりカラフトチシマをロシアに譲渡する義務はなくなります、しかし それどころか カラフトチシマをロシアに譲渡した平和条約を締結すると、調印国日本だけが第26条にのっとり批准連合国に同等の利益を供与しなければならない義務が生じます。非調印国ロシアにとっては、なんら義務は生じないので、痛くも痒くもない事になります。

3

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/03 16:33 投稿番号: [9102 / 9207]
二国間の平和条約に間しては、日本の義務は、この条約の最初の効力発生ののち三年で満了する。ロシアとの平和条約はSF条約で義務づけられていたカラフトチシマの放棄は白紙に戻りますね、つまりカラフトチシマをロシアに譲渡する義務はなくなります、しかしカラフトチシマをロシアに譲渡した平和条約を締結すると、調印国日本だけが第26条にのっとり批准連合国に同等の利益を供与しなければならない義務が生じます。

Re: これから 桁違いの戦後賠償額もありう

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2009/02/03 09:33 投稿番号: [9101 / 9207]
第二十六条

  日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。

↑3年経てば日本の義務はなくなると言うことでは?

これから 桁違いの戦後賠償額もありうる

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 13:14 投稿番号: [9100 / 9207]
SF講和条約によれば、大鶏籠山までの台湾を放棄したのですから、3嶼は台湾領では無い事になります。つまり3嶼を台湾に返還する必要は無いのです、
過分な領土を返還すると、二国間平和条約第26条に基づき、日本はSF条約調印国に対し同等の利益を与える義務が生じます。調印各国は日本の惨状を見て、仕方なく賠償放棄したのでしょうから、経済大国になった日本をみて、第26条に基づき同等の権利要求を当然して来るだろうから、覚悟しなければならない事になります。

日華平和条約  署名 1952年4月28日台北

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 12:22 投稿番号: [9099 / 9207]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8F%AF%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
日華平和条約 1952年8月5日に発効。1972年9月29日、日中国交回復のために廃止。

海防管轄線は元の白紙にもどったのか?

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 11:05 投稿番号: [9098 / 9207]
1562年、明の倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲の書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれていることだ.    その3年後の1565年に書いた『日本一鑑』にもその地(鶏籠山等)に倭寇がいることを書いている。

*   1562年から釣魚台等の島々を倭寇対策として、警戒水域内に入れて設定したそうだが、倭寇が衰退すれば、警戒水域線も解除となり、元の白紙に戻る事になる、これは   あくまでも倭寇対策として設定された海防線ですから
倭寇がいなくなれば倭寇討伐最高統帥である胡宗憲も解任となるでしょう、
つまり   現中国が主張する明の領域からは、外された事になる。その後 明は釣魚台を領有宣言はしてはいない。

海防管轄の線内に入れたから先占に成ると

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 00:29 投稿番号: [9097 / 9207]
>釣魚島は「無主地」だったが、中国の海防管轄の範囲内にあった
下関講和条約締結直前に、日本は釣魚島を窃取した。<

*われの推測の範囲内ですが   釣魚島等を海防管轄線の内側に入れた時点から、その事が領有根拠に成ると中国は主張しているのかな、その時点で領有意思もあるし、先占した事にも成るとふんでるのかな、そうとしか思えんが。

中国が釣魚島「無主地」説へ方針転換

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/31 20:00 投稿番号: [9096 / 9207]
●最近の中国政府の主張
   明朝初期から釣魚島(尖閣諸島)は明らかに中国の領土だった。明、清の両王朝期、釣魚島は「無主地」だったが、中国の海防管轄の範囲内にあった。 1895年、日清戦争(中国側呼称は甲午戦争)での中国の敗北が決定的になると、講和のための下関条約(中国側呼称は馬関条約)締結の3カ月前に日本は釣魚島を窃取した。

*   中国は最近、明、清の両王朝期、釣魚島は「無主地」だったと、主張を変えてきましたね、釣魚島は昔から台湾付属島説を撤回したのです。どうした訳でしょうか?   これは つまり どちらが釣魚島を先に先占したかという問題方向に持って行きたい布石ととらえたらいいのでしょうかね。

パルマス島判決と石島(竹島、独島)

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/31 16:36 投稿番号: [9095 / 9207]
韓国による権限主張として勅令41号(1900年)の石島があるが、韓国はそれをもって明治政府の先占(1905年)よりも先に先占したと主張しております。獲得された権限が、その後5年間のあいだに、いかに平穏に維持されたかがパルマス島判決に比定しても不明ですし、不明瞭なのは帰属決定の判断には出来ません。島根県による地籍編入などをもってして、明治政府による竹島編入は帰属決定として十分です。

パルマス島判決と尖閣諸島

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/31 14:39 投稿番号: [9094 / 9207]
パルマス島事件判決(1928年)では先占、時効などの伝統的領域権限に依拠せず、「領域主権の継続的かつ平穏な行使は、権限として十分に有効である」として、いったん獲得された権限が維持されているか否かを帰属
決定の判断要素とした。

*   獲得された権限が平穏な行使により、その後いかに維持されたかが帰属決定の判断に成ると、パルマス島判決は述べております。
明朝により警戒水域に入れられたとされる島々が、その後どのように平穏に維持されたかが不明瞭なので、帰属決定の判断には出来ません。それに引き換え1895年以来1970年まで75年間平穏に、清国からの抗議もなく尖閣諸島を開拓した事は帰属決定として十分です。

鶏籠山など、島々は倭寇の支配地域だった

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/31 11:41 投稿番号: [9093 / 9207]
馬英九曰く「国際法上重要なのは、中国が釣魚台を有効に支配してきた事実だ。有名なのは1562年、明の倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲の書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれていることだ.    その3年後の1565年に書いた『日本一鑑』にもその地(鶏籠山等)に倭寇がいることを書いている。

*   沿海山沙図と云う海図に「釣魚台」が描かれていることだけで、有効に支配してきたとはどうゆう事だろうか? 明は倭寇対策として大陸沿岸に膨大な数の城、トーチカを築いた、それに比べ鶏籠山麓、釣魚台などの島には一つとして城、トーチカの類は無かった、これらの現象は、島を放棄してた事になる、その頃、鶏籠山麓は倭寇の入船出船で、海賊の巣と化していた。つまり沿海山沙図に描かれた島々は倭寇の支配地域だったのですね。

竹島プロジェクト2009

投稿者: siso_noli 投稿日時: 2009/01/31 00:17 投稿番号: [9092 / 9207]
去年あった小中学校学習指導要領解説書の問題、これは世論が動いた結果です。
はじめに出た改定案では、竹島の記述は無し×。
しかし、文科省へ多くのパブリックコメントが届き、小委員会でも問題視されました。
その結果、学習指導要領には記載されなかったものの、解説書に記載されたわけです。

これはわたし達、世論が動いた結果です。
あなたの一言が社会を救います!

【竹島プロジェクト2009始動!!】たのむ(,,゚Д゚)
みんなで参加しよう!!
2月22日の竹島の日にむけて、
以下の島根県のHPや外務省竹島問題のHPにリンクを張り、
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http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html

代表的参加HP
http://sakura43.moeweb.net/blognplus/index.php?e=97#cmt157

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http://mixi.jp/view_community.pl?id=255764
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http://www.shomei.tv/project-208.html

鶏籠山麓は海防拠点ではなく倭寇根拠地

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/30 20:48 投稿番号: [9091 / 9207]
馬英九は二〇〇三年に行った講演で次のように述べている。
「国際法上重要なのは、中国が釣魚台を有効に支配してきた事実だ。有名なのは一五六二年、明の倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲の書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれていることだ。これを日本の学者に見せたら、『倭寇の侵略路線図であって海防を意味しない』と言うので、私は『もちろん海防だ』と答えた」

しかし、それについては日本の学者の見方が正しいようだ。下に掲げる写真は、その「沿海山沙図」の一部である。

そこではたしかに東支那海に「釣魚嶼」が浮かんでいる。そしてその右側には「鶏籠山」とある。この鶏籠山は釣魚嶼と同様、琉球―福建間海域での航海指標となっていた台湾島北端の山である。そしてその山の麓は当時、明国の海防拠点ではなく、倭寇の根拠地だったのだ。

なぜならこの最果ての島であれば、明国の討伐軍が追って来なかったからだ。鄭舜功が一五六五年に書いた『日本一鑑』にもその地に倭寇がいることを書いている。 ー転写ー

パルマス島判決における権限維持の重視

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/30 20:23 投稿番号: [9090 / 9207]
判例における権限維持の重視
伝統的理論上はいったん領域権限を取得すれば即座にその他すべての国への対抗力が発生する。したがって特定の地域について、複数の権限が競合することはないはずである。しかし現実には権限を取得したか否かの事実自体が不明確であるゆえに、紛争が発生することがある。その様な場合、各当事国は、それぞれ異なる証拠を用いて、自国が権限を取得したことを主張するので、一方が絶対的な権限を有し、他方はそれを有さないというような伝統的理論に基ずく全が無かの判断は難しい。
そこで、パルマス島事件判決(1928年)では先占、時効などの伝統的領域権限に依拠せず、「領域主権の継続的かつ平穏な行使は、権限として十分に有効である」として、いったん獲得された権限が維持されているか否かを帰属
決定の判断要素とした。いずれの当事国がより効果的に係争地域を支配してきたかが、相対的に判断されたと言うこともできよう、このような法理は、パルマス島事件以降の領土紛争に関する判例でも踏襲された、なお継続的な「現実の支配」に対する他国、特に他方の係争国が与える承認や黙認は、その平穏性を示すことから、極めて重要なものと評価される。

二国間の平和条約 対象は大鶏籠山まで

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/29 21:18 投稿番号: [9089 / 9207]
第二十六条【二国間の平和条約】
  日本国は、一九四二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼされなければならない。

* 1895年清国から割譲されたのは台湾属島大鶏籠山までです、よってサンフランシスコ講和条約による返還対象は大鶏籠山までとなりますね、綿花、花瓶、彭佳嶼の3嶼は日清条約3年後の1898年に日本政府が発見獲得したものですから、つまり無主地だった3嶼を日本が先占、3嶼の領有権は当然日本にある事になります、かっては 琉球国の領域だった可能性も大きいのですから、綿花、花瓶、彭佳嶼の3嶼を返してもらい沖縄県に所属させるべきでしょう。

清国が先に尖閣先占した可能性もあると・・

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/29 12:57 投稿番号: [9088 / 9207]
1895(明治28)年までに日本で発行された台湾に関する地図海図の類は例外なく台湾の範囲を彭佳嶼までとしていた。

*   1890年前後における明治政府の認識は、台湾の範囲は彭佳嶼までであり、明治政府が沖縄県知事上申による尖閣国標建立に慎重だったのは、1684年、清国による台湾領有以後に清国が先に尖閣を先占した可能性もあると危惧心配したからで、明治政府と沖縄県による1884年前後にかけての慎重な調査によりその形跡はまったく無いと結論した。

日本が割譲受けた台湾とその属島は鶏籠嶼ま

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/29 11:42 投稿番号: [9087 / 9207]
1872年琉球藩に、1879年琉球処分の混乱により無人島の尖閣諸島、三嶼などは忘れ去られ、いままでの情報も消えてしまった、   1895(明治28)年までに日本で発行された台湾に関する地図海図の類は例外なく台湾の範囲を彭佳嶼までとしていた。

*台湾の範囲を彭佳嶼までとしていた日本の認識は誤りでしょう、なぜなら
清国は1683年の台湾編入後の台湾府の境界は、当時の総ての清朝公文書が大鶏籠嶼と明記していたからで、それは1895年の日本への台湾割譲まで続いた。ここで はっきりした事は日本が割譲受けた台湾とその属島は鶏籠嶼までとなりますね、割譲の中に三嶼、尖閣は含まれてはいなかったのです。

1879年琉球処分 王統の統治権がなくなり

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/29 10:58 投稿番号: [9086 / 9207]
琉球王国(りゅうきゅうおうこく、正式国名:琉球國)とは、沖縄本島を中心に存在した王国。1429年に尚巴志の三山統一により成立したが、1462年に王統が交代した。15世紀に明の冊封国となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の付庸国となった。1871年の廃藩置県で鹿児島県下に編入されたが、1872年には琉球藩となる。1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。
清王朝の官吏、傳雲竜は、政府の派遣で、1887年から1889年にかけて日本
探索と情報収集を命じられた 1683年の台湾編入後の台湾府の彊界は、当時の総ての清朝公文書が大鶏籠嶼と明記している、例えば一七一七年の『諸羅県志』は台湾北部の台湾県の「北界」を大鶏籠山と記した、傳雲竜は綿花、花瓶、彭佳嶼を「州南諸島」に入れていない。

台湾紙が尖閣問題掲載

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/28 17:58 投稿番号: [9085 / 9207]
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/category15-1.html

次のように書かれている。

二〇〇四年三月、つまり尖閣群島(台湾では釣魚台と称する)の争議が起こったとき、米国国務院のスポークスマンは「一九七二年以来、尖閣群島は沖縄の一部分。日本に返還されて以来、その列島は日本政府の行政管轄下にある」ことを明らかにし、続けて「一九六〇年に締結した日米安保条約第五条は、同条約は日本管轄下の領土に適用されるとしており、そのため第五条は尖閣群島にも適用される」と述べた。だから、米国が尖閣群島の究極の主権の問題で立場を示さないとしても、どこを支持しているかは言わずとも明らかなのだ。国務省が口に出せないでいるなら、私に明らかにさせてもらおう、尖閣群島は日本のものだ。

尖閣群島は行政上、琉球列島の一部分だ。サンフランシスコ講和条約第三条では「南西諸島」内に組み込まれている。第二次大戦後、米国が占領し、二十七年間管轄し、一九七二年にその主権は沖縄返還の一環として日本へ返した。

日本は一八九五年一月に初めて尖閣群島の主権を宣言した。これは同年の日清戦争に関する協議に基づく日本の台湾領有事件とは関係のないものだ(※下関条約で日本に割譲された台湾の付属島嶼に尖閣諸島が含まれていたとする中国・台湾側の主張は正しくない、の意)。

一九六八年以前、北京の中国共産党と台北の国民党は、尖閣群島へのいかなる欲望も見せていなかった。台湾で一九六九年以前に北京で出版された地図には、境界線は尖閣群島以西に引かれている。私が収集した地図の中にある一九六九年の「中華人民共和国分省地図集」の「福建省・台湾省」の部分には、日本名の「尖閣群島」と表記されている。

明海上警戒区域  姑米山馬歯山は 琉球

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/28 13:11 投稿番号: [9084 / 9207]
○琉球国志略巻の四に曰く
琉球在海中、興漸浙&#38313;地勢東西相値、但平衍無山、航行海中、以山為準、福州往琉球、出五虎門、取鶏龍山、花瓶嶼、彭家山、魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼、姑米山、馬歯山、収入那覇港

*   鶏龍山、花瓶嶼、彭家山、魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼、姑米山、馬歯山 は明の海上警戒区域に入れておるから 実行支配していたと中国は主張しております、しかし よく御覧ください 姑米山、馬歯山は 琉球ですよ 鶏龍山は台湾 これでは実行支配していたなどとは云えませんね。

Re: 尖閣中国領の根拠 昔から台湾付

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/28 13:05 投稿番号: [9083 / 9207]
○琉球国志略巻の四に曰く
琉球在海中、興漸浙&#38313;地勢東西相値、但平衍無山、航行海中、以山為準、福州往琉球、出五虎門、取鶏龍山、花瓶嶼、彭家山、魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼、姑米山、馬歯山、収入那覇港

*   鶏龍山、花瓶嶼、彭家山、魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼、姑米山、馬歯山 は明の海上警戒区域に入れておるから 実行支配していたと中国は主張しておりますね、しかし よく御覧ください 姑米山、馬歯山は 琉球ですよ 鶏龍山は台湾 これでは実行支配していたなどとは云えませんね。

清朝公文書、中国 台湾は御存知のはず

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/27 10:13 投稿番号: [9082 / 9207]
清朝公文書→台湾属島 台湾北限は大鶏籠山まで。中国、台湾当局は痛い程 当然御存知のはずですね、

清王朝の密偵 傳雲竜

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/01/27 01:00 投稿番号: [9081 / 9207]
清王朝の官吏、傳雲竜は、政府の派遣で、1887年から1889年にかけて日本
探索と情報収集を命じられた。傳雲竜は、一年以上も日本に滞在している。傳雲竜は帰国後すぐに総理衙門に「遊歴日本図経」を提出し称賛を得た。 「遊歴日本図経」には、多数の図表が収められているのが特徴である。表の一つに、尖閣諸島がでてくる。「図経 六   島表」に、「……鳩間   沖之神   与那国   尖閣郡   低牙吾蘇」とされている。「州南諸島」の一部とされている。尖閣郡と低牙吾蘇の二島がでてくる。 日本の尖閣領有を認めている有力な史料である。
1683年の台湾編入後の台湾府の彊界は、当時の総ての清朝公文書が大鶏籠嶼と明記している、例えば一七一七年の『諸羅県志』は台湾北部の台湾県の「北界」を大鶏籠山と記した、公文書により綿花、花瓶、彭佳嶼は琉球領土であると清王朝官吏傳雲竜も当然認識していた。

*にもかかわらず、綿花、花瓶、彭佳嶼を傳雲竜はとぼけて「州南諸島」に
入れていないのですね、日本は混乱している時だから知らんだろうと、綿花、花瓶、彭佳嶼を琉球王国から奪ったのです。
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