入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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西安事件3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:45 投稿番号: [1454 / 2250]
焦った張学良は蒋介石を監禁して、
共産党討伐をやめ、共産党と手を組んで、日本と戦争するよう要求しました。
その具体的内容は以下の通り。
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
59
《
八項目の主張とは次のとおりです。
(1)南京政府を改造し、各党各派の参加を許し、ともに救国の責任を負わしめよ。
(2)すべての内戦を停止せよ。
(3)上海で逮捕された愛国運動の指導者をただちに釈放せよ。
(4)全国のすべての政治犯を釈放せよ。
(5)人民の集会・結社等すべての政治的自由を保障せよ。
(6)民衆の愛国運動を公認せよ。
(7)孫総理の遺嘱を確実に遵守せよ。
(8)ただちに救国会議を召集せよ」》
しかし、蒋介石は応じず、
56〜57p
《
蒋
「まだ、私を委員長と呼ぶか?
上官と認めるなら、命令に従って
洛陽に送り還せ。さもなければ、君は反逆者、私は反逆者の捕虜だ。
即座に銃殺しろ。他にいうべきことなどありはしない」
張
「委員長がわれわれの意見を受諾されるなら、もちろん命令に従います」
蒋
「君は、いったい、私の部下なのか敵なのか?……敵ならばただちに私を殺せ。
二つに一つ、ほかに何もいう必要はない。私は何をいわれても聞く耳を持たぬぞ」》
と突っぱねた。
ここに周恩来がやって来、宋美齢もやってきた。
そして宋美齢は周恩来と会い、蒋介石も周恩来と会っている。
66p
《 宋美齢の
「回想録」
によると、彼女は二十三日には二時間、
また二十四日にも、周恩来と会談をしている。
張学良が頼んでも蒋介石が会いたくないといっている人だといって、
張は彼女に周思来を紹介している。
宋美齢は、周恩来に意外にも好感をもったようで、宋美齢の斡旋で、
周恩来は蒋介石に短時間会ったようである。
周は、蒋に対し、蒋介石領導での一致抗日、そのための内戦停止を簡潔に述べたが、
蒋としては、説得される必要は全然なかった。
それで、口頭で、
「統一戦線を約束したようであり、周恩来と
『再び共に仕事を』
したい」
(ハン・スーイン著
『毛沢東』
松岡洋子訳二五三ページ)
と、
いとも簡単な挨拶をしたというのが、ことばどおりではないにしても、
おそらく真相に近かろうと思われる。》
どういう取引が有ったか分かりませんが、ともかく、蒋介石は釈放されました。
そして、以後共産党の討伐は行われていません。
これは メッセージ 1452 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1月29日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:32 投稿番号: [1453 / 2250]
《 プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝九時にピー号で出発した。
私の日記帳もお供した。フィッチが近いうちに戻れるなどと、だれも信じてはいない。
日本人との緊張感は日増しに高まっている。
委員会を解散して、新たに救援委員会を組織し、
新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。
目下真剣に検討しているところだ。
日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。
委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。
それにむこうが同意するかどうかもまったくわからないのだから。
ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。
時機を逸してしまったのではないだろうか。
そうかといって、脅した通り、
日本軍が二月四日に難民を強制的に立ちのかせて収容所に入れ、
この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。
ドイツ大使館は日本軍から覚え書を受け取った。
そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、
二月四日に収容所を閉鎖するように、とあった。
私は会議を開いて、それぞれの大使館につぎのことを確認、
ないしは調べてもらうことにした。
一、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも
難民を立ちのかせることができるのか?
(収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。
ジーメンス・キャンプといわれるラーベの収容所もその対象になる。
ドイツ人の庭にあるからだ)
二、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?
三、我々の立場を明らかにするまで、
各大使館に本件に関する日本側の返事を待ってもらいたい。
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。
親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。
近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。
姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。
*
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた」
これは、有名な夏淑琴の話に関係しますので、次は夏淑琴の話をとりあげます。
これは メッセージ 1448 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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西安事件2 張学良のあせり
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 14:06 投稿番号: [1452 / 2250]
蒋介石は張学良が共産党と接触している事を知っていた。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
251p
《 蒋介石は、既述したように、
張学良の不穏な動きについての情報を耳にしていたわけであるが、
十二月七日、華清池を訪れた
『大公報』
紙主筆張季鸞との間に、
次のような問答をかわしている。
「請問ニイ們在延安的記者、最近有什麼重要消息マー?」
(貴社の延安駐在の記者から、最近なにか重要なニュースは入らないか?)
「謡言很多、但是他不相信這些無稽之談」
(デマは多い、信用できぬ話ばかりです)
「ニイ所謂謡言、是否己聴到了張漢卿
(学良)
輿共産党在廷安面商擁護中央、
一致抗日的消息マー?」
(そのいわゆるデマの中に、張学良が延安で共産党と中央の擁護、
一致抗日を交渉した話はふくまれていないか?)
「是的」
(あります)
この問答は、張学良・周恩来秘密会談が、すでに蒋介石の情報網に
キャッチされていたのみならず、一般にも知られていたことを告げている。》
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
53p
《 中共により、紅軍により、また救国会の運動により、学生運動により、
旧東北軍や西北軍が、約一年前からの
「内戦停止」 「一致抗日」
「中国人は中国人と戦わない」
などのスロ−ガンと、
その魅力あるアッピールのために、それほどまでにも
(張学良が)
「洗脳」
されていたとは、蒋はそのときまで全然知らなかった。
それで張季鸞の報告と忠言に耳を傾けた蒋介石は、ただちに、
第六次
「剿匪」
事業の作戦を根本的に練り直す必要を感じた。
「剿匪」
事業のためには、東北軍も西北軍もすでにつかいものにならぬと
感じたからであった。》
53〜54p
《 十二月九日になると、西安の学生たちは、一二・九記念デモをやり、
「内戦停止」 「一致抗日」
の要求書を、蒋介石に親しく会って手渡しするため、
華清池に向って出発した。間もなく、警察の発砲によって、
デモ隊、とくに年少学生に負傷者が出たので、学生たちは非常に激昂した。
張学良は、それを聞いて駈けつけ、
やっとのことでデモ隊を思いとどまらせ、市内に引き返させた。
その夜、張は華清他に行き、蒋に面会を求めて、学生に代り、その衷情を訴えたが、
逆に蒋からは、頭から叱られてしまった。
張は、 「極度の衝撃を受けた」
と
「懺悔録」
に書いている。
翌十日には、張は、前夜、学生に語ったように、蒋に面を冒して自己の所信を
述べるため、ふたたび蒋に会見を求め、 「内戦停止」 「一致抗日」
の立場から、
蒋の掃討計画に疑問を強硬に表明したが、にべなく拒否され、ふたたび蒋から叱正を受けた。
そればかりではない。西安綏靖主任たる楊虎城はまだしも、
いやしくも西北
「剿匪」
副司令たる張学良にとって、
「数回の軍事会議に ― これは張の思い過しでもあったが ― 召集されなかった」
ことは、異常のショックであった。
張の
「懺悔録」によれば、「それは、私
(張)
と楊虎城に疑惑と不安を抱かせた。》
*
ここで明らかなように、対日戦争を望んでいたのは、
中国の学生たちであり、張学良だった。
これは メッセージ 1449 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1月29日 アリソン殴打事件つづき
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 13:38 投稿番号: [1451 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
168p
《 一月二十九日、駐日アメリカ大使グルーは、
外務次官堀之内との会談において、被害女性はリッグズとベイツに対し、
連れてゆかれたところは以前カトリック司祭が住んでいた家で、
現在は日本兵が占領しているところである、と証言した。
174p
飯沼守日記
〈一月二十九日
小山憲兵隊長来リ
天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、
事件送致ニ就キ
軍ノ意向ヲ聞ク、
依
(よっ)
テ中尉以下同宿ノ者
全部ヲ送致スベキヲ希望シ、
殿下ニモ報告セリ。〉
〈天野中尉出発ヲ差止メラレ
何トカ穏便ノ取計ヒヲ
トテ来リシモ、
男ラシク処理セヨト
諭シテ帰ヘス〉
(偕行社編纂
『南京戦史資料集』
243頁)》
*
第16師団は南京から出て行かなければならないが、
天野中尉以下の者は出発を差し止められたため、哀願したもよう。
しかし、状況証拠から見て、彼らは、女性を連行強姦したというよりも、
売春婦を買っただけに見える。
「買春」
を
「女性の強制連行強姦」
として外国人に訴え、
事件にする、中国人の狡猾なやり方には舌を巻く。
そして、これに騙される善人の如何に多いことか。
これは メッセージ 1444 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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中国人は野蛮人
投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2012/02/11 09:05 投稿番号: [1450 / 2250]
中国人は長い歴史を誇るが、確かに何千年の時間的歴史は存在した。
しかし、彼らは過去から何千年も同じことの繰り返しで進歩は全くなかった。
漢の時代から何代もの王朝の交代を繰り返し漢人王朝あり、胡人王朝あり、時に応じて征服されたり征服仕返したりで、王朝は変わってもその仕組みや政治手法は何ら変わりなく、国民は一部の貴族と奴隷的被搾取階級だけだ。
それが延々と20世紀半ばまで続き、文化・文明的には世界一遅れた国である。
彼らは口を開けば大中華は世界の中心で云々と自慢するが、毛沢東の文化大革命も人殺しに終わっただけで、結局、自分たちでは何ら成長できずにその後の改革開放政策に依って、外国資本、外国技術によってようやく成長経済を手に入れたのだ。
しかし、経済的に一部の国民が裕福になっても、短い期間に長く続いた中華思想から脱却できるわけはない。
変化した華夷秩序は裕福な人間は貧しい人間を見下し、他に対して必要以上の優越意識を持って他をバカにする。
一の事実は数人の口を経るたびに数百倍、数千倍に脹れあがり嘘を言うのが偉いと思っている民族である。
思いやり民族の日本人と、人を人とも思わない漢民族が表向きは兎も角、心から仲良くなどなれる訳がない。
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
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西安事件1 張学良共産党と接触
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:50 投稿番号: [1449 / 2250]
蒋介石は日本が戦争する意思はない事を知って安心して、共産党退治に乗り出しました。
内側に叛乱分子を抱えていては対日戦争などできませんから。
そこで、張学良を西北剿匪副総司令に任命し、
西安へ共産党討伐に行かせますが、張学良はこれに不満でした。
彼の望みは、対日戦争でしたから。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
244p
《 西安には、もともと西安綏靖公署主任・第十七路軍総指揮楊虎城が位置していた。
楊虎城は、馮玉祥系の軍閥将領で、その第十七路軍約五万人も、
いわば楊虎城があつめた部隊であり、「陝
(せん)
軍」の通称で呼ばれていた。
ただし、軍隊としては装備、素質ともに劣悪で、土匪なみの集団であった。
それだけに、楊虎城としては、勢力範囲とその中での
「静かな搾取生活」
を
楽しむのが望みであり、共産軍との戦いも中央軍の進出も好まなかった。
現に、楊虎城は共産軍
「紅第四方面軍」
と 〝相互不可侵協定〟 を
むすんでおり、蒋介石の剿匪作戦についても批判的であった。》
246〜247p
《 張学良は、 「剿匪がいやになった」
と楊虎城にもらし、
一九三六年をむかえると、共産党側との接触を開始した。
・・・・
四月四日、第六十七軍長王以哲を通じて、共産党連絡局長李克農と
洛川の第六十七軍司令部で会見した。
張学良は、より以上の幹部、たとえば周恩来との会談を希望し、
李克農はただちに連絡して、周恩来が会談に応ずる旨を返事した。
張学良は、延安での会談を指定し、同市に駐屯する第六十七軍第一二九師
(周福成)
に
安全を保障するよう、指示した。
四月九日深夜、延安市東方的五キロの天主堂で張・周会談がおこなわれた。
・・・・
共産党側にも、張学良の接近を喜ぶ
「内部事情」
があった。
共産党軍は、当時、ほぼ第一、第二、第四方面軍にわかれて、
甘粛省北部での合流をめざしていたが、総兵力は
「長征」
を開始した当時の三分の一以下、約七万人にすぎない。
しかも、中央軍の追尾をうけているだけでなく、
山西の閻錫山軍も動いて、側背をおびやかされている。
もし、中央軍側の総攻撃が開始されれば、全滅しないまでも
組織的戦力を破砕されるのは必至であろう。
その非命を回避し、叫んでいる
「抗日」
戦の第一線にたつには、
「停止剿共」
を国民政府側にもとめる以外に方法はない……。》
つづく
これは メッセージ 1447 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1月28日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:41 投稿番号: [1448 / 2250]
一月二十八日
《 フィッチが今日、なんの前ぶれもなく田中領事から上海へ行く許可をもらった。
イギリスの砲艦ピーでいき、一週間後にアメリカの砲艦オアフで戻るといっている。
なんだか妙な話だ。 証明書とか旅券、あるいはそういう類
(たぐ)
いのものを
一切よこさないだけに、なおさら変な気がする。
昨日の晩、福井氏に、フィッチのために上海へ行く許可を出してもらえないか
といったときにはにべもなく断られたのに。
ひょっとすると、昨日の件で、アメリカ人に対して弱腰になったのかもしれない。
なにしろアメリカと日本の間には、ここのところ、
それからそれへと不愉快な事件が続いたから。
昨日、アメリカ大使館の南京責任者、アリソン書記官が、
なんと日本兵に横面を張られるという事件が起きた。
ただちにこれはワシントンに報告され、
今日、ロンドン発の最新ニュースとしてラジオが伝えたばかりだ。
日本はアリソン氏に謝罪することはしたが、氏が日本語でけしからんことをいって
兵士たちを怒らせたからだ、という立場をあくまでも崩そうとしない。
それにしてもローゼンにも困ったものだ。 昨日、いっしょに街をまわったとき、
日本軍から配属された衛兵を連れていこうとしなかったのだ。
言葉をつくして説得したがだめだった。 この件はすぐに日本大使館に報告され、
今日、私のところに次のような声明文が届けられた。
南京にはなお平服の中国兵 (便衣兵) がいる。
日本兵は、疑わしい人物はすべて撃つよう、命令されている。
それゆえ大使館員には日本人の衛兵がつきそい、保護することになっている……
おっと、ここで一言言わせてもらおう。
もし本当にまだ便衣兵がいたとしても、絶対に我々外国人に手出しはしない。
いまや我々が中国人を保護するために残ったのを知らないものはないからだ。
難民収容所を二月四日に強制的に解体する、との通達。
難民たちはいやおうなしに瓦礫
(がれき)
の町へ戻らなければならない。
帰るところがあろうがあるまいが知ったことか、というわけだ!
惨憺たることになるのは目に見えている。
だが、だからといって手の施しようがないのだ。
なんといおうと、権力を握っているのは日本軍なのだから。》
これは メッセージ 1446 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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戦争を好まない日本陸軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/09 18:54 投稿番号: [1447 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
229p
《 蒋介石は、九月二十四日、あらためて軍政部長何応欽に電令した。
「拠昨今形勢、日方己具一戦決心、務令京滬漢各地、立即準備一切、
厳密警戒、俾随時抗戦為要」
北京、上海、漢口で火ぶたがきられる可能性がある、臨戦態勢をとれ、との趣旨である。
そして、蒋介石は、とくに 「上海事変」 の再発をおそれ、
上海市長呉鉄城にたいしても、「積極戒備」 を下令した。
230〜231p
−
だが、
実際には、日本側の 「一戦決心」 には現実性がとぼしかった。
戦争となれば、当然に陸海軍の一致した
「決心」
が必要だが、
海軍とは逆に、陸軍の姿勢は消極的であったからである。
陸軍側は、上海の水兵射殺事件が発生する前日、九月二十二日、
参謀本部第一課長石原莞爾大佐が海軍軍令部第一課長福留繁大佐をたずね、
陸軍には
「全支作戦」
をおこなう意志はない旨を、きっぱりと通告していた。
二十六日の三省局長会議でも、豊田、磯谷両局長の間で次のような問答がかわされている。
豊田
「北支事態ガ重大ナルガ、 陸軍ノ腹
(ハ)
如何」
磯谷
「北支五省ヲ
満州国ノ延長トスルガ如キ
極端ナル事ヲ
考ヘヲルモノ、ナシ……」
豊田
「蒋介石
(ガ)
帰京セザル場合、如何スルカ」
磯谷
「一月デモ二月デモ待ツ。 其ノ際ハ国論モ ヤカマシクナルガ、
北支ニ対シ 既定方針ニテ進ム」
磯谷少将は、参謀本部と陸軍省の間に思想統一ができていない、
と陸軍の内情ももらした。
たとえば、派兵の目標にしても、参謀本部はやむを得なければ
「北支」
に
するというが、陸軍省は
「上海、南京」
をえらぶ。
陸軍省側の観察では、 「北支」
は中国の
「急所」
ではない、
しかし、南京を奪えば 「国民党部ハ解散シ
浙江財閥ハ
(蒋介石ニ)
離反ス」
るとみこまれるからである。
だが、いずれにせよ、意見不一致のままでは戦争はできない。
「用意ハ有ス。 (しかし)
兎モ角、出来ル丈
(だけ)
一兵モ使用シタクナシ」
磯谷少将は、あるいは自身の本意にはそぐわぬためか、やや憮然としながらも、
明確に陸軍の
「本音」
をつたえた。
蒋介石も、その
「本音」
は戦争回避である。
十月一日、軍事委員会弁公庁副主任劉光は、またしてもドイツ人軍事顧問団長
ファルケンハウゼン中将の献策を、伝達してきた。
漢口、上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権をにぎれ − と、いう。
蒋介石は、広州から南昌にうつっていたが、軍政部長何応欽の来訪をもとめて協議した。
軍政部長何応欽は、 「日中戦争」
はなお時期尚早である旨を詳述した。
*
ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将は日中戦争をけしかけていた。
つづく
これは メッセージ 1445 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1月27日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/09 18:45 投稿番号: [1446 / 2250]
一月二十七日
《・・・
ラジオ上海によると、フランス政府は、
ジャキノ神父にレジオンドメール勲章を授けることにしたそうだ。
われわれの経てきた道のり、十五人ものメンバーが力を合わせ、
艱難
(かんなん)
辛苦に耐えてようやく克服できた数々の困難を思うにつけ、
この人が、ひとりきりでそれを成し遂げたと思うと信じられない気がする。
叙勲も当然だ。
今日、午前中にローゼンと車で東部地区をまわった。家という家は軒並み
略奪されてがらんとしており、しかもそのほぼ三分の一が焼けていた。
たった今、背筋が寒くなるような知らせが舞いこんだ。鼓楼病院の責任者マッカラムが、
押し入ってきた二人の日本兵に銃剣で襲われ、喉をけがしたのだ。
幸い命には別状ないらしいが、これは実にゆゆしき事件だ。
ただちにアメリカと日本の政府に電報が打たれた。
またまた H がこまったことをしでかした!
パンチェン・ラマといえばダライ・ラマにつぐチベットの権威者だが、
そのラマの使用人から、H は素晴らしい車を二百ドルで買い取ったのだ。
いま自治委員会がこの車を買い取ろうとしているが、
H の言い値の千九百ドルではなく、たった六百ドルでといっている。
H が二百ドルで買ったのはわかっているからだ。 おまけに自治委員会は、
使用人には国民政府の財産である車を売る権利はないといってきた。
今後も闇取引をやめないようなら、
日本当局は H に赤恥をかかせてそのうちに南京から追放するだろう。》
(この後はラーベが妻にあてた手紙なので省略)
*
「ジャキノ神父にレジオンドメール勲章・・・ひとりで成し遂げた」
とんでもない勘違いだ。
ティンパーレ、松本重治氏、日高参事官、松井大将の協力があり、
仏軍・日本軍の協力があってできたもの。
南京を攻略した日本軍は、上海を解放した日本軍。
殆ど同じ人間。
同じ日本軍の占領下で、上海は上手く行き、南京は酷くなった。
その場合、科学的考察では、原因は日本軍ではなく、別の何かにあると見る。
これは メッセージ 1432 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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頻発するテロに戦争の危機迫る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/08 18:55 投稿番号: [1445 / 2250]
豊台事件の翌日、中支でも事件がおきました。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
227〜229p
《 十九日、漢口で日本総領事館勤務の巡査吉岡庭二郎が暗殺された。
吉岡巡査は、日本租界内の派出所付近で立番中、午前十一時五十分ごろ、
背後から近づいてきた犯人に後頭部を狙撃され、前のめりに二、三歩歩いて即死した。
状況を目撃していた露店タバコ商人によれば、暗殺者は
「年齢三十歳くらい、身長五尺五、六寸、頭髪は丸刈、顔は細面、眼は小さい」
男であったという。
白昼の殺人事件、しかも、制服着用の日本人警官が暗殺されたのである。
漢口に駐留する海軍第十一戦隊司令官日比野正治少将は、
すかさず指揮下の軍艦
『安宅』『熱海』
から陸戦隊員を上陸させ、
上海の第三艦隊司令長官及川古志郎中将も、声明した。
「反日行為の暴状は……満州事変勃発以前に過ぐるものあり、
全支における帝国臣民の生命財産の不安は甚しきものあり」
海軍は、佐世保特別陸戦隊員四百八十三人を漢口に急派するとともに、
次のような
「海軍省当局談」
を発表した。
「帝国海軍としては……事態斯 (か) くなる以上……或は自衛上必要の処置に
出づるの己 (や) むなきに至る場合を考慮し……手配を進むることとなったのである」
もはや戦争だ、戦争以外にはない
−
というのが、
ドイツ人軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将の論評であったが、
四日後、またしても上海でテロ事件が発起した。
九月二十三日午前八時二十分ごろ、第三艦隊旗艦
『出雲』
の乗組水兵四人が、
上海市共同租界の海寗路と呉淞
(ウースン)
路の交差点付近にさしかかると、
停車中のバスの背後から四、五人の中国人が拳銃を乱射してきた。
四人の水兵のうち、一人は無傷であったが、
二等水兵田港朝光は右胸部と左腕貫通銃創をうけて死亡し、
一等水兵八幡良胤、出利葉蔵巳はそれぞれ右上膊複雑骨折盲管銃創、
左右上膊貫通銃創をうけた。
三人は、付近の書店
『至誠堂』
にはこびこまれ、
田港二等水兵は、書棚にすがりつこうとしたが、さしのばした手に力は無く、
床にくずれおちて息絶えた。
上海海軍特別陸戦隊は非常配備につき、在郷軍人分会もその指揮下に編入された。
「適当なる自衛手段をとるほかなき次第と認める」
と、日本大使館が声明を発表すると、陸軍武官喜多誠一大佐も、記者団に語った。
「最後の一線に近づいたというほかは、ない」
蒋介石も
−
「日中戦争」を覚悟した。》
つづく
これは メッセージ 1443 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1月26〜27日 強姦事件調査
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/08 18:45 投稿番号: [1444 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165〜166p
《 この件は日本軍も重視した。
アリソンが小粉橋三二号にあった
「日本軍本部」
に無理に入ろうとして
歩哨が殴ったために、日米間の外交問題に発展したからである。
ベイツの一月二十七日付アリソン宛書信は、
「午後四時一五分現在、彼女が
『審問』
のため大使館に連れて行かれてから
約二五時間が経過しているのに、彼女についていまだなにも見かけていません」
(①166頁)
と書いている。
前日の二十六日午後八時、リッグズが日本大使館を訪れた時には審問はまだ続いていた。
午後十一時に逆に大使館から人がきて、彼女は一晩大使館に留まることを伝えた。
この時、リッグズやスマイスは、脅迫などによって
被害者が証言をひるがえさせられることを恐れていたらしい。
一月二十八日付の同様書信によれば、彼女は二十七日夜八時四十五分頃帰されてきた。
そこで、同行してきた大使館側の三人と女性、リッグズらの話し合いが行われ、
その内容が書かれている。
大使館では、強姦された部屋への階段、ランプ、入口の位置などの詳細を訊ね、
実際とは喰い違いが多いから、犯人が憲兵であるというのは嘘であると
断定したことがわかる。
しかし、リッグズらがこれに猛反論したことはいうまでもない。
特に憲兵といっても、白っぽい腕章に黒字でそう書かれた補助憲兵が多く、
彼らこそが問題の集団で、彼らがかなりの期間、この建物を使ってきた証拠を
ふんだんに持っており、この三日間は腕章を外しているようだが、
今後一切かかることをしないように、と主張したのである。
もっとも彼が
「憲兵」
という字を識別できたかどうかは疑問である。
何か漢字らしきものが書かれている腕章さえつけていれば、どんな男でも、
少なくとも
「補助憲兵」
であると認識したらしいことは間違いない。
日本大使館では、四、五人の兵を呼んで面通しをさせたが、
そのなかにはいなかったと女性は答えたという
(①170頁)。
『資料集』
では、ベイツのこの件についての手紙はなぜかここで切れている。》
注:
①は青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
174p
《 飯沼守日記
〈 一月二十七日
小山憲兵隊長、堀川新分隊長来リ、天野中尉調査ノ概要ヲ聞ク。〉
(偕行社編纂
『南京戦史資料集』
242頁)》
これは メッセージ 1442 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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豊台事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:55 投稿番号: [1443 / 2250]
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
40〜41p
《 馮治安は河北省の出身で、当年四十四歳、馮玉祥の旧部下ではあったけれど、
抗日の鼻息荒く、する事なす事、宋の意に反するところが多かった。
そこで遠く手離しておくと、何を仕出かすかわからないというので、
一番手近な北京周辺の要地に配してあった。
ある日私が万寿山の方に車をとばせて行くと、
ちょうど西宛の兵営から出て来た馮治安の部隊、歩兵の一ヶ連が私の車とすれ違った。
この時、彼等が歌っていた軍歌は
打倒日本
打倒日本
除軍閥
除軍閥
努力革命成功
努力革命成功
去奮闘
去奮闘
というのだった。この歌詞はもともとは、打倒列強
打倒列強
というのだが、
三十七師はそれをわざわざ打倒日本と置き換えて歌わせていた。
黒塗り厳めしい西苑の兵営は、昔、独逸人技師の設計監督の下に建てられた
という事だが、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、
さきに梅津・何応欽協定で華北から逐
(お)
われた、二十五師長関麟徴なども、
しばしばここに姿を現わして兵を煽動し、
また中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗して
この方面に顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。
師長馮治安が徹底的に日本嫌いな男であってみれば、
上の行なうところ下これに倣
(なら)うのも、またやむを得ないところではある。
話は少々遡
(さかのぼ)
るが、昭和十一年九月十八日、豊台事件というのが勃発した。
満州事変柳条溝の一発から、満五年の記念日である。
こういう日には日華双方、お互いが余程気をつけ慎み合わないと、
とかく不慮のゴタゴタを引き起しがちである。
この日の夕刻、豊台駐屯一木大隊の一ケ中隊が、駅前近くを通りかかったところ、
折りから演習帰りの中国軍一ケ連とすれ違った。
ところが中国兵の一人が、穂積中隊最後尾の兵を、
故意に路外に押し出すような行動をとった。
部隊の後から乗馬でやって来た年少血気の小岩井光夫中尉、
やにわに中国兵の群に躍り込んで連長に対し、鋭く彼の不法を難詰した。
中国兵の一人が小岩井中尉の馬の尻をたたき、馬が驚いて跳ね上った。
中国兵は即座に銃に弾を込め、自分達の兵営の前に散開して、
対応の姿勢をとったので、日本軍も直ちにこれと相対峙
(たいじ)
し、
睨
(にら)
み合いの態勢に移った。
北京から特務機関の浜田補佐官や桜井徳太郎軍事顧問がとんで来た。
もちろん牟田口廉也連隊長もやってくるし、
中国側の副師長許長林少将や外交専員林耕宇などもかけつけて来た。
河辺旅団長が即刻、隷下日本軍に発砲禁止を命じたので、彼我の交渉は、
その翌日の明け方まで続けられたが
両軍干戈を交えるまでには立ち至らず、
結局中国側の陳謝と、関係者の処罰、ならびに中国軍部隊の豊台撤去を条件として、
一応この問題に終止符が打たれた。》
これは メッセージ 1441 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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アリソン事件証言の食い違い
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:45 投稿番号: [1442 / 2250]
アリソン殴打事件に関する、三つの記述を紹介しましたが、
その被害者に関する記述がそれぞれ異なっているように見えます。
タイムズ
被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる
建物にいた難民。
笠原解説
金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。
飯沼日記
米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃日本兵来リ、
留守店ヲ銃剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行
さて、この事件には前段階があります。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165p
《 ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、
朝十時半、小粉橋三号の小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、
好きなように各部屋を捜索していたが、見つけられてほぼ向かいの
小粉橋三二号の本部へ入ってゆくのを観察した (①157頁) 旨が書かれている。
この後に、大問題になった
「アリソン殴打事件」
が起きるのである。
一月二十五日、ベイツは二通の手紙をアリソンに送って、
この事件のきっかけとなった日本兵による婦人強姦事件を説明している。
それを要約すれば、一月二十四日午後十一時、白っぽい腕章をした日本兵が
胡家菜園の金陵大学農機具店に押入り、店員を銃で脅し、
彼らは婦人一人を連行して強姦し、二時間後に釈放した。
犯人は白い腕章から判断される特務兵ではなく、恐らく憲兵の仕業と思われる(①161頁)
と記す。そして、追伸として、被害者の婦人を伴ってリッグズと共に調査したところ、
慎重に五回もチェックした結果、
「問題の建物は小粉橋三二号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした」(①162頁)と
特定したことをアリソンに報告したのである。》
ところが、あとで、とんでもない事実を明かしています。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
167p
《 『南京事件資料集①』
に、ティンパレーとベイツの間に交わされた
『戦争とは何か』
の出版をめぐる往復書簡
(352〜376頁)
が掲載されている。
・・・
その中の三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に
次のような一節がある。
資料名
「E八八 − 一〇〇」
についての注意である。
〈 もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。
彼らは、たびたび私たちを困らせました。
アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。
殴打事件は彼らの巣窟で起きたのですが、
そこは、かつてバックが展示会をした語学学校
(小桃園)
の反対側のところです。
その語学学校では、一、二度君とも会ったことがあります。〉
*
天野中尉がいたのは
「小粉橋三二号」、ベイツの言う贋憲兵は
「小粉橋三八号」
要するに、略奪や強姦をやっていたのは
「小粉橋三八号の贋憲兵」
だと
言っているのです。
しかして、調査に突入したのは
「日本軍兵舎」
だから、殴られたわけです。
やっと彼らも、撹乱する贋日本兵がいることに気づき始めたようです。
これは メッセージ 1440 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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梅津・何応欽協定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:56 投稿番号: [1441 / 2250]
満洲事変のあと、中国はテロ行為だけでなく満洲への再侵略も執拗に試みていました。
そのため、日本側は対応を迫られます。
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
昭和45年発行
19p
《 前年
(昭和9年)
十一月、彼
(宋哲元)
の部下、馮治安
(ひょうちあん)
の
部隊が突如、熱河省を侵犯し、大灘
(だいなん)
西方二十キロ、
断木梁という部落に進出して来た。 》
21〜22p
《 この年
(昭和10年)
の四月、・・・、五月三日、天津の日本租界で、
国権報の社長胡恩傅
(こおんふ)
と、振報社長白逾桓
(はくゆかん)
の
二人の親日分子が白昼何者かに襲撃され命をおとした。
こえて五月二十四日には、孫永勤という抗日匪軍が熱河を犯し、
続いて非武装地帯に侵入するという新たな事態が引き起された。
このところ華北の空気はめまぐるしいまでに物情騒然、混沌模糊として、
不安な日が続くようになった。
由来、天津軍本来の任務は、北京、山海関間の鉄道の保全、
ならびにこの間に在住する居留民の保護にあったが、
現状ではこの任務さえも、とかくおびやかされがちだった。
− こんな事では全く困る。華北の明朗化を妨げるやからは、
この際抜本的に荒療治してしまうんだな。−
気の早い酒井参謀長は、起案紙に一気呵成、華北粛清対策案をなぐり書きした。
これが梅津・何応欽協定の骨子となったのであるが、その内容は概ね次の通りである。
通
告
一、
最近華北に頻発しつつある排日侮日の諸現象は、方
(ひと)
しく
塘沽
(タンクー)
協定の破壊行為たると共に、
また北清事変議定書の精神をも蹂躙するものなり。
我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基き、
今後自衛上必要と信ずる行動に出づる事あるを通告す。
二、
これを未然に解決せんがため、左記各項の即時実行を要求す。
イ
軍事委員会北京分会、憲兵第三団、国民党部、政治訓練所、
藍衣社
(らんいしゃ)
等の一律華北退去。
ロ
黄杰
(おうけつ)
の第二師、関麟徴
(かんりんちょう)
の
第二十五師等、中央直系諸軍の華北撤退。
ハ
河北省政府主席于学忠、憲兵第三団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の
罷免ないし処罰。
ニ
排日侮日行為徹底取締りの確約。
以
上 》
そして、6月28日、断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
土肥原少将が新たに
《 京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する 》
という協定を秦徳純に結ばせました。
これが土肥原・秦徳純協定です。
*
善人心の人達は、『梅津・何応欽協定』 や 『土肥原・秦徳純協定』 を
押しつけた事を非難しますが、なぜ、そうなったのを見ようとはしません。
これは メッセージ 1439 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1月26日 アリソン殴打事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:46 投稿番号: [1440 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
173〜174p
《 偕行社編纂の
『南京戦史資料集』
に収められている
当時の上海派遣軍参謀長、陸軍少将飯沼守の日記に、
アリソン殴打事件に関連すると思われる記述が見える。
〈 一月二十六日、本夕本郷少佐ノ報告。
米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃 日本兵来リ、
留守店ヲ鉄剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行強姦ノ上
二時間程シテ帰レリ、
依 (よっ) テ訴ヘニ依リ
其
(その)
強姦サレタリト
云フ家ヲ
確メタルトコロ
天野中隊長
及
兵十数名ノ宿泊セル所
ナルヲ以テ、
其屋内ヲ調査セントシタルニ
米人二人亦
(また)
入ラントシ、
天野ハ兵ヲ武装集合セシメ
逆ニ 米人ヲ殴打シ追ヒ出セリ、
其知ラセニ依リ
本郷参謀現場ニ到リ、
中隊長ノ部屋ニ
入ラントシタルモ
容易ニ入レズ、
隣室ニハ
支那女三、四名在リテ
天野ノ部屋ニ入レバ
女ト同衾シアリシモノノ如ク、
女モ寝台上ヨリ 出テ来レリト、
依テ中隊長ヲ 訊問シタルニ
中隊長ハ其権限ヲ以テ
交ル女ヲ連レ来リ
金ヲ与へテ 兵ニモ姦淫セシメ居レリ
トノコト、依テ憲兵隊長小山中佐 及 33〔i〕(引用者註・iは歩兵)
第二大隊長ヲ呼ヒ
明朝ノ出発ヲ延期セシメ
大隊長ノ取調ニ引続キ
憲兵ニテ調ブルコトトセリ。〉(同書242頁)》
注 : 同書とは
青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
*
飯沼日記から見るに、ここにいる女性は売春婦のように見え、
とても連行されて強姦されている様には見えない。
それでも、日本側は天野らを処罰した。
これは メッセージ 1438 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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満州再侵略への反撃から塘沽停戦協定へ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/05 15:29 投稿番号: [1439 / 2250]
昭和7年7月17日午後1時ごろ、
満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が
両省の境に近い南領〜朝陽寺間にさしかかった所、
一隊の武装兵が停車を命じ、乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。
犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。
熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。
満州を追われた張学良は、
4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。
関東軍は昭和 8 年熱河作戦を行い、
結果、本来の満州の領域である熱河省の回収に成功しました。
この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。
ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、
結局、長城の南にも行かざるを得なくなります。
その時、関東軍は、天津・北平
(北京)
に迫る勢いを見せます。
これは不都合だからやめさせなければなりません。
長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、
南に行くと侵略とすり替えられ、防衛の主張が通らなくなります。
だから止めなければならないのです。
ところが現場が止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、
関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。
だから “もっと遠くへ” とやっている内に、こうなったわけです。
しかしこれでは際限がありません。
そこで “ 中国軍が二度と満州を侵略できないようにと
《 北京北方から密雲以東、長城線から約五〜六十キロの深さの河北省 》
を非武装地帯にする ” という
塘沽停戦協定を中国に結ばせて、関東軍は長城の北に引き揚げました。
(児島襄著
『日中戦争』
文春文庫
2巻287p〜3巻106p 要約)
これにて、満州事変は終了します。しかし中国側は納まりません。
つねに満州再侵略を試み、また中国国内で排日運動を激化させます。
つづく
これは メッセージ 1437 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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共産党の策動3 コミンテルンの決議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:53 投稿番号: [1462 / 2250]
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
59〜60p
《 一九三五年八月モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で演説したとき、
ディミートロフは中国における日本の帝国主義を非難して次のように言った。
「中国では人民運動を通して広大な地域がソビエト化され、強力な紅軍が組織された。
しかし日本帝国主義の獰猛な侵略と南京政府の裏切り行為によって、
中国民族の国家的存続は危機にさらされている。
現時点において中国のソビエト地区のみが全ての反帝国主義勢力のための結集点となり、
中国を奴隷化し分割しようとする帝国主義列強諸国の野望と戦うことが出来、
さらに民族紛争に苦しんでいる中国人を助けることが出来る。
それ故我々は満場一致で中国共産党の次の提案を支持する。
すなわち、国土の保全と人民解放のために戦うべく準備された
中国内に現存する全ての軍隊と組織をまとめることによって、
日本及び中国人の裏切り者に対する広範囲の統一反帝国主義戦線を
打ち立てようという提案を。
数多くの戦いの試練を経てきた英雄的な中国紅軍に対して、
我々は心からの熱列な挨拶を送る。
そして我々は中国人民に次のことを保証する。
すなわち、全ての帝国主義的で獰猛な列強諸国と
その中国人の傀儡の支配から中国国民を解放する戦いにおいて、
我々は彼らを援助する決心がしっかり固まっているのであると」
この見解に従って、コミンテルンの会議は次の決議を採択した。
中国においては、ソビエト運動の拡大と紅軍の戦闘力の確立は、
帝国主義に対する全国規模の人民運動としての統一計画と調和させなければならない。
この運動はそのスローガンとして、これは帝国主義的圧迫
(とりわけ日本帝国主義とその中国人傀儡) に対する戦いであるという
考え方を掲げることによって、最もうまく行われるだろう。
ソビエト地区は、解放戦争を戦っている全中国人民の結集点とならねばならない。
帝国主義諸国のプロレタリアの人々は、
帝国主義の侵略者に対して戦っている植民地及び半植民地の人民に対して
援助の手を差し伸べなければならない」》
つづく
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1月30日 天野中尉軍法会議に送致
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:46 投稿番号: [1461 / 2250]
アリソン事件の続き
飯沼守日記
◇一月三十日
曇
天野中尉以下十二名軍法会議に送致。
(『南京戦史資料集』
P244)
*
天野中尉らは売春婦を買っただけなのに、狡猾な中国人の讒言により、
女性を連行・強姦した様にされてしまいました。
事情を知らない外国人達の訴えで、
日本軍も立場上軍法会議に掛けざるを得なくなったようです。
しかし、日本が善意で譲歩しても、それは逆効果しかもたらさないでしょう。
「本当に悪い事をしたから裁かれたのだ。」
「これは氷山の一角に過ぎない。
これで、お茶を濁す気か。」
と言われるだけですから。
現在、日本の
「善人でありたいと願う」
人達が、一生懸命譲歩して、
中韓様のご機嫌をとっても、
次から次へと難癖をつけられ
「反省が足らない」
と言われているように。
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共産党の策動2 五・三〇事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:41 投稿番号: [1460 / 2250]
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
54〜55p
《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。
その年の五月三〇日、数万の中国人学生が、
日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで混成法廷
(外国人の裁判官に監督された中国人の法廷) から有罪宣告を受けた
五人の学生に同情して、街路を行進した。
これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。
彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。
彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。
彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、
国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。
この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、
上海警察に押収された。
この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、
モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが
完全に証明された。》
*
この二年後に、第二次南京事件 (No.1291〜1348で書いた) が起こります。
これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、この流れから行くと
多分そうかも知れません。
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夏淑琴事件の疑問点
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:36 投稿番号: [1459 / 2250]
マギーが聞いた所の話が事実なら悲惨なことです。
ただ、この話には、不審な点がいくつかあります。
「1月29日のラーベの日記」
では、
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。
親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。
近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいた」
となっていました。
これだけを読めば、少女の家族が殺されたのは
「1月の15日」
かと思えますが、
仔細に話をうかがうと12月13日なのですね。
少女らを発見して、どうして一カ月以上も報告しなかったのでしょうか?
死体も何もかも片づけて、一カ月も経った後から見に行っても、よく判らないでしょう。
また、ラーベの日記では、 「親族は十一人」
となっているのに、
case 219では
「a family 十三人のうち十一人が殺され」
と変化し、
『南京難民区の百日』
では
「十三名を殺害した」
となっています。
戦後60年過ぎての証言なら、ボケて勘違いと言う事もあるでしょうが、
これは事件からそう月日の経たない時の証言です。
そして、事件は13日、場所は東南部です。
ここは激戦地区です。城門の外では戦闘があり、大砲の弾が城内に飛び込んで
来ていました。殆どの人が、安全区に避難しているのに、
この家族だけ、なぜ、そんな危険な所に留まっていたのでしょうか?
ドイツ大使館公文書綴によると、日本兵はドアを開けさせ、
いきなり
「マアを拳銃で殺した」
となっています。
しかしながらが、日本の陸軍歩兵は拳銃を持っていません。
将校は持っていますが、これは軍支給ではなく自前ですので、
弾薬の補給ができませんから、むやみには撃てません。
だから、非武装の市民を拳銃で撃つ、などという事は基本的にあり得ない事です。
次に、
「この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。」
とありますが、南京は断水していたはずです。
おまけに、 「兵士たちthe soldiersは毎日この家に物を取るためやって来た」
とあります。
日本兵が一番必要としたのは食糧です。
彼らは毎日、物を取りにやってきていながら、どうして米に気づかなかったのでしょうか?
ドイツ人の店など荒らされて、食糧が奪われたと、ラーベは言っていました。
二人の少女は、 「シーツの下に隠れて発見されなかった」
と言いますが、
兵隊が気づかぬ筈はありません。
そんな間抜けだったら、彼らはとっくにゲリラに殺されています。
それは、いいとしても、日本兵は食糧を全部持って行くだろうし、
水も14日は持たないから
「米をふかす」
など無理では?
おまけに火を焚けば、日本兵に見つかります。
証言通りの残忍な日本兵なら、すぐ殺されたでしょう。
その他にも、『南京への道』・「マギーの遺言」・「来日での証言」・
「許伝音の証言」
などで、証言が、それぞれ異なっています。
どれが、本当なのでしょう?
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共産党の策動2 五・三〇事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:53 投稿番号: [1458 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』
NHK取材班編
角川文庫
90p
《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、
二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。
中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、
合理化によって利潤の増大をはかろうとした。
と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、
管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。
こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、
四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。
五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、
ストライキ中の労働者と工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者
顧正紅が射殺されたほか、中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。
これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ
反日運動に発展していった。
五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、
共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。
これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、
死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。
93p
この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。
一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、全上海にゼネストを指令した。
学生・労働者のほかに、民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。
闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、
香港の労働者もこれに足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。
上海のゼネストは、八月末まで続いた。
中国側の発表によれば、この闘いに参加した労働者・学生・農民は、
少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》
*
労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。
つづく
これは メッセージ 1456 (kireigotowadame さん)への返信です.
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夏淑琴事件2 別の証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:45 投稿番号: [1457 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
より
240p
事例二一九 (case 219) で語った、マギーの夏淑琴事件
《ジョン・マギー氏が説明してもらったところによれば、
十二月十三日から十四日にかけて、城南のある家族 a family 十三人のうち
十一人が日本兵に殺され、女たちは強姦されて手足を切断された。
この話は生き残った二人の小さな子供が語った。(マギー)》
括弧のなかにマギーという名前が見える。それはマギーが聞き書きしたことを意味する。
247p
『南京難民区の百日』 に出てくる、夏淑琴がマギーに語った話。
《日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。
日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子供を残して
その家にいた者全員、十三名を殺害した。》
248〜249p
本多勝一 『南京への道』 に出てくる夏淑琴の話
事件が発生したのは十二月十三日の
「朝九時ごろ」
であった。
夏淑琴は、恐怖のあまり叫び声をあげた途端、体の三ケ所を銃剣で刺され、気絶した。
やがて息を吹き返した夏淑琴は、妹と、 「家主の内庭にある防空壕」 の方へ行った。
防空壕といっても地下壕のような地下の穴ではなく、内庭の上に
「頑丈な机を四個ならべて上に戸板をのせ、下に干し草を敷いた」
ほどの
ものであった。その机の前に行くと、母と赤子の死体があった。
日中は怖いので
「机の下」
からほとんど出なかった。
水は共同炊事場の大きな水ガメから、箱を踏み台にして、
「重傷」
ながらも、水を汲んで飲んだ……。
249 p
「マギーの遺言」
に登場する夏淑琴
インターネット上で、 「マギーの遺言」
を見ていると、
そこにマギーの撮影したフィルムが映し出された後、夏淑琴が登場する。
そして、次のように語る。
《新路口五番地
それは私が住んでいたところです。
日本兵たちは父を追いかけ回し、後から撃ち殺したんです。
彼らは隣の家に住んでいた二人の両親と子供も殺しました……。》
250p
夏淑琴来日での証言
戦争犠牲者を心に刻む会編
『南京大虐殺と原爆』 に出ている夏淑琴の証言によれば、
同じ敷地内に住む十五人のうち、日本軍にたいして家の扉を開けた夏淑琴の父
(即ちシア)
が
殺されたのを皮切りに、夏淑琴の六十歳を過ぎた祖父母と、
十五歳、十三歳の二人の姉を含めた十三人までが殺されたが、
当時八歳であった夏淑琴と四歳の妹が助かって、二人は事件から一週間後に
死体を収容しに来た人たちに発見された、と言うのであった。
250p
許伝音の証言
許伝音が戦後、東京裁判に出廷した。
そして、先の現場を、マギーと一緒に見に行ったと語った。・・・
許伝音は、〈十七歳
(十六歳の間違い)
と十四歳の少女の死体が
「テーブルノ上ノ血ノ海ノ中」
と
「ベッドノ血ノ中」
に横たわっていた〉
と証言した。
これは メッセージ 1455 (kireigotowadame さん)への返信です.
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共産党の策動1 ソ連の反日工作
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:52 投稿番号: [1456 / 2250]
蒋介石は一応、釈放され、建前としては、取引は無かったとされていますが、
共産党への攻撃は停止され、劉少奇などが西苑の兵営などに出入りして
いますから、やはり何か取引があったのでしょう。
ところで、共産党の元締めソ連は、中国に対して早くから工作をしていました。
日露戦争に敗けた事で、ロシアでは帝国の力が弱まり、
それが革命へと導かれ、ソビエト社会主義共和国連邦が出来ました。
ソ連は中国に、反日をさせるよう画策します。
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
58〜59p
《 中山大学は中国人の学生を勧誘するために一九二五年一月、モスクワに設立された。
・・・この学校は中国人の入学だけを認めており、男女共学である。
在学中、学生たちは個人的な出費を含む必要経費を全て支給される。
一九二五年に第一回卒業生一五五名を出した。カリキュラムは東方大学と似ている。
テキストはロシア語と中国語の両方で使用されている。
現在の教授陣は約五〇名のロシア人と二五名の中国人から成る。
一九二八年以降、登録された学生数は年によって異なるが、
大体年間四百名から五百名といったところである。
さらにまた、中国人はソ連の軍事関係の学校、例えば赤軍陸軍大学、
歩兵士官学校、高級空軍学校などへの入学を許されている。
赤軍陸軍大学には一五名の中国人、高級空軍学校には二〇名の中国人、
歩兵士官学校には一二〇名の中国人と朝鮮人が在籍している。
このようにして学生と兵士双方合わせて毎年数百名の共産主義者たちが祖国へ
送り返され、そこで彼らはコミンテルンとその現地工作員の指示の下に働くのである。
中国の広大な地域が次々に共産化していったとしても何の不思議があろうか。
アジア経由で共産革命をヨーロッパへ導入するというレーニンの夢は実現するかも知れない。
日本は中国の目の前の隣国として、
他の資本主義諸国よりもはるかに鋭くその危険を察知している。
コミンテルンが中国人の間で宣伝工作活動を推し進める目的のために、
反日運動に共産主義の要素を付け加えた時 (ちょうど一九二五〜二七年にかけての
反英運動に共産主義の要素を付け足した時のように)、
この日本の恐怖感はさらに一段と大きなものになった。》
『魔都上海十万の日本人』
NHK取材班編
角川文庫
86〜87p
《 共産党は、一九二五年、労働組合の全国組織である中華全国総工会を設立するが、
上海にはそれより早く、一九二二年の共産党成立のころから、
中国労働組合書記部を設けて労働者の組織化を進めていた。
また、この年、労働者に対する教育工作を強化するため、上海大学が開校された。
・・・
末端の労働者に対する大衆工作にも力が注がれた。
その結果、上海の大小の工場には共産党の組織が網の目のように張りめぐらされ、
内外綿工場などの日本企業にも、共産党の細胞組織が設立されたのである。》
つづく
これは メッセージ 1454 (kireigotowadame さん)への返信です.
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夏淑琴事件1 マギーの説明文
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:44 投稿番号: [1455 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
240〜242p
〈 この事件にかんするマギーのもう一つの記録が、ドイツ大使館のローゼンの手にも渡った。
各種の
「事件」
にかんするマギーの説明文
(英文七枚)
と、
マギー自身の撮影になるフィルム四本とを、本国外務省へ送付するよう、
ローゼンは南京から上海のドイツ大使館に依頼している。
それは
(マギーが八歳の少女を発見した一月二十九日から約十日後の)
昭和十三年二月十日のことであった。
そこで右の
「事件」
にかんするマギーの説明文を、
南京ドイツ大使館公文書綴
「日支紛争」
から全訳する
《 十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、
中に入れるよう要求した。
玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。
すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、
マアの死体に脆
(ひざまづ)
いて頼むシアさん Mr. Hsia をも殺した。
なぜ夫を殺したのかとマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。
シアの妻は一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、
そこから引きずり出された。
そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、
銃剣で胸を刺されて殺された。
その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。
それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには、シアの妻の七十六歳と
七十四歳になる両親、それに十六歳と十四歳になるシアの娘がいた。
この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、祖母が娘を守ろうとして
拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。
それから、二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、
下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。
下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。
それから、兵士たちはもう一人の七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。
同じくその部屋にいたからである。
この家の最後の殺人は四歳と二歳になるマアの二人の子供 children (筆者註・性別不明)の
殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。
その八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある
隣の部屋に這 (は) って行った。
無傷で逃げおおせた四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、
この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。
写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、
詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって、
確認と訂正ができた。
兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、
二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この人歳の少女は語った。
このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。
それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性 the old woman が近所に戻って、
二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋
an open space where the bodies had been taken afterwards に、
写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。
彼女や、シアさんの弟 (または兄) Mrs. Hsia’s brother と、
この小さな女の子にたいする質問を通じて、
恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。》
つづく
これは メッセージ 1453 (kireigotowadame さん)への返信です.
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西安事件3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:45 投稿番号: [1454 / 2250]
焦った張学良は蒋介石を監禁して、
共産党討伐をやめ、共産党と手を組んで、日本と戦争するよう要求しました。
その具体的内容は以下の通り。
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
59
《
八項目の主張とは次のとおりです。
(1)南京政府を改造し、各党各派の参加を許し、ともに救国の責任を負わしめよ。
(2)すべての内戦を停止せよ。
(3)上海で逮捕された愛国運動の指導者をただちに釈放せよ。
(4)全国のすべての政治犯を釈放せよ。
(5)人民の集会・結社等すべての政治的自由を保障せよ。
(6)民衆の愛国運動を公認せよ。
(7)孫総理の遺嘱を確実に遵守せよ。
(8)ただちに救国会議を召集せよ」》
しかし、蒋介石は応じず、
56〜57p
《
蒋
「まだ、私を委員長と呼ぶか?
上官と認めるなら、命令に従って
洛陽に送り還せ。さもなければ、君は反逆者、私は反逆者の捕虜だ。
即座に銃殺しろ。他にいうべきことなどありはしない」
張
「委員長がわれわれの意見を受諾されるなら、もちろん命令に従います」
蒋
「君は、いったい、私の部下なのか敵なのか?……敵ならばただちに私を殺せ。
二つに一つ、ほかに何もいう必要はない。私は何をいわれても聞く耳を持たぬぞ」》
と突っぱねた。
ここに周恩来がやって来、宋美齢もやってきた。
そして宋美齢は周恩来と会い、蒋介石も周恩来と会っている。
66p
《 宋美齢の
「回想録」
によると、彼女は二十三日には二時間、
また二十四日にも、周恩来と会談をしている。
張学良が頼んでも蒋介石が会いたくないといっている人だといって、
張は彼女に周思来を紹介している。
宋美齢は、周恩来に意外にも好感をもったようで、宋美齢の斡旋で、
周恩来は蒋介石に短時間会ったようである。
周は、蒋に対し、蒋介石領導での一致抗日、そのための内戦停止を簡潔に述べたが、
蒋としては、説得される必要は全然なかった。
それで、口頭で、
「統一戦線を約束したようであり、周恩来と
『再び共に仕事を』
したい」
(ハン・スーイン著
『毛沢東』
松岡洋子訳二五三ページ)
と、
いとも簡単な挨拶をしたというのが、ことばどおりではないにしても、
おそらく真相に近かろうと思われる。》
どういう取引が有ったか分かりませんが、ともかく、蒋介石は釈放されました。
そして、以後共産党の討伐は行われていません。
これは メッセージ 1452 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月29日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:32 投稿番号: [1453 / 2250]
《 プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝九時にピー号で出発した。
私の日記帳もお供した。フィッチが近いうちに戻れるなどと、だれも信じてはいない。
日本人との緊張感は日増しに高まっている。
委員会を解散して、新たに救援委員会を組織し、
新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。
目下真剣に検討しているところだ。
日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。
委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。
それにむこうが同意するかどうかもまったくわからないのだから。
ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。
時機を逸してしまったのではないだろうか。
そうかといって、脅した通り、
日本軍が二月四日に難民を強制的に立ちのかせて収容所に入れ、
この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。
ドイツ大使館は日本軍から覚え書を受け取った。
そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、
二月四日に収容所を閉鎖するように、とあった。
私は会議を開いて、それぞれの大使館につぎのことを確認、
ないしは調べてもらうことにした。
一、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも
難民を立ちのかせることができるのか?
(収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。
ジーメンス・キャンプといわれるラーベの収容所もその対象になる。
ドイツ人の庭にあるからだ)
二、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?
三、我々の立場を明らかにするまで、
各大使館に本件に関する日本側の返事を待ってもらいたい。
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。
親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。
近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。
姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。
*
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた」
これは、有名な夏淑琴の話に関係しますので、次は夏淑琴の話をとりあげます。
これは メッセージ 1448 (kireigotowadame さん)への返信です.
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西安事件2 張学良のあせり
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 14:06 投稿番号: [1452 / 2250]
蒋介石は張学良が共産党と接触している事を知っていた。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
251p
《 蒋介石は、既述したように、
張学良の不穏な動きについての情報を耳にしていたわけであるが、
十二月七日、華清池を訪れた
『大公報』
紙主筆張季鸞との間に、
次のような問答をかわしている。
「請問ニイ們在延安的記者、最近有什麼重要消息マー?」
(貴社の延安駐在の記者から、最近なにか重要なニュースは入らないか?)
「謡言很多、但是他不相信這些無稽之談」
(デマは多い、信用できぬ話ばかりです)
「ニイ所謂謡言、是否己聴到了張漢卿
(学良)
輿共産党在廷安面商擁護中央、
一致抗日的消息マー?」
(そのいわゆるデマの中に、張学良が延安で共産党と中央の擁護、
一致抗日を交渉した話はふくまれていないか?)
「是的」
(あります)
この問答は、張学良・周恩来秘密会談が、すでに蒋介石の情報網に
キャッチされていたのみならず、一般にも知られていたことを告げている。》
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
53p
《 中共により、紅軍により、また救国会の運動により、学生運動により、
旧東北軍や西北軍が、約一年前からの
「内戦停止」 「一致抗日」
「中国人は中国人と戦わない」
などのスロ−ガンと、
その魅力あるアッピールのために、それほどまでにも
(張学良が)
「洗脳」
されていたとは、蒋はそのときまで全然知らなかった。
それで張季鸞の報告と忠言に耳を傾けた蒋介石は、ただちに、
第六次
「剿匪」
事業の作戦を根本的に練り直す必要を感じた。
「剿匪」
事業のためには、東北軍も西北軍もすでにつかいものにならぬと
感じたからであった。》
53〜54p
《 十二月九日になると、西安の学生たちは、一二・九記念デモをやり、
「内戦停止」 「一致抗日」
の要求書を、蒋介石に親しく会って手渡しするため、
華清池に向って出発した。間もなく、警察の発砲によって、
デモ隊、とくに年少学生に負傷者が出たので、学生たちは非常に激昂した。
張学良は、それを聞いて駈けつけ、
やっとのことでデモ隊を思いとどまらせ、市内に引き返させた。
その夜、張は華清他に行き、蒋に面会を求めて、学生に代り、その衷情を訴えたが、
逆に蒋からは、頭から叱られてしまった。
張は、 「極度の衝撃を受けた」
と
「懺悔録」
に書いている。
翌十日には、張は、前夜、学生に語ったように、蒋に面を冒して自己の所信を
述べるため、ふたたび蒋に会見を求め、 「内戦停止」 「一致抗日」
の立場から、
蒋の掃討計画に疑問を強硬に表明したが、にべなく拒否され、ふたたび蒋から叱正を受けた。
そればかりではない。西安綏靖主任たる楊虎城はまだしも、
いやしくも西北
「剿匪」
副司令たる張学良にとって、
「数回の軍事会議に ― これは張の思い過しでもあったが ― 召集されなかった」
ことは、異常のショックであった。
張の
「懺悔録」によれば、「それは、私
(張)
と楊虎城に疑惑と不安を抱かせた。》
*
ここで明らかなように、対日戦争を望んでいたのは、
中国の学生たちであり、張学良だった。
これは メッセージ 1449 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月29日 アリソン殴打事件つづき
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 13:38 投稿番号: [1451 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
168p
《 一月二十九日、駐日アメリカ大使グルーは、
外務次官堀之内との会談において、被害女性はリッグズとベイツに対し、
連れてゆかれたところは以前カトリック司祭が住んでいた家で、
現在は日本兵が占領しているところである、と証言した。
174p
飯沼守日記
〈一月二十九日
小山憲兵隊長来リ
天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、
事件送致ニ就キ
軍ノ意向ヲ聞ク、
依
(よっ)
テ中尉以下同宿ノ者
全部ヲ送致スベキヲ希望シ、
殿下ニモ報告セリ。〉
〈天野中尉出発ヲ差止メラレ
何トカ穏便ノ取計ヒヲ
トテ来リシモ、
男ラシク処理セヨト
諭シテ帰ヘス〉
(偕行社編纂
『南京戦史資料集』
243頁)》
*
第16師団は南京から出て行かなければならないが、
天野中尉以下の者は出発を差し止められたため、哀願したもよう。
しかし、状況証拠から見て、彼らは、女性を連行強姦したというよりも、
売春婦を買っただけに見える。
「買春」
を
「女性の強制連行強姦」
として外国人に訴え、
事件にする、中国人の狡猾なやり方には舌を巻く。
そして、これに騙される善人の如何に多いことか。
これは メッセージ 1444 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国人は野蛮人
投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2012/02/11 09:05 投稿番号: [1450 / 2250]
中国人は長い歴史を誇るが、確かに何千年の時間的歴史は存在した。
しかし、彼らは過去から何千年も同じことの繰り返しで進歩は全くなかった。
漢の時代から何代もの王朝の交代を繰り返し漢人王朝あり、胡人王朝あり、時に応じて征服されたり征服仕返したりで、王朝は変わってもその仕組みや政治手法は何ら変わりなく、国民は一部の貴族と奴隷的被搾取階級だけだ。
それが延々と20世紀半ばまで続き、文化・文明的には世界一遅れた国である。
彼らは口を開けば大中華は世界の中心で云々と自慢するが、毛沢東の文化大革命も人殺しに終わっただけで、結局、自分たちでは何ら成長できずにその後の改革開放政策に依って、外国資本、外国技術によってようやく成長経済を手に入れたのだ。
しかし、経済的に一部の国民が裕福になっても、短い期間に長く続いた中華思想から脱却できるわけはない。
変化した華夷秩序は裕福な人間は貧しい人間を見下し、他に対して必要以上の優越意識を持って他をバカにする。
一の事実は数人の口を経るたびに数百倍、数千倍に脹れあがり嘘を言うのが偉いと思っている民族である。
思いやり民族の日本人と、人を人とも思わない漢民族が表向きは兎も角、心から仲良くなどなれる訳がない。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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西安事件1 張学良共産党と接触
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:50 投稿番号: [1449 / 2250]
蒋介石は日本が戦争する意思はない事を知って安心して、共産党退治に乗り出しました。
内側に叛乱分子を抱えていては対日戦争などできませんから。
そこで、張学良を西北剿匪副総司令に任命し、
西安へ共産党討伐に行かせますが、張学良はこれに不満でした。
彼の望みは、対日戦争でしたから。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
244p
《 西安には、もともと西安綏靖公署主任・第十七路軍総指揮楊虎城が位置していた。
楊虎城は、馮玉祥系の軍閥将領で、その第十七路軍約五万人も、
いわば楊虎城があつめた部隊であり、「陝
(せん)
軍」の通称で呼ばれていた。
ただし、軍隊としては装備、素質ともに劣悪で、土匪なみの集団であった。
それだけに、楊虎城としては、勢力範囲とその中での
「静かな搾取生活」
を
楽しむのが望みであり、共産軍との戦いも中央軍の進出も好まなかった。
現に、楊虎城は共産軍
「紅第四方面軍」
と 〝相互不可侵協定〟 を
むすんでおり、蒋介石の剿匪作戦についても批判的であった。》
246〜247p
《 張学良は、 「剿匪がいやになった」
と楊虎城にもらし、
一九三六年をむかえると、共産党側との接触を開始した。
・・・・
四月四日、第六十七軍長王以哲を通じて、共産党連絡局長李克農と
洛川の第六十七軍司令部で会見した。
張学良は、より以上の幹部、たとえば周恩来との会談を希望し、
李克農はただちに連絡して、周恩来が会談に応ずる旨を返事した。
張学良は、延安での会談を指定し、同市に駐屯する第六十七軍第一二九師
(周福成)
に
安全を保障するよう、指示した。
四月九日深夜、延安市東方的五キロの天主堂で張・周会談がおこなわれた。
・・・・
共産党側にも、張学良の接近を喜ぶ
「内部事情」
があった。
共産党軍は、当時、ほぼ第一、第二、第四方面軍にわかれて、
甘粛省北部での合流をめざしていたが、総兵力は
「長征」
を開始した当時の三分の一以下、約七万人にすぎない。
しかも、中央軍の追尾をうけているだけでなく、
山西の閻錫山軍も動いて、側背をおびやかされている。
もし、中央軍側の総攻撃が開始されれば、全滅しないまでも
組織的戦力を破砕されるのは必至であろう。
その非命を回避し、叫んでいる
「抗日」
戦の第一線にたつには、
「停止剿共」
を国民政府側にもとめる以外に方法はない……。》
つづく
これは メッセージ 1447 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月28日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:41 投稿番号: [1448 / 2250]
一月二十八日
《 フィッチが今日、なんの前ぶれもなく田中領事から上海へ行く許可をもらった。
イギリスの砲艦ピーでいき、一週間後にアメリカの砲艦オアフで戻るといっている。
なんだか妙な話だ。 証明書とか旅券、あるいはそういう類
(たぐ)
いのものを
一切よこさないだけに、なおさら変な気がする。
昨日の晩、福井氏に、フィッチのために上海へ行く許可を出してもらえないか
といったときにはにべもなく断られたのに。
ひょっとすると、昨日の件で、アメリカ人に対して弱腰になったのかもしれない。
なにしろアメリカと日本の間には、ここのところ、
それからそれへと不愉快な事件が続いたから。
昨日、アメリカ大使館の南京責任者、アリソン書記官が、
なんと日本兵に横面を張られるという事件が起きた。
ただちにこれはワシントンに報告され、
今日、ロンドン発の最新ニュースとしてラジオが伝えたばかりだ。
日本はアリソン氏に謝罪することはしたが、氏が日本語でけしからんことをいって
兵士たちを怒らせたからだ、という立場をあくまでも崩そうとしない。
それにしてもローゼンにも困ったものだ。 昨日、いっしょに街をまわったとき、
日本軍から配属された衛兵を連れていこうとしなかったのだ。
言葉をつくして説得したがだめだった。 この件はすぐに日本大使館に報告され、
今日、私のところに次のような声明文が届けられた。
南京にはなお平服の中国兵 (便衣兵) がいる。
日本兵は、疑わしい人物はすべて撃つよう、命令されている。
それゆえ大使館員には日本人の衛兵がつきそい、保護することになっている……
おっと、ここで一言言わせてもらおう。
もし本当にまだ便衣兵がいたとしても、絶対に我々外国人に手出しはしない。
いまや我々が中国人を保護するために残ったのを知らないものはないからだ。
難民収容所を二月四日に強制的に解体する、との通達。
難民たちはいやおうなしに瓦礫
(がれき)
の町へ戻らなければならない。
帰るところがあろうがあるまいが知ったことか、というわけだ!
惨憺たることになるのは目に見えている。
だが、だからといって手の施しようがないのだ。
なんといおうと、権力を握っているのは日本軍なのだから。》
これは メッセージ 1446 (kireigotowadame さん)への返信です.
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戦争を好まない日本陸軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/09 18:54 投稿番号: [1447 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
229p
《 蒋介石は、九月二十四日、あらためて軍政部長何応欽に電令した。
「拠昨今形勢、日方己具一戦決心、務令京滬漢各地、立即準備一切、
厳密警戒、俾随時抗戦為要」
北京、上海、漢口で火ぶたがきられる可能性がある、臨戦態勢をとれ、との趣旨である。
そして、蒋介石は、とくに 「上海事変」 の再発をおそれ、
上海市長呉鉄城にたいしても、「積極戒備」 を下令した。
230〜231p
−
だが、
実際には、日本側の 「一戦決心」 には現実性がとぼしかった。
戦争となれば、当然に陸海軍の一致した
「決心」
が必要だが、
海軍とは逆に、陸軍の姿勢は消極的であったからである。
陸軍側は、上海の水兵射殺事件が発生する前日、九月二十二日、
参謀本部第一課長石原莞爾大佐が海軍軍令部第一課長福留繁大佐をたずね、
陸軍には
「全支作戦」
をおこなう意志はない旨を、きっぱりと通告していた。
二十六日の三省局長会議でも、豊田、磯谷両局長の間で次のような問答がかわされている。
豊田
「北支事態ガ重大ナルガ、 陸軍ノ腹
(ハ)
如何」
磯谷
「北支五省ヲ
満州国ノ延長トスルガ如キ
極端ナル事ヲ
考ヘヲルモノ、ナシ……」
豊田
「蒋介石
(ガ)
帰京セザル場合、如何スルカ」
磯谷
「一月デモ二月デモ待ツ。 其ノ際ハ国論モ ヤカマシクナルガ、
北支ニ対シ 既定方針ニテ進ム」
磯谷少将は、参謀本部と陸軍省の間に思想統一ができていない、
と陸軍の内情ももらした。
たとえば、派兵の目標にしても、参謀本部はやむを得なければ
「北支」
に
するというが、陸軍省は
「上海、南京」
をえらぶ。
陸軍省側の観察では、 「北支」
は中国の
「急所」
ではない、
しかし、南京を奪えば 「国民党部ハ解散シ
浙江財閥ハ
(蒋介石ニ)
離反ス」
るとみこまれるからである。
だが、いずれにせよ、意見不一致のままでは戦争はできない。
「用意ハ有ス。 (しかし)
兎モ角、出来ル丈
(だけ)
一兵モ使用シタクナシ」
磯谷少将は、あるいは自身の本意にはそぐわぬためか、やや憮然としながらも、
明確に陸軍の
「本音」
をつたえた。
蒋介石も、その
「本音」
は戦争回避である。
十月一日、軍事委員会弁公庁副主任劉光は、またしてもドイツ人軍事顧問団長
ファルケンハウゼン中将の献策を、伝達してきた。
漢口、上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権をにぎれ − と、いう。
蒋介石は、広州から南昌にうつっていたが、軍政部長何応欽の来訪をもとめて協議した。
軍政部長何応欽は、 「日中戦争」
はなお時期尚早である旨を詳述した。
*
ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将は日中戦争をけしかけていた。
つづく
これは メッセージ 1445 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月27日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/09 18:45 投稿番号: [1446 / 2250]
一月二十七日
《・・・
ラジオ上海によると、フランス政府は、
ジャキノ神父にレジオンドメール勲章を授けることにしたそうだ。
われわれの経てきた道のり、十五人ものメンバーが力を合わせ、
艱難
(かんなん)
辛苦に耐えてようやく克服できた数々の困難を思うにつけ、
この人が、ひとりきりでそれを成し遂げたと思うと信じられない気がする。
叙勲も当然だ。
今日、午前中にローゼンと車で東部地区をまわった。家という家は軒並み
略奪されてがらんとしており、しかもそのほぼ三分の一が焼けていた。
たった今、背筋が寒くなるような知らせが舞いこんだ。鼓楼病院の責任者マッカラムが、
押し入ってきた二人の日本兵に銃剣で襲われ、喉をけがしたのだ。
幸い命には別状ないらしいが、これは実にゆゆしき事件だ。
ただちにアメリカと日本の政府に電報が打たれた。
またまた H がこまったことをしでかした!
パンチェン・ラマといえばダライ・ラマにつぐチベットの権威者だが、
そのラマの使用人から、H は素晴らしい車を二百ドルで買い取ったのだ。
いま自治委員会がこの車を買い取ろうとしているが、
H の言い値の千九百ドルではなく、たった六百ドルでといっている。
H が二百ドルで買ったのはわかっているからだ。 おまけに自治委員会は、
使用人には国民政府の財産である車を売る権利はないといってきた。
今後も闇取引をやめないようなら、
日本当局は H に赤恥をかかせてそのうちに南京から追放するだろう。》
(この後はラーベが妻にあてた手紙なので省略)
*
「ジャキノ神父にレジオンドメール勲章・・・ひとりで成し遂げた」
とんでもない勘違いだ。
ティンパーレ、松本重治氏、日高参事官、松井大将の協力があり、
仏軍・日本軍の協力があってできたもの。
南京を攻略した日本軍は、上海を解放した日本軍。
殆ど同じ人間。
同じ日本軍の占領下で、上海は上手く行き、南京は酷くなった。
その場合、科学的考察では、原因は日本軍ではなく、別の何かにあると見る。
これは メッセージ 1432 (kireigotowadame さん)への返信です.
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頻発するテロに戦争の危機迫る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/08 18:55 投稿番号: [1445 / 2250]
豊台事件の翌日、中支でも事件がおきました。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
227〜229p
《 十九日、漢口で日本総領事館勤務の巡査吉岡庭二郎が暗殺された。
吉岡巡査は、日本租界内の派出所付近で立番中、午前十一時五十分ごろ、
背後から近づいてきた犯人に後頭部を狙撃され、前のめりに二、三歩歩いて即死した。
状況を目撃していた露店タバコ商人によれば、暗殺者は
「年齢三十歳くらい、身長五尺五、六寸、頭髪は丸刈、顔は細面、眼は小さい」
男であったという。
白昼の殺人事件、しかも、制服着用の日本人警官が暗殺されたのである。
漢口に駐留する海軍第十一戦隊司令官日比野正治少将は、
すかさず指揮下の軍艦
『安宅』『熱海』
から陸戦隊員を上陸させ、
上海の第三艦隊司令長官及川古志郎中将も、声明した。
「反日行為の暴状は……満州事変勃発以前に過ぐるものあり、
全支における帝国臣民の生命財産の不安は甚しきものあり」
海軍は、佐世保特別陸戦隊員四百八十三人を漢口に急派するとともに、
次のような
「海軍省当局談」
を発表した。
「帝国海軍としては……事態斯 (か) くなる以上……或は自衛上必要の処置に
出づるの己 (や) むなきに至る場合を考慮し……手配を進むることとなったのである」
もはや戦争だ、戦争以外にはない
−
というのが、
ドイツ人軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将の論評であったが、
四日後、またしても上海でテロ事件が発起した。
九月二十三日午前八時二十分ごろ、第三艦隊旗艦
『出雲』
の乗組水兵四人が、
上海市共同租界の海寗路と呉淞
(ウースン)
路の交差点付近にさしかかると、
停車中のバスの背後から四、五人の中国人が拳銃を乱射してきた。
四人の水兵のうち、一人は無傷であったが、
二等水兵田港朝光は右胸部と左腕貫通銃創をうけて死亡し、
一等水兵八幡良胤、出利葉蔵巳はそれぞれ右上膊複雑骨折盲管銃創、
左右上膊貫通銃創をうけた。
三人は、付近の書店
『至誠堂』
にはこびこまれ、
田港二等水兵は、書棚にすがりつこうとしたが、さしのばした手に力は無く、
床にくずれおちて息絶えた。
上海海軍特別陸戦隊は非常配備につき、在郷軍人分会もその指揮下に編入された。
「適当なる自衛手段をとるほかなき次第と認める」
と、日本大使館が声明を発表すると、陸軍武官喜多誠一大佐も、記者団に語った。
「最後の一線に近づいたというほかは、ない」
蒋介石も
−
「日中戦争」を覚悟した。》
つづく
これは メッセージ 1443 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月26〜27日 強姦事件調査
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/08 18:45 投稿番号: [1444 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165〜166p
《 この件は日本軍も重視した。
アリソンが小粉橋三二号にあった
「日本軍本部」
に無理に入ろうとして
歩哨が殴ったために、日米間の外交問題に発展したからである。
ベイツの一月二十七日付アリソン宛書信は、
「午後四時一五分現在、彼女が
『審問』
のため大使館に連れて行かれてから
約二五時間が経過しているのに、彼女についていまだなにも見かけていません」
(①166頁)
と書いている。
前日の二十六日午後八時、リッグズが日本大使館を訪れた時には審問はまだ続いていた。
午後十一時に逆に大使館から人がきて、彼女は一晩大使館に留まることを伝えた。
この時、リッグズやスマイスは、脅迫などによって
被害者が証言をひるがえさせられることを恐れていたらしい。
一月二十八日付の同様書信によれば、彼女は二十七日夜八時四十五分頃帰されてきた。
そこで、同行してきた大使館側の三人と女性、リッグズらの話し合いが行われ、
その内容が書かれている。
大使館では、強姦された部屋への階段、ランプ、入口の位置などの詳細を訊ね、
実際とは喰い違いが多いから、犯人が憲兵であるというのは嘘であると
断定したことがわかる。
しかし、リッグズらがこれに猛反論したことはいうまでもない。
特に憲兵といっても、白っぽい腕章に黒字でそう書かれた補助憲兵が多く、
彼らこそが問題の集団で、彼らがかなりの期間、この建物を使ってきた証拠を
ふんだんに持っており、この三日間は腕章を外しているようだが、
今後一切かかることをしないように、と主張したのである。
もっとも彼が
「憲兵」
という字を識別できたかどうかは疑問である。
何か漢字らしきものが書かれている腕章さえつけていれば、どんな男でも、
少なくとも
「補助憲兵」
であると認識したらしいことは間違いない。
日本大使館では、四、五人の兵を呼んで面通しをさせたが、
そのなかにはいなかったと女性は答えたという
(①170頁)。
『資料集』
では、ベイツのこの件についての手紙はなぜかここで切れている。》
注:
①は青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
174p
《 飯沼守日記
〈 一月二十七日
小山憲兵隊長、堀川新分隊長来リ、天野中尉調査ノ概要ヲ聞ク。〉
(偕行社編纂
『南京戦史資料集』
242頁)》
これは メッセージ 1442 (kireigotowadame さん)への返信です.
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豊台事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:55 投稿番号: [1443 / 2250]
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
40〜41p
《 馮治安は河北省の出身で、当年四十四歳、馮玉祥の旧部下ではあったけれど、
抗日の鼻息荒く、する事なす事、宋の意に反するところが多かった。
そこで遠く手離しておくと、何を仕出かすかわからないというので、
一番手近な北京周辺の要地に配してあった。
ある日私が万寿山の方に車をとばせて行くと、
ちょうど西宛の兵営から出て来た馮治安の部隊、歩兵の一ヶ連が私の車とすれ違った。
この時、彼等が歌っていた軍歌は
打倒日本
打倒日本
除軍閥
除軍閥
努力革命成功
努力革命成功
去奮闘
去奮闘
というのだった。この歌詞はもともとは、打倒列強
打倒列強
というのだが、
三十七師はそれをわざわざ打倒日本と置き換えて歌わせていた。
黒塗り厳めしい西苑の兵営は、昔、独逸人技師の設計監督の下に建てられた
という事だが、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、
さきに梅津・何応欽協定で華北から逐
(お)
われた、二十五師長関麟徴なども、
しばしばここに姿を現わして兵を煽動し、
また中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗して
この方面に顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。
師長馮治安が徹底的に日本嫌いな男であってみれば、
上の行なうところ下これに倣
(なら)うのも、またやむを得ないところではある。
話は少々遡
(さかのぼ)
るが、昭和十一年九月十八日、豊台事件というのが勃発した。
満州事変柳条溝の一発から、満五年の記念日である。
こういう日には日華双方、お互いが余程気をつけ慎み合わないと、
とかく不慮のゴタゴタを引き起しがちである。
この日の夕刻、豊台駐屯一木大隊の一ケ中隊が、駅前近くを通りかかったところ、
折りから演習帰りの中国軍一ケ連とすれ違った。
ところが中国兵の一人が、穂積中隊最後尾の兵を、
故意に路外に押し出すような行動をとった。
部隊の後から乗馬でやって来た年少血気の小岩井光夫中尉、
やにわに中国兵の群に躍り込んで連長に対し、鋭く彼の不法を難詰した。
中国兵の一人が小岩井中尉の馬の尻をたたき、馬が驚いて跳ね上った。
中国兵は即座に銃に弾を込め、自分達の兵営の前に散開して、
対応の姿勢をとったので、日本軍も直ちにこれと相対峙
(たいじ)
し、
睨
(にら)
み合いの態勢に移った。
北京から特務機関の浜田補佐官や桜井徳太郎軍事顧問がとんで来た。
もちろん牟田口廉也連隊長もやってくるし、
中国側の副師長許長林少将や外交専員林耕宇などもかけつけて来た。
河辺旅団長が即刻、隷下日本軍に発砲禁止を命じたので、彼我の交渉は、
その翌日の明け方まで続けられたが
両軍干戈を交えるまでには立ち至らず、
結局中国側の陳謝と、関係者の処罰、ならびに中国軍部隊の豊台撤去を条件として、
一応この問題に終止符が打たれた。》
これは メッセージ 1441 (kireigotowadame さん)への返信です.
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アリソン事件証言の食い違い
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:45 投稿番号: [1442 / 2250]
アリソン殴打事件に関する、三つの記述を紹介しましたが、
その被害者に関する記述がそれぞれ異なっているように見えます。
タイムズ
被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる
建物にいた難民。
笠原解説
金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。
飯沼日記
米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃日本兵来リ、
留守店ヲ銃剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行
さて、この事件には前段階があります。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165p
《 ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、
朝十時半、小粉橋三号の小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、
好きなように各部屋を捜索していたが、見つけられてほぼ向かいの
小粉橋三二号の本部へ入ってゆくのを観察した (①157頁) 旨が書かれている。
この後に、大問題になった
「アリソン殴打事件」
が起きるのである。
一月二十五日、ベイツは二通の手紙をアリソンに送って、
この事件のきっかけとなった日本兵による婦人強姦事件を説明している。
それを要約すれば、一月二十四日午後十一時、白っぽい腕章をした日本兵が
胡家菜園の金陵大学農機具店に押入り、店員を銃で脅し、
彼らは婦人一人を連行して強姦し、二時間後に釈放した。
犯人は白い腕章から判断される特務兵ではなく、恐らく憲兵の仕業と思われる(①161頁)
と記す。そして、追伸として、被害者の婦人を伴ってリッグズと共に調査したところ、
慎重に五回もチェックした結果、
「問題の建物は小粉橋三二号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした」(①162頁)と
特定したことをアリソンに報告したのである。》
ところが、あとで、とんでもない事実を明かしています。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
167p
《 『南京事件資料集①』
に、ティンパレーとベイツの間に交わされた
『戦争とは何か』
の出版をめぐる往復書簡
(352〜376頁)
が掲載されている。
・・・
その中の三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に
次のような一節がある。
資料名
「E八八 − 一〇〇」
についての注意である。
〈 もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。
彼らは、たびたび私たちを困らせました。
アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。
殴打事件は彼らの巣窟で起きたのですが、
そこは、かつてバックが展示会をした語学学校
(小桃園)
の反対側のところです。
その語学学校では、一、二度君とも会ったことがあります。〉
*
天野中尉がいたのは
「小粉橋三二号」、ベイツの言う贋憲兵は
「小粉橋三八号」
要するに、略奪や強姦をやっていたのは
「小粉橋三八号の贋憲兵」
だと
言っているのです。
しかして、調査に突入したのは
「日本軍兵舎」
だから、殴られたわけです。
やっと彼らも、撹乱する贋日本兵がいることに気づき始めたようです。
これは メッセージ 1440 (kireigotowadame さん)への返信です.
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梅津・何応欽協定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:56 投稿番号: [1441 / 2250]
満洲事変のあと、中国はテロ行為だけでなく満洲への再侵略も執拗に試みていました。
そのため、日本側は対応を迫られます。
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
昭和45年発行
19p
《 前年
(昭和9年)
十一月、彼
(宋哲元)
の部下、馮治安
(ひょうちあん)
の
部隊が突如、熱河省を侵犯し、大灘
(だいなん)
西方二十キロ、
断木梁という部落に進出して来た。 》
21〜22p
《 この年
(昭和10年)
の四月、・・・、五月三日、天津の日本租界で、
国権報の社長胡恩傅
(こおんふ)
と、振報社長白逾桓
(はくゆかん)
の
二人の親日分子が白昼何者かに襲撃され命をおとした。
こえて五月二十四日には、孫永勤という抗日匪軍が熱河を犯し、
続いて非武装地帯に侵入するという新たな事態が引き起された。
このところ華北の空気はめまぐるしいまでに物情騒然、混沌模糊として、
不安な日が続くようになった。
由来、天津軍本来の任務は、北京、山海関間の鉄道の保全、
ならびにこの間に在住する居留民の保護にあったが、
現状ではこの任務さえも、とかくおびやかされがちだった。
− こんな事では全く困る。華北の明朗化を妨げるやからは、
この際抜本的に荒療治してしまうんだな。−
気の早い酒井参謀長は、起案紙に一気呵成、華北粛清対策案をなぐり書きした。
これが梅津・何応欽協定の骨子となったのであるが、その内容は概ね次の通りである。
通
告
一、
最近華北に頻発しつつある排日侮日の諸現象は、方
(ひと)
しく
塘沽
(タンクー)
協定の破壊行為たると共に、
また北清事変議定書の精神をも蹂躙するものなり。
我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基き、
今後自衛上必要と信ずる行動に出づる事あるを通告す。
二、
これを未然に解決せんがため、左記各項の即時実行を要求す。
イ
軍事委員会北京分会、憲兵第三団、国民党部、政治訓練所、
藍衣社
(らんいしゃ)
等の一律華北退去。
ロ
黄杰
(おうけつ)
の第二師、関麟徴
(かんりんちょう)
の
第二十五師等、中央直系諸軍の華北撤退。
ハ
河北省政府主席于学忠、憲兵第三団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の
罷免ないし処罰。
ニ
排日侮日行為徹底取締りの確約。
以
上 》
そして、6月28日、断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
土肥原少将が新たに
《 京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する 》
という協定を秦徳純に結ばせました。
これが土肥原・秦徳純協定です。
*
善人心の人達は、『梅津・何応欽協定』 や 『土肥原・秦徳純協定』 を
押しつけた事を非難しますが、なぜ、そうなったのを見ようとはしません。
これは メッセージ 1439 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月26日 アリソン殴打事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:46 投稿番号: [1440 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
173〜174p
《 偕行社編纂の
『南京戦史資料集』
に収められている
当時の上海派遣軍参謀長、陸軍少将飯沼守の日記に、
アリソン殴打事件に関連すると思われる記述が見える。
〈 一月二十六日、本夕本郷少佐ノ報告。
米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃 日本兵来リ、
留守店ヲ鉄剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行強姦ノ上
二時間程シテ帰レリ、
依 (よっ) テ訴ヘニ依リ
其
(その)
強姦サレタリト
云フ家ヲ
確メタルトコロ
天野中隊長
及
兵十数名ノ宿泊セル所
ナルヲ以テ、
其屋内ヲ調査セントシタルニ
米人二人亦
(また)
入ラントシ、
天野ハ兵ヲ武装集合セシメ
逆ニ 米人ヲ殴打シ追ヒ出セリ、
其知ラセニ依リ
本郷参謀現場ニ到リ、
中隊長ノ部屋ニ
入ラントシタルモ
容易ニ入レズ、
隣室ニハ
支那女三、四名在リテ
天野ノ部屋ニ入レバ
女ト同衾シアリシモノノ如ク、
女モ寝台上ヨリ 出テ来レリト、
依テ中隊長ヲ 訊問シタルニ
中隊長ハ其権限ヲ以テ
交ル女ヲ連レ来リ
金ヲ与へテ 兵ニモ姦淫セシメ居レリ
トノコト、依テ憲兵隊長小山中佐 及 33〔i〕(引用者註・iは歩兵)
第二大隊長ヲ呼ヒ
明朝ノ出発ヲ延期セシメ
大隊長ノ取調ニ引続キ
憲兵ニテ調ブルコトトセリ。〉(同書242頁)》
注 : 同書とは
青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
*
飯沼日記から見るに、ここにいる女性は売春婦のように見え、
とても連行されて強姦されている様には見えない。
それでも、日本側は天野らを処罰した。
これは メッセージ 1438 (kireigotowadame さん)への返信です.
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満州再侵略への反撃から塘沽停戦協定へ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/05 15:29 投稿番号: [1439 / 2250]
昭和7年7月17日午後1時ごろ、
満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が
両省の境に近い南領〜朝陽寺間にさしかかった所、
一隊の武装兵が停車を命じ、乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。
犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。
熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。
満州を追われた張学良は、
4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。
関東軍は昭和 8 年熱河作戦を行い、
結果、本来の満州の領域である熱河省の回収に成功しました。
この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。
ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、
結局、長城の南にも行かざるを得なくなります。
その時、関東軍は、天津・北平
(北京)
に迫る勢いを見せます。
これは不都合だからやめさせなければなりません。
長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、
南に行くと侵略とすり替えられ、防衛の主張が通らなくなります。
だから止めなければならないのです。
ところが現場が止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、
関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。
だから “もっと遠くへ” とやっている内に、こうなったわけです。
しかしこれでは際限がありません。
そこで “ 中国軍が二度と満州を侵略できないようにと
《 北京北方から密雲以東、長城線から約五〜六十キロの深さの河北省 》
を非武装地帯にする ” という
塘沽停戦協定を中国に結ばせて、関東軍は長城の北に引き揚げました。
(児島襄著
『日中戦争』
文春文庫
2巻287p〜3巻106p 要約)
これにて、満州事変は終了します。しかし中国側は納まりません。
つねに満州再侵略を試み、また中国国内で排日運動を激化させます。
つづく
これは メッセージ 1437 (kireigotowadame さん)への返信です.
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