ビックリ台湾!?

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Re: 五輪の政治化

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/10/07 18:18 投稿番号: [1989 / 3149]
  先生のご見解はしかと承りました。昔からスポーツと政治の関係については存外に根が深く、これを切り離して考えられません。とくにオリンピックは国を挙げて誘致運動をおこない、開催が決まれば「外国に恥ずかしくないように」と、莫大なオリンピック予算を組んで巨大なスタジアムや各種施設などが「カネに糸目もつけず」に建設されます。マスコミは連日「オリンピック熱」を煽ります。東京オリンピックがそうでしたし、ソウルもそうでした。その嚆矢は昨年の北京で、それはもう空前絶後の豪華さでした。アジア的権威主義と官僚主義にとってオリンピックの開催ほど魅力的なイベントはないのです。

自国選手が金メダルをとればメインポールに国旗があがり、スタジアムに国歌が流れ、観客は起立します。国威宣揚と民族主義の発揚にこれほどダイレクトで効果的な方法はないでしょう。こうした「五輪の政治化」と石原の国家主義、ファッショ志向に気づいた少なからぬ日本人が、破綻に瀕している財政とともに考え合わせて、オリンピック招致に冷淡で、「笛吹けど踊らず」の状態であったのは異とするに足りません。

先に、オリンピックの「主催国制度」を大きく改め、大国の五輪独占をやめて、人口数百万の小国でも一部の競技を開催できるようにしたらどうかと提案しましたが、unhoo先生のご見解はいかに?

五輪の政治化

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/10/06 09:00 投稿番号: [1988 / 3149]
昭和39年(1964)の東京五輪でもまだ純粋な五輪競技だったと思う。

今年は中共政権成立60周年だそうだが、中共は始めの頃はオリンピック参加を拒否していた。オリンピックが政治宣伝の場に堕したのは、中共が参加したためのように思う。

アメリカのカーター大統領の時代に、何かの政治理由で、カーターはアメリカが1980年?のモスコーオリンピックに参加することを拒絶した。カーターはアメリカと友好関係にある諸国にもモスコーオリンピックのボイコットを勧告し、日本、台湾その他多くの国がカーターの勧告に服従した。

すなわちオリンピックの政治化はカーターに始まり、中共の参加(その年代はいつだったかな、モスコーオリンピックよりも後だったと思う)によって加速したのである。

ベルリン1936年オリンピックがナチスの宣伝場だったという事実無根のデマは、二次大戦後、戦勝した欧米の諸国によってでっちあげられたのである。

1936年ベルリン・オリンピックのスター

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/10/05 19:55 投稿番号: [1987 / 3149]
1936年ベルリン・オリンピックのスターはジェシー・オーエンスというアメリカの黒人選手であった。レニ・リーフェンシュタール女史が作った記録映画『民族の祭典』にはオーエンスの活躍が詳しく記録されている。人種差別観念で、記録を減少した痕跡はない。しかるに彼の祖国アメリカでは、当時白人の人種差別観念がまだ強く、黒人がアメリカ国の英雄になったことを忌み嫌って、帰国したオーエンスを冷遇した。オーエンスは1937年にオハイオ州立大学という一流大学を卒業したにもかかわらず、正常な職業を獲得できなかった。オーエンスが辛うじて獲得した職業は、馬との競走という見世物だった。百メートル競走のコースで、オーエンスは馬の前40メートルからスタートし、オーエンスと馬とどちらが先にゴールに飛び込むかという見世物であった。そのほかに、工場のボイラー焚きもやった。

二次大戦後、アメリカの白人はオーエンスを冷遇したことを恥じて、オーエンスをベルリンの旧オリンピックスタジアムへつれて行き、「私がヒットラーに手を伸べたが、ヒットラーは握手を拒絶した」と言わせ(オーエンスがほんとにそう言ったか疑問)、そのニュースを世界に流した。

ところがオーエンスは別のときに「私が金メダルを貰ったとき、ヒットラーは見物席から立ち上がって、私に手を振った。私も手を上げて振りかえした」と言っている。

リーフェンシュタール女史は戦後連合国に長期投獄され、フランスの精神病院にまで入れられた。ウィキペディアの記事では「ヒットラーは黒人選手がドイツ選手に勝つのを見たくない」と女史が言ったとあるが、これはおそらくは獄中で言わされたのであろう。ベルリンオリンピックでは、ドイツ選手と黒人選手が競った種目はなかったはず。

ベルリンオリンピック1936では、ナチスの宣伝はなかった。自国の黒人選手を冷遇したアメリカが、事実を糊塗するためにでっち上げたデマであろう。

____________________

Jesse Owens
1913(大正2)年9月12日生
1980(昭和55)年3月31日没
アラバマ州Danville出身
アフリカ系アメリカ人
1936(昭和11)年   ベルリン・オリンピックに出場
  陸上競技100メートル走、200メートル走、走り幅跳び、400メートルリレーで優勝(それぞれ当時の世界記録で優勝)
  アドルフ・ヒトラーとは互いに時間が合わず握手していない
1937オハイオ州立大学卒
1980年3月31日   肺癌のためアリゾナ州フェニックスで死去

レニ・リーフェンシュタール

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/10/05 17:52 投稿番号: [1986 / 3149]
1936年のベルリンオリンピック記録映画を作った映画監督の名は、正しくはレニ・リーフェンシュタールでした。下記ウィキペディアの記事をお勧めします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB

1936年のベルリンオリンピック

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/10/04 01:53 投稿番号: [1985 / 3149]
>オリンピックが狭隘な民族主義と国威宣揚の絶好の道具としてヒトラーのナチスドイツに利用されて以来、その反省も改革もないまま続けられている。<

tokyo_cachito3さん

あなたは戦後生まれで、1936年のベルリンオリンピック当時のニュース映画を見ていないし(テレビはまだなかった)、日本で1940年ごろに公開された記録映画『民族の祭典』も見たことがないと思われます。『民族の祭典』は映画監督リーフェン・シュタール女史の指揮によって撮影、編集され、ドイツやその他の欧米諸国では多分1937年以前に公開されたと思いますが、日本では映画輸入業者の利権争いのために、1940年になってやっと上映されました。

『民族の祭典』では、公平に各国選手の活躍が記録されています。そのオリンピックでは、ナチスの宣伝が全然行われていないことがわかります。ヒットラーは出場しますが、それは開催国の元首として開会の宣言をするためです。その前、各国選手が次々に入場し、ヒットラーの席の前を通るとき脱帽あるいはその他の動作で開催国の元首に敬意を表すると、ヒットラーはナチス式の挙手礼を返しますが、それがその当時のドイツ国のマナーだからであって、ナチスの宣伝だと言う者はなかった。その後の場合ではヒットラーは見物人の一人として写されています。ドイツの選手が勝つとヒットラーは当然大喜びだったであろうが、記録映画にはその場面があまり写っていなかった。

10000メートル競走で日本の村社講平が長身のフィンランド選手3人に囲まれて奮戦する場面では、ヒットラ−は膝の上で指をもじもじさせていた。それを当時の日本人はヒットラーが村社選手をひいきにしている心の現れだと言って喜んでいました。わしの眼にもそのように見えました。村社選手は奮闘の甲斐なく、ラストスパートで体力負けして、1位から3位までフィンランド、村社は4位でした。

下記はわしが以前に別トピに投稿した文章です。

1936年のオリンピック以前には、聖火リレーというものはなかった。聖火リレーは、当時ドイツの総統になって2年たったばかりのヒットラーの創意である。ベルリンオリンピックはヒットラーの前任政権が招致し、ヒットラーが引き受けて大成功させたもので、あれほど美しく、崇高な五輪大会は、空前絶後である。

ギリシャのなんとか神殿(わしは固有名詞の記憶が苦手)の前でギリシャ乙女によって太陽光から火を取る。聖火を恭しく迎えるというのがヒットラーの考えで、バルカン半島を通って最短経路でベルリンの五輪会場へ伝逓された。現在のような見世物的なリレーとは全然別物である。

当時ヒットラーは政権を取って内治に専念していた時代で、なんとかいう名の経済学者を起用して、危機に瀕していたドイツの経済を2年で建てなおしたから、国際的に評判がよかった。その経済学者は「魔術師みたいな経済学者」という名声を博した。

二次大戦後、この経済学者が、独立間もないインドネシアに招聘されて、経済振興の方法を問われた。数ヶ月の研究の後、彼は「インドネシアに必要なものは胃潰瘍である」という結論を遺して立ち去った。インドネシア人はのんきすぎる、もっといろいろなことを心配して胃潰瘍をおこすほどほどでなくちゃいかんという意味だそうだ。

毛沢東思想万歳

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/10/03 23:21 投稿番号: [1984 / 3149]
  一昨日は新中国60周年の国慶節。もちろん、中国の「60年」は還暦であり、大昔から特別な意味をもっている。衛星放送やYou tubeの録画で見られる北京の軍事パレードは実に圧巻で、世界の多くの人が見たことだろう。ただ、「今どき、何ゆえの軍事パレードか」と、「共産党独裁」を非難する反中国の人々も多い。
パレードに参加する軍用車の車輪外周を白く塗るのは旧ソ連の伝統を踏襲しているようだが、なぜそれほどまで白タイヤに拘るのかよくわからない。青と白の迷彩車両がずいぶん出てきた。これは冬季の雪景色に合わせたものだろう。軍用車両は初めから特別な設計をするのが普通だけれども、ミサイルを積んだ車両が民間の普通トラックからの転用であるのは大きな前面ガラスでわかる。

民衆のパレードもあった。その大きな山車に「毛沢東思想万歳」とあったのには飛び上がるほど驚いた。

Re: リオデジャネイロ

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/10/03 21:14 投稿番号: [1983 / 3149]
  オリンピックが狭隘な民族主義と国威宣揚の絶好の道具としてヒトラーのナチスドイツに利用されて以来、その反省も改革もないまま続けられている。開催国は、いかに豪華な開会式、閉会式をやるかに腐心し、さらに、いかに多くの金メダルを取るかが最大の関心事で、先年の北京がまさにそうだったし、振り返れば昔の東京もそうだった。世界の民族が融和し、平和の祭典として「参加することに意義がある」というク男爵の願いはほとんど無視されている。

台湾は国家としての参加を認められず、「Chinese Taipei」などと訳のわからない名称を強いられている。国連加盟国は200ヶ国にも達するのにオリンピックは事実上、世界の大国の「持ち回り」になっているのが現状である。このままでは、台北はもちろん、世界の大半の都市が半永久に「開催都市」になれず終いだろう。

オリンピックを10カ国ていどの共同開催にはできないのだろうか。マラソンなどは施設もいらないし、数種目だけなら何処の国でも既存施設の利用で開催可能だろう。これがなぜ世界の「発展途上国」の声にならないのか不思議だが、もちろん、利権にまみれたIOCが目の色を変えて反対するのは間違いない。

Re: 海外旅行の禁止

投稿者: yuwfui 投稿日時: 2009/10/03 20:19 投稿番号: [1982 / 3149]
unhou様     祝    〜中秋節〜      美麗月亮です

  昭和53年頃、私の淡水の友人が文化交流の名目で女性の踊り子を

  5,6、人連れて観光地のホテルなどでショーを1ヶ月位巡業

  しました。帰国時に我が家へ挨拶に来ましたので、お土産に

  日中辞書と、装飾品の太刀を贈りましたが、松山空港の税関で双方とも

  日本の贈り主に返すと言って没収されたと言ってましたが

  私の所には何の音沙汰も有りませんでした。内情は判っています。

リオデジャネイロ

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/10/03 12:18 投稿番号: [1981 / 3149]
リオデジャネイロにきまりましたね。

小学校のたぶん5年生の国語読本に、南米旅行記というような文章がありました。そのなかの「リオデジャネイロ」という語は、子どもたち誰もみな舌がもつれてうまく言えなかったことを思い出します。

半世紀ほど前の東京オリンピックでは、開催の前の宣伝ポスターのできばえがたいへんよかった。陸上短距離競走のスタートの場面の写真をポスターの絵にしたもので、撮影したのは日本人の写真家、モデルには日本人、黒人、白人の選手から、100メートル競走を11秒以内で走る実力の有る者という条件で、8人(?)集めた。黒人や白人の選手はアメリカ軍のなかから応募者があった。それを実際にピストルを鳴らしてスタートさせて撮影し、何回も撮影して、その中から1枚採ってポスターにしたという。モデルたちはまじめに出演し、力の漲った表情とポーズで写っていました。

Re: 海外旅行の禁止

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/10/02 22:20 投稿番号: [1980 / 3149]
  数時間後にオリンピックの開催国が決定する。どのみち、「シカゴ」か「リオデジャネイロ」のいずれかで、どう考えても東京に勝ち目はない。世界は石原という傲慢な男の名誉欲を満たしてくれるほど甘くはないし、200憶に近い東京都の「運動費」が水の泡と消えても、石原はもちろん、推進派の誰も責任はとらないだろう。さらに許せないのは、この男が自らの欲望のために、皇室を利用しようと計ったことだ。「外国に例がある」という理屈で東宮を運動の先頭に立たせ、セールスマン役を負わせてIOCに働きかけようとしたのである。これが宮内庁の強い拒絶にあったのは当然だが、これをみても石原が戦後の皇室の本来のすがた、お立場をまったく理解していないことがわかる。落選が決まったのち、それでもなお、エゴイスト石原は宮内庁に、そして暗に皇太子に、嫌みたっぷりの未練がましいことを言うかもしれない。

海外旅行の禁止

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/10/01 01:11 投稿番号: [1979 / 3149]
蒋政権時代、国民の海外旅行は厳しく制限されていた。公務員が公務で出る場合のほかは、大会社の社長や重役が商業上の必要で外国へ出向く場合、国内の大学生が欧米の有名大学の入学許可を取って留学に行く場合などだけであって、外国へ観光旅行に行くことなど、夢にも考えられなかった。

ところが、今から25年か30年ぐらい前のこと、韓国大統領朴正煕が「韓国国民1人あたりの平均年収が1000アメリカドルを突破したから、国民の海外観光を制限しないことにする」と公布した。そのとき台湾国民1人あたりの平均年収は2000アメリカドルを突破していたから、台湾国民が騒ぎだした。特に外省人は本省人よりももっと騒いだ。そのために、蒋政権は禁令を維持することができなくなって、国民の海外観光旅行を許可した。蒋経国総統が死亡する5年ぐらい前のことであった。

しかし、海關(税関のこと。空港の税関も海關と呼ぶ)の荷物検査は厳しく、特に海外観光旅行から帰って来た国民の持ち物は一品一品調べて、口実をつけて税金を取った。

円が高い

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/27 11:46 投稿番号: [1978 / 3149]
3年あまり日本旅行をしなかったので、円が上がったことを知らなかった。敬老金の1000元は現在2700円にしかならない。

Re: 支給金額16円

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/26 14:44 投稿番号: [1977 / 3149]
それはわたしの母あてに来たもので、電話で聞いたところ、月に8000円を越える医療費の分は公的な補填があるとのこと。ただし、入院などは別途の計算の由。

コストについてはまるでアタマにないのがいかにも役所らしい。

支給金額16円

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/25 21:17 投稿番号: [1976 / 3149]
何のことかわしにはわからないが、16円でビスケット1枚買えますかな。わしは毎年9月9日に台北市長から敬老金1000元(3000円あまり)貰っとります。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/25 15:07 投稿番号: [1975 / 3149]
神広業給第421040××××号
                  平成21年9月14日
                               印
      後期高齢者医療給付支給決定通知書

        服部   信明

  先に申請のありました
高額療養費
の支給については下記のとおり決定しましたので通知します。

被保険者番号    000000000

被保険者氏名    ○○○○

根拠となる年月等   平成21年6月

支給金額          16円

支給期日       平成21年9月24日

  *支給期日に振込みを行なっておりますが、金 融機関によって、口座に入金されるのは支給期日から5日程度後になる場合もあります。

ビックリ台湾!?

投稿者: kugatuno_kuzira2008 投稿日時: 2009/09/23 17:53 投稿番号: [1974 / 3149]
http://www.libertytimes.com.tw/2009/new/sep/23/today-p8.htm

阿扁前総統、諸外国訪問の折の経費の一部を米ドルキャッシュでネコババ
妻の呉淑珍が息子陳致中の米国の口座に即刻送金
息子の留学中の費用はこのネコババ金によって賄われていたと!
これでは国費留学生ではないか!

次から次へと明らかになるネコババ一族の悪事
まさにこれこそビックリ台湾!

Re: 蒋政権時代の日本雑誌の輸入

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/20 22:56 投稿番号: [1973 / 3149]
  興味深い貴重なお話をありがとうございました。二度と返らぬ蒋政権の時代ではありますが、かれらが「共産主義」を蛇蝎の如く嫌い、恐れおののいた事情はわかるとしても、当時の台湾には言論、出版の自由がなく、台湾人のわずかな「政治的過失」であっても、その報復と弾圧は容赦のないものであったろうと想像します。日華断交前の横浜市立図書館に「自由中国」などという台湾の雑誌が毎号おいてありましたが、内容は完全な政治的プロパガンダでありました。もっとも、これは当時の米、中、ソ連も同じで、蒋介石支配の台湾ばかりが特別であったわけではなく、もちろん自民党の週刊機関紙「自由新報」も反共一辺倒でした。その御用新聞である読売やサンケイの体質はいまも変わりません。ただ、日本の総理府の出版物にはそうした宣伝臭がなく、ごく無難な内容であったことは付け加えておきます。そう言えば、もう、「反共」などという言葉もすっかり聞かれなくなりました。

初めての訪台で、まだ戒厳令の解ける前、読めもしない新聞を買った記憶があり、そこに、「訒匪小平」「中共大動乱之兆」などという活字があったのをいまだに覚えています。また、昼過ぎの桃園空港で、日本から到着したばかりの朝刊に中国の「全人代」の記事と会議場内部の写真があり、そこに、「天安門と五星」の中国国章が写っていたのを何人も若い女性がクレヨンで塗りつぶしていたのを偶然目撃したこともあります。

戦前の日本で「短波ラジオ」というものが、その存在すら知られていなかったとは驚きました。「さもありなん」とは思うのは、わたしの少年時代に聞いた話ですが、近くの親戚の家に、戦前からアメリカ製の(たぶんGE)六球だか、八球だかの「スーパーヘテロダイン」があって、戦時になるとそれを聞き及んだ神奈川県特別高等警察が調べに来たといいます。「六球、八球」などと言っても、いまの若い人にはまずわからないでしょう。「一応、確認に来ただけ」ということで、別に没収もなにもされなかったとのことですが、すぐ町内に、「あの家に特高がきた」と噂になったそうです。

中国も台湾も大いに変わり、遅まきながらアメリカも日本も変わりつつあります。司馬遼太郎が「イデオロギーは虚構である」とあるとエッセイに書きましたが、その意味がそろそろ判りかけてきました。

蒋政権時代の日本雑誌の輸入

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/20 18:16 投稿番号: [1972 / 3149]
tokyo_cachito3 さん

蒋政権時代の日本雑誌の輸入事情については、わしの記憶がばらばらで、求められても自信のある回答ができません。ただ思い出したことを断片的に記述してみるだけです。

日本雑誌の輸入解禁はかなり早かったように思います。終戦後5年ぐらいだったらしい。最初に入ってきたのは婦人雑誌(婦人倶楽部、主婦の友)映画雑誌(映画の友など)です。

輸入された日本の雑誌は、検閲官の命令により、ページの切り取りや文字の塗りつぶしがいっぱいでした。数ページの文章が全篇切り取られたり、写真を掲載したページが切り取られたりして、本屋の店頭に重傷兵、軽傷兵の姿で横たわっていました。検閲官が職務怠慢を問われることを恐れて、毎号必ずある程度のカットと、塗りつぶしをしたのだと思う。

初めの頃、文藝春秋はまだ禁止であったが、10年ぐらいたって許可された。ところが連載記事の20ページほどが毎月全部カットされていた。巻頭の目次を見ると、戦前共産党員だった人が、共産党内部の凶悪な状況を暴いた記事のようであって、反共蒋政権の立場からすると、人民に読ませたほうがよさそうだが、検閲官が日本語の読めない奴なので、共産党を持ち上げた記事かと思ったのだろう。

蒋政権の後期に至って、毛沢東や中共の要人の写真は、ページを切り取る代わりに、顔の真ん中に匪と言う字のゴムスタンプが押された。

日本雑誌が無傷で輸入されるようになったのは、李登輝政権が成立してからである。人間は平和に馴れ易く、昔危機が立ちこめていた時代のことを忘れやすい。現在70歳以上の人は、蒋政権時代に輸入された日本の雑誌が、必ず塗りつぶしやカットがあったことを見ていたはずだが、もはや忘れかけている。

短波ラジオについては、日本国民は敗戦まで短波ラジオという物があることを知らされず、短波ラジオで外国の放送が聞けることを知らなかった。外国の放送を国民に聞かせまいとする軍部の政策は成功したけれども、その代わり国民の電波機械に関する知識を世界の水準から50年も遅れさせた。わしは昭和17年上海へ渡ったが、上海では車夫や馬丁でも、ラジオと言えば短波ラジオのことで、世界中の放送が聞けるのは当然と思っていた。わしよりもおそく上海へ来た日本に短波ラジオを見せたところ、最高の知識人ですらびっくりしていた。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/20 00:09 投稿番号: [1971 / 3149]
あげ

介護

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/16 00:07 投稿番号: [1970 / 3149]
  老人用の「紙パンツ」にはずいぶん種類があり、中の「吸収剤」は化学物質で、文句なしの吸収性だ。母親は大王製紙製の16枚入りのそれを使っていて、値段は近所の薬の量販店で2500円ほどである。こんど、これを5000円の限度で市が補助してくれることになり、きのう、その手続きに区役所に行って来た。自己負担は一割である。品物は「介護」の業者が配達までしてくれるという。2500×2で毎日取り替えても限度額はこえないと安心していた。だが、先ほどから急に疑念が生じてきた。この時間にこれを書いているのはそのためだ。介護業者が配達までしてくれて2500円で済むだろうか。配達料込みで7000円も8000円もの値段をつけているのではないだろうか。その一割負担なら、だれもが、「ずいぶん高いな」と思っても文句は言わないだろう。だが、わたしは納得しない。あした、紹介された業者に明るい口調で「それ、おいくらなんでしょうか」と尋ねるつもりだ。納得のいかない値段でも業者には文句を言わない。あいてはもちろん「市」である。これが杞憂ならいいと思うが…。

政変

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/14 16:35 投稿番号: [1969 / 3149]
  自民党が野党になったのは今度が初めてはないが、今回ばかりは明らかに様子が違う。無名の若い新人候補がやすやすと自民党のベテラン議員を追い落とすなどということは戦後政治にはなかったことだ。もはや、これまでのような卑屈なほどの対米従属、「政官財」癒着の保守政治は復活しないだろう。世界中のマスコミがこぞって書き立てた日本の政変だが、国内はまったく平穏で、昨日からは何事もなかったように大相撲が始まった。
「政変=流血」の中国人からみれば、「日本の権力ってそんな安っぽいものなのか」と、ちょっと思案の他かもしれない。

Re: ダークホース

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/13 18:47 投稿番号: [1968 / 3149]
  インドネシアは人口、領土、資源ともにすでに東南アジアの大国ですが、まだ発展する余地は大ですね。賄賂が横行するのは、いわゆる「先進国」を除いて世界共通です。わたしの知る限りでは、インドネシア、ベトナム、フィリッピンなどは酷く、ひと頃のフィリッピンは空恐ろしいものでした。日本の役人が賄賂を請求(受託収賄)ことはめったにないようですが、これは日本人が特別に清廉だからというわけでもなく、かれらは上から下まであまりにも恵まれていて「収賄などで掴まったら割に合わない」からです。

「特亜三国」について次回に書きます。

Re: ダークホース

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/12 16:25 投稿番号: [1967 / 3149]
インドネシアはどうですかね。この国の政治が進歩したら、世界第一流の大国になると思います。国土は豊穣で、オーストラリアや中東の国よりも勝れています。

日本は特亞三国と友好関係を築く望みを永遠に捨てるべきです。この三国は反日感情を国民に抱かせることによって、辛うじて崩壊を免れている国です。国民の反日感情が命の綱なのです。

Re: ダークホース

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/12 12:00 投稿番号: [1966 / 3149]
  中国やインドは「ダークホース」ではなく、すでに世界の大国だろう。わたしが探しているのは「まさか、そんな国が」という見捨てられたような国だ。これは企業も同じで、例えば、日本の「任天堂」などはトランプや花札、あるいは厚紙で作った家庭用ゲーム盤などのメーカーで、まるで取るに足らない会社だったが、現在は誰もが認める超優良企業である。
東アジアのダークホースとしては金正日没後の北朝鮮を挙げたい。「北」がいつまでも飢餓と絶望的苦難に喘ぎ、ついには崩壊して韓国や中国に併呑されてしまのか、なんとか持ちこたえて外資を呼び込み、台湾の経験に学んだ「輸出特区」を拡大させて一息つき、ついには中国の指導による「改革開放」をうけいれて大変貌を遂げるか、まず、10年を経ずして結果が出るだろう。

ダークホース

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/11 22:48 投稿番号: [1965 / 3149]
  日本の競馬は英国からきたものだが、明治時代から100年もの歴史があって、戦前は軍部の強い庇護もあった。競馬界、とくに「中央競馬」は、競走馬はもちろん、騎手、厩舎、調教師、厩務員に至るまで厳重な管理下にあって、まず「八百長」はないとされている。それが横行すれば競馬そのものが崩壊するだろう。人気薄の馬が一着になることを「穴」などと言い、その馬をダークホースと言うが、近頃の「三連単」(一着から三着までを着順どおりに当てる)馬券では百円が数十万円になることも珍しくない。その「ダークホース」「穴馬」もレースが終わってから振り返ると、後講釈とはいえ説明がつく場合も多く、馬券の外れた競馬ファンが「うーん、そこを見落としていたか」と悔しがることになる。もっとも、わたしは株はやるがギャンブルはいっさいしない。で、ここまでが下話である。
地球儀をみながら、ふと気がつき、考えたことがある。今は「さえない」並み以下の国家、地域だが、いわゆる「ダークホース」で、今世紀に思わぬ大発展をするところはないだろうか。たとえば、幕末までの日本は当時の世界では知る人も少なかったが、半世紀を待たずに一流の強大国家になったし、韓国や台湾も戦後暫くは無名に近かったものの、いまでは見違えるほどの国になっている。いま、わたしは小さな地球儀を手にしながら、僅かな知識とない知恵をしぼって考えている。20年、あるいは30年後の将来、「うーん、そこを見落としていたか」という国が必ず出現するような気がする。このあたり、unhoo先生のご見解はいかがだろうか。

Re: 梅干=日の丸

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/10 08:45 投稿番号: [1964 / 3149]
>毎月1日と15日は日の丸弁当に限定すると、市役所から小学校へ通達があった。

迂闊だった。「いくらなんでも梅干はないだろう」と思っていたが、先生からの指摘で「日の丸弁当」という言葉があったのを思い出した。もちろん、知識のうえだけで、わたしの年代では見たことはない。それが上からの「通達」で、一日と十五日だというのも初めて知った。
「梅干かと思っていました」というのは、それがルーツに違いない。その彼女の親の世代が学校の生徒、児童の頃に「日の丸弁当」を食べさせられ、戦後の台湾でも「日の丸」と「梅干」が重なり合ったまま時代が過ぎたのだろう。彼女は親たちから冗談半分に、「あれは梅干だ」という話を聞いてそれが彼女の記憶に残っていたと推測するしかない。うーん、そうだったのか。

梅干=日の丸

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/09 23:00 投稿番号: [1963 / 3149]
昭和6年の満州事変以後、非常時という言葉が全国を席巻して、非常時だから弁当のおかずも倹約しなくてはならん、毎月1日と15日は日の丸弁当に限定すると、市役所から小学校へ通達があった。その日の弁当の時間には、先生が見回って、日の丸(梅干1個)を超過した子は頭を小突かれた。

しかし市役所の命令はすぐに弛んだ。先生も生徒も忘れた頃、市政府がまた思い出して、日の丸弁当限定を通達した。そのうちに市役所が忘れる期間がだんだん多く、長くなった。

昭和6年はわしが小学2年生だった。昭和10年わしが小学6年になった頃には、市政府は永遠に忘れてしもうた。

Re: 梅干

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/09 18:28 投稿番号: [1962 / 3149]
  1941年初冬、モスクワ近郊では猛烈な戦闘があって、これが翌年の春まで続いた。この、首都防衛のソ連の戦死者だけで40万に達したというから驚きである。独ソ戦といえば、スターリングラード、クルスク・オリョール、そして最後のベルリン陥落あたりは有名で、『丸』やその他の軍事関連書でわたしも多少の知識はあった。モスクワ攻防戦も知らなかったわけではないが、冬将軍の到来でドイツ軍がやむを得ず「転進」したのかと勝手に思っていた。
ジューコフ将軍の回想録ではその激闘は独ソ戦でも最大の規模と凄惨さだったという。しかし、そのフィルムがほとんど残っていない。死闘が続く毎日、双方とも撮影どころではなく、その機材すらろくになかったのだろう。モスクワの陥落を確定的と信じていた各国はドイツの撤退を大いに驚いたらしい。モスクワの日本大使館はそれ以前から繰り返し「ソ連軍の装備と戦意は十分であり、市民生活は維持されている。モスクワは占領されまい」と東京の外務省に打電している。12月の日米開戦を控えた東条内閣はその報告に耳を貸さなかったがヨーロッパの戦線はすでに転換期を迎えていたのである。
ずいぶん前だが、シベリアに抑留されたフロパンガス屋の親爺さんから話を聞いたことがある。「終戦の年だったか、内地からずいぶん兵隊が来たけど、腰の水筒が竹筒だったのには驚いたな。抑留されて知ったんだが、ソ連兵がみんなラッキーストライクを吸っていたんだよ。トラックなんかみんなアメリカ製だったな。薬でもなんでもみんなアメリカ製だったよ」

Re: 梅干

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/08 21:55 投稿番号: [1961 / 3149]
  戦争中、彼我の戦力に大きな開きは出ていたが、まだ「特攻」がなかった頃、着艦するはずの母艦が沈められてよんどころなく波浪の海面に着水する零戦を米艦が撮影している。着水はみごとに成功して、やがて機首から沈み始めるが、このパイロットを助けようと、米艦がカッターを差し向け、日本の操縦士が間一髪でそれに乗り込む感動の実写フィルムが残っている。
しかし、すこし時期が違うと、撃墜され、辛くも海上に脱出して漂流する日本のパイロットを至近距離の艦上から米兵がコルト・ガバメントで射撃するシーンもYou Tubeにある。前稿を含め、いずれも戦争だ。言葉がない。

Re: 梅干

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/08 17:13 投稿番号: [1960 / 3149]
  昔から梅と鰻は有名な「食べ合わせ」ということになっていて年配者なら必ず知っている。この場合の「梅」とは梅干のことだろうが、これにはなんの科学的根拠もないんだそうな。昔の雑誌などに何百もの「食べ合わせ一覧」があったのを覚えているが、もちろん、すべて迷信だそうである。

話はがらりと変わるが、昔、わたしの親戚の伯父さんが東京で召集されたあと満州(中国東北部)に赴き、その後、南方に行って辛くも帰還したが、80人ほどの同じ中隊で生存者はわずか五名、人の死は日常茶飯事であったという。「五人も還ってきたのはいい方だ。戦争はしちゃいけない。また、そういうことがないよう、オレはお前たちのために必ず社会党にいれるからな」という言葉を覚えている。昔の兵隊さんは中隊が基本で、これは学校で言えば「学級」に相当するが、こんなことはわたしの年代でも知る人はすくないだろう。
もう一人、海軍の駆逐艦に乗っていた「I」さん。当時、海軍に召集されてもいきなり乗艦するのではなく、2ヶ月ほどの「学校生活」があったという。「今度の戦争は想像する以上の近代戦だ。お前たち、船に乗ったら生きて還ってくるとは思うな」という教官の言葉にみんな顔面蒼白になったそうな。
その学校を終了していよいよ艦の配属が決まる時、一応、「どんな艦に乗りたいか」というアンケートがあったというから面白い。そこで、その「I」さん、人づてに聞いたのか自分で考えたのか、小さい船ほど生存率が高いということで「駆逐艦」と書いたら一発で希望が通った。
まだ、日本海軍の威勢がいいころで、海戦(推測するに第一次ソロモン海戦あたりか)の終わったあと、「I」さんの駆逐艦は僚艦と共に「現場」に急行、敵艦のいたあたりは一面の重油で何百人もの敵の兵隊がそこ此処の浮遊物に掴まり、手を振って助けを求めていたという。
ここから先はちょっと書きにくいが思い切って書く。
「そこへ突っ込んでよ、グワッーっとターンするんだよ。すごい波が立つだろ。やつら、一人も浮いちゃいねぇよ。へへ」

Re: 梅干

投稿者: yuwfui 投稿日時: 2009/09/05 16:39 投稿番号: [1959 / 3149]
其の方は、凄い日本通ですね。台湾の梅は砂糖漬けにしますから

   しろっぽいですよね。塩漬けも有るんですか?

   梅粉〜いい香りと適度の甘さ好きです。

梅干

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/04 22:41 投稿番号: [1958 / 3149]
  今日は、台湾からの三人のお客さんを皇居、銀座、さらに新橋から「ゆりかもめ」に乗って「お台場」のフジテレビに案内した。そのあたりの案内なら造作もないことだが、いずれも、一人ではまず行かないところだ。銀座の三越本店に這入ったのは初めてではないが、前回はいつだったのか思い出せない。今のデパートの規模からみれば、その狭さは隠せないが、さすがに銀座の本店だけあって店に気品がある。
フジテレビの近くには立派な高層ホテルがあって、例の国旗のポールが並んでいた。フランスの三色旗と日の丸のほかには国旗がなく、日の丸はともかく、なぜ三色旗なのかわからない。世界からの宿泊客が来るはずの有名ホテルがどうしたわけでそんな無神経なことをするのだろうか。
「日の丸」はいつのまにか国会にも議長席の脇のスタンドに立てかけるようになったが、これはそんな古くからではない。戦中、戦前の帝国議会では、国旗だ、国旗だと押し付けがましく、議場のなかにまで特大の日の丸を持ち込むようなわざとらしいことはしなかったのではないだろうか。東条首相が演壇から片手を背に回して演説していた戦時中ですら、その脇に「日の丸」はなかったのではないかと思うが、これはちょっと調べてみたい。
話はちょっと戻って、そのホテルの日の丸である。台湾の客人に旗を指差して「日本の旗ね」と言ったのだが、「赤い丸はなんですか」と聞かれて一驚した。「日の本」の国旗で赤い丸なら「太陽」だと察しがつきそうなものだが、「青天白日」の国の人なら太陽とは白いものなのかもしれない。「太陽(タイヤン)ね」と返答したら、なんたる事、「はっ? 太陽? わたしは梅干かと思っていました」。
うそ偽りのない今日の話である。

Re: 映画 『金色夜叉』

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/09/02 19:37 投稿番号: [1957 / 3149]
>>「…これぞ日本武士の武士道表現ならんも、吾人をして嫌悪に耐えざらしむるところなり」

尾崎紅葉の「金色夜叉」は読んだことがありませんが、熱海に「貫一、お宮」の銅像があり、それは高下駄の貫一が「お宮」を足蹴にするシーンです。
しかし、貫一は「書生」、つまり、当時の青年の超エリートである大学生であって、「武士道」とはなんら関係ないと思います。女に乱暴して「武士道」も「へたったくれ」もあろうはずがなく、これにはよんどころない事情があったに違いありません。

映画 『金色夜叉』

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/02 18:35 投稿番号: [1956 / 3149]
映画『金色夜叉』は『明治天皇と日露大戦争』よりも前に台湾に入って来て(製作年代も先)、興行成績もたいへんよかったのだが、台湾人の観客には得体のわからぬ映画だった。小説でも、舞台上の演劇でも、はた映画でも、熱海の海岸で、旧制高等学校の制服制帽で下駄履きの貫一が、和服のお宮を突き倒し、取りすがるところを、下駄で蹴る場面が、さわりなのだそうで、観客が紅涙を流す場面だと日本の雑誌で読んだ。紅涙はお宮のために流すのかと思ったら、そうでなく、貫一のために流すのだそうだ。それじゃわしにはついていけない。

外省人が書いた映画評では「取りすがるお宮に物も言わせずに蹴飛ばして砂浜に置き捨てて走り去るとは、これぞ日本武士の武士道表現ならんも、吾人をして嫌悪に耐えざらしむるところなり」てな事が書いてあった。こんなストーリーを好むとは、明治初期の日本人の文藝にたいする解釈は、まったく畸形的なものと思う。

Re: 『明治天皇と日露大戦争』

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/09/01 03:36 投稿番号: [1955 / 3149]
戦前はニュース映画で天皇陛下が出現するときは、事前に「起立、脱帽」の字幕が出現し、それから陛下出現の画面が現れた。『明治天皇と日露大戦争』では、台北でなく田舎の映画館で嵐寛寿郎の明治天皇が出現すると、観客がいっせいに起立することがあったそうだ。ほんとかどうか、わしは可能性のあることだと思う。

「天皇に辞職はないぞ」については、日露戦争の時でなく、それよりずっと以前に当時の政府の首長だった三条××が辞職を申し出たとき、明治天皇が「汝は辞職できるが、天皇に辞職はないぞ」と仰せられ、三条某は恐れ入って辞職を取り消したと、戦前に歴史の本で読んだことがあります。日露戦争でもそういうことがあったという話は聞いたことがありません。

日露戦争では、清国人は日本を応援していたのだそうで、あの映画の内容は国民党として異議はなかったので、上映を禁止する必要はなかったわけです。

しかし外省人が新聞に書いた映画評では、「天皇明治は、大軍を指揮して戦争をさせて、他方では平和主義者を装った詩を発表した偽善者である」というのがありました。

国民党による日本雑誌の禁制については、記憶を呼び起こしてから書きます。

『明治天皇と日露大戦争』

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/08/31 19:00 投稿番号: [1954 / 3149]
この映画の公開は1957年で、明治天皇を演じる「アラカン」こと、嵐寛寿郎の好演もあって記録的大ヒットをした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%BA%89

  るちろん、史実ではないが、作戦の失敗で辞職を申し出る重臣たちに対し、もの静かに「天皇に辞職はないぞ」とたしなめた名セリフは当時の話題にもなったという。
これがすぐに、蒋介石統治の台湾で「日本語のまま」公開されてこれも空前の観客を動員し、ふだんはけっして平地には下りてこない「高砂族」が大挙して映画館にやってきたという。
このような戦争映画が、戒厳令下の台湾で公開されたのは不思議な気もするが、unhoo先生に、ずいぶん昔のことではあるけれども、この映画に対する当時の台湾の人々の反応、そして「国民政府」の対応の様子などをご教示ねがえれば幸いである。

Re: 『丸』という雑誌

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/08/31 10:51 投稿番号: [1953 / 3149]
>>敗戦後たぶん十年近くたった頃と思う。近所の本屋で『丸』をみつけた。
…その後『丸』は本の体裁も内容も次第に進歩し、わしは毎号貸し本屋から借りて読んだ。

このあたりのことを先生に教えていただきたいと思います。蒋政権の戒厳時代、つまり「光復」から「解戒」まで、日本の出版物、映画、レコードなどは、もちろん当局の検閲があったとは思いますが、「共産主義を宣伝するもの」「猥褻なもの」を除いて自由に入手できたのでしょうか。また、『丸』については「日中戦争・シナ事変」を日本側から見た記事、戦記なども多かったはずですが、これは問題なかったのでしょうか。わたしの初訪台のときは日本の新聞、週刊誌、短波ラジオの持ち込みは禁止でした。

『丸』という雑誌

投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/08/30 03:55 投稿番号: [1952 / 3149]
戦争中は『航空朝日』という雑誌があって、アメリカの何々型の戦闘機は最高速度何百何十km、後続力何百kmなどと、敵側の軍用機の型名、性能をかたっぱしから報道していた。ところが日本軍の軍用機となると、性能も型名も秘密とされて発表されなかった。それでも陸軍の方は隼、しょうき(漢字がパソコンでは出せない)、新司偵などニックネームが公表されたものがあったが、最高速度などは発表されなかった。海軍はもっと秘密主義で、国民には敗戦後まで零戦の名を知らせなかった。

『航空朝日』を読んでいた銃後の国民は、日本の軍用機の性能は、敵側に比べて遥かに及ばないのであろう、それだから公表できないのであろうと推定し、戦争の前途を前途を危惧した。

敗戦後たぶん十年近くたった頃と思う。近所の本屋で『丸』をみつけた。まだ創刊後間もないもので、当月号と旧号とあわせて五、六号が売れずに埃を浴びてあった。ちょっと開いて見ると、日本機の性能が書いてある様子なので、早速全部一冊ずつ買った。日本機の性能は英米機に遜色がないことがわかった。こんなことなら戦争中公表しておけば、戦意高揚の効果があったのにと、軍人たちの狭量さに怒りを覚えた。

その後『丸』は本の体裁も内容も次第に進歩し、わしは毎号貸し本屋から借りて読んだ。今から三十数年前、わしが50歳代のころ、飽きてしまって読まなくなった。

Re: 戦記

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/08/29 18:46 投稿番号: [1951 / 3149]
これまで、外地で戦争を体験した年配者の話を記憶のままに書き綴り、いったん投稿しようと思って「メッセージを投稿」ボタンを押したつもりだが載っていなかった。元の文章も消えてしまって、かなり力をいれた文章だったが、「東亜安定にたいする帝国積年の努力は悉く水の泡」とあいなってしまった。

戦記

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2009/08/28 23:06 投稿番号: [1950 / 3149]
「丸」という軍事専門誌が昔からあって、五年ほど定期購読をしていたことがある。毎号、戦記物や兵器の特集などを組み、なおかつ、マニア的な編集を避けてきたから「軍事ファン」にはありがたい雑誌である。政治的な主張がないこともこの雑誌が消長の激しい出版界で半世紀以上にわたって生き延びてきた理由であろう。「戦記」はもちろん体験者の手記で、やはり「日中戦争・シナ事変」モノが多かったが、わたしが記憶する限りでは、日本の兵隊さんの相手は八路軍が圧倒的に多く、蒋介石の軍隊がほとんど出てこなかった。「抗戦八年」の戦争の前後では日本軍の相手が入れ替わっていたのだろう。活字になった「戦記」はずいぶん読んだが、やはり、戦争のナマの話は貴重である。わたしの小学校の担任教師は満州で紫電改のパイロットだったし、近くに住んでいた模型屋の主人は日の丸を消した双発の「新司偵」でソ連領の偵察の毎日だったという。ノモンハンの体験者等々、おおぜいの年配者から話を聞いたが、戦争体験者はすでに80代半ば以上に達し、いま思えばもっと詳しく聞いておけばと残念な思いもする。
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