日韓歴史論争

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れ:地方領主

投稿者: jaway 投稿日時: 2004/02/29 09:12 投稿番号: [1014 / 6952]
>アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。

情報/物流の早さが現在は早いですから地球の半分がアメリカの属国になっちゃってるかも知れませんね。

>外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。

自力で中立を保てない悲しい国では仕方が無いです。

朝鮮王は明の地方領主なのか?

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/29 09:01 投稿番号: [1013 / 6952]
>>明帝国の支配下における国(朝鮮)にとっては明の格付けは重要だったのでしょう。しかし、日本は明の支配下にいないのでそんな格ずけは意味がありません。
朝鮮は徳川に仕えていた訳ではく、明のみに仕えていたので明は対面が保てました。島津は徳川幕府の一地方領主だったので明は外交関係を結ぶと対面が保てませんでした。
しかし明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
>島津は明への朝貢をにべもなく断られても中国貿易がしたくてたまらなかった。戦国時代なら倭寇で荒らし回れたが、統一政権ができると海賊稼業はできない。それで中国の朝貢国だった琉球に目を付けてこれを征服し、中国には琉球は独立国のように見せかけ、琉球を中国貿易のダミーとして使ったのだ。明の使者が琉球にくると薩摩の番人はこそこそと目に付かない村に隠れたという。中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、薩摩は隠れ支配者だった。こんなことをするから日本人は狡猾だといわれるんだ。だから
>>別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。
>こんなことは君の妄想電波でしかない。

ははは    都合の悪いことは電波になるんだね。明帝国のものの見方が全てじゃ無いんだよ。朝貢国ということでは朝鮮と琉球は同格!ということは琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上という見方も可能だ。島津の上にある江戸幕府は更に上。天皇はそのまた上。
見方によっては朝鮮王は天皇の下の下のも一つ下って見方も可能だね。歴史を教科書道理の一方通行の見方と朝鮮に都合の良い歪曲の組み合わせしか見れないのだね。


>満州族に抵抗する国姓爺・鄭成功が日本に出師を求めてきても断っている。海外など行く気はなかったんだ。まして朝鮮にまた戦争を仕掛けるなどなどありえない。

清と事を構えたくなかっただけだよ。「海外など行く気はなかったんだ。」なんて勝手に決め付けるな。


>>また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。
>全く日本史もわからんようだな。島原の乱以前からキリスト教禁教、日本人の海外渡航禁止、スペイン人の追放と鎖国体制は着々と進んでいた。島原の乱でポルトガル人が追放され、鎖国体制が完成したことくらい日本人なら高校生でも知っている。こりゃ高校生以下のレベルだな。歴史の議論など10年早いよ。

間違ったことをレスしてないよ。自分が不利になると逆切れか?そういうスタンスしかとれないのでは歴史の議論など10年早いよ。

朝鮮王は独立国の国王というよりも実質的には巨大な地方領主というに相応しい。
朝鮮王を巨大な地方領主と見ると、朝鮮王の取った外交、軍事等の多くのことで辻褄が合います。独立国家の国王として議論すること自体、見直す必要があります。

ええっ?

投稿者: jaway 投稿日時: 2004/02/29 01:28 投稿番号: [1012 / 6952]
>中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、

中国ってそんな外交音痴だったの?

>琉球

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/29 00:39 投稿番号: [1011 / 6952]
>また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。

全く日本史もわからんようだな。島原の乱以前からキリスト教禁教、日本人の海外渡航禁止、スペイン人の追放と鎖国体制は着々と進んでいた。島原の乱でポルトガル人が追放され、鎖国体制が完成したことくらい日本人なら高校生でも知っている。こりゃ高校生以下のレベルだな。歴史の議論など10年早いよ。
家康は海外貿易促進派で英人ウィリアム・アダムスや蘭人ヤン・ヨーステンを幕臣に取り立て、朱印船を東南アジア各地に派遣するなど海外には積極的だった。朝鮮との善隣友好を掲げて国交回復に踏み切ったのもそうだ。しかし、秀次、家光はだんだん内向きになり、満州族に抵抗する国姓爺・鄭成功が日本に出師を求めてきても断っている。海外など行く気はなかったんだ。まして朝鮮にまた戦争を仕掛けるなどなどありえない。

>明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。

島津は明への朝貢をにべもなく断られても中国貿易がしたくてたまらなかった。戦国時代なら倭寇で荒らし回れたが、統一政権ができると海賊稼業はできない。それで中国の朝貢国だった琉球に目を付けてこれを征服し、中国には琉球は独立国のように見せかけ、琉球を中国貿易のダミーとして使ったのだ。明の使者が琉球にくると薩摩の番人はこそこそと目に付かない村に隠れたという。中国は薩摩の琉球支配を公然と認めていたのではないから、薩摩は隠れ支配者だった。こんなことをするから日本人は狡猾だといわれるんだ。だから

>別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。

こんなことは君の妄想電波でしかない。

琉球

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 23:05 投稿番号: [1010 / 6952]
>>朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。
>1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。
>日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前

また何やら歪曲臭いコピペですね。
対馬が何といおうが窓口でしかない。決めるのは江戸。
家康の豊臣との講和条件は大阪城の外堀を埋めることだったが一気に内堀まで埋めてしまった。家康の言うことをそんなに信じちゃっていいの?
いずれにしろ友好といった家康は死んじゃったしね。
また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。


>薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。

明帝国の支配下における国(朝鮮)にとっては明の格付けは重要だったのでしょう。しかし、日本は明の支配下にいないのでそんな格ずけは意味がありません。
朝鮮は徳川に仕えていた訳ではく、明のみに仕えていたので明は対面が保てました。島津は徳川幕府の一地方領主だったので明は外交関係を結ぶと対面が保てませんでした。
しかし明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。

おやおや

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 23:01 投稿番号: [1009 / 6952]
>>例えば薩摩が仕えた政権は
bigboy_satan0 さんは日本と薩摩   中国と朝鮮の関係で論じてるのにいつもまにか中国がどう思うかに論点が変わってるぞ。
WW2の日本の降伏と姜弘立の降伏を同じ次元にしてしまう君らしいな。


>それでも背に腹は変えられないから、戦争で日本に捕まった朝鮮人を送還するなどして拝み倒し、ようやく朝鮮使節を来日させ、

なるほど、朝鮮は日本の一地方領主が拝めば国家使節を出すのはよくわかったよ。
さすがに戦わずに降伏する朝鮮らしいな。

日朝国交回復

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 21:18 投稿番号: [1008 / 6952]
>朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。

朝鮮の役の後、日朝の国交が断絶して一番困ったのは対馬の宗氏。対馬は米なんかほとんど取れないから、昔から朝鮮との貿易で食べてきた。ところが戦争のあおりで国交が途絶し、貿易もだめ。なんとかしてくれと朝鮮に使者を送り込んだが、最初に行った使者は帰らず、その次の使者も、、、。朝鮮の役で日本軍の先兵となった宗氏を朝鮮が許すはずがない。それでも背に腹は変えられないから、戦争で日本に捕まった朝鮮人を送還するなどして拝み倒し、ようやく朝鮮使節を来日させ、1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。対馬は釜山の豆毛浦に倭館の建設が許され、翌年から日朝貿易も始まった。貿易は中国製の生糸や絹織物、朝鮮の人参などを日本に輸出し、日本からは主に銀を朝鮮に輸出するというものだった。朝鮮は対馬から日本の情報は聞いていたから、将軍が変わってもまた攻めてくるとは考えていない。日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前、中国のマカオから来るポルトガル人を長崎から追放すれば、中国製品の入手は困難になる。(オランダは中国に拠点をもっていない。)中国製品輸入のバイパス・ルートである釜山貿易の重要性はさらに増そうという時期だった。

>例えば薩摩が仕えた政権は

薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。

一言で

投稿者: onbinni710 投稿日時: 2004/02/28 20:36 投稿番号: [1007 / 6952]
降伏といっても経緯によってだいぶ評価は違うと思うが
そんなことより日本降伏時のこといったら朝鮮には
勝ち馬に乗りたがって戦勝国だなんてほざいて周囲を呆れさせた
っていう名を惜しまず実もむさぼれないいっそう情けない評価がくっつきますが

 ビンラディン拘束

投稿者: ikasamaawor1dcup 投稿日時: 2004/02/28 20:16 投稿番号: [1006 / 6952]


      ビンラディン拘束


>地方領主

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 20:16 投稿番号: [1005 / 6952]
>>朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。
>そんなことを言えば、アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。

1615年の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡して家康が完全に日本を統一。1616年家康没。同年ヌルハチは後金を建国。サルフの戦いは1619年という具合に短期間に東アジアの情勢は大きく変化しています。
朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。
朝鮮にしてみれば新興の後金よりも、2度の朝鮮出兵で2回とも派兵してくれた実績のある明帝国との関係は非常に重要。そのことが後金につかずに明についた一因なのでしょう。

また、その後徳川政権が始めた参勤交代は、大名が力を蓄えないようにする為に生み出されたものでしたが、それは同時に諸藩の行軍訓練にもなります。大名行列の編成、装備、兵站線等を見直せば、行き先を江戸から朝鮮に変更すれば、いつでも朝鮮を攻撃することが可能であり、朝鮮は大きな軍事的プレッシャーを受けることになったのでしょう。
参勤交代の制度化は1635年。清の朝鮮侵攻が1636年で、朝鮮が清に服属したのが1637年。

日本は復興支援に行っているのであり、援助金欲しさにベトナム人を殺しまくった韓国軍とは異なります。


>>朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。
>中華帝国内の「地方領主」と外国の朝貢国は当時でもはっきり区別されています。中華帝国の地方行政は中央から派遣された官僚が行いますが、辺境の少数民族地区では例外的に世襲制の地方領主に官職を与え、自治を認める制度もあった。これを「土司」という。特に中国南部の苗族、壮族、イ族、タイ族などに多く、東北の女真族も「土司」の扱いです。ヌルハチはこの土司から身を起こして、明帝国に叛旗を翻した。したがってヌルハチの場合は明帝国の地方領主だったといえる。

例えば薩摩が仕えた政権は、源氏→北条氏→足利氏→豊臣氏→徳川氏→薩長土肥が中心となって創られた明治政府。
朝鮮半島の王朝が仕えた政権は、唐→契丹→金→元→明→清→薩長土肥が中心となって創られた明治政府。
日本の一地方と朝鮮を比較してみると、非常に酷似していますね。
朝鮮王は独立国の国王というよりは、実質的には巨大な地方領主だったのでしょう。

ヌルハチは明の撫順の長官でしたが独立を果たしました。

>朝鮮は越南などとともに外国の朝貢国の扱いで、「土司」とは全く異なるものです。日本も足利義満が明に朝貢して日本国王に冊封されたが、日本が明の「地方領主」だったといえるでしょうか。朝鮮、越南もおなじことです。

義満は将軍であり、その上に天皇がいます。国家のトップが明帝国から国王(実質的には巨大な世襲制地方領主)に任命された朝鮮やベトナムとは異なります。
列強の植民地化の嵐が吹き荒れた時代に、戦争もせずに植民地化された国が二つあります。それは朝鮮とベトナムです。
中国の外交は、周辺国を取り込んで骨抜きにすることに主眼が置かれていたのでは。

開戦の直前、永野軍令部長が

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2004/02/28 20:00 投稿番号: [1004 / 6952]
言ったが。

「戦わざれば、亡国。戦うもまた亡国。戦わざる亡国は魂まで失った真の亡国だが、戦っての亡国なら児孫は再起しよう」

同じようなことを特攻隊の生みの親、中西中将が言ってる。

「この特攻が出て、しかも万一負け戦になったとしても日本は亡国にはならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる」

また国籍捏造

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 19:54 投稿番号: [1003 / 6952]
日本人が言ってるんだけどね。

朝鮮語わかるだけで、朝鮮人に国籍まで変更してしまうのか。

捏造屋はもう引っ込んでなさい。

どうせ下劣な冗談しか言えないんだろ。

あっはっは

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 19:45 投稿番号: [1002 / 6952]
全力で戦った後の降伏と同じ次元で話すところに朝鮮人の言い訳を感じてしまいますね。そんな反論しかできないとは...ちょっと同情。

5千年の歪曲を認めてるわけではないけどまあ、ジョークと受け取ってくださいな。

ははは

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 16:49 投稿番号: [1001 / 6952]
降伏するのが臆病者なら、日本史にもいるよ。

考えてみな。

1945年8月15日。

何か問題あるの?

>結局半万年前から今もって変わらない文化だね。

そんなら韓国史5千年という歪曲を認めるの?

なんだ

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 16:28 投稿番号: [1000 / 6952]
>官職を削奪されてから死んだ後復官した.

結局は復官したんだ。

朝鮮は名も惜しまず、一時の存続と言う実をむさぼるためには臆病者と思われてもなんら問題のない文化を持ってるわけだ。
結局半万年前から今もって変わらない文化だね。

土司

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 12:17 投稿番号: [999 / 6952]
土司を検索するといくつか出てきたので、参考までにリンクしておきます。

明史雲南度司伝の原文。

http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/mingshi313.html

雲南のイ族(ロロ族)土司について論じた日本語サイト。

http://www.asahi-net.or.jp/~WC6T-OZK/010422a.pdf

地方領主

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 11:45 投稿番号: [998 / 6952]
>朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。

そんなことを言えば、アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。

>朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。

中華帝国内の「地方領主」と外国の朝貢国は当時でもはっきり区別されています。中華帝国の地方行政は中央から派遣された官僚が行いますが、辺境の少数民族地区では例外的に世襲制の地方領主に官職を与え、自治を認める制度もあった。これを「土司」という。特に中国南部の苗族、壮族、イ族、タイ族などに多く、東北の女真族も「土司」の扱いです。ヌルハチはこの土司から身を起こして、明帝国に叛旗を翻した。したがってヌルハチの場合は明帝国の地方領主だったといえる。
朝鮮は越南などとともに外国の朝貢国の扱いで、「土司」とは全く異なるものです。日本も足利義満が明に朝貢して日本国王に冊封されたが、日本が明の「地方領主」だったといえるでしょうか。朝鮮、越南もおなじことです。

独立国家なのか一地方領主なのか?

投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 10:55 投稿番号: [997 / 6952]
>実は朝鮮が出兵を決定する前に明だけでなく、後金からも朝鮮に明のために出兵しないよう莫大な贈り物をしてきた。朝鮮国王の光海君は慎重派だったが、壬申倭乱時の明の恩義に報いるべきだという議論に勝てず、形だけは明のために出兵することにした。

朝鮮はどちらの属国になるかを選んだというより、かつての北朝鮮がソ連と中国を天秤にかけて経済、軍事援助を多く出した方に組みしたように、朝鮮も明と後金を天秤にかけてやったといいたいのか?


>後金軍の総兵力は10500程度だったようです
>後金軍の総兵力は8万人いたが当然各地に分散していた。この数字はこの時戦場に現れたのが1万程度だったというに過ぎない。一方、明の総兵力は10万といっても、中国各地からの寄せ集めで弱兵も多かった。

後金と朝鮮は国境を接しています。戦場にやってきた朝鮮軍が1.3万というだけで、朝鮮の総兵力ももっといたんだろ。


>>火縄が発火せず降伏したなんて変だね。歪曲の臭いがします(著者の)。
>>それに対して朝鮮軍は13000。どうして戦わずして敗北したの?
>実は朝鮮軍は飢えていた。兵糧は自前で、劉挺の明軍には兵糧は届いていたが、朝鮮の兵站部隊は慣れない土地のためか前線部隊に追いつけず、食料が届いていなかったのだ。明軍は少し位なら貸してくれたが、自分たちも飢えるので全部は貸してくれなかった。朝鮮軍は飢えに苦しみながら戦場に向かっていたのだ。
>>サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?
>甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。

兵糧すら用意出来ないんだったら参戦するな。明軍の足でまといもいいとこだ。朝鮮軍は食料を後金に恵んでもらう為に降伏したようなもんじゃないか。
やはり火縄が発火せず降伏したってのは歪曲だったね。


>洞ヶ峠を決め込むことを中国語で坐山観虎というが、関が原ではこの手合いが多かった。南宮山に陣取った小早川秀秋は徳川に内奥を約束しながら、緒戦の西軍優勢を見て、また迷い動かなかった。痺れを切らした家康が威嚇射撃を加えると驚いてやっと東軍に寝返ったものである。強い方に付こうというのは日本人も同じ。
サルフの戦いにおける朝鮮軍は寝返って明軍を攻撃するほど背信行為をしたわけではない。敗北が明らかになれば降伏するのは古今東西正常な軍事行為だ。

小早川にしろ島津にしろ豊臣方の配下(日本)の一地方領主にすぎません。それに対して朝鮮の場合国家だったのでは?朝鮮が小早川や島津と同じことをしているということは、朝鮮が明帝国内の一地方領主にすぎないということになります。
何故、他国同士(明、後金)の戦争にいやいや借り出されなければならなかったのか?朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。
東アジアには明があり日本がある。後金は両者の間に割り込んだ。しかし朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。

>姜弘立

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 09:19 投稿番号: [996 / 6952]
韓国サイトで見る限り、客観的な評価で、とくに非難するものはないようです。

http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=5926

この年(1618年)明国が後金を撃つために朝鮮に援兵を求めた.ここに朝鮮朝廷は新興の後金が恐ろしかったが,明国が壬辰の乱の時援軍を送った事実のため仕方なく姜弘立を五道都元帥にして1万3,000人の軍事を与えて出征するようにした.

しかし朝鮮と明国の連合軍は富車で大敗し,姜弘立は朝鮮軍の出兵がやむを得なくて成り立った事実を敵陣に通告した後軍士を導いて後金に降伏した.これは現地での形勢を見て向背を決めなさいという光海君の密命によるもののだった.投降した翌年である1620年後金に抑留された朝鮮捕虜たちは釈放されて帰国したが,姜弘立は副元帥・金景瑞など10余名と一緒にずっと抑留された.

1627年(仁祖5年)丁卯胡乱の時後金軍の先導として入国して江華で和議を周旋した後国内に留まるようになったが,逆臣として退けられ、官職を削奪されてから死んだ後復官した.

姜弘立

投稿者: qitiandashen03 投稿日時: 2004/02/28 08:44 投稿番号: [995 / 6952]
>姜弘立は売国の将軍として非難されている。

この評価は現在も同じなのですか。

ふむふむ

投稿者: neoriver504 投稿日時: 2004/02/27 18:31 投稿番号: [994 / 6952]
なるほど、これが真実なんですね(私の読んだ雑誌程度では・・・・・)
総勢400人居なかったんだ!!

20万丁

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2004/02/27 18:28 投稿番号: [993 / 6952]
ありがとうございます。

>>確か・・・・・

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 18:24 投稿番号: [992 / 6952]
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/itiran/simadu2.htm

以下抜粋
慶長5年(1600)、9月15日未明、関ヶ原においては、島津軍は西軍についた。この経緯について、『寛政重修諸家譜』には、以下の説明(要約)がある。

会津の上杉景勝を討つため徳川家康が東上したとき、徳川氏の伏見城を義弘に預けて守らせる約束をしたのに、なぜか家康からその連絡が来なかった。その後、大坂城に在ったが、石田三成が徳川家康を討つとして、義弘を味方に誘った。義弘は返事をしなかったが、再三の五奉行からの要請により、やむを得ず説得に折れた。

このとき、甥の島津豊久は東軍の有利を進言したが、義弘は誓約を破ると島津は天下に信用を得ぬ、とする一方、家康の恩義も忘れず、とも言い、よって大軍を国許から呼ばず、戦死する覚悟を告げた。国には兄義久(竜伯)、嫡子家久もおり、自分の戦死は差し支えないとして、まず、伏見城攻撃に参加した。

この事により、伏見城の落城後は、大垣城に入り、攻撃されればこれを撃退する小競り合いはあったものの、積極的な戦闘を行っていない。また、義弘をはじめ甥の豊久を含めた約370人の武士、千人余りの雑兵を従えたのみで、この後の関ヶ原合戦まで参陣したのである。

それは

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 18:19 投稿番号: [991 / 6952]
島津の行動をもっと前から観察すれば理解できると思われます。   元々、島津は三成にだまされて関が原(西軍側に)に連れて来られたようなもんですからね。(徳川にだまされてか?)
...って伏見城守備なんかのことも本当は知ってるんでしょ?

当然のことながら名を惜しんで家をつぶしては元も子もない。参戦しなかったのはその刹那の判断だとは思いませんか?

>朝鮮軍は小早川のように寝返って明軍を攻撃してはいない。
見解の相違ですが、戦場まで行った以上あまり重要とは思えないです。って言うか戦場まで行って何もしないで降伏じゃ勝ち組に乗るより判断としては悪いと思えますね。

>姜弘立は売国の将軍として非難されている。....
それは知りませんでした。朝鮮でもこの史実は恥と認識されてたんですね。

火病じゃないが?

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 18:04 投稿番号: [990 / 6952]
>いつもの火病癖が再発したようだな。

「いつもの」
・・・おいおい。「いつもの」はあんたでしょうに(苦笑

おたくの「スタンス」にカチンときたので、つい表現がきつくなったのさ。
その後の「失礼云々」には目もくれず?

私はおたくに「言葉と表現がきつくなった事」について「謝罪」していたのだがね。
(気を悪くした、と思ってね。)

それの返答が「いつもの火病癖が再発したようだな。火病患者の精神病棟は御免蒙る。」かい?

判った。では私も今後君にはそのように対応しよう。

確か・・・・・

投稿者: neoriver504 投稿日時: 2004/02/27 18:02 投稿番号: [989 / 6952]
私の読んだ書物(雑誌だったかな?)によれば

そもそも島津家の長男は関ケ原参戦反対で島津家としては出陣していないらしい。
だが次男の義弘はそれを良しとせず「島津の名前を天下に轟かせる」目的で勝手に出奔。
島津家は後追いする事を禁じたらしいが義弘に従う者が次々と出奔したそうです。
で義弘の元に集合した者が800人?だったと思う。
義弘は名前を轟かせる事のみが目的だったらしく石田に利用される事を嫌ったようです。

>>島津義弘

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:49 投稿番号: [988 / 6952]
>島津は名を惜しんだから敵に寝返ることもせず降伏もしないで敵中央部突破を敢行し全滅に近い損害をだしたわけだな。

名を惜しむんなら何故参戦しなかったんだろうね。
「山に坐わって虎を見る」のが名を惜しむ戦国武将の態度なのか?

>朝鮮軍は名を捨て一時の実を取ったわけだが、小早川と重なるな。

朝鮮軍は小早川のように寝返って明軍を攻撃してはいない。

>不思議なのは今もって朝鮮人がこの史実を恥と認識してないところじゃなかろうか?

姜弘立は売国の将軍として非難されている。
その後、帰国したがすでに光海君は王座を追放され、仁祖に睨まれて復職できなかった。
私は姜弘立の子孫が彼の名誉を回復したいとして書いた本を持っている。

火病再発

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:39 投稿番号: [987 / 6952]
>つい、「怒りの琴線」に触れたが為、われを忘れたようで。

日本軍も口ほどではないと書いたのを勝手に「日本軍はたいしたことない」と誤読し、怒りの琴線爆発。

いつもの火病癖が再発したようだな。

火病患者の精神病棟は御免蒙る。

>島津義弘

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 17:36 投稿番号: [986 / 6952]
島津は名を惜しんだから敵に寝返ることもせず降伏もしないで敵中央部突破を敢行し全滅に近い損害をだしたわけだな。
三方が原の家康もそうだった。名を惜しみ臆病の謗りを受けたくないがために勝てる見込みのない合戦をして大敗を喫してる。

そして後にその行動が両者共に計り知れない利益をもたらしたな。


朝鮮軍は名を捨て一時の実を取ったわけだが、小早川と重なるな。

不思議なのは今もって朝鮮人がこの史実を恥と認識してないところじゃなかろうか?

>>>日本軍の兵站作戦の失敗

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 17:35 投稿番号: [985 / 6952]
>大明征服を呼号しながら、朝鮮ひとつとれなかったから、口ほどではないと言っている。

おいおい...
明軍5万に勝てなかったのだから、日本軍もたいしたことない、と言っていたのでは?(苦笑
ま、豊臣秀吉の「大言壮語=大明征服」は「夢想」と同列だがね。
当時のテクノロジーと人口学の限界というやつだ。
地政学的にもね。(あ、後、儒教的な影響もあるか)

が、諸々の不利な条件下での交戦で、日本側が示した「実力」は相当なものだが。

秀吉の失敗

投稿者: enpire_united2 投稿日時: 2004/02/27 17:19 投稿番号: [984 / 6952]
欲かいて大明征伐なんてぶちあげたから失敗したんだね。
半島を半分こしようと明に持ちかけたらうまくいっていたかも。
そしたら北は貧乏、南はそこそこと、今とあんまり変らない状況が想像できる。(笑)
ようするに秀吉にとって朝鮮はただの通路に過ぎなかったわけだ。
なめられたもんだね朝鮮も。
今もそうだけどね。

>>日本軍の兵站作戦の失敗

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:10 投稿番号: [983 / 6952]
これが、あんたの言う「日本軍はたいしたこと無い」の根拠かい?

大明征服を呼号しながら、朝鮮ひとつとれなかったから、口ほどではないと言っている。他人の文章の読解するのは苦手なようだな。

>「じゃ、朝鮮軍はなんなんだ」と言いたくなるな。

朝鮮軍は弱いといってるじゃないか。
ただあんたも認めたように日本軍の兵站作戦を失敗させたのは李舜臣の水軍、朝鮮軍も全く無能であったわけではない。

それにしても隋唐の大軍を何度も撃退した高句麗や契丹の大軍を撃滅した高麗に比べると李朝時代の朝鮮軍が弱かったのは事実。
朝鮮は儒教を国教として採用し、武官を軽視したためだろう。

確認>誤認。

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 17:07 投稿番号: [982 / 6952]
祖承訓の5万→祖承訓は「5千」

大変に失礼>trec氏

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 17:03 投稿番号: [981 / 6952]
>だったら、断言的に書きなさんなや。

云々。つい、「怒りの琴線」に触れたが為、われを忘れたようで。
失礼した。

>>サルホの戦い 纏め

投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 17:01 投稿番号: [980 / 6952]
うだうだ理屈を捏ねても
結局、朝鮮軍は降伏した事実は変わらないと言うことか。

関が原で日和見を決め込んだ武将も後世ではバカにされてるようだし、朝鮮軍がバカにされてたのも想像に難くないな。

>>日本軍

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:00 投稿番号: [979 / 6952]
>明軍は5万じゃ有りませんよ。
少なくとも、
・祖承訓の5万
・李如松の4万3000
・他(沈惟敬は軍勢数未確認)

全くの誤認。

最初に平壌の石田三成軍を攻撃したのは祖承訓だが、その兵力は1万くらい。
祖承訓は遼東の地方軍の将軍で、北京からの指示を待たず、勝手に朝鮮救援に駆けつけ、敗北したので、軍律違反に問われた。祖承訓の部隊は石田三成にやぶれたあと、遼東に撤退した。従って明が正式に派遣した援朝軍は中国各地からかき集めた5万人だけだった。

>日本軍の兵站作戦の失敗

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 16:56 投稿番号: [978 / 6952]
>朝鮮の役のことは途中から入ってきたから、大局的に書いただけ。

だったら、断言的に書きなさんなや。
不明なら、それなりの書き方有るでしょうが。
あんたがいつも怒って言っている事、自分でやって。
説得力無いぜ、ほんと。

>直接の原因は明軍が放った間諜によって龍山に蓄積された兵糧が放火されたため。

で?これが、あんたの言う「日本軍はたいしたこと無い」の根拠かい?
明軍の不正規戦の手腕はたいしたもんだろうが、それだけをもって「日本軍はたいしたこと無い」といい切れるのかい?

「じゃ、朝鮮軍はなんなんだ」と言いたくなるな。

>日本軍

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 16:49 投稿番号: [977 / 6952]
>はこの5万の明軍に勝てなかったのだから

明軍は5万じゃ有りませんよ。
少なくとも、
・祖承訓の5万
・李如松の4万3000
・他(沈惟敬は軍勢数未確認)
少なくとも、総数10万以上は投入していますね。

日本側は8方面軍に分割・各個進軍していましたから。
主に明軍と交戦したのは、文禄の役では1〜3軍が各々交戦したようですが。
それでも各軍は2万前後。
明軍より「軍規模」は小さいです。
明・朝鮮軍が「野戦・攻城戦」で日本側を撃破した例は、平壌包囲戦くらいでは。
(これも、明・朝鮮5万3000に対し、小西行長勢1万5000)

慶長の役は、流石に明・朝鮮側も準備万端だったようで、日本側は海岸橋頭堡の城からは余り進出できなかったようですが、元々、慶長の役の戦略目標は半島南部4道攻略と言われていますから、当然かも。
(漢城南部までは進撃してますしね)
それも、絶えず海上兵站線を脅かされて、満足な活動はできなかったようですが。

当時の火力装備率・火力運用・練度を考慮すれば、同数部隊でぶつかれば、日本軍(諸大名の軍勢)と比する軍勢は、欧州のハプスブルグ家(スペイン本国軍)のみ、と言われますが。
(スペイン軍のほうが、部隊指揮系統が日本軍勢より、些か強靭であった)

日本軍の兵站作戦の失敗

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 16:41 投稿番号: [976 / 6952]
>うーん、随分と認識不足がありますよ。

朝鮮の役のことは途中から入ってきたから、大局的に書いただけ。

>日本側を一言で言えば「兵站作戦の失敗」ですね。

結局、李舜臣の水軍のために日本軍は釜山からソウルへの海上補給ルートを確保できなかったわけだ。
しかし、ソウルの日本軍が釜山方面に撤退した直接の原因は明軍が放った間諜によって龍山に蓄積された兵糧が放火されたため。

>サルホの戦い(纏め)

投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 16:30 投稿番号: [975 / 6952]
>これは、もう少しいたのではなかろうか?(疑問提示)

劉挺軍を攻撃した後金軍がどれだけいたかははっきりしない。最初のサルフ山での戦闘後、後金軍は転戦しており、兵力は入れ替わりもあって変動している。2万人もいたとは思えないが。

>親書を持たせていても、それを見せない限り意味が無い。もし、討ち取られ、戦場に打ち捨てられてその親書が後金に渡らなかったらどうするつもりだったのか?

これは鋭い質問だ。実はこれについては朝鮮軍都元帥・姜弘立が対策を講じている。戦闘が始まる何日も前に、朝鮮に心を寄せる女真部族もいるので、内応工作をしたいと劉挺にもちかけ、朝鮮の女真語通事数人を後金側に派遣している。通事は後金側に着くと朝鮮の密書を渡し、朝鮮軍は飢えており、戦意は全くないと実情を明かしている。朝鮮軍が降伏できたのはこの工作が功を奏したからだ。

>朝鮮軍は戦略原則がそもそも、考慮されていなかった。(戦術原則は、交戦していないので、判断しづらい)

朝鮮軍は全く交戦していないわけではない。前には詳しく書かなかったが、朝鮮軍は右営軍、左営軍、中営軍の体制で進軍しており、最初に右営軍が後金軍と接触、大部隊であると言ってきたので、姜弘立は左営軍を右営軍と合流させた。この直後に後金軍の猛攻を受け、右営軍と左営軍は全滅した。包囲された中営軍ももはやこれまでと観念したが、後金軍から降伏しないかともちかけてきたのである。これは先の工作が功を奏したためだろう。後金側も今後のことを考えると、朝鮮を手なずけておく必要があった。
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