日朝国交回復
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 21:18 投稿番号: [1008 / 6952]
>朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。
朝鮮の役の後、日朝の国交が断絶して一番困ったのは対馬の宗氏。対馬は米なんかほとんど取れないから、昔から朝鮮との貿易で食べてきた。ところが戦争のあおりで国交が途絶し、貿易もだめ。なんとかしてくれと朝鮮に使者を送り込んだが、最初に行った使者は帰らず、その次の使者も、、、。朝鮮の役で日本軍の先兵となった宗氏を朝鮮が許すはずがない。それでも背に腹は変えられないから、戦争で日本に捕まった朝鮮人を送還するなどして拝み倒し、ようやく朝鮮使節を来日させ、1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。対馬は釜山の豆毛浦に倭館の建設が許され、翌年から日朝貿易も始まった。貿易は中国製の生糸や絹織物、朝鮮の人参などを日本に輸出し、日本からは主に銀を朝鮮に輸出するというものだった。朝鮮は対馬から日本の情報は聞いていたから、将軍が変わってもまた攻めてくるとは考えていない。日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前、中国のマカオから来るポルトガル人を長崎から追放すれば、中国製品の入手は困難になる。(オランダは中国に拠点をもっていない。)中国製品輸入のバイパス・ルートである釜山貿易の重要性はさらに増そうという時期だった。
>例えば薩摩が仕えた政権は
薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。
朝鮮の役の後、日朝の国交が断絶して一番困ったのは対馬の宗氏。対馬は米なんかほとんど取れないから、昔から朝鮮との貿易で食べてきた。ところが戦争のあおりで国交が途絶し、貿易もだめ。なんとかしてくれと朝鮮に使者を送り込んだが、最初に行った使者は帰らず、その次の使者も、、、。朝鮮の役で日本軍の先兵となった宗氏を朝鮮が許すはずがない。それでも背に腹は変えられないから、戦争で日本に捕まった朝鮮人を送還するなどして拝み倒し、ようやく朝鮮使節を来日させ、1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。対馬は釜山の豆毛浦に倭館の建設が許され、翌年から日朝貿易も始まった。貿易は中国製の生糸や絹織物、朝鮮の人参などを日本に輸出し、日本からは主に銀を朝鮮に輸出するというものだった。朝鮮は対馬から日本の情報は聞いていたから、将軍が変わってもまた攻めてくるとは考えていない。日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前、中国のマカオから来るポルトガル人を長崎から追放すれば、中国製品の入手は困難になる。(オランダは中国に拠点をもっていない。)中国製品輸入のバイパス・ルートである釜山貿易の重要性はさらに増そうという時期だった。
>例えば薩摩が仕えた政権は
薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。
これは メッセージ 1005 (bigboy_satan0 さん)への返信です.
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