日韓歴史論争

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サルホの戦い(纏め)

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 13:46 投稿番号: [969 / 6952]
trek氏の内容を纏めれば...

1.後金は戦略的原則(勝手知ったる場所で戦う、相手に心理戦を仕掛け誘導する)
戦術原則(兵力集中と、各個撃破)を忠実に守っていた。
明軍は戦略原則(兵站線確保、敵状確認)、戦術原則(兵力集中)を怠った。
朝鮮軍は戦略原則がそもそも、考慮されていなかった。(戦術原則は、交戦していないので、判断しづらい)

2.
>>後金軍の総兵力は10500程度だったようです
>この数字はこの時戦場に現れたのが1万程度だったというに過ぎない。

これは、もう少しいたのではなかろうか?(疑問提示)
総兵力8万は、通常動員か、戦時動員か、最大動員か、による。
通常動員の場合なら、各地に守備軍を配置しても、本体主力として2〜3万はいたと考える方が妥当。(動員力にまだ余裕があるため)
後金の軍制は知識としてないが、モンゴルを例に取れば、騎馬遊牧民系の軍は戦闘部隊と支援部隊の線引きが曖昧。
戦闘部隊は実質2万ほどか?

戦時動員8万なら、この「約1万」は理解できる。
最大動員8万なら、この場合兵力は精々7,8千も出せば目一杯か。

>実は朝鮮軍は飢えていた。兵糧は自前で、

これは軍事行動上から見れば、言い訳にもならない。
軍に充分な兵站を供給し続ける事は、まず大前提だから。
これが最初からできないのなら、その軍は侵攻作戦自体行ってはいけない。(その能力が無い)

3.
>>サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?
>甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。

サルホ山〜国境まで直線150kmとして、「徹夜で3,4日」の行軍で国境まで戻るのは不可能。
通常(中世〜現代)「歩兵」の行軍距離は、疲労を考慮すれば1日20〜25km程が適距離。(秀吉の「大返し」は中世以降の軍事行軍における、唯一の「奇跡」)
道も一直線・平坦ではなく、想定で20〜30%程の延長を考慮すれば200km前後か?
純粋にこれだけの距離を行軍するにしても、通常なら10日前後を有する。
また、この時の状況(特に、兵站路破綻による飢え)を考慮すれば、最短路を行軍したとしても、国境まではその1.5〜2倍の日数は掛かったと推定される。(疲労度も考慮して)
この局面での「投降」は是非も無し、ではなかろうか。

4.朝鮮側の対応
これには疑問が残る。
既に後金勢力の伸長を把握しているなら、何故外交努力を怠ったのか。(歴代朝鮮王朝の、中華従属・儒教思想は考慮していない表現です)
わざわざ「今回の出兵は本意ではないと書いた朝鮮国王の書簡までもたせていた。」
のならば、何故使者を後金に送り、同様の外交文書を渡さなかったのか?
戦場での離反・造反は戦国の常。日本の戦国時代でも日常茶飯事に生起した。
何故、どの努力を怠ったのか?
親書を持たせていても、それを見せない限り意味が無い。
もし、討ち取られ、戦場に打ち捨てられてその親書が後金に渡らなかったらどうするつもりだったのか?
辻褄が合わない。

5.
>>どうして朝鮮軍は明軍の後ろについていて、積極的に前に出ようとしなかったの?
>これには訳がある。実は劉挺はヌルハチのスパイ工作に引っかかり、杜松軍がすでに後金の都に到着したと思い込み、功をあせって、飢えた朝鮮軍を置いて、どんどん前進してしまったのだ。そして伏兵に遭って全滅した。

明軍に置いていかれた、のは、形としてそうであろうが、原因はやはり朝鮮軍兵站線破綻による飢えと疲労、それによる士気の低下ではなかろうか。
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