琉球
投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 23:05 投稿番号: [1010 / 6952]
>>朝鮮にしてみれば、日本を再統一した徳川家の新将軍が、再び第三次朝鮮出兵を行うと言い出すかもしれないという不安も大きかったのでしょう。
>1604年伏見城で家康と会見させた。家康は善隣友好を打ち出し、朝鮮との国交回復を望んだので、1607年最初の通信使が来日して漸く日朝の国交回復が実現した。
>日朝関係の要になっている対馬はまた国交断絶になってはかなわないので、朝鮮に軍事的プレッシャーをかけることなどありえない。また1936年から7年といえば日本の鎖国制度が完成する寸前
また何やら歪曲臭いコピペですね。
対馬が何といおうが窓口でしかない。決めるのは江戸。
家康の豊臣との講和条件は大阪城の外堀を埋めることだったが一気に内堀まで埋めてしまった。家康の言うことをそんなに信じちゃっていいの?
いずれにしろ友好といった家康は死んじゃったしね。
また、1637、8年にあった島原の乱が日本の鎖国と大きく関係しているのでは。
>薩摩といえば明代の初め頃に島津氏が中国に使節を派遣し、朝貢貿易をしたいと願い出たが、朝貢とは国君にのみ認められるもので、一地方の守臣ではダメだと相手にされなかった。一国の君主である朝鮮国王と薩摩の守では格が違うのは東アジアの外交世界では常識。日朝国交回復だって一対馬の守ではどうにもならず、朝鮮政府と家康の話し合いを待つしかなかった。
明帝国の支配下における国(朝鮮)にとっては明の格付けは重要だったのでしょう。しかし、日本は明の支配下にいないのでそんな格ずけは意味がありません。
朝鮮は徳川に仕えていた訳ではく、明のみに仕えていたので明は対面が保てました。島津は徳川幕府の一地方領主だったので明は外交関係を結ぶと対面が保てませんでした。
しかし明は琉球とは朝貢貿易をしており、島津は琉球を支配していました。
別の視点から見てみると朝鮮と琉球は同格であり、琉球の支配者である島津は朝鮮よりも格上ということになります。
これは メッセージ 1008 (trek022 さん)への返信です.
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