>>確か・・・・・
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 18:24 投稿番号: [992 / 6952]
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/itiran/simadu2.htm
以下抜粋
慶長5年(1600)、9月15日未明、関ヶ原においては、島津軍は西軍についた。この経緯について、『寛政重修諸家譜』には、以下の説明(要約)がある。
会津の上杉景勝を討つため徳川家康が東上したとき、徳川氏の伏見城を義弘に預けて守らせる約束をしたのに、なぜか家康からその連絡が来なかった。その後、大坂城に在ったが、石田三成が徳川家康を討つとして、義弘を味方に誘った。義弘は返事をしなかったが、再三の五奉行からの要請により、やむを得ず説得に折れた。
このとき、甥の島津豊久は東軍の有利を進言したが、義弘は誓約を破ると島津は天下に信用を得ぬ、とする一方、家康の恩義も忘れず、とも言い、よって大軍を国許から呼ばず、戦死する覚悟を告げた。国には兄義久(竜伯)、嫡子家久もおり、自分の戦死は差し支えないとして、まず、伏見城攻撃に参加した。
この事により、伏見城の落城後は、大垣城に入り、攻撃されればこれを撃退する小競り合いはあったものの、積極的な戦闘を行っていない。また、義弘をはじめ甥の豊久を含めた約370人の武士、千人余りの雑兵を従えたのみで、この後の関ヶ原合戦まで参陣したのである。
これは メッセージ 989 (neoriver504 さん)への返信です.
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