日韓歴史論争
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あっはっは
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 19:45 投稿番号: [1002 / 6952]
全力で戦った後の降伏と同じ次元で話すところに朝鮮人の言い訳を感じてしまいますね。そんな反論しかできないとは...ちょっと同情。
5千年の歪曲を認めてるわけではないけどまあ、ジョークと受け取ってくださいな。
これは メッセージ 1001 (trek022 さん)への返信です.
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ははは
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 16:49 投稿番号: [1001 / 6952]
降伏するのが臆病者なら、日本史にもいるよ。
考えてみな。
1945年8月15日。
何か問題あるの?
>結局半万年前から今もって変わらない文化だね。
そんなら韓国史5千年という歪曲を認めるの?
これは メッセージ 1000 (small_watcher さん)への返信です.
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なんだ
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/28 16:28 投稿番号: [1000 / 6952]
>官職を削奪されてから死んだ後復官した.
結局は復官したんだ。
朝鮮は名も惜しまず、一時の存続と言う実をむさぼるためには臆病者と思われてもなんら問題のない文化を持ってるわけだ。
結局半万年前から今もって変わらない文化だね。
これは メッセージ 996 (trek022 さん)への返信です.
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土司
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 12:17 投稿番号: [999 / 6952]
これは メッセージ 998 (trek022 さん)への返信です.
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地方領主
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 11:45 投稿番号: [998 / 6952]
>朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。
そんなことを言えば、アメリカにいわれていやいやイラクに出兵する韓国や日本もアメリカの属国となってしまいます。外交関係のしがらみの中では嫌でも出兵せざるをえないこともあるのです。
>朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。
中華帝国内の「地方領主」と外国の朝貢国は当時でもはっきり区別されています。中華帝国の地方行政は中央から派遣された官僚が行いますが、辺境の少数民族地区では例外的に世襲制の地方領主に官職を与え、自治を認める制度もあった。これを「土司」という。特に中国南部の苗族、壮族、イ族、タイ族などに多く、東北の女真族も「土司」の扱いです。ヌルハチはこの土司から身を起こして、明帝国に叛旗を翻した。したがってヌルハチの場合は明帝国の地方領主だったといえる。
朝鮮は越南などとともに外国の朝貢国の扱いで、「土司」とは全く異なるものです。日本も足利義満が明に朝貢して日本国王に冊封されたが、日本が明の「地方領主」だったといえるでしょうか。朝鮮、越南もおなじことです。
これは メッセージ 997 (bigboy_satan0 さん)への返信です.
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独立国家なのか一地方領主なのか?
投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/28 10:55 投稿番号: [997 / 6952]
>実は朝鮮が出兵を決定する前に明だけでなく、後金からも朝鮮に明のために出兵しないよう莫大な贈り物をしてきた。朝鮮国王の光海君は慎重派だったが、壬申倭乱時の明の恩義に報いるべきだという議論に勝てず、形だけは明のために出兵することにした。
朝鮮はどちらの属国になるかを選んだというより、かつての北朝鮮がソ連と中国を天秤にかけて経済、軍事援助を多く出した方に組みしたように、朝鮮も明と後金を天秤にかけてやったといいたいのか?
>後金軍の総兵力は10500程度だったようです
>後金軍の総兵力は8万人いたが当然各地に分散していた。この数字はこの時戦場に現れたのが1万程度だったというに過ぎない。一方、明の総兵力は10万といっても、中国各地からの寄せ集めで弱兵も多かった。
後金と朝鮮は国境を接しています。戦場にやってきた朝鮮軍が1.3万というだけで、朝鮮の総兵力ももっといたんだろ。
>>火縄が発火せず降伏したなんて変だね。歪曲の臭いがします(著者の)。
>>それに対して朝鮮軍は13000。どうして戦わずして敗北したの?
>実は朝鮮軍は飢えていた。兵糧は自前で、劉挺の明軍には兵糧は届いていたが、朝鮮の兵站部隊は慣れない土地のためか前線部隊に追いつけず、食料が届いていなかったのだ。明軍は少し位なら貸してくれたが、自分たちも飢えるので全部は貸してくれなかった。朝鮮軍は飢えに苦しみながら戦場に向かっていたのだ。
>>サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?
>甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。
兵糧すら用意出来ないんだったら参戦するな。明軍の足でまといもいいとこだ。朝鮮軍は食料を後金に恵んでもらう為に降伏したようなもんじゃないか。
やはり火縄が発火せず降伏したってのは歪曲だったね。
>洞ヶ峠を決め込むことを中国語で坐山観虎というが、関が原ではこの手合いが多かった。南宮山に陣取った小早川秀秋は徳川に内奥を約束しながら、緒戦の西軍優勢を見て、また迷い動かなかった。痺れを切らした家康が威嚇射撃を加えると驚いてやっと東軍に寝返ったものである。強い方に付こうというのは日本人も同じ。
サルフの戦いにおける朝鮮軍は寝返って明軍を攻撃するほど背信行為をしたわけではない。敗北が明らかになれば降伏するのは古今東西正常な軍事行為だ。
小早川にしろ島津にしろ豊臣方の配下(日本)の一地方領主にすぎません。それに対して朝鮮の場合国家だったのでは?朝鮮が小早川や島津と同じことをしているということは、朝鮮が明帝国内の一地方領主にすぎないということになります。
何故、他国同士(明、後金)の戦争にいやいや借り出されなければならなかったのか?朝鮮が独立国家で出兵がいやなら参戦を断れば済むことです。何故参戦を拒否できなかったのかといえば、朝鮮が独立国家というよりも明帝国内の一地方領主的性格が強かったからでしょう。
東アジアには明があり日本がある。後金は両者の間に割り込んだ。しかし朝鮮半島の集団は、元の一部になったり、明の一部になったり、後金(清)の一部になったり、日本の一部になったりという具合に独立国家というよりは、常に周辺の強国の一地方領主だったわけです。
これは メッセージ 965 (trek022 さん)への返信です.
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>姜弘立
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/28 09:19 投稿番号: [996 / 6952]
韓国サイトで見る限り、客観的な評価で、とくに非難するものはないようです。
http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=5926この年(1618年)明国が後金を撃つために朝鮮に援兵を求めた.ここに朝鮮朝廷は新興の後金が恐ろしかったが,明国が壬辰の乱の時援軍を送った事実のため仕方なく姜弘立を五道都元帥にして1万3,000人の軍事を与えて出征するようにした.
しかし朝鮮と明国の連合軍は富車で大敗し,姜弘立は朝鮮軍の出兵がやむを得なくて成り立った事実を敵陣に通告した後軍士を導いて後金に降伏した.これは現地での形勢を見て向背を決めなさいという光海君の密命によるもののだった.投降した翌年である1620年後金に抑留された朝鮮捕虜たちは釈放されて帰国したが,姜弘立は副元帥・金景瑞など10余名と一緒にずっと抑留された.
1627年(仁祖5年)丁卯胡乱の時後金軍の先導として入国して江華で和議を周旋した後国内に留まるようになったが,逆臣として退けられ、官職を削奪されてから死んだ後復官した.
これは メッセージ 995 (qitiandashen03 さん)への返信です.
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姜弘立
投稿者: qitiandashen03 投稿日時: 2004/02/28 08:44 投稿番号: [995 / 6952]
>姜弘立は売国の将軍として非難されている。
この評価は現在も同じなのですか。
これは メッセージ 988 (trek022 さん)への返信です.
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ふむふむ
投稿者: neoriver504 投稿日時: 2004/02/27 18:31 投稿番号: [994 / 6952]
なるほど、これが真実なんですね(私の読んだ雑誌程度では・・・・・)
総勢400人居なかったんだ!!
これは メッセージ 992 (small_watcher さん)への返信です.
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20万丁
投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2004/02/27 18:28 投稿番号: [993 / 6952]
ありがとうございます。
これは メッセージ 970 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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>>確か・・・・・
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 18:24 投稿番号: [992 / 6952]
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/itiran/simadu2.htm
以下抜粋
慶長5年(1600)、9月15日未明、関ヶ原においては、島津軍は西軍についた。この経緯について、『寛政重修諸家譜』には、以下の説明(要約)がある。
会津の上杉景勝を討つため徳川家康が東上したとき、徳川氏の伏見城を義弘に預けて守らせる約束をしたのに、なぜか家康からその連絡が来なかった。その後、大坂城に在ったが、石田三成が徳川家康を討つとして、義弘を味方に誘った。義弘は返事をしなかったが、再三の五奉行からの要請により、やむを得ず説得に折れた。
このとき、甥の島津豊久は東軍の有利を進言したが、義弘は誓約を破ると島津は天下に信用を得ぬ、とする一方、家康の恩義も忘れず、とも言い、よって大軍を国許から呼ばず、戦死する覚悟を告げた。国には兄義久(竜伯)、嫡子家久もおり、自分の戦死は差し支えないとして、まず、伏見城攻撃に参加した。
この事により、伏見城の落城後は、大垣城に入り、攻撃されればこれを撃退する小競り合いはあったものの、積極的な戦闘を行っていない。また、義弘をはじめ甥の豊久を含めた約370人の武士、千人余りの雑兵を従えたのみで、この後の関ヶ原合戦まで参陣したのである。
これは メッセージ 989 (neoriver504 さん)への返信です.
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それは
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 18:19 投稿番号: [991 / 6952]
島津の行動をもっと前から観察すれば理解できると思われます。
元々、島津は三成にだまされて関が原(西軍側に)に連れて来られたようなもんですからね。(徳川にだまされてか?)
...って伏見城守備なんかのことも本当は知ってるんでしょ?
当然のことながら名を惜しんで家をつぶしては元も子もない。参戦しなかったのはその刹那の判断だとは思いませんか?
>朝鮮軍は小早川のように寝返って明軍を攻撃してはいない。
見解の相違ですが、戦場まで行った以上あまり重要とは思えないです。って言うか戦場まで行って何もしないで降伏じゃ勝ち組に乗るより判断としては悪いと思えますね。
>姜弘立は売国の将軍として非難されている。....
それは知りませんでした。朝鮮でもこの史実は恥と認識されてたんですね。
これは メッセージ 988 (trek022 さん)への返信です.
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火病じゃないが?
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 18:04 投稿番号: [990 / 6952]
>いつもの火病癖が再発したようだな。
「いつもの」
・・・おいおい。「いつもの」はあんたでしょうに(苦笑
おたくの「スタンス」にカチンときたので、つい表現がきつくなったのさ。
その後の「失礼云々」には目もくれず?
私はおたくに「言葉と表現がきつくなった事」について「謝罪」していたのだがね。
(気を悪くした、と思ってね。)
それの返答が「いつもの火病癖が再発したようだな。火病患者の精神病棟は御免蒙る。」かい?
判った。では私も今後君にはそのように対応しよう。
これは メッセージ 987 (trek022 さん)への返信です.
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確か・・・・・
投稿者: neoriver504 投稿日時: 2004/02/27 18:02 投稿番号: [989 / 6952]
私の読んだ書物(雑誌だったかな?)によれば
そもそも島津家の長男は関ケ原参戦反対で島津家としては出陣していないらしい。
だが次男の義弘はそれを良しとせず「島津の名前を天下に轟かせる」目的で勝手に出奔。
島津家は後追いする事を禁じたらしいが義弘に従う者が次々と出奔したそうです。
で義弘の元に集合した者が800人?だったと思う。
義弘は名前を轟かせる事のみが目的だったらしく石田に利用される事を嫌ったようです。
これは メッセージ 988 (trek022 さん)への返信です.
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>>島津義弘
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:49 投稿番号: [988 / 6952]
>島津は名を惜しんだから敵に寝返ることもせず降伏もしないで敵中央部突破を敢行し全滅に近い損害をだしたわけだな。
名を惜しむんなら何故参戦しなかったんだろうね。
「山に坐わって虎を見る」のが名を惜しむ戦国武将の態度なのか?
>朝鮮軍は名を捨て一時の実を取ったわけだが、小早川と重なるな。
朝鮮軍は小早川のように寝返って明軍を攻撃してはいない。
>不思議なのは今もって朝鮮人がこの史実を恥と認識してないところじゃなかろうか?
姜弘立は売国の将軍として非難されている。
その後、帰国したがすでに光海君は王座を追放され、仁祖に睨まれて復職できなかった。
私は姜弘立の子孫が彼の名誉を回復したいとして書いた本を持っている。
これは メッセージ 986 (small_watcher さん)への返信です.
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火病再発
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:39 投稿番号: [987 / 6952]
>つい、「怒りの琴線」に触れたが為、われを忘れたようで。
日本軍も口ほどではないと書いたのを勝手に「日本軍はたいしたことない」と誤読し、怒りの琴線爆発。
いつもの火病癖が再発したようだな。
火病患者の精神病棟は御免蒙る。
これは メッセージ 981 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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>島津義弘
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 17:36 投稿番号: [986 / 6952]
島津は名を惜しんだから敵に寝返ることもせず降伏もしないで敵中央部突破を敢行し全滅に近い損害をだしたわけだな。
三方が原の家康もそうだった。名を惜しみ臆病の謗りを受けたくないがために勝てる見込みのない合戦をして大敗を喫してる。
そして後にその行動が両者共に計り知れない利益をもたらしたな。
朝鮮軍は名を捨て一時の実を取ったわけだが、小早川と重なるな。
不思議なのは今もって朝鮮人がこの史実を恥と認識してないところじゃなかろうか?
これは メッセージ 973 (trek022 さん)への返信です.
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>>>日本軍の兵站作戦の失敗
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 17:35 投稿番号: [985 / 6952]
>大明征服を呼号しながら、朝鮮ひとつとれなかったから、口ほどではないと言っている。
おいおい...
明軍5万に勝てなかったのだから、日本軍もたいしたことない、と言っていたのでは?(苦笑
ま、豊臣秀吉の「大言壮語=大明征服」は「夢想」と同列だがね。
当時のテクノロジーと人口学の限界というやつだ。
地政学的にもね。(あ、後、儒教的な影響もあるか)
が、諸々の不利な条件下での交戦で、日本側が示した「実力」は相当なものだが。
これは メッセージ 983 (trek022 さん)への返信です.
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秀吉の失敗
投稿者: enpire_united2 投稿日時: 2004/02/27 17:19 投稿番号: [984 / 6952]
欲かいて大明征伐なんてぶちあげたから失敗したんだね。
半島を半分こしようと明に持ちかけたらうまくいっていたかも。
そしたら北は貧乏、南はそこそこと、今とあんまり変らない状況が想像できる。(笑)
ようするに秀吉にとって朝鮮はただの通路に過ぎなかったわけだ。
なめられたもんだね朝鮮も。
今もそうだけどね。
これは メッセージ 972 (trek022 さん)への返信です.
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>>日本軍の兵站作戦の失敗
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:10 投稿番号: [983 / 6952]
これが、あんたの言う「日本軍はたいしたこと無い」の根拠かい?
大明征服を呼号しながら、朝鮮ひとつとれなかったから、口ほどではないと言っている。他人の文章の読解するのは苦手なようだな。
>「じゃ、朝鮮軍はなんなんだ」と言いたくなるな。
朝鮮軍は弱いといってるじゃないか。
ただあんたも認めたように日本軍の兵站作戦を失敗させたのは李舜臣の水軍、朝鮮軍も全く無能であったわけではない。
それにしても隋唐の大軍を何度も撃退した高句麗や契丹の大軍を撃滅した高麗に比べると李朝時代の朝鮮軍が弱かったのは事実。
朝鮮は儒教を国教として採用し、武官を軽視したためだろう。
これは メッセージ 978 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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確認>誤認。
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 17:07 投稿番号: [982 / 6952]
祖承訓の5万→祖承訓は「5千」
これは メッセージ 979 (trek022 さん)への返信です.
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大変に失礼>trec氏
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 17:03 投稿番号: [981 / 6952]
>だったら、断言的に書きなさんなや。
云々。つい、「怒りの琴線」に触れたが為、われを忘れたようで。
失礼した。
これは メッセージ 978 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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>>サルホの戦い 纏め
投稿者: small_watcher 投稿日時: 2004/02/27 17:01 投稿番号: [980 / 6952]
うだうだ理屈を捏ねても
結局、朝鮮軍は降伏した事実は変わらないと言うことか。
関が原で日和見を決め込んだ武将も後世ではバカにされてるようだし、朝鮮軍がバカにされてたのも想像に難くないな。
これは メッセージ 1 (ryuckel さん)への返信です.
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>>日本軍
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 17:00 投稿番号: [979 / 6952]
>明軍は5万じゃ有りませんよ。
少なくとも、
・祖承訓の5万
・李如松の4万3000
・他(沈惟敬は軍勢数未確認)
全くの誤認。
最初に平壌の石田三成軍を攻撃したのは祖承訓だが、その兵力は1万くらい。
祖承訓は遼東の地方軍の将軍で、北京からの指示を待たず、勝手に朝鮮救援に駆けつけ、敗北したので、軍律違反に問われた。祖承訓の部隊は石田三成にやぶれたあと、遼東に撤退した。従って明が正式に派遣した援朝軍は中国各地からかき集めた5万人だけだった。
これは メッセージ 977 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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>日本軍の兵站作戦の失敗
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 16:56 投稿番号: [978 / 6952]
>朝鮮の役のことは途中から入ってきたから、大局的に書いただけ。
だったら、断言的に書きなさんなや。
不明なら、それなりの書き方有るでしょうが。
あんたがいつも怒って言っている事、自分でやって。
説得力無いぜ、ほんと。
>直接の原因は明軍が放った間諜によって龍山に蓄積された兵糧が放火されたため。
で?これが、あんたの言う「日本軍はたいしたこと無い」の根拠かい?
明軍の不正規戦の手腕はたいしたもんだろうが、それだけをもって「日本軍はたいしたこと無い」といい切れるのかい?
「じゃ、朝鮮軍はなんなんだ」と言いたくなるな。
これは メッセージ 976 (trek022 さん)への返信です.
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>日本軍
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 16:49 投稿番号: [977 / 6952]
>はこの5万の明軍に勝てなかったのだから
明軍は5万じゃ有りませんよ。
少なくとも、
・祖承訓の5万
・李如松の4万3000
・他(沈惟敬は軍勢数未確認)
少なくとも、総数10万以上は投入していますね。
日本側は8方面軍に分割・各個進軍していましたから。
主に明軍と交戦したのは、文禄の役では1〜3軍が各々交戦したようですが。
それでも各軍は2万前後。
明軍より「軍規模」は小さいです。
明・朝鮮軍が「野戦・攻城戦」で日本側を撃破した例は、平壌包囲戦くらいでは。
(これも、明・朝鮮5万3000に対し、小西行長勢1万5000)
慶長の役は、流石に明・朝鮮側も準備万端だったようで、日本側は海岸橋頭堡の城からは余り進出できなかったようですが、元々、慶長の役の戦略目標は半島南部4道攻略と言われていますから、当然かも。
(漢城南部までは進撃してますしね)
それも、絶えず海上兵站線を脅かされて、満足な活動はできなかったようですが。
当時の火力装備率・火力運用・練度を考慮すれば、同数部隊でぶつかれば、日本軍(諸大名の軍勢)と比する軍勢は、欧州のハプスブルグ家(スペイン本国軍)のみ、と言われますが。
(スペイン軍のほうが、部隊指揮系統が日本軍勢より、些か強靭であった)
これは メッセージ 972 (trek022 さん)への返信です.
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日本軍の兵站作戦の失敗
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 16:41 投稿番号: [976 / 6952]
>うーん、随分と認識不足がありますよ。
朝鮮の役のことは途中から入ってきたから、大局的に書いただけ。
>日本側を一言で言えば「兵站作戦の失敗」ですね。
結局、李舜臣の水軍のために日本軍は釜山からソウルへの海上補給ルートを確保できなかったわけだ。
しかし、ソウルの日本軍が釜山方面に撤退した直接の原因は明軍が放った間諜によって龍山に蓄積された兵糧が放火されたため。
これは メッセージ 974 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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>サルホの戦い(纏め)
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 16:30 投稿番号: [975 / 6952]
>これは、もう少しいたのではなかろうか?(疑問提示)
劉挺軍を攻撃した後金軍がどれだけいたかははっきりしない。最初のサルフ山での戦闘後、後金軍は転戦しており、兵力は入れ替わりもあって変動している。2万人もいたとは思えないが。
>親書を持たせていても、それを見せない限り意味が無い。もし、討ち取られ、戦場に打ち捨てられてその親書が後金に渡らなかったらどうするつもりだったのか?
これは鋭い質問だ。実はこれについては朝鮮軍都元帥・姜弘立が対策を講じている。戦闘が始まる何日も前に、朝鮮に心を寄せる女真部族もいるので、内応工作をしたいと劉挺にもちかけ、朝鮮の女真語通事数人を後金側に派遣している。通事は後金側に着くと朝鮮の密書を渡し、朝鮮軍は飢えており、戦意は全くないと実情を明かしている。朝鮮軍が降伏できたのはこの工作が功を奏したからだ。
>朝鮮軍は戦略原則がそもそも、考慮されていなかった。(戦術原則は、交戦していないので、判断しづらい)
朝鮮軍は全く交戦していないわけではない。前には詳しく書かなかったが、朝鮮軍は右営軍、左営軍、中営軍の体制で進軍しており、最初に右営軍が後金軍と接触、大部隊であると言ってきたので、姜弘立は左営軍を右営軍と合流させた。この直後に後金軍の猛攻を受け、右営軍と左営軍は全滅した。包囲された中営軍ももはやこれまでと観念したが、後金軍から降伏しないかともちかけてきたのである。これは先の工作が功を奏したためだろう。後金側も今後のことを考えると、朝鮮を手なずけておく必要があった。
これは メッセージ 969 (samurai_03_japan さん)への返信です.
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>その日本鉄砲隊が行っても
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 16:29 投稿番号: [974 / 6952]
>朝鮮ひとつ取れなかった。
朝鮮軍のみ相手なら、十二分に取れましたが...
>明軍が出現すると驚いてソウルまで逃げ、さらにソウル龍山の兵糧置き場が放火されると食料がなくなり、自発的に釜山周辺まで退去、結局明に騙されて講和を結んだ。
うーん、随分と認識不足がありますよ。
文禄の役の概略は
1592年(文禄元年)
4月12日・小西行長旗頭の第1軍、釜山上陸。釜山城攻略・占領。(最終の第8軍上陸完了は4/18)
4月27日・忠州にて8000の朝鮮軍撃破。
(この間、朝鮮王、漢城放棄)
5月1日・小西行長の1軍、漢城入城
5月2日・加藤清正の2軍、漢城入城
5月8日・最終の8軍、漢城入城
6月16日・1軍、平壌攻略終了
7月7日・閑山島付近で脇坂安治の水軍衆、朝鮮水軍に撃破される
援軍の九鬼嘉隆・加藤嘉明の水軍衆も被撃破
(これにより、日本側の兵站線確保が非常に困難となる。
石田三成が敗戦の警鐘を鳴らしだしたのはこの時期)
7月16日・明軍(祖承訓の軍勢5万)、平壌付近で小西行長の1軍(約1万8000〜1万9000)と交戦。撃破され撤退
8月30日・明の沈惟敬、小西行長と50日間の休戦締結
12月23日・明の李如松が4万3000の軍勢で鴨緑江を渡り朝鮮入り。朝鮮軍1万含め、平壌の1軍包囲
1593年(文禄2年)
1月7日・平壌総攻撃。小西行長、1軍を漢城へ後退させる
(開城の戦力も、漢城に集中する)
1月27日・李如松率いる明・朝鮮軍、漢城近郊の碧蹄館で小早川隆景に撃破される
4月18日・日本軍、漢城放棄。
(この後、帰国)
日本側を一言で言えば「兵站作戦の失敗」ですね。
これは メッセージ 961 (trek022 さん)への返信です.
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島津義弘
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 15:43 投稿番号: [973 / 6952]
>関ヶ原で西軍総崩れの中、島津義弘は前方の敵中に向かって「退却」を敢行して鹿児島まで帰っています。
その島津義弘だが、関が原には西軍側として出陣しながら、形勢を観望して動かず、洞ヶ峠を決め込んだ。
洞ヶ峠を決め込むことを中国語で
>坐山観虎
というが、関が原ではこの手合いが多かった。南宮山に陣取った小早川秀秋は徳川に内奥を約束しながら、緒戦の西軍優勢を見て、また迷い動かなかった。痺れを切らした家康が威嚇射撃を加えると驚いてやっと東軍に寝返ったものである。強い方に付こうというのは日本人も同じ。
サルフの戦いにおける朝鮮軍は寝返って明軍を攻撃するほど背信行為をしたわけではない。敗北が明らかになれば降伏するのは古今東西正常な軍事行為だ。
島津の兵力は1000人ほどで動きやすかったが、関が原の強行突破で大損害を出し、無事に鹿児島に帰れたのは80人くらいだった。敵中強行突破がどれほど危険なことであるかが良くわかる。
これは メッセージ 966 (nanairokamen03 さん)への返信です.
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>明も余計なことしてくれたね
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 15:24 投稿番号: [972 / 6952]
明は余計なお世話を焼いたわけではない。
秀吉は大明征服を呼号しており、朝鮮の日本軍を放置すれば、遼東に進撃してくるのは火を見るより明らかであった。
明は降りかかる火の粉を払うしかなかった。
それでも明の万暦帝は軍費をケチり、朝鮮に派兵したのは李如松率いる5万の兵力に過ぎなかった。
日本軍はこの5万の明軍に勝てなかったのだから、口ほどではなかったわけだ。
これは メッセージ 968 (enpire_united2 さん)への返信です.
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れ:明も余計なことしてくれたね
投稿者: jaway 投稿日時: 2004/02/27 14:51 投稿番号: [971 / 6952]
明は日本と直接的に国境を接したくなかったんでしょう。
で朝鮮をバッファーとして保持したんでは?
これは メッセージ 968 (enpire_united2 さん)への返信です.
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>当時の世界一の日本の鉄砲隊が
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 14:39 投稿番号: [970 / 6952]
>10万丁はあっただろうな。
20万丁とも言われています。
当時世界中の鉄砲保有数の、約65〜70%が日本に存在したと。(イエズス会宣教師の報告から、バチカンかどこかが算出した?)
驚くべきは、部隊の火力装備率。
織田家の場合、平均35〜40%
織田家家中の佐々成政の軍勢では、火力装備率80%ですから。
同時代の欧州最強軍である、スペイン本国軍でさえ、10%前後の火力装備率ですから。
これは メッセージ 959 (kuuboakagi00 さん)への返信です.
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サルホの戦い(纏め)
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/02/27 13:46 投稿番号: [969 / 6952]
trek氏の内容を纏めれば...
1.後金は戦略的原則(勝手知ったる場所で戦う、相手に心理戦を仕掛け誘導する)
戦術原則(兵力集中と、各個撃破)を忠実に守っていた。
明軍は戦略原則(兵站線確保、敵状確認)、戦術原則(兵力集中)を怠った。
朝鮮軍は戦略原則がそもそも、考慮されていなかった。(戦術原則は、交戦していないので、判断しづらい)
2.
>>後金軍の総兵力は10500程度だったようです
>この数字はこの時戦場に現れたのが1万程度だったというに過ぎない。
これは、もう少しいたのではなかろうか?(疑問提示)
総兵力8万は、通常動員か、戦時動員か、最大動員か、による。
通常動員の場合なら、各地に守備軍を配置しても、本体主力として2〜3万はいたと考える方が妥当。(動員力にまだ余裕があるため)
後金の軍制は知識としてないが、モンゴルを例に取れば、騎馬遊牧民系の軍は戦闘部隊と支援部隊の線引きが曖昧。
戦闘部隊は実質2万ほどか?
戦時動員8万なら、この「約1万」は理解できる。
最大動員8万なら、この場合兵力は精々7,8千も出せば目一杯か。
>実は朝鮮軍は飢えていた。兵糧は自前で、
これは軍事行動上から見れば、言い訳にもならない。
軍に充分な兵站を供給し続ける事は、まず大前提だから。
これが最初からできないのなら、その軍は侵攻作戦自体行ってはいけない。(その能力が無い)
3.
>>サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?
>甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。
サルホ山〜国境まで直線150kmとして、「徹夜で3,4日」の行軍で国境まで戻るのは不可能。
通常(中世〜現代)「歩兵」の行軍距離は、疲労を考慮すれば1日20〜25km程が適距離。(秀吉の「大返し」は中世以降の軍事行軍における、唯一の「奇跡」)
道も一直線・平坦ではなく、想定で20〜30%程の延長を考慮すれば200km前後か?
純粋にこれだけの距離を行軍するにしても、通常なら10日前後を有する。
また、この時の状況(特に、兵站路破綻による飢え)を考慮すれば、最短路を行軍したとしても、国境まではその1.5〜2倍の日数は掛かったと推定される。(疲労度も考慮して)
この局面での「投降」は是非も無し、ではなかろうか。
4.朝鮮側の対応
これには疑問が残る。
既に後金勢力の伸長を把握しているなら、何故外交努力を怠ったのか。(歴代朝鮮王朝の、中華従属・儒教思想は考慮していない表現です)
わざわざ「今回の出兵は本意ではないと書いた朝鮮国王の書簡までもたせていた。」
のならば、何故使者を後金に送り、同様の外交文書を渡さなかったのか?
戦場での離反・造反は戦国の常。日本の戦国時代でも日常茶飯事に生起した。
何故、どの努力を怠ったのか?
親書を持たせていても、それを見せない限り意味が無い。
もし、討ち取られ、戦場に打ち捨てられてその親書が後金に渡らなかったらどうするつもりだったのか?
辻褄が合わない。
5.
>>どうして朝鮮軍は明軍の後ろについていて、積極的に前に出ようとしなかったの?
>これには訳がある。実は劉挺はヌルハチのスパイ工作に引っかかり、杜松軍がすでに後金の都に到着したと思い込み、功をあせって、飢えた朝鮮軍を置いて、どんどん前進してしまったのだ。そして伏兵に遭って全滅した。
明軍に置いていかれた、のは、形としてそうであろうが、原因はやはり朝鮮軍兵站線破綻による飢えと疲労、それによる士気の低下ではなかろうか。
これは メッセージ 965 (trek022 さん)への返信です.
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明も余計なことしてくれたね
投稿者: enpire_united2 投稿日時: 2004/02/27 12:45 投稿番号: [968 / 6952]
明が介入しなかったら朝鮮は今も日本の一部。
朝鮮人なんていう嫌われて馬鹿にされる民族はなくなってみんな日本人として幸せに暮らせたのに。
もっとも朝鮮人が足引っ張って今みたいな日本になってないかも知れないけど。
これは メッセージ 961 (trek022 さん)への返信です.
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ミンジョクの血ですなぁ
投稿者: akanbei_21c 投稿日時: 2004/02/27 11:34 投稿番号: [967 / 6952]
>形だけは明のために出兵することにした。しかし、都元帥には万一の時は後金に降伏するよういい含め、今回の出兵は本意ではないと書いた朝鮮国王の書簡までもたせていた。
二股膏薬、三股膏薬の朝鮮人、、、、
強きに従い、弱きを叩く、、、
半万年の宗主国には逆らえず、、、、
今回の6カ国協議で敵前裏切り、、、、
ミンジョクの血ですなぁ
これは メッセージ 965 (trek022 さん)への返信です.
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横からですが>内幕
投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2004/02/27 11:23 投稿番号: [966 / 6952]
>甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。
同じ頃、関ヶ原で西軍総崩れの中、島津義弘は前方の敵中に向かって「退却」を敢行して鹿児島まで帰っています。この時、朝鮮から連れ帰られた少年でのちに士分に取り立てられていた侍が追撃してくる井伊直政を鉄砲で打っています。
>朝鮮の兵站部隊は慣れない土地のためか前線部隊に追いつけず、食料が届いていなかったのだ。明軍は少し位なら貸してくれたが、自分たちも飢えるので全部は貸してくれなかった。
小生この戦闘の経過は知っていましたが、不学のためこの部分は知りませんでした。
「お宅さんがちゃんとメシ喰わしてくれへんよってハラ減ってもう動けへん。義理でつきおうてきたけどここらへんで後金に降参しまっさ。悪う思わんとってか」ってなもんですか。
>しかし、都元帥には万一の時は後金に降伏するよういい含め、今回の出兵は本意ではないと書いた朝鮮国王の書簡までもたせていた。
歴史にifは無いって言いますが、もし明軍が勝っていたら当然のことのように自分達の功績を明の朝廷に申し立てることになっていたんでしょうなあ。ついでに満洲の一部を頂戴とか。
これは メッセージ 965 (trek022 さん)への返信です.
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内幕
投稿者: trek022 投稿日時: 2004/02/27 03:37 投稿番号: [965 / 6952]
自分でも少しは調べたようだから、この戦いの内幕を教えてあげよう。
>後金優勢と判断していたのなら最初から後金の配下に入っている筈です。明が勝つと判断したので明の配下に入ったのでしょう。
実は朝鮮が出兵を決定する前に明だけでなく、後金からも朝鮮に明のために出兵しないよう莫大な贈り物をしてきた。朝鮮国王の光海君は慎重派だったが、壬申倭乱時の明の恩義に報いるべきだという議論に勝てず、形だけは明のために出兵することにした。しかし、都元帥には万一の時は後金に降伏するよういい含め、今回の出兵は本意ではないと書いた朝鮮国王の書簡までもたせていた。
>後金軍の総兵力は10500程度だったようです
後金軍の総兵力は8万人いたが当然各地に分散していた。この数字はこの時戦場に現れたのが1万程度だったというに過ぎない。一方、明の総兵力は10万といっても、中国各地からの寄せ集めで弱兵も多かった。
>それに対して朝鮮軍は13000。どうして戦わずして敗北したの?
実は朝鮮軍は飢えていた。兵糧は自前で、劉挺の明軍には兵糧は届いていたが、朝鮮の兵站部隊は慣れない土地のためか前線部隊に追いつけず、食料が届いていなかったのだ。明軍は少し位なら貸してくれたが、自分たちも飢えるので全部は貸してくれなかった。朝鮮軍は飢えに苦しみながら戦場に向かっていたのだ。
>サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?
甘い考えだ。直線距離で150キロでもそこは敵地だ。出発地へ引き返すとすれば、西の撫順に向かうしかないが、すでに退路は絶たれていた。
>どうして朝鮮軍は明軍の後ろについていて、積極的に前に出ようとしなかったの?
これには訳がある。実は劉挺はヌルハチのスパイ工作に引っかかり、杜松軍がすでに後金の都に到着したと思い込み、功をあせって、飢えた朝鮮軍を置いて、どんどん前進してしまったのだ。そして伏兵に遭って全滅した。歴史の現実はそんなことだ。朝鮮軍の監軍(目付け)はいたが、劉挺と一緒に前に出てしまい、負けてから戻ってきた。朝鮮軍が降伏すると聞いて、するなとも言えず、崖から身を投げて自殺してしまった。明軍の目付け役から見ても朝鮮軍の投降は已むを得ないものだった。
これは メッセージ 964 (bigboy_satan0 さん)への返信です.
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兵力
投稿者: bigboy_satan0 投稿日時: 2004/02/27 01:25 投稿番号: [964 / 6952]
>>どおして光海君って人は最初から明が敗北すると判ってたんだろうか?
>後金建国後、隣国の朝鮮はしばしば使節をヌルハチのもとに送り、女真が強いのは知っていた。その一方、明の腐敗堕落ぶりもよく承知していたから、後金の勝利を予想しないまでも、どっちが勝つかわからんと思っても不思議ではない。
後金優勢と判断していたのなら最初から後金の配下に入っている筈です。明が勝つと判断したので明の配下に入ったのでしょう。
>>どうして朝鮮本国に逃げ帰らずに全軍降伏しなきゃならなかったの?
>敵地奥深く入り込んでから逃げても、後金騎兵の餌食になるだけ。
>10万の明軍がすでに壊滅している以上、1万の朝鮮軍が戦っても勝ち目はない。すでに後金軍は朝鮮軍に対する攻撃に入っていた。こんな時に敗残兵狩りなどしない。
サルホ山は鴨緑江から直線距離にして僅かに150キロ程しか離れていません(朝鮮軍はサルフ山より更に本国よりにいる)。徹夜すれば3、4日で朝鮮国内に引き返せたのでは?国内にまで侵入してきたとしても、大山岳地帯なので隠れる場所はいくらでもあったでしょう。
朝鮮戦争時でも仁川上陸作戦後、多くの北朝鮮軍兵士が韓国東部の山岳地帯を北上して北朝鮮まで撤退に成功しました。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/1103/main13.htmlhttp://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/chinese.htm↑によると後金軍の総兵力は10500程度だったようです、それに対して朝鮮軍は13000(明、朝鮮合計で10万)。どうして戦わずして敗北したの?
>>どっちが勝つか判らない状況だったのなら、なおさら朝鮮軍の活躍しだいで戦況を左右することが可能だったでしょう。重要なキャスティングボードを握っておきながら戦わずして降伏。しかもそのことが何故か美化されている。
>サルホの戦いのことなど読んだこともないくせに口先ひとつでよくこれだけデタラメを書けるものだ。
明は10万の兵力を四路に分け、後金の都を包囲しようとした。ヌルハチの後金軍はこれを各個撃破していった。まず総兵・杜松の率いる西路軍がサルホ山で破れ、杜松らが戦死、ついで総兵・馬林の率いる北路軍が壊滅、翌日後金軍は劉挺の率いる東路軍を襲撃、劉挺を戦死させて撃破した。朝鮮軍はその後ろについていたのだからどうしようもなかった。キャスティングボードなど握っていなかったんだよ。なお李如松の率いる南路軍は他軍が壊滅したのを知って撤退した。こちらは逃げるだけの余裕はあった。
どうして朝鮮軍は明軍の後ろについていて、積極的に前に出ようとしなかったの?
それじゃ戦う前から負け犬でしょ(実際に負け犬)。
>>戦わずして敗北ってところは日韓併合時と全く同じだね。要は自ら主体的に外交を行えず、明の属国のままでいようか後金の属国になろうかと思案しているだけ。「先見の明」だと美化していますが、単に弱小国家の屈辱外交なだけ。
>仁祖のように力もないのに強がりをいって、結局城下の盟を迫られるほうがよっぽど屈辱的。
日本に併合されたことも、朝鮮としては先見の明のあった誇るべき外交的成果だった訳だ!
>後金軍に鉄砲なんかなかった。明軍にも鉄砲があったが、弓矢が鉄砲に勝った例だ。鉄砲はあっても戦術的な用法ができなかったんだろうな
秀吉の朝鮮出兵とほぼ同時に明に対して苗族が反乱を起し、蒙古が攻撃を仕掛けています。結果的に秀吉の朝鮮出兵によって弱体化したのは豊臣家と明帝国、李氏朝鮮、蒙古、苗族。漁夫の利を得たのが後金と徳川家。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdcbfma4oi4baqa4aba4imha4bfa4na4a
ba1a9&sid=1835396&mid=7623一説によると徳川は日本と仲の良くない明と朝鮮の仲を裂く為に、その間にあった後金に鉄砲を援助したとか…
最近、大阪府警本部の建替え工事現場で、大阪冬の陣に備えて造られたとみられる銃撃用の塹壕跡(同時期では欧州でしか見られない)が発見されました。また、島原の乱の絵図にも塹壕らしき施設が描かれているそうです。鉄砲の普及が進んでいた日本では、既に近代戦の一歩手前の段階にまで達していたようです。
これは メッセージ 958 (trek022 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/ffc4znrbbkoc0ah_1/964.html
ま、そう苛つかないで下さいな
投稿者: kuubo_zuikaku 投稿日時: 2004/02/27 01:24 投稿番号: [963 / 6952]
>どうも捏造だというところに話しを持って行きたいようですね。
違いますよ。
>何のために出典まではっきりさせたいのでしょうか。
「東方礼儀之国」という言葉の出所を知りたかったのです。元々どういう意味であったのか。その意味から遊離してしまっているかどうか、確認したかっただけです。
貴公もと仰っているように、現在の日本人が日常使っている語彙とは別であるはずなのに、実際に韓国人がこの言葉を使う場合は日本人が考える「礼儀正しさ」を指しているように使いますよね、違いますか?(日本人は100%この意味で使いますね)。
で、私の感覚として古い中華が他国を素直に褒め称えるなんてあるのかと疑問が湧いたのです。だから語句に拘りました。
レスして頂いた事を鵜呑みにすれば、
>中国人が「東方礼儀之国」を儒教的秩序が整備された国という意味で使っているのは自明
であるから
>日本人の感覚で「現代の礼儀正しいという語彙と同じ」と考えるのはとんでもない見当違い
という事で良いのなら私にとっては納得できる結論です。
「東方礼儀之国」とは「日本的礼儀」を指す言葉ではないのですから、私が違和感を感じるのも宜なるかなという事で。
捏造という言葉を使ったのは「文献に出ていない」という事と、過去の捏造数の多さを考えれば、当然気を付けなければならないと思ったからです。
>無駄な議論のために出典探しまでさせられるのはごめん蒙りたい。
そんな事をさせる積りはありません。ただ、知ってるかなぁと思ったので、知りませんかと聞いただけです。
これは メッセージ 953 (trek022 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/ffc4znrbbkoc0ah_1/963.html
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