竹島
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解12
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/14 20:30 投稿番号: [2560 / 18519]
前にみたように、1690年代に朝鮮政府と日本対馬島主、江戸幕府間で繰りひろげられた鬱陵島領有問題論戦のはてに、結局、江戸幕府と対馬島主が「竹島とその外一島(独島)」の朝鮮領有を認定し、その島への日本人の渡海を禁止する命令を出したのがその一例である。
幕府が倒れ明治政府が樹立された後、日本政府は鬱陵島とともに竹島の朝鮮領有を再三にわたり明白に規定した。
明治維新の翌年である 1869年12月、日本外務省は佐田、森山、斉藤など三名の外務省所属派遣員を朝鮮に送り実態を調査させたが、かれらは「朝鮮の事情を実地探査」して提出した報告書「朝鮮国 交際始末 内探書」の終わりの部分に「竹島(鬱陵島)、松島(独島)が朝鮮の付属になっている経緯」に対する調査結果を報告したのであり、結局それを否定する結論は出さなかった(『日本外交文書』巻3)
この報告書は日本外務省の正式派遣員の公式文書である。かれら3名の公式派遣代表は一貫して独島が鬱陵島の隣島であり、鬱陵島とともに朝鮮の領土であることを認定したいた。
1877年、日本内務省は二島に対する5カ月間の再調査結果を政府最高機関である太政官に報告したが、太政大臣代理 岩倉具視はこれにもとづいて、3月29日「竹島(鬱陵島)とその外一島(松島すなわち独島)は本邦(日本)に関係ないと心得るべき」という指令を内務省に下達しており、内務省は4月9日、それを島根県に下達した(『日本国立公文書館』所蔵資料)。
この指令はそのまま日本の明治政府が鬱陵島とともに独島を日本には関係ない朝鮮領と認定した国家の公文書であり、内務省と島根県に二島を日本の境域から除外するよう指令した政府の決定書である。日本政府が独島の朝鮮領有権を認定した文献としてこれよりも有力なものはなく、日本側文献にこれを否定する文献もない。
日本の古地図を探し回っても事情は同じである。独島博物館で複写した日本の朝鮮関係古地図をみれば、みな一様に独島を鬱陵島とともに朝鮮領に含めている。壬辰倭乱の時、朝鮮侵略のために九鬼嘉隆などが豊臣の命により作成した『朝鮮国地理図』の『八道総図』と江原道部分地図に于山島と鬱陵島が並んで江原道の沖合に明記された。これは日本で鬱陵島と独島をわが国の名称で表記した最初の地図である。
つぎに、日本地図製作の大家として知られている林子平が 1785年ころ『三国通覧図説』に朝鮮と日本および中国東北地方を描いた付録地図を見れば、竹島(鬱陵島)とその横に小さい島(独島)を明記して朝鮮本土と同じ黄色で彩色し(日本は対馬と同じ灰色)、その横に「朝鮮のもの」と書いている。これは当時の日本学会でも独島を朝鮮の領土と認定していることを示している。
1876年、日本海軍水路部がロシア艦隊パラダ号が作成した地図を作戦用に再発行した「朝鮮東海岸図」にも鬱陵島と独島など付属島が詳細に描かれているが、とくに独島は別に絵で描かれた。
1882年、木村が製作した「東国朝鮮国全図」も日本は赤色で表示したが、竹島(鬱陵島)と松島(独島)は朝鮮本土と同じ薄い灰色で表示してそれらの島がみな朝鮮領であることを明らかにしている。
日本海軍水路部で 1883年に初めて発刊した『寰瀛水路誌』にも「リアンコールド岩(独島)」を鬱陵島の属島と明示し、その後、1945年6月に発刊した『簡易水路誌』に至るまで何度も発行した水路誌ではみな独島を朝鮮領の構成部分に記録した(1952年 海上保安庁が発行した「朝鮮半島沿岸水路誌」から独島を日本領に編入)。
特に、ヒケムセッコが 1930年に出した『日本海(朝鮮東海)に位置する竹島に関する日鮮関係』では「竹島(独島)と鬱陵島は現在 朝鮮の江原道に所属し日本海のなかにあるが、朝鮮領土の境界としては最東端である」とし、1936年 日本陸軍参謀本部陸地測量部で製作した「地図区域一覧表」には日本領土と朝鮮半島の間にある鬱陵島と独島を一区画でくくり、朝鮮本土所属と表記した。
このような事実は日帝の朝鮮強占期にも独島が実際上 島根県に所属していなかったことを意味し、したがって「独島島根県編入」は完全に虚偽、謀略であったことを告発している。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2559 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解11
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/14 20:30 投稿番号: [2559 / 18519]
半月城です。
前回、北朝鮮の歴史学会は、明治政府が竹島=独島を放棄した太政官指令についてふれていないと書いたのですが、実はこれは今回紹介する分に書かれていたので訂正します。具体的には前回の前文のみをそっくり削除します。
今回の分で気になる点があります。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』です。歴史学会はこれを日本側に有利な私撰地図とみていますが、地図の着色という点ではかえって日本側に不利な史料になっていることを付けくわえます。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6981
ただし、これはささいな問題です。というのも『日本輿地路程全図』は歴史学会が指摘するように私撰地図なので、国家の認識とは無関係なためです。したがって領有権問題にとって史料価値は低いものです。
つぎに気になる点ですが、歴史学会が<1945年6月に発刊した『簡易水路誌』に至るまで何度も発行した水路誌ではみな独島を朝鮮領の構成部分に記録した>としている点です。堀氏の論文「190年 日本の竹島領土編入」によれば、日本が竹島=独島を領土編入した後の1907年版『日本水路誌』関係海図索引には竹島=独島が日本の方に組み入れられているとのことで、食い違いがあるように思えます。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
3.日本の「独島領有権」主張は領土拡張熱に浮かされた者たちの虚説
独島を奪おうとした日本帝国主義者たちの策動はぶざまな敗北を喫したにもかかわらず、今日の息を吹き返した日本軍国主義者たちは再び「日本領有」を主張しており、独島を「奪還」すべきだと騒乱を起こしている。
独島領有権を主張する日本極右たちの主張はまったく根拠のない妄説であり、失敗をくり返した領土拡張主義者たちの繰り言にすぎない。それは日本軍国主義者の侵略的本性が変わらないことを示している明白な証拠でもある。
日本の政治家は独島が「歴史的にも日本の固有の領土」で「昔から日本領有権を明確に示している文書と古地図がある」としているが、実際のところ、それは「日本輿地路程全図」や「竹島図説」などいくつかの私撰地図、地理書にすぎず、その外のあらゆるものはかえって朝鮮領有権を確証してくれるのである。
前にみたように、朝鮮の歴代文献と地図はどれもがすべて独島を我が領土としており、日本の領土としたのは一件もない。『三国史記』や『高麗史』、『朝鮮実録』など政府が編纂した国家正史、あるいは政府の百科事典でもある『増補文献備考』で独島を于山島、三峰島、可支島などと呼び、江原道蔚珍県所属の島と明記し、官撰地理書である『新増東国輿地勝覧』では地図として于山島と鬱陵島を並べ朝鮮領土として描いた。
1900年に大韓帝国が独島を「鬱島郡所属の島」と明白に再宣明し、政府機関紙である『官報』で世界に公布したことはこうした歴史伝統に基礎をおくものであった。それのみならず、日本の歴代基本文献と権威ある地図もみな独島を日本のものでなく、朝鮮の付属の島としている。
(つづく)
これは メッセージ 2555 (hangetsujoh さん)への返信です.
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保守
投稿者: syouryuhoubu 投稿日時: 2003/09/14 08:51 投稿番号: [2558 / 18519]
日本の領土です。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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ポツダム宣言には
投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/09/07 20:51 投稿番号: [2557 / 18519]
竹島あたりの細かいことは
書いてあっただろうか。
ただ、日本の領土は本州、北海道、九州、四国と周辺の島に限ると
いうことだけでは
なかったか。
これは メッセージ 2555 (hangetsujoh さん)への返信です.
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おわび
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/07 20:51 投稿番号: [2556 / 18519]
半月城です。
#2553は手違いでした。
これは メッセージ 2553 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解10
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/07 20:48 投稿番号: [2555 / 18519]
海軍のこうしたあざとい打算により、あれほど冷遇された中井の独島貸下願は積極的な支持と庇護を受けるようになり、結局は中井の貸下願が1904年9月29日「りゃんこ島(独島)領土編入並ニ貸下願」という表題をつけられ、内務、外務、農商務の3省大臣に提出された。
つまり中井の本来の目的である朝鮮政府に対する独島貸下の交渉が日本政府による領土編入問題に転換、拡大したのである。日本の内閣はこのころ朝鮮政府に武力で「保護条約」(1905年11月に捏造した乙巳5条約)を強要する計画をくり返し討議していた時だったので、この機会に独島を強占することも上策と考えるようになったのであり、これから1905年1月28日に閣議でついに独島の島根県編入を独断的に決定する横暴を強行するようになった。この閣議の決定とは次のとおりである。
「この無人島は他国がこれを占領したと認められる形跡がない」。しかるに隠岐島司の所管にするのは「差しつかえないと判断」し、中井の「請議のとおり閣議決定が成立したと認める」
まったくこれは傍若無人な独断であり、独善的なサムライ式行為であった。独島を朝鮮が歴代にわたり領有していたという「形跡」は日本にも多くあったし、ちょうどこの閣議決定に先立つ1900年10月、すでに大韓帝国は勅令第41号で独島の朝鮮領有を再確認し『官報』で世界各国に知らせたのである。
それにもかかわらず、日本が「他国が占有したと認められる形跡がない」として「差しつかえないと判断」して「決定が成立したと認める」としたことは実に言語道断である。
この強盗的閣議決定にしたがい、島根県庁は2月22日付で「島根県告示」第40号なるものを造作し「北緯37度30分、東経131度55分、隠岐島から西北85マイルにある島嶼を竹島と称し、今日から本県所属隠岐島司の所管に定める」と公布した。
実に「島根県告示」なるものは、何人かの謀略輩が陰で作りだした完全な捏造品である。それにもかかわらず日帝は、一朝にして千数百年間にわたり朝鮮が領有経営してきた独島を「日本領土」と規定し、それが国際法に規定された「無主地先占」手続きや要求に合致すると言い張った。
こうした独島強奪は完全に謀略かつ陰謀であり、徹頭徹尾 不法無道な強盗行為であった。300余年前に領議政 南九萬が糾弾した「狡猾な倭人の心根」はこの時も変わりなかった。独島は日本閣議の決定や「島根県告示」により日本領土に編入されたのではなく、実際は日帝の朝鮮強占により朝鮮半島およびそれに付属した他の島とともに日帝に併呑されたのであり、したがって日帝の敗亡とともにカイロ、ポツダムなど国際協定と連合国最高司令部指令第677号により本来の主人に帰属した。これで独島を侵奪しようとした日本帝国主義者たちの策動は完全敗北に終わった。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2550 (hangetsujoh さん)への返信です.
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血迷ったか? ダブル投稿じゃん!
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2003/09/07 20:47 投稿番号: [2554 / 18519]
え〜?(笑)
これは メッセージ 2553 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解9
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/07 20:45 投稿番号: [2553 / 18519]
半月城です。
北朝鮮歴史学会の独島論文ですが、今回は明治時代の日本をとりあげます。今回、気になるのは、1877年、明治政府が竹島(鬱陵島)および外一島、すなわち竹島=独島を放棄した史実にまったくふれていないことです。これは、歴史学会がその史実を知らなかったとしか思えません。そうだとすると、日本史料の批判が弱いようです。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
19世紀後半に「征韓論」が台頭し、明治政府の海外侵略が政策化するや独島に対する侵奪策動は次第に露骨になり、大規模に敢行され、朝鮮政府が1882年、積極的な独島開拓政策に移行した後も日本人の違法行動はやまなかった。
1900年、禹用鼎が鬱陵島を巡察したとき、144名の日本人が11隻の船を停泊させ、鬱陵島に潜入して非法な資源略奪をこととしていた。かれらは撤収を要求する鬱陵島住民の要求に従順に応じる代わりに刀を振り回し反抗し、こちらの正当な要求に対し自分たちは島監の黙認下に商業貿易をしていたと抗弁した。
露日戦争時、日帝は非法にも独島に海軍望楼(監視塔)を設置し、北部朝鮮ー鬱陵島ー独島ー日本本島にいたる海底電線を敷設し、日本の東郷艦隊は独島に依拠し、付近の海洋でロシア遠征艦隊を撃破した。
この事実を当時の朝鮮政府はまったく知らず、日本政府もまだこの露骨な背信行為を隠していた。この時期にも日本は独島に対する侵略行為を継続した。それは中井養三郎の有名な「独島貸下願」の事実が物語っている。
島根県の漁業企業家である中井は独島水域でアシカ捕獲独占権をえるために、1904年9月農商務省に「りゃんこ島(独島)貸下願」を提出したが、かれはここで独島を10年の期限で借用し、アシカ猟の独占権をもてるように旧韓国政府と交渉するよう提起した。
農商務省と外務省、内務省の官吏はそれが朝鮮領であると知っていただけでなく、その島の借用可能性に対し疑問をもちソッポを向いたが、唯一海軍省だけがそれに興味をもち、政府に提出したという。
独島が厳然たる朝鮮の領土であり鬱陵島の付属であるという状況で、この問題はただ朝鮮政府との協商によってのみ解決されるのであった。中井自身もそのように考えていた。
このような事実に対し、1923年7月島根県教育会で発行した『島根県誌』では「・・・中井はこの島(独島)を朝鮮領土と考え上京し、農商務省へ説明して同政府(朝鮮政府)に貸下願いを出そうとした」と書かれてあり、1933年2月に刊行された『隠岐島誌』にも「中井はリャンコ島(独島)を朝鮮領土と信じ、同政府(朝鮮政府)に貸下願を出すことを決心した」と明らかにした(しかるに日本は、かつてこれに対し「編者の誤解」などと見苦しい弁明をした)。
中井自身も後に「独島は鬱陵島に属した韓国の領土と考えた」と明らかにし、まさにそのために「上京して農商務省をとおして韓国政府に貸下願」を出そうとしたと証言した(1910年に書かれた中井の「履歴書」、1906年に出版した『歴史地理』8巻6号)。日本政府もやはりそのような事実を明らかに知っていたため、中井の提議が複雑な問題を惹起するものと判断して1カ月を過ぎても交渉に応じなかった。
まさにこのような時、海軍省を中心にこの問題に関心をもつようになったのは、当時の朝鮮が、日本の軍事的侵略の対象になっていた朝鮮でうまくすればこの機会に独島を強占して海外侵略基地にでき、またそうした可能性もあると計算したためであった。
というのも、中井が独島でアシカ猟をした事実がすぐさま独島に対する日本の領有権を主張できる重要な根拠になりうるし、独島が朝鮮領であっても人が常住しない無人島であるうえに17世紀以後日本人が「松島」と呼んだ資料が残っている事実、そしていかなる帝国主義列強も独島に対する領有権を主張しないばかりか、もっと重要なことに島の領有国である朝鮮が日帝植民地に転落していた当時の環境で抗議を提起できないだろうなどがその理由であった。
(つづく)
これは メッセージ 2538 (hangetsujoh さん)への返信です.
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だから、「北朝鮮」じゃ意味無いって☆
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2003/09/07 20:41 投稿番号: [2552 / 18519]
これは メッセージ 2550 (hangetsujoh さん)への返信です.
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>北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解9
投稿者: mekatarami 投稿日時: 2003/09/07 20:32 投稿番号: [2551 / 18519]
>1877年、明治政府が竹島(鬱陵島)および外一島、すなわち竹島=独島を
>放棄した史実
相変わらず、泣けますなァ。
ここまでくると、浪花節みたいなもんですなァ。
いつの日か、その勤労奉仕が報いられて、祖国で高い地位にお就きになれると
よろしいですなァ。
>歴史学会がその史実を知らなかったとしか思えません。
そんな「重要な史実」を知らんとは、語るに落ちた学会ですなァ。
そんな学会が何を発表しても、そんなもんに権威がありますのかなァ。
でも、そんなことになったら、その学会の論文を必死になって紹介したはる
半月先生の立場が・・・
これは メッセージ 2550 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解9
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/07 20:08 投稿番号: [2550 / 18519]
半月城です。
北朝鮮歴史学会の独島論文ですが、今回は明治時代の日本をとりあげます。今回、気になるのは、1877年、明治政府が竹島(鬱陵島)および外一島、すなわち竹島=独島を放棄した史実にまったくふれていないことです。これは、歴史学会がその史実を知らなかったとしか思えません。そうだとすると、日本史料の批判が弱いようです。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
19世紀後半に「征韓論」が台頭し、明治政府の海外侵略が政策化するや独島に対する侵奪策動は次第に露骨になり、大規模に敢行され、朝鮮政府が1882年、積極的な独島開拓政策に移行した後も日本人の違法行動はやまなかった。
1900年、禹用鼎が鬱陵島を巡察したとき、144名の日本人が11隻の船を停泊させ、鬱陵島に潜入して非法な資源略奪をこととしていた。かれらは撤収を要求する鬱陵島住民の要求に従順に応じる代わりに刀を振り回し反抗し、こちらの正当な要求に対し自分たちは島監の黙認下に商業貿易をしていたと抗弁した。
露日戦争時、日帝は非法にも独島に海軍望楼(監視塔)を設置し、北部朝鮮ー鬱陵島ー独島ー日本本島にいたる海底電線を敷設し、日本の東郷艦隊は独島に依拠し、付近の海洋でロシア遠征艦隊を撃破した。
この事実を当時の朝鮮政府はまったく知らず、日本政府もまだこの露骨な背信行為を隠していた。この時期にも日本は独島に対する侵略行為を継続した。それは中井養三郎の有名な「独島貸下願」の事実が物語っている。
島根県の漁業企業家である中井は独島水域でアシカ捕獲独占権をえるために、1904年9月農商務省に「りゃんこ島(独島)貸下願」を提出したが、かれはここで独島を10年の期限で借用し、アシカ猟の独占権をもてるように旧韓国政府と交渉するよう提起した。
農商務省と外務省、内務省の官吏はそれが朝鮮領であると知っていただけでなく、その島の借用可能性に対し疑問をもちソッポを向いたが、唯一海軍省だけがそれに興味をもち、政府に提出したという。
独島が厳然たる朝鮮の領土であり鬱陵島の付属であるという状況で、この問題はただ朝鮮政府との協商によってのみ解決されるのであった。中井自身もそのように考えていた。
このような事実に対し、1923年7月島根県教育会で発行した『島根県誌』では「・・・中井はこの島(独島)を朝鮮領土と考え上京し、農商務省へ説明して同政府(朝鮮政府)に貸下願いを出そうとした」と書かれてあり、1933年2月に刊行された『隠岐島誌』にも「中井はリャンコ島(独島)を朝鮮領土と信じ、同政府(朝鮮政府)に貸下願を出すことを決心した」と明らかにした(しかるに日本は、かつてこれに対し「編者の誤解」などと見苦しい弁明をした)。
中井自身も後に「独島は鬱陵島に属した韓国の領土と考えた」と明らかにし、まさにそのために「上京して農商務省をとおして韓国政府に貸下願」を出そうとしたと証言した(1910年に書かれた中井の「履歴書」、1906年に出版した『歴史地理』8巻6号)。日本政府もやはりそのような事実を明らかに知っていたため、中井の提議が複雑な問題を惹起するものと判断して1カ月を過ぎても交渉に応じなかった。
まさにこのような時、海軍省を中心にこの問題に関心をもつようになったのは、当時の朝鮮が、日本の軍事的侵略の対象になっていた朝鮮でうまくすればこの機会に独島を強占して海外侵略基地にでき、またそうした可能性もあると計算したためであった。
というのも、中井が独島でアシカ猟をした事実がすぐさま独島に対する日本の領有権を主張できる重要な根拠になりうるし、独島が朝鮮領であっても人が常住しない無人島であるうえに17世紀以後日本人が「松島」と呼んだ資料が残っている事実、そしていかなる帝国主義列強も独島に対する領有権を主張しないばかりか、もっと重要なことに島の領有国である朝鮮が日帝植民地に転落していた当時の環境で抗議を提起できないだろうなどがその理由であった。
(つづく)
これは メッセージ 2538 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2550.html
半月は馬鹿!
投稿者: kimahakekerajya 投稿日時: 2003/09/05 15:46 投稿番号: [2549 / 18519]
馬鹿!半月のレスは、
以前からたいして変わらず、繰り返し同じ事を言っているだけ。
文章が多ければ良いって問題じゃないだろ。
馬鹿、朝鮮民族は文章の多さに騙されるが。
もっともっと勉強しろ半月!
これは メッセージ 2547 (hangetsujou さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2549.html
結論はでておる。
投稿者: yamatonihiganoboru 投稿日時: 2003/09/02 21:03 投稿番号: [2548 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2548.html
やっぱり反応
投稿者: hangetsujou 投稿日時: 2003/09/02 20:04 投稿番号: [2547 / 18519]
しちゃうもんですね^^
これは メッセージ 2542 (mattouya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2547.html
間違った思いこみだらけの半月
投稿者: toyonpa 投稿日時: 2003/09/02 15:57 投稿番号: [2546 / 18519]
竹島は日本領土です!
鬱病半月の狂った熱意は認めますが、
この狂った熱意は他の部分で非常にマイナス要因です。
日本国領土の竹島の不法侵入朝鮮人は、直ちに竹島から出て行きなさい!
半月もこの世界出からて行ってね。
これは メッセージ 2538 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2546.html
>脱線がすぎますが・・・
投稿者: toraneko_yh 投稿日時: 2003/09/02 11:13 投稿番号: [2545 / 18519]
またひとり二役の開始ですか
これは メッセージ 2544 (mattouya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2545.html
脱線がすぎますが・・・
投稿者: mattouya 投稿日時: 2003/09/02 11:00 投稿番号: [2544 / 18519]
私は半月城さんと紛らわしいハンドルをつけておりません。
私が言ったのはまあ駄洒落のうちです。
韓国には半月城というのがいくつかあるんですよ。
年に何回かフイールドワークに出かけますから、二つの半月城は既に見てきました。
それとかけて、冗談言ったまでです。
これは メッセージ 2543 (tydkemvo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2544.html
>半月城はたくさんあるようです。
投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/09/02 08:06 投稿番号: [2543 / 18519]
あなたも、半月城なの?
これは メッセージ 2542 (mattouya さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2543.html
半月城はたくさんあるようです。
投稿者: mattouya 投稿日時: 2003/09/01 13:10 投稿番号: [2542 / 18519]
お笑いネタのハンドルですか?
これは メッセージ 2541 (hangetsujou さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2542.html
訳分からん
投稿者: hangetsujou 投稿日時: 2003/09/01 12:41 投稿番号: [2541 / 18519]
お笑いネタでその資料を出してくれてるんでしょ?
これは メッセージ 2538 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2541.html
>竹島=独島見解8
投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/08/31 09:35 投稿番号: [2540 / 18519]
>1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定し、日本人の鬱陵島水域出入りを禁止する命令をだすようになり、1698年には鬱陵島と独島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)であることを認定し、1699年には文書交換が完了し一旦終わりになった。<
江戸時代、長州藩では、
こういう見解はなかったのでは。
だから、江戸幕府の取り決めは
本当にそういう内容だったのだろうか。
単に、鎖国をしていたための便宜では
なかったか。
これは メッセージ 2538 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2540.html
>北朝鮮歴史学会の竹島
投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/08/31 09:29 投稿番号: [2539 / 18519]
>独島は新羅の時から朝鮮領土の一部とみなされ、
朝鮮歴代王朝により合法的に経営されてきたが、<
経営していたんだろうか。
もともと、無人島だったんでは、
江戸時代までは。
これは メッセージ 2537 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2539.html
北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解8
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/31 09:20 投稿番号: [2538 / 18519]
1618年、伯耆藩の大谷・村川は幕府の承認のもとに隠州すなわち因幡藩から竹島渡海免許を得て、その後70年間、年毎に鬱陵島近海に来て漁労作業をした(注)。
倭人のこのような不法行為は1692年、朝鮮漁夫に発覚し、阻止された。翌年、安龍福、朴於屯をはじめとする東莱、蔚山漁民40余名の集団抗議で侵入者たちは完全に追い出された。しかし、この事件を契機に日本は鬱陵島、独島を奪おうとする領土的野望を露骨にさらけだした。
対馬島主 宗義信は、逃げる倭船を追って日本の隠岐島と伯耆藩にまで行き鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定した従前の約束を守ることを要求して闘った安龍福と朴於屯を拘留・押送し、「貴国の漁民が本国(日本)の竹島(鬱陵島)へ船に乗って」来たために、2名を逮捕し送還するという文を礼曹に伝え(『増補文献備考』巻31,輿地考19)、同時に竹島(鬱陵島)領有に関する交渉を進めることを提起した。
1694年には橘を送り、朝鮮人が「日本の竹島(鬱陵島)」に勝手に来て魚取りをしたが、入れないようにしてほしいと懇請した。これは倭人が鬱陵島を竹島とよび、それを奪う奸計をたくらんでいることを示している。
これに対し小心な官吏たちは、第2の壬辰倭乱が起こるまいかと慎重に処理することを提起したが、領中枢府使 南九萬は粛宗に島をカラにしたとて「なぜ先代の王の時代から受け継いだ彊土を他国に与えられましょうか」として、倭奴の奸計に断固として対処するよう提起した。当時、史官はこの事件に対し次のように明察な評価をした。
倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島であり、鬱陵という名称は新羅と高麗の歴史書と中国人の文集にもみえるが、その由来は非常に古い。その島で竹が多く産出するので竹島という名もあるが、実は一島に対するふたつの名である。
倭人が鬱陵島という名を隠し、ただ竹島で魚取りをするという口実をもうけたのは、わが国からそれを許可するという回答を引きだし、それを証拠にして島を所持しようという企みを実現しようとするものであった(『粛宗実録』巻26,20年2月癸酉)。
倭人たちの鬱陵島侵略策動は、その後、対馬島主が亡くなり、新しい島主が江戸に行き、関白(将軍)に「竹島は朝鮮に近いのでお互いに争ってはいけない」と勧告した後、一悶着あったが、結局は朝鮮政府の頑強な態度により、1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定し、日本人の鬱陵島水域出入りを禁止する命令をだすようになり、1698年には鬱陵島と独島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)であることを認定し、1699年には文書交換が完了し一旦終わりになった。
その後、双方はこの島に出入りする倭人を侵犯罪(越境罪)で取り締まることを約束したが、「空島政策」の余波をついて個別的な倭人たちの不法な出入りとその水域の漁労は継続された。倭人たちは巡視制度の間隙を利用し、群をなして押し寄せ、追い出されても追い出されても再三押し寄せたりした。
(注)「伯耆藩」は鳥取藩、「隠州すなわち因幡藩」も鳥取藩のまちがいと思われます。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2537 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解7
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/31 09:18 投稿番号: [2537 / 18519]
半月城です。
このシリーズは最初に書いたように、北朝鮮歴史学会の論文をそのまま翻訳したものです。したがって訳文に「引用者注」とあるのは、引用者である雑誌『歴史批評』関係者の注釈です。これは、おそらく論文を取り次いだ研究者 姜萬吉氏の注と思われます。
さて、今回は江戸時代の日朝関係が主です。文中に<1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定>とありますが、この認識は間違っているようです。うえのように認定したのは後の明治政府であり、江戸幕府は竹島(鬱陵島)のみを朝鮮領と認定し、竹島=独島には直接ふれなかったことを付けくわえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
2.独島に対する日本の侵犯、強奪策動
独島は新羅の時から朝鮮領土の一部とみなされ、朝鮮歴代王朝により合法的に経営されてきたが、日本はそれを奪い、自国の領土にしようと執拗に策動した。独島に対する日本の侵奪策動は、高麗後期の倭寇による鬱陵島侵略から始まった。
1379年、倭寇が鬱陵島を侵犯し15日間も滞留し、島民を殺戮したり財物を略奪したが、壬辰倭乱のときもそこに侵入し、島を廃墟にした。このとき、もちろん鬱陵島に隣接した独島が倭寇の蹂躙からまぬがれなかっただろうということは明白である。しかし、まだ領土野欲は表面化せず、ただ鬱陵島と独島の島および海の資源の略奪を基本にした侵略であった。
領土を奪おうとする策動は、17世紀(光海君〜粛宗年間)から表面化したが、この時期の侵奪策動の特徴は鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定したうえで経営の看板を出し、将来の有利な機会に鬱陵島と独島を完全に奪うための基盤づくりをねらっていたことにある。
鬱陵島を侵奪しようとする策動は、1615年、対馬島主が礒竹島(鬱陵島)の日本領有を主張したことで表面化する。これに対し東莱府使 尹守謙(その後は朴慶業)は日本人のいう「礒竹島」とは朝鮮の鬱陵島であり、したがってその島に出入りする倭人を海賊として取り締まると警告した。
こうした状況において、日本は日本人が鬱陵島と独島に出入りすることを「越境罪」で取り締まるふりをしたが、実際は朝鮮政府の「空島政策」を悪用し、朝鮮巡視官に発覚しないかぎりこれを黙認し、背後で慫慂する両面政策を実施した。日本の伯耆藩 大谷・村川両家が江戸幕府から「渡海免許状」を得て、日本漁夫を鬱陵島、独島水域に送ったのはその実例である。
「渡海免許状」とは禁止区域の海に行けるという許可証であり、他国の地に出入りできるという許可証ではなく、それを発給したこと自体が鬱陵島水域への出入りが公式に禁止されていた証拠である。
(つづく)
これは メッセージ 2529 (hangetsujoh さん)への返信です.
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ポツダム宣言と竹島は関係ないでしょう
投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/08/30 07:46 投稿番号: [2536 / 18519]
竹島は、本州、北海道、九州、四国
に付随する日本の領土と言えば。
これは メッセージ 2535 (naver138 さん)への返信です.
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SCAPINの失効について考察
投稿者: naver138 投稿日時: 2003/08/30 03:47 投稿番号: [2535 / 18519]
1945年9月2日
日本は「ポツダム宣言」受諾の降伏文書に署名したことにより、戦争を終結する機会を与えられました。
[一
われら合衆国大統領、中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣は、われらの数億の国民を代表して協議の上、日本国に対して、今次の戦争を終結する機会を与えることで意見が一致した。]
その後、戦争状態の終了を認められたのは、サンフランシスコ条約 第一条(A)によりサンフランシスコ条約が発行した日となっています。
[第一条(a)
日本国と各連合国との間戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。]
ポツダム宣言受諾後、日本は主権を奪われ、サンフランシスコ条約により主権の回復を認められるまで日本国に主権は存在しませんでした。
その間の主権は連合国総司令部に存在し、その指令はSCAPINと呼ばれる指令書により、日本国政府にくだされ、日本国政府はSCAPINに従い行政を行ってきました。
1952年 サンフランシスコ条約が締結され発行することにより、日本国は主権を回復しました。
[第一条(b)
連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。]
日本国が主権を回復したことにより、連合国総司令部による主権は消滅し、日本に対して主権を行使していたSCAPINは効力を失います。
以上が、私がポツダム宣言&サンフランシスコ条約を読んだ上で、SCAPINが無効となると考える理由です。
NAVERで書き込む前に、考え方に間違いが無いかどうか確認のため投稿しました。
意見がある方は返信してください。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2535.html
ポイントは
投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/08/28 11:30 投稿番号: [2534 / 18519]
>朝鮮政府が鬱陵島と独島に対する450余年間の消極的な「空島政策」を放棄して積極的な開拓政策を実施したのは 1880年代初からであった。<
これが
>朝鮮政府が「鬱陵島」に対する450余年間の消極的な「空島政策」を放棄して積極的な開拓政策を実施したのは 1880年代初からであった。<
であったら、異論はないのですが、「鬱陵島」はよいとして、朝鮮政府は「独島」なんて認識していなかったにもかかわらず、さりげなく「鬱陵島と独島」としちゃってるところがすばらしい。
これは メッセージ 2530 (kyomo_2003 さん)への返信です.
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バカの壁
投稿者: toraneko_yh 投稿日時: 2003/08/28 09:53 投稿番号: [2533 / 18519]
半月城氏と彼の分身を見ていると、まさのこの言葉の実例を見る思いだ。
「バカの壁」
自分が知りたくないことは聞かないし理解しないという愚か者
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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素朴な疑問
投稿者: shisyamo_a 投稿日時: 2003/08/28 09:38 投稿番号: [2532 / 18519]
1881年以降は、独島と呼ばれていたらしいですね。
この島を、1900年の勅令第41号で石島としているのはどうしてなのですかね?
また、勅令で石島としておきながら、現在の名称が、またもや独島になっている事への疑問はないのですか?
正式に国が石島と命名したのなら、今もなお石島と呼ばれるのが当然でしょう?
日本ではその昔、あの島は松島と呼ばれていた。しかし、西洋の地図の誤認識による混乱から、いつしか竹島へと名が変わった。そして、1905年に竹島として正式に編入し、それ以降は竹島という名称で日本人は認識している。
石島と独島を明確に結びつけるような史料はありませんか?あったら明示して頂きたい。
一応言っておきますが、現地人がそう呼んでいる等と言う根拠のない理屈や、質問返し等のはぐらかしは、もう聞き飽きましたから止めてね。
これは メッセージ 2529 (hangetsujoh さん)への返信です.
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>北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解6
投稿者: mekatarami 投稿日時: 2003/08/24 09:41 投稿番号: [2531 / 18519]
ここでももう、何度も出ておるかとは思いますけど、
于山島、三峰島あるいは可支島という立派な名前があるならば、
なんで1900年の勅令で、それらの名前が使われへんかったんですかなァ?
しかも、その1900年の勅令で使われた島名も「石島」。
いったん「石島」として勅令公布までして確認をした島名が、
僅か6年にして変わってしまう。
こんなデタラメな行政行為がほんまにありますのかなァ?
少なくとも、1900年から1906年までの間に、当時の大韓帝国政府が、
石島に対してどのような実効的支配を及ぼしたのか、それくらいは
お教えいただきたいですなァ。
>第2条
郡庁・・・区域は鬱陵島全島と竹島(竹嶼ー引用者)、
>石島(独島ー引用者)を管轄する・・・
なんか、泣けてきますなァ。
いつの日か、半月先生が無理矢理な引用者注を付けんでも、「石島(あるいは
于山島)は独島なり!」と書いてあるような、資料が発掘されることを、
草葉の陰からお祈りしておりますよ・・・
これは メッセージ 2529 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2531.html
ポイントは
投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/08/24 09:33 投稿番号: [2530 / 18519]
>朝鮮政府が鬱陵島と独島に対する450余年間の消極的な「空島政策」を放棄して積極的な開拓政策を実施したのは 1880年代初からであった。<
日本は実際に
1800年代に
施策を実施しつつあった。
日本もそれ以前から
発見していたはずだが。
これは メッセージ 2528 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解6
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/24 09:04 投稿番号: [2529 / 18519]
このように独島を最初に発見して経営したのも朝鮮人であり、その島を朝鮮の行政区域内に編入し内外に最初に公布した国も朝鮮であった。
『三国史記』と『高麗史』、『朝鮮王朝実録』など国家的な正史に厳然と于山国以来、于山島、三峰島(1476年)、可支島(1794年)、独島(1881年以後)などと記録され、公式的にたえず経営されてきており『輿地志』と『世宗実録地理志』、『新増東国輿地勝覧』、『増補文献備考』など歴代地理書と歴史文献などに于山島(独島)が鬱陵島とともにいつも江原道蔚珍縣の島の条項とならんで明記された事実は、独島が新羅以来から朝鮮領土であったし、高麗時代からは蔚珍縣に編入されてきた朝鮮領土であったことを物語っている。
とくに、この文献などが個人の著述でなく国家による官撰ということを念頭におくとき、またそれら文献が日本と中国にも伝来され、その国の対朝鮮外交事業の重要な基礎文献として利用されたという事実、そして重要なことに、当時は近代的な国際法が顔を出せずにいたし、またそれが制定された後もまだ広く知られていなかったという条件において、うえの文献記録は明白に対外的に国家の公式文献としての性格を帯び、国家的意志の表示となるのである。
そうであるから国際法でいう領土権認定の基本要件がすでに古くから当時の歴史的条件にあうように整えられたことを物語っている。
しかし、朝鮮政府は1900年になり、当時知られていた国際法体制の要求にあうよう独島領有権を再確認するため、10月25日、勅令第41号を公布し、独島に対する領有権を再三明白に宣布した。その主要条項は次のとおりである。
勅令第41号
鬱陵島を鬱島に改称して島監を郡守に改訂する件
第1条
鬱陵島を鬱島と改称して江原道に付属し、島監を郡守に改訂し、官制中に編入して郡等(級)は5等とする。
第2条
郡庁・・・区域は鬱陵島全島と竹島(竹嶼ー引用者)、石島(独島ー引用者)を管轄する・・・
第6条
本令は発布日から施行する。
光武4年10月25日
この勅令は政府新聞である『官報』第1716号、光武4年(1900)10月27日付で世界に正式公布された。こうして新羅以来、ずーっと朝鮮の領域になってきた独島はふたたび全世界に自己の所属を明白に宣言するようになったし、近代国際法の要求に合うように朝鮮の領土であることが再確認された。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2528 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2529.html
北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解5
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/24 09:02 投稿番号: [2528 / 18519]
半月城です。
北朝鮮歴史学会の論文ですが、今回は空島政策の転換から勅令第41号までの拙訳を掲示します。そのなかで注目されるのは、独島の名前の初出を1881年としていることですが、残念なことにそれを示す文献は引用されませんでした。それ以外は順当な主張のようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
朝鮮政府が鬱陵島と独島に対する450余年間の消極的な「空島政策」を放棄して積極的な開拓政策を実施したのは 1880年代初からであった。「安龍福事件」後、一時静かだった倭人たちは、明治維新以後になって高唱された「征韓論」に便乗して、ふたたび鬱陵島をねらうようになった。そうした中、1881年5月、7名の倭人が鬱陵島に侵入し盗伐行為を行ったが、定期的に鬱陵島を巡視した朝鮮政府の捜討官により発覚するという事件が発生した。
これに対し、朝鮮政府はすぐさま日本政府に抗議文を送る一方、現地調査のため副護軍 李奎遠を鬱陵島検察使とする102名の現地調査団を1882年4月、鬱陵島に出発させた。李奎遠の調査報告書によれば、当時、鬱陵島には140名の朝鮮人以外に非合法で78名の日本人がきていたが、かれらは「日本国の松島」という標木まで立てていたという(『Il seong 録』高宗19年5月22日;『日本外交文書』第14巻、『鬱陵島検察日記』)。これは両政府間の協約に対する破廉恥な背反であり、乱暴な挑発であった。
事態の深刻さをさとった朝鮮政府は、1882年6月、日本政府にふたたび抗議する一方、鬱陵島開拓のため積極的な対策を立てた。その主要内容をみれば、本土の人民たちを島に移住させ農耕地を開拓し、鬱陵島行政官として島長を任命、派遣するというものであった(『承政院改修日記』、光緒8年(1882)8月20日)。
その後 1883年3月、開化派の中心人物である金玉均を東南諸島開拓使 兼捕鯨使に任命することにより朝鮮政府は鬱陵島開拓事業に一層拍車をかけるようになり、当時不法滞留していた 254名の日本人たちを皆撤収させた。
政府の積極的な鬱陵島開拓政策により、従来の島民に対する強制刷還政策「空島政策」は逆転し、本土陸地住民を島に移住させる事業が本格的になされ、島を開墾し島の資源を開発するために事業も公式的に推進された。
朝鮮政府の内部官吏、禹用鼎の報告によれば、1900年に鬱陵島住民は400余戸1700名と大幅に増え、耕作地は7700マジギ(斗落)に拡張され、小麦、大麦と豆、ジャガイモなどを栽培し(『新東亜』2000年5月号、「独島」)、鬱陵島の自慢である優良木材も大々的に採伐された。
鬱陵島が積極的に開拓され、その付属島である独島に対する管理と利用、領有権もさらに強固になった。鬱陵島住民は漁労期になれば、自然に独島に押し寄せアザラシを始め、
その外の珍貴な魚を捕らえた。
1904年11月、日本軍艦 対馬号が独島を測量して提出した報告書で「毎年夏になると鬱陵島から多くの人たちがこの島に渡って来て、島の上に小さな小屋を建て、付近で漁業に従事する」としたのは、独島が近代に入り確実に鬱陵島の付属島としてわが人民により効果的に利用されていたことを実証してくれる。
(つづく)
これは メッセージ 2522 (hangetsujoh さん)への返信です.
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本を紹介しておきます
投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/08/21 07:49 投稿番号: [2526 / 18519]
日本海と竹島−日韓領土問題−
大西俊輝
著、東洋出版2003年1月31日第1刷発行
竹島についてはほぼ議論されつくしている感があり、まったく新しい根拠や資料は出ていませんが、出尽くした議論をほぼ網羅し、
わかりやすく、よくまとめてあります。
竹島日本領派にはちょっと物足りない内容というか、中立というスタンスのnochongakちゃんや松任谷さんのほうが喜びそうな内容です。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2526.html
とやかという
投稿者: oitainjpn 投稿日時: 2003/08/20 22:34 投稿番号: [2525 / 18519]
京、奈良文化財・仮名・天皇家も韓国メイドだって言っちゃう始末ですから。そのうち、「日本列島はもともと朝鮮民族のものだ」といって本を出すんでしょうね。朝鮮半島に今や日本のことをとやかという筋合いはないですね。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2525.html
どっちかっていうと
投稿者: saru_timbanco2000gt_turbo 投稿日時: 2003/08/19 20:58 投稿番号: [2524 / 18519]
日本「竹島はニッポンの領土!」
ではなく
日本「日本「竹島はニッポンの領土!(だったような気がする・・・)」
ってカンジですかねぇ。
これは メッセージ 2523 (kdm0709 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2524.html
竹島と北方領土の違い
投稿者: kdm0709 投稿日時: 2003/08/19 11:24 投稿番号: [2523 / 18519]
日本「竹島はニッポンの領土!」
韓国「アイツら、とんでもないイチャモンつけてる。けしからん!」
日本「北方領土返してよ」(ていうか、街の看板だけが叫んでる)
ロシア「悪いけど、今んとこ無理だね」
これは メッセージ 2519 (saru_timbanco2000gt_turbo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2523.html
北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解4
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/18 21:59 投稿番号: [2522 / 18519]
これにたいし朝鮮政府では東莱府使・朴慶業を派遣し、日本がいう「いわゆる礒竹島とは、実はわが国の鬱陵島のことである。これは地理志において明確にされており、鬱陵島が新羅、高麗以来わが国の領域であることを知らないはずはないのに、あえて他人の土地に欲を出し居座ろうとするとは何とよこしまな魂胆か」と糾弾した。
そうして「空島政策」がけっして「他人(外国人)が勝手に入って住むことを許したものではない」ことを宣言して、日本が「わが国と往来する道はただ一つ」対馬ー釜山の門戸だけであり、そのほかの道を行き来することは「一切、海賊船として取り扱う」ことを厳重に警告したので、倭人たちに鬱陵島に対する我々の領有権を確認させたことになる(『増補文献備考』巻31,輿地考19)。
このとき、独島問題は直接登場しなかったが、鬱陵島の付属島という条件で自然にいっしょに妥結したものとみることができる。それは、その後17世紀末に鬱陵島と独島を守り闘った東莱漁民・安龍福の闘争資料をつうじてよく知ることができる。
1693年(粛宗19)伯耆藩主との一次談判をとおして鬱陵島が朝鮮の島であるということを認めさせ「関白」(江戸幕府の将軍ー引用者)の書契まで受けとった安龍福はその後、鬱陵島、独島問題が順調に進展しないとわかるや義憤を禁じえず、1696年(粛宗22)再び鬱陵島に出かけた。
このとき、かれは非合法に鬱陵島へ侵入した倭人たちが松島に住むという話を聞いて「松島はすなわち于山島であり、于山島もやはり我々の地」として、かれらを鬱陵島と独島からすべて追い出した後、隠岐島を経由して伯耆藩に行き、伯耆藩主と二度目の談判をした。
安龍福はこのとき自身を「鬱陵・于山両島監税将」と称し、以前に鬱陵島、独島がわが領土であることを日本が認定して「関白」の書契までだしたことを想起させ、日本の侵犯行為が根絶できないでいることに対して厳重に抗議した。
この厳然たる歴史的事実を認定せざるをえなかった伯耆藩主は二島にたいする朝鮮の領有権をふたたび認定し、鬱陵島と独島を侵犯した倭人15名を捕らえて処罰する措置もとった(『粛宗実録』巻30,22年9月戊寅)。
竹島(鬱陵島)を日本の領土にしようとする倭人たちの策動に対して朝鮮政府は領議政 南九萬などの主張にしたがって強硬な外交攻勢に出た。1693年、安龍福が送還された後に開始された外交攻勢は主に対馬島主を対象に展開したが、1696年1月には江戸幕府に「竹島とその外の一島(松島)」が朝鮮領土であることを公式確認させ、同時に二島に対する倭人たちの侵犯を厳禁せざるをえなくさせた。
朝鮮政府は、また1697年4月、領議政 ユ サンウンの提議にしたがい巡視制度を再確定した後、3年に一度ずつ二島に対する巡視を強化し、倭人たちの侵犯をきびしく取り締まり、主権行使を中断しなかった。
そうであるから、明治維新後に日本政府は独島の朝鮮領有を継続して認定せざるをえなかった。1878年8月、日本政府の官吏が長崎県の下村と千葉県の斉藤が政府に「松島開拓願」を提起したとき、独島が朝鮮の領土という理由でその請願を棄却した事実がそれを物語っている。
これに対し、外務省の公信局長 田辺は次のように書いた。「松島はわが国の人々が命名した島名であり、実は朝鮮鬱陵島に属する于山島である。鬱陵島が朝鮮に属するは、旧政府の時代に葛藤を生じ、文書の往復の末、永久に我々は所有しないことを約定した。
これは両国の歴史に書かれている。今や理由なしに人を派遣して巡視することは、他人の宝を欲張ることと同じである。ともすれば隣接国境を侵犯するに等しい」(『松島之議』)。
このように朝鮮政府は「空島政策」を実施した時期にも鬱陵島、独島に対する領有権を相変わらず行使したのであり、独島は依然として于山島と呼ばれ、鬱陵島とともにわが領域に属していた。これは「空島政策」がけっして二島に対する主権放棄ではなく、独島は無人島であっても、けっして主人のない「無主地」でなかったことを物語っている。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2521 (hangetsujoh さん)への返信です.
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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/18 21:57 投稿番号: [2521 / 18519]
半月城です。北朝鮮歴史学会の見解の3回目を下記に掲示します。
今回は空島政策時代ですが、独島は鬱陵島(武陵島)の付属島であるとする同学会の立場は一貫しています。筆者は「武陵等處」という公式記録を強調することにより、封建政府は于山島を武陵島の属島としていたことを暗示しました。その後、于山島が日本の松島(竹島=独島)であり、朝鮮領であることが朝鮮、日本の記録で確認されたことを同学会は明確にしました。
この論点は妥当なところですが、気になるのは同学会が安龍福の抗議行動に関する朝鮮史料を無批判に受け入れていることです。これは北朝鮮の立場上、日本の史料との比較検証がむずかしく、いきおい考証があまくなってしまうのかも知れません。
そうであるなら、そうした枝葉末節はむしろ削除したほうがいいのではないかと老婆心がおこります。というのも、安龍福の行動の細部は領有権問題には無関係であるにもかかわらず、下條正男教授のようにそうした枝葉末節を針小棒大に語る人がいるからです。
蛇足ながら安龍福をめぐる研究状況は下記サイトに記したとおりですが、安龍福の抗議行動でもっとも重要なのは、于山島は日本の松島(竹島=独島)であるという認識を日本と朝鮮両国に定着させたという厳然たる事実です。
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.688
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
朝鮮時代になっても鬱陵島、独島は依然として江原道 蔚珍縣に所属し、朝鮮の不可分の領土であった。単に封建政府の領有政策に多少変化があったのみで、それはすなわち島をカラにする「空島政策」であった。朝鮮政府が「空島政策」を追求するようになった主な原因は、高麗中葉以後、悪辣な所業を敢行した倭寇の侵入と、封建国家の賦役・租税負担を避けて島に移住する住民が多くなった事情に関連している。
朝鮮政府は、本土に侵入した倭寇にたいし強硬な掃討戦をくりひろげると同時に、鬱陵島については官吏を送り、島の住民を召還する消極的な政策を実施した。政府は 1416年に前萬戸 金麟雨を「武陵等處(鬱陵島、独島ー引用者)按撫使」に派遣して「流浪民」たちを連れてくるようにした。
その後、封建政府の官吏の中には島の住民を召還せずに食糧と農機具を保障して定着させようという意見も提起されたが、結局は島をカラにすることで落着してしまった(『太祖実録』巻33,17年2月乙丑)。
「空島政策」は世宗の時代にも継続して実施され、1425年と1438年の二度にわたり86名の男女住民が陸地に送還された(『世宗実録』巻30,7年戊戌)。こうして鬱陵島には次第に人が常住しないようになった。しかし、封建政府は「武陵等處」に対する主権行使を継続した。
政府は何年か一度に捜討官(調査官)を派遣して鬱陵島と独島を巡察して島の状態を調査し、捜討官たちは土産物をもって王に献上した。15世紀以後、実施された封建国家の「空島政策」は当時の環境において倭寇の侵略と略奪から領海の島の住民を管理するための消極的な防御策ではあるが、けっして領有権の放棄ではなかったのである。「空島政策」の実施、それ自体がすなわち領有権行使の具体的な表現であった。
しかし、封建政府のこのような消極的な領有政策は、倭人たちが鬱陵島と独島に足を踏み入れるスキを与え「奪還」ごっこをくり広げる草刈り場にしてしまった。倭人たちは島がカラになっているスキをついて鬱陵島に侵入し、日本の島であるかのような主張をするまでになった。
当時、かれらは鬱陵島を竹島、独島を松島と勝手に名前をつけて呼び、1615年には狡猾にも礒竹島(鬱陵島)を探測するとして2隻の船を送ってきた。
(つづく)
これは メッセージ 2513 (hangetsujoh さん)への返信です.
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1850年ごろは
投稿者: kyomo_2003 投稿日時: 2003/08/18 21:47 投稿番号: [2520 / 18519]
日韓どちらの
実効支配も
及んでいなかったのでは。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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