北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/18 21:57 投稿番号: [2521 / 18519]
半月城です。北朝鮮歴史学会の見解の3回目を下記に掲示します。
今回は空島政策時代ですが、独島は鬱陵島(武陵島)の付属島であるとする同学会の立場は一貫しています。筆者は「武陵等處」という公式記録を強調することにより、封建政府は于山島を武陵島の属島としていたことを暗示しました。その後、于山島が日本の松島(竹島=独島)であり、朝鮮領であることが朝鮮、日本の記録で確認されたことを同学会は明確にしました。
この論点は妥当なところですが、気になるのは同学会が安龍福の抗議行動に関する朝鮮史料を無批判に受け入れていることです。これは北朝鮮の立場上、日本の史料との比較検証がむずかしく、いきおい考証があまくなってしまうのかも知れません。
そうであるなら、そうした枝葉末節はむしろ削除したほうがいいのではないかと老婆心がおこります。というのも、安龍福の行動の細部は領有権問題には無関係であるにもかかわらず、下條正男教授のようにそうした枝葉末節を針小棒大に語る人がいるからです。
蛇足ながら安龍福をめぐる研究状況は下記サイトに記したとおりですが、安龍福の抗議行動でもっとも重要なのは、于山島は日本の松島(竹島=独島)であるという認識を日本と朝鮮両国に定着させたという厳然たる事実です。
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.688
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
朝鮮時代になっても鬱陵島、独島は依然として江原道 蔚珍縣に所属し、朝鮮の不可分の領土であった。単に封建政府の領有政策に多少変化があったのみで、それはすなわち島をカラにする「空島政策」であった。朝鮮政府が「空島政策」を追求するようになった主な原因は、高麗中葉以後、悪辣な所業を敢行した倭寇の侵入と、封建国家の賦役・租税負担を避けて島に移住する住民が多くなった事情に関連している。
朝鮮政府は、本土に侵入した倭寇にたいし強硬な掃討戦をくりひろげると同時に、鬱陵島については官吏を送り、島の住民を召還する消極的な政策を実施した。政府は 1416年に前萬戸 金麟雨を「武陵等處(鬱陵島、独島ー引用者)按撫使」に派遣して「流浪民」たちを連れてくるようにした。
その後、封建政府の官吏の中には島の住民を召還せずに食糧と農機具を保障して定着させようという意見も提起されたが、結局は島をカラにすることで落着してしまった(『太祖実録』巻33,17年2月乙丑)。
「空島政策」は世宗の時代にも継続して実施され、1425年と1438年の二度にわたり86名の男女住民が陸地に送還された(『世宗実録』巻30,7年戊戌)。こうして鬱陵島には次第に人が常住しないようになった。しかし、封建政府は「武陵等處」に対する主権行使を継続した。
政府は何年か一度に捜討官(調査官)を派遣して鬱陵島と独島を巡察して島の状態を調査し、捜討官たちは土産物をもって王に献上した。15世紀以後、実施された封建国家の「空島政策」は当時の環境において倭寇の侵略と略奪から領海の島の住民を管理するための消極的な防御策ではあるが、けっして領有権の放棄ではなかったのである。「空島政策」の実施、それ自体がすなわち領有権行使の具体的な表現であった。
しかし、封建政府のこのような消極的な領有政策は、倭人たちが鬱陵島と独島に足を踏み入れるスキを与え「奪還」ごっこをくり広げる草刈り場にしてしまった。倭人たちは島がカラになっているスキをついて鬱陵島に侵入し、日本の島であるかのような主張をするまでになった。
当時、かれらは鬱陵島を竹島、独島を松島と勝手に名前をつけて呼び、1615年には狡猾にも礒竹島(鬱陵島)を探測するとして2隻の船を送ってきた。
(つづく)
今回は空島政策時代ですが、独島は鬱陵島(武陵島)の付属島であるとする同学会の立場は一貫しています。筆者は「武陵等處」という公式記録を強調することにより、封建政府は于山島を武陵島の属島としていたことを暗示しました。その後、于山島が日本の松島(竹島=独島)であり、朝鮮領であることが朝鮮、日本の記録で確認されたことを同学会は明確にしました。
この論点は妥当なところですが、気になるのは同学会が安龍福の抗議行動に関する朝鮮史料を無批判に受け入れていることです。これは北朝鮮の立場上、日本の史料との比較検証がむずかしく、いきおい考証があまくなってしまうのかも知れません。
そうであるなら、そうした枝葉末節はむしろ削除したほうがいいのではないかと老婆心がおこります。というのも、安龍福の行動の細部は領有権問題には無関係であるにもかかわらず、下條正男教授のようにそうした枝葉末節を針小棒大に語る人がいるからです。
蛇足ながら安龍福をめぐる研究状況は下記サイトに記したとおりですが、安龍福の抗議行動でもっとも重要なのは、于山島は日本の松島(竹島=独島)であるという認識を日本と朝鮮両国に定着させたという厳然たる事実です。
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.688
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
朝鮮時代になっても鬱陵島、独島は依然として江原道 蔚珍縣に所属し、朝鮮の不可分の領土であった。単に封建政府の領有政策に多少変化があったのみで、それはすなわち島をカラにする「空島政策」であった。朝鮮政府が「空島政策」を追求するようになった主な原因は、高麗中葉以後、悪辣な所業を敢行した倭寇の侵入と、封建国家の賦役・租税負担を避けて島に移住する住民が多くなった事情に関連している。
朝鮮政府は、本土に侵入した倭寇にたいし強硬な掃討戦をくりひろげると同時に、鬱陵島については官吏を送り、島の住民を召還する消極的な政策を実施した。政府は 1416年に前萬戸 金麟雨を「武陵等處(鬱陵島、独島ー引用者)按撫使」に派遣して「流浪民」たちを連れてくるようにした。
その後、封建政府の官吏の中には島の住民を召還せずに食糧と農機具を保障して定着させようという意見も提起されたが、結局は島をカラにすることで落着してしまった(『太祖実録』巻33,17年2月乙丑)。
「空島政策」は世宗の時代にも継続して実施され、1425年と1438年の二度にわたり86名の男女住民が陸地に送還された(『世宗実録』巻30,7年戊戌)。こうして鬱陵島には次第に人が常住しないようになった。しかし、封建政府は「武陵等處」に対する主権行使を継続した。
政府は何年か一度に捜討官(調査官)を派遣して鬱陵島と独島を巡察して島の状態を調査し、捜討官たちは土産物をもって王に献上した。15世紀以後、実施された封建国家の「空島政策」は当時の環境において倭寇の侵略と略奪から領海の島の住民を管理するための消極的な防御策ではあるが、けっして領有権の放棄ではなかったのである。「空島政策」の実施、それ自体がすなわち領有権行使の具体的な表現であった。
しかし、封建政府のこのような消極的な領有政策は、倭人たちが鬱陵島と独島に足を踏み入れるスキを与え「奪還」ごっこをくり広げる草刈り場にしてしまった。倭人たちは島がカラになっているスキをついて鬱陵島に侵入し、日本の島であるかのような主張をするまでになった。
当時、かれらは鬱陵島を竹島、独島を松島と勝手に名前をつけて呼び、1615年には狡猾にも礒竹島(鬱陵島)を探測するとして2隻の船を送ってきた。
(つづく)
これは メッセージ 2513 (hangetsujoh さん)への返信です.
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