竹島

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北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解5

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/24 09:02 投稿番号: [2528 / 18519]
   半月城です。
   北朝鮮歴史学会の論文ですが、今回は空島政策の転換から勅令第41号までの拙訳を掲示します。そのなかで注目されるのは、独島の名前の初出を1881年としていることですが、残念なことにそれを示す文献は引用されませんでした。それ以外は順当な主張のようです。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
               朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
   朝鮮政府が鬱陵島と独島に対する450余年間の消極的な「空島政策」を放棄して積極的な開拓政策を実施したのは 1880年代初からであった。「安龍福事件」後、一時静かだった倭人たちは、明治維新以後になって高唱された「征韓論」に便乗して、ふたたび鬱陵島をねらうようになった。そうした中、1881年5月、7名の倭人が鬱陵島に侵入し盗伐行為を行ったが、定期的に鬱陵島を巡視した朝鮮政府の捜討官により発覚するという事件が発生した。
   これに対し、朝鮮政府はすぐさま日本政府に抗議文を送る一方、現地調査のため副護軍 李奎遠を鬱陵島検察使とする102名の現地調査団を1882年4月、鬱陵島に出発させた。李奎遠の調査報告書によれば、当時、鬱陵島には140名の朝鮮人以外に非合法で78名の日本人がきていたが、かれらは「日本国の松島」という標木まで立てていたという(『Il seong 録』高宗19年5月22日;『日本外交文書』第14巻、『鬱陵島検察日記』)。これは両政府間の協約に対する破廉恥な背反であり、乱暴な挑発であった。
   事態の深刻さをさとった朝鮮政府は、1882年6月、日本政府にふたたび抗議する一方、鬱陵島開拓のため積極的な対策を立てた。その主要内容をみれば、本土の人民たちを島に移住させ農耕地を開拓し、鬱陵島行政官として島長を任命、派遣するというものであった(『承政院改修日記』、光緒8年(1882)8月20日)。

   その後 1883年3月、開化派の中心人物である金玉均を東南諸島開拓使 兼捕鯨使に任命することにより朝鮮政府は鬱陵島開拓事業に一層拍車をかけるようになり、当時不法滞留していた 254名の日本人たちを皆撤収させた。
   政府の積極的な鬱陵島開拓政策により、従来の島民に対する強制刷還政策「空島政策」は逆転し、本土陸地住民を島に移住させる事業が本格的になされ、島を開墾し島の資源を開発するために事業も公式的に推進された。
   朝鮮政府の内部官吏、禹用鼎の報告によれば、1900年に鬱陵島住民は400余戸1700名と大幅に増え、耕作地は7700マジギ(斗落)に拡張され、小麦、大麦と豆、ジャガイモなどを栽培し(『新東亜』2000年5月号、「独島」)、鬱陵島の自慢である優良木材も大々的に採伐された。

   鬱陵島が積極的に開拓され、その付属島である独島に対する管理と利用、領有権もさらに強固になった。鬱陵島住民は漁労期になれば、自然に独島に押し寄せアザラシを始め、
その外の珍貴な魚を捕らえた。
   1904年11月、日本軍艦 対馬号が独島を測量して提出した報告書で「毎年夏になると鬱陵島から多くの人たちがこの島に渡って来て、島の上に小さな小屋を建て、付近で漁業に従事する」としたのは、独島が近代に入り確実に鬱陵島の付属島としてわが人民により効果的に利用されていたことを実証してくれる。
(つづく)
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