北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解8
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/31 09:20 投稿番号: [2538 / 18519]
1618年、伯耆藩の大谷・村川は幕府の承認のもとに隠州すなわち因幡藩から竹島渡海免許を得て、その後70年間、年毎に鬱陵島近海に来て漁労作業をした(注)。
倭人のこのような不法行為は1692年、朝鮮漁夫に発覚し、阻止された。翌年、安龍福、朴於屯をはじめとする東莱、蔚山漁民40余名の集団抗議で侵入者たちは完全に追い出された。しかし、この事件を契機に日本は鬱陵島、独島を奪おうとする領土的野望を露骨にさらけだした。
対馬島主 宗義信は、逃げる倭船を追って日本の隠岐島と伯耆藩にまで行き鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定した従前の約束を守ることを要求して闘った安龍福と朴於屯を拘留・押送し、「貴国の漁民が本国(日本)の竹島(鬱陵島)へ船に乗って」来たために、2名を逮捕し送還するという文を礼曹に伝え(『増補文献備考』巻31,輿地考19)、同時に竹島(鬱陵島)領有に関する交渉を進めることを提起した。
1694年には橘を送り、朝鮮人が「日本の竹島(鬱陵島)」に勝手に来て魚取りをしたが、入れないようにしてほしいと懇請した。これは倭人が鬱陵島を竹島とよび、それを奪う奸計をたくらんでいることを示している。
これに対し小心な官吏たちは、第2の壬辰倭乱が起こるまいかと慎重に処理することを提起したが、領中枢府使 南九萬は粛宗に島をカラにしたとて「なぜ先代の王の時代から受け継いだ彊土を他国に与えられましょうか」として、倭奴の奸計に断固として対処するよう提起した。当時、史官はこの事件に対し次のように明察な評価をした。
倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島であり、鬱陵という名称は新羅と高麗の歴史書と中国人の文集にもみえるが、その由来は非常に古い。その島で竹が多く産出するので竹島という名もあるが、実は一島に対するふたつの名である。
倭人が鬱陵島という名を隠し、ただ竹島で魚取りをするという口実をもうけたのは、わが国からそれを許可するという回答を引きだし、それを証拠にして島を所持しようという企みを実現しようとするものであった(『粛宗実録』巻26,20年2月癸酉)。
倭人たちの鬱陵島侵略策動は、その後、対馬島主が亡くなり、新しい島主が江戸に行き、関白(将軍)に「竹島は朝鮮に近いのでお互いに争ってはいけない」と勧告した後、一悶着あったが、結局は朝鮮政府の頑強な態度により、1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定し、日本人の鬱陵島水域出入りを禁止する命令をだすようになり、1698年には鬱陵島と独島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)であることを認定し、1699年には文書交換が完了し一旦終わりになった。
その後、双方はこの島に出入りする倭人を侵犯罪(越境罪)で取り締まることを約束したが、「空島政策」の余波をついて個別的な倭人たちの不法な出入りとその水域の漁労は継続された。倭人たちは巡視制度の間隙を利用し、群をなして押し寄せ、追い出されても追い出されても再三押し寄せたりした。
(注)「伯耆藩」は鳥取藩、「隠州すなわち因幡藩」も鳥取藩のまちがいと思われます。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
倭人のこのような不法行為は1692年、朝鮮漁夫に発覚し、阻止された。翌年、安龍福、朴於屯をはじめとする東莱、蔚山漁民40余名の集団抗議で侵入者たちは完全に追い出された。しかし、この事件を契機に日本は鬱陵島、独島を奪おうとする領土的野望を露骨にさらけだした。
対馬島主 宗義信は、逃げる倭船を追って日本の隠岐島と伯耆藩にまで行き鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定した従前の約束を守ることを要求して闘った安龍福と朴於屯を拘留・押送し、「貴国の漁民が本国(日本)の竹島(鬱陵島)へ船に乗って」来たために、2名を逮捕し送還するという文を礼曹に伝え(『増補文献備考』巻31,輿地考19)、同時に竹島(鬱陵島)領有に関する交渉を進めることを提起した。
1694年には橘を送り、朝鮮人が「日本の竹島(鬱陵島)」に勝手に来て魚取りをしたが、入れないようにしてほしいと懇請した。これは倭人が鬱陵島を竹島とよび、それを奪う奸計をたくらんでいることを示している。
これに対し小心な官吏たちは、第2の壬辰倭乱が起こるまいかと慎重に処理することを提起したが、領中枢府使 南九萬は粛宗に島をカラにしたとて「なぜ先代の王の時代から受け継いだ彊土を他国に与えられましょうか」として、倭奴の奸計に断固として対処するよう提起した。当時、史官はこの事件に対し次のように明察な評価をした。
倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島であり、鬱陵という名称は新羅と高麗の歴史書と中国人の文集にもみえるが、その由来は非常に古い。その島で竹が多く産出するので竹島という名もあるが、実は一島に対するふたつの名である。
倭人が鬱陵島という名を隠し、ただ竹島で魚取りをするという口実をもうけたのは、わが国からそれを許可するという回答を引きだし、それを証拠にして島を所持しようという企みを実現しようとするものであった(『粛宗実録』巻26,20年2月癸酉)。
倭人たちの鬱陵島侵略策動は、その後、対馬島主が亡くなり、新しい島主が江戸に行き、関白(将軍)に「竹島は朝鮮に近いのでお互いに争ってはいけない」と勧告した後、一悶着あったが、結局は朝鮮政府の頑強な態度により、1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定し、日本人の鬱陵島水域出入りを禁止する命令をだすようになり、1698年には鬱陵島と独島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)であることを認定し、1699年には文書交換が完了し一旦終わりになった。
その後、双方はこの島に出入りする倭人を侵犯罪(越境罪)で取り締まることを約束したが、「空島政策」の余波をついて個別的な倭人たちの不法な出入りとその水域の漁労は継続された。倭人たちは巡視制度の間隙を利用し、群をなして押し寄せ、追い出されても追い出されても再三押し寄せたりした。
(注)「伯耆藩」は鳥取藩、「隠州すなわち因幡藩」も鳥取藩のまちがいと思われます。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2537 (hangetsujoh さん)への返信です.
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