北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解7
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/31 09:18 投稿番号: [2537 / 18519]
半月城です。
このシリーズは最初に書いたように、北朝鮮歴史学会の論文をそのまま翻訳したものです。したがって訳文に「引用者注」とあるのは、引用者である雑誌『歴史批評』関係者の注釈です。これは、おそらく論文を取り次いだ研究者 姜萬吉氏の注と思われます。
さて、今回は江戸時代の日朝関係が主です。文中に<1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定>とありますが、この認識は間違っているようです。うえのように認定したのは後の明治政府であり、江戸幕府は竹島(鬱陵島)のみを朝鮮領と認定し、竹島=独島には直接ふれなかったことを付けくわえます。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
2.独島に対する日本の侵犯、強奪策動
独島は新羅の時から朝鮮領土の一部とみなされ、朝鮮歴代王朝により合法的に経営されてきたが、日本はそれを奪い、自国の領土にしようと執拗に策動した。独島に対する日本の侵奪策動は、高麗後期の倭寇による鬱陵島侵略から始まった。
1379年、倭寇が鬱陵島を侵犯し15日間も滞留し、島民を殺戮したり財物を略奪したが、壬辰倭乱のときもそこに侵入し、島を廃墟にした。このとき、もちろん鬱陵島に隣接した独島が倭寇の蹂躙からまぬがれなかっただろうということは明白である。しかし、まだ領土野欲は表面化せず、ただ鬱陵島と独島の島および海の資源の略奪を基本にした侵略であった。
領土を奪おうとする策動は、17世紀(光海君〜粛宗年間)から表面化したが、この時期の侵奪策動の特徴は鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定したうえで経営の看板を出し、将来の有利な機会に鬱陵島と独島を完全に奪うための基盤づくりをねらっていたことにある。
鬱陵島を侵奪しようとする策動は、1615年、対馬島主が礒竹島(鬱陵島)の日本領有を主張したことで表面化する。これに対し東莱府使 尹守謙(その後は朴慶業)は日本人のいう「礒竹島」とは朝鮮の鬱陵島であり、したがってその島に出入りする倭人を海賊として取り締まると警告した。
こうした状況において、日本は日本人が鬱陵島と独島に出入りすることを「越境罪」で取り締まるふりをしたが、実際は朝鮮政府の「空島政策」を悪用し、朝鮮巡視官に発覚しないかぎりこれを黙認し、背後で慫慂する両面政策を実施した。日本の伯耆藩 大谷・村川両家が江戸幕府から「渡海免許状」を得て、日本漁夫を鬱陵島、独島水域に送ったのはその実例である。
「渡海免許状」とは禁止区域の海に行けるという許可証であり、他国の地に出入りできるという許可証ではなく、それを発給したこと自体が鬱陵島水域への出入りが公式に禁止されていた証拠である。
(つづく)
このシリーズは最初に書いたように、北朝鮮歴史学会の論文をそのまま翻訳したものです。したがって訳文に「引用者注」とあるのは、引用者である雑誌『歴史批評』関係者の注釈です。これは、おそらく論文を取り次いだ研究者 姜萬吉氏の注と思われます。
さて、今回は江戸時代の日朝関係が主です。文中に<1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であることを認定>とありますが、この認識は間違っているようです。うえのように認定したのは後の明治政府であり、江戸幕府は竹島(鬱陵島)のみを朝鮮領と認定し、竹島=独島には直接ふれなかったことを付けくわえます。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
2.独島に対する日本の侵犯、強奪策動
独島は新羅の時から朝鮮領土の一部とみなされ、朝鮮歴代王朝により合法的に経営されてきたが、日本はそれを奪い、自国の領土にしようと執拗に策動した。独島に対する日本の侵奪策動は、高麗後期の倭寇による鬱陵島侵略から始まった。
1379年、倭寇が鬱陵島を侵犯し15日間も滞留し、島民を殺戮したり財物を略奪したが、壬辰倭乱のときもそこに侵入し、島を廃墟にした。このとき、もちろん鬱陵島に隣接した独島が倭寇の蹂躙からまぬがれなかっただろうということは明白である。しかし、まだ領土野欲は表面化せず、ただ鬱陵島と独島の島および海の資源の略奪を基本にした侵略であった。
領土を奪おうとする策動は、17世紀(光海君〜粛宗年間)から表面化したが、この時期の侵奪策動の特徴は鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定したうえで経営の看板を出し、将来の有利な機会に鬱陵島と独島を完全に奪うための基盤づくりをねらっていたことにある。
鬱陵島を侵奪しようとする策動は、1615年、対馬島主が礒竹島(鬱陵島)の日本領有を主張したことで表面化する。これに対し東莱府使 尹守謙(その後は朴慶業)は日本人のいう「礒竹島」とは朝鮮の鬱陵島であり、したがってその島に出入りする倭人を海賊として取り締まると警告した。
こうした状況において、日本は日本人が鬱陵島と独島に出入りすることを「越境罪」で取り締まるふりをしたが、実際は朝鮮政府の「空島政策」を悪用し、朝鮮巡視官に発覚しないかぎりこれを黙認し、背後で慫慂する両面政策を実施した。日本の伯耆藩 大谷・村川両家が江戸幕府から「渡海免許状」を得て、日本漁夫を鬱陵島、独島水域に送ったのはその実例である。
「渡海免許状」とは禁止区域の海に行けるという許可証であり、他国の地に出入りできるという許可証ではなく、それを発給したこと自体が鬱陵島水域への出入りが公式に禁止されていた証拠である。
(つづく)
これは メッセージ 2529 (hangetsujoh さん)への返信です.
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