北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/08/15 23:09 投稿番号: [2513 / 18519]
わが国の独島領有は時期により異なった形態をとっている。領有の第1の時期は6世紀初、于山国(于山島と鬱陵島)を征伐し服属させ朝貢関係を維持したうえ、政治、経済、文化的に民族的同一性を強化してきた時期であり、第2の時期は12世紀高麗中葉(仁宗ー毅宗)以後、政府にて官吏を島に派遣し、直接統治経営した時期である。
このころ、于山国は高麗の蔚珍縣所属に改編され、本土住民が移住し、島を忠実に開拓していった。第3の時期は15世紀初、朝鮮政府が消極的な「空島(島をカラにすること)政策を実施し、倭人たちの侵犯が頻繁だった時期であり、第4の時期は独島を鬱島郡付属島に編入した後、日帝が朝鮮を強占するまでである。独島はわが国が日帝の植民地統治から抜けでて本土とともに再び朝鮮領有になった。
6世紀初、鬱陵島には朝鮮系統移住民が立てた于山国という小国があった。于山国は鬱陵島を基本領域にし、独島まで併せて支配していた。『増補文献備考』で「“輿地志”がいうには鬱陵、于山はみな于山国の地であり、于山は倭人たちがいう松島(すなわち独島ー引用者)である」とし、于山国の統治地域が今日の鬱陵島と独島を包括していたことを明白に明らかにしている。
この于山国は中世、わが国が三国のひとつであった新羅により 512年(智證王13)に統合された。『三国史記』によれば、何瑟羅州の軍主であった異斯夫が于山国の人々は愚直で力だけでは屈服させられないとして、策を用いて平和的な方法で服属させたという。新羅に帰属した于山国はそののち代々新羅に土産物を贈り、新羅との服属関係を維持した。
高麗期には独島は鬱陵島とともに相変わらず我が領土であった。高麗王朝にたいする于山国の朝貢は新羅をひきついで継続され、二島は蔚珍縣の所属として本土と緊密な連携をもっていた。
高麗太祖のとき、島の人々が供物をもってきたのにたいし、かれらに役職と爵位を与え、1018年、東北女真人の侵害のために陸地に非難してきた人々をふたたび島に送り返し、島を空にしないようにした。
しかし、女真人の略奪が継続し、陸地に渡って来る人々が増えるや、1022年にはかれらを禮州(盈徳)に定着させ、食糧と生活基盤を保障する一方、永遠に本土の郡県民に編入するようにした(『高麗史』巻1,太祖13年7月丙子;巻4,顕宗9年11月丙寅;10年7月己卯;13年7月丙子;巻58,蔚珍縣、『増補文献備考』巻31)。
これは于山国民が同族であったということを物語っており、于山国が高麗の主権下にあったということを意味する。その後にも高麗政府は鬱陵島(独島も含めて)にたいする主権行使を継続した。
1141年、溟州道 監倉使 李陽實を鬱陵島に派遣し珍貴な土産物をもって来るようにしたし、1157年にも鬱陵島に派遣し珍貴な土産物をもたらすようにしたし、1157年には鬱陵島を積極的に開拓しようとする意図で溟州 監倉 金柔立を派遣し、鬱陵島を調査し「ふたたび県に編入」しようとした。
当時、廃墟となった村落に石仏、石塔、鉄鐘などが残っている事実は本土文化が島に深く浸透、普及したことを物語っている。崔忠献 執権時期(12世紀末ー13世紀初)には陸地人民を移住させる措置をとったが、荒い風浪に船がしょっちゅう転覆し、多くの人名被害をだすや中断された。
このような事実は 12世紀中ごろに于山国が凋落し、高麗王朝が鬱陵島一帯を直接統治するようになったことを物語っている(『高麗史』巻17,仁宗17年7月己亥;巻18,毅宗11年5月丙子;『増補文献備考』巻31)。
その後、1273年に大将軍 姜渭輔を鬱陵島 斫木使に任命し、材木資源を探査するようにしたという記録が伝えられるのは、高麗末にも鬱陵島が独島とともにわが人民により継続開拓、利用されたことを物語っている。
(つづく)
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
このころ、于山国は高麗の蔚珍縣所属に改編され、本土住民が移住し、島を忠実に開拓していった。第3の時期は15世紀初、朝鮮政府が消極的な「空島(島をカラにすること)政策を実施し、倭人たちの侵犯が頻繁だった時期であり、第4の時期は独島を鬱島郡付属島に編入した後、日帝が朝鮮を強占するまでである。独島はわが国が日帝の植民地統治から抜けでて本土とともに再び朝鮮領有になった。
6世紀初、鬱陵島には朝鮮系統移住民が立てた于山国という小国があった。于山国は鬱陵島を基本領域にし、独島まで併せて支配していた。『増補文献備考』で「“輿地志”がいうには鬱陵、于山はみな于山国の地であり、于山は倭人たちがいう松島(すなわち独島ー引用者)である」とし、于山国の統治地域が今日の鬱陵島と独島を包括していたことを明白に明らかにしている。
この于山国は中世、わが国が三国のひとつであった新羅により 512年(智證王13)に統合された。『三国史記』によれば、何瑟羅州の軍主であった異斯夫が于山国の人々は愚直で力だけでは屈服させられないとして、策を用いて平和的な方法で服属させたという。新羅に帰属した于山国はそののち代々新羅に土産物を贈り、新羅との服属関係を維持した。
高麗期には独島は鬱陵島とともに相変わらず我が領土であった。高麗王朝にたいする于山国の朝貢は新羅をひきついで継続され、二島は蔚珍縣の所属として本土と緊密な連携をもっていた。
高麗太祖のとき、島の人々が供物をもってきたのにたいし、かれらに役職と爵位を与え、1018年、東北女真人の侵害のために陸地に非難してきた人々をふたたび島に送り返し、島を空にしないようにした。
しかし、女真人の略奪が継続し、陸地に渡って来る人々が増えるや、1022年にはかれらを禮州(盈徳)に定着させ、食糧と生活基盤を保障する一方、永遠に本土の郡県民に編入するようにした(『高麗史』巻1,太祖13年7月丙子;巻4,顕宗9年11月丙寅;10年7月己卯;13年7月丙子;巻58,蔚珍縣、『増補文献備考』巻31)。
これは于山国民が同族であったということを物語っており、于山国が高麗の主権下にあったということを意味する。その後にも高麗政府は鬱陵島(独島も含めて)にたいする主権行使を継続した。
1141年、溟州道 監倉使 李陽實を鬱陵島に派遣し珍貴な土産物をもって来るようにしたし、1157年にも鬱陵島に派遣し珍貴な土産物をもたらすようにしたし、1157年には鬱陵島を積極的に開拓しようとする意図で溟州 監倉 金柔立を派遣し、鬱陵島を調査し「ふたたび県に編入」しようとした。
当時、廃墟となった村落に石仏、石塔、鉄鐘などが残っている事実は本土文化が島に深く浸透、普及したことを物語っている。崔忠献 執権時期(12世紀末ー13世紀初)には陸地人民を移住させる措置をとったが、荒い風浪に船がしょっちゅう転覆し、多くの人名被害をだすや中断された。
このような事実は 12世紀中ごろに于山国が凋落し、高麗王朝が鬱陵島一帯を直接統治するようになったことを物語っている(『高麗史』巻17,仁宗17年7月己亥;巻18,毅宗11年5月丙子;『増補文献備考』巻31)。
その後、1273年に大将軍 姜渭輔を鬱陵島 斫木使に任命し、材木資源を探査するようにしたという記録が伝えられるのは、高麗末にも鬱陵島が独島とともにわが人民により継続開拓、利用されたことを物語っている。
(つづく)
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2512 (hangetsujoh さん)への返信です.
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