北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解9
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/07 20:08 投稿番号: [2550 / 18519]
半月城です。
北朝鮮歴史学会の独島論文ですが、今回は明治時代の日本をとりあげます。今回、気になるのは、1877年、明治政府が竹島(鬱陵島)および外一島、すなわち竹島=独島を放棄した史実にまったくふれていないことです。これは、歴史学会がその史実を知らなかったとしか思えません。そうだとすると、日本史料の批判が弱いようです。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
19世紀後半に「征韓論」が台頭し、明治政府の海外侵略が政策化するや独島に対する侵奪策動は次第に露骨になり、大規模に敢行され、朝鮮政府が1882年、積極的な独島開拓政策に移行した後も日本人の違法行動はやまなかった。
1900年、禹用鼎が鬱陵島を巡察したとき、144名の日本人が11隻の船を停泊させ、鬱陵島に潜入して非法な資源略奪をこととしていた。かれらは撤収を要求する鬱陵島住民の要求に従順に応じる代わりに刀を振り回し反抗し、こちらの正当な要求に対し自分たちは島監の黙認下に商業貿易をしていたと抗弁した。
露日戦争時、日帝は非法にも独島に海軍望楼(監視塔)を設置し、北部朝鮮ー鬱陵島ー独島ー日本本島にいたる海底電線を敷設し、日本の東郷艦隊は独島に依拠し、付近の海洋でロシア遠征艦隊を撃破した。
この事実を当時の朝鮮政府はまったく知らず、日本政府もまだこの露骨な背信行為を隠していた。この時期にも日本は独島に対する侵略行為を継続した。それは中井養三郎の有名な「独島貸下願」の事実が物語っている。
島根県の漁業企業家である中井は独島水域でアシカ捕獲独占権をえるために、1904年9月農商務省に「りゃんこ島(独島)貸下願」を提出したが、かれはここで独島を10年の期限で借用し、アシカ猟の独占権をもてるように旧韓国政府と交渉するよう提起した。
農商務省と外務省、内務省の官吏はそれが朝鮮領であると知っていただけでなく、その島の借用可能性に対し疑問をもちソッポを向いたが、唯一海軍省だけがそれに興味をもち、政府に提出したという。
独島が厳然たる朝鮮の領土であり鬱陵島の付属であるという状況で、この問題はただ朝鮮政府との協商によってのみ解決されるのであった。中井自身もそのように考えていた。
このような事実に対し、1923年7月島根県教育会で発行した『島根県誌』では「・・・中井はこの島(独島)を朝鮮領土と考え上京し、農商務省へ説明して同政府(朝鮮政府)に貸下願いを出そうとした」と書かれてあり、1933年2月に刊行された『隠岐島誌』にも「中井はリャンコ島(独島)を朝鮮領土と信じ、同政府(朝鮮政府)に貸下願を出すことを決心した」と明らかにした(しかるに日本は、かつてこれに対し「編者の誤解」などと見苦しい弁明をした)。
中井自身も後に「独島は鬱陵島に属した韓国の領土と考えた」と明らかにし、まさにそのために「上京して農商務省をとおして韓国政府に貸下願」を出そうとしたと証言した(1910年に書かれた中井の「履歴書」、1906年に出版した『歴史地理』8巻6号)。日本政府もやはりそのような事実を明らかに知っていたため、中井の提議が複雑な問題を惹起するものと判断して1カ月を過ぎても交渉に応じなかった。
まさにこのような時、海軍省を中心にこの問題に関心をもつようになったのは、当時の朝鮮が、日本の軍事的侵略の対象になっていた朝鮮でうまくすればこの機会に独島を強占して海外侵略基地にでき、またそうした可能性もあると計算したためであった。
というのも、中井が独島でアシカ猟をした事実がすぐさま独島に対する日本の領有権を主張できる重要な根拠になりうるし、独島が朝鮮領であっても人が常住しない無人島であるうえに17世紀以後日本人が「松島」と呼んだ資料が残っている事実、そしていかなる帝国主義列強も独島に対する領有権を主張しないばかりか、もっと重要なことに島の領有国である朝鮮が日帝植民地に転落していた当時の環境で抗議を提起できないだろうなどがその理由であった。
(つづく)
北朝鮮歴史学会の独島論文ですが、今回は明治時代の日本をとりあげます。今回、気になるのは、1877年、明治政府が竹島(鬱陵島)および外一島、すなわち竹島=独島を放棄した史実にまったくふれていないことです。これは、歴史学会がその史実を知らなかったとしか思えません。そうだとすると、日本史料の批判が弱いようです。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
19世紀後半に「征韓論」が台頭し、明治政府の海外侵略が政策化するや独島に対する侵奪策動は次第に露骨になり、大規模に敢行され、朝鮮政府が1882年、積極的な独島開拓政策に移行した後も日本人の違法行動はやまなかった。
1900年、禹用鼎が鬱陵島を巡察したとき、144名の日本人が11隻の船を停泊させ、鬱陵島に潜入して非法な資源略奪をこととしていた。かれらは撤収を要求する鬱陵島住民の要求に従順に応じる代わりに刀を振り回し反抗し、こちらの正当な要求に対し自分たちは島監の黙認下に商業貿易をしていたと抗弁した。
露日戦争時、日帝は非法にも独島に海軍望楼(監視塔)を設置し、北部朝鮮ー鬱陵島ー独島ー日本本島にいたる海底電線を敷設し、日本の東郷艦隊は独島に依拠し、付近の海洋でロシア遠征艦隊を撃破した。
この事実を当時の朝鮮政府はまったく知らず、日本政府もまだこの露骨な背信行為を隠していた。この時期にも日本は独島に対する侵略行為を継続した。それは中井養三郎の有名な「独島貸下願」の事実が物語っている。
島根県の漁業企業家である中井は独島水域でアシカ捕獲独占権をえるために、1904年9月農商務省に「りゃんこ島(独島)貸下願」を提出したが、かれはここで独島を10年の期限で借用し、アシカ猟の独占権をもてるように旧韓国政府と交渉するよう提起した。
農商務省と外務省、内務省の官吏はそれが朝鮮領であると知っていただけでなく、その島の借用可能性に対し疑問をもちソッポを向いたが、唯一海軍省だけがそれに興味をもち、政府に提出したという。
独島が厳然たる朝鮮の領土であり鬱陵島の付属であるという状況で、この問題はただ朝鮮政府との協商によってのみ解決されるのであった。中井自身もそのように考えていた。
このような事実に対し、1923年7月島根県教育会で発行した『島根県誌』では「・・・中井はこの島(独島)を朝鮮領土と考え上京し、農商務省へ説明して同政府(朝鮮政府)に貸下願いを出そうとした」と書かれてあり、1933年2月に刊行された『隠岐島誌』にも「中井はリャンコ島(独島)を朝鮮領土と信じ、同政府(朝鮮政府)に貸下願を出すことを決心した」と明らかにした(しかるに日本は、かつてこれに対し「編者の誤解」などと見苦しい弁明をした)。
中井自身も後に「独島は鬱陵島に属した韓国の領土と考えた」と明らかにし、まさにそのために「上京して農商務省をとおして韓国政府に貸下願」を出そうとしたと証言した(1910年に書かれた中井の「履歴書」、1906年に出版した『歴史地理』8巻6号)。日本政府もやはりそのような事実を明らかに知っていたため、中井の提議が複雑な問題を惹起するものと判断して1カ月を過ぎても交渉に応じなかった。
まさにこのような時、海軍省を中心にこの問題に関心をもつようになったのは、当時の朝鮮が、日本の軍事的侵略の対象になっていた朝鮮でうまくすればこの機会に独島を強占して海外侵略基地にでき、またそうした可能性もあると計算したためであった。
というのも、中井が独島でアシカ猟をした事実がすぐさま独島に対する日本の領有権を主張できる重要な根拠になりうるし、独島が朝鮮領であっても人が常住しない無人島であるうえに17世紀以後日本人が「松島」と呼んだ資料が残っている事実、そしていかなる帝国主義列強も独島に対する領有権を主張しないばかりか、もっと重要なことに島の領有国である朝鮮が日帝植民地に転落していた当時の環境で抗議を提起できないだろうなどがその理由であった。
(つづく)
これは メッセージ 2538 (hangetsujoh さん)への返信です.
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