南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

反論はどうした?コピペ猿victor_e_frankl

投稿者: devil_snr 投稿日時: 2007/02/25 12:31 投稿番号: [13663 / 29399]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6af c0a9oa29ta4obbvbcb&sid=1143582&mid=13649

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6af c0a9oa29ta4obbvbcb&sid=1143582&mid=13650

南京大虐殺の犠牲者はゼロ

投稿者: delicioushotcoffee 投稿日時: 2007/02/25 11:43 投稿番号: [13662 / 29399]
>文部省教科書検定のホープ秦でさえ4万っていってるのに、最近は変な漫画家とかが3万だ   2万だとかいいだしてついにゼロに。


秦郁彦は虐殺捏造派だよ。

現在は、ゼロ人説が定説となりつつある。

南京虐殺は嘘81・日本軍による市民虐殺は0人・「0人説」以外には正当性なし
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12492732.html




南京事件70年
超党派の勉強会発足
2007/02/24, 産経新聞

  1937年の南京事件から丸70年となる今年、事件を題材にした映画が海外で多数制作されることに危機感をもつ自民、民主両党の若手国会議員が、超党派の勉強会「南京事件の真実を検証する会」を結成した。史実に基づかない資料や、間違った認識に立つ表現に対し「国会議員が率先して反論することが重要だ」(自民党議員)との認識からで、26日から活動を開始する。将来的には、勉強会から議員連盟に発展させることも視野に入れている。

  勉強会には、自民党の戸井田とおる衆院議員や民主党の松原仁衆院議員ら、当選1〜4期の衆参両院議員18人が名を連ねている。26日から3月上旬までに計3回、南京事件に詳しい東中野修道亜細亜大教授、藤岡信勝拓殖大教授らを講師に、「南京大虐殺」の証拠とされる写真や文書の信憑性を検証する。4月に中国の温家宝首相が来日するのを前に、日本側の「理論武装」と結束を図る狙いもある。

  南京事件関連の映画は、米国や中国などで計10作程度の制作が進められている。中国系米国人、故アイリス・チャン氏の著書「レイプ・オブ・南京」が下敷きになったものが多いが、同書は多数のニセ写真や事実誤認が指摘されている。

  勉強会の結成は、中国で抗日記念館の新設・拡充が急ピッチで進められていることも要因だ。2008年の北京五輪では、外国人観光客に中国側の一方的な歴史認識が流布される恐れがあると指摘されている。


  南京映画の製作ラッシュなど一連の動きについて、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬元文部科学相は、「中国による反日プロパガンダ(宣伝)だ」と指摘。今月9日から議連に南京問題小委員会を設置して事件の検証を始めたが、同様の危機意識は民主党の若手の一部にも共有されており、今回の勉強会へとつながった。

  7月には参院選が控えているが、ある民主党議員は「歴史、国益にかかわることに党派は関係ない」と話す。勉強会への参加呼びかけの対象からは共産、社民両党だけでなく公明党の議員も外された。「彼らとは中国、韓国に関して認識が共有できないことは分かっている」(民主党関係者)としており、将来の政界再編をにらんだ動きとの見方もある。



≪今年から来年にかけ上映予定の南京事件関連の映画≫

  タイトル         制作国

  「南京」        米国
  「南京浩劫」      米中合作
  「南京!南京!」    中国
  「日記」(仮題)    中国
  「黄石の子供たち」   米国
   題名未定       中国
   題名未定       米国
  「南京の真実」     日本




徐々に国会議員の間にもマトモな動きが出てきた。

しっかり勉強して、「南京虐殺」「南京事件」などなく、日本軍による虐殺犠牲者は0人だったことを学んでほしい。

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/14592969.html





■関連記事

映画「南京」が米映画祭で来月上映 資料に「虐殺20万人以上」 ←アホ・・・The Nanking Massacre(南京虐殺)関連の英語本・英語サイトの紹介
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/9448853.html


映画「南京の真実」製作委員会
https://www.nankinnoshinjitsu.com/index.html


チャンネル桜水島代表「南京攻略戦の真実を伝へる映画制作」支援スレッド(1)
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1764&forum=1& ;viewmode=flat&order=ASC&start=570#threadbottom


南京虐殺は嘘(0人)・目次
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12782797.html

中国共産党が大転換する前触れか?

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/25 11:30 投稿番号: [13661 / 29399]
中国、社会主義と決別か   全人代は私有財産保護が焦点   産経新聞   02/23

>【北京=福島香織】私有財産の保護を明記した「物権法」が3月5日から開幕する中国の全国人民代表大会(全人代=国会)で焦点になりそうだ。採択されれば資本主義化が加速されるのは必至で、社会主義国家のレゾンデートル(存在意義)を問われかねないと強い反発が出ている。保守派勢力は「同法は憲法違反」として反対要望書をインターネット上に発表した。・・・・  
  採択されれば、社会主義の看板のもとに資本主義化を進めたトウ小平氏の改革開放路線から資本主義への傾斜がさらに強まる。事実上、社会主義の看板も下ろすことになるとの指摘もある。・・・・
  物権法では、国有企業解体の過程で横領に似た手口で資産を得た私営企業についても「時効」を認め、財産権を保障する内容になっているとみられる。要望書は、こうした特権階級に不満を募らせている国民の関心を集める可能性がある。<

中国共産党は資本主義に梶を切ってきたが、過去の政策との矛盾が、いよいよ糊塗できなくなった。
過去を徹底的に批判しなければならなくなった。過去を批判すれば、中国共産党が行ってきた種々の弾圧、抑圧は理由がなかった、正当ではなかったことになる。
相殺するために「日本軍の残虐」を持ち出す。

中国共産党は、毛沢東の「大躍進」で3000万人以上を殺し、「文化大革命」で3000万人以上を殺し、それ以前に「国共内戦」でも3500万人以上殺戮し、つづいて「資本家、地主階級の粛清」を大量に行っている。

中国人民をもっとも殺してきたのは人民解放軍であり、主導したのは中国共産党である。

人民の目を逸らすには他の残虐を持ち出すしかない。無ければ作るしかない。

中国共産党の反日プロパガンダが強化されているのは、政策の大転換、実体は中国共産党による公営企業と土地の簒奪を既成事実として固定する、大きな明確な前触れである。

いくらでも資金と労力をかけてくるだろう。

なりふり構わず、世界中で、ありとあらゆる手を使ってくるだろう。

何しろ中国そのものを中国共産党が簒奪できるのだから。

また、捏造かい

投稿者: goodjapan48 投稿日時: 2007/02/25 09:49 投稿番号: [13660 / 29399]
あまり嘘をつくと、アイリス・チャーン見ないに自殺するよ


>軍司令官の命令で、シンガポールの一八歳から五〇歳までの華僑の男
子が集められ、憲兵による検問がおこなわれた。二〇〜三〇万人はいた
と見られる


二〇〜三〇万人の人間を集めるのに何人の人間が必要かい?
集めるとしても、逃げる人間もいるだろう、膨大な人間が必要だぜ集めるのに

>沼地に連れていかれて機関銃で射殺された

その沼地とはどこだ?

>家族らと一緒に並ばせられたところを日本兵に銃剣
で刺された。おかあさんが彼女をかばって上にかぶさってくれたおかげ
で左足を刺されただけで生きのびることができた。

銃弾が飛んできて体でかばって、生き延びたのなら話が分かるが。
銃剣で刺される時、母からかばってもらって生き延びた?意味が分からん
考えてもみな、至近距離で銃剣を刺されるというときに、
母がかばって生き延びたとしても、その子を狙っていたのだから生き延びる可能性がない

>シンガポールの一八歳から五〇歳までの華僑の男子が集められ

おいおい、マレーの地に何でシナ人がいるんだ、強奪した土地じゃないのか?


全部嘘だな、まともな数字も、場所も、行動自体も不自然だらけ。
シナ人はいただろう、シナ人が侵略した証拠にもなるな

結論、シナ人をシナ領土から出すな、トラブルの元だ

日本軍のマレー人大虐殺

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/25 09:01 投稿番号: [13659 / 29399]
  一九四二年二月一五日シンガポールの英軍が降伏し、日本軍はマレー

半島全土を占領した。そしてすぐにシンガポールを昭南島と改名した。

マレー半島には、マレー人、中国人(いわゆる華僑)、インド人など多

くの民族が住んでいた。この中で華僑は祖国の中国が長年にわたり日本

に侵略されてきたことから、日本への反感が強かった。そこで日本軍は

華僑に対して最初から厳しい態度でのぞんだ。

  軍司令官の命令で、シンガポールの一八歳から五〇歳までの華僑の男

子が集められ、憲兵による検問がおこなわれた。二〇〜三〇万人はいた

と見られる人々をかんたんな質問や人相だけで「反日」的かどうかを判

断した。財産のある者や教師など学歴のある者はそれだけで「反日」的

と見なされた。「反日」と見なされた者はトラックに載せられ、海岸や

沼地に連れていかれて機関銃で射殺された。こうして虐殺された人は、

日本軍が戦後に弁明のために作った資料でも約五千人、シンガポールで

は約四〜五万人と言われている。

  このシンガポールの粛清に続いて、三月から四月にかけてマレー半島

全土でも華僑の粛清がおこなわれた。都市では、シンガポールと同じよ

うに成年男子が選ばれて殺された。しかし農村では、抗日ゲリラが潜ん

でいるとの理由で、村の人々が女性や子供も含めて皆殺しにされたケー

スが多い。たとえば、マレー半島の山の中の村イロンロンでは、三月一

八日に日本軍がやってきて村の人たちは学校に集められた。そこから二

〇〜三〇人ずつ連れ出され、銃剣で刺し殺された。当時八歳だった蕭招

□さん(女性)は、家族らと一緒に並ばせられたところを日本兵に銃剣

で刺された。おかあさんが彼女をかばって上にかぶさってくれたおかげ

で左足を刺されただけで生きのびることができた。しかし両親と弟妹三

人を殺され、家族では彼女一人しか残らなかった。このイロンロンでは

約一千人近い人が殺された。ゲリラは実際にはイロンロンの奥のジャン

グルの中にいたのだが、日本軍は村人みんなを反日的とみなして殺した

のである。

  マレー半島のいたるところでこうした粛清=虐殺がおこなわれ、その

犠牲者数は、数万人あるいは一〇万人以上になると推定されている。

  その後も日本軍と憲兵は、疑いをかけた人々を逮捕しては拷問を加え

、「ケンペイ」と聞いただけで人々はこわがった。また泥棒などの犯人

を裁判にもかけずに首を切り、街角にさらし首にしたことも人々に衝撃

を与えた。

  アジア太平洋戦争の開始直後におこなわれたこうした残虐行為は、華

僑を抗日運動に追いやっただけでなく、他の民族にも日本軍は残虐だと

いうイメージを植えつけてしまった。力で抑えつければ住民は従うだろ

うと考えていた日本軍は、初めから見通しを誤ったのである。




papa0720nikoniko氏の投稿より引用

Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

投稿者: goodjapan48 投稿日時: 2007/02/25 08:11 投稿番号: [13658 / 29399]
トビ主は俺の投稿を消しているな。

重要なことを書き込みしているのに、消すとは

言論を報じられることは、トビ主としての資格が無い。

正義の味方!米国議会!

投稿者: i_love_laughing_at_baka_japs_w 投稿日時: 2007/02/25 07:01 投稿番号: [13657 / 29399]
世界の平和を乱す悪の使者、日帝をぶちのめせ!

Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

投稿者: goodiapan48 投稿日時: 2007/02/25 03:07 投稿番号: [13656 / 29399]
あげ!!

Re: 悪の侵略者日帝は世界に即刻謝罪せよ!

投稿者: daibakusho_japs_gyahaha 投稿日時: 2007/02/25 02:55 投稿番号: [13654 / 29399]
日帝は速やかに過去に犯した犯罪の事実を認め土下座謝罪せよ!!

悪の侵略者日帝は世界に即刻謝罪せよ!!

投稿者: daibakusho_japs_gyahaha 投稿日時: 2007/02/25 02:23 投稿番号: [13653 / 29399]
悪の侵略者日帝は世界に即刻謝罪せよ!!

正義の味方!米国議会!

投稿者: japs_make_me_laugh_very_hard 投稿日時: 2007/02/25 01:41 投稿番号: [13652 / 29399]
超党派で悪の侵略者日帝を殲滅せよ!

Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

投稿者: japs_make_me_laugh_very_hard 投稿日時: 2007/02/25 01:09 投稿番号: [13651 / 29399]
あげ!!

サル真似2

投稿者: devil_snr 投稿日時: 2007/02/24 17:32 投稿番号: [13650 / 29399]
>dorawasabi5001氏の投稿より引用

捏造歪曲で有名な「汚泥」を垂れ流してどうすんだよ。
自分の言葉で語れないのか。サル真似野郎が。

中帰連のHP引用が証拠?
中帰連が中国による「自虐洗脳で反日宣伝塔にされた被害者」の集まりだってことぐらい常識だぜ。

コピペ猿

投稿者: devil_snr 投稿日時: 2007/02/24 17:24 投稿番号: [13649 / 29399]
>YellowFlute氏の投稿より引用

捏造歪曲で有名な「黄害」を垂れ流してどうすんだよ。
自分の言葉で語れないのか。サル真似野郎が。


で、控訴審はどうなった?
発見された記録やら文書やらの「客観的検証」結果は?
「BC級戦犯の裁判」のいい加減さとデタラメぶりはつとに有名だぜ。

JAPとか日帝とか ここは日本か?

投稿者: peacewld2000 投稿日時: 2007/02/24 14:12 投稿番号: [13648 / 29399]
南京大虐殺はあったと思うんだけど、なんでこの掲示板   JAPとか日帝なのかな。JAPは「シナ」と同じで侮蔑用語。主張の是非はともかく使うのはおりこうさんとは思えないね。日帝てことばもなつかしいんだけど、ソ連が崩壊したいまでも「国家独占資本主義におかされた日本帝国主義は」ってひといるのかななんか懐かしい感じ。それとも日本の方じゃないのかしら。
http://blogs.yahoo.co.jp/peacewld2000

旧日本軍 豪兵に青酸ガス実験

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/24 08:51 投稿番号: [13646 / 29399]
太平洋戦争中の1944年11月、旧日本軍が捕虜のオーストラリア軍兵士らに対し、南太平洋のカイ諸島で猛毒の生産を使った毒ガス兵器の人体実験を行っていたことが7月26日、オーストラリア国立公文書館(キャンベラ)で見つかった戦後のBC級裁判の記録文書から明らかになった。

関東軍防疫給水部(731部隊)中国東北部で中国人らに生物・化学兵器の人体実験をしていたことは広く知られているが、オーストラリア軍兵士に対する人体実験の詳細が判明したのは初めて。   旧日本軍が最終兵器と位置づけていた青酸ガスの効力検査が目的で、連合軍の攻勢に対抗するため毒ガス兵器を重視していた実態が明らかになった。
発見された英文の判決文や日本語の供述書など約400ページによると、第五師団(広島)の毒ガス兵器担当の中尉は44年11月、上官の中佐の命令で、師団が保有していた青酸ガス兵器の効力が保たれているかを調べるため、オーストラリア軍兵士の捕虜ら二人に対戦車用の青酸入り手投げ瓶を投げつけた。二人はその場で倒れ、憲兵が銃剣で刺殺した。
実験目的について中尉は47年4月17日の供述書で、青酸ガス兵器が製造から約4年経過し変質が見られたためとし、実験後「効果はあります」と報告したと述べた。中尉と中佐は裁判で絞首刑の判決を受けた。
  2004.7.27「高知新聞」


毒ガス弾国に回収義務
中国人側全面勝訴   1億9000万円賠償命令

  旧日本軍が中国に残した毒ガス弾などで戦後被害を受け、死亡したり健康を損なったりしたとして、被害者の中国人や遺族計13人が国に総額2億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は29日、ほぼ請求通り1億9000万円の支払いを命じた。
片山良広裁判長は「主権が及ばない中国であっても中国政府に回収を申し出るか、遺棄状況などの情報を提供して被害を防ぐ義務があった」と認定。「日中国交回復後も回収を怠り、放棄した行為にはわずかの正統性もない」と国の不作為を違法とした。

片山裁判長は判決理由で、毒ガス兵器の遺棄について「組織的に隠蔽、隠匿を実行した」と旧日本軍の違法行為を認定した。その上で「軍関係者の話しや資料を調べれば、遺棄状況を相当程度把握でき、住民らに重大な危険が及ぶことが予想できた」と国の予見可能性を認め「危険な状態を作り出した国には危険を解消する義務がある」と指摘。国は「共同声明で中国側は戦争賠償請求権を放棄した」と主張したが、片山裁判長は「問題となっているのは、戦争中の行為ではなく共同声明以降不作為」と退かた。
2003年9月30日「高知新聞」


【吉林】旧ソ連による731部隊の裁判記録を発見

旧ソ連が、旧日本軍の細菌戦に関わった戦犯を裁いた時の公判を記録した書籍「細菌戦用兵器の準備および使用の廉(かど)で起訴された元日本軍軍人の事件に関する公判書類」が、吉林市の収集家宅で見つかった。この本は1950年にモスクワの外国語出版局から発行されており、全83ページ、すべて中国語で書かれている。

前書きには「細菌戦用武器の準備および使用で起訴された、旧日本陸軍の軍人12人の裁判が1949年12月25日から31日まで、ハバロフスクで行われた。起訴された軍人には、日本関東軍総司令官・元陸軍大将の山田乙三を含む」と書かれている。

第45ページには審問に答える山田乙三の言葉が「私は罪を犯したことを認める。私が生体実験を行った事実は明確だ。私は別の者らがこのような実験を行うことを許可したのだから事実上、実験対象となる中国人、ロシア人、満州の現地人を日本軍の各組織によって送り込み、強引に殺害することを許可していたことになる」と記録されている。第380ページには、証人として出廷した元731部隊員の古都良雄が「私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、それは貯水池、井戸をチフス菌及びバラチフス菌によって汚染する方法による細菌攻撃でありました」証言したことが記されている。
「人民網日本語版」2002年5月21日




YellowFlute氏の投稿より引用

ノモンハン事件

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/24 08:49 投稿番号: [13645 / 29399]
一九四〇年五月二三日の『朝日新聞』は、

【七三一部隊に「ノモンハン事件」に関連して軍司令官から感状が与えられたことを、部隊長の石井だけではなく娘の春海の写真まで掲載して伝えている。これは普通ではない。】

  日本はノモンハンでの戦争の大敗北を通じて、航空機、戦車その他全ての戦力においてソ連に、そして欧米諸国に太刀打ちできないことを認識した。

この時諸外国との戦争においては、従来とは違う新しい兵器を持つ必要を痛感した。

石井が提唱していた生物兵器はその一つと考えられた。

【石井はノモンハンでの戦争の末期に戦場の河に細菌をまいたのだった。】


【感状が与えられたことと、その事実が新聞で娘の写真まで掲載して報道されたことは、陸軍の首脳部が生物兵器を有望な兵器と判断したことを示している。】

その推測は翌年以降、中国で航空機を使用した生物兵器の試用が裏付けている。

  翌年、一九四〇年秋になって石井たちは中国中部の寧波その他を、さらに一九四二年まで中国中部の各地で生物兵器の実戦試用を行った。

中国政府は一九四二年三月三一日、中国保健省金長官名で「中国における日本による細菌戦の企て」という、日本の生物兵器の使用を非難する声明を発表し、重慶駐在の各国大使館に送り付けている。


この文書は在重慶の米国大使館からワシントンの国務省に送られた電報の同封文書として米国国立公文書館に保管されている。日本が中国各地で生物兵器を使用しているという中国の主張に対して、当初米国は「根拠のない申し立て」として取り扱っていた。

しかしその後一九四四年の末になると

【米国も捕虜とした日本兵の尋問を通じて、日本による生物兵器の実戦試用を確認する。】


【   日本は一九四二年の秋以降、中国での生物兵器の実戦試用を中止する。】


それは中国側に生物兵器の使用を見破られたためではなく、

【その年の中国中部での試用で日本軍が汚染地域に入り、一七〇〇人以上の死者を出すという、大失敗をし、】

陸軍首脳部の信頼を失ったためだ。

この死者一七〇〇人以上という数字は、前記の日本人捕虜が尋問で米国側に答えているものだ。

・・


  何故、当時米国で炭疽、ペストそれに鼻疽のワクチンの開発が行われていたのだろうか。これはそうした細菌を生物兵器として使用する努力が進行中だった、ということを意味しているだろう。

  ヒルとヴィクターの調査はフェルの調査を受けて、「細菌戦研究施設から日本に送られた、人間から得た病理標本の調査」など、人体実験についてより詳細な情報を入手することだった。彼らのレポートの結語は次の通りだ。

  今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた増強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。

こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、我々の研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日までに要した費用は総額二五〇〇〇〇円で、これはこれら研究の実際の価値と比べれば取るに足らない額である。


さらに、集められた病理標本はこれら実験の内容を示す唯一の物的証拠となっている。これら情報を自由意志によって提供してくれた人々がこのことで困ることのないよう、またこの情報が他に漏れることのないようあらゆる努力を払うよう望む。

  ヒルとヴィクターのレポートには二五種類の研究テーマについて、どんな人物にインタビューし、どんな情報を入手したかが明らかにされている。

日本語の文献では数種類の事例についてしか分からない石井機関での人体実験が、この戦後の米国による調査、特にソ連による石井たちの身柄引き渡し要求後の調査、によって網羅的に知ることができる、というのは歴史の皮肉と片づけてはいけない。戦後日本のありようの問い直しを迫っていると理解するべきだ。

(つねいし けいいち   神奈川大学教授)

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/07/tuneisi_731.htm


dorawasabi5001氏の投稿より引用

victor_e_frankl の南京・・・は

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 20:54 投稿番号: [13644 / 29399]
他人の投稿を張りかえているだけではないか。

中身の信憑性のほどは本人はまったくわからない。

実は読んでもいないのではないか。

本多勝一は・・・・

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 20:52 投稿番号: [13643 / 29399]
中国語は全くできなかった。

いまもできない。

通訳も翻訳も中国共産党にしてもらった。

中身の検証はまったくしていない(できなかった、する気もなかった)

本多の「報道」とは

中国共産党がつくったものを

そのまま日本に持って帰り

朝日新聞が印刷して宅配しただけのことではないか!

金学順は

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 20:46 投稿番号: [13642 / 29399]
身内に売られて身を沈めていただけのことだった。

人を喰った話

投稿者: forbos_dds 投稿日時: 2007/02/23 18:48 投稿番号: [13641 / 29399]
文化大革命でも大いに人肉食と群衆心理による大量虐殺の習慣を発揮した中国人が、日本兵が中国人を虐殺したり食べたりしたと騒ぐ。

これぞまさしく「人を喰った話」だわな。

Re: 悪の日帝の逃げ得は許さない!!

投稿者: x25r_alpha 投稿日時: 2007/02/23 18:17 投稿番号: [13635 / 29399]
>日本政府は今すぐ被害者に土下座謝罪しろ!!


やなこった!
       by 日本政府及び(ごく一部のサヨを除く)日本国民一同

米民主党勢急拡大で高まるJapanバッシング

投稿者: chon_ga_chon_chon_chon_chon_ge 投稿日時: 2007/02/23 18:10 投稿番号: [13634 / 29399]
なにしろ、米民主党は悪の枢軸日本帝國によりいわれなき、宣戦布告なしの卑劣かつ姑息な真珠湾奇襲攻撃を受け、
世界平和、世界正義のため、世界征服を目論みのさばる極悪非道の日本帝國に対し、
これを敢然と迎え撃ち、まさに2発の原爆という正義の鉄槌をもって見事にそして完璧にこれを叩き、完全にこれを粉砕した、
正義の味方、偉大なるフランクリンD.ルーズベルト大統領を輩出した党であります^^
それに付け加え、先の中間選挙で米民主党は圧勝し、現在上院、下院でも過半数を占め、
2008年の次期大統領は民主党から選出されることが確定しているとのもっぱらの噂ですから、
これからしばらくの間、愚かな日帝の悪の末裔に正義の裁きを下すための
途絶えることのない激しいJapバッシングが期待できそうですね^^
楽しみですね^^うれしいですね^^悪質な為替操作という卑怯な手法で、
世界中から大量の現金を不正に騙し取る経済テロリストJapざまぁみろ^^vですねw

毒ガス人体実験

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:56 投稿番号: [13632 / 29399]
★旧日本軍:
捕虜使い毒ガス人体実験   豪裁判記録で判明

  太平洋戦争中の1944年11月、旧日本軍が【捕虜のオーストラリア軍兵士らに対し、】南太平洋のカイ諸島で猛毒の青酸を使った毒ガス兵器の人体実験を行っていたことが26日、オーストラリア国立公文書館(キャンベラ)で見つかった戦後のBC級裁判の記録文書から明らかになった。

  中央大の吉見義明教授(日本近現代史)が発見し、田中利幸・広島市立大教授の協力を得て入手した。

  関東軍防疫給水部(731部隊)が中国東北部で【中国人らに生物・化学兵器の人体実験をしていたことは広く知られるが、】

吉見教授によると、オーストラリア軍兵士に対する人体実験の詳細が判明したのは初めて。

旧日本軍が最終兵器と位置付けていた
【青酸ガスの効力検査が目的で、】連合国軍の攻勢に対抗するため毒ガス兵器を重視していた実態が明らかになった。

  文書は、終戦から約3年後の48年7月15日に香港で行われたオーストラリア軍による戦犯裁判の記録で、英文の判決文や日本語の供述書など計約400ページ。

  それによると、第5師団(広島)の毒ガス兵器担当の中尉は44年11月、

【上官の中佐の命令で、師団が保有していた青酸ガス兵器の効力が保たれているかを調べるため、】

オーストラリア軍兵士の捕虜ら2人に対戦車用の青酸入り手投げ瓶を投げ付けた。2人はその場で倒れ、憲兵が銃剣で刺殺した。

  実験目的について中尉は47年4月17日付の供述書で、青酸ガス兵器が

【製造から約4年を経過し変質が見られたためとし、】

実験後「効果はあります」と報告したと述べた。中尉と中佐は裁判で絞首刑の判決を受けた。

  当時、カイ諸島東方の日本の占領地ニューギニア島に、オーストラリアやニューギニア西部から連合国軍の進攻が予想されるなど戦況が緊迫していた。

今回の新事実が盛り込まれた著書「毒ガス戦と日本軍」(岩波書店)は28日刊行される。(共同)

◇ことば◇旧日本軍の毒ガス兵器

  1929年、陸軍が広島県大久野島で製造を始め、後に海軍も神奈川県寒川町に工場を建設した。

旧軍は毒ガスの種類を色で識別。

猛毒の青酸ガスを「ちゃ」、致死性のイペリットとルイサイトを「きい」、嘔吐(おうと)性ガスのジフェニールシアンアルシンを「あか」、催涙ガスを「みどり」と呼んだ。

米軍の調査報告書によると、旧日本軍は計約750万発の毒ガス兵器を製造。

【中国では大量の毒ガス兵器が遺棄されたままで、日中両政府が廃棄処分を目指し協議中。(共同)】

毎日新聞   2004年7月26日   21時15分


dorawasabi5001氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜35(防衛軍崩壊)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:50 投稿番号: [13631 / 29399]
下命された撤退命令そのものがもはや実行不可能なモノであった。指令長官の特続部隊と第36師・憲兵部隊が午後6時より下関から汽船で渡江して撤退、

その他の部隊も夜11時を期して各方向で一斉に日本軍の包囲網を正面突破して撤退し、最終的に安巍省の南端に集結するというものだった。

この撤退作戦は前日の夜であれば、まだ決行の可能性もあったがすでに防衛軍の前線が崩壊を始め殆どの部隊が渡江し長江北岸に逃れ様と下関へ潰走を始めていた段階では敵軍正面突破の実行は不可能であった、

さらに唐生智はこの実施不可能な撤退計画を強行するために撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第116師に他部隊が把江門から撤退、退却するのを実力阻止するように命じたのである。

司令長官部が真っ先に撤退するという作戦は南京防衛軍にパニック的な崩壊をもたらし、鉄道部地下室の司令長官部の人員が午前5時以前に撤退行動を開始しているため午後3時以降に各部隊が司令部に無線連絡をしても通じない状態となり、前線部隊に動揺と混乱を与え逃走、潰走に拍車をかけることとなった。

日本の大軍が城内に侵入南から攻めてくるという恐怖の情報が、まだ居住区に残留していた市民を震撼させ、当時、十数万の市民がまだ、自宅に居たといわれる。市民の前を中国軍がパニックをおこして逃げてゆく、中国軍がいなくなり、自分たちが日本軍の襲撃に直接さらされる事となった市民にパニックがはしり、城壁内南部地域の密集地帯に残って居た住民から逃走がはじまった。

多くの残留家族がわずかな食糧と寝具類を背負って退却する部隊の後を追って南京を脱出しようとした。

夕暮れと共に膨大な数の退却・潰走兵と軍隊と一緒に南京を脱出しようとする 避難民の群れが把江門に向かって洪水のように殺到したのである。

南京事件に至るまで〜36


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜34(防衛軍崩壊)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:49 投稿番号: [13630 / 29399]
唐生智は正午に鉄道部地下室の司令長官部に高級指揮官会議を招集して、撤退命令を正式に決定し、午後三時に南京防衛軍の全軍に撤退命令と作戦を下命する予定でいた。

しかし、戦況の急変による指揮系統の動揺と混乱によって開催不可能となり、唐生智が高級指揮官会議を開会できたのは日没時の午後5時になってからだった。

それも中山北路に面した鉄道付近はすでに敗走・退却兵による混乱が発生していたため、百子亭の唐生智の官邸に変更した。

そのころはすでに、南京防衛軍の崩壊は除除に進行していた。南京城内を南の中華門から北の把江門まで縦断する中山北路に立っていたアメリカ人記者A/T・スティールはその様子を記している。

「数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた、激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きをかえ、前線に向かてノロノロ戻り始めた、だが盛り返したのはつかの間であった。中国軍の志気は瓦解し、全軍が潰走することとなった。」

「崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったモノが、日暮れ時(午後5時頃) には潰走と化した。

逃走する軍隊は 日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。
まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬、ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。(シカゴ・デイリー・ニュース))

南京事件に至るまで〜35(防衛軍崩壊)に続く


kinngyoya301氏の投稿より引用

Re: 南京・・・他人の文章

投稿者: greenappletea2no2012 投稿日時: 2007/02/23 16:47 投稿番号: [13629 / 29399]
こういう人、いますね。「お前ら知らないだろう、ほら、戦時中日本人はこんな酷いことをしたんだ。だから日本は中国にも韓国にもずっと頭を下げ続けろ。」
どこの文献に書いてあるのか知らないけれど全て真実という証拠はどこにもない。こんなことを延々と続けてむなしくないのでしょうか。戦争を知らない日本の世代が同調するとでも思っているのか、それとも単なる嫌がらせか。どちらにせよ相手にする人は少ないでしょうね

南京事件に至るまで〜33(城陥落)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:32 投稿番号: [13627 / 29399]
包囲殲滅網の完成

日本国内で南京陥落の誤報に踊らされて、官民一体で戦勝祝賀行事が繰り広げられていた12月12日、
南京では夜明けとともに かつてない激烈な日本軍の攻撃が開始されていた。

完全に南京の制空権を掌握していた日本軍機は中国軍陣地に容赦ない爆撃を加え、南京城壁を包囲する形で陣地を構えた日本軍の砲列は城壁と城内へ向けて猛烈な砲火を浴びせた。

南京城南の中華門の重要拠点である雨花台陣地には 第6師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が猛攻を加え、正午までに同陣地を占領した。

第6師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、城内にも砲弾を撃ち込んだ。

南京の中心街で砲弾が炸裂し各所に火の手があがる、雨花台に進出した第11師団(善通寺)は中華門から東の雨花門にかけての城壁に集中攻撃を開始した。

北山麓陣地は第16師団(京都)の佐々木隊(支隊長佐々木到一少将)南山麓は同師団の主力が、南京防衛軍の最精鋭部隊の教導総隊(桂永清隊長)を相手に3日間に渡って死闘を続けていた。

この日、紫金山第2峰陣地を失陥させた第16軍の砲列から中山門とその南の城壁に重砲による集中攻撃が加えられ、中山門の城壁が数メートルに渡って決壊する。

長江南岸にそって南京城の東(長江下流)にある烏龍山砲台には第13師団(仙台)の山田支隊(支隊長山田栴二少将)が猛攻をかけた。

長江南岸にそって南京城の西(長江上流)の上新河鎮から江東門、下関に広大にひろがる湿地帯では雨花台を占領した第六師団が戦闘を展開、城内突入を目指して中華門から水西門にかけて攻撃を集中し、往来には死体が散乱し凄惨を極めた。

長江の北岸津補(天津ー補口)鉄道ターミナル駅補口の占領を目指して進撃中の国崎支隊は午後に江浦県城を占領、渡河して撤退しようとする中国軍の殲滅作戦を準備した。

日本軍は12日の昼までに南京城の四方を完全に取り囲んで包囲殲滅戦の陣容を整え、その日の午後から夜間にかけて、「南京」一番乗りを競って膨大な死者、犠牲を払いながら壮絶な突撃戦を敢行した。

河と空からの包囲殲滅を目指した支那方面艦隊は遡江部隊が烏龍山砲台の下流に進撃してきていた。

第一空襲部隊の第12航空隊、第13航空隊は中国軍が汽船で南京を脱出中との報を得て、中国軍の退路遮断及び殲滅のための長江のジャンク、汽船の爆撃に向かい、アメリカ砲艦パナイ号とアメリカのタンカーを中国兵の護送中と「誤認」し撃沈した。
(パナイ号事件)

南京事件に至るまで〜34(防衛軍崩壊)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜32(城攻防戦)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:30 投稿番号: [13626 / 29399]
12月8日、日本軍は南京城を覆うように布陣された烏龍山ー幕府山ー紫金山ー雨花台の複廊陣地に迫り、南京城の攻囲を完成した。

翌9日の夕方には「日本軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍に対しては寛大をもってし、これを犯さず」という大日本陸軍総司令官   松井石根名の南京防衛軍にたいする「投降勧告文」(日本語/中国語)を日本軍機から城内8カ所に投下した。

翌10日   中支那方面軍参謀副長   武藤章大佐と同参謀の中山寧人少佐は、通訳官をともなって中山門ー句容街道において午後一時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、中国側の軍使は来なかった。(南京戦史編集)

投降勧告を拒否した南京防衛軍の司令官唐生智はこの日の午後七時、「本軍は複廊陣地において、南京固守最後の戦闘に突入した。

各部隊は陣地と存亡をともにする決心で死守せよ」と下命し、指令なく寸地でも陣地を放棄、撤退したものは軍法にもとづいて厳罰に処すと伝えた。

また、保有している船舶は全て一律に運輸司令部が接収、管理するように命じ、勝手に拘留しておくことを禁じた。

宗希簾の第36師に命じて長江沿岸を厳重に警備させ、指令長官部の許可がなければいかなる部隊の渡江も厳禁とした。
また、憲兵、警察に対しては「隊伍を離脱した兵隊が制止をきかないで渡江しようとした場合には武力で阻止せよ」と命じた。


「南京城と生死を共にする」と言い切った唐生智の覚悟のほどをしめした厳命であった、渡江の手段を断って、「背水の陣」を敷こうとしたのであるがこの「死守作戦」が大きな悲劇を生むこととなってしまう。

松井方面軍司令官は午後1時蘇州方面軍司令部において

「上海派遣軍ならびに第10軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作戦命第34号)と南京城総攻撃を下命した。

陸軍の総攻撃に伴って海軍の航空隊の爆撃も激しさを加えた。

このようにして、10日から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることとなった。」

南京事件に至るまで〜33(南京城陥落)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜31(清野作戦)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:29 投稿番号: [13625 / 29399]
中国軍が強行した清野作戦とは侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある物、建物を全て焼却してしまう、焼野原作戦である。

中支那方面軍が「注意事項」を下達したその日(7日)から始められ9日まで続いた。

中国軍は南京城の城壁の周囲1〜2kmにある居住区全域と南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った、

この作戦により住む家を無くした多くの農民と市民が食糧と家財道具一式を持って城内の南京難民区に(南京安全区)に殺到する。

「清野作戦」の結果、食糧掠奪と民家宿営に頼っていた中支那方面軍の諸部隊は城外区域に駐屯する事が出来ず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるを得なくなったのである。

数万の軍隊による食糧物資の掠奪が城内で行われることとなったのである。

また、道路沿いの民家、農家が焼き払われた為、諸部隊の食糧徴発行動は遠隔の奥地にまで波及することとなり、それだけ、農村部の被害も拡大していったのである。」


南京事件に至るまで〜32(南京城攻防戦))



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜30(蒋介石)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:27 投稿番号: [13624 / 29399]
12月6日までに日本軍は南京外囲防御陣地をほぼ占領し、前線部隊は南京城複廊陣地に向かって攻撃を開始した。

南京城内も日本軍の射程に入り、砲弾も飛び込んでくる。

第一空襲部隊の第2連合航空隊は12月3日に常州に前進基地を開き、同隊の約半数の航空兵力を移駐させ同基地から出撃し激しい爆撃を連日、南京城内にくわえた。
蒋介石自身も生命の危険を感じ、南京固守作戦指揮にこだわっていたが、側近からの強い説得にようやく南京を脱出する決意をする。

12月7日蒋介石夫妻は側近とともにアメリカ人パイロットの操縦する2機の大型単葉機に乗って、南京を脱出していった。

南京防衛陣地構築を指導したドイツ軍事顧問団のフォルケンハウゼン団長以下も密かに南京を離れ漢口に向かった。それから一両日中に国民政府の要人、南京市長ほか市政の要人たちも全てが南京を脱出していった。

南京城攻略要項などを中支那方面軍司令部の下達

1.皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の盛事にして、永く竹帛 に垂るべ き事績たりと世界の等しく注目しある大事件なるに鑑み、将来の模範たるべき心組みをもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など 絶対に無からしむを要す。

1.部隊の軍規風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。

1.入城部隊は師団長が特に選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、特に城内外国権益の位置などを徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。

1.掠奪行為をなし、また、不注意といえども火を失するものは厳罰に処す。
軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。
(南京戦史資料)

あたかも、極悪非道の受刑者が入城するがごとき、注意書きである。
事実、この注意がことごとく破られた為に、皇軍の南京城入城は全く逆な意味で「世界に注目」され、永く歴史に残すことになってしまったのである。

南京事件に至るまで〜31(静野作戦)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜29(唐生智)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:26 投稿番号: [13623 / 29399]
南京死守を決定するも、南京防衛軍の司令官の人選にいたり、高級幕僚に応ずる者がなく、名乗りでたのは、軍事委員会常務委員の唐生智であった。

唐生智は地方軍の湖南軍の軍官出身で、過去に2度ほど反蒋介石戦争に参加したこともあり、国民政府内では非主流派の属し、かなりの冷や飯を喰わされていた。

政府、軍内に確固たる基盤も無い。その唐生智が国防会議で他の誰も蒋介石の南京固守作戦を支持しなかったのを見て、生来の野心と功名心から南京防衛軍司令官に名乗りを上げたのである。

南京防衛軍司令官唐生智と中支那方面軍司令官松井石根とは侵略側と防衛側でありながら、司令官としては互いに

1,航空機、軍艦、戦車まで投入した近代兵器と大部隊による大都市の攻防戦を指揮する経験と実力に欠けていた。

2,唐生智は日本軍の包囲殲滅作戦を予想だにしなかった、松井は中国の抗戦力を軽視し、南京占領と国民政府の降伏を安易に考えていた。

3.唐生智は閑職にあり、松井は現役大将を退いた予備役であり、野心と功名心だけは人一倍強かった。

4.二人とも配下の師団長、師長クラスの高級将校の尊敬を得ていず、司令官としての実力、権威を備えてはいなかった。

5.二人とも病弱であった。唐生智は司令長官部を自分の官邸におき、全軍の指揮の支障をきたす。松井は野戦司令部で病臥することが多く、南京戦中の12月5日から15日まで司令部に病臥、滞留していた。

状況把握は勿論の事、統制指揮の出来ない様であった。

蒋介石は当初南京防衛軍を約7万人配備を計画したが、南京に迫り来る日本軍の予想外の早さと中支那方面軍そのものが数次にわたる増員部隊で雪だるま式に増え続け、総勢20万人規模近くまで増強されていく状況に動揺し、

危機感を募らせ、蒋介石はブリュセル会議が結局は対日制裁を決定しなかったために、次はトラウトマン和平工作に期待し、日本側の提示した和平条件の受け入れ用意をトラウトマンに伝えるとともに、日本との停戦、和平を実現するためにも、南京の早期陥落を阻止することが不可欠と考えていた。

蒋介石はまた、南京防衛を2〜3ヶ月持ちこたえれば、国際情勢も大きく変化して中国の危機は回避されると、漠然とした期待感もあったのである。

そこで、蒋介石は南京近郊区に軍隊を急増派動、配備したが、将兵の過半を失った部隊が多かったので急遽、農村から水増し的に大量に青年、壮年を徴用した。

兵役制度がなかったため、徴用された新兵は武器の使用方法も知らず、組織的作戦の遂行など出来ず指揮官が居なくなると部隊の指揮系統がいったん崩れればあとは烏合の衆にすぎない存在となりかねない状況であった。

南京虐殺事件ではこうした新兵の大部分が犠牲となった。

この段階で南京防衛軍の総数は前線部隊、後方部隊、雑兵、軍夫をあわせて約15万に達している。

この15万兵士に対して、陸から総勢20万人近くの日本軍が波状進軍の形で包囲し、空からは支那方面艦隊(長谷川司令長官)航空部隊の第一空襲部隊(指揮官三竝貞三少将、第二連合航空隊と第一連合航空隊上海派遣隊で編成)が南京に向かって両岸の要塞、砲台を攻撃しながら進撃を始めた。

中支那方面軍と支那方面艦隊の南京包囲網の中には南京防衛軍の他、近郊区の100万人以上の住民と難民、南京城区内には40〜50万人の市民および難民が居住していた、あるいは避難していた、のである。、

南京事件に至るまで〜30(蒋介石の脱出)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜28(南京陥落1

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:02 投稿番号: [13622 / 29399]
中支那方面軍の第10軍と上海派遣軍が独断で奥地への侵攻を禁じた制令戦を突破して南京へ進撃を開始した頃、

国民党政府軍事委員会(委員長   蒋介石)は南京で最高国防会議を開き(11月15日〜18日)国民政府の重慶への遷都を決定するとともに南京防衛戦の方針を決定した。

南京防衛のあり方については、他の高級幕僚との間に対立が生じ、3ヶ月に渡った上海防衛戦に蒋介石は国民政府軍の総兵力の3分の2にあたる約70万人の兵力を投入し、しかも精鋭部隊の殆どをつぎ込み、その結果、戦死者も25万人前後と言われるほど膨大な数になっていた。

中国軍が被った損害の大きさからも、首都南京を防衛しきれないことは明らかであり、首都を四川省重慶に移し、長期抗戦の態勢を整える事については会議参加者の異論はなかった。

*名目的な抵抗にとどめ、後は自発的に撤退するという作戦と、

*首都南京を少なくとも一定の期間は死守する作戦の

どちらを採択するかで、対立していた。

前者は軍事委員会参謀の何応欽、同参謀の白崇禧、軍令部長徐永昌ら多くの幕僚の意見であった。

上海戦以後は日本軍に対する持久戦を原則とし、一都市の得失を争うべきではなく、上海で喪失した中国軍の戦闘力を回復するには相当の期間にわたって後方で軍隊を補充、訓練する必要がある、

南京は防衛困難な地形であるなどが主な理由であった、

が、

これに対して、後者を主張してゆずらないのが軍事委員長の蒋介石であった。

南京は中国の首都であり、世界の注目をあびている。南京には国父孫文の墓がある(陵墓)敵の手に汚させてはならない、と言うのが主な理由であった。

蒋介石が短期固守に固執したのは折から、進展を見せていたトラウトマン和平工作に強い期待を寄せ、さらにベルギーで開催中のブリュセル会議で対日制裁措置が決定されることも期待していたからであろう。

欧米列強から抗戦中国への武器、財政援助さらに侵略国日本に対する軍事、経済的制裁や軍事干渉を引き出すためには、中国の抗日戦力を海外に示さなければならないというのが蒋介石の一貫した抗日作戦であった。

国防会議の最後の晩に蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って、

南京死守作戦を決定した。

南京事件に至るまで〜29(唐生智)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜27(虐殺の村)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 16:01 投稿番号: [13621 / 29399]
江寧県の北端に上海から南京へ幹線道路が走る所に湯山鎮がある 。許巷村は湯山鎮に属し、道路沿いに200戸ほどの農家が並ぶ村落であった、この村が補充員部隊の波状進軍の犠牲となった。

12月20日の明け方に日本軍の先頭部隊が現れ、通信兵らしき日本兵が、農作業をしている陳光秀の父親に近づいて、何か日本語で話しかけているようだったが、分からないで黙っていると、いきなりピストルで撃たれた、なおもよろめいた父を日本兵は突き飛ばし、胸を撃って即死させ、そのまま行ってしまった。

急いで村へ帰り、姉、妹、兄嫁と山中に隠れたが、兄は日本兵に連行されてしまっていた。

約100名の青年たちを日本軍は少し離れた道路沿いの田んぼに連行した。
殺されるのではないかと老人たちは後をついって行ったが、豚や鶏の徴発に応ずるようにと追い返されてしまった。

田んぼに連行された青年たちは、互いに向き合ってひざまづき、2列に並ばされ、、その周りを囲んだ日本軍兵士は銃剣で一斉に刺殺した。集団虐殺が行われたのは午後4時頃であった。

農民たちにとって不幸であったのは日本軍の軍規の乱れ方の様々な部隊があったことである。

しっかりとした指揮官のいる部隊は、非戦闘員は殺害しないとう軍律を守っていた、許巷村の村民が聴いた噂「日本軍大歓迎の横断幕を掲げ、総勢出迎えれば、家を焼かれず、虐殺もされないという」というのは村民に危害を加えない部隊のことであった。

村民が日本軍はどの部隊も同じだろうと考え対応したことが、悲劇となった。」

南京事件に至るまで〜28(南京陥落1)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜26(大寺日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:59 投稿番号: [13620 / 29399]
南京事件に至るまで〜25(大寺日記)
第4次補充員部隊として11月22日に福島の会津若松市を出発、12月3日に上海の呉淞に上陸、南京へ進軍した兵士の日記から、、、(大寺隆日記)

12月4日
兵隊は元気に町を歩いて色々徴発している。

12月8日
途中8時頃、ニヤ(中国人の蔑称)をつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。30分歩いて5分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力はあるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
部隊にはよほど離れていると思ったので、大谷さんと二人で昼寝する。

12月9日
途中ニヤをつかんで、無錫に10時到着。
無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかのように空に輝いている。火災をおこしているところもあった。
3里手前から見えた。今日は休養だ。
午後から城内の徴発に行って道に迷い、5時頃ようよう木村上等兵と二人で帰る。

12月10日
皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。
青陽鎮の町はまだ、火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。

12月14日
食糧は今日からナシに、、、。地方から徴発していかなければならない。
第4中隊は徴発中隊だ。

12月16日
徴発隊として午前7時20分整列、7時に起きたのでアワを食って出て行く、途中道を間違えて半道ばかり、反対の方向へ行く、豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発容易。
午後2時半東流鎮に着く、滝潭鎮から約4里、町に着き宿営を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終わる。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまた色々と徴発してきた。
分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当にご馳走があった。

兵士の日記には日本に帰還するときに厳しい検閲を受けたので、残虐行為は記述されていない。一般に補充員の集団は指揮系統がなかったため、前線部隊と比較すると軍規が弛緩し、部落掃蕩中の掠奪、放火、強姦、殺害など残虐行為は前線部隊を上回った。

南京事件に至るまで〜27(虐殺の村)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜25(堀越日記)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:58 投稿番号: [13619 / 29399]
波状進軍の被害
上海〜南京〜南京戦区において一番乗りを争った前線部隊が、各師団の先頭部隊、主力部隊、後続部隊と分かれ、波状進撃していった。

上海での日本軍の損害が甚大であったため、各部隊とも多数の補充を必要とし、補充員が次ぎ次ぎと各部隊へ送られた、

この補充部隊は前線にたどり着くまでは臨時の編成であるため、指揮系統もなく、軍規も厳正ではなかった。

江南の広い地域および、南京区の県城と農村がこのような補充員の集団のなだれのような波状攻撃にさらされたのである。

第13師団山田支隊   (支隊長山田栴二少将)歩兵第六五連隊(連隊長両角業作大佐)
堀越文雄の日記
10月6日
帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す、むごたらしきかな、これ戦いなり。

11月9日
捕虜を引き来る、油座氏これを斬る。夜に近く女2人、子供ひとり、これ突かれたり。

11月16日
午後6時ころ、一部落を見つけて、泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と3人して徴発せし鴨と鶏、全部で8羽をもって、夕食うまし、外に豚1匹は油と砂糖、塩とで炒め、中食(昼食)の副食物にす。

11月20日
昨夜まで、頑強なりし敵も今は退却し、ところどころに敗残兵の残れるあり、とある部落に正規軍を発見し、吾初めてこれを斬る。まったく作法通りの斬れ具合なり、刀少しく刃こぼれせり、惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ち着きなり、西徐野に一泊す。

敵はほとんど退却す、残れる者は使役に服せしめ、または銃殺、断首などをなす。いかりの心わかず、心きおうことなし、血潮を見ても心平生をうしなうことなし、これすなわち、戦場心理ならんか。

11月22日
鶏の徴発に出かける、クリークを通る支那人の舟を全部止めて片っ端から調べ、それに乗り対岸にいたり、チャンチュウ(中国酒)を一壺得てかえる。鶏およそ10羽もあるべし、中食うまし。

陸軍刑法(1908年制定)
第1章   掠奪の罪第86条

戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を掠奪したる者は1年以上、の有期懲役に処する。

前項の罪を犯すに当たり婦女を強姦したる時は無期、または7年の懲役に処す。と明記されていた。

中支那方面軍が各部隊に”食料現地調達、徴発=掠奪命令”を出すこと、それ自体が軍規を弛緩させ、掠奪行為が強姦行為に及ぶ事を想定していながら、掠奪を許す、、と言うよりも積極的に罪を犯させた事は中支那方面軍司令官、司令部の責任は大きいといわねばならい。

南京事件に至るまで〜26(大寺日記)


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜24

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 15:57 投稿番号: [13618 / 29399]
南京攻略戦において、日本軍は上海から撤退していく中国軍の追撃殲滅作戦と、南京防衛軍に対する包囲殲滅作戦を行った。

投降兵、敗残兵、捕虜、であろうとも、中国兵であったと者、それらしき者と思われた者を殲滅、つまり、皆殺しにする作戦であった。

ハーグ陸戦条約「規則」では「第23条{害敵手段、攻囲および砲撃の禁止事項}

敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること、

兵器を捨て、または自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること、

助命せざる事を宣言すること、
などを禁止している。

にも関わらず、日本軍は無抵抗の投降兵、敗残兵、捕虜を片っ端から殺害していった。

この残敵掃蕩は、敗残兵として残っている者が一般民衆の中に逃れた場合には民間人をも巻き添えにして、殺害することとなったのである。

日本政府、軍部の「支那膺懲」という思想が皇軍に対して屈服し、その配下にくだらない者は武力で征伐し、打ち懲らしめるというものである。

中国人が生きて生活する場に侵入し、彼らの生活の場を破壊しておきながら、日本軍に敵対したり、あるいは協力しない民衆を抗日と見て、あるいは疑うだけで、膺懲として殺戮したのである。

南京事件に至るまで〜25(堀越日記))


kinngyoya301氏の投稿より引用

南京・・・他人の文章

投稿者: yohikimenosaru 投稿日時: 2007/02/23 15:56 投稿番号: [13617 / 29399]
信憑性は張ったヤツにもわかっていない。

南京事件に至るまで〜23( 崇善堂)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:42 投稿番号: [13616 / 29399]
中支那方面軍が包囲殲滅作戦をとり、中心の南京城に向かって師団、旅団、連隊、大隊といった各規模の部隊単位で波状的に進撃していった。

このため、南京近郊農村地帯に住んでいた民衆はさながら、日本軍が投げた南京戦区という大きな投げ網のなかで右左往し、逃げまどう雑魚のような運命にさらされていた。

崇善堂という埋葬団体は、南京郊外の遺体が物語る悲惨な様相を記している。

「郊外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一カ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被害に遭う。

背後から撃たれて倒れている者は、逃げる途中で難にあったものである。
横臥した形で刀で突かれて血を流している者は生きているうちにやられた者である。
口や鼻から血を出し、顔面が青く、足が折れている者は大勢の者から殴られたり、蹴られたりした者である。
婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受け、殺された者である。また、
頭をもたげ、目をむき、口を開け、歯を食いしばって、手足を突っ張っり、ズボンの破れている者は乱暴されるを拒んだ者である、惨たるかな、惨たるかな。

夜毎、集団にして遠方に逃げる。声が聞こえると草むらに隠れたり、田の畦に隠れる。
危険なのは夜が明けてから、日本軍が高所から遠くを見渡す時で、逃げるところを見つかると弾丸が飛んでくる。
中に婦人がいると、手で止まれと合図して、追って野獣の仕業をなす。
いうこと聞かないと殺されるし、いうことを聞いても輪姦され、殺される。
立ち止まらず行こうとする者には容赦なく銃声が鳴り響く、死者はますます増え続ける、それ故   農村部の遭難者は都市部よりも多い」
(南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表、中国関係資料編、所収)



kinngyoya301氏の投稿より引用

南京事件に至るまで〜22( 江浦県)

投稿者: victor_e_frankl 投稿日時: 2007/02/23 14:40 投稿番号: [13615 / 29399]
江浦県は六合県とともに長江の北側にある、中支那方面軍司令部は南京攻略において中国軍を包囲殲滅する作戦を徹底しようとした、そのため、長江北岸の両県にたいしてもあらかじめ、日本軍を進撃させて南京防衛軍の退路を絶とうとしたのである。
完全包囲網である。


12月11日
「国崎支隊、長江左岸に移りたる報に、殿下(朝香宮上海派遣軍司令官)も[何とかして、13D(師団)を早く長江を渡し、津浦線を遮断し得ざるやと多少、焦慮せらる」(上海派遣軍参謀長飯沼昭守少将の日記)

国崎支隊は慈湖鎮付近で長江を渡河し、北岸を南京城の方向に進撃、12日午後1時には江浦県城に侵攻した。

12月11日に鳥江鎮を占領した日本軍(国崎支隊)2000余名は同地から南京戦区に突入し、国民党軍と銃火を交え、浦口を目指して侵攻する、住民も巻き込まれて殺害され、民家には火が放たれた。

江浦県城占領までに30余名の農民や難民が殺害されている。さらに、県城から浦口に至る沿道の農民や漁民44名が死傷、水上部隊(約100名)が西江口(小港)を襲撃し、農民、商人、子供ら30余名を殺害、商船100余隻を砲撃、破壊、焼却した。

民船を捜索中に発見した婦女子10数名は船中で輪姦され殺害された。(江浦県誌)

広大な南京戦区の県城と村には、まだ、膨大な住民が居住していた。
南京近郊の6県を合わせれば150万人以上と思われた住民のうち、南京攻略戦が開始されて、一帯が戦場と化しても汽車や自動車で遠くへ避難していくことは殆ど不可能であった。

県城や村は孤立して、散在しており、近郊にはラジオや新聞などの通信手段はなく、日本軍の正確な情報は伝わらなかった。
また、何よりも農民には守るべき田畑や大切な家畜があり、それらを置いて避難することが出来なかった。
そして、日本軍の大群が次々と波状的に長期に渡り、10数万の兵隊が進撃してくるなど、予想もしていなかったのである。

第16師団状況報告
12月24日

「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもって、これに充つるの主義をとり、もって、迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、大旨良好なる給養を実施しえたり」と総括している。(南京戦史資料集)

進軍途中の物資豊富な都市、農村で十分に食料徴発、略奪が出来たことの証である。

農民が遠くへ避難せず、生産し、生活を営んでいた農村地帯に進入したからこそ、家畜や作物を略奪して食し、日本軍兵士は飢餓に苦しまずに進軍できたのである。そして、食料を供給してくれた農民を殺戮し、家を焼きはらったのである。

南京に向かう日本軍の諸部隊が軍規の弛緩による破壊欲や悪戯、気晴らしから沿道の村々を放火して進軍したため、住む家を無くした農民たちは難民のような生活を余儀なくされ生活しているところへ、部落掃討に来た日本軍に捕縛され、集団虐殺されるという悲劇も頻繁に発生している。

南京事件に至るまで〜23( 崇善堂)



kinngyoya301氏の投稿より引用
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)