★「竹島」は日本固有の領土です

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

238年卑彌呼は魏帝より親魏倭王の金印

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/05 16:47 投稿番号: [8293 / 9207]
1、徹底的に女王卑彌呼を支援する、魏帝の思惑

景初二(238)年六月に、倭の女王卑彌呼は帯方郡に使者を送っています。
使者の目的は、魏の天子への朝獻です。
同年十二月に朝獻が叶って、詔書、金銀印、銅鏡百枚、その他の贈物を授かっています。
正始元(240)年に、帯方郡の使者は上記を携えて倭國に来ています。
目的は約束の詔書、金銀印、銅鏡百枚、他の贈物を倭の女王に届けるためです。
この時の詔書には、次の一文があります。
皆裝封付難升米 牛利 還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
要約すれば、以下のようになります。
・ 汝の希望の品物を丁重に包装した。
・ 難升米 牛利が帰還したら目録の通り受け取るように。
・ また、全ての品々を汝の國民に示し、我等の信頼関係を國中に知らせなさい。
正始八年にも、女王の使者は帯方郡を訪問しています。
目的は、狗奴國との戦情を訴え、魏帝の詔書と黄幢の拜假、それに檄の告喩です。
魏は徹底的に、倭の女王卑彌呼を支援しています。
卑彌呼は親魏倭王の金印を授かっていますが、景初二年は公孫氏が滅亡した年です。
金印は永遠に残りる物ですが、その金印の頭に「親」の文字があります。
この意味には、格別の感があります。
女王卑彌呼に対して、魏の並々ならぬ関心が伺えます。
理由としては、魏が公孫氏を滅ぼす際、倭は魏の支援を行ったと想像されます。
滅亡するまでは、公孫氏は韓半島を統一支配していました。
その公孫氏は呉と結託して、魏への侵攻を図ったことがあります。
仮に南の呉と韓の公孫氏に挟撃された場合、魏は危機に瀕します。
魏は韓半島を制圧したとは言え、韓半島の世情はまだ不安定です。
呉、倭、韓の結束は魏にとって脅威です。
この結束を阻む必要に迫られた魏は、倭國を取り込むことにしたのでしょう。
倭の女王卑彌呼を厚遇した目的も、ここにあったと考えます。
倭は地政学上、重要な地位を占めていたといえます。
一方、倭の女王卑彌呼は共立された王のため、王座が確立していません。
そこで魏帝の権威を借りて、王座を確実なものにしたかったと想像されます。
双方の利害一致で、魏は女王卑彌呼を徹底支援し、卑彌呼は魏を助けたと考えます。<引用おわり

+++   238年卑彌呼は魏帝より親魏倭王の金印を授かっていますが、これ以上は無いと言える「親」が頭に付く特級金印とその他おくりものを、遠路はるばる帯方郡から2年後の240年届けにきました   それも卑彌呼と魏との同盟関係を誇示し、倭国内諸国にみせびらかす様に、だらだらのろのろと九州倭国内をねり歩いたようですね、冬の透き通るような青い空を見上げ、過ぎ去った1800年の先人を想う時、何かなつかしさが、ロマンですねえ、

57年に光武帝より賜った印綬は金印紫綬で

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/05 13:53 投稿番号: [8292 / 9207]
ここで時代を遡って、後漢の光武帝から金印を賜った委奴国王の国について、少し述べておかなければならない。『後漢書』には次のように書かれている。

○建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。・・・倭國之極南界也。光武賜以印綬。
○安帝永初元年、倭國王帥升等献生口百六十人、願請見。

■資料

  建武中元二年(57)に光武帝より賜った印綬は金印紫綬で、志賀島で発見された「漢委奴國王」印に間違いないと思われる。そしてこの倭奴国は倭国の一番南に位置しているという。これは倭奴国は倭国ではなく、倭の中の一国であり、倭の代表だったことを示し、またこの時代、倭人の国は博多湾周辺地域を最南部とし、それより北の朝鮮半島南部地域を含む国々の集まりだったことを示している。『魏志』倭人伝で狗邪韓国を倭の北岸と表現したのは、こういった過去の状況を踏まえたものだったのかもしれない。
  建武中元二年の朝貢は倭の代表である倭奴国だった。しかし安帝永初元年(107)になると、朝貢したのは倭国王帥升とあるように、倭国王になっている。この五十年間に倭の国々は倭国という組織をつくり、その中から倭国王を立てるようになったとみることができる。この倭国王は歴史の流れからみて、名実ともに倭国王となった倭奴国王だったと考えられる。
  2世紀末になると、倭国は乱れ歴年王がいなかったという。そこで倭の国々は女性の卑弥呼を倭国王に立てたところ、国はおさまったという。このときのことを『魏志』倭人伝は

○其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼・・・

と書く。卑弥呼が共立される前は「本亦以男子爲王」とあるように、倭国王は男王だった。男王の時代は「住七八十年」とあるように70〜80年続き、その後2世紀末に戦乱が起きた。つまり倭国王として男王が生まれたのは2世紀の初め頃だったことになる。それは、安帝永初元年に後漢に朝貢した倭国王帥升の時代であり、その王は倭奴国王であり、2世紀末の戦乱で最後となった男王も倭奴国王だった可能性が高くなる。この戦乱により、倭奴国の時代は終わり、邪馬壹国の時代になるのである。
  倭人の国は1世紀中頃、九州博多湾周辺地域を最南部として、朝鮮半島南部地域にかけてあり、博多湾岸の国・倭奴国がそれを代表していた。2世紀初めにはそれらの国は倭国としてまとまり、倭国王を立てるようになった。その王も引き続き倭奴国から出た。そして7、80年経った2世紀末、倭国は乱れ倭国王が不在となる事態となった。そこで倭人の国々がともにはかって、邪馬壹国の女性・卑弥呼を倭王に立てると、戦乱はおさまった。
  この2世紀末の倭国乱の結果、倭国の覇権は倭奴国から邪馬壹国に移った。これは倭国の都(王都)が博多湾周辺の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬壹国に移ったことを意味する。その後は倭国の中心国には大きな変動もなく、邪馬壹国(邪馬臺国、邪靡堆)は倭国の都として7世紀代まで生き続けるのである。

++   倭人(倭族)は長江河口地域に住んでいて、その最大域は朝鮮北部に至るそうだが   やがて日本の北九州に来たそうです   だから倭人が中国へ朝貢するのはなんら不思議ではないし   その頃   九州は他の民族も国を建てていた、わしも、このへんをもっとしらべる必要を感じたな、

狗邪(くや)韓国は倭地、倭人の領域

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/04 19:00 投稿番号: [8291 / 9207]
邪馬壹國への道筋-1

  さて、いよいよ倭人伝にしたがって、女王国(邪馬壹國)に至る道筋を見てみること
にしたいと思います。

少し面倒と思われるかもしれませんが、一応原文を見ておくことにします。

従郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千餘里

論者により読み方に微妙な違いがありますが、ここでは古田武彦氏の読み下しを
掲載しておきます。

郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たち
ま)ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪(くや)韓国に到る、七千餘里。

ではこれを吟味してみましょう。

  この段は帯方郡から韓地を経由して狗邪韓国に到るまでのことで、倭への行路
が、郡より倭に至るには、という書き出しで始まっています。出発地が魏の都の洛陽
ではなく帯方郡となっていることに疑問を持たれる向きもあるかと思いますが、帯方
郡までは魏の領域内ですから、いわば自明の理というわけで、それから先の道筋を
示していると考えられます。

ここで、其の北岸、狗邪韓国に到る、ということの意味について確認しておきたい
と思います。其の北岸の、「その」は何を指すかということですが、ここは倭にいたる
道筋を説明している部分ですので、「その」は倭を指すことは明白です。つまり、韓半
島に倭の北岸があり、そこは狗邪韓国と呼ばれているということになります。倭地は
対馬海峡をはさんで両岸にあると認識されており、対馬海峡北岸にある倭地の狗邪
韓国まで帯方郡から七千餘里あるということになります。<引用おわり

**   狗邪韓国とは釜山地域を含むので、元々は倭国領域なので韓国から返還してもらおうではないか、韓国は狗邪韓国地域を日本へ返還せよ!





朝鮮半島は紀元前6世紀倭国倭人の領域

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/03 22:17 投稿番号: [8290 / 9207]
[74]au 04/01/25 23:20 d2afcd81
倭とはこれまで、日本列島の古代日本のことを指すものとばかり
思っていましたがそうではないようです。
倭は、揚子江河口付近の越までを勢力範囲とするといわれ、倭は中国では
沿岸の人と言う意味です。
紀元前6世紀の「山海経」にはじめて倭の位置が出ています。「蓋国は鉅南、倭の
北、倭は燕に属す」です。これは、倭が朝鮮半島の最北部まで達していたことを意味します。

紀元後3世紀の「魏志」の中の「韓伝」には「韓は帯方の南、・・・・・   南は倭に接す」
とあり、また有名な「倭人伝」には、「倭国は朝鮮半島にある狗邪韓国を含み、対馬
から日本列島へと続いている」と読める記述があります。

6世紀には、朝鮮半島南部の任那(みまな)の領地を倭国が放棄することになります。  
そして7世紀後半に、倭の名前を捨てて、国号を「日本」に変えるわけです。
倭は中国沿岸から、朝鮮半島北部まで領有し、その後は朝鮮半島南部と日本列島のみ領有、
遂には日本列島のみと、変遷していったことが分かります。
倭に関する記事を読むとき、その時代により倭の領土が変化することを念頭
におくことの大切さが分かりました。

先の大戦は古代倭人領土の失地回復であったとも言えそうですね。<引用おわり

我が国は清の属国でありアメリカの干渉は

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/02 17:39 投稿番号: [8289 / 9207]
http://blog.livedoor.jp/baiding/archives/50619785.html

-【要約】
朝鮮の君主がアメリカの君主に命令する。
(↑進ではなく令という文字を使っている所に注目。朝鮮はアメリカを見下していた)
我が国は中国(清)の属国であり、アメリカの干渉はやめていただきたい。
アメリカ伯爵へ
光緒八年三月二十八日
(↑ここ重要、韓国は自分の国の年号を持っていなかった。光緒とは清の年号)<引用おわり

++   魏志倭人伝(三国志)3世紀に対馬は日本国の領域と記されているので、中国を宗主国とする韓国は中国によるこの記載には逆らってはならないのです、つまり対馬日本領は動かせないのですよ、韓国は対馬領有言うその前に中国様の対馬韓国領であると言う御墨付きと承認を必要とするのです、

高麗軍対馬を侵略 女は生きたまま手に穴を

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/02 14:59 投稿番号: [8288 / 9207]
http://blog.livedoor.jp/baiding/archives/50577965.html

高麗の王、忠烈王の言葉

高麗史の元宗十三年(1272年)三月の条
日本は、モンゴル皇帝様に服属していません。
だから、戦艦を作って日本を侵略しましょう。
もしも、この事を皇帝さまの下僕である私に任せくだされば
心力を尽くし励みます。皇帝さまの力になりたいです<引用おわり

++   韓国は最度、対馬侵略にあくなき執念もやしておるから倭人たちは、おさおさ準備おこたらず、油断しない事だ、

加羅南部の金海地区は元々は日本領域

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/30 11:28 投稿番号: [8287 / 9207]
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kodai-chousen.html

任那問題
昨年の教科書騒動では、韓国が任那を認めず大きな問題となりました。任那とは百済・新羅の南、朝鮮半島の南端部分です。日本ではその地に任那日本府を置き、加羅諸国を支配したと主張しています。しかし韓国ではその地域は加羅又は加耶と呼ばれ、それぞれ独立した小国の総称であるとして、任那日本府の存在を認めていません。次に日本での出土品では、韓式土器が注目されています。4世紀後半から5世紀初めのものが多く、この時期に朝鮮から多くの人が流入したことが窺われます。不思議なことにこれらの土器が出土するのは、北九州より、大阪府特に河内地方が圧倒的に多いことです。
応神天皇陵を始めとする古市古墳群の存在を合わせ考えると、広開土王が引き起こした朝鮮動乱で追われた人々が、政府により計画的に河内平野に土地を割り当てられたのではないでしょうか。又その土器の形状から、彼らの出身地の大半は加羅南部の金海地区の人と考えられます。

朝鮮進出の目的
この朝鮮半島での戦いは663年白村江の戦いに破れるまで、200年以上300年近くに亘り継続します。
それでは日本が朝鮮に進出した理由は何だったのでしょうか。鉄を求めてという説がありますが、熊谷公男は倭と加羅の特別の関係によるものではないかと言っています。「4世紀末から5世紀初頭の日本への移民は、戦場となった新羅・百済の人ではなく、殆どが加羅の人であった。永年の間に築かれた太いパイプにより、加羅人は抵抗なく日本に移住したのではないか」と言っています。そして「先進技術を持った彼らは政権を強化し、政権に発言権を持った。彼らの祖国に対する思いが、その後の任那に対する強い執着となったのでないか」と言っています。<引用おわり

++   魏志倭人伝によると、当時のシナ王朝では、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ、半島南端部とは加羅南部の金海地区で、そこに日本人が移住していた事に成ります、

加羅南部の金海地区ha

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/30 11:09 投稿番号: [8286 / 9207]
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kodai-chousen.html

任那問題
昨年の教科書騒動では、韓国が任那を認めず大きな問題となりました。任那とは百済・新羅の南、朝鮮半島の南端部分です。日本ではその地に任那日本府を置き、加羅諸国を支配したと主張しています。しかし韓国ではその地域は加羅又は加耶と呼ばれ、それぞれ独立した小国の総称であるとして、任那日本府の存在を認めていません。次に日本での出土品では、韓式土器が注目されています。4世紀後半から5世紀初めのものが多く、この時期に朝鮮から多くの人が流入したことが窺われます。不思議なことにこれらの土器が出土するのは、北九州より、大阪府特に河内地方が圧倒的に多いことです。
応神天皇陵を始めとする古市古墳群の存在を合わせ考えると、広開土王が引き起こした朝鮮動乱で追われた人々が、政府により計画的に河内平野に土地を割り当てられたのではないでしょうか。又その土器の形状から、彼らの出身地の大半は加羅南部の金海地区の人と考えられます。

朝鮮進出の目的
この朝鮮半島での戦いは663年白村江の戦いに破れるまで、200年以上300年近くに亘り継続します。
それでは日本が朝鮮に進出した理由は何だったのでしょうか。鉄を求めてという説がありますが、熊谷公男は倭と加羅の特別の関係によるものではないかと言っています。「4世紀末から5世紀初頭の日本への移民は、戦場となった新羅・百済の人ではなく、殆どが加羅の人であった。永年の間に築かれた太いパイプにより、加羅人は抵抗なく日本に移住したのではないか」と言っています。そして「先進技術を持った彼らは政権を強化し、政権に発言権を持った。彼らの祖国に対する思いが、その後の任那に対する強い執着となったのでないか」と言っています。

日本列島、朝鮮半島南端部を《倭国》と記し

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/30 01:01 投稿番号: [8285 / 9207]
  ◆◆   「倭」と「和」の問題   ◆◆

『魏志倭人伝』は正式には『三国志』のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。
  つまり当時のシナ王朝では、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。<引用おわり

++   『魏志倭人伝』には日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、朝鮮半島南端部に倭人が住んでいた。

対馬日本領最古文献は三世紀魏志倭人伝

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/29 21:33 投稿番号: [8284 / 9207]
◆補足
1.対馬が日本の領土であることを記した最古の文献は、三世紀に書かれた『魏志倭人伝』です。そこには、対馬の住民の様子や、役人の名前(日本特有の名)までが記されています。つまり卑弥呼の時代から、対馬は日本領土であることを、シナ王朝が明確に認識していたのです。

2.対馬を占領して暴虐をはたらいた事件として有名なのは、13世紀の元寇ですが、そのずっと前の11世紀初頭の平安時代に「刀伊の乱」があります。これは、現北朝鮮から満洲にかけての勢力が日本の対馬・壱岐・九州を侵略したもので、元寇より長期にわたって占領されてしまいました。平安時代なので日本側の防御力が弱かったのです。

3.対馬が古くから日本の領土で、その領主が大和朝廷の配下になっていたことは、『日本書紀』や『新撰姓氏録』など、多くの古文献から知られ、疑問の余地がありません。<引用おわり

2万の高麗軍対馬を侵略、モッコがくるぞ!

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/29 20:15 投稿番号: [8283 / 9207]
http://haru.iza.ne.jp/blog/entry/76143/allcmt/

日本の対馬・壱岐に上陸し残虐な殺戮をした朝鮮人

「高麗史」によれば、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖(フビライ・忽必烈)にしきりに働きかけ、執拗に日本への遠征を勧めたことになっている。

その結果、1274年、高麗は自ら、日本を侵略するために、戦費全額を高麗が負担、
軍船900隻建造し、2万人の高麗軍によって、日本の対馬・壱岐に上陸し残虐な殺戮を
行った。 (当絵画は、Yada Issho画伯、福岡県の指定文化財である)

1274年10月5日、対馬に上陸した敵兵は、住民は男はことごとく殺され、女は生きたまま手に穴を空けられ、数珠のように繋がれ、捕虜として船に吊るされた。

さらに200人の少年と少女は高麗軍に連れ去られ、高麗王・忠烈王に献上された。<引用おわり

++   朝鮮人って、その血筋、残虐性は、はんぱじゃ無いねえー   宅間然り、麻原然り、

1471年、海東諸国紀 申叔舟著 「対馬」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/29 15:02 投稿番号: [8282 / 9207]
海東諸国紀(かいとうしょこくき)
概要 著者は申叔舟、1471(朝鮮・成宗2)年成立。朝鮮の申叔舟が日本・琉球との外交に必要な知識をまとめた書物。日本・琉球の地図を含む。
展示内容 「海東諸国総図」、「日本国本図」、「壱岐島図」、「対馬島図」

申叔舟(シン・スクチュ)著。1471年成立。申叔舟は1443年に朝鮮通信使の書状官として来日した経験のある人物で、彼が領議政(首相に相当)在任中の1471年に日本・琉球との外交に必要な知識をまとめたのが『海東諸国紀』です。この書物は「日本国紀」「琉球国紀」「朝聘応接紀」の3部からなり、付録の地図として「海東諸国総図」「日本本国之図」「日本国西海道九州之図」「日本国対馬嶋図」「一岐図」「琉球国図」が収録されています。

ここに展示する『海東諸国紀』は『異称日本伝』(左写真)に収録されたもので、「琉球国図」は含まれていません。<引用おわり

++   1471(朝鮮・成宗2)年成立の海東諸国紀は古い書物ですね   この頃「対馬」は朝鮮でも日本領域と認識していたのですよ、そうなると韓国は「対馬」をいつ支配していたのですかね、

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: manamin1341 投稿日時: 2006/12/29 02:15 投稿番号: [8281 / 9207]
実効的支配を認めるには平和的・継続的である事が必要。
日本政府が韓国政府に対して領有権の抗議をしているので、現在の韓国による竹島占有は実効的支配の証拠とはなりません。

よって所有権時効が発生する事はありません。
お疲れ様でした。

質問

投稿者: canyontrue 投稿日時: 2006/12/29 01:22 投稿番号: [8280 / 9207]
1.   朝鮮半島にクローンは何割いるんだ?
2.   今度、食われる相手は、日本、中国、ロシア、アメリカのどこがいい?

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: canyontrue 投稿日時: 2006/12/29 01:16 投稿番号: [8279 / 9207]
  ガソリンの価格も下がってきたことだし、朝鮮系お得意の放火を自らの体にしてくたばりなさい。

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/29 01:13 投稿番号: [8278 / 9207]
  アメリカから見れば、日本はタダのアジアの小国。パートナーなどとは考えていないようですよ。アメリカのターゲットは、中国です。中国をアジアのパートナーと見ています。これから大市場である中国をパートナーと選ぶのは、かなり賢明な選択です。

  独島問題に関しては、中国も日本のエゴによる同じような悩みを抱えています。もちろん共和国も同じ考えです。世界の国々は、みんな独島の領有権の行方はわかっています。

   _____    __
//   ●   ●ヽ    || |    独島は、わが国固有の領土。
| |     ̄      | // /     不当な言いがかりはよせ!
\ヽ____/// /


  日本の知性にもう一度訴えます。独島の歴史的背景、及び現在の状態を見てください。どう見ても我が国の領土です。二次大戦後我が平和維持軍が、平穏で実効的な支配を続けています。このような実効的な支配が長期間続く場合、独島の領有権に対した異議提起は消えるはずです。

 
  上記見解を分析しますと、独島は大韓民国が独立後ずっと平穏で実効的な支配が続いているので、大韓民国の領土になっていると言うことです。早い話が、日本の法律の所有権時効と同じ考え方ですね。

  戦後ずっと偉大な大韓民国が穏便で実用的な支配を続けてきました。

   *決定

   ≪所有権時効で大韓民国の領土≫


 
  正しい過去の事実を教育すべきです。時には謙虚である事も必要です。我々偉大な大韓国民は東方礼儀の国として世界が認めていますが、そのルーツは『謙虚は美徳』と言う精神から来るものだと言われています。

  日本人も謙虚になりなさい!気がつきましたか??

  わかったね。

Re: 対馬の侵略策動にも警戒せよ

投稿者: sutehandakedo_dayo 投稿日時: 2006/12/28 11:48 投稿番号: [8277 / 9207]
最近、対馬が国内では違法とされる薬品類(麻薬も含む)の受け渡し場所となってるってよ。

対馬の侵略策動にも警戒せよ

投稿者: jnaelbnh3 投稿日時: 2006/12/28 10:46 投稿番号: [8276 / 9207]
ウリの漁師らが、対馬の海岸線にまで来て密漁を行ったり、また、対馬の土地をウリが大量に購入し、住み着き始めていたり、或いは、大量の観光客を動員して対馬を乗っ取ろうとしているウリの策動には、十分に警戒しなければならない。

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: gansandrosas 投稿日時: 2006/12/28 09:19 投稿番号: [8275 / 9207]
言い訳は、いいから盗んだものを返してくださいね。
謝罪も賠償もいらないから我が国の領土竹島から出て行ってください。

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/28 07:22 投稿番号: [8274 / 9207]
  わが国は世界で初めて独島を発見し、1500余年間も管轄してきたし、それを国土に編入し、独島領有を内外に宣布した最初の国だ。

  独島が誰もあえて侵犯することのできないわが国の神聖な領土であるというのは史料に鑑みても、法律的見地からも明白な事実だ。

  日本当局が「竹島領有権」をうんぬんする本心はまさに、独島を掌握することにより、わが国をはじめアジア諸国に対する再侵略企図を実現するための前哨基地、軍事的橋頭堡を築くと同時に、その周辺水域の豊富な水産資源と海底資源をはじめ経済的利権を独占するところにある。

  日本反動層は、「竹島領有権」という時代錯誤の妄想から脱するべきであり、罪悪に満ちた100余年史を必ず総決算しようとする朝鮮民族の確固たる意志と時代の要求を直視し、軽挙妄動してはならない。

千代田487

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/27 21:43 投稿番号: [8273 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/1.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/2.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/3.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/4.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/5.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/6.jpg
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka13/chiyoda487/7.jpg

後日下記サイトにリンク予定
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/9list.html

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: gansandrosas 投稿日時: 2006/12/27 19:55 投稿番号: [8272 / 9207]
いまさら朝鮮人のお前らに泥棒はいけないとか法律を守れとか言わないから
盗んだことがばれたときは早く返してね。嘘ついても歴史はかわらいから。

1875年陸軍地図と大政官の新松島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/27 19:47 投稿番号: [8271 / 9207]
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006http://www.saninc

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/

下條氏は先ごろ開かれた研究会で、「太政類典」に収録されている太政官の決定に関する文書を示し、現在の鬱陵島を示す竹島と、松島の記述に着目。竹島に住む動植物などが紹介されているのに続き、隠岐諸島から竹島に向けた同一線上に松島という島があり、米子の商人の大谷家が越後(新潟県)からの帰りに日本海で遭難して漂着したのが、この島(松島)であった、と記していることを明らかにした。

++   米子の商人の大谷家が漂着したのが、この島(新松島)であると、これが太政官の決定文書ですね、決してリャンコ島(旧松島)ではありません、1875年陸軍参謀局作成亜細亜東部ヨチ図が当時の明治政府の認識でした、つまり「他一島」とは新松島で、即ち鬱陵島の事です。

「申景濬」が独断と偏見で脚色したのか

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/27 11:12 投稿番号: [8270 / 9207]
http://epedia.blog360.jp/%D0%B2%BB%B3%C5%E7
  于山島

『春官志』の于山
1745年 (英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志 』に「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島は皆同じ島であり、竹を産する事が書かれている。

『旅菴全書』の于山
1756年 、申景濬が編纂を担当した(『旅菴全書 』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島)に于山の名が表れる。本文にある通りこの一節は「輿地志 」の記述と他の文献や地図を見比べ、于山島と鬱陵島 は一つの島なのか、于山島がいわゆる松島のことで二島併せて于山国なのか迷っている。輿地志が成立した1656年には一島説があるようなので、「その所謂松島」とはその後日本に渡った「粛宗実録 」にある安龍福 の証言を引用している可能性が高い。なお一島説が記されているという輿地志は現存していない。

于山のことが書かれている『旅菴全書』「疆界考」の原文
申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島

按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也

翻   訳
申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島

思案すると、輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島であると言っているが、しかし諸図志を考えると、二島である。一つは、すなわちその所謂松島であり、恐らく二島は共に于山国である。

『東国文献備考』の于山
1770年 (英祖四十六年)に朝鮮の英祖の命により編纂された『東国文献備考 』の中に、「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(輿地志の言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。)との一節がある。
日本では当時現在の竹島のことを松島と呼んでいたため、韓国政府は現在の独島(竹島)が于山で、于山は于山国の一部であり、すなわち朝鮮領であるとしている。朝鮮政府の文献なので韓国では国の領有を決定付ける最も有力な証拠としているが、朝鮮の地図に記されている于山島は全て松島とは全く違う位置や大きさで記されており、当時の朝鮮政府は松島を全く把握していないことが分かる。

また、本文にある通りこの一節は「輿地志」の記述を引用しているが、文面より「疆界考」での記述を参考に断定的な記述に変化していることが分かる。輿地志が成立した1656年 には既に日本人が鬱陵島に行っていたが、朝鮮人と遭遇した記録はないため、1656年当時、松島(竹島)の名が朝鮮に知られている可能性は低く、後半の「于山は即ち倭の所謂松島なり」は輿地志からの転記ではない可能性が高い。この一文は「東国文献備考」や「疆界考」の書かれた時期からすると「粛宗実録」にある安龍福 の証言を引用している可能性があり、するとこの一節も信用するに値しないことになる。なお元になっている輿地志は現存していない。<引用おわり

++   1728年 『粛宗実録 』から始まり1745年 『春官志』の于山 とつづき、さらに1756年 申景濬が編纂を担当した(『旅菴全書 』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島)へ、そして問題の1770年   申景濬『東国文献備考』とつづきます。つまり「承政院日記」によると『東国文献備考』では申景濬が改ざんしたと記されていますので、「倭が言う松島は即ち于山島」の記述は申景濬が独断と偏見で脚色したのでしょうか、そうなると   こんにちの韓国による竹島不法占拠占領の元凶と成る犯人は申景濬となりますね。

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: manamin1341 投稿日時: 2006/12/27 10:25 投稿番号: [8269 / 9207]
まったく関係ない曲がった歴史講釈、ご苦労様です。

いくら鳴いても、あなたの発言→【朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである】が【SCAPIN 677 6項】により嘘捏造無意味であるのは変わらないのです(´ー`)

1728年 『粛宗実録 』には安龍福 が証言

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/27 10:03 投稿番号: [8268 / 9207]
http://epedia.blog360.jp/%D0%B2%BB%B3%C5%E7

『粛宗実録』
1728年 に李朝で編纂された書物『粛宗実録 』には、1696年 に朝鮮の安龍福 が鬱陵島での日本人の漁労の抗議に日本へ行った時のことが書かれている。帰国時に朝鮮政府に捕らえられ尋問された時の証言内容で、その中で(安龍福は、「松島は即ち子山島だ。これもまた我が国だ、・・・」と言った。)とある。当時の日本では現在の竹島のことを松島と呼んでおり、これ以外にも「鬱陵島、子山島を以って朝鮮の地界と定めた(日本の)関白の書き付けがある」との記述があることから、韓国では現在の竹島(独島)が于山島である確証だとしている。しかし、安龍福の証言に(・・・倭人はこう答えた。「吾が輩は本、松島に住んでおり、たまたま漁採の為に来ただけだ。・・・」)とあるが、松島は人が住める環境ではない。つまり安龍福は日本人の呼ぶ松島を鬱陵島の近くにあるとされる于山島とし、話をでっち上げたのである。一連の安龍福の証言は他にも事実と合わない内容が多いことから、日本では、当時朝鮮から渡航が禁止されている鬱稜島での密漁の罪を免れようとし事実を過大に脚色した可能性が高いとしている。

この安龍福の松島の発言は後の朝鮮の書記に影響したと考えられ、これが明治時代の日本の記録にまで影響し、現在の竹島問題へと発展している。<引用おわり

++   1696年、安龍福 と日本人漁夫のやりとりで、日本人漁夫曰く、わしらは元   松島に住んでいたと安に告げた。17世紀末、朝鮮の安龍福 が日本人の呼ぶ松島(現在の竹島 )が于山島のことだと言うが、彼もその于山島の場所を把握していない、
つまり日本人漁夫が呼ぶ松島とは、人が住める隠岐島松島が一番妥当でしょうか、

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/27 08:02 投稿番号: [8267 / 9207]
  独島はわれわれの領土です。ただわれわれの領土というだけでなく、特別な歴史的意味を持つわれわれの領土です。

  独島は日本の朝鮮半島侵奪過程で最も先に併呑(へいどん)された歴史の地です。日本が日露戦争中に戦争遂行を目的に編入し占領した領土です。

  日露戦争は帝国主義日本が韓国に対する支配権を確保するために起こした朝鮮半島侵略戦争です。

  日本は日露戦争を口実に韓国に軍隊を上陸させ、朝鮮半島を占領しました。軍隊を動員し、宮廷を包囲し、皇室と政府を脅迫し、韓日議定書を強制的に締結し、土地と韓国人を思うままに徴発し、軍事施設を設置しました。わが国土で一方的に軍政を実施し、後には財政権と外交権すらはく奪し、われわれの主権を蹂躙(じゅうりん)しました。

  日本はこうした中で独島を自国領土に編入し、防塁と電線を架設し、戦争に利用したのです。そして朝鮮半島に対する軍事的占領状態を継続しながら、国権をはく奪し植民地支配権を確保しました。

  いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです。これは韓国の完全な解放と独立を否定する行為です。また過去に日本が起こした侵略戦争と虐殺、40年間にわたる収奪と拷問、投獄、強制徴用、はなはだしくは慰安婦まで動員しその犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為です。われわれは決してこれを認めることはできません。

  わが国民にとって、独島は完全な主権回復の象徴です。靖国神社参拝、歴史教科書問題、あわせて歴史に対する日本の認識、そして未来の韓日関係と東アジアの平和に対する日本の意思を見極める試金石です。

1875年陸軍地図の隠岐島に松島あり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/26 21:34 投稿番号: [8266 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka14/05.jpg

隠岐島拡大図を見たら松島がありました、1693年の安と日本人漁夫のやりとりで、日本人漁夫曰く、わしらは元   松島に住んでいたと安に告げた、つまり日本人漁夫たちは隠岐島の松島から竹島(鬱陵島)にきたのでしょう、江戸期、隠岐島は日本人漁夫たちの竹島(鬱陵島)への出漁基地でした。

1875年陸軍地図,

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/26 21:14 投稿番号: [8265 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka14/05.jpg

1875年陸軍地図と大政官の「他一島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/25 18:55 投稿番号: [8264 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/

1875年陸軍参謀局作成亜細亜東部ヨチ図は、当時の明治政府の公的超最新地図であります   大政官は当然この地図をよりどころにし、参考にしたでしょうから、この2年後1877年、竹島「他一島」関係無しとしたのでしょう   つまりこの地図を見る限り「他一島」は松島(鬱陵島)と成ります   リャンコ島は「他一島」とはいっさい関係ありません、

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: manamin1341 投稿日時: 2006/12/25 14:31 投稿番号: [8263 / 9207]
朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである>

SCAPIN 677 6項
この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第八条にある小島嶼の最終の決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。

お疲れ様でした。

1875年陸軍参謀局作成地図の松島とは

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/25 13:37 投稿番号: [8262 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/
URLは竹島サイトより借用しました、

++陸軍参謀局1875年作成地図ですが、ここに記載されております竹島、松島はアルゴノートとダジュレイー島ですね、リャンコ島の位置は空白であり何も記されておりません、つまり地図に記載された松島は鬱陵島であります、1880年の軍艦天城の調査により竹島(アルゴノート)は幻の島で存在しない島と明白に成りました。だから1870年佐田報告で竹島、松島朝鮮領とあるのはリャンコ島はいっさい関係ないのです。

馬羅島(北緯33度7分)を日本に返還せよ!

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/24 19:13 投稿番号: [8261 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taikantisi.html

朝鮮水路誌   in 1894と比較すると、大韓地誌1899年玄采では北緯33度15分に成っております、よって馬羅島(北緯33度7分)は韓国領ではありえません、日本領か中国領でしょうか
ね、韓国は馬羅島(北緯33度7分)を日本に返還せよ!    又東経130度35分と記載されておる、

日本人どもよ良く聞け!

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/24 18:47 投稿番号: [8260 / 9207]
  独島は朝鮮東海のほぼ中央部にあって、2つの主島と個数の岩礁からなっている総面積約7万坪の小島で、総面積はほぼ日比谷公園ほどの広さである。   朝鮮の鬱陵島からは49海里(1海里=1.852キロメートル)、日本の隠岐島からは86海里の所にある。つまり比較にならないほど朝鮮側に近い。

  古来、鬱陵島の属島とされているこの島について、日本は不当にも島根県に編入させたことがあるが、日本との間にいわゆる「領有権問題」が起こったのは解放(日本敗戦)後のことである。   第2次大戦の終結によって日本全土と朝鮮南半部は米国を主力とする連合国の占領下に置かれたが、連合国総司令部は1946年1月29日付で日本政府に対して覚書を発し、日本の行政領域の範囲を定めた。この時、朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである。

  そのうえ同年6月、米国は日本漁船の活動可能領域を定めた「マッカーサ・ライン」を設定したが、この時も独島は日本の操業区域外に置かれた。この「マッカーサ・ライン」は1952年4月25日に廃止されるが、その3ヵ月前にこのラインを引きついだ形のいわゆる「李承晩ライン」(韓国による漁船立入禁止線)が設定される。

   そして同年4月28日、対日講和条約たるサンフランシスコ条約が発効するが、この条約の「第2章   領域」の項の第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独島を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」となっていた。ここには独島の名は入っていない。

  これにより日本は、独島に触れなかったのは、1910年の「韓国併合条約」以前の1905年に独島が島根県に編入されて、日本が領有した島だからだとして、日本の独島領有権をより強硬に主張しはじめるのである。

  ところで米国は、早くから独島を空軍爆撃演習地に指定し、爆撃を実施していたが、1948年6月には米軍機の爆撃演習によって独島で漁業に従事していた南側漁民16人の死亡及び行方不明者と重軽傷者6人を出すという事件が起きた。この事件に発足間もない李承晩政権は抗議し、米第5空軍は陳謝した。これは事実上、独島の南当局の領有権を認めたものといえよう。

  1952年春、米国は李承晩政権に独島を爆撃演習地から除外したと通告し、その後、日米合同委員会で独島を爆撃演習地から除外したと通告している。   独島の領有権をめぐっては、同島に関する問題が起きるたびに日本当局と南側当局との間に、抗議、口上書などが幾度か発せられるが、一方、米国の独島政策を仔細にみるに、植民地統治の神髄たる分割統治方式の具現のように思われる。

そしてここで指摘しなければならない問題は、1965年のいわゆる「韓日条約」妥結の折、両全権間の交換公文によって、独島をめぐる紛争は外交的に「両国政府が合意する手続きに従い調停によって解決を図る」とされ、いわば棚上げにされて問題が先送りされたことである。

  この「韓日条約」締結以前の交渉でも独島問題が大きく浮上した時、KCIA部長・金鐘泌(当時)が、独島が「韓日親善」に障害になるのなら、「爆破して失くしてしまおう」と言ったことも有名だが、時の日本首相佐藤栄作が、条約調印当日、「竹島の領有権を日本に渡さなければ条約に調印しない」(朝日新聞・77年2月11日付)と圧力をかけた事実がある。

南限界馬羅島(北緯33度7分)はどうなのか

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/24 18:10 投稿番号: [8259 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html
        朝鮮水路誌   in 1894
日本海軍の水路部が刊行した1894年版の『朝鮮水路誌』に、朝鮮領の東限が鬱陵島であることを示す記述がある。同書は第一編から第四編の4つのセクションに分かれており、朝鮮領の東限は第一編、鬱陵島とリアンコールトは第四編に記述がある。韓国側は、朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになる。従って『朝鮮水路誌』をもって竹島は日本領であるという主張は成り立たないという。しかし日本と国境がある東限と、その先には何も無い南限を同列に扱ってはならない。『朝鮮水路誌』は厳然と竹島を韓国領ではないと定めているのである。<引用おわり

++   朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、韓国領の馬羅島(北緯33度7分)はどうなのかという事らしい、韓国の地図ではどうなっているのだろうかな、ゲンサイの地図では緯度経度つきらしいが、

1936年日本陸軍地図で竹島朝鮮領として・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/24 17:32 投稿番号: [8258 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html

日本陸軍測地測量部の図   in 1936

1936年に日本の陸軍測地測量部が作成した「地図区域一覧図」という地図があるが、これを基に韓国は、「竹島は朝鮮領として描かれていて、近代に入っても日本政府の竹島に対する認識は朝鮮領であることを自ら示している証拠である」と主張している。
しかし、この「地図区域一覧図」は、軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図である。基本的には管区や運用を行政境界と一致させるとしても、運用上の便宜から例外が出ることは不思議ではない。結論として、竹島が軍の地図区分において朝鮮管区(軍令上の区画)に加えられたとしても、あくまでも「行政区画」上、島根県に属していた事実は変わりない。国家の領域を管轄して、天皇を補弼(ほひつ)したのは内務省であるから、行政区画をもってその帰属を論ずるべきである。韓国は行政上の地図と軍事上の地図を同一視してはならない。<引用おわり

++   明治政府は1905年、リャンコ島を竹島と命名してすでに島根県領域に編入させております、軍の地図区分で彼らの仕事がやりやすい様にしただけで、だから竹島日本領には何ら変更はありません、

1903年アシカ猟を主とする本格的な経営

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 22:08 投稿番号: [8257 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/nakai.html Toron Talker

現・竹島で、アシカ猟を主とする
本格的な経営が行われるようになったのは、
明治36年(1903年)以降のことである。

この年、隠岐島民の中井養三郎や石橋松太郎らは、現・竹島に渡ってアシカの猟獲に従事していた。

明治37年(1904年)には中井・石橋らの他に幾つかの組も参入し、
猟獲を競った結果、同年度のアシカの捕獲数は2760頭にも達した。

この乱獲が続けば竹島にいるアシカの絶滅は近い。
そのため中井養三郎は、明治37年(1904年)の猟獲終了後に、その事業の独占を図り、
9月29日付をもって内務・外務・農商務三大臣に対して「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出した。
「仮住」にせよ、
「滞在」して狩猟等の「経済活動」を行うことは、
領域の実効支配の要件に何ら欠けることはないでしょう。

特に、このような活動が、何ら韓国政府の抗議を受けることなくなされたことは、
韓国がリアンクル岩(現在の竹島=独島)に支配を及ぼしていなかったことを示す強力な証拠となるでしょう。
すなわち、国際法からみても、
1905年のリアンクル岩(現在の竹島=独島)編入は、「無主地先占」の要件を満たすことになります。<引用おわり

++   1902年から狩猟等の「経済活動」をしていたから対露戦争とは関係なさそうですね、

朝鮮政府レベルで東五里の島名も知らない

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 19:55 投稿番号: [8256 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。なお、朝鮮政府は安龍福が連行された翌年に張漢相を鬱陵島の調査に派遣しましたが、
その時、張漢相は鬱陵島の東南東 300里(120km)のところにある島を目撃したことを
「鬱陵島事績」に記しました。島名は記されませんでしたが、方向や距離からみて于山島
以外ありえません。このように、政府レベルでも竹島=独島がきちんと認識されたことは
下記に記したとおりです<引用おわり

++   1697年時の朝鮮政府レベルでも、鬱陵島の東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生していると述べている、東側五里の小島とは竹嶼の事ですが当時はまだ無名島だったのですね、いつの頃から竹嶼呼称に成ったのか、

Takeshima/Dokdo---1894 朝鮮水路誌

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 16:22 投稿番号: [8255 / 9207]
http://zeroempty000.blogspot.com/2006/07/takeshimadokdo-1894-document.html

Takeshima/Dokdo -- -1894 document 朝鮮水路誌

page 1
朝鮮国は亜細亜の東部にあり
其地勢たる狭長なる一大半島を成し幾多の島嶼之を圍繞す
其位置は
北緯三三度十五分より同四二度二五分
東経一二四度三〇分より同一三〇度三五分に至る

The country of Chosun is located at the east of Asia…..its location is
from lat. 33 degrees N 15 minutes to 42 degrees N 25 minutes
from long. 124 degrees E 30 to 130 degrees E 35 minutes minutes

page 256
リアンコールト列岩

此列岩は洋紀一八四九年
佛国船「リアンコールト」号初て之を発見し船名を取てリアンコート列岩と名つく

其後一八五四年露国「フレガット」形艦
「パラス」号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し
一八五五年英艦「ホル子ット」号は此列岩を探検して「ホル子ット」列島と名つけり

該艦長フォルシィスの言に據れば
此列岩は北緯三七度一四分東経一三一度五五分の所に位する二坐の不毛岩嶼にして

Linocourt rocks.
These Rocks were first discovered by French ship “Linocourt”…..
The location of the Rocks is
Lat. 37 degrees N 14 minutes
Long. 131 degrees E 55 minutesponta at occidentalism

リャンコ領土編入2/2 島根県告示四〇号

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 15:53 投稿番号: [8254 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

ここで日本政府が竹島=独島を領土編入した論理ですが、それは「無主地」であるリ
アンクール島に一九〇三年来、中井が「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて
日本の領土に編入したというものでした。
   しかし、この論理には無理があります。まず、竹島=独島は民間人が居住できるよう
な島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もありませんでした。
中井が同島を利用した実態は、四月から八月にかけてアシカ猟のたびに菰葺小屋で「毎回
約十日間仮居」したにすぎないのであり「移住」や「占領」とはほど遠いものでした。
   それにも増して重要なのは、日本政府が朝鮮領であるリアンクール島を無主地と判断
したことです。かつて明治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を
朝鮮領と考えていましたが、その判断を根本的に覆すものでした。そしてその主な動機は、
これまで見たように日露戦争遂行のため同島に軍事施設を設けることにありました。
   なお、領土編入の閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府
レベルでの公示すら一切しませんでした。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照
的です。小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと何度も十分な協議を重ね
て相手国の同意を得て領土編入を行いました。
   それに反し竹島=独島の場合は政府内で秘密裏に処理されました。官報による告示も
なく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で公表したにとどまりました。同県は
ちょうど百年前の二月二十二日、県告示四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管に
すると公示しました。
   このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民は
その事実をほとんど知らずにいました。それどころか主要なマスコミすら知らずにいまし
た。告示から三か月以上たった五月三十日、日本海海戦を伝えるほとんどの新聞は「竹
島」の名前を用いずに、外国名の「リアンコルド」岩という名で報道しました。
   はなはだしくは、官報や海軍省ですら「竹島」でなく「リアンコルド」岩の名を使用
していました。これはかつて水路部を擁し、国境について熟知しているはずの海軍省すら
「竹島」編入の事実を知らなかった可能性があります。もし知っていたなら、日露戦争で
戦局が日本に有利になるまで秘密扱いにしていたのかも知れません。
  「竹島編入」について外務省のホームページは「閣議決定及び島根県告示による竹島の
島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認した」と
記しましたが、秘密裏の措置が近代的であるとは我田引水にすぎます。
   さらに外務省の「固有領土」という言い分ですが、これは明治政府が強弁した「無主
地」という主張と相容れないことは言うまでもありません。<引用おわり

++   明治政府閣議決定指令により、島根地方政府は県告示四〇号で同島を1905年2月22日、竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示しました、いままでのモヤモヤとしていた江戸時代からの旧松島実効支配はここで正式に日本領となったのです、
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)