竹島=独島の領土編入1/2
投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 15:23 投稿番号: [8253 / 9207]
7.竹島=独島の領土編入
日露戦争の時局柄、日本はリャンコ島(竹島=独島)を軍事的に必要としていました
が、同島を領土編入する直接のきっかけになったのは、日露戦争中に提出された一漁師の
「りゃんこ島 領土編入願 並に貸下願」でした。まずはこの「貸下願」が出されるに至っ
た経緯をみることにします。
明治維新以後、対外膨張の気運に乗り、多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航するよ
うになりました。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていましたが、日本人の移住は空島
政策を転換させる契機になりました。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡航禁止を日本政
府に申し入れるとともに、翌年「鬱陵島開拓令」を発布し開拓に乗り出しました。
こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させましたが、そ
の後も日本人の無断渡航は絶えませんでした。朝鮮政府の日本人退去要求は、八八年、九
五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになりました。
九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日本政府が
一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して海外
進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになったからでした。その
意義を、大アジア主義をとなえる黒竜会幹事の葛生修亮は、「我邦の勢力を扶植し・・・
他面に於ては我邦の人口を排泄する」と侵略意図をあらわにして『韓海通漁指針』を著し
たくらいでした。
このような日本の官民による侵略の結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでにな
りました。それにともない、鬱陵島への途中航路に当たるリャンコ島も注目されるように
なりました。とくに同島のアシカ猟は、日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注
目され、一層盛んになりました。
そのなかで漁師の中井養三郎は、リャンコ島におけるアシカ猟の独占をはかろうとし
て種々画策しました。リャンコ島をよく知る中井は、同島を朝鮮の鬱陵島付属と信じ、当
初、貸下願を朝鮮にある日本の統監府に提出しようとしました。
リャンコ島を朝鮮領と信じていたのは中井だけでなく、内務省や海軍省、はては大陸
浪人までもそのように考えていました。先の葛生修亮は、韓国沿岸を詳細に調査したうえ
で『韓海通漁指針』を著しましたが、その中で竹島=独島を「ヤンコ島」の名前でとりあ
げていました。同島を韓国領と考えていたことが明白です。
中井は貸下願を推進する過程でまず農水産省に接触したところ、リャンコ島は「必ら
ずしも韓国領に属せざるの疑を生じ」たので、さらに水路部を訪ね、そこで同島は「無所
属」との回答を得たようでした。
しかし、水路部こそ日本の国境画定機関として同島を朝鮮所属と断定し、リアンコー
ルト列岩の名で『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に編入して一八九四年に刊行した
のでした。海軍から独立した水路部は、戦争という時局にあってリャンコ島奪取の意図を
あらわにしたものとみられます。
こうした関係機関の意見に勇気づけられた中井は「りゃんこ島領土編入願 並に貸下
願」を内務、農水産、外務省に提出しました。内務省では「此時局に際し 韓国領地の疑
ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの
疑を大ならしむる」として反対され、却下されかかりました。かつて内務省は、竹島、松
島を本邦の版図外として判断し、太政官の確認指令を受けただけに内務省の判断は当然の
成りゆきでした。
内務省に反対された中井は、今度は外務省に走り山座政務局長に陳情したところ、山
座は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し 無線もしくは海底電
信を設置せば敵艦監視上極めて届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することな
し、須らく速かに願書を本省に回附せしむべし」として中井を督促しました。
外務省はかつて「朝鮮国 交際始末内探書」で朝鮮領と考えていたリアンクール島を
戦争という「時局なればこそ」編入を急ぐ必要があると判断し、内務省などを説得したの
でした。
結局、内務省も外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入を閣議にはかりま
した。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領土編入を決定し、竹島と
命名しました。
日露戦争の時局柄、日本はリャンコ島(竹島=独島)を軍事的に必要としていました
が、同島を領土編入する直接のきっかけになったのは、日露戦争中に提出された一漁師の
「りゃんこ島 領土編入願 並に貸下願」でした。まずはこの「貸下願」が出されるに至っ
た経緯をみることにします。
明治維新以後、対外膨張の気運に乗り、多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航するよ
うになりました。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていましたが、日本人の移住は空島
政策を転換させる契機になりました。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡航禁止を日本政
府に申し入れるとともに、翌年「鬱陵島開拓令」を発布し開拓に乗り出しました。
こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させましたが、そ
の後も日本人の無断渡航は絶えませんでした。朝鮮政府の日本人退去要求は、八八年、九
五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになりました。
九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日本政府が
一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して海外
進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになったからでした。その
意義を、大アジア主義をとなえる黒竜会幹事の葛生修亮は、「我邦の勢力を扶植し・・・
他面に於ては我邦の人口を排泄する」と侵略意図をあらわにして『韓海通漁指針』を著し
たくらいでした。
このような日本の官民による侵略の結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでにな
りました。それにともない、鬱陵島への途中航路に当たるリャンコ島も注目されるように
なりました。とくに同島のアシカ猟は、日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注
目され、一層盛んになりました。
そのなかで漁師の中井養三郎は、リャンコ島におけるアシカ猟の独占をはかろうとし
て種々画策しました。リャンコ島をよく知る中井は、同島を朝鮮の鬱陵島付属と信じ、当
初、貸下願を朝鮮にある日本の統監府に提出しようとしました。
リャンコ島を朝鮮領と信じていたのは中井だけでなく、内務省や海軍省、はては大陸
浪人までもそのように考えていました。先の葛生修亮は、韓国沿岸を詳細に調査したうえ
で『韓海通漁指針』を著しましたが、その中で竹島=独島を「ヤンコ島」の名前でとりあ
げていました。同島を韓国領と考えていたことが明白です。
中井は貸下願を推進する過程でまず農水産省に接触したところ、リャンコ島は「必ら
ずしも韓国領に属せざるの疑を生じ」たので、さらに水路部を訪ね、そこで同島は「無所
属」との回答を得たようでした。
しかし、水路部こそ日本の国境画定機関として同島を朝鮮所属と断定し、リアンコー
ルト列岩の名で『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に編入して一八九四年に刊行した
のでした。海軍から独立した水路部は、戦争という時局にあってリャンコ島奪取の意図を
あらわにしたものとみられます。
こうした関係機関の意見に勇気づけられた中井は「りゃんこ島領土編入願 並に貸下
願」を内務、農水産、外務省に提出しました。内務省では「此時局に際し 韓国領地の疑
ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの
疑を大ならしむる」として反対され、却下されかかりました。かつて内務省は、竹島、松
島を本邦の版図外として判断し、太政官の確認指令を受けただけに内務省の判断は当然の
成りゆきでした。
内務省に反対された中井は、今度は外務省に走り山座政務局長に陳情したところ、山
座は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し 無線もしくは海底電
信を設置せば敵艦監視上極めて届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することな
し、須らく速かに願書を本省に回附せしむべし」として中井を督促しました。
外務省はかつて「朝鮮国 交際始末内探書」で朝鮮領と考えていたリアンクール島を
戦争という「時局なればこそ」編入を急ぐ必要があると判断し、内務省などを説得したの
でした。
結局、内務省も外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入を閣議にはかりま
した。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領土編入を決定し、竹島と
命名しました。
これは メッセージ 8252 (ninnikumanx さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nnneza4ga49_1/8253.html