日本人どもよ良く聞け!
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/24 18:47 投稿番号: [8260 / 9207]
独島は朝鮮東海のほぼ中央部にあって、2つの主島と個数の岩礁からなっている総面積約7万坪の小島で、総面積はほぼ日比谷公園ほどの広さである。
朝鮮の鬱陵島からは49海里(1海里=1.852キロメートル)、日本の隠岐島からは86海里の所にある。つまり比較にならないほど朝鮮側に近い。
古来、鬱陵島の属島とされているこの島について、日本は不当にも島根県に編入させたことがあるが、日本との間にいわゆる「領有権問題」が起こったのは解放(日本敗戦)後のことである。 第2次大戦の終結によって日本全土と朝鮮南半部は米国を主力とする連合国の占領下に置かれたが、連合国総司令部は1946年1月29日付で日本政府に対して覚書を発し、日本の行政領域の範囲を定めた。この時、朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである。
そのうえ同年6月、米国は日本漁船の活動可能領域を定めた「マッカーサ・ライン」を設定したが、この時も独島は日本の操業区域外に置かれた。この「マッカーサ・ライン」は1952年4月25日に廃止されるが、その3ヵ月前にこのラインを引きついだ形のいわゆる「李承晩ライン」(韓国による漁船立入禁止線)が設定される。
そして同年4月28日、対日講和条約たるサンフランシスコ条約が発効するが、この条約の「第2章 領域」の項の第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独島を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」となっていた。ここには独島の名は入っていない。
これにより日本は、独島に触れなかったのは、1910年の「韓国併合条約」以前の1905年に独島が島根県に編入されて、日本が領有した島だからだとして、日本の独島領有権をより強硬に主張しはじめるのである。
ところで米国は、早くから独島を空軍爆撃演習地に指定し、爆撃を実施していたが、1948年6月には米軍機の爆撃演習によって独島で漁業に従事していた南側漁民16人の死亡及び行方不明者と重軽傷者6人を出すという事件が起きた。この事件に発足間もない李承晩政権は抗議し、米第5空軍は陳謝した。これは事実上、独島の南当局の領有権を認めたものといえよう。
1952年春、米国は李承晩政権に独島を爆撃演習地から除外したと通告し、その後、日米合同委員会で独島を爆撃演習地から除外したと通告している。 独島の領有権をめぐっては、同島に関する問題が起きるたびに日本当局と南側当局との間に、抗議、口上書などが幾度か発せられるが、一方、米国の独島政策を仔細にみるに、植民地統治の神髄たる分割統治方式の具現のように思われる。
そしてここで指摘しなければならない問題は、1965年のいわゆる「韓日条約」妥結の折、両全権間の交換公文によって、独島をめぐる紛争は外交的に「両国政府が合意する手続きに従い調停によって解決を図る」とされ、いわば棚上げにされて問題が先送りされたことである。
この「韓日条約」締結以前の交渉でも独島問題が大きく浮上した時、KCIA部長・金鐘泌(当時)が、独島が「韓日親善」に障害になるのなら、「爆破して失くしてしまおう」と言ったことも有名だが、時の日本首相佐藤栄作が、条約調印当日、「竹島の領有権を日本に渡さなければ条約に調印しない」(朝日新聞・77年2月11日付)と圧力をかけた事実がある。
古来、鬱陵島の属島とされているこの島について、日本は不当にも島根県に編入させたことがあるが、日本との間にいわゆる「領有権問題」が起こったのは解放(日本敗戦)後のことである。 第2次大戦の終結によって日本全土と朝鮮南半部は米国を主力とする連合国の占領下に置かれたが、連合国総司令部は1946年1月29日付で日本政府に対して覚書を発し、日本の行政領域の範囲を定めた。この時、朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである。
そのうえ同年6月、米国は日本漁船の活動可能領域を定めた「マッカーサ・ライン」を設定したが、この時も独島は日本の操業区域外に置かれた。この「マッカーサ・ライン」は1952年4月25日に廃止されるが、その3ヵ月前にこのラインを引きついだ形のいわゆる「李承晩ライン」(韓国による漁船立入禁止線)が設定される。
そして同年4月28日、対日講和条約たるサンフランシスコ条約が発効するが、この条約の「第2章 領域」の項の第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独島を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」となっていた。ここには独島の名は入っていない。
これにより日本は、独島に触れなかったのは、1910年の「韓国併合条約」以前の1905年に独島が島根県に編入されて、日本が領有した島だからだとして、日本の独島領有権をより強硬に主張しはじめるのである。
ところで米国は、早くから独島を空軍爆撃演習地に指定し、爆撃を実施していたが、1948年6月には米軍機の爆撃演習によって独島で漁業に従事していた南側漁民16人の死亡及び行方不明者と重軽傷者6人を出すという事件が起きた。この事件に発足間もない李承晩政権は抗議し、米第5空軍は陳謝した。これは事実上、独島の南当局の領有権を認めたものといえよう。
1952年春、米国は李承晩政権に独島を爆撃演習地から除外したと通告し、その後、日米合同委員会で独島を爆撃演習地から除外したと通告している。 独島の領有権をめぐっては、同島に関する問題が起きるたびに日本当局と南側当局との間に、抗議、口上書などが幾度か発せられるが、一方、米国の独島政策を仔細にみるに、植民地統治の神髄たる分割統治方式の具現のように思われる。
そしてここで指摘しなければならない問題は、1965年のいわゆる「韓日条約」妥結の折、両全権間の交換公文によって、独島をめぐる紛争は外交的に「両国政府が合意する手続きに従い調停によって解決を図る」とされ、いわば棚上げにされて問題が先送りされたことである。
この「韓日条約」締結以前の交渉でも独島問題が大きく浮上した時、KCIA部長・金鐘泌(当時)が、独島が「韓日親善」に障害になるのなら、「爆破して失くしてしまおう」と言ったことも有名だが、時の日本首相佐藤栄作が、条約調印当日、「竹島の領有権を日本に渡さなければ条約に調印しない」(朝日新聞・77年2月11日付)と圧力をかけた事実がある。
これは メッセージ 1 (scapin_677tx さん)への返信です.
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