「申景濬」が独断と偏見で脚色したのか
投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/27 11:12 投稿番号: [8270 / 9207]
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于山島
『春官志』の于山
1745年 (英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志 』に「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島は皆同じ島であり、竹を産する事が書かれている。
『旅菴全書』の于山
1756年 、申景濬が編纂を担当した(『旅菴全書 』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島)に于山の名が表れる。本文にある通りこの一節は「輿地志 」の記述と他の文献や地図を見比べ、于山島と鬱陵島 は一つの島なのか、于山島がいわゆる松島のことで二島併せて于山国なのか迷っている。輿地志が成立した1656年には一島説があるようなので、「その所謂松島」とはその後日本に渡った「粛宗実録 」にある安龍福 の証言を引用している可能性が高い。なお一島説が記されているという輿地志は現存していない。
于山のことが書かれている『旅菴全書』「疆界考」の原文
申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也
翻 訳
申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
思案すると、輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島であると言っているが、しかし諸図志を考えると、二島である。一つは、すなわちその所謂松島であり、恐らく二島は共に于山国である。
『東国文献備考』の于山
1770年 (英祖四十六年)に朝鮮の英祖の命により編纂された『東国文献備考 』の中に、「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(輿地志の言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。)との一節がある。
日本では当時現在の竹島のことを松島と呼んでいたため、韓国政府は現在の独島(竹島)が于山で、于山は于山国の一部であり、すなわち朝鮮領であるとしている。朝鮮政府の文献なので韓国では国の領有を決定付ける最も有力な証拠としているが、朝鮮の地図に記されている于山島は全て松島とは全く違う位置や大きさで記されており、当時の朝鮮政府は松島を全く把握していないことが分かる。
また、本文にある通りこの一節は「輿地志」の記述を引用しているが、文面より「疆界考」での記述を参考に断定的な記述に変化していることが分かる。輿地志が成立した1656年 には既に日本人が鬱陵島に行っていたが、朝鮮人と遭遇した記録はないため、1656年当時、松島(竹島)の名が朝鮮に知られている可能性は低く、後半の「于山は即ち倭の所謂松島なり」は輿地志からの転記ではない可能性が高い。この一文は「東国文献備考」や「疆界考」の書かれた時期からすると「粛宗実録」にある安龍福 の証言を引用している可能性があり、するとこの一節も信用するに値しないことになる。なお元になっている輿地志は現存していない。<引用おわり
++ 1728年 『粛宗実録 』から始まり1745年 『春官志』の于山 とつづき、さらに1756年 申景濬が編纂を担当した(『旅菴全書 』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島)へ、そして問題の1770年 申景濬『東国文献備考』とつづきます。つまり「承政院日記」によると『東国文献備考』では申景濬が改ざんしたと記されていますので、「倭が言う松島は即ち于山島」の記述は申景濬が独断と偏見で脚色したのでしょうか、そうなると こんにちの韓国による竹島不法占拠占領の元凶と成る犯人は申景濬となりますね。
于山島
『春官志』の于山
1745年 (英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志 』に「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島は皆同じ島であり、竹を産する事が書かれている。
『旅菴全書』の于山
1756年 、申景濬が編纂を担当した(『旅菴全書 』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島)に于山の名が表れる。本文にある通りこの一節は「輿地志 」の記述と他の文献や地図を見比べ、于山島と鬱陵島 は一つの島なのか、于山島がいわゆる松島のことで二島併せて于山国なのか迷っている。輿地志が成立した1656年には一島説があるようなので、「その所謂松島」とはその後日本に渡った「粛宗実録 」にある安龍福 の証言を引用している可能性が高い。なお一島説が記されているという輿地志は現存していない。
于山のことが書かれている『旅菴全書』「疆界考」の原文
申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也
翻 訳
申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
思案すると、輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島であると言っているが、しかし諸図志を考えると、二島である。一つは、すなわちその所謂松島であり、恐らく二島は共に于山国である。
『東国文献備考』の于山
1770年 (英祖四十六年)に朝鮮の英祖の命により編纂された『東国文献備考 』の中に、「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(輿地志の言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。)との一節がある。
日本では当時現在の竹島のことを松島と呼んでいたため、韓国政府は現在の独島(竹島)が于山で、于山は于山国の一部であり、すなわち朝鮮領であるとしている。朝鮮政府の文献なので韓国では国の領有を決定付ける最も有力な証拠としているが、朝鮮の地図に記されている于山島は全て松島とは全く違う位置や大きさで記されており、当時の朝鮮政府は松島を全く把握していないことが分かる。
また、本文にある通りこの一節は「輿地志」の記述を引用しているが、文面より「疆界考」での記述を参考に断定的な記述に変化していることが分かる。輿地志が成立した1656年 には既に日本人が鬱陵島に行っていたが、朝鮮人と遭遇した記録はないため、1656年当時、松島(竹島)の名が朝鮮に知られている可能性は低く、後半の「于山は即ち倭の所謂松島なり」は輿地志からの転記ではない可能性が高い。この一文は「東国文献備考」や「疆界考」の書かれた時期からすると「粛宗実録」にある安龍福 の証言を引用している可能性があり、するとこの一節も信用するに値しないことになる。なお元になっている輿地志は現存していない。<引用おわり
++ 1728年 『粛宗実録 』から始まり1745年 『春官志』の于山 とつづき、さらに1756年 申景濬が編纂を担当した(『旅菴全書 』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島)へ、そして問題の1770年 申景濬『東国文献備考』とつづきます。つまり「承政院日記」によると『東国文献備考』では申景濬が改ざんしたと記されていますので、「倭が言う松島は即ち于山島」の記述は申景濬が独断と偏見で脚色したのでしょうか、そうなると こんにちの韓国による竹島不法占拠占領の元凶と成る犯人は申景濬となりますね。
これは メッセージ 8268 (ninnikumanx さん)への返信です.
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