★「竹島」は日本固有の領土です

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竹島=独島の領土編入1/2

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 15:23 投稿番号: [8253 / 9207]
7.竹島=独島の領土編入

   日露戦争の時局柄、日本はリャンコ島(竹島=独島)を軍事的に必要としていました
が、同島を領土編入する直接のきっかけになったのは、日露戦争中に提出された一漁師の
「りゃんこ島 領土編入願 並に貸下願」でした。まずはこの「貸下願」が出されるに至っ
た経緯をみることにします。
   明治維新以後、対外膨張の気運に乗り、多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航するよ
うになりました。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていましたが、日本人の移住は空島
政策を転換させる契機になりました。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡航禁止を日本政
府に申し入れるとともに、翌年「鬱陵島開拓令」を発布し開拓に乗り出しました。
   こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させましたが、そ
の後も日本人の無断渡航は絶えませんでした。朝鮮政府の日本人退去要求は、八八年、九
五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになりました。
   九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日本政府が
一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して海外
進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになったからでした。その
意義を、大アジア主義をとなえる黒竜会幹事の葛生修亮は、「我邦の勢力を扶植し・・・
他面に於ては我邦の人口を排泄する」と侵略意図をあらわにして『韓海通漁指針』を著し
たくらいでした。

   このような日本の官民による侵略の結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでにな
りました。それにともない、鬱陵島への途中航路に当たるリャンコ島も注目されるように
なりました。とくに同島のアシカ猟は、日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注
目され、一層盛んになりました。
   そのなかで漁師の中井養三郎は、リャンコ島におけるアシカ猟の独占をはかろうとし
て種々画策しました。リャンコ島をよく知る中井は、同島を朝鮮の鬱陵島付属と信じ、当
初、貸下願を朝鮮にある日本の統監府に提出しようとしました。
   リャンコ島を朝鮮領と信じていたのは中井だけでなく、内務省や海軍省、はては大陸
浪人までもそのように考えていました。先の葛生修亮は、韓国沿岸を詳細に調査したうえ
で『韓海通漁指針』を著しましたが、その中で竹島=独島を「ヤンコ島」の名前でとりあ
げていました。同島を韓国領と考えていたことが明白です。
   中井は貸下願を推進する過程でまず農水産省に接触したところ、リャンコ島は「必ら
ずしも韓国領に属せざるの疑を生じ」たので、さらに水路部を訪ね、そこで同島は「無所
属」との回答を得たようでした。
   しかし、水路部こそ日本の国境画定機関として同島を朝鮮所属と断定し、リアンコー
ルト列岩の名で『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に編入して一八九四年に刊行した
のでした。海軍から独立した水路部は、戦争という時局にあってリャンコ島奪取の意図を
あらわにしたものとみられます。
   こうした関係機関の意見に勇気づけられた中井は「りゃんこ島領土編入願 並に貸下
願」を内務、農水産、外務省に提出しました。内務省では「此時局に際し 韓国領地の疑
ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの
疑を大ならしむる」として反対され、却下されかかりました。かつて内務省は、竹島、松
島を本邦の版図外として判断し、太政官の確認指令を受けただけに内務省の判断は当然の
成りゆきでした。
   内務省に反対された中井は、今度は外務省に走り山座政務局長に陳情したところ、山
座は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し 無線もしくは海底電
信を設置せば敵艦監視上極めて届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することな
し、須らく速かに願書を本省に回附せしむべし」として中井を督促しました。
   外務省はかつて「朝鮮国 交際始末内探書」で朝鮮領と考えていたリアンクール島を
戦争という「時局なればこそ」編入を急ぐ必要があると判断し、内務省などを説得したの
でした。
   結局、内務省も外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入を閣議にはかりま
した。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領土編入を決定し、竹島と
命名しました。

リャンコの軍事的価値、ロシアと満韓交換

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 14:41 投稿番号: [8252 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

6.竹島=独島の軍事的価値

   竹島=独島に対する明治政府の視点は日露戦争を機に変貌しました。その背景を知る
ために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみます。
   日本は満州を放棄するかわりに韓国を勢力圏におさめるべく、ロシアと「満韓交換」
を交渉しましたが不調に終わり、ついに一九〇四年二月、ロシアに対し戦闘行動を開始し
ました。
   日本は、旅順に停泊中のロシア艦隊にたいし連合艦隊が奇襲攻撃をかけるとともに、
臨時派遣隊が韓国の仁川に上陸、漢城に入り首都を制圧しました。その軍事的威圧のもと
で韓国に軍事協力を強要し「軍略上必要の地点を臨機収用する」と規定した日韓議定書の
調印を強制しました。日本はこの条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設ける
ようになりました。
   しかし、その日韓議定書すらほどなく日本により踏みにじられるようになりました。
議定書では「大日本帝国は大韓帝国の独立及領土の保全を確実に保障」とうたっていまし
たが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどころか、早くも五月
には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定しました。その方針のもと、九月
には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々と実行にうつしました。

   他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まりました。ロシアのウラジオ艦
隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていきました。これに対処するため、海
軍は敵艦監視・通信施設の増強をはかりました。
   九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島
等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結しました。朝鮮内の望楼は約二十か
所にもおよびましたが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領でした。そしてそれらの
戦略の一環として鬱陵島に望楼を建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺
湾との間を軍用海底電信線で結ぶことが決定されました。
   鬱陵島の望楼は二か所で九月に完成しました。海底電信線の方はウラジオ艦隊に脅か
されながらも敷設が進められ、これも九月に完成しました。これによって鬱陵島の望楼は
朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになりました。さらに、
リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画され、軍艦対馬によって予備調査が
おこなわれました。

   翌一九〇五年五月、リアンクール島付近で日露の歴史的な「日本海海戦」があり、日
本はロシアのバルチック艦隊に大勝し、戦局を有利に転換しました。これによりリアン
クール(竹島=独島)の戦略価値が一層重要視されたのはいうまでもありません。日本海
軍は鬱陵島、リアンクール島を含めた水域の総合施設計画を立て、八月リアンクール島に
望楼を完成させました。
   海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リアンクール
島と隠岐との間ではなく鬱陵島からリアンクール島を経て松江に接続されました。
   こうして、朝鮮半島の竹辺から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の軍用通信
線の体系がつくりあげられました。このように、日本政府にとって日本海中のリアンクー
ル島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占
領と密接不可分なものでした。

++   リャンコ編入は無主地無人島を日本領域に入れただけで、朝鮮侵略だとか対露戦争準備だとかは一切関係ありませんよ、持ち主不在の、それも江戸初期からささやかに実効支配してきた無人島を単純に明治政府が日本流域に正式編入しただけで他に他意はないでしょうに、

「他一島」とはマノ島の事か

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/22 19:00 投稿番号: [8251 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/xtop-left.jpg

大政官添付地図(磯竹島略図)の「他一島」とはマノ島とも受け取れるが、
上記URL拡大図にマノ島(Mano tou)がみられます、

竹島隠岐国所属、1912隠岐島庁が地図

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/22 16:28 投稿番号: [8250 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/okizenzu.html

日韓両国が
竹島(韓国名・独島)の領有権を主張する中、
竹島の位置が書かれている1912(大正元)年刊行の官製地図「隠岐全図」が、同県隠岐の島町西町の毛利彰さん(45)方でみつかった。

島根県に編入された05年2月以後、
日本が竹島を管轄していたことを裏付けており
「近代の日本政府は竹島を朝鮮領として認識していた」
とする韓国側の主張を否定する資料として注目される。


島根県が設ける竹島問題研究会の杉原隆副座長と、
島根大法文学部の舩杉力修助教授が隠岐の島町を訪れ、発見した。

地図は当時の島根県隠岐島庁が刊行した。

地名や航路など詳細に記しており、
左上にある本州との位置関係を示した
「本土に対する隠岐国の位置」の中に竹島の記載がある。

また、地図の裏側には
各地の概要や統計を示した「隠岐島治一斑」があり、
その中で「日本海中にある無人の厳島にして二島より成り」などと、
竹島についても触れている。

毛利さん方からは、
隠岐島庁が27、34年に刊行した地図「隠岐及竹島全図」も見つかった。

これまで韓国側研究者は、
日本の陸軍陸地測量部が36年に刊行した「地図区域一覧図」に、
竹島が朝鮮半島の地図とともに収録されていることから「竹島は朝鮮領として描かれていて、日本政府は本来、竹島を朝鮮領と認識していた」などと主張していた。

++ 隠岐内に 竹島の位置が書かれている1912(大正元)年刊行の官製地図「隠岐全図」がある、日本の陸軍陸地測量部が1936年に刊行した「地図区域一覧図」で竹島が朝鮮半島の地図とともに収録されていたことから竹島朝鮮領と韓国は主張するが、竹島は隠岐国内所属で島根県隠岐島庁が地図刊行した事がこれで理解出来た、

防衛省資料2

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/21 23:03 投稿番号: [8249 / 9207]
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防衛省資料

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/21 22:41 投稿番号: [8248 / 9207]
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外一島の位置はリャンコ島の位置では無い

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/20 14:15 投稿番号: [8247 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html#No.903

太政官指令書の存在

それよりも重要なのは、松島・竹島を版図外とした太政官指令である。指令のきっかけは新政府の地籍編纂事業だった。新政府は日本各地の地籍を編纂するにあたり、松島・竹
島が日本領かどうかの検討を行った。その際「版図の取捨は国家の重大事」との考えから
慎重に江戸時代の「竹島一件」などを吟味した。

  その結果、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論をくだし、1877(明治10)年、明
治政府の最高機関である太政官は「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだし
た。この画期的な太政官指令書を今の外務省は決して明らかにしようとしないが、その姿
勢は情報隠しに等しいといえよう。太政官指令書には付属文書「島根県伺」があるが、そ
こにおいて独島は「外一島」として、こう記述された。

<太政類典 第二編 第九十六巻>
  「次に一島あり。松島と呼ぶ。周回三町。竹島と同一の船路にある。隠岐をへだてる八
十里。竹木は希で、魚獣を産すさて、「島根県伺」における松島の位置は、隠岐から八十里、竹島から四十里とされた。
距離は実際より遠めだが、この距離の記述をはじめ付属文書の内容は、実際に渡海事業を
おこなった大谷家などの文書や地図が元になっているだけに、松島が今日の

  明治政府はそれらの史料や、朝鮮との書簡などを精査して、竹島および外一島、すなわ
ち松島・竹島を一対にして朝鮮領と判断し、日本の領土外とする指令を布告したのだった。
この重要な太政官指令について外務省はホームページをはじめ全ての文書で沈黙を守って
いる。<引用おわり

+++   内務省が竹島地籍編纂の件で島根県に古い資料でもいいからと資料提出を依頼して来た、これに島根県が答えたのですが、江戸初期の時代おくれの資料を添付して逆に内務省へ島根県伺を提出した、内務省も判断にこまり太政官に意見をもとめた、太政官は当時の最新海図から即ち3島表示である竹島(幻のアルゴノート)松島(鬱陵島、ダジュレイ島)リャンコ島から「竹島および外一島」関係無しとしたのです、ここで太政官は松島(鬱陵島、ダジュレイ島)を旧来の竹島と判断し、竹島(幻のアルゴノート)を「外一島」としたのです、そして「外一島」の位置はリャンコ島の位置では無くはるか北の方に存在していました、つまり太政官指令は現竹島を放棄したのでは無いのです、『民団新聞』の我田引水の誤った解釈には困ったもんだ。

1849リヤンコ発見、1869年佐田報告

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/20 13:04 投稿番号: [8246 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html#No.903
  
      『民団新聞』2006-05-10

日本では専門家以外ほとんど知られていないが、明治新政府は朝鮮を内探するため、
1869年に外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、高官は報告書「朝鮮国交際始末内探書」を
提出し、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」という一項をもうけて、松島・竹
島が朝鮮領であることを明確にした。これは単なる報告書にすぎないが、その内容から明
らかなように、外務省が江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、独島を朝鮮領と認識
したことを示した点で重要である、<引用おわり

++   佐田報告は、当時リヤンコ島を含めて3島あるのが明治初期の明治政府の認識でした、即ち   竹島(幻のアングルノート)、松島(鬱陵島、ダジュレイー島)、リャンコ島です   だから佐田は竹島松島は朝鮮領であると報告したのですね   まったく問題ありません、3歳児でもわかる事です、

1849リヤンコ発見1869年

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/20 12:39 投稿番号: [8245 / 9207]

Re: 日本人の理性に訴えます

投稿者: kirakuyana123456 投稿日時: 2006/12/19 19:46 投稿番号: [8244 / 9207]
>わが民族の解放の歴史を否認して、過去の侵奪行為を正当化しようとするものではないのかという疑念をかきたてている

  解放の歴史を否認云々と領土問題は別次元の問題。
  そもそもその存在さえ知らなかった島を韓国領土と認識すること自体が矛盾。古い地図の島の位置を左右を移動させてあるテレビ番組でひょっこりひょうたん島と揶揄されている。
  解放の歴史と言っても、日本に併合されてから中国人に対しては我は日本人なりと尊大な態度をとり、日本が敗戦すると戦勝国に入ろうとしたり、国家成立についても米ソの協議で北はソ連・南はアメリカが日本軍の武装解除に当たると決めて、その後はこれらの国が一時統治している。
  解放されたと言っても日本が敗戦によるものであって他力本願のなにものでもない。

1905年以前は朝鮮の実効支配無かった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/19 16:54 投稿番号: [8243 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm070.html#No.465
大谷家などの限定された松島(竹島=独島)利用も長続きせず、日朝間の
紛争「竹島一件」を機に日本で竹島(鬱陵島)が放棄されるや、同島もほとんど放棄されました。しかも、何度も書いたように、明治時代になって首相格の太政官までが公式に同島の放棄を確認しました。この時点で、過去のささやかな「実効支配」はすべて水泡に帰したのでは
ないでしょうか?   それを明治政府はよく理解していたとみえ、竹島(独島)領有の閣議決定に際し、200年も前の「実効支配」の実績はおくびにも出さなかったようでした。かわりに「無主地の先占」論法を建前に領有を決定したようでした。しかし、明治政府のホンネは、私が今まで記したように、竹島(独島)は「無主地」どころか朝鮮領と考えていたようですが、それにもかかわらず日露戦争勝利という軍事的必要性から竹島(独島)を編入し、同島を軍事的に占領しました。結局、日本の竹島(独島)編入は、歴史的帰結からではなく帝国主義配慮からであったといえます。

++   1905年以前には、朝鮮もフランスもリャンコ島を実効支配した事などただの一度も無く、領有意思もなかったのです、そんな国にわざわざ明治政府がリャンコ島を領域にいれますよと念を押し通告すことなど必要としないのですよ、閣議決定して新聞に載せれば、それに対して抗議なければ、世界列国は承知した事になります、朝鮮政府からも抗議なかったでしょう、

石島で勅令41号は信頼出来なくなり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/19 14:17 投稿番号: [8242 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.695
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/takesima/kouen/04.html

韓国側はどうかといいますと、竹島が島根県に編入されたのが一九〇五年、しかし韓国側は一九〇〇年に韓国に編入したと主張しています。日本より五年前に編入していたのに、一九〇五年に取られてしまったから、日本の侵略の最初の犠牲の地が独島(竹島)だという認識をもっています。日本が竹島問題を表に出すと韓国・北朝鮮が口をそろえて「日本はまた再侵略を考えている」といいます。再侵略の意味は一九〇五年竹島が編入された時を起点としています,<引用おわり

+++   1900年朝鮮政府による鬱陵島、禹用鼎大調査団はリヤンコ島に関してはその島の存在を確認しておらず、島の調査もしませんでした、だから禹用鼎調査報告書にはリヤンコ島は載せてはおりません、勅令41号はこの調査報告書を元にして発布されましたので、石島リヤンコ島はありえませんね、
つまり調査もしない、島があるかないかも確認しておらず、そのリヤンコ島を勅令41号に載せる事などできませんね、もしも石島リヤンコ島などといいかげんな事を韓国が主張するならば、そうなると勅令41号自体全部が信頼出来なくなりますよ。

1849リヤンコ発見のフランスは手放した

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/18 22:24 投稿番号: [8241 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/takesima/kouen/04.html

フランス1849年リヤンコ島を発見命名、この時日本はこれを新島だと解釈した、リヤンコ島は元松島の事ですが、それまでのあいだ日本は松島を見失っていたのですね、1849年以降日本も朝鮮もリヤンコと呼びました、発見命名したフランスは島を管理出来ず手放した、島は再び無主地無人島に成ってしまったのですが56年後の1905年明治政府は日本の領域に編入したのです、

現在の竹島にも触れていない文書を論拠とし

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/17 21:26 投稿番号: [8240 / 9207]
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006

下條氏は先ごろ開かれた研究会で、「太政類典」に収録されている太政官の決定に関する文書を示し、現在の鬱陵島を示す竹島と、松島の記述に着目。竹島に住む動植物などが紹介されているのに続き、隠岐諸島から竹島に向けた同一線上に松島という島があり、米子の商人の大谷家が越後(新潟県)からの帰りに日本海で遭難して漂着したのが、この島(松島)であった、と記していることを明らかにした。

  だが、大谷家に関する文書では、漂着したのは現在の鬱陵島としており、下條氏は「太政官決定の文書にある竹島と松島は、ともに現在の鬱陵島のことが書かれている。当時の政府発行の地図には、現在の竹島の位置に何の記載もなく、竹島と松島が描かれていることから、太政官は、この二つの島は関係なし、としたにすぎない」と指摘。

  「現在の竹島にも触れていない文書を論拠とし、『ほか一島』を現在の竹島とする韓国側の主張には根拠はない」と、韓国側の文献解釈との問題点を明らかにした。<引用おわり

++   1867年の勝海舟の沿海図においてもリヤンコ島があり、わしも明治初期の地図では3島あり、それが当時の認識ではないかとそのように考えていましたよ、だから太政官は竹島(幻のアルゴノート島)、松島(鬱陵島、ダジュレイ島)と認識していたのでしょう、そして1880年の軍艦天城の調査により竹島(幻のアルゴノート島)は存在しない事がはっきりとしました。

「竹島」は

投稿者: mac38ll645 投稿日時: 2006/12/15 21:37 投稿番号: [8239 / 9207]
日本の領土だ!

朝鮮人は変な妄想をするな!

Re: 安龍福の供述は信用出来ませんね

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/15 10:10 投稿番号: [8238 / 9207]
まったくです。

もうむちゃくちゃでんがなってレベルですね。
于山島に対する供述も二転三転。

太閤の書き付けは対馬藩にとられたといいながら、再度の来訪の時はその写しなどというものを出している。
しかし、本国ではそんなものは出してない。
めちゃくちゃです。

安龍福の供述は信用出来ませんね

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 20:29 投稿番号: [8237 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べには、次のような供述を残している。安龍福は于山島には「終(つい)に参りたる事はこれ無く」と述べ、于山島
に上陸したことはないとしました。一方で安龍福は隠岐島へは 1693年に連行されて上陸
したことが記録されているので、やはり隠岐島は于山島でなかったことになります。<引用おわり
安龍福は、于山島に行ったとも言っています。
鬱陵島で日本人を退治して、「翌暁」于山島にのりこんで日本人を退治したそうです。
つまり、獨島に一晩でついたということ。ありえん。<引用おわり

++安は于山島には行ってはいないと対馬藩に供述し、朝鮮本国の取調べでは于山島に行ったと供述しております、安の供述は信用出来ませんね、

まんまと 江戸幕府をだました朝鮮側

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 14:32 投稿番号: [8236 / 9207]
1454年 朝鮮・「世宗実録地理志」を編さん
1481年 朝鮮・「東国輿地勝覧」を編さん

東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。
また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです<引用おわり

++   東國輿地勝覧を提出して半島から歴々と鬱陵島の木や渚まで見えると主張して、江戸幕府をまんまとだました朝鮮側、半島から鬱陵島の木や、なぎさなんか逆立ちしても見えないだろうよ、鬱陵島と近傍の島の間で歴々と見えたのですね、つまり鬱陵島とう山島(竹嶼)の間で歴々と木となぎさが望み見えたのです、朝鮮人とは、なんとづるがしこい民族なんでしょうか、朝鮮政府からにしてだ、

まんまと 

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 14:20 投稿番号: [8235 / 9207]
1454年 朝鮮・「世宗実録地理志」を編さん
1481年 朝鮮・「東国輿地勝覧」を編さん

東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。
また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです


東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。

また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです

東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。

また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです

++   東國輿地勝覧を提出して半島から歴々と鬱陵島の木や渚まで見えると主張して、江戸幕府をまんまとだました朝鮮側、半島から鬱陵島の木や、なぎさなんか逆立ちしても見えないだろうよ、鬱陵島と近傍の島の間で歴々と見えたのですね、つまり鬱陵島とう山島(竹嶼)の間で歴々と木となぎさが望み見えたのです、朝鮮人とは、なんとづるがしこい民族ですね、

Re: 歴史的な土地

投稿者: yy6544 投稿日時: 2006/12/14 13:35 投稿番号: [8233 / 9207]
kim_taek_joo>
そして朝鮮半島に対する軍事的占領状態を継続しながら、国権をはく奪し植民地支配権を確保しました>朝鮮側からの要請もあり、双方合意で併合。文句を言われるいわれ無し。

いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです>竹島が日本領土だとする最大の法的根拠は、サンフランシスコ条約にあります。
韓国は日韓基本条約においてサンフランシスコ条約の内容を踏襲した上で日本と条約を結んでいますから、これを遵守する義務があります。
全く関係の無い飛躍と誹謗、慎むが良いでしょう。

また過去に日本が起こした侵略戦争と虐殺>日本は大韓帝国に対して戦争を起こした事はありません。

40年間にわたる収奪と拷問、投獄、強制徴用>日本は日本本土が不景気になるほど朝鮮半島に投資しました。一方的な収奪があったのならば、このような事実は無いはずです。
強制徴用の事実はありません。韓国では現在も徴兵がありますが、それも強制徴用などに当たるのでしょうか?
そして朝鮮では志願兵が大部分で、当初定めた志願兵の募集数の3倍が集まった。

慰安婦まで動員し>日本軍が慰安婦を動員した事実はありません。
慰安婦を集め、売春業としていたのは民間です。
韓国政府の慰安婦紹介のHPにも、民間が慰安婦を募集する為に打った新聞広告が掲載されています。これは自爆でありましたが。

その犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為>以上に対して「犯罪」はありません。
犯罪であるならば、違反する法を挙げるが正当でしょう。

わが国民にとって、独島は完全な主権回復の象徴です>上記の記述より、条約を反故して武力占領した島が主権回復の象徴と言うならば、韓国こそが軍国主義国家であり、法を解せぬ後進国家であると断言せざるを得ません。

靖国神社参拝、歴史教科書問題、あわせて歴史に対する日本の認識、そして未来の韓日関係と東アジアの平和に対する日本の意思を見極める試金石です>他国の認識を自国の認識と比較し糾弾するのは愚行。
アメリカ独立戦争はアメリカにとっては独立の為の聖戦であるが、イギリスにとっては植民地の反乱である。
そうした一方の認識を相手に押し付ける行為は通常有り得ない。
認識と史実を混同させ、他国の価値観や立場を強制的に否定しようとする蛮行愚行であると断言出来る。

日本が誤った歴史を美化し、それに基づいて権利を主張する限り、韓日間の友好関係は決して成立しません>君達が認識と歴史を混同し、自らに都合の良い「認識」を押し付けようとする限り友好などは不可能。
そもそも友好とは「お互いの歩み寄り」が不可欠である。
君のように、一方的に自らの主張を押し付けようとする行為は、その前提に反する。
よって君には友好を語る資格は無い。

日本がこれらの問題に執着する限り、われわれは韓日間の未来と東アジアの平和に関する日本のどのような修辞も信じることができません>君の投稿を見る以上、執着しているのは君達であると断言出来る。

韓日間にはまた排他的経済水域の境界が画定できずにいます。これは日本が独島を自国領土と主張し、その上で独島基点にこだわっているためです>竹島は日本の領土である。
ラスク書簡とサンフランシスコ条約1章・2章を100回読むと良いでしょう。

Re: ウソ ダマシ 平気のへっちゃらの朝鮮

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/14 13:03 投稿番号: [8232 / 9207]
こんにちは、「相去ること」は半島と島の間についても普通につかわれますので、相だけで二島関係と説明するのは間違いです。
しかし、東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。

また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです。

ウソ ダマシ 平気のへっちゃらの朝鮮

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 12:53 投稿番号: [8231 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

この記述は『世宗実録』地理志にある記述「二島、相去ること遠くなく、天候が清明
なら、すなわち望み見ることができる」を実証するものにほかなりません。<引用おわり

++ 東国輿地勝覧(1481年)記載の「歴々と見える」を1696年、竹島一件の時、朝鮮政府は半島本土から鬱陵島を望み見る事が出来ると主張したのです、だから世宗実録においても「二島相去ること遠くなく、天候が清明なら、すなわち望み見ることができる」の解釈は二島はお互い近くにあり、天気がよければ、半島本土から二島を望み見ることができると解釈する方が自然で妥当ですね、事大主義でこんにち迄、必死で生き延びてきた朝鮮はウソやダマシ、捏造なんか平気のへっちゃらで、それに   ひっかかる方がバカバカなんだといいたいのでしょう。

Re: 于山島=竹嶼で決まりでしょうか

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/14 10:19 投稿番号: [8230 / 9207]
どの島であるかについて、推理の余地があることですでに証拠としてはほとんど無価値ですね。

安龍福は、于山島に行ったとも言っています。
鬱陵島で日本人を退治して、「翌暁」于山島にのりこんで日本人を退治したそうです。
つまり、獨島に一晩でついたということ。ありえん。

退治した証拠は皆無です。
官吏を詐称するわ、酒を要求してさわぐわ、存在しない太閤が書き付けをくれただの、江戸に居た対馬藩主と会っただの、もうウソの付き放題。
安龍福の証言はすべて無価値です。

韓国側の主張を聞いてるとだんだん悲しくなります。
証拠にするのは、嘘つきとか犯罪者の話、でなけりゃ日本がわにたよる。
自国の証拠は、地図の縮尺は信用できない、
石島が正規の名前だがみな誤字を当て字を使ってた。

ご先祖様の言うことなんか信用できないという主張を必死でされても、
聞いてるほうが悲しくなりますね。

この問題に首をつっこんで、日韓の格差というものがいかに大きなものかよくわかりました。

于山島=竹嶼で決まりでしょうか

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 00:48 投稿番号: [8229 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べに安龍福は、次のような供述を残している。

   この度 参候(まいりそうろう)島より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗
留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候
通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法 一日路余もこれ有るべく候。

++   鬱陵島から安は二度于山島を見たがその島には行かなかったと述べている、海長竹田所謂于山島と後年記事があるが、現竹島には竹は無い、安が見た于山島は少なくとも現竹島ではない事に成ります、竹が一面に生えている島とは竹嶼しかありませんね、于山島=竹嶼で決まりでしょうか。

歴史的な土地

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/13 07:33 投稿番号: [8228 / 9207]
  日本は日露戦争を口実に韓国に軍隊を上陸させ、朝鮮半島を占領しました。軍隊を動員し、宮廷を包囲し、皇室と政府を脅迫し、韓日議定書を強制的に締結し、土地と韓国人を思うままに徴発し、軍事施設を設置しました。わが国土で一方的に軍政を実施し、後には財政権と外交権すらはく奪し、われわれの主権を蹂躙しました。 日本はこうした中で独島を自国領土に編入し、防塁と電線を架設し、戦争に利用したのです。そして朝鮮半島に対する軍事的占領状態を継続しながら、国権をはく奪し植民地支配権を確保しました。

  いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです。これは韓国の完全な解放と独立を否定する行為です。また過去に日本が起こした侵略戦争と虐殺、40年間にわたる収奪と拷問、投獄、強制徴用、はなはだしくは慰安婦まで動員しその犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為です。われわれは決してこれを認めることはできません。わが国民にとって、独島は完全な主権回復の象徴です。靖国神社参拝、歴史教科書問題、あわせて歴史に対する日本の認識、そして未来の韓日関係と東アジアの平和に対する日本の意思を見極める試金石です。

  日本が誤った歴史を美化し、それに基づいて権利を主張する限り、韓日間の友好関係は決して成立しません。日本がこれらの問題に執着する限り、われわれは韓日間の未来と東アジアの平和に関する日本のどのような修辞も信じることができません。どのような経済的な利害関係も、文化的交流も、この壁を溶かすことはできないでしょう。 韓日間にはまた排他的経済水域の境界が画定できずにいます。これは日本が独島を自国領土と主張し、その上で独島基点にこだわっているためです。

Re: 東五里小島の島名も知らなかった張漢相

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/12 12:57 投稿番号: [8227 / 9207]
これが、ほとんど唯一の獨島と言える記録ですが、これを倭の松島とか于山島とか、想像もしてないところが決定的ですね。

当時の地図はいい加減なのではなくて、東國輿地勝覧等を素直に読めば当然の書き方です。
獨島を見ても倭の松島とか于山島かと想像もしないのも当然です。

東五里小島の島名も知らなかった張漢相

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/11 23:31 投稿番号: [8226 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

朝鮮政府は「竹島一件」の反省から僉使(せんし)張漢相を鬱陵島調査に派遣するな
ど空島政策の見直しに乗りだしました。僉使とは各鎮台に属した従三品の武官職をさしま
す。一行は鬱陵島で綿密な調査をしたようですが、その過程で竹島=独島を望見すること
ができたようでした。張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

   東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。
   西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島
がみえるが、はるかに辰方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里に過ぎない。<引用おわり

+++   1694年の張漢相調査団による鬱陵島調査で東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生していると張漢相団長は述べている、張団長はこの小島の名前を知らないのだ、これは当然東2km先の小島は竹嶼ですね、ましてや、はるか92Kmの「松島」の名前なんて知るよしもないだろう。

日本人の理性に訴えます

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/10 18:00 投稿番号: [8225 / 9207]
  「竹島の日」に指定された2月22日は、100年前に日本が独島を自国の領土として強制編入したまさにその日である。日本のこのような行為は、わが民族の解放の歴史を否認して、過去の侵奪行為を正当化しようとするものではないのかという疑念をかきたてている。独島は国権喪失の時代に、わが国の領土の中でも最初に日本によって不法に編入され、1945年、解放によって取り戻されたわが国の土地であるからである。

  6世紀以来わが国の領土であった独島が、日本によって強制編入された歴史的経過を振り返るならば、この問題の本質が単なる韓日間の領有権の次元を超えて大韓民国の主権回復と直結した問題であるということを明白に知ることができる。1904年1月に勃発した露日戦争は、日本の韓半島侵略と大陸進出のための戦争であった。日本はソウルに軍隊を駐屯させて、事実上の朝鮮併呑に着手した。 同年2月、軍事的必要から朝鮮の土地を任意に収用できるようにした「韓日議定書」が締結された。

  3月には軍用物資の輸送のために京義線を着工し、6月には西海岸の漁業資源採取権を強奪したのみならず、全国の未開墾地の占有を要求した。また8月には「韓日協定書」を締結して、日本が指名した外国人顧問が朝鮮の財政と外交を監督するという「顧問政治」を実施した。1904年5月、日本はロシア極東艦隊の南下を牽制するために、高宗皇帝を脅迫してロシアから鬱陵島の山林採伐権を剥奪し、9月には鬱陵島の一部を軍用地として強制収用して防塁を設置した。引き続き日本は鬱陵島の属島である独島の編入に乗り出した。

  日本の独島侵奪は、何よりもロシアを牽制するための軍事戦略的計算によって周到綿密に進められた。1904年9月、軍艦新高丸が独島を探聞調査し、同年11月には軍艦対馬丸が上陸して防塁設置の可能性を確認して上部に報告した。このような過程を経て、日本は漁民の請願という欺瞞的な形式により1905年1月28日、内閣会議で独島編入を決定し、同年2月22日、島根県告示によって自国領に強制編入したのである。日本は同年8月には独島に防塁を設置し、10月と11月には海底電線を敷設する等、独島の戦略的価値を徹底利用した。

  このように、独島は日本の韓半島侵略過程において最初に強制占有されたわが国の領土であった。そしてそれは1904年の韓日議定書、1905年の乙巳?約(日韓保護協約)、そして1910年の韓日合邦等、一連の国権侵奪史の延長線上にあった。したがってわが国にとって独島は、単なる領有権問題の次元を超えた歴史的な土地である。

ハングルで読めるぞ!海長竹田所謂于山島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/10 16:42 投稿番号: [8224 / 9207]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=5&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14547

さらに與地図の解説で興味深い記述を発見しました。機械翻訳にかけると以下のとうり。
右側にある 于山島は多くの人によって現在の 独島に認識されたりするが明らかではない.
鬱陵島本島周りにある小さな島の中で最大の観音島や竹島(チュクドのこと)を示すこともできるからだ
この文章をかいたのは李棋峰という人ですが、韓国にも良心的な学者さんがいらっしゃるようです。<引用おわり

上記URLで海長竹田所謂于山島、ハングルでよめます
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GZD/GZD_JIMYUNGS.jsp?setid=231437&pos=4&pt ype=class&subtype=yj&lclass=02&mclass=06&sclass=GM33496IL0006_10 4.jpg

于山島の部分に 『海長竹田所謂于山島』

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/10 16:14 投稿番号: [8222 / 9207]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=5&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14547

鬱陵島圖形 という名前の古地図の解説で、于山島の部分に『海長竹田所謂于山島』と書かれているのを発見しました。
どうやら于山島には竹が沢山生えているようですが、竹島(韓国名独島)に一本の竹も生えていないのは周知の事実であり、
この于山島はチュクド(韓国名竹島)で間違いないでしょう<引用おわり

東国文献備考(1770年)に「松島竹島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/09 15:57 投稿番号: [8221 / 9207]
1562年、籌海図編に「竹島」表示、
鬱陵島日本完全実効支配1616〜1696年   80年間
空島政策、1417〜1882年(朝鮮国鬱陵島放棄)
興地志(1656年)
東国文献備考(1770年)に「松竹島」
東国輿地勝覧(1481年)
「新増東国興地勝覧」1531年

++   朝鮮では東国文献備考(1770年)に初めて松島竹島の名が出てくる、つまり興地志(1656年)にも記載があると仮定するならば、松島呼称はこのあたりから出たと思われます、この1656年以前は、竹嶼は日本人達には無名島だったらしいのですね、ここで   うう〜むだ、安は言う、倭がいう松島は
朝鮮のう山島だ、安は日本人漁師にリアルタイムにすぐさま反応し、断定したのだ、なぜだろうか、考えるに、日本人漁師は近くに見える竹嶼の方をうしろ指を指して元松島に住んでいたといったのか?、これに安はあれは我が国のう山島(竹嶼)ですと答えたのでしょう、これなら整合性がありますね。

松島竹島芋山を鬱陵島と称し東国文献備考

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/09 14:16 投稿番号: [8220 / 9207]
http://pksp.jp/sakakiddsu/novel.cgi?m=3&o=3&ss=&secsn=1&pgsn=12&ps=
[1-11]竹島問題   7
そして鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、
3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、
日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。
この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、
併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。李奎遠が鬱陵島に赴くのが1882年4月。そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗は、彼に対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」と下問している。
この高宗の質問に対して李奎遠は「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古(いにしえ)の国都の名なり」とし、
「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」と、答えている。『成宗実録』1年8月条に記された、
「鬱陵島の傍らに小島あり」の小島と同じく、何れも鬱陵島より東に2Km程度離れた現在の鬱陵郡蔚陵邑道洞里竹島のことで、今の竹島とは全く関係が無いのである。
『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、松島、竹島、芋山島の三島を鬱陵島と称したのは『東国文献備考』に基づく知識だったからである。
その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、
松竹島(現道洞里竹島)以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。
この高宗と李奎遠の鬱陵島に対する認識の差は、『東国文献備考』の記述を通じて鬱陵島周辺の地理を認識していた高宗と、実際の鬱陵島の様子を伝聞し、現実的な鬱陵島像を確立していた者との違いといえる。<引用終わり

++   『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、1770年の『東国文献備考』に基づく知識だったからである、つまり1882年の高宗王は書籍を勘違いしていたのですね、どうやら朝鮮による「松島」呼称は安の供述かららしい事がこれでやや見えてきたな。

Re: ★「竹島」は日本固有の領土です

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/08 18:31 投稿番号: [8219 / 9207]
韓国世界平和維持軍より重要なお知らせ |
     \                     |
   _____ヽ( '-')    ________|
           (    )>(Д゚; )
( ;`Д)         ノ ヽ    (    )ヽ
(   )ヽ             <   ヽ
ノ t



ε≡()__\   /|| ̄ ̄||
    \\/   \( ´ー`)__     第二次対戦終結後我々が管理しています。
      \)) @  ̄ ̄ ̄ヽ韓国軍ヽ
      |_______|___   |
      (◎◎◎◎◎◎◎)≡) )≡)
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  ■   所有権時効

≪平穏で実効的な支配を続くことであり、このような実効的な支配が長期間続く場合、独島の領有権に対した異議提起は消えるはずです。≫

  http://www.momaf.go.kr/japan_2003/issue/issue_2.html#

  上記見解を分析しますと、独島は大韓民国が独立後ずっと平穏で実効的な支配が続いているので、大韓民国の領土になっていると言うことです。

  早い話が、日本の法律の所有権時効と同じ考え方ですね。

  戦後ずっと偉大な大韓民国が穏便で実用的な支配を続けてきました。

   *決定

   ≪所有権時効で大韓民国の領土≫

(ノ゜O゜)ノ近辺での漁を禁止する。


  日本の漁船は独島近辺での漁を禁止する。独島は偉大な大韓民国の領土である。もし操業したいのであれば、大韓民国政府に頭を下げて頼み、ちゃんとお金を払ってからやりなさい。近辺は偉大な大韓民国世界平和維持軍が管理しています。

張漢相曰く、東側5里(2km)ほどに小島あり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 15:59 投稿番号: [8218 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm070.html#No.468
朝鮮王朝の竹島(独島)記録 hangetsu_johYahoo!掲示板 2000年5月3日
ホーム > 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:竹島問題を考える。

『鬱陵島事績』
   竹島一件をきっかけに朝鮮では鬱陵島の備禦策が問題になり、調査官・張
漢相が派遣されました。このとき張が竹島(独島)を確認していることは注目
にあたいします。張は『鬱陵島事績』にこう記しました。

(鬱陵島)東側5里(2km)ほどに一つの小さな島がある・・・山に入って
中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三峯という。西側を眺めると大関嶺のくねくねした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島が見えるがはるかに辰(たつ)方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里(120km)に過ぎない<引用おわり

++   張漢相曰く(鬱陵島)東側5里(2km)ほどに一つの小さな島がある・・山に入って中峰に登ると・・とここで半月城氏は、なぜか、「高大ではなく海長竹が一面に叢生している、雨が晴れ霧の深い日」という重要な部分を省いています、つまり鬱陵島東側5里(2km)の海長竹が一面に叢生している島と言えば竹嶼があります、それ以外の島はありませんね、ズバリそれは「竹嶼」です、

1694年張漢相150名騎船二隻汲水船四隻

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 14:21 投稿番号: [8217 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.657
朝鮮の「竹島一件」対応 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2375
02/09/22

日本との鬱陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こ
したようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王
行]の上疏がそうしたものであった。
   彼は、鬱陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく
見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、
ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべき
であると主張した。
   必然的に、政府でも問題になっていた鬱陵島備禦策について関心を持ち始
めていた。領議政(総理格、半月城注)の南九万が、三陟僉使を鬱陵島に派遣、
生活状態を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきと
する建議をしたのがそれである。
   南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年
(1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官)
の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。
   張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日のあいだで滞留して、
鬱陵島から10月6日三陟へ戻った。張漢相の鬱陵島審察については『粛宗実
録』にも記録されているが、「鬱陵島事績」により詳しく記されている。
   張漢相は鬱陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政
府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、
海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植
えてきたこと等であった。<引用おわり

海長竹が一面に叢生している東側五里小島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 13:33 投稿番号: [8216 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html
半月城の論文   竹島=独島は日本の「固有領土」か?『飛礫』47号、つぶて書房、2005夏号

朝鮮政府は「竹島一件」の反省から僉使(せんし)張漢相を鬱陵島調査に派遣するな
ど空島政策の見直しに乗りだしました。僉使とは各鎮台に属した従三品の武官職をさしま
す。一行は鬱陵島で綿密な調査をしたようですが、その過程で竹島=独島を望見すること
ができたようでした。張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

   東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。
   西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島
がみえるが、はるかに辰方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三
百余里に過ぎない。

   張は、辰方(東南東)にある島までの距離を三百余(朝鮮)里、百二十キロメートル
としましたが、鬱陵島と竹島=独島間の実際の距離は九十二キロです。ちなみにその距離
は、後述の島根県伺書では四十里、百六十キロとされました。当時の水準で「鬱陵島事
績」の距離感はむしろ当っているほうでした。
   一方、島の大きさは鬱陵島の三分の一未満と書かれていますが、実際は三百分の一な
ので、張漢相は竹島=独島をかなり大きく見ていたことになります。島の大きさは違って
も、東南東の方向というと竹島=独島しかないので「鬱陵島事績」に記された島が竹島=
独島であることはまちがいないようです。<引用おわり

++   雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると、つまり霧が立ち込めている中で島が見えた、これでは竹嶼が見えても距離感も大きさも判断できません、ましてリヤンコ島なんかは霧の中では絶対みえませんよ、ここで100歩ゆづっても、張漢相調査団がリヤンコ島を望見出来ても、島に上陸して調査もしてはいないので領有根拠にはなりませんね、

『海長竹田所謂于山島』

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/07 22:41 投稿番号: [8215 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%98%B0%8ER%93%87/
818 藪太郎 2006/06/01(木)
鬱陵島圖形 という名前の古地図の解説で、于山島の部分に『海長竹田所謂于山島』と書かれているのを発見しました。
どうやら于山島には竹が沢山生えているようですが、竹島(韓国名独島)に一本の竹も生えていないのは周知の事実であり、
この于山島はチュクト(韓国名竹島)で間違いないでしょう。<引用おわり

1793年松島はおそらく昔の于山国であり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/07 21:59 投稿番号: [8214 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%98%B0%8ER%93%87/

816 藪太郎 2006/06/01(木)
1793年に朝鮮国王にたいして家臣が『鬱陵島の外側にある松島(竹島の旧名)はおそらく昔の于山国であり、
今もし松島に石碑をたてればこの島をわが国の物にすることができます』と語っている文献を発見しました。
松島は于山島であるとは書いていないのでこの『松島』が本物の竹島なのかチュクト・観音島を指しているのかはよくわかりません。
竹島に大勢の人が住むことは不可能であり于山国であるという推定は勘違いでしょう。
実際に竹島に石碑をたてたという記録は見つかりませんでした。
どうやら国王は聞き流してしまったようです、<引用おわり

1807年于山島が鬱陵島の北に,王に報告

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/07 21:42 投稿番号: [8213 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%98%B0%8ER%93%87/
796
藪太郎 2006/06/01(木)
ソウル大学の古文書データべースのHPで『于山島が鬱陵島の北に ある』と書かれている文献を発見しました。
この文献は1807年5月12日に朝鮮の役人が鬱陵島を調査した結果を国王に報告した時のものです。
于山島が鬱陵島の北に あると書かれており、鬱陵島の東南に位置している竹島(独島)とは別の島であるのは明らかです。
この于山島はおそらく鬱陵島の東北に位置しているチュクト(竹嶼・韓国名竹島)または観音島でしょう。

Re: 日本のエゴで冷え込む韓日関係

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/07 14:15 投稿番号: [8212 / 9207]
>こんにち、日本の反動層が「サンフランシスコ対日単独講和条約」(1951年9月8日)で独島が日本の領土放棄部門から落ちていることを持って国際社会界が独島の日本領有権を認めたものであると主張するのはそれこそ言語道断である。

それが結論なんだからしょうがないでしょう。
起訴されたときの罪状じゃなくて有罪が確定したときの罪状が問題でしょうが。
獨島は、たまたまでなくて、検討したうえで除外されたのですから立派な結論です。

アメリカは、1905年以前に朝鮮領だった時期があるらしいが、それでも結論は変らないとしています。
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