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57年に光武帝より賜った印綬は金印紫綬で

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2007/01/05 13:53 投稿番号: [8292 / 9207]
ここで時代を遡って、後漢の光武帝から金印を賜った委奴国王の国について、少し述べておかなければならない。『後漢書』には次のように書かれている。

○建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。・・・倭國之極南界也。光武賜以印綬。
○安帝永初元年、倭國王帥升等献生口百六十人、願請見。

■資料

  建武中元二年(57)に光武帝より賜った印綬は金印紫綬で、志賀島で発見された「漢委奴國王」印に間違いないと思われる。そしてこの倭奴国は倭国の一番南に位置しているという。これは倭奴国は倭国ではなく、倭の中の一国であり、倭の代表だったことを示し、またこの時代、倭人の国は博多湾周辺地域を最南部とし、それより北の朝鮮半島南部地域を含む国々の集まりだったことを示している。『魏志』倭人伝で狗邪韓国を倭の北岸と表現したのは、こういった過去の状況を踏まえたものだったのかもしれない。
  建武中元二年の朝貢は倭の代表である倭奴国だった。しかし安帝永初元年(107)になると、朝貢したのは倭国王帥升とあるように、倭国王になっている。この五十年間に倭の国々は倭国という組織をつくり、その中から倭国王を立てるようになったとみることができる。この倭国王は歴史の流れからみて、名実ともに倭国王となった倭奴国王だったと考えられる。
  2世紀末になると、倭国は乱れ歴年王がいなかったという。そこで倭の国々は女性の卑弥呼を倭国王に立てたところ、国はおさまったという。このときのことを『魏志』倭人伝は

○其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼・・・

と書く。卑弥呼が共立される前は「本亦以男子爲王」とあるように、倭国王は男王だった。男王の時代は「住七八十年」とあるように70〜80年続き、その後2世紀末に戦乱が起きた。つまり倭国王として男王が生まれたのは2世紀の初め頃だったことになる。それは、安帝永初元年に後漢に朝貢した倭国王帥升の時代であり、その王は倭奴国王であり、2世紀末の戦乱で最後となった男王も倭奴国王だった可能性が高くなる。この戦乱により、倭奴国の時代は終わり、邪馬壹国の時代になるのである。
  倭人の国は1世紀中頃、九州博多湾周辺地域を最南部として、朝鮮半島南部地域にかけてあり、博多湾岸の国・倭奴国がそれを代表していた。2世紀初めにはそれらの国は倭国としてまとまり、倭国王を立てるようになった。その王も引き続き倭奴国から出た。そして7、80年経った2世紀末、倭国は乱れ倭国王が不在となる事態となった。そこで倭人の国々がともにはかって、邪馬壹国の女性・卑弥呼を倭王に立てると、戦乱はおさまった。
  この2世紀末の倭国乱の結果、倭国の覇権は倭奴国から邪馬壹国に移った。これは倭国の都(王都)が博多湾周辺の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬壹国に移ったことを意味する。その後は倭国の中心国には大きな変動もなく、邪馬壹国(邪馬臺国、邪靡堆)は倭国の都として7世紀代まで生き続けるのである。

++   倭人(倭族)は長江河口地域に住んでいて、その最大域は朝鮮北部に至るそうだが   やがて日本の北九州に来たそうです   だから倭人が中国へ朝貢するのはなんら不思議ではないし   その頃   九州は他の民族も国を建てていた、わしも、このへんをもっとしらべる必要を感じたな、
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