★「竹島」は日本固有の領土です

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1875年陸軍地図の隠岐島に松島あり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/26 21:34 投稿番号: [8266 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka14/05.jpg

隠岐島拡大図を見たら松島がありました、1693年の安と日本人漁夫のやりとりで、日本人漁夫曰く、わしらは元   松島に住んでいたと安に告げた、つまり日本人漁夫たちは隠岐島の松島から竹島(鬱陵島)にきたのでしょう、江戸期、隠岐島は日本人漁夫たちの竹島(鬱陵島)への出漁基地でした。

1875年陸軍地図,

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/26 21:14 投稿番号: [8265 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka14/05.jpg

1875年陸軍地図と大政官の「他一島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/25 18:55 投稿番号: [8264 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/

1875年陸軍参謀局作成亜細亜東部ヨチ図は、当時の明治政府の公的超最新地図であります   大政官は当然この地図をよりどころにし、参考にしたでしょうから、この2年後1877年、竹島「他一島」関係無しとしたのでしょう   つまりこの地図を見る限り「他一島」は松島(鬱陵島)と成ります   リャンコ島は「他一島」とはいっさい関係ありません、

Re: 日本人どもよ良く聞け!

投稿者: manamin1341 投稿日時: 2006/12/25 14:31 投稿番号: [8263 / 9207]
朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである>

SCAPIN 677 6項
この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第八条にある小島嶼の最終の決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。

お疲れ様でした。

1875年陸軍参謀局作成地図の松島とは

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/25 13:37 投稿番号: [8262 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/
URLは竹島サイトより借用しました、

++陸軍参謀局1875年作成地図ですが、ここに記載されております竹島、松島はアルゴノートとダジュレイー島ですね、リャンコ島の位置は空白であり何も記されておりません、つまり地図に記載された松島は鬱陵島であります、1880年の軍艦天城の調査により竹島(アルゴノート)は幻の島で存在しない島と明白に成りました。だから1870年佐田報告で竹島、松島朝鮮領とあるのはリャンコ島はいっさい関係ないのです。

馬羅島(北緯33度7分)を日本に返還せよ!

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/24 19:13 投稿番号: [8261 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taikantisi.html

朝鮮水路誌   in 1894と比較すると、大韓地誌1899年玄采では北緯33度15分に成っております、よって馬羅島(北緯33度7分)は韓国領ではありえません、日本領か中国領でしょうか
ね、韓国は馬羅島(北緯33度7分)を日本に返還せよ!    又東経130度35分と記載されておる、

日本人どもよ良く聞け!

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/24 18:47 投稿番号: [8260 / 9207]
  独島は朝鮮東海のほぼ中央部にあって、2つの主島と個数の岩礁からなっている総面積約7万坪の小島で、総面積はほぼ日比谷公園ほどの広さである。   朝鮮の鬱陵島からは49海里(1海里=1.852キロメートル)、日本の隠岐島からは86海里の所にある。つまり比較にならないほど朝鮮側に近い。

  古来、鬱陵島の属島とされているこの島について、日本は不当にも島根県に編入させたことがあるが、日本との間にいわゆる「領有権問題」が起こったのは解放(日本敗戦)後のことである。   第2次大戦の終結によって日本全土と朝鮮南半部は米国を主力とする連合国の占領下に置かれたが、連合国総司令部は1946年1月29日付で日本政府に対して覚書を発し、日本の行政領域の範囲を定めた。この時、朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである。

  そのうえ同年6月、米国は日本漁船の活動可能領域を定めた「マッカーサ・ライン」を設定したが、この時も独島は日本の操業区域外に置かれた。この「マッカーサ・ライン」は1952年4月25日に廃止されるが、その3ヵ月前にこのラインを引きついだ形のいわゆる「李承晩ライン」(韓国による漁船立入禁止線)が設定される。

   そして同年4月28日、対日講和条約たるサンフランシスコ条約が発効するが、この条約の「第2章   領域」の項の第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独島を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」となっていた。ここには独島の名は入っていない。

  これにより日本は、独島に触れなかったのは、1910年の「韓国併合条約」以前の1905年に独島が島根県に編入されて、日本が領有した島だからだとして、日本の独島領有権をより強硬に主張しはじめるのである。

  ところで米国は、早くから独島を空軍爆撃演習地に指定し、爆撃を実施していたが、1948年6月には米軍機の爆撃演習によって独島で漁業に従事していた南側漁民16人の死亡及び行方不明者と重軽傷者6人を出すという事件が起きた。この事件に発足間もない李承晩政権は抗議し、米第5空軍は陳謝した。これは事実上、独島の南当局の領有権を認めたものといえよう。

  1952年春、米国は李承晩政権に独島を爆撃演習地から除外したと通告し、その後、日米合同委員会で独島を爆撃演習地から除外したと通告している。   独島の領有権をめぐっては、同島に関する問題が起きるたびに日本当局と南側当局との間に、抗議、口上書などが幾度か発せられるが、一方、米国の独島政策を仔細にみるに、植民地統治の神髄たる分割統治方式の具現のように思われる。

そしてここで指摘しなければならない問題は、1965年のいわゆる「韓日条約」妥結の折、両全権間の交換公文によって、独島をめぐる紛争は外交的に「両国政府が合意する手続きに従い調停によって解決を図る」とされ、いわば棚上げにされて問題が先送りされたことである。

  この「韓日条約」締結以前の交渉でも独島問題が大きく浮上した時、KCIA部長・金鐘泌(当時)が、独島が「韓日親善」に障害になるのなら、「爆破して失くしてしまおう」と言ったことも有名だが、時の日本首相佐藤栄作が、条約調印当日、「竹島の領有権を日本に渡さなければ条約に調印しない」(朝日新聞・77年2月11日付)と圧力をかけた事実がある。

南限界馬羅島(北緯33度7分)はどうなのか

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/24 18:10 投稿番号: [8259 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html
        朝鮮水路誌   in 1894
日本海軍の水路部が刊行した1894年版の『朝鮮水路誌』に、朝鮮領の東限が鬱陵島であることを示す記述がある。同書は第一編から第四編の4つのセクションに分かれており、朝鮮領の東限は第一編、鬱陵島とリアンコールトは第四編に記述がある。韓国側は、朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになる。従って『朝鮮水路誌』をもって竹島は日本領であるという主張は成り立たないという。しかし日本と国境がある東限と、その先には何も無い南限を同列に扱ってはならない。『朝鮮水路誌』は厳然と竹島を韓国領ではないと定めているのである。<引用おわり

++   朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、韓国領の馬羅島(北緯33度7分)はどうなのかという事らしい、韓国の地図ではどうなっているのだろうかな、ゲンサイの地図では緯度経度つきらしいが、

1936年日本陸軍地図で竹島朝鮮領として・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/24 17:32 投稿番号: [8258 / 9207]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html

日本陸軍測地測量部の図   in 1936

1936年に日本の陸軍測地測量部が作成した「地図区域一覧図」という地図があるが、これを基に韓国は、「竹島は朝鮮領として描かれていて、近代に入っても日本政府の竹島に対する認識は朝鮮領であることを自ら示している証拠である」と主張している。
しかし、この「地図区域一覧図」は、軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図である。基本的には管区や運用を行政境界と一致させるとしても、運用上の便宜から例外が出ることは不思議ではない。結論として、竹島が軍の地図区分において朝鮮管区(軍令上の区画)に加えられたとしても、あくまでも「行政区画」上、島根県に属していた事実は変わりない。国家の領域を管轄して、天皇を補弼(ほひつ)したのは内務省であるから、行政区画をもってその帰属を論ずるべきである。韓国は行政上の地図と軍事上の地図を同一視してはならない。<引用おわり

++   明治政府は1905年、リャンコ島を竹島と命名してすでに島根県領域に編入させております、軍の地図区分で彼らの仕事がやりやすい様にしただけで、だから竹島日本領には何ら変更はありません、

1903年アシカ猟を主とする本格的な経営

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 22:08 投稿番号: [8257 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/nakai.html Toron Talker

現・竹島で、アシカ猟を主とする
本格的な経営が行われるようになったのは、
明治36年(1903年)以降のことである。

この年、隠岐島民の中井養三郎や石橋松太郎らは、現・竹島に渡ってアシカの猟獲に従事していた。

明治37年(1904年)には中井・石橋らの他に幾つかの組も参入し、
猟獲を競った結果、同年度のアシカの捕獲数は2760頭にも達した。

この乱獲が続けば竹島にいるアシカの絶滅は近い。
そのため中井養三郎は、明治37年(1904年)の猟獲終了後に、その事業の独占を図り、
9月29日付をもって内務・外務・農商務三大臣に対して「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出した。
「仮住」にせよ、
「滞在」して狩猟等の「経済活動」を行うことは、
領域の実効支配の要件に何ら欠けることはないでしょう。

特に、このような活動が、何ら韓国政府の抗議を受けることなくなされたことは、
韓国がリアンクル岩(現在の竹島=独島)に支配を及ぼしていなかったことを示す強力な証拠となるでしょう。
すなわち、国際法からみても、
1905年のリアンクル岩(現在の竹島=独島)編入は、「無主地先占」の要件を満たすことになります。<引用おわり

++   1902年から狩猟等の「経済活動」をしていたから対露戦争とは関係なさそうですね、

朝鮮政府レベルで東五里の島名も知らない

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 19:55 投稿番号: [8256 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。なお、朝鮮政府は安龍福が連行された翌年に張漢相を鬱陵島の調査に派遣しましたが、
その時、張漢相は鬱陵島の東南東 300里(120km)のところにある島を目撃したことを
「鬱陵島事績」に記しました。島名は記されませんでしたが、方向や距離からみて于山島
以外ありえません。このように、政府レベルでも竹島=独島がきちんと認識されたことは
下記に記したとおりです<引用おわり

++   1697年時の朝鮮政府レベルでも、鬱陵島の東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生していると述べている、東側五里の小島とは竹嶼の事ですが当時はまだ無名島だったのですね、いつの頃から竹嶼呼称に成ったのか、

Takeshima/Dokdo---1894 朝鮮水路誌

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 16:22 投稿番号: [8255 / 9207]
http://zeroempty000.blogspot.com/2006/07/takeshimadokdo-1894-document.html

Takeshima/Dokdo -- -1894 document 朝鮮水路誌

page 1
朝鮮国は亜細亜の東部にあり
其地勢たる狭長なる一大半島を成し幾多の島嶼之を圍繞す
其位置は
北緯三三度十五分より同四二度二五分
東経一二四度三〇分より同一三〇度三五分に至る

The country of Chosun is located at the east of Asia…..its location is
from lat. 33 degrees N 15 minutes to 42 degrees N 25 minutes
from long. 124 degrees E 30 to 130 degrees E 35 minutes minutes

page 256
リアンコールト列岩

此列岩は洋紀一八四九年
佛国船「リアンコールト」号初て之を発見し船名を取てリアンコート列岩と名つく

其後一八五四年露国「フレガット」形艦
「パラス」号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し
一八五五年英艦「ホル子ット」号は此列岩を探検して「ホル子ット」列島と名つけり

該艦長フォルシィスの言に據れば
此列岩は北緯三七度一四分東経一三一度五五分の所に位する二坐の不毛岩嶼にして

Linocourt rocks.
These Rocks were first discovered by French ship “Linocourt”…..
The location of the Rocks is
Lat. 37 degrees N 14 minutes
Long. 131 degrees E 55 minutesponta at occidentalism

リャンコ領土編入2/2 島根県告示四〇号

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 15:53 投稿番号: [8254 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

ここで日本政府が竹島=独島を領土編入した論理ですが、それは「無主地」であるリ
アンクール島に一九〇三年来、中井が「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて
日本の領土に編入したというものでした。
   しかし、この論理には無理があります。まず、竹島=独島は民間人が居住できるよう
な島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もありませんでした。
中井が同島を利用した実態は、四月から八月にかけてアシカ猟のたびに菰葺小屋で「毎回
約十日間仮居」したにすぎないのであり「移住」や「占領」とはほど遠いものでした。
   それにも増して重要なのは、日本政府が朝鮮領であるリアンクール島を無主地と判断
したことです。かつて明治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を
朝鮮領と考えていましたが、その判断を根本的に覆すものでした。そしてその主な動機は、
これまで見たように日露戦争遂行のため同島に軍事施設を設けることにありました。
   なお、領土編入の閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府
レベルでの公示すら一切しませんでした。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照
的です。小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと何度も十分な協議を重ね
て相手国の同意を得て領土編入を行いました。
   それに反し竹島=独島の場合は政府内で秘密裏に処理されました。官報による告示も
なく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で公表したにとどまりました。同県は
ちょうど百年前の二月二十二日、県告示四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管に
すると公示しました。
   このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民は
その事実をほとんど知らずにいました。それどころか主要なマスコミすら知らずにいまし
た。告示から三か月以上たった五月三十日、日本海海戦を伝えるほとんどの新聞は「竹
島」の名前を用いずに、外国名の「リアンコルド」岩という名で報道しました。
   はなはだしくは、官報や海軍省ですら「竹島」でなく「リアンコルド」岩の名を使用
していました。これはかつて水路部を擁し、国境について熟知しているはずの海軍省すら
「竹島」編入の事実を知らなかった可能性があります。もし知っていたなら、日露戦争で
戦局が日本に有利になるまで秘密扱いにしていたのかも知れません。
  「竹島編入」について外務省のホームページは「閣議決定及び島根県告示による竹島の
島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認した」と
記しましたが、秘密裏の措置が近代的であるとは我田引水にすぎます。
   さらに外務省の「固有領土」という言い分ですが、これは明治政府が強弁した「無主
地」という主張と相容れないことは言うまでもありません。<引用おわり

++   明治政府閣議決定指令により、島根地方政府は県告示四〇号で同島を1905年2月22日、竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示しました、いままでのモヤモヤとしていた江戸時代からの旧松島実効支配はここで正式に日本領となったのです、

竹島=独島の領土編入1/2

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 15:23 投稿番号: [8253 / 9207]
7.竹島=独島の領土編入

   日露戦争の時局柄、日本はリャンコ島(竹島=独島)を軍事的に必要としていました
が、同島を領土編入する直接のきっかけになったのは、日露戦争中に提出された一漁師の
「りゃんこ島 領土編入願 並に貸下願」でした。まずはこの「貸下願」が出されるに至っ
た経緯をみることにします。
   明治維新以後、対外膨張の気運に乗り、多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航するよ
うになりました。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていましたが、日本人の移住は空島
政策を転換させる契機になりました。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡航禁止を日本政
府に申し入れるとともに、翌年「鬱陵島開拓令」を発布し開拓に乗り出しました。
   こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させましたが、そ
の後も日本人の無断渡航は絶えませんでした。朝鮮政府の日本人退去要求は、八八年、九
五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになりました。
   九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日本政府が
一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して海外
進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになったからでした。その
意義を、大アジア主義をとなえる黒竜会幹事の葛生修亮は、「我邦の勢力を扶植し・・・
他面に於ては我邦の人口を排泄する」と侵略意図をあらわにして『韓海通漁指針』を著し
たくらいでした。

   このような日本の官民による侵略の結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでにな
りました。それにともない、鬱陵島への途中航路に当たるリャンコ島も注目されるように
なりました。とくに同島のアシカ猟は、日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注
目され、一層盛んになりました。
   そのなかで漁師の中井養三郎は、リャンコ島におけるアシカ猟の独占をはかろうとし
て種々画策しました。リャンコ島をよく知る中井は、同島を朝鮮の鬱陵島付属と信じ、当
初、貸下願を朝鮮にある日本の統監府に提出しようとしました。
   リャンコ島を朝鮮領と信じていたのは中井だけでなく、内務省や海軍省、はては大陸
浪人までもそのように考えていました。先の葛生修亮は、韓国沿岸を詳細に調査したうえ
で『韓海通漁指針』を著しましたが、その中で竹島=独島を「ヤンコ島」の名前でとりあ
げていました。同島を韓国領と考えていたことが明白です。
   中井は貸下願を推進する過程でまず農水産省に接触したところ、リャンコ島は「必ら
ずしも韓国領に属せざるの疑を生じ」たので、さらに水路部を訪ね、そこで同島は「無所
属」との回答を得たようでした。
   しかし、水路部こそ日本の国境画定機関として同島を朝鮮所属と断定し、リアンコー
ルト列岩の名で『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に編入して一八九四年に刊行した
のでした。海軍から独立した水路部は、戦争という時局にあってリャンコ島奪取の意図を
あらわにしたものとみられます。
   こうした関係機関の意見に勇気づけられた中井は「りゃんこ島領土編入願 並に貸下
願」を内務、農水産、外務省に提出しました。内務省では「此時局に際し 韓国領地の疑
ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの
疑を大ならしむる」として反対され、却下されかかりました。かつて内務省は、竹島、松
島を本邦の版図外として判断し、太政官の確認指令を受けただけに内務省の判断は当然の
成りゆきでした。
   内務省に反対された中井は、今度は外務省に走り山座政務局長に陳情したところ、山
座は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し 無線もしくは海底電
信を設置せば敵艦監視上極めて届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することな
し、須らく速かに願書を本省に回附せしむべし」として中井を督促しました。
   外務省はかつて「朝鮮国 交際始末内探書」で朝鮮領と考えていたリアンクール島を
戦争という「時局なればこそ」編入を急ぐ必要があると判断し、内務省などを説得したの
でした。
   結局、内務省も外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入を閣議にはかりま
した。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領土編入を決定し、竹島と
命名しました。

リャンコの軍事的価値、ロシアと満韓交換

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/23 14:41 投稿番号: [8252 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

6.竹島=独島の軍事的価値

   竹島=独島に対する明治政府の視点は日露戦争を機に変貌しました。その背景を知る
ために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみます。
   日本は満州を放棄するかわりに韓国を勢力圏におさめるべく、ロシアと「満韓交換」
を交渉しましたが不調に終わり、ついに一九〇四年二月、ロシアに対し戦闘行動を開始し
ました。
   日本は、旅順に停泊中のロシア艦隊にたいし連合艦隊が奇襲攻撃をかけるとともに、
臨時派遣隊が韓国の仁川に上陸、漢城に入り首都を制圧しました。その軍事的威圧のもと
で韓国に軍事協力を強要し「軍略上必要の地点を臨機収用する」と規定した日韓議定書の
調印を強制しました。日本はこの条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設ける
ようになりました。
   しかし、その日韓議定書すらほどなく日本により踏みにじられるようになりました。
議定書では「大日本帝国は大韓帝国の独立及領土の保全を確実に保障」とうたっていまし
たが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどころか、早くも五月
には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定しました。その方針のもと、九月
には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々と実行にうつしました。

   他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まりました。ロシアのウラジオ艦
隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていきました。これに対処するため、海
軍は敵艦監視・通信施設の増強をはかりました。
   九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島
等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結しました。朝鮮内の望楼は約二十か
所にもおよびましたが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領でした。そしてそれらの
戦略の一環として鬱陵島に望楼を建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺
湾との間を軍用海底電信線で結ぶことが決定されました。
   鬱陵島の望楼は二か所で九月に完成しました。海底電信線の方はウラジオ艦隊に脅か
されながらも敷設が進められ、これも九月に完成しました。これによって鬱陵島の望楼は
朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになりました。さらに、
リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画され、軍艦対馬によって予備調査が
おこなわれました。

   翌一九〇五年五月、リアンクール島付近で日露の歴史的な「日本海海戦」があり、日
本はロシアのバルチック艦隊に大勝し、戦局を有利に転換しました。これによりリアン
クール(竹島=独島)の戦略価値が一層重要視されたのはいうまでもありません。日本海
軍は鬱陵島、リアンクール島を含めた水域の総合施設計画を立て、八月リアンクール島に
望楼を完成させました。
   海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リアンクール
島と隠岐との間ではなく鬱陵島からリアンクール島を経て松江に接続されました。
   こうして、朝鮮半島の竹辺から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の軍用通信
線の体系がつくりあげられました。このように、日本政府にとって日本海中のリアンクー
ル島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占
領と密接不可分なものでした。

++   リャンコ編入は無主地無人島を日本領域に入れただけで、朝鮮侵略だとか対露戦争準備だとかは一切関係ありませんよ、持ち主不在の、それも江戸初期からささやかに実効支配してきた無人島を単純に明治政府が日本流域に正式編入しただけで他に他意はないでしょうに、

「他一島」とはマノ島の事か

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/22 19:00 投稿番号: [8251 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/xtop-left.jpg

大政官添付地図(磯竹島略図)の「他一島」とはマノ島とも受け取れるが、
上記URL拡大図にマノ島(Mano tou)がみられます、

竹島隠岐国所属、1912隠岐島庁が地図

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/22 16:28 投稿番号: [8250 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/okizenzu.html

日韓両国が
竹島(韓国名・独島)の領有権を主張する中、
竹島の位置が書かれている1912(大正元)年刊行の官製地図「隠岐全図」が、同県隠岐の島町西町の毛利彰さん(45)方でみつかった。

島根県に編入された05年2月以後、
日本が竹島を管轄していたことを裏付けており
「近代の日本政府は竹島を朝鮮領として認識していた」
とする韓国側の主張を否定する資料として注目される。


島根県が設ける竹島問題研究会の杉原隆副座長と、
島根大法文学部の舩杉力修助教授が隠岐の島町を訪れ、発見した。

地図は当時の島根県隠岐島庁が刊行した。

地名や航路など詳細に記しており、
左上にある本州との位置関係を示した
「本土に対する隠岐国の位置」の中に竹島の記載がある。

また、地図の裏側には
各地の概要や統計を示した「隠岐島治一斑」があり、
その中で「日本海中にある無人の厳島にして二島より成り」などと、
竹島についても触れている。

毛利さん方からは、
隠岐島庁が27、34年に刊行した地図「隠岐及竹島全図」も見つかった。

これまで韓国側研究者は、
日本の陸軍陸地測量部が36年に刊行した「地図区域一覧図」に、
竹島が朝鮮半島の地図とともに収録されていることから「竹島は朝鮮領として描かれていて、日本政府は本来、竹島を朝鮮領と認識していた」などと主張していた。

++ 隠岐内に 竹島の位置が書かれている1912(大正元)年刊行の官製地図「隠岐全図」がある、日本の陸軍陸地測量部が1936年に刊行した「地図区域一覧図」で竹島が朝鮮半島の地図とともに収録されていたことから竹島朝鮮領と韓国は主張するが、竹島は隠岐国内所属で島根県隠岐島庁が地図刊行した事がこれで理解出来た、

防衛省資料2

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/21 23:03 投稿番号: [8249 / 9207]
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防衛省資料

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/21 22:41 投稿番号: [8248 / 9207]
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外一島の位置はリャンコ島の位置では無い

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/20 14:15 投稿番号: [8247 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html#No.903

太政官指令書の存在

それよりも重要なのは、松島・竹島を版図外とした太政官指令である。指令のきっかけは新政府の地籍編纂事業だった。新政府は日本各地の地籍を編纂するにあたり、松島・竹
島が日本領かどうかの検討を行った。その際「版図の取捨は国家の重大事」との考えから
慎重に江戸時代の「竹島一件」などを吟味した。

  その結果、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論をくだし、1877(明治10)年、明
治政府の最高機関である太政官は「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだし
た。この画期的な太政官指令書を今の外務省は決して明らかにしようとしないが、その姿
勢は情報隠しに等しいといえよう。太政官指令書には付属文書「島根県伺」があるが、そ
こにおいて独島は「外一島」として、こう記述された。

<太政類典 第二編 第九十六巻>
  「次に一島あり。松島と呼ぶ。周回三町。竹島と同一の船路にある。隠岐をへだてる八
十里。竹木は希で、魚獣を産すさて、「島根県伺」における松島の位置は、隠岐から八十里、竹島から四十里とされた。
距離は実際より遠めだが、この距離の記述をはじめ付属文書の内容は、実際に渡海事業を
おこなった大谷家などの文書や地図が元になっているだけに、松島が今日の

  明治政府はそれらの史料や、朝鮮との書簡などを精査して、竹島および外一島、すなわ
ち松島・竹島を一対にして朝鮮領と判断し、日本の領土外とする指令を布告したのだった。
この重要な太政官指令について外務省はホームページをはじめ全ての文書で沈黙を守って
いる。<引用おわり

+++   内務省が竹島地籍編纂の件で島根県に古い資料でもいいからと資料提出を依頼して来た、これに島根県が答えたのですが、江戸初期の時代おくれの資料を添付して逆に内務省へ島根県伺を提出した、内務省も判断にこまり太政官に意見をもとめた、太政官は当時の最新海図から即ち3島表示である竹島(幻のアルゴノート)松島(鬱陵島、ダジュレイ島)リャンコ島から「竹島および外一島」関係無しとしたのです、ここで太政官は松島(鬱陵島、ダジュレイ島)を旧来の竹島と判断し、竹島(幻のアルゴノート)を「外一島」としたのです、そして「外一島」の位置はリャンコ島の位置では無くはるか北の方に存在していました、つまり太政官指令は現竹島を放棄したのでは無いのです、『民団新聞』の我田引水の誤った解釈には困ったもんだ。

1849リヤンコ発見、1869年佐田報告

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/20 13:04 投稿番号: [8246 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm120.html#No.903
  
      『民団新聞』2006-05-10

日本では専門家以外ほとんど知られていないが、明治新政府は朝鮮を内探するため、
1869年に外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、高官は報告書「朝鮮国交際始末内探書」を
提出し、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」という一項をもうけて、松島・竹
島が朝鮮領であることを明確にした。これは単なる報告書にすぎないが、その内容から明
らかなように、外務省が江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、独島を朝鮮領と認識
したことを示した点で重要である、<引用おわり

++   佐田報告は、当時リヤンコ島を含めて3島あるのが明治初期の明治政府の認識でした、即ち   竹島(幻のアングルノート)、松島(鬱陵島、ダジュレイー島)、リャンコ島です   だから佐田は竹島松島は朝鮮領であると報告したのですね   まったく問題ありません、3歳児でもわかる事です、

1849リヤンコ発見1869年

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/20 12:39 投稿番号: [8245 / 9207]

Re: 日本人の理性に訴えます

投稿者: kirakuyana123456 投稿日時: 2006/12/19 19:46 投稿番号: [8244 / 9207]
>わが民族の解放の歴史を否認して、過去の侵奪行為を正当化しようとするものではないのかという疑念をかきたてている

  解放の歴史を否認云々と領土問題は別次元の問題。
  そもそもその存在さえ知らなかった島を韓国領土と認識すること自体が矛盾。古い地図の島の位置を左右を移動させてあるテレビ番組でひょっこりひょうたん島と揶揄されている。
  解放の歴史と言っても、日本に併合されてから中国人に対しては我は日本人なりと尊大な態度をとり、日本が敗戦すると戦勝国に入ろうとしたり、国家成立についても米ソの協議で北はソ連・南はアメリカが日本軍の武装解除に当たると決めて、その後はこれらの国が一時統治している。
  解放されたと言っても日本が敗戦によるものであって他力本願のなにものでもない。

1905年以前は朝鮮の実効支配無かった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/19 16:54 投稿番号: [8243 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm070.html#No.465
大谷家などの限定された松島(竹島=独島)利用も長続きせず、日朝間の
紛争「竹島一件」を機に日本で竹島(鬱陵島)が放棄されるや、同島もほとんど放棄されました。しかも、何度も書いたように、明治時代になって首相格の太政官までが公式に同島の放棄を確認しました。この時点で、過去のささやかな「実効支配」はすべて水泡に帰したのでは
ないでしょうか?   それを明治政府はよく理解していたとみえ、竹島(独島)領有の閣議決定に際し、200年も前の「実効支配」の実績はおくびにも出さなかったようでした。かわりに「無主地の先占」論法を建前に領有を決定したようでした。しかし、明治政府のホンネは、私が今まで記したように、竹島(独島)は「無主地」どころか朝鮮領と考えていたようですが、それにもかかわらず日露戦争勝利という軍事的必要性から竹島(独島)を編入し、同島を軍事的に占領しました。結局、日本の竹島(独島)編入は、歴史的帰結からではなく帝国主義配慮からであったといえます。

++   1905年以前には、朝鮮もフランスもリャンコ島を実効支配した事などただの一度も無く、領有意思もなかったのです、そんな国にわざわざ明治政府がリャンコ島を領域にいれますよと念を押し通告すことなど必要としないのですよ、閣議決定して新聞に載せれば、それに対して抗議なければ、世界列国は承知した事になります、朝鮮政府からも抗議なかったでしょう、

石島で勅令41号は信頼出来なくなり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/19 14:17 投稿番号: [8242 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.695
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/takesima/kouen/04.html

韓国側はどうかといいますと、竹島が島根県に編入されたのが一九〇五年、しかし韓国側は一九〇〇年に韓国に編入したと主張しています。日本より五年前に編入していたのに、一九〇五年に取られてしまったから、日本の侵略の最初の犠牲の地が独島(竹島)だという認識をもっています。日本が竹島問題を表に出すと韓国・北朝鮮が口をそろえて「日本はまた再侵略を考えている」といいます。再侵略の意味は一九〇五年竹島が編入された時を起点としています,<引用おわり

+++   1900年朝鮮政府による鬱陵島、禹用鼎大調査団はリヤンコ島に関してはその島の存在を確認しておらず、島の調査もしませんでした、だから禹用鼎調査報告書にはリヤンコ島は載せてはおりません、勅令41号はこの調査報告書を元にして発布されましたので、石島リヤンコ島はありえませんね、
つまり調査もしない、島があるかないかも確認しておらず、そのリヤンコ島を勅令41号に載せる事などできませんね、もしも石島リヤンコ島などといいかげんな事を韓国が主張するならば、そうなると勅令41号自体全部が信頼出来なくなりますよ。

1849リヤンコ発見のフランスは手放した

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/18 22:24 投稿番号: [8241 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/takesima/kouen/04.html

フランス1849年リヤンコ島を発見命名、この時日本はこれを新島だと解釈した、リヤンコ島は元松島の事ですが、それまでのあいだ日本は松島を見失っていたのですね、1849年以降日本も朝鮮もリヤンコと呼びました、発見命名したフランスは島を管理出来ず手放した、島は再び無主地無人島に成ってしまったのですが56年後の1905年明治政府は日本の領域に編入したのです、

現在の竹島にも触れていない文書を論拠とし

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/17 21:26 投稿番号: [8240 / 9207]
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006

下條氏は先ごろ開かれた研究会で、「太政類典」に収録されている太政官の決定に関する文書を示し、現在の鬱陵島を示す竹島と、松島の記述に着目。竹島に住む動植物などが紹介されているのに続き、隠岐諸島から竹島に向けた同一線上に松島という島があり、米子の商人の大谷家が越後(新潟県)からの帰りに日本海で遭難して漂着したのが、この島(松島)であった、と記していることを明らかにした。

  だが、大谷家に関する文書では、漂着したのは現在の鬱陵島としており、下條氏は「太政官決定の文書にある竹島と松島は、ともに現在の鬱陵島のことが書かれている。当時の政府発行の地図には、現在の竹島の位置に何の記載もなく、竹島と松島が描かれていることから、太政官は、この二つの島は関係なし、としたにすぎない」と指摘。

  「現在の竹島にも触れていない文書を論拠とし、『ほか一島』を現在の竹島とする韓国側の主張には根拠はない」と、韓国側の文献解釈との問題点を明らかにした。<引用おわり

++   1867年の勝海舟の沿海図においてもリヤンコ島があり、わしも明治初期の地図では3島あり、それが当時の認識ではないかとそのように考えていましたよ、だから太政官は竹島(幻のアルゴノート島)、松島(鬱陵島、ダジュレイ島)と認識していたのでしょう、そして1880年の軍艦天城の調査により竹島(幻のアルゴノート島)は存在しない事がはっきりとしました。

「竹島」は

投稿者: mac38ll645 投稿日時: 2006/12/15 21:37 投稿番号: [8239 / 9207]
日本の領土だ!

朝鮮人は変な妄想をするな!

Re: 安龍福の供述は信用出来ませんね

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/15 10:10 投稿番号: [8238 / 9207]
まったくです。

もうむちゃくちゃでんがなってレベルですね。
于山島に対する供述も二転三転。

太閤の書き付けは対馬藩にとられたといいながら、再度の来訪の時はその写しなどというものを出している。
しかし、本国ではそんなものは出してない。
めちゃくちゃです。

安龍福の供述は信用出来ませんね

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 20:29 投稿番号: [8237 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べには、次のような供述を残している。安龍福は于山島には「終(つい)に参りたる事はこれ無く」と述べ、于山島
に上陸したことはないとしました。一方で安龍福は隠岐島へは 1693年に連行されて上陸
したことが記録されているので、やはり隠岐島は于山島でなかったことになります。<引用おわり
安龍福は、于山島に行ったとも言っています。
鬱陵島で日本人を退治して、「翌暁」于山島にのりこんで日本人を退治したそうです。
つまり、獨島に一晩でついたということ。ありえん。<引用おわり

++安は于山島には行ってはいないと対馬藩に供述し、朝鮮本国の取調べでは于山島に行ったと供述しております、安の供述は信用出来ませんね、

まんまと 江戸幕府をだました朝鮮側

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 14:32 投稿番号: [8236 / 9207]
1454年 朝鮮・「世宗実録地理志」を編さん
1481年 朝鮮・「東国輿地勝覧」を編さん

東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。
また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです<引用おわり

++   東國輿地勝覧を提出して半島から歴々と鬱陵島の木や渚まで見えると主張して、江戸幕府をまんまとだました朝鮮側、半島から鬱陵島の木や、なぎさなんか逆立ちしても見えないだろうよ、鬱陵島と近傍の島の間で歴々と見えたのですね、つまり鬱陵島とう山島(竹嶼)の間で歴々と木となぎさが望み見えたのです、朝鮮人とは、なんとづるがしこい民族なんでしょうか、朝鮮政府からにしてだ、

まんまと 

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 14:20 投稿番号: [8235 / 9207]
1454年 朝鮮・「世宗実録地理志」を編さん
1481年 朝鮮・「東国輿地勝覧」を編さん

東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。
また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです


東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。

また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです

東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。

また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです

++   東國輿地勝覧を提出して半島から歴々と鬱陵島の木や渚まで見えると主張して、江戸幕府をまんまとだました朝鮮側、半島から鬱陵島の木や、なぎさなんか逆立ちしても見えないだろうよ、鬱陵島と近傍の島の間で歴々と見えたのですね、つまり鬱陵島とう山島(竹嶼)の間で歴々と木となぎさが望み見えたのです、朝鮮人とは、なんとづるがしこい民族ですね、

Re: 歴史的な土地

投稿者: yy6544 投稿日時: 2006/12/14 13:35 投稿番号: [8233 / 9207]
kim_taek_joo>
そして朝鮮半島に対する軍事的占領状態を継続しながら、国権をはく奪し植民地支配権を確保しました>朝鮮側からの要請もあり、双方合意で併合。文句を言われるいわれ無し。

いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです>竹島が日本領土だとする最大の法的根拠は、サンフランシスコ条約にあります。
韓国は日韓基本条約においてサンフランシスコ条約の内容を踏襲した上で日本と条約を結んでいますから、これを遵守する義務があります。
全く関係の無い飛躍と誹謗、慎むが良いでしょう。

また過去に日本が起こした侵略戦争と虐殺>日本は大韓帝国に対して戦争を起こした事はありません。

40年間にわたる収奪と拷問、投獄、強制徴用>日本は日本本土が不景気になるほど朝鮮半島に投資しました。一方的な収奪があったのならば、このような事実は無いはずです。
強制徴用の事実はありません。韓国では現在も徴兵がありますが、それも強制徴用などに当たるのでしょうか?
そして朝鮮では志願兵が大部分で、当初定めた志願兵の募集数の3倍が集まった。

慰安婦まで動員し>日本軍が慰安婦を動員した事実はありません。
慰安婦を集め、売春業としていたのは民間です。
韓国政府の慰安婦紹介のHPにも、民間が慰安婦を募集する為に打った新聞広告が掲載されています。これは自爆でありましたが。

その犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為>以上に対して「犯罪」はありません。
犯罪であるならば、違反する法を挙げるが正当でしょう。

わが国民にとって、独島は完全な主権回復の象徴です>上記の記述より、条約を反故して武力占領した島が主権回復の象徴と言うならば、韓国こそが軍国主義国家であり、法を解せぬ後進国家であると断言せざるを得ません。

靖国神社参拝、歴史教科書問題、あわせて歴史に対する日本の認識、そして未来の韓日関係と東アジアの平和に対する日本の意思を見極める試金石です>他国の認識を自国の認識と比較し糾弾するのは愚行。
アメリカ独立戦争はアメリカにとっては独立の為の聖戦であるが、イギリスにとっては植民地の反乱である。
そうした一方の認識を相手に押し付ける行為は通常有り得ない。
認識と史実を混同させ、他国の価値観や立場を強制的に否定しようとする蛮行愚行であると断言出来る。

日本が誤った歴史を美化し、それに基づいて権利を主張する限り、韓日間の友好関係は決して成立しません>君達が認識と歴史を混同し、自らに都合の良い「認識」を押し付けようとする限り友好などは不可能。
そもそも友好とは「お互いの歩み寄り」が不可欠である。
君のように、一方的に自らの主張を押し付けようとする行為は、その前提に反する。
よって君には友好を語る資格は無い。

日本がこれらの問題に執着する限り、われわれは韓日間の未来と東アジアの平和に関する日本のどのような修辞も信じることができません>君の投稿を見る以上、執着しているのは君達であると断言出来る。

韓日間にはまた排他的経済水域の境界が画定できずにいます。これは日本が独島を自国領土と主張し、その上で独島基点にこだわっているためです>竹島は日本の領土である。
ラスク書簡とサンフランシスコ条約1章・2章を100回読むと良いでしょう。

Re: ウソ ダマシ 平気のへっちゃらの朝鮮

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/14 13:03 投稿番号: [8232 / 9207]
こんにちは、「相去ること」は半島と島の間についても普通につかわれますので、相だけで二島関係と説明するのは間違いです。
しかし、東國輿地勝覧では、木や渚まで見えると言うのですから、鬱陵島と近傍の島の関係以外にないです。

また世宗実録と東國輿地勝覧の編者は同一で、しかもその間に探検が行われてますので、東國輿地勝覧が決定版というべきです。

ウソ ダマシ 平気のへっちゃらの朝鮮

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 12:53 投稿番号: [8231 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

この記述は『世宗実録』地理志にある記述「二島、相去ること遠くなく、天候が清明
なら、すなわち望み見ることができる」を実証するものにほかなりません。<引用おわり

++ 東国輿地勝覧(1481年)記載の「歴々と見える」を1696年、竹島一件の時、朝鮮政府は半島本土から鬱陵島を望み見る事が出来ると主張したのです、だから世宗実録においても「二島相去ること遠くなく、天候が清明なら、すなわち望み見ることができる」の解釈は二島はお互い近くにあり、天気がよければ、半島本土から二島を望み見ることができると解釈する方が自然で妥当ですね、事大主義でこんにち迄、必死で生き延びてきた朝鮮はウソやダマシ、捏造なんか平気のへっちゃらで、それに   ひっかかる方がバカバカなんだといいたいのでしょう。

Re: 于山島=竹嶼で決まりでしょうか

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/14 10:19 投稿番号: [8230 / 9207]
どの島であるかについて、推理の余地があることですでに証拠としてはほとんど無価値ですね。

安龍福は、于山島に行ったとも言っています。
鬱陵島で日本人を退治して、「翌暁」于山島にのりこんで日本人を退治したそうです。
つまり、獨島に一晩でついたということ。ありえん。

退治した証拠は皆無です。
官吏を詐称するわ、酒を要求してさわぐわ、存在しない太閤が書き付けをくれただの、江戸に居た対馬藩主と会っただの、もうウソの付き放題。
安龍福の証言はすべて無価値です。

韓国側の主張を聞いてるとだんだん悲しくなります。
証拠にするのは、嘘つきとか犯罪者の話、でなけりゃ日本がわにたよる。
自国の証拠は、地図の縮尺は信用できない、
石島が正規の名前だがみな誤字を当て字を使ってた。

ご先祖様の言うことなんか信用できないという主張を必死でされても、
聞いてるほうが悲しくなりますね。

この問題に首をつっこんで、日韓の格差というものがいかに大きなものかよくわかりました。

于山島=竹嶼で決まりでしょうか

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/14 00:48 投稿番号: [8229 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べに安龍福は、次のような供述を残している。

   この度 参候(まいりそうろう)島より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗
留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候
通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法 一日路余もこれ有るべく候。

++   鬱陵島から安は二度于山島を見たがその島には行かなかったと述べている、海長竹田所謂于山島と後年記事があるが、現竹島には竹は無い、安が見た于山島は少なくとも現竹島ではない事に成ります、竹が一面に生えている島とは竹嶼しかありませんね、于山島=竹嶼で決まりでしょうか。

歴史的な土地

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/13 07:33 投稿番号: [8228 / 9207]
  日本は日露戦争を口実に韓国に軍隊を上陸させ、朝鮮半島を占領しました。軍隊を動員し、宮廷を包囲し、皇室と政府を脅迫し、韓日議定書を強制的に締結し、土地と韓国人を思うままに徴発し、軍事施設を設置しました。わが国土で一方的に軍政を実施し、後には財政権と外交権すらはく奪し、われわれの主権を蹂躙しました。 日本はこうした中で独島を自国領土に編入し、防塁と電線を架設し、戦争に利用したのです。そして朝鮮半島に対する軍事的占領状態を継続しながら、国権をはく奪し植民地支配権を確保しました。

  いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです。これは韓国の完全な解放と独立を否定する行為です。また過去に日本が起こした侵略戦争と虐殺、40年間にわたる収奪と拷問、投獄、強制徴用、はなはだしくは慰安婦まで動員しその犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為です。われわれは決してこれを認めることはできません。わが国民にとって、独島は完全な主権回復の象徴です。靖国神社参拝、歴史教科書問題、あわせて歴史に対する日本の認識、そして未来の韓日関係と東アジアの平和に対する日本の意思を見極める試金石です。

  日本が誤った歴史を美化し、それに基づいて権利を主張する限り、韓日間の友好関係は決して成立しません。日本がこれらの問題に執着する限り、われわれは韓日間の未来と東アジアの平和に関する日本のどのような修辞も信じることができません。どのような経済的な利害関係も、文化的交流も、この壁を溶かすことはできないでしょう。 韓日間にはまた排他的経済水域の境界が画定できずにいます。これは日本が独島を自国領土と主張し、その上で独島基点にこだわっているためです。

Re: 東五里小島の島名も知らなかった張漢相

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/12 12:57 投稿番号: [8227 / 9207]
これが、ほとんど唯一の獨島と言える記録ですが、これを倭の松島とか于山島とか、想像もしてないところが決定的ですね。

当時の地図はいい加減なのではなくて、東國輿地勝覧等を素直に読めば当然の書き方です。
獨島を見ても倭の松島とか于山島かと想像もしないのも当然です。

東五里小島の島名も知らなかった張漢相

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/11 23:31 投稿番号: [8226 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html

朝鮮政府は「竹島一件」の反省から僉使(せんし)張漢相を鬱陵島調査に派遣するな
ど空島政策の見直しに乗りだしました。僉使とは各鎮台に属した従三品の武官職をさしま
す。一行は鬱陵島で綿密な調査をしたようですが、その過程で竹島=独島を望見すること
ができたようでした。張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

   東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。
   西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島
がみえるが、はるかに辰方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里に過ぎない。<引用おわり

+++   1694年の張漢相調査団による鬱陵島調査で東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生していると張漢相団長は述べている、張団長はこの小島の名前を知らないのだ、これは当然東2km先の小島は竹嶼ですね、ましてや、はるか92Kmの「松島」の名前なんて知るよしもないだろう。
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