★「竹島」は日本固有の領土です

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日本人の理性に訴えます

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/10 18:00 投稿番号: [8225 / 9207]
  「竹島の日」に指定された2月22日は、100年前に日本が独島を自国の領土として強制編入したまさにその日である。日本のこのような行為は、わが民族の解放の歴史を否認して、過去の侵奪行為を正当化しようとするものではないのかという疑念をかきたてている。独島は国権喪失の時代に、わが国の領土の中でも最初に日本によって不法に編入され、1945年、解放によって取り戻されたわが国の土地であるからである。

  6世紀以来わが国の領土であった独島が、日本によって強制編入された歴史的経過を振り返るならば、この問題の本質が単なる韓日間の領有権の次元を超えて大韓民国の主権回復と直結した問題であるということを明白に知ることができる。1904年1月に勃発した露日戦争は、日本の韓半島侵略と大陸進出のための戦争であった。日本はソウルに軍隊を駐屯させて、事実上の朝鮮併呑に着手した。 同年2月、軍事的必要から朝鮮の土地を任意に収用できるようにした「韓日議定書」が締結された。

  3月には軍用物資の輸送のために京義線を着工し、6月には西海岸の漁業資源採取権を強奪したのみならず、全国の未開墾地の占有を要求した。また8月には「韓日協定書」を締結して、日本が指名した外国人顧問が朝鮮の財政と外交を監督するという「顧問政治」を実施した。1904年5月、日本はロシア極東艦隊の南下を牽制するために、高宗皇帝を脅迫してロシアから鬱陵島の山林採伐権を剥奪し、9月には鬱陵島の一部を軍用地として強制収用して防塁を設置した。引き続き日本は鬱陵島の属島である独島の編入に乗り出した。

  日本の独島侵奪は、何よりもロシアを牽制するための軍事戦略的計算によって周到綿密に進められた。1904年9月、軍艦新高丸が独島を探聞調査し、同年11月には軍艦対馬丸が上陸して防塁設置の可能性を確認して上部に報告した。このような過程を経て、日本は漁民の請願という欺瞞的な形式により1905年1月28日、内閣会議で独島編入を決定し、同年2月22日、島根県告示によって自国領に強制編入したのである。日本は同年8月には独島に防塁を設置し、10月と11月には海底電線を敷設する等、独島の戦略的価値を徹底利用した。

  このように、独島は日本の韓半島侵略過程において最初に強制占有されたわが国の領土であった。そしてそれは1904年の韓日議定書、1905年の乙巳?約(日韓保護協約)、そして1910年の韓日合邦等、一連の国権侵奪史の延長線上にあった。したがってわが国にとって独島は、単なる領有権問題の次元を超えた歴史的な土地である。

ハングルで読めるぞ!海長竹田所謂于山島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/10 16:42 投稿番号: [8224 / 9207]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=5&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14547

さらに與地図の解説で興味深い記述を発見しました。機械翻訳にかけると以下のとうり。
右側にある 于山島は多くの人によって現在の 独島に認識されたりするが明らかではない.
鬱陵島本島周りにある小さな島の中で最大の観音島や竹島(チュクドのこと)を示すこともできるからだ
この文章をかいたのは李棋峰という人ですが、韓国にも良心的な学者さんがいらっしゃるようです。<引用おわり

上記URLで海長竹田所謂于山島、ハングルでよめます
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GZD/GZD_JIMYUNGS.jsp?setid=231437&pos=4&pt ype=class&subtype=yj&lclass=02&mclass=06&sclass=GM33496IL0006_10 4.jpg

于山島の部分に 『海長竹田所謂于山島』

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/10 16:14 投稿番号: [8222 / 9207]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=5&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14547

鬱陵島圖形 という名前の古地図の解説で、于山島の部分に『海長竹田所謂于山島』と書かれているのを発見しました。
どうやら于山島には竹が沢山生えているようですが、竹島(韓国名独島)に一本の竹も生えていないのは周知の事実であり、
この于山島はチュクド(韓国名竹島)で間違いないでしょう<引用おわり

東国文献備考(1770年)に「松島竹島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/09 15:57 投稿番号: [8221 / 9207]
1562年、籌海図編に「竹島」表示、
鬱陵島日本完全実効支配1616〜1696年   80年間
空島政策、1417〜1882年(朝鮮国鬱陵島放棄)
興地志(1656年)
東国文献備考(1770年)に「松竹島」
東国輿地勝覧(1481年)
「新増東国興地勝覧」1531年

++   朝鮮では東国文献備考(1770年)に初めて松島竹島の名が出てくる、つまり興地志(1656年)にも記載があると仮定するならば、松島呼称はこのあたりから出たと思われます、この1656年以前は、竹嶼は日本人達には無名島だったらしいのですね、ここで   うう〜むだ、安は言う、倭がいう松島は
朝鮮のう山島だ、安は日本人漁師にリアルタイムにすぐさま反応し、断定したのだ、なぜだろうか、考えるに、日本人漁師は近くに見える竹嶼の方をうしろ指を指して元松島に住んでいたといったのか?、これに安はあれは我が国のう山島(竹嶼)ですと答えたのでしょう、これなら整合性がありますね。

松島竹島芋山を鬱陵島と称し東国文献備考

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/09 14:16 投稿番号: [8220 / 9207]
http://pksp.jp/sakakiddsu/novel.cgi?m=3&o=3&ss=&secsn=1&pgsn=12&ps=
[1-11]竹島問題   7
そして鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、
3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、
日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。
この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、
併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。李奎遠が鬱陵島に赴くのが1882年4月。そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗は、彼に対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」と下問している。
この高宗の質問に対して李奎遠は「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古(いにしえ)の国都の名なり」とし、
「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」と、答えている。『成宗実録』1年8月条に記された、
「鬱陵島の傍らに小島あり」の小島と同じく、何れも鬱陵島より東に2Km程度離れた現在の鬱陵郡蔚陵邑道洞里竹島のことで、今の竹島とは全く関係が無いのである。
『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、松島、竹島、芋山島の三島を鬱陵島と称したのは『東国文献備考』に基づく知識だったからである。
その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、
松竹島(現道洞里竹島)以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。
この高宗と李奎遠の鬱陵島に対する認識の差は、『東国文献備考』の記述を通じて鬱陵島周辺の地理を認識していた高宗と、実際の鬱陵島の様子を伝聞し、現実的な鬱陵島像を確立していた者との違いといえる。<引用終わり

++   『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、1770年の『東国文献備考』に基づく知識だったからである、つまり1882年の高宗王は書籍を勘違いしていたのですね、どうやら朝鮮による「松島」呼称は安の供述かららしい事がこれでやや見えてきたな。

Re: ★「竹島」は日本固有の領土です

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/08 18:31 投稿番号: [8219 / 9207]
韓国世界平和維持軍より重要なお知らせ |
     \                     |
   _____ヽ( '-')    ________|
           (    )>(Д゚; )
( ;`Д)         ノ ヽ    (    )ヽ
(   )ヽ             <   ヽ
ノ t



ε≡()__\   /|| ̄ ̄||
    \\/   \( ´ー`)__     第二次対戦終結後我々が管理しています。
      \)) @  ̄ ̄ ̄ヽ韓国軍ヽ
      |_______|___   |
      (◎◎◎◎◎◎◎)≡) )≡)
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  ■   所有権時効

≪平穏で実効的な支配を続くことであり、このような実効的な支配が長期間続く場合、独島の領有権に対した異議提起は消えるはずです。≫

  http://www.momaf.go.kr/japan_2003/issue/issue_2.html#

  上記見解を分析しますと、独島は大韓民国が独立後ずっと平穏で実効的な支配が続いているので、大韓民国の領土になっていると言うことです。

  早い話が、日本の法律の所有権時効と同じ考え方ですね。

  戦後ずっと偉大な大韓民国が穏便で実用的な支配を続けてきました。

   *決定

   ≪所有権時効で大韓民国の領土≫

(ノ゜O゜)ノ近辺での漁を禁止する。


  日本の漁船は独島近辺での漁を禁止する。独島は偉大な大韓民国の領土である。もし操業したいのであれば、大韓民国政府に頭を下げて頼み、ちゃんとお金を払ってからやりなさい。近辺は偉大な大韓民国世界平和維持軍が管理しています。

張漢相曰く、東側5里(2km)ほどに小島あり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 15:59 投稿番号: [8218 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm070.html#No.468
朝鮮王朝の竹島(独島)記録 hangetsu_johYahoo!掲示板 2000年5月3日
ホーム > 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:竹島問題を考える。

『鬱陵島事績』
   竹島一件をきっかけに朝鮮では鬱陵島の備禦策が問題になり、調査官・張
漢相が派遣されました。このとき張が竹島(独島)を確認していることは注目
にあたいします。張は『鬱陵島事績』にこう記しました。

(鬱陵島)東側5里(2km)ほどに一つの小さな島がある・・・山に入って
中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三峯という。西側を眺めると大関嶺のくねくねした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島が見えるがはるかに辰(たつ)方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里(120km)に過ぎない<引用おわり

++   張漢相曰く(鬱陵島)東側5里(2km)ほどに一つの小さな島がある・・山に入って中峰に登ると・・とここで半月城氏は、なぜか、「高大ではなく海長竹が一面に叢生している、雨が晴れ霧の深い日」という重要な部分を省いています、つまり鬱陵島東側5里(2km)の海長竹が一面に叢生している島と言えば竹嶼があります、それ以外の島はありませんね、ズバリそれは「竹嶼」です、

1694年張漢相150名騎船二隻汲水船四隻

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 14:21 投稿番号: [8217 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.657
朝鮮の「竹島一件」対応 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2375
02/09/22

日本との鬱陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こ
したようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王
行]の上疏がそうしたものであった。
   彼は、鬱陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく
見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、
ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべき
であると主張した。
   必然的に、政府でも問題になっていた鬱陵島備禦策について関心を持ち始
めていた。領議政(総理格、半月城注)の南九万が、三陟僉使を鬱陵島に派遣、
生活状態を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきと
する建議をしたのがそれである。
   南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年
(1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官)
の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。
   張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日のあいだで滞留して、
鬱陵島から10月6日三陟へ戻った。張漢相の鬱陵島審察については『粛宗実
録』にも記録されているが、「鬱陵島事績」により詳しく記されている。
   張漢相は鬱陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政
府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、
海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植
えてきたこと等であった。<引用おわり

海長竹が一面に叢生している東側五里小島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/08 13:33 投稿番号: [8216 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/half-moon2005.html
半月城の論文   竹島=独島は日本の「固有領土」か?『飛礫』47号、つぶて書房、2005夏号

朝鮮政府は「竹島一件」の反省から僉使(せんし)張漢相を鬱陵島調査に派遣するな
ど空島政策の見直しに乗りだしました。僉使とは各鎮台に属した従三品の武官職をさしま
す。一行は鬱陵島で綿密な調査をしたようですが、その過程で竹島=独島を望見すること
ができたようでした。張漢相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。

   東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。
雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向か
い合っているがこれを三峰という。
   西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島
がみえるが、はるかに辰方に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三
百余里に過ぎない。

   張は、辰方(東南東)にある島までの距離を三百余(朝鮮)里、百二十キロメートル
としましたが、鬱陵島と竹島=独島間の実際の距離は九十二キロです。ちなみにその距離
は、後述の島根県伺書では四十里、百六十キロとされました。当時の水準で「鬱陵島事
績」の距離感はむしろ当っているほうでした。
   一方、島の大きさは鬱陵島の三分の一未満と書かれていますが、実際は三百分の一な
ので、張漢相は竹島=独島をかなり大きく見ていたことになります。島の大きさは違って
も、東南東の方向というと竹島=独島しかないので「鬱陵島事績」に記された島が竹島=
独島であることはまちがいないようです。<引用おわり

++   雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると、つまり霧が立ち込めている中で島が見えた、これでは竹嶼が見えても距離感も大きさも判断できません、ましてリヤンコ島なんかは霧の中では絶対みえませんよ、ここで100歩ゆづっても、張漢相調査団がリヤンコ島を望見出来ても、島に上陸して調査もしてはいないので領有根拠にはなりませんね、

『海長竹田所謂于山島』

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/07 22:41 投稿番号: [8215 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%98%B0%8ER%93%87/
818 藪太郎 2006/06/01(木)
鬱陵島圖形 という名前の古地図の解説で、于山島の部分に『海長竹田所謂于山島』と書かれているのを発見しました。
どうやら于山島には竹が沢山生えているようですが、竹島(韓国名独島)に一本の竹も生えていないのは周知の事実であり、
この于山島はチュクト(韓国名竹島)で間違いないでしょう。<引用おわり

1793年松島はおそらく昔の于山国であり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/07 21:59 投稿番号: [8214 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%98%B0%8ER%93%87/

816 藪太郎 2006/06/01(木)
1793年に朝鮮国王にたいして家臣が『鬱陵島の外側にある松島(竹島の旧名)はおそらく昔の于山国であり、
今もし松島に石碑をたてればこの島をわが国の物にすることができます』と語っている文献を発見しました。
松島は于山島であるとは書いていないのでこの『松島』が本物の竹島なのかチュクト・観音島を指しているのかはよくわかりません。
竹島に大勢の人が住むことは不可能であり于山国であるという推定は勘違いでしょう。
実際に竹島に石碑をたてたという記録は見つかりませんでした。
どうやら国王は聞き流してしまったようです、<引用おわり

1807年于山島が鬱陵島の北に,王に報告

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/07 21:42 投稿番号: [8213 / 9207]
http://mywiki.jp/seven/%8E%91%97%BF%83y%81%5B%83W/%98%B0%8ER%93%87/
796
藪太郎 2006/06/01(木)
ソウル大学の古文書データべースのHPで『于山島が鬱陵島の北に ある』と書かれている文献を発見しました。
この文献は1807年5月12日に朝鮮の役人が鬱陵島を調査した結果を国王に報告した時のものです。
于山島が鬱陵島の北に あると書かれており、鬱陵島の東南に位置している竹島(独島)とは別の島であるのは明らかです。
この于山島はおそらく鬱陵島の東北に位置しているチュクト(竹嶼・韓国名竹島)または観音島でしょう。

Re: 日本のエゴで冷え込む韓日関係

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/07 14:15 投稿番号: [8212 / 9207]
>こんにち、日本の反動層が「サンフランシスコ対日単独講和条約」(1951年9月8日)で独島が日本の領土放棄部門から落ちていることを持って国際社会界が独島の日本領有権を認めたものであると主張するのはそれこそ言語道断である。

それが結論なんだからしょうがないでしょう。
起訴されたときの罪状じゃなくて有罪が確定したときの罪状が問題でしょうが。
獨島は、たまたまでなくて、検討したうえで除外されたのですから立派な結論です。

アメリカは、1905年以前に朝鮮領だった時期があるらしいが、それでも結論は変らないとしています。

竹嶼の面積は6万坪 15家農業可能

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/06 23:00 投稿番号: [8211 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/utsuislet.html

竹嶼

要約
慶尚北道鬱陵邑北面( 北 面)に属した島.
位置 慶北鬱陵邑北面
面積 20万 7869㎡
人口 1世帯 4人
本文

面積は 20万 7869㎡,海抜高度は 106mだ.
島まわりに沿って回るプロムナードは約 4㎞ 長さだ.
鬱陵島付属島 44個(有人島 4,無人島 40) 中最大の島で,
竹がたくさん自生して大島・竹島・デッソムとも言う.

苧洞港で北東方へ 4㎞,道洞港まで 7㎞ 落ちた海上に位置づいている.
垂直に近い絶壁の上に平たく水平を成しながら直方体模様を現わして,絶壁はさまざまな形態の奇岩怪石たちで成り立っている.

1993 年観光開発事業に取り掛かって船場を確張して,唯一の進入路である螺旋形進入路(でんでんむし階段)を開設したが,螺旋形につながった階段の数は 364個にのぼる.

島の中には丸太椅子などを造成した憩い場 2ヶ所と見晴らし台 2ヶ所,キャンプ場,ピクニック場,ヘリ場,郷土飲食店,釣り場など便宜施設が揃っている.
また見晴らし台では景観がずば抜けた鬱陵島北東尾根と絶壁,観音島,三仙岩を見られる.

特産物では甘口がたくさんするすいかと蔓人参,鬱陵島でばかり飛ぶサンマヌル(人が)と初志で放生して育てた弱小の肉がある.
サルリムジムと食堂を兼ねる唯一の家具の家族 4人が居住しているし,水がなくて雨水を集めて飲み水で使う.船便は定期旅客船が道洞港で 5回運航されて,20分必要となる. <引用おわり

++   竹嶼の面積は 20万 7869㎡(6万坪)ですが、かなり広いですね、大宗実録に出てくる15家、86人位は農業可能ですね、

Re: 日本のエゴで冷え込む韓日関係

投稿者: canyontrue 投稿日時: 2006/12/05 22:04 投稿番号: [8210 / 9207]
韓国にクローン人間は何人いるんだ?

日本のエゴで冷え込む韓日関係

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/05 22:01 投稿番号: [8209 / 9207]
チョクパリ (゚Д`(○=(`Д´)
         ノ( ノ   )   (ウリ)
           >ノ   <   ヽ
  国際協約も「朝鮮領土」

  「島根県告示」が不法、無効の偽り文書であるというのは、戦後、日本の領土処理を規定した「カイロ宣言」(1943年12月1日)と「ポツダム宣言」(1945月7月26日)など、国際協約で独島を日本が放棄すべき対象と規定し、朝鮮の領土にしたことからも良くわかる。

  こんにち、日本の反動層が「サンフランシスコ対日単独講和条約」(1951年9月8日)で独島が日本の領土放棄部門から落ちていることを持って国際社会界が独島の日本領有権を認めたものであると主張するのはそれこそ言語道断である。

  独島問題は領土紛争の問題ではない。歴史的にも国際法的にも朝鮮の独島領有権には疑いの余地さえなく、未解明問題など何もない。



  右傾化、軍国化に利用

  日本が「独島領有権」主張を通じて狙う目的は、独島水域の豊かな水産資源と無尽蔵な海底資源を掌握して経済的利権を独占し、ひいては自国の領土野望、再侵略の企図を実現するための前哨基地、軍事的橋頭堡をもたらすところにある。

  軍国主義の野望に浮ついた日本の反動層は、海外侵略の第1の対象としてわが国に目星をつけており、朝鮮を足場にして大陸へ進出してまたもやアジアを制覇しようと夢見ている。

  過去、植民地支配の犯罪的歴史に対するわい曲と執ような過去の清算の拒否などに上塗りされたこの破廉恥な「独島領有権」の主張も、再侵略の野望を実現するための挑発行為であり、朝鮮民族の尊厳と主権に対する重大な侵害行為である。

  日本の反動層はこのため、独島問題を持って日本人民と育ちゆく次代に朝鮮民族べっ視と大和民族の「優越感」、軍国主義の思想を吹き込み、日本の右傾化、軍国化に効果的に利用しようとしている。

  日本の反動層は、時代錯誤の妄想から脱して破廉恥な「独島領有権」主張と「竹島(独島)の日」制定条例案を直ちに撤回すべきであり、日帝の敗北60年になる今年に必ず罪悪の過去100年史を総決算しようとする朝鮮民族の確固たる意志をはっきり認識し、軽挙妄動してはならないであろう。(朝鮮通信)

ε≡()__\   /|| ̄ ̄||
    \\/   \( ´ー`)__
      \)) @  ̄ ̄ ̄ヽ韓国軍ヽ
      |_______|___   |
      (◎◎◎◎◎◎◎)≡) )≡)
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  日本の漁船は独島近辺での漁を禁止する。独島は偉大な大韓民国の領土である。もし操業したいのであれば、大韓民国政府に頭を下げて頼み、ちゃんとお金を払ってからやりなさい。近辺は偉大な大韓民国世界平和維持軍が管理しています。

     (`Д´)
   ノ(   )ヽ       <   悪徳チョクパリを退治
     ノ >
   ('Д' )− )=

決定的期日(実効的支配の要件)1952

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/05 20:04 投稿番号: [8208 / 9207]
<決定的期日(実効的支配の要件)>
実効的支配は「平和的・継続的」であることが要件である。よって、紛争発生以降の
占有は実効的支配の証拠にはならない。紛争発生日は決定的期日(critical date)
として設定される。

<竹島紛争における決定的期日(critical date)>
両国とも、それぞれの主張を支持するために法律的理由、国際法に基づく理由を援用
しており、かくて竹島の領土主権に関し、両国間に「法律的見解の矛盾、対立が存在
していることは明らかである。決定的期日は、最初に紛争が発生した「海洋主権宣言」
の1952年1月18日に設定される。よって、それ以降の韓国の占有は領域権原の根拠と
はならない。   <引用おわり

大宗実録(1417年)の小島に15家族が

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/05 17:48 投稿番号: [8207 / 9207]
大宗実録の17年(1417年)丁酉二月壬戌条の于山島

按撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検撲(木業)木等物、且率居人三名、以来、其島戸凡十五口男女併八十六、麟雨之往還也、再逢風具風、僅得其生

按撫使金麟雨   于山島より還り、土産の大竹・水牛皮(多分、アシカの皮)・牛苧・綿子・検撲木等の物を献ず、中略、その島の戸、凡そ十五口、男女併せて八十六


この記事では、按撫使金麟雨の復命記事であり、金麟雨は、鬱陵島ではなく、于山島から戻った事になっている

その島には「凡そ十五口、男女併せて八十六」人が住み、大竹や苧麻が自生していた。
したがって、この大宗実録の記事にある于山島は、勿論、現在の竹島(独島)ではない。
岩島の竹島(独島)には、86人もの人は住めない。
そして大竹や苧麻も生えることもない。

++この小島には15家族、86人が住んでいた、

大宗実録(1416年)の傍有小島とは

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/05 17:30 投稿番号: [8206 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/taisyu.html
大宗実録の十六年(1416年)丙申九月庚寅条↓、

十六年九月庚寅   以金麟雨為武陵等処按撫使   戸曹参判朴習啓   臣嘗為江原道都観察使   聞武陵島周回七息   傍有小島   其田可五十余結   所入之路   □通一人   不可並行   昔有方之用者   率十五家入居   或時   仮倭為寇   知其島者   在三陟   請使之往見   上可之   乃召三陟人前万戸金麟雨   間武陵島事   金麟雨   三陟人李万嘗往武陵而還    詳知其島之事   即召李万   麟雨又啓    武陵島遙在海中   人不相通   故避軍役者   或逃入焉   若此島多接人   即倭終必入寇   因此而侵於江原道矣   上燃之   以麟雨為武陵等処安撫使   以万為伴人   給兵船二隻・抄工二名・引海二名・火□火薬及糧   往其島   論其頭目人   以来   賜麟雨及万

肝心な部分を抜き出すと

武陵島周回七息   傍有小島   其田可五十余結
所入之路   通一人   不可並行
昔有方之用者   率十五家入居
或時   倭寇を騙り(仮倭)   寇為(中略)
召三陟人前万戸金麟雨   問武陵島事麟雨


武陵島(=鬱陵島)周回七息。傍らに小島有り、その田五十余結ばかり。
入所の路わずかに一人を通じて並行すべからず。
昔、これに方たりて(わたりて)用いる者有り、十五家を率いて入居す。
或る時、倭を仮り、寇を為す
(中略)
三陟の人、前の万戸金麟雨を召し、麟雨を以て武陵等処の安撫使と為す

+++武陵島(=鬱陵島)周回七息。傍らに小島有り、その田五十余結ばかり。入所の路わずかに一人を通じて並行すべからず。
昔、これに方たりて(わたりて)用いる者有り、十五家を率いて入居す。
或る時、倭を仮り、寇を為す、少なくともここに出てくる小島はリヤンコ島ではありえませんね、

アリバイがない。

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/05 15:15 投稿番号: [8205 / 9207]
于山島が獨島だとか、勅令の石島が獨島だとかいう説はいまのところさかのぼっても終戦前後までしかさかのぼれません。

それらの説が事実であるなら、日本の編入に反対した当時の世論に必ずでるはずです。しかし、みつかってない。

勅令は日本に対抗するために出したものだから、これをたてにとらないということは、ありえません。
つまり、韓国側の説にはアリバイが決定的に不足してます。
苦し紛れの後付としか言えませんね。

Re: 歴々を韓国は都合によって使い分けてい

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/05 15:09 投稿番号: [8204 / 9207]
>韓国にはこの様に解釈する学者なり研究者は一人もいないのですかね、そうなると部外者の第三者にも判断してもらう必要ありますね

19世紀まではほぼ全員がそう考えていたのでしょうね。
じゃなきゃどんな地図にも鬱陵島直近に于山島を書き込むわけないですし、素直によめばそれ以外にないですから。

この問題は資料をつかった戦争なんですよ。彼らにとっては。
われわれは興味本位で終わる人も多いでしょうけど。
だから、勝てりゃなんでもいいんです。
勝てなくてもとりあえず玉撃ってれば、いいんです。

世宗実録地理志と東国輿地勝覧検討必要

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/05 12:27 投稿番号: [8203 / 9207]
http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=107050145

  ポイント
◆世宗実録地理志や東国輿地勝覧の記述を基にした、日韓両国による「鬱陵島から現在の竹島が見えるか、見えないか」の論争には意味がない

◆「望み見るべし」「歴歴見るべし」との記述は本来、「朝鮮半島から鬱陵島が見える」との意味で、かつて朝鮮政府も、そう解釈していた

◆当時の朝鮮政府の地誌は、「規式」という基準に沿って編さんされており、島の位置関係は陸地からの距離を明記することが常識だった

++   世宗実録地理志と東国輿地勝覧の記載内容を検討する必要がありますね、韓国のリヤンコ島領有主張の大きな根拠の一つらしいからなあ、

歴々を韓国は都合によって使い分けている

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/05 11:30 投稿番号: [8202 / 9207]
なるほど大変よくわかりました、韓国は半島から鬱陵島とか、鬱陵島から獨島とかを都合によって使い分けているのですね、つまりここでは距離に関しては半島から鬱陵島と于山島(竹嶼)の事を、お互い歴々と望み見る事できる解釈は鬱陵島から于山島(竹嶼)が、又その逆の于山島(竹嶼)から鬱陵島の事なんですね、韓国にはこの様に解釈する学者なり研究者は一人もいないのですかね、そうなると部外者の第三者にも判断してもらう必要ありますね。

警察大学校所蔵『領土外の行政権停止』

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/04 20:37 投稿番号: [8201 / 9207]
5、6

一月二十九日附 指令に於いて限完されたる日本領土外の地域に関係ある警察機関に関する件

一、竹島

島根県に属し、島根県知事・鈴木幹雄は知事としての警察権を有し、且警察署長を指揮監督するの権限あり。同県警察部長・鈴木菊男は知事の補助機関として知事の命を承け、警察事務を補助し警察署長の指揮監督に任ず。竹島には警察署の設置なく、島根県隠岐島所在・浦郷警察署の管轄区域にあり、同警察署長は同島に対する警察事務を掌理す。

掌理
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%8E%8C%E7%90%86&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=09218500




14
島根県知事宛

一月二十九日附日本政府宛覚書「領土外に対する行政権停止の件」に基き、竹島(鬱陵島、隠岐島の間の小島)は日本領土より除外せられたるに付き。

1、2同文
3 右に関し竹島を管轄する警察署名、及び駐在所の有無、折返し返あれ。

Re: 本土から歴々と望み見る事できるか、現

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/04 10:27 投稿番号: [8199 / 9207]
風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二
日可到。

これは、于山島と鬱陵島の関係以外にないです。
本土から鬱陵島の木は見えません。鬱陵島から獨島も見えません。
渚まで見えると書いてあるのですから。
水面がみえるわけがないです。

それなのに、半島から鬱陵島とか鬱陵島から獨島とか都合によって使い分けているのです。

またこのあとに、二日かかると書いてありますが追い風でも二日かかる島同士では渚も木もみえません。
また、最後に半島からの距離を書くのが当時のフォーマットでありますので、ほかに距離が書いてない
以上は二島の半島からの距離を書いた以外にないです。
距離を書く場合に相去ることという文字が入っている場合があり、相だから二島関係の距離だという説も
ありましたが、半島と島の場合でも相が入ることは珍しくなく、距離がひとつしか書いてない以上は半島
からの距離とみるべきです。

いずれにしても、上記の解釈をしたからこそ、地図の鬱陵島と于山島は接近して書かれていると見れば
なんの不思議もなく、韓国側の資料には獨島は登場していないのです。

公文書館所蔵『小笠原諸島から行政権停止』

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/03 20:17 投稿番号: [8198 / 9207]
皆さん、こんにちは。

沖ノ鳥島問題を研究している田中です。この掲示板で文章起こしをします。

略号至急電報

宛 第一復員省 謄部隊参謀長(父島)
父島電 第100号
本十二月十三日、九時五十分、米国海兵第三師団第一大隊、父島に進駐儀式を行い「ミニッツ」元帥の名に於いて、小笠原諸島を完全占領。同日行政権の停止を声明せり。
http://www.geocities.jp/okino_torishima1/01.jpg
http://www.geocities.jp/okino_torishima1/02.jpg

http://www.tanaka-kunitaka.net/okino-torishima/
(後日転載予定)

next, coming up
1.警察大学校所蔵『領土外に対する行政権停止に関する件』の竹島の文章起こし

安龍福の指摘する「松島」はいづこの松島や

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/03 18:25 投稿番号: [8197 / 9207]
http://uub.jp/nam/matsushima.html

島根県 読み方 所在地 備   考 参照記事
松島 まつしま 安来市    
松島 まつしま 大田市(旧・温泉津町)    
松島 まつしま 松江市(旧・美保関町)    
松島 まつしま 松江市(旧・美保関町) 別名:白島 [31809]
松島 まつしま 松江市(旧・八束町)    
松島 まつしま 松江市(旧・島根町)    
松島 まつしま 浜田市(旧・三隅町)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・布施村)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・布施村・西郷町)    
松島 まつしま 隠岐郡隠岐の島町(旧・都万村)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・西郷町)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・西郷町)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・五箇村)    
松島 まつしま 隠岐郡海士町

++   安龍福が指摘する倭人漁師が住んでいた松島はどこなんだ、少なくとも東経131°52′の松島は人は住めないから除外しなければならないぞ、

中井養三郎は海図で松島朝鮮領と誤認した

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/03 17:20 投稿番号: [8196 / 9207]
奥原秀夫さん宅で見つかった「中井養三郎氏立志伝」。1行目に「海図によれば」の記述がある=松江市岡本町

朝鮮水路誌海図は領有権を示した物ではないのです、韓国は熱くなり過ぎる!

Re: トピが乱れている<丶`д´>

投稿者: alive_romrom 投稿日時: 2006/12/03 11:49 投稿番号: [8195 / 9207]
また来てんのかい?

最近はカウントダウンの方に出没してたけど、やっぱりかまってくれるとこがいいのかな?あっちじゃ完璧スルーだもんね。


>わが国にとって日本が、お金をどんどん運んでくれる都合の良い国になる事を望んでいるニダ。
ああ、↑   これが本音。じゃ、ここでも誰も話は聞かないよ。「金、金、かね」って卑しい話は。

トピが乱れている<丶`д´>

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/03 06:48 投稿番号: [8194 / 9207]
  <丶`д´>独島その他の魚のたくさん獲れる地区の島々は、みんな偉大な大韓民国の領土です。その付近での日本の漁船の進入を禁止する。

  さかなは、偉大な大韓民国から輸入しましょう。自分で漁がしたい時は、偉大な大韓民国に頭を下げて頼み、十分なお金を出して獲らせて貰いましょう。

  日本国民は、偉大な大韓民国に賠償する為と魚を買うために勤勉に働くであろう。偉大な大韓国政府は、わが国にとって日本が、お金をどんどん運んでくれる都合の良い国になる事を望んでいるニダ。

安龍福の「于山」は日本領だった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/02 19:02 投稿番号: [8193 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_02.html

1693年(元禄6年)、またもや朝鮮人が多数上陸して漁をしていたため、その頭目と思われる2名を連れ帰る。1名はアンビシュンという名前だった。宗対馬守は2名を朝鮮政府に引き渡すとともに、『竹島』=「鬱陵島」に朝鮮漁民が侵入することを禁ずる旨を通告した。これに対し朝鮮側は謝罪し、両名を処罰することを伝えてきた。<引用おわり

++   1693年、朝鮮政府は「鬱陵島」に朝鮮漁民が侵入した件に関し日本側に謝罪した、つまり朝鮮側はこの時点では「鬱陵島」日本領土と認めていたのです、ちなみに明清の中国地図でも「竹島」日本領としています、安龍福が「于山」は朝鮮領土だと倭人漁民達にいったそうだが、それはあくまでも個人的な意見ですね、この時点では、まぎれもなく「于山国」は日本領土だったのです、中国も朝鮮も日本もそのように認識していたのです。

禹用鼎報告と勅令41号 石島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 23:57 投稿番号: [8192 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/koujou.html
1899年8月の禹用鼎を団長とした鬱陵島調査団の報告を元にして1900年、勅令41号を発布しました、その中に石島がありますが、韓国はその石島はトクトだと言います、しかし禹用鼎はリヤンコ島(トクト)を調査していない事はわかっています、つまりリヤンコ島(トクト)の存在も確認をせず、調査もしなかった、当然報告書にはリヤンコ島(トクト)の記載はありません、然らば石島はトクトではありえませんね。

そんな馬鹿な!1656年同時だなんて

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 21:55 投稿番号: [8191 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/02.html

松島(今の竹島)は米子−鬱陵島の航路上にあるが、ケシ粒のように連なっている岩で、その上、潮流の関係もあって同島が発見されたのは、初航海から二十五年目の一六四三年二代目九右衛門勝実によってである。

1656年 朝鮮・柳馨遠が「輿地志」を編さん
1770年 朝鮮・申景濬らが「東国文献備考・輿地考」を編さん

1643年    新島(松島)発見
1656年    松島初渡航  

  「輿地志」編さんと松島初渡航が同じ1656年です、松島初渡航では
「松島」呼称は日本人の中でもほんの少数しか知らなかった事でしょうに、
それなのに輿地志の柳馨遠はすでに松島呼称を知っていた事になるのです
それも空島政策の中で、鎖国の中でだ   そんな馬鹿な!   この事は韓国政府に釈明していただこう。

現竹島は当時の朝鮮にとって領域外だった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 17:28 投稿番号: [8190 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/02.html

半島本土から鬱陵島、140Km
半島本土から現竹島、215Km

1695年『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137
蔚陵島(鬱陵島)の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができ、またその山や川は紆余曲折し、地形は濶狭で住民がその跡を残している。その土地にはいろいろな物が採れる。これは我が国の「輿地勝覧」に載っており、歴代伝えられていることから明らかである、<引用おわり

++   1696年朝鮮政府は江戸幕府との交渉で、半島本土から鬱陵島の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができると「輿地勝覧」を表にだしてきた、
つまり望み見る事ができる範囲は朝鮮の勢力範囲だと主張したのです、半島本土から140Kmも離れた鬱陵島の樹木は見えるのだろうか?   それはともかくとして、その当時半島から見える範囲は朝鮮領の認識なのだ、この事は逆も真なりで半島から見えなければ領域外を意味するのですね、半島本土から215Kmも離れた現竹島は半島本土から望み見る事はできないでしょう、結局現竹島は当時の朝鮮にとっては領域外だったと結論づけされますね、

島根県が余計な事を、「次に一島あり松島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 14:05 投稿番号: [8189 / 9207]
そもそも「外一島」との表現は内務省地理寮からの島根県への伺い書において「竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞」としたものについて、島根県が「竹島外一島」として「由来の概略」ほかの資料を添え地籍編纂の取り計らいについてさらに問い合わせたことに始まるものと理解しています。
そこにおいては明確に竹島・松島と記された資料が添付されていますので「外一島」と島根県が表現した対象は竹島・松島としか取りようがないものと思います。それに対しての太政官の判断も、つまり竹島・松島を「版図外」としたものと考えるべきであるものと思います。<引用おわり

++そもそも1877年に内務省が島根県に「竹島」地籍を問いあわせた事から問題が生じます、よせばいいのに島根県は、今度は松島をくっつけて内務省に「次一島、松島と呼ぶ」と報告します、タイトルに「竹島外一島伺い」と書いたからさらにこじれて、これに太政官は「竹島外一島」版図外と答えた、「竹島外一島伺い」本文には竹島だけ書かれており松島は一つも一度もかかれてはおりません、つまり松島は問題外とされた様です、だからここでの「外一島」とはマノ島が妥当ですね、ここで一つ付け加えておくが、「竹島外一島伺い」は朝鮮政府からの問い合わせに答えたのではないのです、あくまでも政府内部の事で世界に公布した物でも無いのですよ、韓国からとやかく言われることではないのです。

本土から歴々と望み見る事できるか、現竹島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/30 23:25 投稿番号: [8188 / 9207]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E4%B8%80%E4%BB%B6
1695年、朝鮮は接慰官を釜山に派遣し、礼曹参判李番の名をもって9月12日に返書を対馬藩へ送り、宗氏の竹島日本領説を反駁させた。この書契では、竹島は鬱陵島のことで、鬱陵島は空島としているが時々役人を派遣して調査をしているとし、東国輿地勝覧に照らしても、本土から良く見え、朝鮮住民がこの島でいろいろな物産を採っているとあり、朝鮮の領有は明らかであるとしている。

『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137
翻訳
我国の江原道蔚珍県に属島があり、名を蔚陵という。本県の東海にあり風濤が危険で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣して調査させていた。蔚陵島(鬱陵島)の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができ、またその山や川は紆余曲折し、地形は濶狭で住民がその跡を残している。その土地にはいろいろな物が採れる。これは我が国の「輿地勝覧」に載っており、歴代伝えられていることから明らかである。このたび我が国の漁民がその島に行くと、貴国の人が越境侵犯して、逆に我が国の二人を捕らえて江戸に送った。幸いに貴国の将軍は事情を良く察し、厚いもてなしをしてれた。交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が民の漁労の地は、もともと蔚陵島であり、竹を産することからあるいは竹島と称している、これは一島二名である。一島二名のことは、ただ我が国の書籍に記されているだけでなく、貴国の人もまた皆これを知っている。それにもかかわらず、ここに来た書中では、竹島は貴国の地方のため、我が国の漁船が更に来ることを禁止して欲しいとあるが、貴国の人が我が国の境界を侵犯し我が漁夫を拘束したたことを論じていない。誠信の道に欠けるところがあるのではないか。深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、貴国沿岸の人が蔚陵島に往来し、再び事件が起こらないように命じてほしい。<引用おわり

++   鬱陵島の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができる、だから朝鮮領であると主張しています、ならば   現竹島は本土から歴々と望み見る事ができるだろうか、望み見る事ができれば朝鮮領とするに有利ではある、しかし歴々と望み見る事ができなければ日本領となるは確実です。

倭が言う磯竹島は鬱陵島の事である

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/30 18:54 投稿番号: [8187 / 9207]
1562年、籌海図編に「竹島」表示、
鬱陵島日本完全実効支配1616〜1696年   80年間
空島政策、1417〜1882年(朝鮮国鬱陵島放棄)
興地志(1656年)
東国文献備考(1770年)
東国輿地勝覧(1481年)   に「松竹島」
「新増東国興地勝覧」1531年増補に「松竹島」


1614年(江戸時代、大阪冬の陣の年)、朝鮮の資料によると、
   「・・・近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹即鬱陵島也」
とあり、日本人が『竹島』(=「鬱陵島」)を支配していたことが明らか。ちょうどこの頃、朝鮮の東莢府使と、宗対馬守との間で、「磯竹島は日本の所領」「鬱陵島は朝鮮の所領」と、互いに主張したがそれ以上の発展はなかった。<引用おわり

++   1614年頃は磯竹島(鬱陵島)を日本が支配していたのですね、当然興地志(1656年)には「倭が言う磯竹島は鬱陵島の事である」と記載しなければならなかったのです、松島はう山島にあてはめたが竹島は蚊帳の外でした、この事を韓国は釈明しなければならない、

竹島(鬱陵島)および外一島の放棄

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 23:58 投稿番号: [8186 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a25kou2032-18770329/index.html

竹島(鬱陵島)および外一島の放棄
国立公文書館に所蔵してある『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』には、竹島(鬱陵島)および外一島(存在しないアルゴノート島、一説にはチュクド)は本邦に関係ないとの結論をだした。下の写真はその『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』の表紙である<引用おわり

++   内務省をはさんでの一連の竹島地籍編修の件のやりとりは竹島(鬱陵島)だけで、松島は無視されていたのですね   そして外一島とはマノ島の事ですね。

竹島は日本領である その2 (H8.5.26)

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 21:07 投稿番号: [8185 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_04.html
vol.4   竹島は日本領である   その2   (H8.5.26)
(Sorry, we have no English service.)



  竹島問題を引き続き考える。
(以後、混乱を避けるため、現在の島名は「」、昔の島名は『』で表記)
  (まだ読まれてない方はバックナンバーのvol.2を参照して下さい。)
 

  前々回は、『松島』(=「竹島」)と『竹島』(=「鬱陵島」)が歴史に登場してからの流れをおおまかに書いたが、途中で何故名前が入れ替わってしまったかまでは筆が及ばなかったので、今回はその事から始めようと思う。

  名前が入れ変ったのは、日本海にヨーロッパ人が現れてからである。彼らは次々と勝手に命名をした為に混乱が生じてしまった。以下に、その命名の過程を示してみると、

  1789年、フランス海軍大佐ラ・ペルーズが「鬱陵島」をダジュレー島と命名。
  1797年、イギリス人のブロートンが「鬱陵島」をアルゴノート島と命名。
  1811年、イギリスのArrow-Smithの日本地域図でアルゴノート島を大きく、
        ダジュレー島はその東南方に小さく表示される。
  1840年、シーボルトの日本図で、ダジュレー島は日本寄りに、アルゴノート
        島は朝鮮寄りに表示される。

と、この時点で矛盾が生じた。実は、ラ・ペルーズとブロートンの測定した経緯度が相違していた為、同じ「鬱陵島」を二つの別個の島としてしまったのだ。
  さらに、シーボルトは『松島』と『竹島』の存在を知っていた為に、わざわざ地図の中に、日本よりのダジュレー島に“松島”、朝鮮よりのアルゴノート島に“竹島”と記してしまったのだ。その後、

  1849年、あるフランス船が一群の小島を発見し、リヤンクール列岩と命名。
  1854年、ロシア軍艦の測定により、アルゴノート島は存在しない事が判明。
  1855年、イギリス軍艦はリヤンクール列岩を測定し、ホーネット島と命名。

この様に、一時期ではあるが、ヨーロッパ人の認識では日本海に、アルゴノート、
ダジュレー、リヤンクール(ホーネット)の三島が存在していた。
  つまり、

   現在名     旧名     ヨーロッパ命名     シーボルト命名                 
  「鬱陵島」   『竹島』   アルゴノート島   “竹島”・・・存在しない      
  「鬱陵島」   『竹島』   ダジュレー島    “松島”・・・間違って命名     
  「竹島」    『松島』   リヤンクール島                   

というように、名前の入れ変えが始まった。

  明治13年(1880年)、政府は軍艦天城による調査を行い、海図に“鬱陵島一名松島”と明記したために公式に「鬱陵島」は“松島”となった。また、現在の「竹島」は公式には“リヤンクール列岩”とされた。
  しかし、民間では「鬱陵島」は『竹島』、“リヤンクール列岩”は『松島』と呼ばれていた。

  明治38年(1905年)、政府は内務省訓令により、“隠岐島の西北八十五里にある島嶼”を「竹島」と命名し、島根県の所管とした。これ以後、松島と竹島の名前は、完全に入れ替わってしまった。

  以上の事は、前回の冒頭でも紹介したが、「島根県竹島の新研究」から要約させていただいた。
  資料として提供して下さった島根県総務部総務課の方々に感謝するとともに、著者である故・田村清三郎さんに敬意を表して結びたいと思います。
  ありがとうございました。   <引用おわり

竹島は日本領である その1 (H8.4.9)

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 16:11 投稿番号: [8184 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_02.html
vol.2   竹島は日本領である   その1   (H8.4.9)
(Sorry, we have no English service.)



  竹島に関して島根県より資料を頂いたので、今回は竹島の歴史に触れたいと思います。以下、「島根県竹島の新研究」を参考にして歴史的事実を紐解いて行きます。
  現在の「竹島」は、古くは『松島』と呼ばれており、「鬱陵島」が『竹島』または『磯竹島』と呼ばれていました。(混乱を避けるため、現在の島名は「」、昔の島名は『』で表記)

  1561年(日本では戦国時代、桶狭間の翌年に当たる)以降の明清の各種日本地図には、『竹島』(=「鬱陵島」)は日本国の範囲内と考えられていたため、山陰道沖合に描かれていました。国内のものでは、桃山時代の日本図屏風に、隠岐と高麗の間に『磯竹』=(「鬱陵島」)という島が描かれており、日本領として認識されていました。文禄・慶長の朝鮮出兵時には、『竹島』を津懸りとして朝鮮へ渡ったとされています。

  1614年(江戸時代、大阪冬の陣の年)、朝鮮の資料によると、
   「・・・近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹即鬱陵島也」
とあり、日本人が『竹島』(=「鬱陵島」)を支配していたことが明らか。ちょうどこの頃、朝鮮の東莢府使と、宗対馬守との間で、「磯竹島は日本の所領」「鬱陵島は朝鮮の所領」と、互いに主張したがそれ以上の発展はなかった。

  1618年、米子の大谷氏は江戸幕府から『竹島』(=「鬱陵島」)を拝領し、アワビ・海鹿等の漁猟や、檀木・桐等の伐採を行った。以後78年間、この大谷氏と、同じく米子の村川氏の交代で『竹島』(=「鬱陵島」)への渡海が行われた。その後、『松島』(=「竹島」)も拝領し同様に漁猟を行ってきた。が、この間、朝鮮人を見かけたという記録はない。

  1692年(元禄5年)の渡海時、唐船5艘50人ほどの朝鮮人が上陸してアワビ等を取っているのを発見した。そして、この島は日本領である旨通告したが、こちらの人数が少ないのでやむなく帰港。

  1693年(元禄6年)、またもや朝鮮人が多数上陸して漁をしていたため、その頭目と思われる2名を連れ帰る。1名はアンビシュンという名前だった。宗対馬守は2名を朝鮮政府に引き渡すとともに、『竹島』(=「鬱陵島」)に朝鮮漁民が侵入することを禁ずる旨を通告した。これに対し朝鮮側は謝罪し、両名を処罰することを伝えてきた。

  1694年・1695年と、朝鮮人が多数在島したため上陸を断念、帰途『松島』(=「竹島」)にてアワビを採取。この間、宗対馬守と朝鮮礼曹とで数次にわたって交渉が続けられたが、幕府はこれいじょう『竹島』(=「鬱陵島」)へ渡っても無益と考え、大谷・村川氏の渡海を禁止して論争を打ち切ることとした。『竹島』渡海制禁後、当時の鳥取藩の海鹿魚油の需要は、『松島』によって賄われたと思われるが、それを証明する資料はまだ発見されていない。また、表向きは禁止されていたが、『竹島』密貿易は度々行われていたようで、中には死罪になったものもいた。その死罪申渡書の中に、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り云々」という文があることから、『竹島』は放棄していたが、『松島』は日本領と認識していたことがわかる。

  明治維新後、『竹島』『松島』への関心が強まり、隠岐島人を始めとして『竹島』(=「鬱陵島」)へ漁民が進出するようになった。そして1881年(明治14年)、日鮮両国政府の外交交渉によって、日本漁船の「鬱陵島」渡航を禁止し、「鬱陵島」は朝鮮領土であることを確認した。

  と、言うような感じで、「鬱陵島」は『竹島』と呼ばれていて元禄年間の紛争後は朝鮮領であるとされ、『松島』は隠岐国の属領として認識されていたことがわかる。

           ・・・   つづく
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