★「竹島」は日本固有の領土です

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 本土から歴々と望み見る事できるか、現

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/12/04 10:27 投稿番号: [8199 / 9207]
風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二
日可到。

これは、于山島と鬱陵島の関係以外にないです。
本土から鬱陵島の木は見えません。鬱陵島から獨島も見えません。
渚まで見えると書いてあるのですから。
水面がみえるわけがないです。

それなのに、半島から鬱陵島とか鬱陵島から獨島とか都合によって使い分けているのです。

またこのあとに、二日かかると書いてありますが追い風でも二日かかる島同士では渚も木もみえません。
また、最後に半島からの距離を書くのが当時のフォーマットでありますので、ほかに距離が書いてない
以上は二島の半島からの距離を書いた以外にないです。
距離を書く場合に相去ることという文字が入っている場合があり、相だから二島関係の距離だという説も
ありましたが、半島と島の場合でも相が入ることは珍しくなく、距離がひとつしか書いてない以上は半島
からの距離とみるべきです。

いずれにしても、上記の解釈をしたからこそ、地図の鬱陵島と于山島は接近して書かれていると見れば
なんの不思議もなく、韓国側の資料には獨島は登場していないのです。

公文書館所蔵『小笠原諸島から行政権停止』

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/12/03 20:17 投稿番号: [8198 / 9207]
皆さん、こんにちは。

沖ノ鳥島問題を研究している田中です。この掲示板で文章起こしをします。

略号至急電報

宛 第一復員省 謄部隊参謀長(父島)
父島電 第100号
本十二月十三日、九時五十分、米国海兵第三師団第一大隊、父島に進駐儀式を行い「ミニッツ」元帥の名に於いて、小笠原諸島を完全占領。同日行政権の停止を声明せり。
http://www.geocities.jp/okino_torishima1/01.jpg
http://www.geocities.jp/okino_torishima1/02.jpg

http://www.tanaka-kunitaka.net/okino-torishima/
(後日転載予定)

next, coming up
1.警察大学校所蔵『領土外に対する行政権停止に関する件』の竹島の文章起こし

安龍福の指摘する「松島」はいづこの松島や

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/03 18:25 投稿番号: [8197 / 9207]
http://uub.jp/nam/matsushima.html

島根県 読み方 所在地 備   考 参照記事
松島 まつしま 安来市    
松島 まつしま 大田市(旧・温泉津町)    
松島 まつしま 松江市(旧・美保関町)    
松島 まつしま 松江市(旧・美保関町) 別名:白島 [31809]
松島 まつしま 松江市(旧・八束町)    
松島 まつしま 松江市(旧・島根町)    
松島 まつしま 浜田市(旧・三隅町)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・布施村)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・布施村・西郷町)    
松島 まつしま 隠岐郡隠岐の島町(旧・都万村)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・西郷町)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・西郷町)    
松島 まつじま 隠岐郡隠岐の島町(旧・五箇村)    
松島 まつしま 隠岐郡海士町

++   安龍福が指摘する倭人漁師が住んでいた松島はどこなんだ、少なくとも東経131°52′の松島は人は住めないから除外しなければならないぞ、

中井養三郎は海図で松島朝鮮領と誤認した

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/03 17:20 投稿番号: [8196 / 9207]
奥原秀夫さん宅で見つかった「中井養三郎氏立志伝」。1行目に「海図によれば」の記述がある=松江市岡本町

朝鮮水路誌海図は領有権を示した物ではないのです、韓国は熱くなり過ぎる!

Re: トピが乱れている<丶`д´>

投稿者: alive_romrom 投稿日時: 2006/12/03 11:49 投稿番号: [8195 / 9207]
また来てんのかい?

最近はカウントダウンの方に出没してたけど、やっぱりかまってくれるとこがいいのかな?あっちじゃ完璧スルーだもんね。


>わが国にとって日本が、お金をどんどん運んでくれる都合の良い国になる事を望んでいるニダ。
ああ、↑   これが本音。じゃ、ここでも誰も話は聞かないよ。「金、金、かね」って卑しい話は。

トピが乱れている<丶`д´>

投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/03 06:48 投稿番号: [8194 / 9207]
  <丶`д´>独島その他の魚のたくさん獲れる地区の島々は、みんな偉大な大韓民国の領土です。その付近での日本の漁船の進入を禁止する。

  さかなは、偉大な大韓民国から輸入しましょう。自分で漁がしたい時は、偉大な大韓民国に頭を下げて頼み、十分なお金を出して獲らせて貰いましょう。

  日本国民は、偉大な大韓民国に賠償する為と魚を買うために勤勉に働くであろう。偉大な大韓国政府は、わが国にとって日本が、お金をどんどん運んでくれる都合の良い国になる事を望んでいるニダ。

安龍福の「于山」は日本領だった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/02 19:02 投稿番号: [8193 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_02.html

1693年(元禄6年)、またもや朝鮮人が多数上陸して漁をしていたため、その頭目と思われる2名を連れ帰る。1名はアンビシュンという名前だった。宗対馬守は2名を朝鮮政府に引き渡すとともに、『竹島』=「鬱陵島」に朝鮮漁民が侵入することを禁ずる旨を通告した。これに対し朝鮮側は謝罪し、両名を処罰することを伝えてきた。<引用おわり

++   1693年、朝鮮政府は「鬱陵島」に朝鮮漁民が侵入した件に関し日本側に謝罪した、つまり朝鮮側はこの時点では「鬱陵島」日本領土と認めていたのです、ちなみに明清の中国地図でも「竹島」日本領としています、安龍福が「于山」は朝鮮領土だと倭人漁民達にいったそうだが、それはあくまでも個人的な意見ですね、この時点では、まぎれもなく「于山国」は日本領土だったのです、中国も朝鮮も日本もそのように認識していたのです。

禹用鼎報告と勅令41号 石島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 23:57 投稿番号: [8192 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/koujou.html
1899年8月の禹用鼎を団長とした鬱陵島調査団の報告を元にして1900年、勅令41号を発布しました、その中に石島がありますが、韓国はその石島はトクトだと言います、しかし禹用鼎はリヤンコ島(トクト)を調査していない事はわかっています、つまりリヤンコ島(トクト)の存在も確認をせず、調査もしなかった、当然報告書にはリヤンコ島(トクト)の記載はありません、然らば石島はトクトではありえませんね。

そんな馬鹿な!1656年同時だなんて

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 21:55 投稿番号: [8191 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/02.html

松島(今の竹島)は米子−鬱陵島の航路上にあるが、ケシ粒のように連なっている岩で、その上、潮流の関係もあって同島が発見されたのは、初航海から二十五年目の一六四三年二代目九右衛門勝実によってである。

1656年 朝鮮・柳馨遠が「輿地志」を編さん
1770年 朝鮮・申景濬らが「東国文献備考・輿地考」を編さん

1643年    新島(松島)発見
1656年    松島初渡航  

  「輿地志」編さんと松島初渡航が同じ1656年です、松島初渡航では
「松島」呼称は日本人の中でもほんの少数しか知らなかった事でしょうに、
それなのに輿地志の柳馨遠はすでに松島呼称を知っていた事になるのです
それも空島政策の中で、鎖国の中でだ   そんな馬鹿な!   この事は韓国政府に釈明していただこう。

現竹島は当時の朝鮮にとって領域外だった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 17:28 投稿番号: [8190 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/02.html

半島本土から鬱陵島、140Km
半島本土から現竹島、215Km

1695年『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137
蔚陵島(鬱陵島)の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができ、またその山や川は紆余曲折し、地形は濶狭で住民がその跡を残している。その土地にはいろいろな物が採れる。これは我が国の「輿地勝覧」に載っており、歴代伝えられていることから明らかである、<引用おわり

++   1696年朝鮮政府は江戸幕府との交渉で、半島本土から鬱陵島の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができると「輿地勝覧」を表にだしてきた、
つまり望み見る事ができる範囲は朝鮮の勢力範囲だと主張したのです、半島本土から140Kmも離れた鬱陵島の樹木は見えるのだろうか?   それはともかくとして、その当時半島から見える範囲は朝鮮領の認識なのだ、この事は逆も真なりで半島から見えなければ領域外を意味するのですね、半島本土から215Kmも離れた現竹島は半島本土から望み見る事はできないでしょう、結局現竹島は当時の朝鮮にとっては領域外だったと結論づけされますね、

島根県が余計な事を、「次に一島あり松島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/12/01 14:05 投稿番号: [8189 / 9207]
そもそも「外一島」との表現は内務省地理寮からの島根県への伺い書において「竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞」としたものについて、島根県が「竹島外一島」として「由来の概略」ほかの資料を添え地籍編纂の取り計らいについてさらに問い合わせたことに始まるものと理解しています。
そこにおいては明確に竹島・松島と記された資料が添付されていますので「外一島」と島根県が表現した対象は竹島・松島としか取りようがないものと思います。それに対しての太政官の判断も、つまり竹島・松島を「版図外」としたものと考えるべきであるものと思います。<引用おわり

++そもそも1877年に内務省が島根県に「竹島」地籍を問いあわせた事から問題が生じます、よせばいいのに島根県は、今度は松島をくっつけて内務省に「次一島、松島と呼ぶ」と報告します、タイトルに「竹島外一島伺い」と書いたからさらにこじれて、これに太政官は「竹島外一島」版図外と答えた、「竹島外一島伺い」本文には竹島だけ書かれており松島は一つも一度もかかれてはおりません、つまり松島は問題外とされた様です、だからここでの「外一島」とはマノ島が妥当ですね、ここで一つ付け加えておくが、「竹島外一島伺い」は朝鮮政府からの問い合わせに答えたのではないのです、あくまでも政府内部の事で世界に公布した物でも無いのですよ、韓国からとやかく言われることではないのです。

本土から歴々と望み見る事できるか、現竹島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/30 23:25 投稿番号: [8188 / 9207]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E4%B8%80%E4%BB%B6
1695年、朝鮮は接慰官を釜山に派遣し、礼曹参判李番の名をもって9月12日に返書を対馬藩へ送り、宗氏の竹島日本領説を反駁させた。この書契では、竹島は鬱陵島のことで、鬱陵島は空島としているが時々役人を派遣して調査をしているとし、東国輿地勝覧に照らしても、本土から良く見え、朝鮮住民がこの島でいろいろな物産を採っているとあり、朝鮮の領有は明らかであるとしている。

『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137
翻訳
我国の江原道蔚珍県に属島があり、名を蔚陵という。本県の東海にあり風濤が危険で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣して調査させていた。蔚陵島(鬱陵島)の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができ、またその山や川は紆余曲折し、地形は濶狭で住民がその跡を残している。その土地にはいろいろな物が採れる。これは我が国の「輿地勝覧」に載っており、歴代伝えられていることから明らかである。このたび我が国の漁民がその島に行くと、貴国の人が越境侵犯して、逆に我が国の二人を捕らえて江戸に送った。幸いに貴国の将軍は事情を良く察し、厚いもてなしをしてれた。交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が民の漁労の地は、もともと蔚陵島であり、竹を産することからあるいは竹島と称している、これは一島二名である。一島二名のことは、ただ我が国の書籍に記されているだけでなく、貴国の人もまた皆これを知っている。それにもかかわらず、ここに来た書中では、竹島は貴国の地方のため、我が国の漁船が更に来ることを禁止して欲しいとあるが、貴国の人が我が国の境界を侵犯し我が漁夫を拘束したたことを論じていない。誠信の道に欠けるところがあるのではないか。深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、貴国沿岸の人が蔚陵島に往来し、再び事件が起こらないように命じてほしい。<引用おわり

++   鬱陵島の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができる、だから朝鮮領であると主張しています、ならば   現竹島は本土から歴々と望み見る事ができるだろうか、望み見る事ができれば朝鮮領とするに有利ではある、しかし歴々と望み見る事ができなければ日本領となるは確実です。

倭が言う磯竹島は鬱陵島の事である

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/30 18:54 投稿番号: [8187 / 9207]
1562年、籌海図編に「竹島」表示、
鬱陵島日本完全実効支配1616〜1696年   80年間
空島政策、1417〜1882年(朝鮮国鬱陵島放棄)
興地志(1656年)
東国文献備考(1770年)
東国輿地勝覧(1481年)   に「松竹島」
「新増東国興地勝覧」1531年増補に「松竹島」


1614年(江戸時代、大阪冬の陣の年)、朝鮮の資料によると、
   「・・・近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹即鬱陵島也」
とあり、日本人が『竹島』(=「鬱陵島」)を支配していたことが明らか。ちょうどこの頃、朝鮮の東莢府使と、宗対馬守との間で、「磯竹島は日本の所領」「鬱陵島は朝鮮の所領」と、互いに主張したがそれ以上の発展はなかった。<引用おわり

++   1614年頃は磯竹島(鬱陵島)を日本が支配していたのですね、当然興地志(1656年)には「倭が言う磯竹島は鬱陵島の事である」と記載しなければならなかったのです、松島はう山島にあてはめたが竹島は蚊帳の外でした、この事を韓国は釈明しなければならない、

竹島(鬱陵島)および外一島の放棄

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 23:58 投稿番号: [8186 / 9207]
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a25kou2032-18770329/index.html

竹島(鬱陵島)および外一島の放棄
国立公文書館に所蔵してある『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』には、竹島(鬱陵島)および外一島(存在しないアルゴノート島、一説にはチュクド)は本邦に関係ないとの結論をだした。下の写真はその『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』の表紙である<引用おわり

++   内務省をはさんでの一連の竹島地籍編修の件のやりとりは竹島(鬱陵島)だけで、松島は無視されていたのですね   そして外一島とはマノ島の事ですね。

竹島は日本領である その2 (H8.5.26)

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 21:07 投稿番号: [8185 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_04.html
vol.4   竹島は日本領である   その2   (H8.5.26)
(Sorry, we have no English service.)



  竹島問題を引き続き考える。
(以後、混乱を避けるため、現在の島名は「」、昔の島名は『』で表記)
  (まだ読まれてない方はバックナンバーのvol.2を参照して下さい。)
 

  前々回は、『松島』(=「竹島」)と『竹島』(=「鬱陵島」)が歴史に登場してからの流れをおおまかに書いたが、途中で何故名前が入れ替わってしまったかまでは筆が及ばなかったので、今回はその事から始めようと思う。

  名前が入れ変ったのは、日本海にヨーロッパ人が現れてからである。彼らは次々と勝手に命名をした為に混乱が生じてしまった。以下に、その命名の過程を示してみると、

  1789年、フランス海軍大佐ラ・ペルーズが「鬱陵島」をダジュレー島と命名。
  1797年、イギリス人のブロートンが「鬱陵島」をアルゴノート島と命名。
  1811年、イギリスのArrow-Smithの日本地域図でアルゴノート島を大きく、
        ダジュレー島はその東南方に小さく表示される。
  1840年、シーボルトの日本図で、ダジュレー島は日本寄りに、アルゴノート
        島は朝鮮寄りに表示される。

と、この時点で矛盾が生じた。実は、ラ・ペルーズとブロートンの測定した経緯度が相違していた為、同じ「鬱陵島」を二つの別個の島としてしまったのだ。
  さらに、シーボルトは『松島』と『竹島』の存在を知っていた為に、わざわざ地図の中に、日本よりのダジュレー島に“松島”、朝鮮よりのアルゴノート島に“竹島”と記してしまったのだ。その後、

  1849年、あるフランス船が一群の小島を発見し、リヤンクール列岩と命名。
  1854年、ロシア軍艦の測定により、アルゴノート島は存在しない事が判明。
  1855年、イギリス軍艦はリヤンクール列岩を測定し、ホーネット島と命名。

この様に、一時期ではあるが、ヨーロッパ人の認識では日本海に、アルゴノート、
ダジュレー、リヤンクール(ホーネット)の三島が存在していた。
  つまり、

   現在名     旧名     ヨーロッパ命名     シーボルト命名                 
  「鬱陵島」   『竹島』   アルゴノート島   “竹島”・・・存在しない      
  「鬱陵島」   『竹島』   ダジュレー島    “松島”・・・間違って命名     
  「竹島」    『松島』   リヤンクール島                   

というように、名前の入れ変えが始まった。

  明治13年(1880年)、政府は軍艦天城による調査を行い、海図に“鬱陵島一名松島”と明記したために公式に「鬱陵島」は“松島”となった。また、現在の「竹島」は公式には“リヤンクール列岩”とされた。
  しかし、民間では「鬱陵島」は『竹島』、“リヤンクール列岩”は『松島』と呼ばれていた。

  明治38年(1905年)、政府は内務省訓令により、“隠岐島の西北八十五里にある島嶼”を「竹島」と命名し、島根県の所管とした。これ以後、松島と竹島の名前は、完全に入れ替わってしまった。

  以上の事は、前回の冒頭でも紹介したが、「島根県竹島の新研究」から要約させていただいた。
  資料として提供して下さった島根県総務部総務課の方々に感謝するとともに、著者である故・田村清三郎さんに敬意を表して結びたいと思います。
  ありがとうございました。   <引用おわり

竹島は日本領である その1 (H8.4.9)

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 16:11 投稿番号: [8184 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_02.html
vol.2   竹島は日本領である   その1   (H8.4.9)
(Sorry, we have no English service.)



  竹島に関して島根県より資料を頂いたので、今回は竹島の歴史に触れたいと思います。以下、「島根県竹島の新研究」を参考にして歴史的事実を紐解いて行きます。
  現在の「竹島」は、古くは『松島』と呼ばれており、「鬱陵島」が『竹島』または『磯竹島』と呼ばれていました。(混乱を避けるため、現在の島名は「」、昔の島名は『』で表記)

  1561年(日本では戦国時代、桶狭間の翌年に当たる)以降の明清の各種日本地図には、『竹島』(=「鬱陵島」)は日本国の範囲内と考えられていたため、山陰道沖合に描かれていました。国内のものでは、桃山時代の日本図屏風に、隠岐と高麗の間に『磯竹』=(「鬱陵島」)という島が描かれており、日本領として認識されていました。文禄・慶長の朝鮮出兵時には、『竹島』を津懸りとして朝鮮へ渡ったとされています。

  1614年(江戸時代、大阪冬の陣の年)、朝鮮の資料によると、
   「・・・近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹即鬱陵島也」
とあり、日本人が『竹島』(=「鬱陵島」)を支配していたことが明らか。ちょうどこの頃、朝鮮の東莢府使と、宗対馬守との間で、「磯竹島は日本の所領」「鬱陵島は朝鮮の所領」と、互いに主張したがそれ以上の発展はなかった。

  1618年、米子の大谷氏は江戸幕府から『竹島』(=「鬱陵島」)を拝領し、アワビ・海鹿等の漁猟や、檀木・桐等の伐採を行った。以後78年間、この大谷氏と、同じく米子の村川氏の交代で『竹島』(=「鬱陵島」)への渡海が行われた。その後、『松島』(=「竹島」)も拝領し同様に漁猟を行ってきた。が、この間、朝鮮人を見かけたという記録はない。

  1692年(元禄5年)の渡海時、唐船5艘50人ほどの朝鮮人が上陸してアワビ等を取っているのを発見した。そして、この島は日本領である旨通告したが、こちらの人数が少ないのでやむなく帰港。

  1693年(元禄6年)、またもや朝鮮人が多数上陸して漁をしていたため、その頭目と思われる2名を連れ帰る。1名はアンビシュンという名前だった。宗対馬守は2名を朝鮮政府に引き渡すとともに、『竹島』(=「鬱陵島」)に朝鮮漁民が侵入することを禁ずる旨を通告した。これに対し朝鮮側は謝罪し、両名を処罰することを伝えてきた。

  1694年・1695年と、朝鮮人が多数在島したため上陸を断念、帰途『松島』(=「竹島」)にてアワビを採取。この間、宗対馬守と朝鮮礼曹とで数次にわたって交渉が続けられたが、幕府はこれいじょう『竹島』(=「鬱陵島」)へ渡っても無益と考え、大谷・村川氏の渡海を禁止して論争を打ち切ることとした。『竹島』渡海制禁後、当時の鳥取藩の海鹿魚油の需要は、『松島』によって賄われたと思われるが、それを証明する資料はまだ発見されていない。また、表向きは禁止されていたが、『竹島』密貿易は度々行われていたようで、中には死罪になったものもいた。その死罪申渡書の中に、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り云々」という文があることから、『竹島』は放棄していたが、『松島』は日本領と認識していたことがわかる。

  明治維新後、『竹島』『松島』への関心が強まり、隠岐島人を始めとして『竹島』(=「鬱陵島」)へ漁民が進出するようになった。そして1881年(明治14年)、日鮮両国政府の外交交渉によって、日本漁船の「鬱陵島」渡航を禁止し、「鬱陵島」は朝鮮領土であることを確認した。

  と、言うような感じで、「鬱陵島」は『竹島』と呼ばれていて元禄年間の紛争後は朝鮮領であるとされ、『松島』は隠岐国の属領として認識されていたことがわかる。

           ・・・   つづく

日本政府が領有権の抗議をしているので

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 14:42 投稿番号: [8183 / 9207]
「独島は日本の領土」毎年   口上書を発送」
ttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/21/20050321000051.html
ハンナラ党の鄭文憲(チョン・ムンホン)議員は21日、日本政府が毎年3月には独島(トクド)
に対する領有権を主張する口上書(Verbal Note)を韓国政府宛てに送っていると明らかにした。
鄭議員によると、この口上書は「在大韓民国・日本国大使館は大韓民国外交部に対し、
竹島(独島の日本式名称)が歴史的にも、法的にも日本固有の領土ということを明らかにする。
大韓民国は竹島に対する不法な領有を中断することを要請する」という二つの文章からなる。
韓国政府はこれを文書台帳に記録・保管している。また、これに反論する韓国側の
外交文書を毎年発送している。

竹島(独島)という領土問題の対立点および判断する道筋と、「実行支配」
ttp://toron.pepper.jp/jp/take/law/michi.html
なお、実効的支配を認めるには「平和的、継続的」であるかどうかである。
日本政府が領有権の抗議をしているので、現在の韓国による竹島占有は実効的支配の証拠とはならない。

国際社会は、既成事実による紛争解決を断固拒否している
ttp://toron.pepper.jp/jp/take/law/housaku.html
このような原則の確認・証拠の検討を通じ、国際法的に竹島が明瞭に日本の固有の領土であり、たとえ今後韓国
が現在のような支配を継続したとしても、それは「紛争の存在が明らかになった時点で当事国が自己の立場を
有利にするために行った行為」であり、決して領有権は韓国に移らないと言えます。

「時効取得」は、国際的に領土を取得する場合にあり得る1つの方法に過ぎず、国際法学者の多くに受け入れら
れたものでないうえ、いわゆる「時効取得」の原則に基づいて判決の下りた国際判例もない。ましてや「時効」
自体に、「連続的に、妨害を受けることなく」国家権力を行使するという基本的原則がある。
ttp://www.pekinshuho.com/04-15/15-diaoyudao.htm   <引用おわり

松竹島=松島竹島を命名したのは倭人か

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 11:40 投稿番号: [8182 / 9207]
1562年、籌海図編に「竹島」表示、
鬱陵島日本完全実効支配1616〜1696年   80年間
空島政策、1417〜1882年(朝鮮国鬱陵島放棄)
興地志(1656年)
東国文献備考(1770年)
東国輿地勝覧(1481年)   に「松竹島」
「新増東国興地勝覧」1531年増補に「松竹島」

++空島政策(1417〜1882年)で朝鮮国は鬱陵島を放棄しましたが、その空島期間中に東国輿地勝覧(1481年)、新増東国興地勝覧1531年増補を発行しました、それらの輿地勝覧には「松竹島=松島竹島」が記されていると高宗王は1882年に述べておりますね、そして松竹島の名がのっているのはこの古文書しか無いそうです、つまり無人島化した島に「松竹島=松島竹島」名を命名したのは、たぶん倭人と推測できるが。

興地志(1656年)が出来た頃は竹島日本領

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/28 23:08 投稿番号: [8181 / 9207]
1562年、籌海図編に「竹島」表示、
空島政策、1417〜1882年(朝鮮国鬱陵島放棄)
鬱陵島日本完全実効支配1616〜1696年   80年間
興地志(1656年)
東国文献備考(1770年)

++   興地志(1656年)が出来たのは、竹島日本実効支配1616〜1696年の真ん中当りですね、つまり其の頃の竹島(鬱陵島)は日本領土だったのです、①興地志に云う②蔚陵、于山皆干山国の地③于山は即ち倭の所謂松島なり   だから干山国は当時日本の領域でしたから松島とかも日本領域でした。

我が国民が自由に立ち入られない領土

投稿者: nahanavi 投稿日時: 2006/11/28 22:51 投稿番号: [8180 / 9207]
北方四島、竹島及び尖閣諸島である。太平洋の離れ小島の領土、南鳥島には硫黄島からの自衛隊分遣隊が駐屯する。対馬には、自衛隊が駐屯する。台湾と接する沖縄県の与那国島には、自衛隊の部隊どころか海上保安庁もいない。国境線を巡る【国家観】の違いは、利害が絡むと難しい。平和国家の我が国は、世界諸国の信義と公正を信頼して生きるでしかない。

韓国竹島占領に絶対妥協してはいけない

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/28 20:12 投稿番号: [8179 / 9207]
韓国による竹島軍事占拠に対して日本は軍事行動しなかったから日本は韓国の竹島占有を認めたのだ、これが貴殿の論法らしいが、日本政府は毎年韓国に書類をだして竹島占領に抗議していますよ、だからリセットされて振り出しに戻るのですね、韓国竹島占領に対し日本が妥協して少しでもゆずれば、ちからによる占領に屈したと世界に発信してしまう事に成るのです、これは国連憲章の建設根底をゆさぶる事にも成るのですから絶対に妥協してはいけないのです。

Re: 韓国主張に反論 竹島は二個あるのです

投稿者: spritejune1023 投稿日時: 2006/11/28 18:36 投稿番号: [8178 / 9207]
これはやばい今裁判したらまけるかも   さいばんこわい
日本には竹島を領有する意思がないのはっりしています。 もし仮に、日本が本当に領有権を主張するならイギリスの鉄の女のように 1万キルロ離れた島でも軍を送って取り戻すはずです. しかし日本は一切手を出さなかったです. この 50年間で日本は韓国の領有権を認めてるいると暗に示しているのです
正直日本はもう竹島をあきらめた方がいいな。 書証でここまでモルアブッヨジンダなら勝つ確率がないから. 率直に過ちとことのみを謝罪して韓国人に容赦受ける姜咎責を求めなければならない

林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で竹島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/28 17:00 投稿番号: [8177 / 9207]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=15202
東国文献備考(1770年)に次のとおりです。
   ①興地志に云う
   ②蔚陵、于山皆干山国の地
   ③于山は即ち倭の所謂松島なり

  韓国領有派は、③が「興地志」(1656年)に掲載されていたと主張しています。

  しかし、林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で「隠岐の海上に竹島有り」と朝鮮に伝えています(no10197)から、「于山は即ち倭の所謂松島なり」よりも重要な情報である「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」も「興地志」(1656年)に掲載されていたと推定するのは合理性があります。この比較的重要性は竹島一件が一段落した1770年でも同じです。なぜなら、朝鮮は「竹島は朝鮮領である」との言質を日本から得ていないからです。
  とするならば、東国文献備考(1770年)に「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」を転記しなかった理由の解明が必要です。この理由が判明するまでは、「于山は即ち倭の所謂松島なり」は「興地志」ではなく安龍福がもたらした情報であるとの仮説を否定することはできません。<引用おわり

++   林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で「隠岐の海上に竹島有り」と朝鮮に伝えています・・これは大変重大な事です、なぜなら   朝鮮がこれを否定しなければ、是認した事になるからです、それに「興地志」(1656年)以前の1643年だからです、つまり竹島日本領を「興地志」で否定しなければ松島は日本領になるからです。

輿地勝覧に「松竹島」が記されているのです

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/28 12:20 投稿番号: [8176 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/index.html

さて、李奎遠は鬱陵島へ出発する前に王と面談しましたが、そのときのよ
うすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。

王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」

++   『輿地勝覧』、東国輿地勝覧(1481年):「新増東国興地勝覧」1531年増補:に「松竹島」が記されているのですね、江戸初期から日本人漁労者達はチュクト(芋山島)を「松島」と呼んでいた可能性は大きいですねえ。

安龍福、倭がいう松島(于山)も我が領域

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/27 19:38 投稿番号: [8175 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm106.html#No.779

まずは下條氏の主張をみることにします。同氏は
1693年に朝鮮の漁民であるが村川家により日本へ連行されたときのことをこう記し
ました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   安龍福が于山島というものの存在を知ったのは、鳥取藩に密航する三年前の1693(元
禄6)年4月、「鮑(あわび)と和布(わかめ)かせぎ」のため鬱陵島に渡ったときである。
『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べに安龍福は、次のような供述を残している。

   この度 参候(まいりそうろう)島より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗
留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候
通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法 一日路余もこれ有るべく候。

   鬱陵島に初めて渡り、島の地理に詳しくなかった安龍福は、同行の朝鮮人から、于山
島の存在を教えられていたのである。
   では、安龍福が「ようやく二度、見た」という于山島はどの辺りにあったのだろうか。
鬱陵島の「北東」にあると証言しているところからすると、この于山島は今日の竹島とは
無縁である。今日 領有権が争われている竹島は、鬱陵島の東南に位置しているからだ

++   安龍福が鬱陵島の浜から東北に二度見た島は竹嶼(于山島)だったでしょう、そして安龍福は、同行の朝鮮人から、于山島の存在を教えられていたのです、しかしなんで安龍福は倭がいう松島が朝鮮の于山島だと断定したのだろうかな。

倭がいうところの松島は于山であるは正しい

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/27 18:21 投稿番号: [8174 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.689

東国文献備考」(1770)に于山島と松島の関係がつぎ
のように記されました。「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」。輿地志(1656)の実物が
現存しない以上、改竄したかどうかは知るすべがありません。<引用おわり

++1882年頃の認識・・・于山島=竹嶼=松竹島=松島竹島 →松島である   つまり于山島=松島、鬱陵=竹島と成ります、当時日本人は于山島(竹嶼)を松島と呼んでいたのです。だから輿地志がいうには于山はすなわち倭がいうところの松島であるは正しい事に成ります。

大韓地誌 1899年 玄菜

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/27 15:03 投稿番号: [8173 / 9207]
gooより

大韓地誌(だいかんちし)は、帝政時代の韓国で編まれた地理書。1899年に書家としても知られていた玄菜が表した。韓国の学校教育でも使われていた。

大韓地誌が注目されるのは、19世紀末の朝鮮半島の地理を詳細に記述している貴重な書籍だからである。そしてそれはまた朝鮮人の歴史認識を知る手がかりとしても重要だからだ。わけても日韓双方が領有権を主張している竹島(韓国名:獨島)を巡る問題で、韓国側が竹島の存在を知らないか、あるいは自国領と認識されていないのではないかと思われる記述があるためである。

大韓地誌によれば、大韓帝国の領域は北緯33度15分から北緯42度15分、東経124度35分から東経130度35分までとしている。ところが実際の竹島の位置は北緯37度14分、東経131度52分であり、大韓地誌の記述の範囲を外れている。このような認識は日本の統治から解き放なたれた1945年以降にも見られ、韓国においても竹島は韓国領でないと広く認識されていたものと思われる。<引用おわり

「次に一島あり 松島と呼ふ」と書いてあり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/27 00:27 投稿番号: [8172 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taittou.html
問題の太政官指令「外一島」がでるまでの経緯 Toron Tolker

http://homepage2.nifty.com/oppekepe/takeshima/jpn/JPN_HIS/JPN_HISTORY.html
          平成版   竹島考証

「次に一島あり 松島と呼ふ」と書いてあり、
「外一島あり 松島と呼ふ」とは書いてありません。
具体的に「松島」のことを照会しています。

また、具体的に「松島」と書いて照会しているのですから、
「松島」と記載しないで、わざわざ「外一島」にして返答するなんて、ありえません、

++   「次に一島あり 松島と呼ふ」と松島の事をくどくどと説明しております、そして「外に一島あり 松島と呼ふ」とは書いてありません、なるほどねえ   だから   太政官指令が、もしも「竹島次一島関係無し」であるならば、松島は放棄した事にはなるのですねえ、しかし「竹島外一島関係無し」だったから「外一島」は松島では無くてマノ島だったのですね。ー笑ー

Re: 竹島なんていらない

投稿者: alive_romrom 投稿日時: 2006/11/26 19:11 投稿番号: [8171 / 9207]
とんでもないことを言わないで欲しい。領土を簡単に手放していったら、色んなとこから付け込まれて、そのうち住む所すらなくなってしまう。

そもそも街宣右翼なんてものの構成員は在日が多いのだ。
出来るなら「お前ら竹島取り戻して来い!」と尻をひっぱたいて、日本の本土の防衛をさせてやりたい。街頭でがなってることを、実際に体張ってするなら支持してやろう。

竹島なんていらない

投稿者: pink_panscer 投稿日時: 2006/11/26 18:07 投稿番号: [8170 / 9207]
本当に必要な島なら、右翼のみなさんが危険をかえりみず船で上陸を試みるはずです。

そんなことがないということは、本当は必要ない島ということですね。

「松島」は二つあった可能性

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/26 18:06 投稿番号: [8169 / 9207]
王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するまま
になっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の
遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」

  李奎遠曰く「謹んで精一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は
昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(12km)です。
その産物は檀香と簡竹であるといいます」

  王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなして
おり、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」

  李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が
鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということで
はありません」


++   王曰く『輿地勝覧』に松竹島とある、李奎遠曰く松島竹島と称する島が鬱陵島の東1.2〜4Km先にあります、その産物は檀香と簡竹であるといいます、・・・ここで言うまでもなく「松竹島」とは竹嶼ですね。竹嶼=松島竹島ですが、そこで竹島を鬱陵島にしますと、残る竹嶼=松島となります、当時   日本人は竹嶼を松島と呼んだ可能性は十分にあるのです、東経131°52′の松島と竹嶼=松島の二つの松島があったのでしょう。

1562年、籌海図編に「竹島」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/26 17:06 投稿番号: [8168 / 9207]
『籌海図編』(ちゅうかいずへん)とは、中国の明代・嘉靖41(1562)年に地理学者鄭若曽が著した日本研究書のひとつです,籌海図編に日本領域「竹島」
がありますね、1617年に大谷氏が発見、竹島命名とされているが、すでにそれより55年前に「竹島」名に成っていますね。

Re: ★「竹島」は日本固有の領土です

投稿者: tangondian 投稿日時: 2006/11/26 16:43 投稿番号: [8167 / 9207]
当然日本の領土です。強引な”さくら”の旅行を断行したり、なぜ昨今、急に主張し始めた。
その理由が聞きたい。なぜ?なぜ??なんで〜???

李奎遠は松竹島=松島竹島の認識が・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/26 14:43 投稿番号: [8166 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm101.html#No.739

李奎遠は松竹島=松島竹島については竹嶼に比定することを避け、不明な
ままとしました。もし松島竹島のうち「竹島」を竹嶼にしたら、「松島」をどうするのか、これを観音島にするわけにもいかないので、扱いがむずかしかったためと思われます。<引用おわり

++   1882年、李奎遠は松竹島=松島竹島の認識があった、それも鬱陵島のすぐ近くに「竹島」と「松島」があるとの認識を持っていたのです。

「三数十里」、 that was 1.2~4km

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/26 12:26 投稿番号: [8165 / 9207]
Flying Yangban: Japan and Korea's compeating claims to Dokdo ...- [ このページを訳す BETA ]And they reported that Songjukdo 松竹島 (竹嶼) lied just beside Ulleungdo (= today's Jukdo) and its distance from Ulleungdo was 三数十里, that was 1.2~4km, which fit the location of today's Jukdo. They also reported that Usando was ...
gopkorea.blogs.com/flyingyangban/2005/04/warningnbsp_thi.html - 229k - <引用おわり

++   松竹島 (竹嶼)は、its distance from Ulleungdo was 三数十里, that was 1.2~4km   つまり三数十里とは1.2Km〜4Kmの距離らしい、そうすると竹嶼は鬱陵島から2Kmですのでピッタンコです、そこで松竹島とは竹嶼の事でした。

Re: 「松竹島」とは竹嶼ではないのだろうか

投稿者: goldcoast1234 投稿日時: 2006/11/26 00:41 投稿番号: [8164 / 9207]
どうでもいいけど、「半月城」をだすのやめてくれない?
彼の文章、見るだけで気分が悪くなるんだけど。
自分で「さわやか」と言いながら実はどろどろの反日じゃない。

「松竹島」とは竹嶼ではないのだろうか

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/26 00:35 投稿番号: [8163 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/utsugaizu.html
竹島メモ > 竹島編入の経緯 Toron Tolker
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.690
『高宗実録』と鬱陵島検察   2003/ 3/21   Yahoo! 掲示板「竹島」#1547   半月城です。

鬱陵島から松竹島までの距離は三数十里(1.2km〜4km)であると言うこと

松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(12km)です。
その産物は檀香と簡竹であるといいます <引用おわり

++鬱陵島から松竹島までの距離は、それぞれ1.2km〜4kmと12kmの違いがある、「三数十里」とはどう訳すのでしょうか?

日本が行える権限は自国領土の放棄まで

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/25 19:34 投稿番号: [8162 / 9207]
    大政官文書が証拠にならない理由
    投稿者: mamatoto 作成日: 2006-11-20

1.日本が行える権限は「自国領土の放棄」まで。
  日本が「この島は韓国領だ」と決定する権限はありません。
  大政官文書で「鬱陵島は日本領だ」と決定すれば有効ですか?
  「領土編入」は自分(韓国)が行わなければいけません。これ国際社会の常識。

2.大政官文書は本当に「竹島(独島)」に言及しているの?
  文書には「竹島(鬱陵島)と松島(独島)」の二つの詳しい記載と地図がある。
  それらの文書を見ると竹島(鬱陵島)には「マノ島」という小さな島が付随している。
  そして「竹島(鬱陵島)の件に関しては、竹島(鬱陵島)と他一島は日本領ではない」と記載されている。
  つまり「他一島」とは「マノ島」のこと。
  第一「松島(独島)」は固有名詞の存在する別個の島なのに、それを「他一島」と描写するのは不合理。もし松島(独島)を放棄しているなら「竹島(鬱陵島)と松島(独島)を放棄する」と「固有名詞」を用いなければいけない。
他にもアルゴノート島に関連した誤記という説もある。

3.最終的に竹島(独島)どころか朝鮮半島自体が併合されているので考慮に値しない。
  1910年に朝鮮半島は日本に併合されたので、竹島(独島)もソウルも全て日本領になりました。だからその当時は「竹島(独島)は日本領」。
  SF条約で「日本が竹島(独島)を放棄していない」ので、引き続いて「竹島(独島)」は日本領のまま。これ国際法の常識

人類普遍の一般常識で考えなさい。「韓国普遍の一般常識」で考えてはいけませんw<引用おわり

++「領土編入」は自分(韓国)が行わなければいけません。これ国際社会の常識・・・朝鮮政府自身が「領土編入」をしなければいけないのですねえ
  領有意志も無くば、いつまでたっても領有にはならんのです、笑

「外一島」とは「マノ島」即ち竹嶼の事

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/25 15:43 投稿番号: [8161 / 9207]
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/takeshima/jpn/JPN_HIS/JPN_HISTORY.html
しかし、外一島が現竹島との主張の根拠である「島根県付属書類に、外一島に該当する島が現竹島しかない」は、重大な情報の見落としがあることが判明した。添付図には、竹島(鬱陵島)のすぐ脇に竹嶼が「マノ島」という名前で描かれていたのである。(添付図)<引用おわり

++   島根県付属書類に「マノ島」がありましたが、これが意図的に無視されてかくされていたのです、「外一島」とは「マノ島」即ち竹嶼の事ですね。

韓国主張に反論松島は「現竹嶼」佐田白茅 

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/24 11:24 投稿番号: [8160 / 9207]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=987&thr=1&cur=812&dir=d

1869年「朝鮮国交際始末内探書」(外務省   佐田白茅)

ここで、示されている松島及び竹島について検証する。竹島については、「竹木又は竹より太い・・・・」の記述より、現鬱陵島を示すのは疑いの余地がない。松島については、「松島は、竹島の隣島・・・。これまで掲載した書類はない」と書いている。100km近く離れている現竹島を「隣島」と表記するはずがない。また、勝海舟が1867年に編纂した「大日本国沿海略図」により現竹島を「リエンコヲルトロツク」と表記しており、後半部分の記述と矛盾する。つまりここの松島は「現竹嶼」以外に考えられないのである。
また、鬱陵島を「竹島」とした理由は、佐田白茅が「大日本国沿海略図」を知っていたからである。なお、「大日本国沿海略図」では、現鬱陵島を松島と注記している。(勝が、現鬱陵島を竹島としてしまったのは、シーボルトの地図が原因と推察する)<引用おわり


++   henchin_pokoider01さんは、佐田白茅が言う 松島は「現竹嶼」であると検証しておりますね、わしも同感です、佐田白茅は勝海舟の「大日本国沿海略図」は当然ご承知のはづですよ。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)