竹島は日本領である その1 (H8.4.9)
投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2006/11/29 16:11 投稿番号: [8184 / 9207]
http://www.mars.dti.ne.jp/~ugazin/back_no/zizi_02.html
vol.2 竹島は日本領である その1 (H8.4.9)
(Sorry, we have no English service.)
竹島に関して島根県より資料を頂いたので、今回は竹島の歴史に触れたいと思います。以下、「島根県竹島の新研究」を参考にして歴史的事実を紐解いて行きます。
現在の「竹島」は、古くは『松島』と呼ばれており、「鬱陵島」が『竹島』または『磯竹島』と呼ばれていました。(混乱を避けるため、現在の島名は「」、昔の島名は『』で表記)
1561年(日本では戦国時代、桶狭間の翌年に当たる)以降の明清の各種日本地図には、『竹島』(=「鬱陵島」)は日本国の範囲内と考えられていたため、山陰道沖合に描かれていました。国内のものでは、桃山時代の日本図屏風に、隠岐と高麗の間に『磯竹』=(「鬱陵島」)という島が描かれており、日本領として認識されていました。文禄・慶長の朝鮮出兵時には、『竹島』を津懸りとして朝鮮へ渡ったとされています。
1614年(江戸時代、大阪冬の陣の年)、朝鮮の資料によると、
「・・・近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹即鬱陵島也」
とあり、日本人が『竹島』(=「鬱陵島」)を支配していたことが明らか。ちょうどこの頃、朝鮮の東莢府使と、宗対馬守との間で、「磯竹島は日本の所領」「鬱陵島は朝鮮の所領」と、互いに主張したがそれ以上の発展はなかった。
1618年、米子の大谷氏は江戸幕府から『竹島』(=「鬱陵島」)を拝領し、アワビ・海鹿等の漁猟や、檀木・桐等の伐採を行った。以後78年間、この大谷氏と、同じく米子の村川氏の交代で『竹島』(=「鬱陵島」)への渡海が行われた。その後、『松島』(=「竹島」)も拝領し同様に漁猟を行ってきた。が、この間、朝鮮人を見かけたという記録はない。
1692年(元禄5年)の渡海時、唐船5艘50人ほどの朝鮮人が上陸してアワビ等を取っているのを発見した。そして、この島は日本領である旨通告したが、こちらの人数が少ないのでやむなく帰港。
1693年(元禄6年)、またもや朝鮮人が多数上陸して漁をしていたため、その頭目と思われる2名を連れ帰る。1名はアンビシュンという名前だった。宗対馬守は2名を朝鮮政府に引き渡すとともに、『竹島』(=「鬱陵島」)に朝鮮漁民が侵入することを禁ずる旨を通告した。これに対し朝鮮側は謝罪し、両名を処罰することを伝えてきた。
1694年・1695年と、朝鮮人が多数在島したため上陸を断念、帰途『松島』(=「竹島」)にてアワビを採取。この間、宗対馬守と朝鮮礼曹とで数次にわたって交渉が続けられたが、幕府はこれいじょう『竹島』(=「鬱陵島」)へ渡っても無益と考え、大谷・村川氏の渡海を禁止して論争を打ち切ることとした。『竹島』渡海制禁後、当時の鳥取藩の海鹿魚油の需要は、『松島』によって賄われたと思われるが、それを証明する資料はまだ発見されていない。また、表向きは禁止されていたが、『竹島』密貿易は度々行われていたようで、中には死罪になったものもいた。その死罪申渡書の中に、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り云々」という文があることから、『竹島』は放棄していたが、『松島』は日本領と認識していたことがわかる。
明治維新後、『竹島』『松島』への関心が強まり、隠岐島人を始めとして『竹島』(=「鬱陵島」)へ漁民が進出するようになった。そして1881年(明治14年)、日鮮両国政府の外交交渉によって、日本漁船の「鬱陵島」渡航を禁止し、「鬱陵島」は朝鮮領土であることを確認した。
と、言うような感じで、「鬱陵島」は『竹島』と呼ばれていて元禄年間の紛争後は朝鮮領であるとされ、『松島』は隠岐国の属領として認識されていたことがわかる。
・・・ つづく
vol.2 竹島は日本領である その1 (H8.4.9)
(Sorry, we have no English service.)
竹島に関して島根県より資料を頂いたので、今回は竹島の歴史に触れたいと思います。以下、「島根県竹島の新研究」を参考にして歴史的事実を紐解いて行きます。
現在の「竹島」は、古くは『松島』と呼ばれており、「鬱陵島」が『竹島』または『磯竹島』と呼ばれていました。(混乱を避けるため、現在の島名は「」、昔の島名は『』で表記)
1561年(日本では戦国時代、桶狭間の翌年に当たる)以降の明清の各種日本地図には、『竹島』(=「鬱陵島」)は日本国の範囲内と考えられていたため、山陰道沖合に描かれていました。国内のものでは、桃山時代の日本図屏風に、隠岐と高麗の間に『磯竹』=(「鬱陵島」)という島が描かれており、日本領として認識されていました。文禄・慶長の朝鮮出兵時には、『竹島』を津懸りとして朝鮮へ渡ったとされています。
1614年(江戸時代、大阪冬の陣の年)、朝鮮の資料によると、
「・・・近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹即鬱陵島也」
とあり、日本人が『竹島』(=「鬱陵島」)を支配していたことが明らか。ちょうどこの頃、朝鮮の東莢府使と、宗対馬守との間で、「磯竹島は日本の所領」「鬱陵島は朝鮮の所領」と、互いに主張したがそれ以上の発展はなかった。
1618年、米子の大谷氏は江戸幕府から『竹島』(=「鬱陵島」)を拝領し、アワビ・海鹿等の漁猟や、檀木・桐等の伐採を行った。以後78年間、この大谷氏と、同じく米子の村川氏の交代で『竹島』(=「鬱陵島」)への渡海が行われた。その後、『松島』(=「竹島」)も拝領し同様に漁猟を行ってきた。が、この間、朝鮮人を見かけたという記録はない。
1692年(元禄5年)の渡海時、唐船5艘50人ほどの朝鮮人が上陸してアワビ等を取っているのを発見した。そして、この島は日本領である旨通告したが、こちらの人数が少ないのでやむなく帰港。
1693年(元禄6年)、またもや朝鮮人が多数上陸して漁をしていたため、その頭目と思われる2名を連れ帰る。1名はアンビシュンという名前だった。宗対馬守は2名を朝鮮政府に引き渡すとともに、『竹島』(=「鬱陵島」)に朝鮮漁民が侵入することを禁ずる旨を通告した。これに対し朝鮮側は謝罪し、両名を処罰することを伝えてきた。
1694年・1695年と、朝鮮人が多数在島したため上陸を断念、帰途『松島』(=「竹島」)にてアワビを採取。この間、宗対馬守と朝鮮礼曹とで数次にわたって交渉が続けられたが、幕府はこれいじょう『竹島』(=「鬱陵島」)へ渡っても無益と考え、大谷・村川氏の渡海を禁止して論争を打ち切ることとした。『竹島』渡海制禁後、当時の鳥取藩の海鹿魚油の需要は、『松島』によって賄われたと思われるが、それを証明する資料はまだ発見されていない。また、表向きは禁止されていたが、『竹島』密貿易は度々行われていたようで、中には死罪になったものもいた。その死罪申渡書の中に、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り云々」という文があることから、『竹島』は放棄していたが、『松島』は日本領と認識していたことがわかる。
明治維新後、『竹島』『松島』への関心が強まり、隠岐島人を始めとして『竹島』(=「鬱陵島」)へ漁民が進出するようになった。そして1881年(明治14年)、日鮮両国政府の外交交渉によって、日本漁船の「鬱陵島」渡航を禁止し、「鬱陵島」は朝鮮領土であることを確認した。
と、言うような感じで、「鬱陵島」は『竹島』と呼ばれていて元禄年間の紛争後は朝鮮領であるとされ、『松島』は隠岐国の属領として認識されていたことがわかる。
・・・ つづく
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