侵略国日本は国際社会の前科者

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/08 22:13 投稿番号: [8196 / 8458]
KY・・・・・意味:   空気読めない人

昨日、CMLにこんな人の投稿があったね。
転送だけど。

http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-April/008719.html

>・・・原発事故からどう復興していくかを学ぶという面に着目すれば、極めて時宜を得ている。「鑑賞に来る気になるのか」との心配は全く不要。この時期だからこそ、かなりの来場者を集めたことは間違いない。「被災者の心情」にしたって、目の前で起きている福島第1原発の事故の映像ほど放射能の恐ろしさを十二分に見せつけたものはないわけで、もはや、ちょっとやそっとのことでは誰も驚かないし、怒らないですよ。


これを書いた奴ってホント無神経な奴だな。
原発の放射能に現地は当然として今や日本国中がピリピリしているというのに・・・、コイツのブログを読んでいくうちにだんだんムカッ腹が立ってきたよ。

CMLでは反論する者いないのか?

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/08 21:34 投稿番号: [8195 / 8458]
>やっと、日本も   韓国並みになれるかどうかだな。


犬喰いは嫌だ!
同類(オトモダチ)にはなりたくない!

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: chiniasituita 投稿日時: 2011/04/08 17:12 投稿番号: [8194 / 8458]
特捜による取調べが   全面可視化される道筋がついてきた。
やっと、日本も司法手続きで   先進国並みになるということ、それは
やっと   日本が   韓国並みになったということでもある。

韓国はとっくに   可視化している。   つまり、司法については   韓国よりも日本は遅れていたが、
これで   やっと   韓国に   並ぶことができたということだな。

あのー、あれですよ、   可視化については、法相をはじめとして国会議員などが   何回か韓国にいって   どのように行われているのか
学ぶ事態になっていた。

司法のあり方ほどほど、その国の文明度を計るものはないということだから   韓国は死刑制度はほぼ廃していて、
日本人が気がつかないうちに   韓国のほうが先進化していたということだ。
まあ、日本の司法の後進国ぶりは   欧米からも飽きられてるというのは   おそらく   日本人自身は   知らないのだろう。
代用監獄とかですね、   拘束期間がないとか、   欧米ではありえないことが   いまでも日本では行われていて、そのこと自体が
日本の後進国振りを   彼らからすれば   示していることなのだ。


やっと、日本も   韓国並みになれるかどうかだな。、

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/07 08:24 投稿番号: [8193 / 8458]
なるほど

中国政府は中国国民を焼いて食べた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/04 23:49 投稿番号: [8192 / 8458]
中国政府は中国国民を6500万人殺しておきながら、中国の歴史教科書でこの大殺戮を日本軍がやったと教えている。
しかも、中国政府は自分たちが殺した中国国民を焼いて食べたことは教えていない。
だから私が正しいことを中国国民に教えよう。
「中国共産党政府は中国国民を6500万人殺戮して、この中国国民を焼いて食べた」

この記事は1968年7月の人食い記事である。

文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/04 19:48 投稿番号: [8191 / 8458]
今日、Mセンセイから反論されちゃったね。


>なぜなら、私は「暴言を吐くような人物は政治家やML管理人としてロクなことはしないだろうと考えます。」

nankinよ「この言葉、そっくりオンドレに返すわ!」と言ってやれいwww!

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/04 19:33 投稿番号: [8190 / 8458]
>戦争で負けた頃と同じ様な体制しか作れてないジャップ
成長がまるでない   それで世界全体に迷惑かける   三流人種ジャップ

>腹立たしいのは、日本人はいつからこんなにマヌケでセコくなったのかって!

やっぱり似てるわwww

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/02 17:49 投稿番号: [8189 / 8458]
私は市民派なので、相通じるものはありません。


まともな組織が作れない   隠蔽体質の村しか作れない   戦争で負けた頃と同じ様な体制しか作れてないジャップ
成長がまるでない   それで世界全体に迷惑かける   三流人種ジャップ

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/03/30 21:47 投稿番号: [8188 / 8458]
これはコピペ?

まぁどうでもいいやw

>そして、やはり大阪から徒歩いりした人たちが、避難所で、おにぎり、ぱん、スナック菓子を1000円以上で売りさばいていた、という酷い話もよくあったそうで、こいつらも日本人として、つるしあげるべきでしょう。


ビートたけし生放送で激怒「泥棒は撃ち殺せ。議員は作業服着るなら被災地行け」


「腹立たしいのは、日本人はいつからこんなにマヌケでセコくなったのかって!   泥棒が死体からお金を盗ったりさ、空き巣に入ったりさ、いろいろやるでしょ?   ああいうのはね、撃ち殺していいと思うんだよね」・・・・・・・・・・・・

http://rocketnews24.com/?p=81644

nankinは ビートたけし とどこか相通じるものがあるんじゃねーのw?ハハハ

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/29 20:42 投稿番号: [8187 / 8458]
今回は管の無能ぶりをさらけだして、救援物資そのものは現地についてもそのま
まで、避難所で、餓死した子供・老人がかなりでている惨状ですが、これだけとっ
てもクーデターとか起きないのが不思議な位です・・・

今回ほど酷くないとはいえ、神戸の避難所でも、なかなか救援物資が行き渡らず、
おにぎりの数が足りなくて、壮絶な取り合いになっていたそうです。
今回、海外メディアが、日本人は譲り合うと褒めてますけど、それは初期だけで
しょう、そのうち、物理的空腹に連日悩まされると、今度は、自然に奪い合いに
なります。

そして、やはり大阪から徒歩いりした人たちが、避難所で、おにぎり、ぱん、ス
ナック菓子を1000円以上で売りさばいていた、という酷い話もよくあったそ
うで、こいつらも日本人として、つるしあげるべきでしょう。

今回、そういうことがおこなわれているかわからないけど・・・

エドガー・スノーのつづき7

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/29 03:57 投稿番号: [8186 / 8458]
  鈴木氏によると、「スノーはアメリカ人にとって、神格化された地位にあったルーズベルトと三回も個人的な会談の時間を持った知識人であり、充分に信頼されている人物であった」のです。
  それゆえ、スノーの著作は、米国人には信憑性が高く、東京裁判における日本断罪のシナリオの原本とまでされたようです。

キーナン首席検事の冒頭陳述を鈴木氏は、次のようにまとめています。
  「日本の目的は世界征服であった。そのために、日本は侵略のための殺人教育を続けてきた。それは組織的、且つ計画的な共同謀議によって行われた。そして、そのターニングポイントとなった年月は、1927〜28年であった」と。
  この筋書きは、スノーが構成した論理そのものです。「1927〜28年」とは、田中上奏文を暗示する年代です。私見を述べますと、キーナンは偽書の疑いのある田中上奏文の名前はあげずに、この文書をスノー、そして宋慶齢が広く宣伝したように理解し、日本の罪状をつくりだすタネ本としたのでしょう。
  鈴木氏によると、スノーの『アジアの戦争』は、初めの部分は、日本では長年、「殺人教育」が行われ、その最初の成果が「南京虐殺事件」であるという構成になっています。これと同様に、東京裁判の検事側は、まず「日本の軍事教育」を最初に出しました。そして、「南京事件」は「日本人の度肝を抜く事件」として、裁判初期の段階で、とりあげられたのです。
  南京事件について、『アジアの戦争』がどのように誇張・捏造したかは、既に述べた通りです。スノー=キーナンの筋書きの中で、「南京大虐殺」という稀代の大嘘は、実に効果的に日本の断罪に用いられたわけです。
  東京裁判が終了した約1年後、昭和24年(1949)に、スノーが支援し続けた中国共産党は、「中華人民共和国」の成立を宣言しました。スノーはこの国に、限りない期待と希望をもっていました。そして、昭和35年(1960)に初めて、共産中国を訪れました。

  2年前から推進されていた毛沢東の「大躍進」政策は、当時、中国の農工業を混乱させ、大量の餓死と破壊をもたらしていました。しかし、スノーは、現実を見ることなく、人民公社を肯定し、粛清のうわさを否定し、毛沢東の個人崇拝をも肯定しました。
  昭和45年(1970)8月、スノーは戦後3回目の中国行きを行いました。全中国は、41年(1966)からの文化大革命の嵐におおわれ、国中が揺れ動いていました。毛沢東らは、最高の礼を以って、スノー夫妻を迎えました。そして建国21周年記念日に当たる10月1日、天安門前に作られた舞台の上で、スノー夫妻は、舞台の中心に、毛沢東と共に並び立ちました。
  百万人にのぼる若者たちは、口々に「毛沢東主席万歳!」を叫び、赤いネッカチーフを風になびかせながら行進します。スノーは毛沢東と共に、熱狂的な紅衛兵たちに応えました。
  毛沢東とスノーが天安門前で紅衛兵に手を振る写真は、11月19日、毛沢東の77歳の誕生日の人民日報に、大きく掲載されました。その写真説明には「中国に友好的なアメリカ人」と書かれていました。
  こうしてスノーは、毛沢東の個人崇拝と強権政治に荷担し、文化大革命という権力闘争を美化することにも貢献したわけです。

  今日、私たちは、中国の「大躍進」から「文化大革命」にいたる20年間とは、毛沢東の失政・暴虐による、混乱と破壊の時代に過ぎなかったことを知っています。
  毛沢東は、スノーが描いた「やせたリンカーン」ではなく、「言葉巧みなスターリン」だったのです。
  スノーの共産主義に対する思い入れが、全く誤ったものだったことは、明らかです。しかし、こうした根本的な誤りを犯していた人物が、戦前、わが国を、世界に向けて悪宣伝していたのです。
  スノーの悪宣伝は、清算された過去の逸話ではありません。冒頭に、鈴木明氏の言葉を引きました。「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である」と。この南京事件の虚構の鍵を握っていたのは、スノーでした。
  南京事件だけではありません。現在も我が国の教育や歴史認識を支配している東京裁判史観もまた、少なからず、反日・連共のデマゴーグ、エドガー・スノーが生み出したものでした。

エドガー・スノーのつづき6

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/29 03:43 投稿番号: [8185 / 8458]
  スノーについて重要なことは、スノーはルーズベルト大統領と会見し、彼の対中・対日政策にまで影響を及ぼしたほどの権威あるジャーナリストだったことです。
  昭和12年に『中国の赤い星』が出版されると、大統領の情報秘書官ハロルド・イキスが徹夜でこの本を読み通し、早速ルーズベルトにその内容を報告したという話は、有名です。
  そのことがもとで、日米戦争がはじまったすぐ後に、ルーズベルトは多くのアメリカ人ジャーナリストの中で、特にスノー個人を大統領執務室に招きました。スノーの言葉を借りれば、「私が大統領を取材するのではなく、大統領のほうが、私を取材した」のでした。
  鈴木氏によると、ルーズベルトは「全面的にスノーに賛成の意向を表明」し、スノーはルーズベルトへの「個人的情報提供者の一人」となったということです。
  興味深いことに、第2次大戦中、スノーは昭和17年(1942)10月から2度にわたって、延べ3年近くをモスクワで送っています。そして書いた本は、鈴木氏によると、「本音よりも美化されたソ連に関する本」でした。
  スノーは、昭和19年5月に、ソ連から一度アメリカに帰ったときにも、ルーズベルトに会っています。そして、昭和20年2月、ルーズベルトはヤルタ会談から帰ったすぐあと、スノーを招いて、長い時間語り合いました。これが三度目で最後の会談となりました。
  一体彼らは、何を語り合ったのでしょう。著書には書かれないこともあったでしょう。素人の気楽な推測を述べますと、スノーは、戦時中、ルーズベルトから依頼を受けて、米ソ関係にかかわる行動をした可能性があると思います。また、同時に中ソ間のパイプとなっていた可能性もあると思います。

  ひとつの仮説を挙げるならば、スノーを中心として、
  スターリン⇔毛沢東⇔宋慶齢⇔スノー⇔ルーズベルト⇔ソ連スパイ⇔スターリン
という円環があったのかも知れません。

  さて、スノーの『アジアの戦争』は、東京裁判においても、重大な役割を果たしていたと見られます。鈴木氏は次のように書いています。「僕は東京で行われたこの軍事裁判は、スノーの1冊の本『アジアの戦争』の存在なくしては、あのような形で進行しなかったと確信している」と。これも氏による重大な発見です。
  以下、鈴木氏の記述をまとめてみますとーーアメリカの首席検事キーナンが、東京裁判の冒頭陳述を作るに当たって、何を参考にしたのか、具体的な資料は残っていません。しかし、当時アメリカ人が日本を理解するに当たって、アメリカ国内にそれほど多くの参考書があったわけではありません。
  スノーの著作は、その数少ないものの一部でした。しかも、そこには田中上奏文が引用されており、満州事変から真珠湾までが系統的に描かれていたのです。こうした本は、当時のアメリカでは、スノーの著作しかなかったのです。
  鈴木氏は書きます。昭和20年、東京裁判の「日本にやってきたアメリカ検事団が、このとき既に進行していたドイツのニュルンベルグ裁判を参考にして日本という国が、『計画的且つ組織的』に『世界征服』という野望を持って『共同謀議』し、その結果が『真珠湾攻撃』に結びついた、というシナリオを描こうと思っていたことは、当然である」と。

  ニュルンベルグ裁判では、ナチス・ドイツは、ヒトラーの著作『わが闘争』をバイブルとして「計画的且つ組織的」なヨーロッパへの侵攻、さらに千年も滅びることのない「第3帝国」の完成を夢見て、白人至上主義、民族の優位性、ユダヤ人の撲滅、民族浄化政策を「計画的且つ組織的」に行ったと見なされました。

  『わが闘争』は、1925年に書かれており、1935年のベルサイユ条約破棄、1938年のオーストリア併合、さらにチェコスロバキアを保護領にし、1939年にはポーランドを手に入れるなど、ナチスの行動を、『わが闘争』をもとに裁くことは、筋が通っていました。しかし、アメリカ検事団は、日本の中には「わが闘争』のような、適当な本を探し出すことができませんでした。

  鈴木氏によると、「この中で信頼できる1冊の本が『日米戦争』の数ヶ月前に発行された、エドガー・スノーの『アジアの戦争』である。このときスノーは既に『日米戦争』を予言(注:昭和16年の年内に、と)し、事態はまさに、その通りになったのである。その内容は、文字通り日本の『軍国主義政策』の根幹を描いたものであり、文章も内容も、簡潔で要を得ていた」というわけでした。

エドガー・スノーのつづき5

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/29 03:30 投稿番号: [8184 / 8458]
  鈴木氏によると、昭和16年にスノーは『アジアの戦争』を刊行したころ、「日本が中国に対して行っている侵略行為の最終目標は、東アジアに新しい秩序を創ることにある。日本は中国に存在している一切の資本保有者を排除するのが目的である。つまり、最初の相手は中国だが、やがてその目標は必ずアメリカにも及ぶ」と、繰り返しアメリカ国民に訴えました。

  そして、ナチス・ドイツの動向と、日本軍国主義は同じように危険である、と訴えたのです。そして、アメリカ人に対して、アジア問題において「中立、不干渉」はあり得ないことを説いて回りました。

  鈴木氏は書いています。「『アジアの戦争』は…頭の先から爪先に至るまで、ひたすらに『軍国主義日本』を憎悪し、ただ憎悪するだけではなく、アメリカ政府がその『中立政策』を捨て、世界平和の敵・日本に対して、武力介入を余儀なくさせることを目的とした『政治的』な著作だった…ここで使われた形容詞、エピソード、結論などは、常識をこえた激しいものであり、特に日本に対しては、『日本という国を、この世から抹殺する』という目的がはっきりしている…アメリカ人が『アジアの戦争』を読めば、アメリカはすぐにでも日本に宣戦布告をし、中国を救わなければならないという気持ちにさせられる。その意味では『アジアの戦争』は、完璧といってもいい、見事な内容になっていた」と。

  私は、『アジアの戦争』は反日プロパガンダ、対日戦争の扇動文書と見てよいと思います。ルーズベルトの周辺にはソ連のスパイがいました。その書が出された昭和16年には、スパイたちが暗躍していたのです。真珠湾攻撃より以前の対日先制攻撃計画を推進したカリーや、ソ連の指令を受けてハル・ノートを起草したホワイトらがそれです。彼らは大統領に対して対日戦争工作を行っていました。(7)

  スノーの著書は、スターリンがアメリカを対日戦争に引き込み、日米を戦わせようとした謀略と、基本的な方向において一致しています。それが単にスノー個人の考えなのか、それとも彼に巧みに働きかける宋慶齢や、あるいはその背後にいる共産勢力の意思を反映したものなのか、今後の研究が期待されます。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/27 17:04 投稿番号: [8183 / 8458]
976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 09:36:34.71
日本うぜ
日本人は全力で地球汚染の責任とれよ
具体的には各国に賠償金1兆ずつ
労働力の提供

尾崎秀実という人物のつづき12(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 12:19 投稿番号: [8182 / 8458]
■10.「東亜における新秩序」の人柱

  尾崎が「中央公論」昭和14年1月号に発表した「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」では、近衛の「東亜新秩序」声明を引用して、「『東亜共同体』は事変解決の方策の不可欠な重点となった」と述べつつ、こう言い切った。

  一身を擲(なげう)つて国家の犠牲となつた人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき「東亜における新秩序」の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。

  確かに日華事変に出征した将兵の間には、この戦争が来るべき日中和平の礎になると考えて、一身を擲った人々も少なくなかったであろう。茅野老に和平工作を依頼した上海派遣軍司令官・松井石根大将もその一人であった。松井大将は孫文の大アジア主義に共鳴して「大亜細亜協会」会長にもなっていた。
[b]

  しかし尾崎の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。共産主義社会になれば、絶対的な平和が訪れる、そう信ずる尾崎にとって、確かに日華事変での犠牲者は「東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱」なのであった。

  共産主義革命後の「終局的な平和」の為なら、国民を欺いて日中戦争に駆り立てて「人柱」にすることも許されると尾崎は信じていた。尾崎は「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と命じたコミンテルンの忠実な使徒であった。
(文責:伊勢雅臣)

尾崎秀実という人物のつづき11(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 12:12 投稿番号: [8181 / 8458]
■7.茅野老の日中和平工作■

  尾崎のグループは国内世論を誘導するだけでなく、実際に国民党政権との和平の動きを妨害した。孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下の国民党首脳部とも親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将の依頼により、昭和12年10月頃から、日中和平に乗り出した。

  茅野老は国民政府からも信頼されており、翌13年4月には即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意に至った。茅野老が帰国してこの案を説明すると、近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力することになった。茅野老は早速、上海から香港へ渡って、国民党政府と接触し、5人の代表を東京に派遣する事となった。

  しかし、茅野老が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は全く変わっていて「中国側に全然戦意なし、この儘(まま)で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」という。

■8.天才的な謀略■

  茅野老が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意が出来ている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接、聞いたという。

  茅野老が香港に行く途中の上海で、松本と会って、交渉の過程を話したのだが、この松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなった人物である。後に茅野老は松本との会談を「運命の日」だったと述懐している。

  松本が連れてきた高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝える一方、蒋介石にも「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野老の和平工作はあと一歩という所で水泡に帰し、その後、高宋武、松本重治、尾崎秀實らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。

  汪兆銘は国民党の副総裁であり、あくまで党を分裂させずに、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよう願っていたのだが[a]、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようという尾崎らの謀略はまさに天才的としか言いようがない。

■9.操られていた近衛内閣■

  近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。茅野老の和平工作はこの後に何とか蒋介石政権との和平を確立しようとしたものであった。

  しかし、その望みも消えて、同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明の中で「国民政府といえども従来の指導政策を一擲(いってき、投げ打って)し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。

  まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに乗せられていたのである。こうして日華事変は泥沼化していった。

尾崎秀実という人物のつづき10(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 11:52 投稿番号: [8180 / 8458]
■4.国共合作へのコミンテルン指示■

  1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのである。

  翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共合作が実現した。

  この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を知っていたものと思われる。

■5.近衛内閣のブレーンとなる■

  この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作り上げた中心機関である。

  翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。

  この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。

■6.「東亜共同体」の謀略■

  昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。

  これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那による「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實による「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などである。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされたり」とは、まさにこの事か。

  尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。

「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい -- -それこそ僕等の考へている東亜共同体 -- -本当の意味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと以外にないのじゃないか」

  尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていたのである。

尾崎秀実という人物のつづき9(修正)

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 11:36 投稿番号: [8179 / 8458]
尾崎秀實
〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
  日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
■1.近衛文麿を操った「見えない力」■

  昭和18(1943)年4月、衆議院議員・三田村武夫は近衛文麿を訪れて、戦局、時局の問題について懇談した際、「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次ぎに来るものは共産革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言った所、近衛はしみじみとした調子で、第1次、第2次近衛内閣当時のことを回想してこう述懐した。

「なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてしまつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼に見えない力にあやつられてゐたような気がする」[1]

  近衛の第一次組閣は昭和12(1937)年6月。この1ヶ月後の蘆溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発し、また国内では翌年3月に国家総動員法が成立した。その後の平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦にも不介入の姿勢を保っていたが、近衛が第2次組閣をした昭和15(1940)年7月以降、日独伊の三国同盟締結、仏領インドシナ進駐と日米対決への決定的な道を歩み始めた。

  こうして見ると、近衛内閣の登場のたびに、政局は大きく戦争へと進んでいる。三田村議員の言う通り、まさに近衛公爵の責任は重大であった。その近衛はその当時を振り返って、「見えない力にあやつられてゐたような気がする」と言っているのである。その見えない力とは何だったのか?

■2.軍人を踊らせた左翼分子の暗躍■

  近衛はこの「見えない力」について、もう戦局も押しつまった昭和20(1945)年2月14日、天皇にこう上奏した。

「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之(これあり)候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候」
「満洲事変、日華事変、そして遂には大東亜戦争にまで我が国を引きずり込んで来たのは、軍部の組織的計画であるが、これを取り巻く一部官僚及民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候」

■3.尾崎秀實の「赤い東亜共同体」構想■

  日本を共産革命にまで引きずり込もうとした「民間有志」の中心人物が尾崎秀實(ほつみ)であった。尾崎は昭和3(1928)年11月、朝日新聞社の特派員として上海に駐在して、そこで多くの左翼文学者たちと交わり、半植民地化された中国の現状から、マルクス主義への傾斜を深めていった。

  さらに尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲを紹介された。ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母を持ち、ドイツ共産党を通じて、モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。

  ちょうどこの年に開かれたコミンテルン第6回大会では、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国ソ連は無事であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主義革命を進めることができる、という戦略である。

  これを中国に適用して、尾崎は日本帝国主義と蒋介石軍閥政権を噛み合わせて、両者共倒れにさせて、日本と中国における共産主義革命を実現させ、そこからソ連、中国、日本を中核とした東アジア諸民族の共同体を目指そうと考えた。まさに「赤い東亜共同体」構想である。

エドガー・スノーのつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:26 投稿番号: [8178 / 8458]
◆「南京大虐殺」を誇張・捏造
  鈴木氏は、スノーの『アジアの戦争』(昭和16年春刊行)こそ、「南京大虐殺」を全世界に悪宣伝した本だったことを明らかにしました。

  私の理解では、スノーが、昭和12年12月の南京事件を、田中上奏文に書かれた世界制覇計画の一環としてとらえていたことが、重要です。そして、彼は、反日・連共の推進のために、南京事件を敢えて「大虐殺」事件として誇張・捏造したのだろうと思います。これはジャーナリストのモラルを超えた、デマゴーグ(悪質な宣伝・扇動をする者)の仕業です。

  『アジアの戦争』での、南京事件に関するスノーの記述は、大意、次のようになります。これは鈴木氏の訳をまとめたものです。

  「南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世間に聞こえている。南京国際救済委員会の人たちが私に示した資料から、私が見積もった結果によれば、日本は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人、子供だったのである」
  スノーはまた、「いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者は、すべて強姦された」とも書いています。

ここで、スノーがこのように書くまでの経過を記します。昭和12年12月の日本軍の南京攻略について、最初に大規模な虐殺があった報道したのは、英国『ノースチャイナ・デイリーニュース』でした。その数は1万人でした。この数字を4万人にまで拡大したのが、南京大学教授で宣教師でもあるM・S・ベイツ教授でした。ベイツは「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦闘員だった」と主張しました。ベイツの主張は、昭和13年7月に刊行された『戦争とは何か』という本に掲載されます。この本の編集を行ったのは、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・ティンパーリでした。ティンパーリは、中国国民党宣伝部に雇われたエージェントであったことが、立命館大学の北村稔教授によって明らかにされています。国民党国際宣伝部は、宣伝目的のために、ティンパーリに『戦争とは何か』の執筆を依頼したのでした。(4)

そのうえ、4万人虐殺説を唱えたベイツ自身も、国民党中央情報部顧問でした。南京事件は、中国国民党による反日工作のために作り上げられたのです。
ところがその後、中華民国の公式記録は、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。亜細亜大学の東中野修道教授は、ティンパーリが報じた死者約4万人という数字が、その後数年間、現地の刊行物の再録記事のなかからことごとく削除されていたことを明らかにしています。(5)

  この否認されていた「虐殺説」を改めて持ち出した者がいます。その人物こそ、エドガー・スノーだったのです。
スノーは、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供だった」と書きました。ベイツの説では、約4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく、女子供、と言い換えたわけです。また、「10歳から70歳まで、すべて強姦」などと書くのは、ほとんど事実を確かめられるわけもない、無責任な表現です。

  しかし、『アジアの戦争』における南京事件の表現は、インパクトが強く、アメリカを中心に、親中反日の国際世論をつくるうえで、絶大な効果を生んでいきます。これに便乗して、一気に桁を上げて「20万人虐殺」としたのが、アグネス・スメドレーです。(『シナの歌ごえ』昭和18年刊)

  スメドレーは、スノー以上に、中国共産党に深く関わり、ソ連共産党の影の濃い人物です。ここから、東京裁判の20数万、30万という数字のうそまでは、もう一声です。彼女については、別項目に譲ることにして、話を続けます。(6)

エドガー・スノーのつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:20 投稿番号: [8177 / 8458]
  スノーは、昭和16年に刊行した『アジアの戦争』において、この疑惑の文書を全世界に知らしめました。しかもスノーは、ここで一つの犯罪的な誇張を行っています。鈴木氏によると、前著『極東戦線』では、田中上奏文を「田中メモランダム」と呼んでいました。メモランダムは「個人的なメモ」を意味する言葉です。しかし新著『アジアの戦争』では、「田中メモリアル」という全く意味の違う言葉を使っています。メモリアルは、鈴木氏によると「ある歴史的な価値を持つ」ものにしか使わない言葉です。私は、スノーは、明確な目的意思をもって、この言葉を選び、親中反日の国際宣伝工作を行ったのだと思います。

  また、ここでも反日・連共の烈女・宋慶齢が、スノーに重大な影響を与えたと考えられます。鈴木氏によると、宋慶齢は、昭和12年10月、日中の上海戦の中で、英語によるラジオ放送を行いました。この放送において、「宋慶齢は、『日本軍閥が行っている侵略行動は、日本軍閥が、そのバイブルともいうべき<田中奏折>(=上奏文のこと)に従って行動している、ということを示すだけで、それ以上、どのような説明をする必要があるでしょうか』と言ったのである。『田中奏折』という四つの漢字は、『それ以上何の説明もする必要はない』と断言できるほど、強いインパクトで外国人に訴える力がある、と宋慶齢は信じていたのである」と、鈴木氏は書いています。

  私は、スノー自身は中国語・漢文はほとんどわからないでしょうから、そもそもスノーが田中上奏文の存在を知り、それに注目したのは、宋慶齢によるだろうと考えます。スノーは、田中上奏文に対する彼女の激しい反発を聞かされ、大いに共鳴したのだろうと思います。

  鈴木氏は、「スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったこと」を重視しています。そして、「戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折である」と、見ています。

  ここで、田中上奏文について、私の認識を再整理しておくとーー田中上奏文は、おそらくソ連GPUによって偽造され、コミンテルンを通じて漢文版が中国で出版された。そして宋慶齢によってスノーが大いに注目するところとなり、「アジアの戦争』で全世界に報道された。アメリカ共産党による英語版の頒布が、相乗効果を上げた。そして、後に述べるように、この偽造文書が、東京裁判における日本断罪のシナリオのもととされた。スターリンの謀略は、こうしたルートでも貫徹していたのかも知れない。

エドガー・スノーのつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:17 投稿番号: [8176 / 8458]
  鈴木氏は書きます。その結果として「スノーはここで、宋慶齢を苦しめ、中国人民に被害を与えているのは、まぎれもなく、隣国の日本である、と確信するようになった。これはもう『信念』などという言葉を超えて、『信仰』という概念に近いものであった」と。「この二人は、日本のことを全く知ろうともしなかったし、日本の中にある恥部だけを強調することに熱中していた、という点でも共通している」と、鈴木氏は見ています。

  昭和11年(1936)5月、スノーは、宋慶齢に、「共産地区に行き、毛沢東に会いたい」と言いました。当時、国共合作を進めようとしていた中国共産党指導部は宋慶齢に対し、アメリカ人の新聞記者を求めていたのです。中共と通じ合っていた宋慶齢は、スノーを、中国ソビエト地区にある延安へ行かせることにしました。

  この時、もう一人の候補がいました。それは、やはり彼女と長くつきあっていたアグネス・スメドレーでした。スメドレーもまた日本の進路に重要な影響を与えた人物であり、別の項目に書くことにします。(3)

宋慶齢は、中国共産党への理解も少なく、党員との交わりもなく、色のついていないスノーの方を敢えて指名しました。彼がアメリカ人であり、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』など、アメリカの広い読者層に読まれる背景を持っていたことも理由でした。この宋慶齢の選択は、親中反日の国際工作に、またとない効果を生み出すことになりました。

◆米国民を親中に変えた『中国の赤い星』
  スノーは、宋慶齢の力添えによって、中国共産党指導部のいる延安に取材に行きます。そこで、スノーは世界ではじめて、毛沢東らの中共指導者にインタビューをしました。その体験取材をもとに書いたのが、有名な『中国の赤い星』です。これは、米英で大ヒットとなりました。昭和12年(1937)に、この本が出版されると、アメリカのマスコミは口をそろえて称賛しました。そして、「アカ嫌い」のアメリカ人を、中国寄りに変えてしまったのです。
  読者は、スノーを通じて、中国の共産主義者たちは、ロシアの革命家たちと違って、「血に飢えた権力主義者」ではないと理解しました。スノーの描く毛沢東は、日本帝国主義は「中国の敵であるだけではなく、太平洋に利害を持つ国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエトの敵でもある」と言い、「日本の脅威を恐れている国」を「友邦と考え、その協力を望んでいる」と語ります。そして、読者には、毛沢東は、蒋介石らの敵に対しても協力を呼びかける、穏健な「やせたリンカーン」として映ったのでした。
  スノーは、共産主義者ではなく、ソ連や米国共産党とは距離があったと見られています。この点は、共産主義との関係が濃いスメドレーと違います。鈴木氏は『中国の赤い星』は、「非共産主義者が描いた共産主義世界の物語であればこそ、これほど多くの共感の賞賛をあびた」と書いています。
  『中国の赤い星』の出版は、ちょうど南京攻防戦の前、日本がアメリカの砲艦を誤爆した「ペネー号事件」が起こって、アメリカ人の中国への関心と同情が高まっていた時期でした。このタイミングが、本書の効果をより大きなものとしました。アメリカの世論は、圧倒的に親中反日となってしまいました。日本にとっては、不幸な誤爆が、さらに大きな禍を生んでしまったのです。
◆『アジアの戦争』が田中上奏文を広宣
  スノーは昭和16年(1941)、日米開戦の年の春に、『アジアの戦争』をアメリカで刊行しました。そして本書は、実に強烈な反日宣伝効果をもたらしました。

  本の扉、つまり表紙には、次の言葉が掲載されています。
  「20世紀の中ごろ、日本はアジアの平原でヨーロッパと出会い、世界の覇権をもぎとるであろう(大隈伯爵、1915年)」と。
  大隈とは、宰相・大隈重信です。また、第1篇第1章の最初の一行には、次の言葉が書かれています。
  「世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ(田中手記)」と。
  「田中手記」とは、『田中上奏文』のことです。今日、ソ連による偽造という可能性が高いと見られている、かの謀略文書です。

田中上奏文が初めて世界に登場したのは、昭和4年(1929)、シナで、漢文版としてでしたが、スノーは早くからこの文書に言及しています。 昭和6年ごろから書いた『極東戦線』の中で、スノーは、田中上奏文の主旨を次のように書いています。
  「日本の繁栄のためには、まず資源豊富な満州を手に入れなければならず、また将来中国を初めとするアジア諸国を征服するためには、過去に日露戦争でロシアと戦ったように、まずアメリカをつぶさなければならない」と。

エドガー・スノー

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 07:00 投稿番号: [8175 / 8458]
細川一彦のオピニオンより

昭和の日本は、共産主義に同調する外国人ジャーナリストの活動によって、大きく進路を狂わされました。そうしたジャーナリストの一人が、エドガー・スノーです。スノーは、偽書『田中上奏文』を世界に伝え、「南京事件」を捏造・誇張して報道し、米国の世論を対日戦争へと誘導しました。(1)(2)
◆「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」
田中上奏文をはじめ、南京事件、東京裁判、中国共産党とそのシンパの動向などについての研究が進んでします。なかでも鈴木明氏の『新・南京大虐殺のまぼろし』(飛鳥新社)は、重要な発見に満ちたものです。

  本書の帯には、「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」とあり、鈴木氏の言葉として、次のような言葉が掲げられています。

  「…僕が今回書いたことは、戦後半世紀以上を通して、世界中の誰もが書かなかったことであり、気づかなかったことでもあり、『南京大虐殺』の、本当の意味での核心にふれたものであるという点だけは、強い自信を持っている…」と。

  鈴木氏は巻頭に、「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である。この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか」と書いています。その人物こそ、エドガー・スノーです。

  鈴木氏は本書の「最も大きなテーマ」は、次のようなことだと書いています。「僕がここで、『田中奏折』、つまり『田中上奏文』のことにここまでこだわるのは、実はエドガー・スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったことと、戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折』であると、信じているからである。そのプロセスを追っていくことがこの本の最も大きなテーマなのだ」と。

  鈴木氏の追求の過程は、ノンフィクションの迫力に満ちています。以下、私の特に関心をもったことをまとめながら、若干の考察を加えてみます。

◆烈女・宋慶齢との出会い
  アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、昭和6年(1931)の冬に、中国・上海で、宋慶齢と知り合います。鈴木氏は、次のように書きます。「後にスノーは、『もしあのとき宋慶齢に会わなかったら、私の人生は変わっていたかも知れない』と書いているが、これを『世界情勢が変わっていたかも知れない』と書いても、決して過言ではなかったであろう」と。

  宋慶齢は、近代シナを代表する大富豪・宋家の次女です。彼女は、シナ革命の父・孫文の夫人兼秘書となり、国民党左派の指導者として共産党と反日で共闘し、革命後は中華人民共和国の国家副主席にまでなりました。

  ロシア革命後、孫文はソ連と接近しました。大正12年(1923)には、ソ連から孫文のもとに、レーニンの愛弟子・ボロディンが、国民党顧問として送り込まれました。宋慶齢はボロディンと親密となり、国民党で誰よりもよく、共産主義を理解しました。

  翌年、孫文が死去すると、宋慶齢のソ連への思いはさらに強くなり、昭和2年(1927)4月に、モスクワに行きました。その後、彼女は、昭和6年8月までの約4年間を、ソ連で過ごしました。

  鈴木氏によると、ソ連滞在中、宋慶齢は、「中国における民主・自由の実現のために、国民党に対する敵意を燃やしつづけ、『日本帝国主義』を憎悪しつづけ」ました。そして、帰国後は、蒋介石や日本と戦う決意をします。そして彼女は、中国共産党指導部と通じ、国民党内で反日・連共路線を推進しました。

  20歳代だった若きスノーは、こうした宋慶齢と出会い、大きな影響を受けました。宋慶齢は、幼少から英語教育を受け、米国に留学もしており、英語に堪能でした。スノーは、宋慶齢から中国や、孫文や、中ソ関係などについて、多くの話を聞きます。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: setumeisekinin7 投稿日時: 2011/03/25 21:29 投稿番号: [8174 / 8458]
菅直人首相の自宅のある武蔵野市全域が計画停電の対象外となったことを不公正とする批判の声が上がっている。菅直人首相の随行秘書であった松本清治・武蔵野市会議員は地元住民に配布したビラに「(武蔵野市を除外する)松本清治の要請が実現しました」と記載した。
【計画停電】 市議が要請か、武蔵野市全域は停電対象外   菅首相の自宅も…同市議は菅氏の元「随行秘書」
497 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:02:20.96 ID:4+lSgeFG0
JRの発電所があるのは同じグループである小金井市だからな!
決して武蔵野市じゃないから!
巧妙なカムフラージュに騙されるなよ!
ついでにいうと武蔵野変電所も武蔵野市じゃなくて西東京市だからな!
503 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:05:09.05 ID:UfYipCpTO
もはや日本国じゃないな武蔵野市は。
506 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:05:56.19 ID:wIAAV9jD0
埼玉は一緒に停電してる足立の方を引き取ります(元はといえば足立は大宮とその周辺て意味ですから)。
武蔵野市は更地にして火力発電所でも立てて置いてください。
513 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:06:59.80 ID:GXbRhKFK0
人の不幸に付け込む
火事場泥棒みたいなもんだな
腐ってる
516 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:08:41.21 ID:+EiF8zML0
栃木県の被災地でも停電があるんだが
結構寒いんだぞ、栃木は
517 :名無しさん@十一周年:2011/03/25(金) 21:09:13.19 ID:QNfaNhWVO
えー! まじかよ 一介の市議ごときが出来る仕事じゃないな
やはり菅の口添えが在ったか 市議が菅との関係チラつかせたとしか思えん

本多勝一「中国の旅」のニセモノの写真

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/24 04:56 投稿番号: [8173 / 8458]
本多勝一は彼の著著「中国の旅」で以下の通州事件の虐殺写真を載せて南京大虐殺を日本軍がやったと説いてまわった。
この本は当時ベストセラーになり日本中に衝撃を与えた。前年には既に朝日新聞でこの連載記事を載せている。
以下は、中国人が日本人に対して行なった虐殺である。

「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)

満州国の正当性のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/22 11:42 投稿番号: [8172 / 8458]
  ときは流れて1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件により、結果的に「日中戦争」に突入する。在留邦人や在留公館が襲撃された義和団事件のあと、大陸には日英米仏独伊西墺(オーストリア・ハンガリー帝国)の8ヶ国が、北支地区には日英米仏伊の5ヶ国が駐留していた(北京議定書)。その北支地区・盧溝橋にいた日本軍が7日午後10時40分ごろ、何者かに攻撃を受けたのである。

  だが、対米戦を見越していた日本は、和平の途を模索する。戦闘開始から5日後の12日には、停戦を約束する松井・秦徳純(しんとくじゅん)協定が一旦は締約されるも、蒋介石は戦線拡大を見込んで軍備を増強、25日には廊坊(ろうぼう)事件、26日には広安門事件、29日には通州事件を引き起こし、協定は幾度も反故にされた。それでも、新たな停戦協定を結ぶべく、8月9日から船津和平工作を試みるが、大山中尉殺害事件が発生、第二次上海事変に突入する。沈静化を願う日本をよそに、中国側のこうした反逆があったのだ。
  以後、中国大陸に日本軍が群がるわけだが、これは戦線拡大というやむをえない事情によるものだ。仏印進駐へと至った要因が援蒋ルートの遮断、つまり米英が中立義務を果たさなかったことに対する報復であることは誰もが認めるところである。そして、このいずれも協定が結ばれての駐留であった。

  1945(昭和20)年8月15日、わが国は敗戦を迎えた。大陸では、国共内戦を経た1949(昭和24)年、中国共産党による一党独裁国家が成立。「漁夫の利」といったところだろうか。わからないことはまだまだ多いが、巷の書物を読めば、習った「歴史」とはずいぶん異なる歴史に出会える。これは「改竄」でも「妄想」でもなければ、「修正」でもない。真実を知るための弛まぬ営為である。

満州国の正当性のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/22 11:40 投稿番号: [8171 / 8458]
  満州は地政学的に優位なだけではなく、それ自体が価値を持つようになった。日本が価値ある土地に育てたということである。そして、満州の権益を得るに至った日清、日露戦についても、日本の立場を肯定している。

  1894年ないし95年の日清戦争は、その後の事件が立証したように、ロシア自身の利益のために、干渉する機会を与えた。(同報告書第23項〈a〉〈2〉)
  この戦争はロシアの侵害の脅威にたいして、自衛のため生死を賭して戦ったものである。(同報告書第29項〈b〉〈2〉)

  リットン報告書には疑問なところもあるが、このように納得できるところもあるのである。左派が「世界が日本の侵略を認めた文献」の一言で片づけてしまうのは、あまりに乱暴でもったいない。むしろ、「見られては困る何か」を勘繰りたくもなるものである。その最たるメディアの朝日、毎日両紙の当時の報道をご覧に入れよう。

  禍の基は理も非も無く、何ものをも倒さずんばやまないとする支那側の憎上慢であって、今日まで事なきを得たのは、日本の辛抱強い我慢の為であった。中村大尉事件は積薪に油を注いだもの、満鉄線路の破壊は積薪に火を放ったもの、日本の堪忍袋の緒が見事に切れた。真に憤るものは強い。わが正義の一撃に早くも奉天城の占領は伝ふ。日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ。そして一日も早く現場を収拾して事件を解決せよ。(1931年9月20日〈夕刊〉付東京朝日新聞「今日の問題」より)

  いひ換ればわが国民の忍耐は、今回の事件によってその限度を越えたのである。ここにおいて国民の要求するところは、ただわが政府当局が強硬以て時局に当たる以外にはない。われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望するものである。(1931年10月1日付東京日日新聞「社説」より)

  柳条湖事件とは、万宝山事件、中村大尉事件(いずれも1931年)といった「無秩序な状態、内乱の危険、匪賊および共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされた」日本の「堪忍袋の緒が見事に切れた」と両紙は説く。無論、このほかの新聞社とて同じであった。

  満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。而して満州国の独立と其の健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一の途である。東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、且つそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満州国を支援するの決意をなしたことは、まことに理の当然といわねばならない。いな、ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、且つ其成長に協力するの義務ありというも過言ではないのである。
(中略)
  苟くも満州国の厳然たる存立を危うするが如き解決案は、たとひ如何なる事情、如何なる背景に於いて提起さるゝを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いて茲に明確に声明するものである。
  昭和七年十二月十九日
日本電報通信社   報知新聞社   東京日日新聞社
東京朝日新聞社   中外商業新報社   大阪毎日新聞社
大阪朝日新聞社   読売新聞社   国民新聞社
都新聞社   時事新報社   新聞連合社
他百廿社(イロハ順)(1931年12月19日付東京朝日新聞「共同宣言」より)

  ついで日本が主導した満州国の建国については、世界のコモンセンス(常識)と合致している。軍事制圧した地域の安定を図るため、そこに新政府を作る手法は、過去に○○でみられたほか、近年はアフガニスタン空爆やイラク戦争においてもなされた。当時はもちろん、いまだに通じる価値観なのである。まして満州事変が不安定に端を発したものであるならなおさらである。

満州国の正当性

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/22 11:31 投稿番号: [8170 / 8458]
去りし日に決せられた歴史認識は、近年になって公開された文書や資料により、その多くを改めるよう請われている。ソ連崩壊によりて、これだけの動揺をもたらしえたからして、当時の交戦国・中国の民主化、とりわけ共産党の解体によって再度、光を向けられるであろう歴史を凝視せずにはいられない。
  中国では、5月9日を「国恥記念日」と呼ぶ。1915(大正4)年5月9日にいわゆる「対華21ヶ条要求」を受諾したからである。この要求が平時に発せられたものなら、肯定するつもりはさらさらないが、「希望」であった5号条項を除けば、当時の列強が中華民国と結んだそれと相違ない。しかも、のちに5号は削除されている。また、交渉期間は4ヶ月、回数としても25回を数える。現・中華人民共和国のように、いかなる国もそれを侵す意思がないにもかかわらず、この要求を突きつけ、結果として進駐したなら問題だが、当時の日本にとっては、やるかやられるか――日本がとどまれば、明日の中国は日本だったのである。このような状況を差し置いて謝り続ける日本に対し、その他列強が謝罪したなど聞いたことがない。みなが咎(とが)められるならまだしも逼迫のもとにあった日本だけが批判される謂れはないはずだ。負けたが最後はやはりおかしい。

  1931(昭和6)年9月、柳条湖事件が発生。これはほぼ間違いなく日本軍による犯行と断定されているが、1922(大正12)年のワシントン会議において締結された「九ヶ国条約」等国際法を誠実に遵守する日本をいいことに、中国側、あるいはそのパルチザンらが日本に対して度重なる挑発行為を働いていたことを忘れてはならない。少なくとも、リットン報告書からはそう読み取れる。

  日本は中国の最も近い隣国であって、かつ最大の取引先である以上は、日本は交通機関の不備にもとづく無秩序な状態、内乱の危険、匪賊および共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされたのである。日本は他のいずれの強国よりも、国民を中国にもっている現状において、中国の法律、司法制度ならびに税制に服従させられたならば、それらの国民は、はなはだしく苦しむこととなる。(同報告書第19項)

  中国にある日本国民の生命および財産を保護しようとする熱望は、日本をして内乱または地方的騒乱の際、しばしばこれに干渉させる結果になった。(同報告書第20項〈b〉〈1〉)

  また、リットン報告書はそれ以前の満州開発についても、日本の活躍を認めている。

  広大かつ肥沃な地方である満洲は、わずかに四十年前までほとんど開発されず、また現在においてさえ人口稀薄である。(同報告書第22項〈a〉)

  日本の活動がなければ、満洲は多くの人口を誘致し、またこれを吸収することはできなかったであろう。(同報告書第20項〈b〉〈2〉)

  最初、満洲が各種政策の衝突地域となったのは、その戦略的地位が唯一の理由であった。だが、その後日本人によって満洲の農業、鉱業および林産資源が開発されると満洲は満洲自体のために垂涎されるに至った。(同報告書第20項〈c〉)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/21 14:09 投稿番号: [8169 / 8458]
人類は原子力と言うパンドラの箱を開け、
プルトニウムを始めとする地球上には存在しない元素、
即ち、地球上には存在してはいけない元素を作り出してしまった。
この事に地球の神々はお怒りになられ、
過去のスリーマイル島、チェルノブイリ、そして今回の福島第一の事故と、
人類に警告と怒りを示して来た。

今回の事件を教訓に人類は核分裂発電所をやめなければ、
次はこれまでの三度の原発事故、原発災害とは比較にならない、
未曾有の原発事故、原発災害を招く事になる。

日本は、すぐに核分裂発電を廃止し、
そして火力発電に移行しなければならないだろう。

ゴロツキ中国と中国人に言われたないよね

投稿者: koumei041 投稿日時: 2011/03/21 08:44 投稿番号: [8168 / 8458]
凄いね、ここは
中国人が立ち上げたのかな?

まあ日本は言論も行動も自由だからね
中国で言論が封じられている分、せいぜい発散するといい

でないと、中国国内で水素爆発するかもしれない

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/20 11:32 投稿番号: [8167 / 8458]
中国政府は東日本大震災後も自国の原発の安全性を強調、大増設の計画を継続する方針だったが、国民の間に広がる不安に対応を迫られた模様だ。

反日左翼も戦争を仕掛けた・つづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 21:42 投稿番号: [8166 / 8458]
  対米英開戦という日本の政策が決定した後の1941年10月15日、ソ連のスパイ・情報工作グループ「尾崎・ゾルゲグループ」が一斉逮捕された。近衛首相は慌てて別の嘘理由を作って翌日辞表を提出し、統制派のリーダーの東条英機陸相に首相職を譲った。反米英の極左の革新派で対米英戦強硬派の東条は、近衛が敷いた路線を突き進んでいったのであった。

  日本共産化プランが成功しなかった理由は、次であろう。まず、尾崎秀実グループが摘発され、近衛文麿も首相の座を去ることを余儀なくされて、国家権力を行使できる日本共産化革命の秘密指導部がなくなったことである。そしてまた、米軍の急北上と、昭和天皇の御聖断によって、ソ連軍の対日侵略と日本本土上陸の前に終戦になり、米英軍が保障占領のために日本本土に上陸したからである。

  戦前の昭和時代の日本は、共産主義を摂取して成立した、主勢力である「右の左翼」の革新勢力=天皇制社会主義勢力(ファシズム勢力)と、「左の左翼」の共産主義グループによって、政府と軍部とマスコミが乗っ取られてしまっていた。当時の日本は、左翼革命国家、反日国家になっていた。だからこそ、軍国主義になり、亡国に至る大東亜戦争を実行していくことになったのだ。

  しかし私たちは、次のことを忘れてはならない。日本には少数派ではあるが、日本国と法・明治憲法に忠誠を尽す保守主義勢力(真正な自由主義勢力)がいて、最後までこれら革命勢力に抵抗していったのである。昭和天皇と鈴木貫太郎首相ら一部の重臣、そして一部の政治家や資本家や有識者たちである。何よりも昭和天皇の御存在と明治憲法の存在が大きい。そのために日本は、準・全体主義体制で留まることができた。終戦することができたのも同様である。

  謀略を行なった戦前の共産主義者たちは戦後、日共や社会党左派に入党していったから、両党の幹部は歴史の真実を知っている。だが彼らは決してそれを明らかにすることはなく、歴史を偽造した。戦前の体制と大東亜戦争に反対した天皇をはじめとする保守主義勢力をも、侵略戦争実行の犯人にデッチ上げ、自分たちは侵略戦争に一貫して反対してきたと歴史の偽造をなしてきたのである。一方の戦前の革新勢力も、反米英、反ソ・反共以外の自らの思想を隠蔽し、かつ責任回避のために、また自己正当化のために「自存自衛の戦い」論を流布してきたのであった。

  私たちは日本国民自身の手で、国民に310万人もの犠牲を強いた狂愚の大東亜戦争の開戦責任を明確にして裁いていかなくてはならなかった。しかし日本国民はこの最重要の政治課題を放棄してきたのであった。そのため、国民は思想的・政治的に強くなれず、国民全体に法の支配の思想が全く獲得されず、政府や議会が法を否定した政治をしても許してしまう「お上に弱い国民」から脱却することができないできた。国民の愛国心も国防心も希薄化していった。だから、国防の責務や国の名誉を守り高める責務などの国益と国民の利益を守る責務を実行し得る政治家や官僚は極めて少なく、私益や党益や省庁益に汲汲とする政治家と官僚が余りに多く、それが国民にも許され続けることになってきたのである。また、左翼も「右翼」も跋扈し、中共からは「歴史認識問題」等で不当に糾弾され続けることになっているのである。

  日中戦争は、現在、日本の脅威になっている中共を救出し、中共が支配する中国を誕生させるための戦争であった。スターリン、毛沢東、日本の共産主義者が共同して謀略をなしていったのである。だから1960年代に、佐々木更三を団長とした日本社会党が訪中した際、佐々木が「日本は戦争により中国に多大な迷惑をおかけしました」と謝ると、毛沢東は「なにも謝ることはない。日本軍は我々に大きな利益をもたらした。日本軍のおかげで中国共産党は中国を手に入れることができた」と答えたのだ。

  前述の如く、日中戦争は中国を共産化するための戦争であったから、中共政府に批判される理由は一片たりともない。いわゆるA級戦犯は、中共からすれば中国共産化の功労者なのである。中共は、全部理解した上で、真実の歴史を知らない日本政府と国民を屈服させるために攻撃を続けているのである。思想戦で絶対に負けてはならないのだ。

  私たちが大東亜戦争を反省する、裁くということは、この戦争を推進した共産主義勢力と革新勢力、その流れをくむ今日の「右翼」を批判し、解体していくということである。また、この戦争が誕生させた共産中国を解体していくということだ。中共は中国国民を8800万人も殺害している独裁政党である。

反日左翼も戦争を仕掛けた・つづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 21:28 投稿番号: [8165 / 8458]
  ただし、大東亜戦争(1937年〜45年)を主導した勢力は、スターリンの秘密指令を受けた正体を偽装した共産主義者グループであった。近衛文麿首相やゾルゲ・尾崎秀実グループ等である。彼らは主勢力の革新勢力に正体を偽装して、政府や軍部やマスコミの中枢に潜入し、革新勢力の戦略目標を利用しつつ、自らの戦略目標を実現するべく政治謀略活動に全力を挙げていったのであった。

  獄中の共産主義者も1933年、「天皇制社会主義」に偽装転向して次々と釈放を勝ち取って(天皇制打倒はやめたと言えば、資本主義を否定していても釈放された。体制の思想が革新思想であったからだ。治安維持法は全く機能していなかった)、近衛首相のブレーン集団や企画院や陸軍省軍務局や参謀本部あるいはマスコミ等に採用されていった。そして謀略の戦いを精力的に展開していったのである。この正体を隠した共産主義グループが戦前の政府と軍部とマスコミを乗っ取ったもうひとつの革命勢力であった。

  スターリンの秘密指令を受けた身分を偽造した共産主義者は、近衛文麿首相を筆頭に、祖国ソ連の防衛、中国共産党の救出と中国の共産化、アジアからの米英仏蘭の自由主義国の追放と共産化(ソ連圏の拡大)、日本の敗戦と敗戦革命による日本の共産化という戦略目標を実現するために、政治謀略を実行し、大東亜戦争を主導(近衛首相による)していったのである。歴史が示すとうり、日本の共産主義国化を除き他の目標は実現された。

  日本を支配する革新勢力が反米英仏蘭であり、英米系の蒋介石国民政府に敵対していたから、近衛たちはそれを利用したのである。

  日中戦争は、スターリンと中共(毛沢東)と日本の共産主義者の共同の謀略戦争でもあった。日中戦争を勃発させ、和平はつぶして長期戦に持ちこむ。近衛首相の「蒋介石国民政府を相手にせず」声明(1938年1月16日)もこれである。日中戦争によって、壊滅寸前状態にあった中共を救出し、日本軍と蒋介石国民政府軍に長期戦を戦わせることで、中共が漁夫の利を得られるようにした。中共軍は前線で日本軍と戦うことはせず、勢力・軍事力を温存し、国民政府軍が日本軍に敗北し退却した地域を中共の支配地域にして勢力を拡大していったのである。

  日中戦争の勃発と長期戦化は、日本軍の北進を阻むことになり、ソ連の防衛になる。日中戦争の長期戦化は、日本と蒋介石国民政府を支援する米英との対立を激化させ、戦争へ発展させていくことを可能にする。ソ連やその指令に従う共産主義者から見れば、敵国同士を戦争させることはソ連と共産主義勢力にとって大きな利益になるのだ。なぜならば、ソ連の敵国同士が戦争すれば、双方ともソ連を侵攻できなくなり、ソ連の防衛に益するし、敗北した国では共産革命が勃発する可能性が高くなるからである。

  ソ連と共産主義者にとっては、太平洋戦争は日本を敗戦に追いやり、敗戦革命で日本を共産主義国化するための謀略戦争であった。敗戦革命とは、第一次大戦でドイツに破れることになるロシアにおいて、1917年のロシアが勃発していったことを根拠にしたレーニンの革命論である。1928年のコミンテルン第六回大会決議は、共産主義者にとっては戦争反対運動は誤りであり、帝国主義国同士の対立を深化させて戦争に発展させ、敗戦革命で共産主義政権を樹立することが正しい戦略だと謳っている。日本の共産主義者はこれを知っている。共産主義者が大東亜戦争に反対したというのは真っ赤な嘘であり、歴史の偽造である。

  近衛首相らは、敗戦革命で日本を共産主義国化するべく、「対英米戦争準備を整え、南方の進出態勢を強化す。対英米戦を辞せず」との国策要綱(南進政策) を1941年7月2日の御前会議で決定するなど、日米英戦争に向けて最大限の努力を払っていったのであった。もし日本軍が要衝の地であるインドシナ半島南部(サイゴン)へ進駐(同年7月28日)しなければ、米国の石油禁輸制裁(8月1日)もなく、日米英開戦へ至らなかった。

  この御前会議の決定は、6月22日に日本の同盟国ドイツがソ連に侵攻した直後のことであった。近衛首相ら共産主義者と日本国海軍は、日本の北進(日独によるソ連挟撃)を阻止するために、急遽、南進政策を決定していったのである。中川八洋教授は次のように主張している。「『日本をしてソ連との戦争をさせないために、英米との戦争をする』親ソ・共産主義者グループと、『英米との戦争をしたいがためにソ連との戦争をさせない』海軍とが暗黙に結合して、日本政府の最終的な意思となったのである」(中川教授『近衛文麿とルーズベェルト―大東亜戦争の真実―』63頁。PHP研究所1995年8月刊。改題『大東亜戦争の「開戦責任」−近衛文麿と山本五十六―』立弓社2000年12月刊)。この決定は、ソ連防衛のためでもあった。

反日左翼も戦争を仕掛けた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 21:20 投稿番号: [8164 / 8458]
いつも「戦争放棄」と言っているあなたも戦争を仕掛けた。

  今日の「右翼」は、戦前の昭和時代の政府と軍部とマスコミを乗っ取った革新勢力を支持し、大東亜戦争(日中戦争と太平洋戦争)を支持する。この革新勢力は戦前、「反自由主義、反議会制民主主義、反・正しき個人主義、反・資本主義、反米英、反ソ・反共」を掲げて、「国家革新」「国家改造」を主張し、上からの革命を実行していった。彼らは当時も今日も右翼と見られているが、彼ら自身が「革新派」を自称したように左翼であり、極左であった。彼らは、「皇国」「日本主義」「天皇親政」を連発して民族派を装ったが、法と明治憲法を否定し、「天皇主権」を唱えて明治憲法の天皇制(立憲君主制)を否定した。彼らは、法が支配する立憲君主国・自由主義国の日本を否定した反日勢力であった。

  軍部内の彼らは「統制派」と言われた。リーダーの陸軍省軍務課長の永田鉄山が1931年に書いた「皇政維新法案大綱」は、天皇主権によって、一切の政党を禁止し、既成言論機関を閉止し、全国に戒厳令を布告し、憲法を停止し、両院を解散し、資本の私有を禁止し無償で国有とする、という内容であり(竹山道雄『昭和の精神史』83頁。講談社学術文庫1998年第10刷)、共産主義とほとんど同じ革命思想であった。

  革新勢力が「反ソ・反共」を唱えたのは、ソ連や共産主義が独裁主義や全体主義であるためではない。この点では、今見たとうり共通している。ソ連が日本侵略を狙い、共産主義が天皇制打倒を目指しているから、反ソ・反共なのである。革新勢力は確かに、ソ連を祖国としない点、天皇を廃止しない点で共産主義と決定的に異なるが、プロレタリア独裁の替りに、反明治憲法の「天皇主権」によって、天皇にスターリンになってもらい独裁主義・全体主義を敷き、資本主義を否定するというのだから、共産主義に近似した極左の思想なのである。永田鉄山が死亡した後は、東条英機が統制派のリーダーになっていった。

  彼ら革新勢力が「反米英」を叫んだのは、米国、英国が法の支配を堅持する自由主義、議会制民主主義、資本主義、正しき個人主義の国であるからである。彼らの思想、彼らが乗っ取った左翼革命国家(反日国家)日本の国家目標、つまり大東亜共栄圏建設から見ると、米国や英国は、「日本に敵対する悪の帝国主義国家」であったのである。それゆえ「反米英」が叫ばれた。彼らの革命思想は、ファシズム=全体主義とか、天皇制社会主義、国家社会主義と呼称された。統制派の他にほぼ同じ革命思想を持つ「皇道派」もいた。

  真正な保守主義者=真正な自由主義者であられる昭和天皇は、法と明治憲法を厳守なされたから、「天皇主権」に断固反対されていた。天皇は、1936年の 2・26事件(クーデター)を起した皇道派を憎み、この事件を軍部支配のために利用していった統制派を批判されていた。

  統制派や皇道派などの革新勢力は、ナチス(ドイツ国民社会主義労働者党)信奉者と同じで、自らの誤った革命思想と誤った理想を妄信していたから、彼らにとっては理想の追求、実現こそが第一義であり、日本国と民族がどうなるかは第二義的問題であったろう。彼らにとっては国際法も、米英ら旧世界が創ったものであって、守る必要はなく否定して当然のものであった。だから彼らは、既に中国との戦争を4年以上も戦っていたにもかかわらず、日本国が滅ぶ危険性があったにもかかわらず、世界一の工業大国米国と英国とオランダに「不戦条約」を踏みにじって戦争を仕掛けていったのだった。

尾崎秀実という人物のつづき19

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 17:07 投稿番号: [8163 / 8458]
近衛文麿首相の内閣嘱託であった尾崎秀実。
「愛国者」で「優れた政治評論家」として信頼され、支那事変の処理や
国内の政治・経済の決定的な発言と指導的役割を携わっていました。

しかし、ある日松本徳明から近衛首相にこのように告げられました。
「尾崎秀実はコミンテルン工作員で注意人物である」と。
尾崎は世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍している・・・。
これを聞いた近衛首相は青くなって驚いた。

後に近衛は陛下にこのようにお詫びしています。
「全く不明の致すところにして何とも申し訳なき、これ深く責任を感じる次第に御座候」・・・

これを知った尾崎秀実は松本徳明を失脚させるために憲兵隊に密告し、松本をブラックリストに載せました。
その矢先、伊藤律が北林トモを密告。1941年9月28日、元アメリカ共産党員で洋裁学校教師の北林トモが逮捕されました。逮捕後、北林は「宮城さんはスパイかもしれませんが、私はスパイじゃありませんよ」と言い、これが宮城与徳の逮捕のきっかけになりました。北林は懲役5年を言い渡されましたが、1945年1月に仮釈放され、夫・芳三郎に身柄を引き取られましたが、同年2月9日に病死。

1941年10月11日、
元アメリカ共産党員で洋画家の宮城与徳が逮捕されました。
宮城を逮捕し取り調べると宮城の自宅で南満州鉄道が作成した日本政府にとっては機密書類とされた英文の書類が発見されました。宮城は東京築地警察署の二階の窓から飛び降り自殺を図りましたが、怪我もせず警察官に取り押さえられスパイグループについて自供した。その時に尾崎秀実と密接な繋がりがあると言った。(東京高等検察庁特別審査局の吉河光貞)
1943年8月2日、巣鴨拘置所で獄死。後に宮城はソ連から勲章と表彰状が与えられ、2010年にロシア大使館は宮城の遺族に授与。

1941年10月15日、尾崎逮捕。尾崎は逮捕されると即日自供した。1944年11月7日、死刑。

1941年10月18日、ゾルゲを逮捕。1944年11月7日、死刑。

1942年6月8日までに諜報機関員と犬養健、西園寺公一らの情報提供者合計35名が逮捕。

リヒャルト・ゾルゲはソ連で生まれ、その後ドイツ共産党入党。
1924年にフランクフルトでドイツ共産党大会が行われコミンテルン代表の警護の役目に就いて代表らと懇意となりモスクワでコミンテルン諜報部を創設する仕事をし、党籍をドイツ共産党からソビエト共産党に移した。
ゾルゲの表向きはナチスに忠誠を尽くすドイツの新聞記者という名目で1905年上海に行った。上海でゾルゲとコミンテルンのスメドレーは愛人関係となる。1908年、上海から日本に潜入するため、ベルリンに行って政権奪取したナチス党に入党し党員証を貰って日本に行き、駐日ドイツ大使館で陸軍武官オットー少将の私的顧問となった。ゾルゲはオットーの妻とも肉体関係を持ち、オットーの情報を徴収していた。また、ゾルゲは銀座の女給石井花子を愛人としていました。(石井花子著書「人間ゾルゲ」に詳しい)

さらにゾルゲは諜報活動に使う女として、当時、若い歌姫と言われた関屋敏子を籠絡して愛人としていました。その情交はゾルゲ検挙の日まで続き、11月23日にゾルゲ側に縊死させられた。・・・
関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。(関屋敏子遺書より)

日本の戦争は侵略戦争か?

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/19 11:08 投稿番号: [8162 / 8458]
満州事変の発端は中国側の反日行為であったのは明らかだ。
勿論その原因の一つは対華21か条であったのは認めるが基本的には共産党の謀略による反日運動扇動の効果が大きくあったのだ。

●あの日本に辛い報告書を出したリットン調査団も「一国の国境が隣接国の武装軍隊に侵略せられた如き、簡単なる事件にも非ず」と言っており、また「日支双方に権利・権益が複雑に絡み合い世界の他の地域にないような特殊事情である。その中で日本商品ボイコットなどは支那の不法行為・・・」などと侵略とは決め付けておらず、日本の権益を中国が犯していることを認めている。リットン報告書でも侵略戦争ではない(公平に言うと、さりとて自衛戦争とも認め難い、それほど複雑な状況と言ってますが)と言ってるのに何故日本人が侵略戦争と決め付けるのだろうか。中国が言うのは勝手だが、日本が侵略などと言う必然性は全く無い。
それに国際刑事裁判諸規定でも侵略の定義は未だに存在しない(合意されてない)のだ。
他国の領土で云々と言うとしたらそれは当時の常識を無視する不公平な発想だ。基本的に当時の国際法に則って得た権益が中国側に不当に侵されたことへの反撃、つまりリットン報告書が認めないとしても、日本としては立派な自衛と主張して何ら憚ることは無い。
●また満州国建設は中国が文句を言う筋合いは何も無い。
そもそも満州民族が中国(漢民族)を支配したことはあっても漢民族が満州を支配したことは無い。何よりの証拠は満州は万里の長城の外側にある。つまり化外の土地なのだ。
辛亥革命以降、一種の治外法権地帯だった。現に孫文は満州を金で買ってくれないかと日本に持ちかけたことがある。このとき日本が断ったのは痛恨の極みであるが。嘗てアラスカをアメリカがロシアから買った如く日本が満州を買っていたら歴史はどうなっただろう。

柳条湖事件は確かに日本が仕組んだことで世界にはあまり自慢できることではないが、自衛戦争の作戦としては見事だし、結果的には塘活協定で平和は確立されたではないか。また蒋介石も塘活協定以降は日本に渡す気でいた。

●先の満州事変前の反日運動も、勿論日本側が突きつけた対華21か条も火をつけたのは事実だが、最も大きな原因は、それ(反日運動)も含め、塘活の平和が破れたのも、盧溝橋事件も、その後の戦線拡大も、蒋介石が満州を手放すことを止めたのも全てコミンテルンの指示で動いた共産軍の謀略であったことは今や証明されているではないか。

●早稲田大学文学学術院留守教授は歴史認識に関し自己批判は厳しくやる必要があるが、それは、その時代、その場に自分が居たらどう考え、どう行動したかを考えないで現在の価値観、知見で判断する自虐史観とは異なるのだと看破しているが将にその通りだ。

●盧溝橋事件以降の中国側の不法な行動に対する暴支膺懲の声は全国民の声だったではないか。
●自分がその時代にいたらどう考え、どう行動したのかを真面目に考える事が重要・必須だ。あの時代に生きていて今日本は侵略しているのだと主張することは神ならぬ身には至難と思う。現在の知識・価値観で侵略だと決め付ける、所謂自虐史観は我々の先祖に対してこの上なく失礼、不遜である。
過去の戦争の正邪を恰も自分が神であるかのごとく決め付ける資格は現在の我々にはない、やれば神にも祖先にも不遜である。

●また歴史を学ぶと言うことは特定の軍事行動が正義か否かを語ることではなく、長く続く歴史、時代の流れ、時代の必然性を理解し当時の常識でも過ちと判断できることは何か、今後に生かすことは何かを学ぶことだ。

満州事変を柳条湖事件から語るのは間違いだ。どんなに短く捉えても反日・侮日・日本品ボイコットから、せめて世界恐慌から考慮するのは常識だし、もっと前に遡る必然性、歴史観もいくらでもある。

●侵略を認めよとの自虐史観論者の言及は言外にそれを反省せよと言いたいのだろうと推測するが、しかし未だ定義されない概念を反省せよとは無意味な議論だ。また侵略を認めることは相手国を喜ばせるだけで現在の外交上限りなく不利になるだけで決して尊敬される訳でもなくむしろ軽蔑されるだけだ。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/18 21:12 投稿番号: [8161 / 8458]
米国の支援で思い出すのは、やく30年前に   日航機が   御巣鷹山に墜落したときに、
米軍が支援を申し出てきたのを当時の内閣が断っていたという事実。

これで重要なのは、   日航機がどこに墜落したのか   わからなかったときに、米軍はいち早くつかんでいた。
つまり、日本よりも先につかんでいたのだ。

そのときに、米軍が   救援のために   へりを出すことを日本政府に申し入れた。
あの時は、夜ですからね。   夜   険しい山へ   ヘリを飛ばすことは   日本にはできない。
米軍ならばできるというのだ。

しかし、中曽根内閣は   断った。
このときに   米軍ヘリが   御巣鷹山に着いていれば、   何人かは助かった可能性があると言われている。

満州事変以後の経済史

投稿者: nazi_or_1984 投稿日時: 2011/03/18 12:40 投稿番号: [8160 / 8458]
1931年:満州事変
     高橋是清蔵相、金輸出禁止(→経済持ち直す)
1932年:5・15事件(「軽すぎる刑」→2・26事件に影響)
     cf)エリザベス1世「見せしめのために最も残酷な刑を」
     米、ボーナスマーチ事件
     ルーズベルト大統領当選
1933年:ニューディール政策(→その後、財政規律不況を招いた側面も)
     ドイツヒトラー内閣成立
     米:ソ連承認
1935年:相沢事件
1936年:ワシントン体制崩壊
     2.26事件(首謀者「まさか死刑にはならんだろう」)
     日独防共協定
1937年:米1937年不況
1938年:ドイツ「水晶の夜」事件
1939年:第2次世界大戦
1940年:日独伊三国同盟

100万回言う「中国人は人食い人種である」

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/18 05:05 投稿番号: [8159 / 8458]
この中国共産党独裁国家は、同胞である中国人民を6500万人殺しておきながら、この大殺戮を日本軍がやったことにしている。
おまけに、この中国共産党国家は自分たちが殺した中国人民を焼いて食べている。国家が人間を食うとは、まさに異常な国である。

この記事は1968年7月の人食い記事である。

文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

関東大震災前後の経済史

投稿者: nazi_or_1984 投稿日時: 2011/03/16 06:38 投稿番号: [8158 / 8458]
1920年:商品バブル崩壊、
     アメリカ赤狩り開始、
     日本の株価暴落、3ヶ月で50%下落→大不況
1923年:関東大震災
1924年:米ソ関係改善(→1945年第2次世界大戦終結まで)
     第2次kkk全盛、アメリカ排日移民法(新渡戸稲造氏激怒)
     円相場急落
1925年:治安維持法
     イラン王朝交代
1926年:労働争議倍増
1927年:日本金融恐慌
1929年:アメリカ大恐慌
1930年:浜口内閣、金輸出解禁(→大デフレ)
1931年:満州事変
     高橋是清蔵相、金輸出禁止(→経済持ち直す)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/03/15 21:41 投稿番号: [8157 / 8458]
CMLに先日から「さ○○う」なる奴が投稿してるけど何者?

弁護士M先生に何の恨みがあるんだ?

彼のブログに心温まる話がコピペされたくらいで

どこが「軍国美談」だよ?

こいつそうとう捻くれた基地外サヨみたいだな。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)