尾崎秀実という人物のつづき10(修正)
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/26 11:52 投稿番号: [8180 / 8458]
■4.国共合作へのコミンテルン指示■
1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのである。
翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共合作が実現した。
この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を知っていたものと思われる。
■5.近衛内閣のブレーンとなる■
この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作り上げた中心機関である。
翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。
■6.「東亜共同体」の謀略■
昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。
これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那による「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實による「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などである。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされたり」とは、まさにこの事か。
尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい -- -それこそ僕等の考へている東亜共同体 -- -本当の意味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと以外にないのじゃないか」
尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていたのである。
1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのである。
翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共合作が実現した。
この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を知っていたものと思われる。
■5.近衛内閣のブレーンとなる■
この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作り上げた中心機関である。
翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。
■6.「東亜共同体」の謀略■
昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。
これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那による「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實による「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などである。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされたり」とは、まさにこの事か。
尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい -- -それこそ僕等の考へている東亜共同体 -- -本当の意味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと以外にないのじゃないか」
尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていたのである。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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