侵略国日本は国際社会の前科者

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神風特攻隊

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/25 23:26 投稿番号: [8240 / 8458]
国のため   父母にうけたる精神もて
我は散るなり   桜のごとく
松尾登代喜   十九才

リッちゃんへ
父母上様
高坊を宜しくたのむ。
と云っても出来れば
早く嫁に行きなさい。
何もしてやれずすまなかった。
身体にはくれぐれも
気をつけてしっかりやれ
兄より
阿部忠秋   二十二才

母を慕いて
母上   お元気ですか
長い間本当に有り難うございました
我六才の時より育て下されし母
(中略)
俺は幸福だった
俺は最後まで「お母さん」と
呼ばざりし俺
何と意志薄弱な俺だったろう
母上   お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん   お母さん   お母さんと
相花信夫   十八才

人の世ハ別れるものと知りながら
別れハなどとかくも悲しき
上原良司   二十二才

http://www.youtube.com/watch?v=JPKSzdhmwmc&feature=fvwrel

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/25 22:47 投稿番号: [8239 / 8458]
だいたい最近、東電も保安院も記者会見で、気軽お手軽に、
「メルトダウンですっ♪(*^_^*)」
「メルトダウンなうっ♪(*^_^*)」
なんて、発言できる自体、狂気の沙汰。「トリプルチェルノブイリin福島」って自体状況を、
本当に理解しているのだろうか?????????????????

もう、原発の状態は変わらない。最悪の核汚染という意味で。
あとは、彼らの解釈対処で、被害額のケタが変わる。。。(-_-;)

大東亜戦争の真実

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/24 08:34 投稿番号: [8238 / 8458]
【植民地時代の白人の有色人種観】

イギリス人は大の用を足している最中に黄色人種が入ってきても平気。

落としたタバコを拾わせるのにも、言葉を使わず、アゴで拾えの合図。

白人女性が全裸で部屋に居る時に、黄色人種が入ってきても平気。(白人男性が入ってきたら大騒ぎ)

参考文献
「アーロン捕虜収容所」
会田雄次著   中公新書


つまり、黄色人種は猿だった。インドより東の国では、白人は何をしても許されるという考えがあった。絶対的な差別主義。東洋人は人ではなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=cac3ewgoK8E&feature=related

脳みそユッケ

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/20 07:49 投稿番号: [8237 / 8458]
中国人は人の脳みそを生で食べる。

ある老婆は人間の目玉を食べると、目がよくなるというので、彼女は一日中あちこちを歩き回り、糾弾集会を見ると、すぐ人群れの中に入り、待っていた。被害者が地面に倒れると、、彼女はすぐ竹かごの中から鋭いナイフを持ち出し、目玉だけをえぐり取ってすぐ逃げ去って行った。数人の年寄りは人の脳みそを専門に食う。頭蓋骨をたたき割るのは非常に難しい。だから彼らの経験は、人それぞれ、細い鉄の管を用意して、その管の先を鋭く磨き、人々が肉を切りつくしてから去っていく間にゆっくりと、だれも奪っていない脳を目がけて、頭蓋骨の上からくぎを差し込むように打ち込み、地面に伏せて鉄鋼の管から脳みそを吸い取ったのだった。やしの実やヨーグルトを吸うような格好である。ある婦人は子どもを背負って来て、また、ある小さい子どもは親孝行のために人肉を家まで持って帰っていったのである。

「食人宴席−抹殺された中国現代史」
  鄭義著・黄文雄訳
(P122〜P123)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: xdwhn200jp 投稿日時: 2011/05/20 01:18 投稿番号: [8236 / 8458]
そんなに日本が嫌いなら、なぜ日本に住み着いているのですか?自分なら中国なんかに1度でも行きたくないのに、プライドがないのですか?早く帰って下さい。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/19 08:14 投稿番号: [8235 / 8458]
日本の侵略を許すな

中国人は人間の脳みそを食べる

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/16 22:16 投稿番号: [8234 / 8458]
ある老婆は人間の目玉を食べると、目がよくなるというので、彼女は一日中あちこちを歩き回り、糾弾集会を見ると、すぐ人群れの中に入り、待っていた。被害者が地面に倒れると、、彼女はすぐ竹かごの中から鋭いナイフを持ち出し、目玉だけをえぐり取ってすぐ逃げ去って行った。数人の年寄りは人の脳みそを専門に食う。頭蓋骨をたたき割るのは非常に難しい。だから彼らの経験は、人それぞれ、細い鉄の管を用意して、その管の先を鋭く磨き、人々が肉を切りつくしてから去っていく間にゆっくりと、だれも奪っていない脳を目がけて、頭蓋骨の上からくぎを差し込むように打ち込み、地面に伏せて鉄鋼の管から脳みそを吸い取ったのだった。やしの実やヨーグルトを吸うような格好である。ある婦人は子どもを背負って来て、また、ある小さい子どもは親孝行のために人肉を家まで持って帰っていったのである。

「食人宴席−抹殺された中国現代史」鄭義著・黄文雄訳
(P122〜P123)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/15 14:30 投稿番号: [8233 / 8458]
日本の侵略に抗議

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/12 08:00 投稿番号: [8232 / 8458]
沖縄本島北部の東海岸にある辺野古・大浦湾は、環境省が絶滅危惧種に指定した
“北限のジュゴン”や2008年にIUCNが絶滅危惧種に指定したアオサンゴの巨
大な群集が棲息する豊かな生き物の世界です。
マングローブ湿地、干潟、広大な礁池(イノー)や海草・藻場、発達したサンゴ礁
(リーフ)など複雑な生態系が多様な生命世界を形成しています。
現在、この海域は米国海兵隊の航空基地建設のために埋め立てられる危機にさらさ
れています。辺野古・大浦湾は、世界につながる沖縄の大切な自然遺産です。戦
争のための軍事基地建設よりも海洋保護区に設定すべき海域です。
今回の写真展は、大浦湾のチリビシのアオサンゴ群集と辺野古のイノーのハマサン
ゴ群落や渡り鳥のアジサシたちを中心にご紹介致します。

中国共産党は自国民6500万人を殺した

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/09 10:21 投稿番号: [8231 / 8458]
まずしっかりと頭に入れておかなければならないことは「中国共産党は文化大革命のときに自国民である中国国民を6500万人殺した」ということである。
この記事は最新の統計である。

  平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」は、共産主義の犯罪を厳しく検証しています。編者ステファン・クルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から1億人にのぼるとされます。この数字は、ヒトラー・ナチズムによる犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回ります。本書は、恵雅堂出版から今年中には翻訳が刊行される予定と聞きます。

  クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者数の国・地域別の一覧を提示しています。それによると、

  ソ連        2,000万人
  中国        6,500万人
  ベトナム        100万人
  北朝鮮        200万人
  カンボジア      200万人
  東欧          100万人
  ラテンアメリカ      15万人
  アフリカ        170万人
  アフガニスタン   150万人
  コミンテルンと権力を握っていない共産党約1万人
----------------------------------
  総計           約1億人

となっています。

◆中国の場合

  毛沢東は、1957年2月27日、「49年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べています。(ザ・ワールド・アルマナック1975年版)。周恩来は、同年6月、全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと報告しています。また、42%が労働改造所(労改、強制収容所)に送られ、32%が監視下に置かれたと述べています。
  毛沢東は、その後もさまざまな権力闘争や失政を続けましたが、丁抒らの研究によると、大躍進運動と文化大革命によって、2,000万人が死に追いやられたとされています。

  「共産主義黒書」では、ジャン・ルイ・マルゴランが、ほぼ信頼できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括的に提示しています。

・体制によって暴力的に死に至らしめられた人
700万〜1,000万人(うち数十万人はチベット人)
・「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡した人
約2,000万人
・1959〜61年の「大躍進期」に餓死した人
2,000万ないし4,300万人

中国文化大革命

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/05/08 20:54 投稿番号: [8230 / 8458]
1965年に毛沢東が自らの復権などを目的に始め、以後約10年間続いた権力闘争。
修正主義・市場解放勢力の反動に対する修正運動となっているが、実体は、大躍進政策の大失敗により2000万以上(2000万〜4300万と言われる)の餓死者を出し、国家主席を辞任せざるを得なかった毛沢東が、権力回復の為に起こした政治闘争である。

  この間、中国は混乱と混迷を極め、内戦状態の様相を呈した。地方でも多くの人間が反動分子として処刑され、その犠牲者は最も控えめな説でも2000万人といわれているが、実際の数ははっきりしない。大躍進政策での失敗による犠牲者も含むと、総計7000万人に達するという推計もある。

  紅衛兵と呼ばれる毛沢東の私兵が思想統制、拷問、つるし上げ、暴行、恐喝、財産没収、糾弾、時には殺人などを行い、徹底的な毛沢東への個人崇拝を強制していった。

  階級闘争が叫ばれ、人々は出身階級ごとに色分けされ、出身階級が良いもの(紅五類)が悪いもの(黒五類)を一方的に迫害し、弾圧するということが正当化された。
・紅五類    労働者・中農以下の農民・兵士・革命幹部・革命烈士
・黒五類    旧地主・旧富豪・反動分子・悪質分子・右派分子

◆たとえ親が共産党の幹部でも安心はできなかった。三代前まで遡って査定され、祖父が小さな商店を経営していたために「資本家」のレッテルを貼られ(当時の中国ではそれは死刑判決にも等しかった)、大学進学を諦めなければならない人もいた。

◆学校においては、教師がつるし上げの対象となり、生徒が校長を追放し、授業は行われず、労働が奨励されたため、この時期に学生をしていたものは高等教育を受ける機会を奪われた者が多い。授業の内容はもっぱら毛沢東の著作の研究に終始し、そして出身階級が悪い生徒をつるし上げ、殴打し、悪罵を投げつけるという凄惨な場であったという。

◆ある女性が集団でリンチを加えられているので、殴打されている理由を尋ねると、「この女は地主の娘だからだ」という答えが帰ってきた。

◆紅衛兵は宗教、伝統のある物、古い物を敵視した。造反有理(反逆することに理がある)という毛沢東のスローガンの下、既成概念、既成の政治権力、既成の秩序を徹底的に破壊しようとしたのである。

◆仏教寺院やキリスト教の教会は破壊され、凄まじい数の仏像と経典、文化的価値のある建築物が灰燼に帰した。僧侶やシスターたちは侮辱をうけ、暴行され、時には殺された。文革の後半になると、批林批孔運動の名の下に、儒教と孔子も徹底的に攻撃された。

◆紅衛兵はとにかく古い物を敵視した。中国各地の博物館や美術館、遺跡には紅衛兵が殺到し、重要な文化財を次々に破壊していった。博物館の学芸員たちは、文化財に毛沢東語録の一節を紙に書いて貼り付けることで、多くの美術品や文化材を守ったという。

◆ある男は道を歩いているといきなり紅衛兵に殴打された。男が身に着けていた毛沢東バッジを見咎められ、「出身階級が悪い貴様に毛首席のバッジをつける資格はない」と言われたのである。その男は「私は毛首席を愛する権利がある。」と反論し、次の日から毛沢東に対する忠誠を表すために裸の皮膚にバッジを刺して着けたという。

◆弁護士、医師、学者など、あらゆる知識人や文化人が修正主義者、あるいは走資派として批難と弾圧の対象となった。

◆スーツやイタリア製の靴を着用しただけで「西洋かぶれ」として紅衛兵に詰問され、没収された。

◆ある老夫婦は、地主をしていたというだけの理由で家宅を紅衛兵に捜索され、家財を没収された。老夫婦が紅衛兵にお茶を出してもてなそうとすると、「お茶には毒が入っている!」と決め付けられ、息も絶え絶えになるほど殴打された。

◆この頃の中国では、金目の物をもっていることはそれだけで弾圧の対象となる恐れがあったため、夜中になると高価な美術品や家財を川に投げ込む音が聞えてきたという。

◆文化大革命は中国人の家庭にも深刻な傷を残した。批難する対象を血眼で探し、見つけられなければ実の親子同士で告発をしあった。夫婦、兄弟、親友、全ての人間が信じられなくなり、人間不信で自殺する人がひきもきらない状態であったという。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/08 13:07 投稿番号: [8229 / 8458]
レバノン大使の天木直人氏はこう言う。
「大使館が自国民の安全を守る為に万全の措置を取るのは当たり前のことです。問題は多くの国が日本政府の発表を信用していないことです。菅内閣は国民をパニックに陥らせない為なのか、楽観的な見通しを語っていますが、原発に詳しいアメリカやロシア、フランスは、原発事故を深刻に捉えている。自国民に退避を促したのも、事態が急転し、最悪の事態もあり得ると恐れているからでしょう。日本国民は、いま原発がどうなっているのか、本当の状況を知らされていない可能性があります」
世界中で、日本人だけが原発事故を楽観視している。米下院のマーキー議員は6日、米NRCからの情報として「核燃料は圧力容器を溶かして破って落下している」と公聴会で明らかにした。日本から外国人が一斉に消えた事を軽く考えない方がいい。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/05 20:26 投稿番号: [8228 / 8458]
安全以外の事はすべて後回しにする以外、乗り切れないでしょう。

責任の経済産業省は潰す事、交通事故が無くせない国土交通省もつぶす事
非正規雇用の禁止、高齢者医療の安全確保の出来ない厚生労働省もつぶして、
財源を捻出すべきです。潰した省庁は0ベースで見直して、消費者庁に統合
してはと思います。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: akutoku_yukijirushi 投稿日時: 2011/05/04 13:50 投稿番号: [8227 / 8458]
日本は放射能排出国

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/05/03 09:00 投稿番号: [8226 / 8458]
熱と放射能汚染で、どの原発にも近づけない。
でも、冷やさなきゃいけないから、放水作業を続けている。
というのが現状で、どうやって、ここから作業を進めることができるというのだろう。
放水作業のため汚染水は大量発生し、地面から海へ、染み渡っていく。

今にして思えば、初期段階でアメリカの要請を断ったのは、
すでにその対処方法では対処できないところまで逝ってしまっていることを、
東電&政府が認識していたためだろうと、推測できる。

このような状況を日本では「八方塞(はっぽうふさがり)」と呼ぶのだと思うが、
東電は工程表を発表し、すごいなと思ったが、やっぱり東電的なオチがあった。。。(-_-;)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/30 14:06 投稿番号: [8225 / 8458]
日本人の歴史歪曲は異常

中国人は残酷

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/29 05:12 投稿番号: [8224 / 8458]
中国共産党は「日本軍は残酷」というイメージを仕組んだ。
実際、この事件は中国軍のやった残虐行為である。
ところが、日本国内にも中国共産党に同調する日本人がいる。
本多勝一はこの事件の写真を自分の本に載せて、「日本軍は残酷」だと日本中に説いてまわった。

「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/27 22:43 投稿番号: [8223 / 8458]
日本軍は残酷

中国政府は中国国民を焼いて煮て食べた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/26 05:07 投稿番号: [8222 / 8458]
中国共産党政府は、自国民である中国国民を6500万人殺しておきながら、中国の歴史教科書で、この大殺戮を日本軍がやったと書いている。
ところが、自分たちが自国民を焼いたり煮て食べたことは書いていない。
だから、私が本当の正しい中国の歴史を教えよう。
「中国共産党政府は、自国民である中国国民を6500万人殺して、この中国国民を焼いたり煮たりして食べた」

この記事は、1968年7月2日の「人間を焼いて煮て食べた事件」である。このような事件は、当時、中国全土いたるところで起こっていた。
ちなみに、この4年前の1964年は、日本で東京オリンピックが開催された年である。

しかし、私の想像力が大きな挑戦を受けたのは、学校教師たちまでが大々的に人肉を食べたことだろう。桐嶺中学校の黄大晃総務は、こういう証言を話してくれた。
・・・7月2日昼ごろ、私は生物学教師・謝雄標の部屋の中で人肉を煮ているのを目撃した。彼はみずから人肉を切り、煮て、料理ができ上がると、国語教師・施振徳がひときれの人肉を手でつまんで味見をした。人肉と豚肉を一緒に煮ているようだ。それ以外にも、一部の人が《人肉宴会》に参加し、食べながら酒も飲んでいた。
生物学教師の謝先生の弁明によると、当時は、ある学生がひときれの干した人肉を渡してくれて「先生は胃病があるので、これを食べると絶対治る」と勧められ、人肉を食べたのだそうだ。教師たちは、それぞれ人肉を食べた自分の理由を提出することもできよう。生物学教師は、人肉とその他の哺乳動物の肉が本質的には決して区別はできないと弁明するに違いない。国語教師も革命的ロマン主義の権利をみずから体験した、革命的ロマン主義の権利だと証言できるかもしれない。
しかし、知識は残虐を克服することはできない。中国の知識分子には、忠君愛国の士はそれほど少なくはなかったといえども、決して人道主義の理想のために身を捧げる殉道者はいなかった。歴史は蒙昧な沈黙者を許すことはできても、しかし、歴史は決して《人肉宴会》の席上で一杯の酒を飲んだ知識分子を許すことはできない。
この日の桐嶺中学校は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家製の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
「7月2日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた」
・・・7月2日午後5時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやのそばに置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぽで、はらわたも流れ出していた。

「食人宴席―抹殺された中国現代史」鄭義著・黄文雄訳
(P104〜P106)

中国政府は中国国民の性器を切断して食べた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/24 23:04 投稿番号: [8220 / 8458]
中国政府は自分たちが中国国民を6500万人殺しておきながら、この大殺戮を日本軍がやったと中国の歴史教科書で教えている。
ところが、自分たちが中国国民の性器を食べたことは教えていない。
だから私が本当の正しい中国の歴史を教えよう。
「中国共産党政府は中国国民を6500万人殺して、この中国国民の性器を切り取って食べた」

この記事は1968年7月の「性器切り取り事件」である。

私は、ここでもう一度、声明しなければならない。本書で取り上げている惨劇は、決して武宣県で起こったすべての事件、あるいは大部分の事件ではなく、比較的有名な、ごく少数の事件にすぎないのだ。・・・
県武装部の政治委員、県革命委員会の孫瑞章第一副主任は非常に不満で、こう反論した。「恐れることはないのだ。諸君は何を恐れているのか、こうしなければ、絶対に、階級の敵を抑えることはできない。人民の闘争意欲を育てることはできない。決して、われわれは恐れてはならない。続けて街頭引き回し闘争をやり、糾弾大会をやるべきだ」
この会議が終わってから、武宣県の惨劇はまさに最高潮に入ったのである。
これは生きているままで、人肉を削ぎ取られ、食べられた典型的な食人事件である。
1968年7月某日。通挽区大園村。大七生産隊の甘克星が糾弾大会を指揮し、甘大作の糾弾大会を開いた。その後、甘大作は近くの畑まで引きずっていかれ、ひざまずくように命令された。そのあと、甘大作は棍棒で頭を殴られ、昏睡したが、まだ絶命していなかった。このとき甘祖揚が甘大作のズボンを脱がせ、生殖器を切ろうとしたところ、甘大作は、息絶え絶えでもがきながら彼に哀訴した。「私が絶命するのを待ってくれ、死んでから切り取ればいい」
しかし、甘祖揚は全く聞かずに、性器を切断しようとした。
甘大作はわめき、もがき、絶叫したが、甘維形らは競って大腿部の肉を削ぎ落とし、甘徳柳は腹を切り裂いて肝を取った。またその他の人々はどっと歓声をあげて、甘大作に殺到し、人肉をすっかり削ぎ落として持って行った。この生きたままの人間の肉に襲いかかった状況は、きわめて残酷であって、見てはいられない残虐さである。
この事件には、もう一つ余談もあった。甘祖揚が手を下すまえに、「七寸(生殖器のこと)はおれのものだ。だれも切り取ってはならん」と大きな声でわめいたのだ。競って人肉を切り取っているとき、この叫びはまことに恐ろしく、また生々しい状況の一つである。甘祖揚という人物は生産隊幹部であった。

「食人宴席ー抹殺された中国現代史」鄭義著・黄文雄訳(P86〜P88)

中国政府は中国国民を油で揚げて食べた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/23 16:33 投稿番号: [8219 / 8458]
1968年   6月10日。
柳州市に着いた。柳州地区では文革当時、六千人が殺害された。融安県では千余人、武宣県では五百余人。融安県での逮捕者は十九人、武宣県は三十人だった。全地区死刑者なし、死刑執行猶予なし。これが文革処理委員会の数字である。
武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごをさげて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切りとれないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は、幹部のなかでも少なくなかった。例えば、造反から出世した武宣県革命委員会・王文留副主任。彼女は最初、共産党の下部組織から、彼女がもっぱら男性性器を食べるというので、その報告書が党中央工作組に提出された。・・・
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。

「食人宴席」鄭義著・黄文雄訳(P62〜P63)

中国共産党政府は中国国民を煮て食べた

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/22 21:25 投稿番号: [8218 / 8458]
1968年   7月1日夜八時。
黄副校長の批判糾弾大会が桐嶺中学校第十組の教室で行なわれた。同校の革命準備委員会・謝東副主任がこの集会を指導し、発言をした。批判糾弾は約一時間続いた後、彼は会議終了を宣言し、そのとき、学生の覃廷多ら四人がそれぞれ棍棒を持って、黄副校長を会場から連れ出し、電話室前まで連れて行き、覃が殴れと命令した。棍棒は彼を目がけて乱打され、とうとう殴殺した。宿舎に担ぎ込まれる途中、死亡したのだった。翌日午前八時、遺体は運動場の木の下まで担いで運ばれて、『毛沢東語録』を読み上げられたあと、そのまま、みせしめのためのさらしものにされたのだった。
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に彼を切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はまた、もう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。さらにもう一人の女子学生・陳香姣は、彼女の母が病気なので、人肉は薬になるとし、だから母のために校長の人肉を切ったという。彼女の話によると、もう一人の年寄りともう一人の女子学生のためにも人肉を削ぎ取った。黄副校長は裏切り者で、人肉を削ぎとってしまうのは当たり前のことだという。
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
黄佩農が肝を切り取ったことを見た証人は、一人だけではない。もう一人の証人・覃世新もそう証言した。私ははっきりと、黄佩農が刀で黄副校長の腹の上を一文字に切り裂き、力いっぱい足で踏み、肝が出たので、切り取って持って行って、煮て食べた・・・と。

「食人宴席」鄭義著・黄文雄訳(P101〜P104)

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/22 20:23 投稿番号: [8216 / 8458]
民主党政権だから、これですんでいるというものだ。

もしも   これが自民党の首相であったら、
過去の原発促進政策まで   いっきに問題にされるからだ。

その憤慨は   管に対するものの比ではないだろう。

いずれにしても、自民党の政権奪回に成功すれば、   過去の原発政策、電力政策が   公共事業との関連で   徹底に国会で追及されることになるだろう。

枝野が、数日前の記事で、この問題が一段落すれば、それをやるといっていた。   たしか、与謝野が   原発政策自体に   誤りはなかったといったことに   からんで、枝野が   述べたことだ。

自民党では   大胆な政策転換は出来ない。
あと50年間は   野党に塩漬けにしておけ。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/21 22:11 投稿番号: [8215 / 8458]
母乳に放射能汚染の心配があります。

汚染の高かった地域のお母さんたちに母乳の検査を呼びかけます。

全国の皆さんに母乳検査と母子の支援を訴えます。

  私たちは、「本当に母乳に放射能汚染はないのか」という事を心配して、茨城県のお母さんたち 5 名、福島県 3 名、宮城県 1 名 に母乳を提供していただき、放射能検査を
いたしました。その結果、茨城県のお母さんの母乳の複数から、ヨウ素− 131 が検出されました。福島県の方の母乳は不検出( 1 名検査中)、宮城県の方の母乳も不検出でした。

田中上奏文のつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/19 23:15 投稿番号: [8214 / 8458]
◆ソ連GPUが関与の疑い
  産経新聞は、平成11年9月7日号で『田中上奏文』について報じました。前田徹ワシントン支局長は、次のようにリポートしています。
  「ソ連国家政治保安部(GPU、ゲーペーウー、KGBの前身)がその偽造に深く関与していた可能性が強いことが、米国のソ連関連文書専門家によって明らかにされた。亡命したソ連指導者の一人、トロツキーが上奏文作成時の2年も前にモスクワでその原文を目にしていたことを根拠にしており、日米対立を操作する目的で工作したと推測している」と。

  この専門家とは、米下院情報特別委員会の専門職員として、ソ連の謀略活動を研究してきたハーバート・ロマーシュタインです。彼は、米国でのソ連KGB活動の実態を明らかにするため、元KGB工作員で米国に亡命したレフチェンコ中尉と共同で調査を行いました。その際に、『田中上奏文』の作成にはソ連の情報機関が関与していたのではないか、との疑惑が浮かんできたのです。そしてトロツキーが、『田中上奏文』について証言した文書を発見したと記事は伝えています。
  ロシア革命の指導者・トロツキーは、レーニンの死後、独裁を狙うスターリンに「人民の敵」というレッテルをはられ、海外に逃亡した先で暗殺されました。ロマーシュタイン氏は、トロツキーが昭和15年(1940)に、その死の直前に書いた遺稿ともいえる論文を、雑誌『第4インターナショナル』に投稿しており、その中に『田中上奏文』に関する重要な記述があることを発見したというのです。
  この論文によると、トロツキーはまだソ連指導部の一人だった大正14年(1925)の夏ごろ、GPUのトップ、ジェルジンスキーから次のような説明を受けました。
  「東京にいるスパイが大変な秘密文書を送ってきた。日本は世界制覇のために中国を征服し、さらに米国との戦争も想定している。天皇も承認している。これが明らかにされれば国際問題化し、日米関係がこじれて戦争に至る可能性もある」と。
  産経の記事は、さらに次のように書いています。
「当初、トロツキーは『単なる文書だけで戦争は起こらない。天皇が直接、署名するとは考えられない』と否定的だったが、その内容が日本の好戦性と帝国主義的政策を説明するセンセーショナルなものだったためソ連共産党政治局の重要議題として取り扱いが協議され、結局、『ソ連で公表されると疑惑の目で見られるので、米国内のソ連の友人を通じて報道関係者に流し、公表すべきだ』とのトロツキーの意見が採用されたと証言している。

  ロマーシュタイン氏はこうした経緯を検討した結果、GPUが25年(註   1925年=大正14年)に日本外務省内のスパイを通じてなんらかの部内文書を入手した可能性は強いが、田中上奏文は、盗み出した文書を土台に二七年に就任した田中義一首相署名の上奏文として仕立て上げたと断定している。

「食人宴席」鄭義著・黄文雄訳P79〜P81

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/19 03:56 投稿番号: [8213 / 8458]
1968年   6月18日。
少なくとも三つの地方で《人肉宴会》が行なわれた。三里区台村大隊の糾弾闘争には、陳漢寧らが出席した。会場では、全大隊が集まり、そのまわりには武装民兵が遠巻きに囲んで、殺気がみなぎっていた。文革主任、陳思庭はその会議を主催し、糾弾される人々の罪状を読み上げ、続いて、群集が約30分前後、糾弾をくりかえした。その後、陳が群集に向かって「こいつらは、どうすればよいか」と質問した。群衆はそろって「殺せ」と絶叫した。陳は刀で三人を切り殺し、しかも腹を切り裂き、肝を取り出し、村人とともに煮て食べた。
この事件について、県の整党委員会の事件関係資料によると、陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいか知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって「人」の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだ。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。
同じ日に、黄茆人民公社が街頭引き回しデモ闘争を行なった。小学校教師の張伯稃が連れて来られて、つるし上げ糾弾集会が行なわれた。張はもう逃げられないと観念して死にもの狂いで逃げ出した。逃げ道がないので川の中に飛び込んだところ、水中から彼を川岸まで引きずって来て、刀で腹を裂き、心臓と肝を取り出して持ち帰り、缶詰の空缶で煮て食ったという。そのとき、張は皮膚、人肉、及びはらわたまで、すっかり切り取られてなくなってしまったのだそうだ。
もういたるところで《人肉宴会》が開かれ、黄茆人民公社の食品部および販売部は、もっとも《人肉宴会》が賑やかで直径一尺八寸の大鍋で人肉を煮て、十数人が宴会を楽しんだという。

田中上奏文のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/17 22:19 投稿番号: [8211 / 8458]
その後、『田中上奏文』が偽書であることは、国際的に定説となっており、欧米でも、代表的な百科事典である『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に偽造文書と書かれています。一例として『ブリタニカ』の1990年版には次のように記されています。

「彼(田中義一)が満洲国の指導者張作霖の暗殺に関与した陸軍将校を処罰しようとした時、陸軍は彼を支持することを拒み、彼の内閣は倒れた。その後まもなく、田中は死亡した。天皇に中国での拡張政策を採用するよう助言したとされる文書”田中メモリアル”は、偽造されたもの(forgery)であることが明らかになっている」と。

◆中国人の手による偽造が濃厚

一体、誰が何の目的で、『田中上奏文』なる文書をつくり、世界にばらまいたのでしょうか。

中国で一般に流布されているのは、『田中上奏文』は昭和2年(1927)7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていたのですが、翌3年6月、台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされています。
外国人が皇居の中にある宮内省に二晩も忍び込んで、訳文で25ページにもなる分量の文書を書き写したというのですから、荒唐無稽な話です。しかも、いまだにその日本語原文は発見さていないのです。

歴史家・秦郁彦氏は、『田中上奏文』が偽書である証拠として、9点を挙げています。そのうち主なものは以下のとおりです。

(1)田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われたというが、正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲われた」ものである。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた事件を、このように書き間違えるはずがない。

(2)大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議したというが、山県は9カ国条約調印の前に死去している。

(3)中国政府は吉海鉄道を敷設したというが、吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和2年の2年後である。

(4)昭和2年に国際工業電気大会が東京で開かれる予定というが、昭和2年にこの種の大会はなかった。昭和4年10月の国際工業動力会議のことかと思われる。
秦氏は、このように記述の誤りを具体的に指摘し、偽作と断定しています。さらに、日本政府が『田中上奏文』の存在を知ったのが昭和4年9月であり、上記の(3)(4)と併せて、執筆時期を昭和4年6月から8月と見ています。

また、秦氏は、この時期に、張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家腊(おうかてい)が、「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で、「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残していることから、王が偽造者だろうと推定しています。(4)

Re: 田中上奏文のつづき2

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/17 10:25 投稿番号: [8210 / 8458]
「日本は俺」と、最近よく、思う。。。(-_-;)。(ブルーですな)

目先の利益に、場当たり的に反応し、
自分や周囲の人に嘘を突き通し、自分や他人をごまかし生きてきた。
自分の人生をかなり台無しにしてきた気がするし、
そのツケは、いずれ取り返しのつかない災いとなって目の前に現れる。

どうしてこうなってしまったのか?私の人生、日本の未来。。。(-_-;)

たぶん、間違っていたのは、人生の目的、国の進むべき指針だと思う。
「勉強して良い就職して、お金を儲けて、嫁さんもらって家建てて、子供を育てて・・・」
なんてーのは、人生の目的ではなく、ただの家庭&過程のようなもの。
(まあ私はそのどれ一つも成功していないけれど。。。(-_-;)w)

人生の目的は、今ならよくわかる。
自分の中の道徳観や倫理観を高めること。だ。
自分で考え、判断し、行動する、力。それを高めること。(勉強とはそのための「学習」)

これが高まれば高まるほど、生き延びる確立が上がる・・・。
なるほど、そもそも人も動物なんだから、目的も、シンプルな話。

この土台がしっかりしていないと、目先場当たりに思考し行動し、
「自分の心の中」や「自分の身体の中」に、「原発が乱立」し、
いずれ、一発で、土台そのものから破壊され汚染され、腐敗する。

今回、それがよくわかった。痛いほどに。

自分の心の中の原発が、ぶっ壊れた時、
自分は、大したことない、大したことないと自他共に嘘をつき、そして責任逃れをするだろう。
「こんな人生になってしまったのは、自分のせいじゃない!!」的な。
それを世間にぶつけてくる。
通り魔の大半は、そういう連中だ。私同様な。。。(-_-;)

今回、それがよくわかった。痛いほどに。

「しょうがないよ・・・」と、母は言う。
「原発乱立し始めた時、我々国民はお金儲けに夢中で、無関心を装っていたのだから」と。

やはり、「日本は俺」なのだと思う。。。(-_-;)

田中上奏文のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/16 20:35 投稿番号: [8209 / 8458]
今日『田中上奏文』または『田中メモランダム』『田中メモリアル』と呼ばれる文書の存在に、日本政府が気づいたのは、昭和4年(1929)の9月でした。その時点で、すでに中国語版と英語版の両方があったようです。そして12月に、初めて中国語版の全文が活字の形で公表されました。漢文では『田中奏折』といいます。文書は、南京で出版された月刊誌『時事月報』の誌上に掲載されました。翌5年2月、わが国の外務省は中国各地の領事館に対し、流布の実況を調査し、中国官憲に抗議、取締りを申し入れるよう訓令しました。

英語版の公刊は、昭和6年(1931)9月、上海の雑誌『China Critic』に出たものが最初とされます。1930年代、米国で英語版のパンフレットが作られ、世界各国に広く配布されました。ソ連に本部のあるコミンテルンは、昭和6年12月、雑誌『国際共産主義者』にロシア語版を発表しました。

英訳された『田中上奏文』は、米国で強い反発を呼び起こしました。文書に「日本が世界制覇を達成するためには、まずシナ・蒙古を征服し、その過程で米国を倒さなければならない」という内容があり、米国との戦争が明確に打ち出されていたからです。ルーズベルト大統領もその内容に注目したことが記録されていると伝えられます。この文書は、米国の対日姿勢の硬化に一役買ったと言えましょう。(1)
実は『田中上奏文』には、本来なら当然あるべき日本語の原典が、現れていないのです。また、内容には、文書内の日付などに矛盾や誤謬が多く、また、殊更どぎつい表現が使われています。到底、日本の首相が天皇に上奏するために書いた文書とは考えられません。昭和5年2月、わが国の外務省は、文書を偽造と断じ、シナの国民党政府に抗議したのです。

ところが、そうした文書が、シナでは絶好の「排日資料」として利用され、繰り返し宣伝されました。たとえば、昭和7年11月、国際連盟の第69回理事会で、満州事変が討議された際、中国の代表は『田中上奏文』に言及しました。日本代表・松岡洋右が、この文書を真実とみなす根拠を追求したところ、中国代表は「この問題の最善の証明は、実に今日の満州における全事態である」と答えました。ひどいこじつけの論法ですが、その後の東京裁判でも、中国は同じ論法を使っています。(2)

『田中上奏文』は10種類もの中国語版が出版され、大陸の津々浦々で流布されました。ロシア語版、英語版、ドイツ語版まで出されて、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまいたのです。ただし、「日本語訳」はありますが、日本語で書かれたはずの原典はいまだに発見されていません。最初から偽書であるから、原典が存在しないのです。

東京裁判では、米国・旧ソ連・中国などの連合国が日本を裁くうえで、『田中上奏文』を重要な根拠としたようです。

冒頭陳述において、キーナン主席検事は、日本は昭和3年以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったとのべました。被告等が東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのです。

なぜ昭和3年以来かというと、この年、張作霖爆殺事件が起こったからです。その事件が起点とされる理由は、『田中上奏文』が日本による計画的な中国侵略の始まりをこの事件としていることによります。

東京裁判で弁護団の中心となった清瀬一郎は、冒頭陳述の内容が、『田中上奏文』に基づいているのではないか、と気づきました。そして弁護団はこの文書が偽書であることを証明する戦術をとりました。

証言に立った蒋介石の部下、秦徳純に対して、林逸郎弁護人は「日本文の原文を見たことがあるのか」と質問しました。「見たことはない」と秦は答えました。ウェッブ裁判長の質問に対しても、「私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできない。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのである」と答えました。

結局、キーナン首席検事は、『田中上奏文』を証拠として提出しないことにしました。しかし、こうした信憑性のない文書をもとにして作られていた裁判の筋書きは改められずに、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年以来、中国や英米等に対し、計画的な侵略戦争を行ったとして断罪されました。(3)

田中上奏文

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/15 23:18 投稿番号: [8208 / 8458]
細川一彦のオピニオンより

東京裁判において、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年(1928)以来、計画的に侵略戦争を行ったとして、断罪されました。その裏付けの一つとされたのが、『田中上奏文』です。

中国語では「田中奏折」と記し、英語では「The Tanaka Memorandum」または「The Tanaka Memorial」と記します。「田中メモ」であれば個人的な覚書ですが、「田中メモリアル」となれば歴史的な価値のある文書という意味となります。この文書が偽書であることは、既に国際的に定説となっています。欧米でも『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に、「偽造文書」と解説されています。しかし、今も中国のみはこれを本物として、対日外交に利用し、南京事件もこの文書に書かれた計画の一例としています。

『田中上奏文』の虚偽を徹底的に明らかにしなければ、日本の汚名をぬぐうことはできず、国際社会における正当な地位を回復し得ないのです。

  この20世紀最大の謀略文書について、最近、ソ連が捏造したものだという新説が出ています。また、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方が主流になりつつあるといいます。もしそうだとすると、わが国は、共産主義の謀略に見事に嵌められたことになります。
  この文書がどういうものかということを振り返りながら、明らかになりつつある実態を確認してみたいと思います。

『田中上奏文』には世界制覇の野望に基づく計画が書いてあり、天皇も承認した、それを実行に移したのが昭和3年の張作霖爆殺事件だ、その後の日本の行動はこの文書に書かれた計画に基づいている、という説が流布されています。
文書の一節には、「世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。わが国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までがわが国の威風になびくだろう」とあるとされます。

『田中上奏文』の「田中」とは、昭和初期に首相を務めた陸軍大将・田中義一のことです。田中内閣が発足したのは、昭和2年(1927)4月20日。シナでは、軍閥、コミンテルン、共産党等が絡む事件が続き、わが国のシナへの対応が難しくなっていた時代です。

田中は組閣に当たり、昭和天皇より、外交には特に慎重熟慮するようにとの御言葉を賜りました。そこで、田中は、根本的な大陸政策を確立するために一大連絡会議を開きました。この東方会議の議決に基いて田中首相が天皇に上奏し、天皇が署名したとされるのが、『田中上奏文』です。そして、『上奏文』の計画の実行の第一歩として、昭和3年6月、関東軍は張作霖事件を起こしたとされるのです。
しかし、実際は、全く異なります。張作霖事件について、陸軍は真相を隠して事件の揉み消し工作をしたというのが通説です。田中義一首相は責任者を厳しく処分すると天皇に申し上げたのですが、真相究明に一年もの時間を掛けた挙げ句、白川陸軍大臣があれは陸軍が関与したのではないようだったので、行政処分にしましたと上奏したのです。すると天皇は、汝の今言っていることは前回に自分が総理に命じ、総理が約束したところと違っている、そんなことでは軍の規律を維持できない、と激しくお怒りになりました。田中首相は、お目通りもかなわない。そこで田中は非常な衝撃を受け、田中内閣は即日、総辞職。首相は謹慎して3ヶ月足らずの後に、狭心症で亡くなりました。
田中首相が上奏した文書を、天皇が承認して、計画を実行したなどということは、あり得ない話であるわけです。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/14 22:57 投稿番号: [8207 / 8458]
空気と海水は、散々汚され、水も野菜も魚も…でも、我々はそれを食べるしかない。
地雷原で遊んでしまう外国の子供達のように、
危機的な精神状態は、長くは持たないから、
「まあ、大丈夫じゃないかな。。。(-_-;)」と、
目に見えぬ危険より、動物的本能的欲求が勝るのは当然だ。

国民は、癌に侵される。

小児癌や奇形児の多発、一番可哀相なのは、子供や母親達だ。
悲しみ泣き叫んだところで、
「原発による放射能汚染との因果関係は、証明できない」として、
国も裁判も電力会社も、惨めな母子を、さらに足蹴にするだろう。

我々、日本国の悲劇は、たぶん、まだ始まったばかりだ。。。。(-_-;)

尾崎秀実という人物のつづき20

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/14 22:38 投稿番号: [8206 / 8458]
田中上奏文、スノー、スメドレー、ゾルゲ等をたどっていくと、ソ連・中国・アメリカの共産主義者及びわが国の共産主義者の間の連携には、これまで知られている以上に、広く深いものがあるに違いないと感じられます。最も気になるのは、近衛文麿の上奏文の内容です。
  「これら軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(略)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存候。‥‥彼等の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」
  これは単なる一政治家の回想録の一部ではありません。昭和天皇にあてた元首相の赤裸々なお詫び文の一節です。そにに、重みがあります。敗戦を覚悟した近衛は、戦後に共産革命の起こることを深刻におそれ、自責の念に駆られていました。近衛を操っていたのは、彼を取り巻くブレーンの中核だった尾崎秀美です。尾崎の暗躍はゾルゲ事件で露呈しました。その尾崎の背後には、一般に認識されているより、はるかに重大なものがありそうだと私は感じていました。

  そうしたところに、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』(自由社)を知り、一読。ズシンと腑に落ちるものがありました。戦前、”満州の三スケ”といわれ、東条内閣の商務大臣を務めた岸信介氏は、三田村氏の著書に寄せて、次のように書いています。
  「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
  近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と。
  岸氏は戦後首相になった人物で、その気骨と頭脳の優秀さには定評があります。三田村氏の書著が単なる謀略史観の類であれば、自ら序文をしたため、「操り人形」などと自嘲しはしないでしょう。

  三田村氏によると、尾崎は「最も忠実にして実践的な共産主義者」(尾崎自身の言葉)であり、レーニンの「帝国主義戦争を革命へ」という戦術に基づき、軍部の中枢や近衛の政策ブレーンに入り込んで、日本を無謀な戦争に駆り立て、かつ戦争を長期化させて敗戦に至らしめ、「敗戦革命」を起こそうと画策していたのでした。つまり、資本主義国同士の戦争を革命の好機とし、これを醸成し、敗れて弱った国から革命を起こしていって、最後は世界共産主義革命を完成させるといういう戦略の実践です。
  尾崎の最大の仕事は、陸軍を北進論から南進論に転換させたことです。この転換で、日本は英米と戦わざるを得なくなる道に進みました。スターリンは、日本軍をシベリアから南方へと向けさせることで、ドイツの侵攻から命拾いをし、日米を決戦に引き込むことで、漁夫の利を得たのです。

  戦後の日本では、コミンテルンの32年テーゼの二段階革命論の第一段階・ブルジョワ革命に当たる変革が実行されました。実行者は、ソ連ではなくアメリカ、日本の共産主義者ではなくGHQの官僚たちでした。GHQには多くのニューディーラー左派がいました。彼らはケーディスを始め、共産主義者ノーマンの書いた日本史・日本論を「聖書」のようにして読み、日本弱体化の参考にしました。GHQのブルジョワ革命的な占領政策には、日本の共産主義者や容共的な近代主義者が多数協力したのでした。

尾崎の目的は「敗戦革命」による日本の共産化でした。戦後日本では、それは押し留めることができています。しかし、共産化の前段階としてのブルジョワ革命的な変革は、こうした形で遂行されてきたのです。

アグネス・スメドレーのつづき5

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 09:55 投稿番号: [8205 / 8458]
スメドレーは1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿した。中国共産党傘下の八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。

その後アメリカに戻り、第二次世界大戦及び国共内戦における中国共産党への援助に関する活動に従事している。この間数冊の著作を執筆した。印税ほ全て社会のために使い、友人の家に間借りするような質素な生活を送っていた。戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。

スメドレーの活動も影響してか、アメリカからの支援が減った国民党軍は敗北し台湾島に遷都し、1949年には国共内戦に勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が設立された。その翌年の1950年に、米下院非米活動委員会からスメドレーに召喚状が発せられたが、彼女はその日にロンドンに飛び、その晩急死した[1]。スメドレーの死の2年後、1952年にFBIは彼女に関する捜査を打ち切っている。遺骨は北京の墓地へ埋葬された。

アグネス・スメドレーのつづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 09:51 投稿番号: [8204 / 8458]
スメドレーは1892年にミズーリ州のオスグッドで農家の5人兄妹の1人として生まれた。10歳の頃コロラド州へ移り、学校へと通いながら家計を助けるために働いていた。彼女は正規の教育を受ける機会はなかったが、学習に対する興味は失わなかった。1911年から1912年にかけて、スメドレーはアリゾナ州テンピの師範学校で特待生として学んだ。学内では学生新聞の編集を行っている。
その後、スメドレーはアーネスト・ブラディン(Ernest Brudin)と結婚し、カリフォルニア州へと移住した。この地で社会主義の思想に触れた彼女は、6年後に離婚するとニューヨークへと向かった。ニューヨークではマーガレット・サンガーと共にBirth Control Review誌で働いている。インド人の共産主義者ヴォレンドラナート・チャットパディアと関係を深めると、彼とともにドイツへ渡った。1929年には初の自伝を書き上げている。

チャットパディアと分かれたスメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向かった。上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した。尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みている。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/04/13 08:15 投稿番号: [8202 / 8458]
日本の問題を直視する勇気が日本人には必要です

アグネス・スメドレーのつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 04:34 投稿番号: [8201 / 8458]
◆「20万人虐殺説」を唱えた容疑者

昭和8年(1933)にドイツでナチスが政権を取ると、チャットパディアは、ソ連に亡命します。レニングラードの大学で教鞭をとっていたといいますから、相当な評価を受けていたのでしょう。しかし、最後は、スターリンに粛清されてしまいます。

一方、スメドレーは、シナで活動を続けました。彼女は日中戦争の間、中共軍に従軍して各地を転戦し、中国共産党の代弁者のようになって、欧米に著述を書き送りました。

彼女は、昭和16年(1941)に帰米しましたが、のちアメリカ政府からスパイという告発を受けます。彼女は抗弁して、逆に政府に謝罪させましたが、結局、国を追われ、昭和24年(1949)に渡英します。そして、困窮のうちに、ロンドンで客死。遺骨は、北京に葬られたのことです。彼女の思いは、シナにあったのでしょう。共産主義に骨まで献身したというわけでしょう。

冒頭に、「南京大虐殺」についてのスメドレーの記述を書きました。私は、スメドレーの「20万人虐殺説」は悪意あるデマ宣伝であり、その背後に、なんらかの組織の意図・目的があると考えます。
スメドレーの足跡には、赤い疑惑がつきまといます。専門家の方々のさらなる研究に期待しています。

アグネス・スメドレーのつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/13 02:58 投稿番号: [8200 / 8458]
アグネス・スメドレーは、アメリカ人でしたが、インド独立運動に関心を抱くようになりました。そして、ベルリンで勉強していた時、インド人のチャットパディアと出会い、結婚します。

チャットパディアは、単なる愛国的な独立運動家ではありませんでした。ロシア革命後、共産主義者となったからです。彼はインド共産党の創立に加わり、またドイツ共産党でも活動しました。そして、共産主義による国際的な民族解放運動を推進していました。

スメドレーは、そうした人物と数年間、共同生活をしているのです。チャットパディアはソ連=コミンテルン系の共産主義者ですから、スメドレーの方も、共産主義運動に献身あるいは協力していたと見るべきでしょう。仮に二人の目的は、インド人民の悲願、民族独立だったとしても。

スメドレーは、昭和3年(1928)に、ドイツの新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の記者となります。この新聞は、フランフルトに本社があります。その都市こそ、西欧マルクス主義の牙城・フランクフルト学派の本拠地でした。

スメドレーは、ドイツでは珍しかっただろうインド人の共産主義者と生活を共にしながら、よくこうした職を得られたものです。さらに彼女は、なぜかシナにも関心を持つようになり、昭和4年、特派員として、シナへ行きます。
その翌年、上海に、コミンテルンの大物スパイが現れます。その名は、リヒャルト・ゾルゲ。かのゾルゲ事件で名高い人物です。ゾルゲは、ドイツ人ジャーナリストの肩書で、ソ連からシナに派遣されたのです。そこでゾルゲは、スメドレーと会い、彼女から尾崎秀実を紹介されます。尾崎は、ゾルゲ事件に連座した新聞記者です。

昭和8年(1933)1月、ドイツにナチスのヒトラー政権が成立しました。すると、ゾルゲは、コミンテルンから日本行きの指令を受けます。彼はまずドイツに入って、偽装ナチ党員となり、同年9月には『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員の職を得ます。この新聞社は、スメドレーが勤めている新聞社です。

ゾルゲは来日すると、尾崎と共に、国際スパイ活動を展開します。一方、スメドレーはシナに残り、中共軍と行動を共にします。

どうも、どこかに筋書きが書かれているような気がします。素人の気楽さで、仮説を立てると・・・コミンテルンの支部組織がベルリンやフランクフルトにあり、『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の幹部に共産主義者がいた。チャットパディア=スメドレー=ゾルゲは、同じ指示系統で活動した。スメドレーは使命を受けてシナに派遣され、現地のコミンテルンの指示を受けて、ゾルゲに協力し、尾崎秀実を紹介した。また彼女はチャットパディアと協力してインド・シナの共産化を画策した・・・。

スメドレーは、実際、チャットパディアとともに、毛沢東・周恩来・朱徳と、ガンジー・ネルーをつなぐ役目をしています。しかし、インドの賢者たちは、チャットパディアと異なり、ソ連・中共の共産主義とは一線を画しました。これは、インドの運命にとって、賢明な判断だったと思います。チャットパディアの路線を行っていれば、インドは東欧と同じ悲惨を味わっただろうからです。

アグネス・スメドレー

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/04/12 18:37 投稿番号: [8199 / 8458]
  「南京事件」は、エドガー・スノーによって、女子供を含む4万2千人が虐殺されたと宣伝されました。さらにそれをもっと誇張したのが、アグネス・スメドレーです。彼女は「日本軍は20万人を虐殺した」と拡大宣伝しました。この女性ジャーナリストの行動には、背後にある組織の意図・目的がうかがわれます。

◆「南京大虐殺」として虚報

南京事件について、4万人虐殺説を言い出したのは、M・S・ベイツ博士でした。ベイツは中国国民党中央情報部の顧問でした。彼の所説は、「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦等員だった」というもの。国民党は宣伝部に雇ったエージェントのH・ティンパーリを使い、『戦争とは何か』にベイツの説を載せて宣伝しましたが、中華民国の公式記録では、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。

ところが、これを改めて反日宣伝に持ち出したのが、エドガー・スノーでした。スノーは、昭和16年(1941)刊行の『アジアの戦争』に、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供であった」と書きました。ベイツの説では、4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく女子供、と言い換えたのです。

さらに、そのうえを行ったのが、アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーでした。スメドレーは、昭和18年(1943)に出した『シナの歌ごえ』で、「日本軍は、20万人を虐殺した」と、拡大宣伝しました。死者の数は、5倍に増やされました。東京裁判で出される数字に、一挙に跳ね上がったわけです。

スノーもスメドレーも、南京事件の現場を目撃・検証したわけではありませんから、全くジャーナリストのモラルが疑われます。むしろ、彼等は、客観的な第三者の立場を装って、シナの事情に疎い欧米の読者に対し、意図的に、悪質なデマ宣伝をしたと見るべきでしょう。スメドレーについては、スノー以上にその可能性が高いと思います。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/10 21:46 投稿番号: [8198 / 8458]
今日のCMLの投稿

「 国民投票により原発政策の転換を!」だって

国民投票

あれほど反対しておきながら都合のいい時だけ持ち上げるのか。

勝手なものだよな。

Re: 侵略国日本は国際社会の前科者

投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/04/10 02:12 投稿番号: [8197 / 8458]
ホントにどうしようもない中国人ども・・・

http://www.youtube.com/watch?v=3XK0e3Yh3sg

でも、決して嫌いにならず温かい目で見てやってほしい。

僕からのお願いです・・・・


な〜んてね(笑)
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