李朝朝鮮

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Re: 清から受けた諡号を徹底的に隠蔽

投稿者: pup_pooh_one 投稿日時: 2007/09/17 22:49 投稿番号: [1001 / 1329]
日本風の創氏改名に文句を付けるくせに、とっくに開放されたのに、今でも中国風の名前を名乗ってるし。
中国に逆らうDNAを持ってる固体は淘汰されて、中国に従順なDNAを持った個体しか生き残れなかったんでしょうね。

Re: 清から受けた諡号を徹底的に隠蔽

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/09/17 22:30 投稿番号: [1000 / 1329]
まさに、歴代高麗王が元朝から下賜された諡号と同じ感じですね。
高麗も当初は支那皇帝みたいに廟号を持っていたのが、元に制圧されるに到って、禁止されたのか自粛したのか、やめましたしね。(新羅の太宗武烈王の廟号は、唐朝からイチャモンをつけられたのが、ゴマカして贈ったみたいですが。『三国史記』によれば。)

>つまり、清に対しては使うしかなかったんでしょ。で、清から下された年号と同じで、内輪では使用しないで自己満足してただけかと。

ここで思い出したのが、応永の外寇(己亥東征)の後の、朝鮮使節の言い分です。
室町幕府の役人から、「オタク、これ、大明の年号でしょ? これじゃあ御所サマ(将軍義持)は文書をお受け取りになりませんヨ。ここはひとつ、独自の年号をデッチあげなさいな」と言ったら、「シッパル!! そんな捏造・歪曲をしたら主上殿下(世宗。実はまだ上王の太宗が実権を握っていたが)に不忠になるニダ!」と拒否。ここでかなりもめたようですね。
つまり、大明の元号を使う事がすなわち中華世界の大切な秩序だった事が、分かりますね。

高麗人参の原産地は中国・遼東アルヨ

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/09/17 20:42 投稿番号: [999 / 1329]
高麗人参の原産地が中国でも、全然どうでもいい話なのですよ。
というか、端々から「言うとることが気に入らん」という、学者らしからぬ感情的で情緒的で政治的な反応しかできん時点で、何も調べず何も考えず学者やってるだけの愚鈍な存在でしかないのですよ。
で、普段から捏造ばかりしてるから誰も信用してくれなくなるんですよ。
(本当は日本なんだけど中国でいいや)

ところでキ○ーリのキュ○ちゃんのキュウリの原産国は中国ですね。

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中国学者朝鮮人参原産地中国主張論難

高麗人参の根は中国という主張が中国学者によって申し立てられて学界に論難が予想される。

忠南道が今月16日ソウル歴史博物館で開催する国際学術シンポジウムで提案者として発表するウィ・ジガン教授((中山大)は事前配布した提案資料から「歴史的に朝鮮人参原産地は中国の遼東」と主張した。

これに学界は、中国が朝鮮人参の歴史性と国際的価値を歪曲して横取りしようとする意図を露骨に現わしたもので、これを東北工程の一環と見る見方が強くでるなど、論難が予想される。ウィ教授は提案文で「中国歴史文献によれば、朝鮮人参の栽培と応用の歴史は、1700余年に至る。中国の歴史で'遼参'と呼ばれているが、その原因は朝鮮人参の産地が'遼東'にあったから」と明らかにしている。

彼はまた「高麗人参は紀元前37年、高句麗が中国の遼東と韓半島に強大な国家を形成し、'遼参'の原産地が高句麗の所有になって'遼参'は高句麗・高麗人参になった」と明らかにした。ウィ教授は引き続き「西紀618年、高句麗が唐と新羅の連合軍によって滅亡した後、高句麗の流民たちは大量に南下して韓半島に入ったが、その時、高麗人参を韓半島に持って行って栽培し始めた」と主張した。

これに討論者である北東アジア歴史財団のユン・ゼウン博士は「中国側が学術的に高麗人参の元祖が自分たちだ、と主張したことは今回が初めてなので、かなり驚いている。私たちの学界では、これを東北工程の一環と見る視点が強くて、これに対する私たちの対応策の用意が切実に要求される」と言った。

専門家たちは「相当量の外国産の'Korean ginseng'と言うブランドに偽装されて流通しており、最近アメリカの著名雑誌では高麗人参を中国の伝統薬剤(traditional Chinesemedicine)と紹介するなど、その歪曲が深刻な状況」と言いながら「国家戦略次元の対策作りが要求される」と明らかにした。

ウィ教授は中国の中山大学国際関係学副教授であり韓国研究所副所長に在職している。一方、シンポジウムではウィ博士とともにイ・チョルソン教授(コンヤン大)が「コリア、高麗人参の国」という主題発表をして、イ・ホンチァン教授(高麗大経済学科)、ユン・ゼウン博士(北東アジア歴史財団)、チョン・ソンイル教授(光州女大)と日本の長森美信教授(天理大)など4人が討論者に出て、朝鮮人参の原産地学説などをめぐり熱い論戦をすることと予想される。

聨合ニュース(韓国語)
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2007/09/14/0200000000AKR20070914083600063.HTML

Re: 清から受けた諡号を徹底的に隠蔽

投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2007/09/13 21:10 投稿番号: [998 / 1329]
横須賀で韓国軍艦が戦闘旗を掲げた事件も100年後には


わが国の軍艦が敵国の中枢で戦闘旗を掲揚して威嚇しても日帝や米帝のヤツらはわが国の威風を恐れて何も手だしができなかった。


という伝説に変わっているのでしょうね。

Re: 清から受けた諡号を徹底的に隠蔽

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/09/13 20:42 投稿番号: [997 / 1329]
>>朝貢・冊封の‘事大関係’というものは、外交的な形式に過ぎなかったということだ。
>>受けた諡号を表立って使わなくても良いだけ、朝鮮王朝はほとんど完全な政治的自主権を持っていたということだ。

>苦しい、あまりにも苦しい言い訳だな。
>形式的もへったくれもなかろ。政治的自主権持ってたって言うんなら、そもそもなぜ諡号を断らない?

まさにおっしゃるとおり。じゃ、形式的なものに対して三跪九叩頭し続けるしかなかったんだよね、と惨めな現実がさらされるだけです。

んで、政治的自主権は有していたから「属国」なわけでして、もしそれを持ってないのなら清の単なる「領土」ですしね。

本当に完全無欠の自主を持っていたなら、アメリカやイギリスなどとの条約締結において清の監督を受けることも無いでしょうにネェ

>諡号に‘忠’‘順’‘恪’‘恭’などの字がよく使われたことで、朝鮮王たちが順従になることを望んだ清の希望事項と読める。しかし、この諡号は「朝鮮王朝実録」や国王たちの行状(死んだ人が一生の間に暮して来た事を書いた文)、陵誌文(王や王妃の生没日課行績などを書いた文)など、ほとんどすべての公式記録から大部分影をひそめ、外交文書以外には一切使われなかった。

つまり、清に対しては使うしかなかったんでしょ。で、清から下された年号と同じで、内輪では使用しないで自己満足してただけかと。

清から受けた諡号を徹底的に隠蔽

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/09/13 20:29 投稿番号: [996 / 1329]
>朝貢・冊封の‘事大関係’というものは、外交的な形式に過ぎなかったということだ。
>受けた諡号を表立って使わなくても良いだけ、朝鮮王朝はほとんど完全な政治的自主権を持っていたということだ。

苦しい、あまりにも苦しい言い訳だな。
形式的もへったくれもなかろ。政治的自主権持ってたって言うんなら、そもそもなぜ諡号を断らない?
当時の王達のように現代においてもなお必死に取り繕う様は悲しい。

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朝鮮後期王たち、清から受けた諡号徹底的に隠した

朝鮮王朝16代王、仁祖以後11人の王様が清から受けた諡号(帝王や宰相が死んだ後、功徳をほめたたえて付ける名前)がすべて明らかになった。これらの諡号はこれまで公式記録から徹底的に隠されていた。

李迎春(イ・ヨンジュン)国史編纂委員会研究官は14日午前11時、ソウル歴史博物館講堂で歴史実学回(会長ユン・ソクヒョ)主催で開かれる学術発表会「朝鮮後期外交史の検討」のため、主催側に送った論文「金指南の通文館志と中国との関係」を通じてこのような事実を明らかにした。

「通文館誌」は史官だった金指南・金慶門父子によって1708年に編纂され、1720年刊行された後、19世紀まで17回にわたって増補・重版された外交資料集で、清・日本との外交関係の格式と沿革、略史を記録している。今まで、この本に対しては主に板本・版本のような書誌学的研究が行われただけで、その内容が詳らかに分析することはできなかった。

ところで今回の研究でこの本の‘紀年’編に朝鮮が清から請じて受けた各王らの諡号をすべて記録していたことが明らかになった。

▲16代仁祖(インジョ・1623〜1649)は‘荘穆王’▲17代孝宗(ヒョジョン・1649〜1659)は‘忠宣王’▲18代顕宗(ヒョンジョン・1659〜1674)は‘荘恪王’▲19代粛宗(スクジョン・1674〜1720)は‘僖順王’▲20代景宗(キョンジョン・1720〜1724)は‘恪恭王’▲21代英祖(ヨンジョ・1724〜1776)は‘荘順王’▲22代正祖(チョンジョ・1776〜1800)は‘恭宣王’▲23代純祖(スンジョ・1800〜1834)は‘宣恪王’▲純祖の王世子で死後に王に追尊された翼宗は‘康穆王’▲24代憲宗(ホンジョン・1834〜1849)は‘荘肅王’▲25代哲宗(チョルジョン・1849〜1863)は‘忠敬王’だった。

諡号に‘忠’‘順’‘恪’‘恭’などの字がよく使われたことで、朝鮮王たちが順従になることを望んだ清の希望事項と読める。しかし、この諡号は「朝鮮王朝実録」や国王たちの行状(死んだ人が一生の間に暮して来た事を書いた文)、陵誌文(王や王妃の生没日課行績などを書いた文)など、ほとんどすべての公式記録から大部分影をひそめ、外交文書以外には一切使われなかった。

明から受けた諡号を‘太祖康献大王’‘世宗荘憲大王’のように記録した朝鮮初期とは完全に変わったのだ。実録にも、清に諡号を請じて受けた事実だけ記録しただけ、受けた諡号が何だったかは記録しなかったし‘肅宗’のような片鱗が引用された外交文書に伝えるだけだ。李迎春研究官は「諡号を受けただけで、記録はもちろん挙論さえしなかっただろう」と述べた。

どうしてだろうか?‘蛮夷国’だと思った清の諡号を恥ずかしく思ったからだ。言い換えれば朝貢・冊封の‘事大関係’というものは、外交的な形式に過ぎなかったということだ。表で恭しいふりをした朝鮮人たちの意識の中には、清に対する反発が堅固に席を占めていたし、受けた諡号を表立って使わなくても良いだけ、朝鮮王朝はほとんど完全な政治的自主権を持っていたということだ。

朝鮮日報(韓国語)
ttp://news.chosun.com/site/data/html_dir/2007/09/11/2007091100074.html

1300年前の巨大仏像がほぼ無傷で発掘

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/09/12 19:37 投稿番号: [995 / 1329]
石仏だろ?
奈良の大仏とは違う。(不思議に年代は同じだが)

>政府の考古学者らは、8世紀後半に建造された仏像は完成直後に前面を下にして土に埋まったため、浸食を免れたとみている。

いったい何があったんだかねー(棒・・・

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韓国で1300年前の巨大仏像がほぼ無傷で発掘

【9月11日 AFP】(一部修正)韓国で1300年前に建造された巨大な仏像が、ほとんど無傷で発掘されたことが分かった。新聞各紙が11日、伝えた。

  重さ70トン、高さ5.6メートルの仏像は5月、南東部の都市、慶州(キョンジュ、Gyeongju)で地面に埋まっている状態で発見され、数か月にわたる発掘作業をへて、ようやく顔、胸、肩などの部分が姿を見せた。

  中央日報(JoongAng Daily)英語版が専門家の話として伝えたところによると、仏像は鼻が5センチ程度欠けているほかは、ほぼ無傷だという。

  「仏像の顔が、5センチほど欠けただけで済んだのは奇跡だ」と韓国仏教組織Jogye Buddhist Orderの管理責任者は同紙に語った。

  政府の考古学者らは、8世紀後半に建造された仏像は完成直後に前面を下にして土に埋まったため、浸食を免れたとみている。

  韓国文化財庁(Cultural Heritage Administration)のYou Hong-Jung長官は同紙に対し、「仏像を当初の位置に移動したいが、70トンの塊を動かすのは容易なことではない」と語った。

  地元文化当局は、年内に顔が上になるよう仏像の向きを変える予定だという。 (c)AFP

ttp://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2280977/2127043

「百済文化」が取り持つ縁

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/09/11 03:53 投稿番号: [994 / 1329]
琉球文化を本土の人間が誇るくらいに、関連性が無いな。

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「百済文化」が取り持つ縁   県立装飾古墳館   歴史文化館(韓国)と姉妹締結

  山鹿市鹿央町の「県立装飾古墳館」と、韓国・忠清南道の扶余にある「百済歴史文化館」が姉妹館締結する。かつて百済の都があった扶余などで10月11日から開かれる第53回百済文化祭(15日まで)の期間中、現地で調印式がある。

  姉妹館締結は、6月に忠清南道の知事らが、百済とのつながりが深い、同古墳館分館の「歴史公園鞠智(きくち)城・温故創生館」(同市菊鹿町)を視察したのがきっかけになった。

  鞠智城は白村江の戦い(663年)で唐と新羅の連合軍に大敗した大和朝廷が、防備のために西日本各地に築いた城の1つ。出土品などから百済の技術者が建築にかかわったと考えられている。2004年2月に国史跡に指定された。

  忠清南道は、百済の歴史遺産と伝統文化の継承に力を入れている。昨年3月に開館した百済歴史文化館は、10年の完成を目指して建設が進められている「百済歴史再現団地」の中核施設。原寸大のジオラマなどで百済の歴史を紹介している。

  温故創生館は「今後、研究情報の共有や発掘物の鑑定協力などで交流を深めたい」としている。

ttp://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kumamoto/20070908/20070908_001.shtml

日本統治時代に移された光化門

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/09/08 18:09 投稿番号: [993 / 1329]
、本来の位置確認


  景福宮光化門が本来あった場所が見つかった。また、光化門の威厳を高めるために門の前に築かれた月台と、日本統治時代に敷設された電車の線路もあわせて発掘された。


  国立文化財研究所は6日、「1865年の景福宮重建の際に再建された光化門の場所を確認した」と発表した。発掘調査の結果、光化門の本来の位置は、1968年に復元された光化門(現在は撤去されている)よりも、南に11.2メートル、西に13.5メートルずれていた。撤去済みの復元光化門は、日帝が朝鮮総督府の建物を作るに当たり1927年に景福宮北側へ移したものを、1968年に再び元通り南側へ移築したものだった。


  光化門の大きさは、底面の石を基準として東西34.8メートル、南北14.7メートル。3つの門が並んだ形をしており、中央の門(幅5メートル)は国王が、東門と西門(いずれも幅3.5メートル)はそれぞれ文官・武官が出入りするものだった。


  今回の発掘では、光化門の南側に伸びた月台の跡も出土した。東西の幅は29.7メートルであることが確かめられたが、南北の長さは、既存の道路(世宗路)に遮られ8.3メートルまでしか確認できなかった。朝鮮時代には、景福宮を出てこの月台を通り南大門(崇礼門)に向かっていた。

慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS

門番の交代式

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/09/08 14:23 投稿番号: [992 / 1329]
朝、起きてなにげなくテレビをつけたら、
ユミンが韓国を紹介していました。

で、李朝の徳寿宮(ソウル5大王宮の中のひとつ)門番の王宮主門将交代儀式が見れます・・・と紹介してて、
私がテレビ画面から見ても立派な儀式だったのですが、

http://www.konest.com/data/spot_mise_detail.html?no=526

このようにして他の国々に門を守ってるとアピールしてたと言うんですけど、

・外国人があまり居なかった李朝時代でそんなアピールは必要ないのでは?
・観光名物化した有名なイギリスの衛兵交代のセレモニーを意識して、
  最近、李朝風にクリエイトしただけなんじゃないか?

勇猛!朝鮮軍

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/09/05 02:19 投稿番号: [991 / 1329]
今回も自スレの使いまわし。

▲いつかどこかで見た風景
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1847989&st=writer_id&sw=xiaero

1637年1月30日、三田渡で仁祖は降伏し、丙子胡乱は朝鮮の敗戦に終わったわけですが、戦役中に仁祖は漢城から南漢山城に避難籠城しており、漢城に残された守将も逃亡してしまったため、漢城都城は清軍の蒙古兵の略奪を受けました。

で、これに対して怒った李𦫿・徐佑申という部将はいかなる行動に出たか?

なんと、降伏後に瀋陽に向けて帰還する途中の清軍を襲撃したのです。…しかも返り討ちに遭って、兵3、4千と韓耆英などの部将を失うという惨敗…

講和成立、戦闘終結後に帰還する敵を襲って返り討ちって、まるでどこかの水軍提督みたいですねぇ、と。

Re: 朝鮮軍の大活躍(?)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/08/31 16:49 投稿番号: [990 / 1329]
>朝鮮民族が、元でも、日本でも、米国でも、その下でいい気になって残酷行為をしたことがすぐ思い浮かぶ訳ですが、

そうですね。例えば史書「高麗史」では、南宋のことを「蛮」と表記しています。南宋軍を「蛮子軍」、南宋様式の軍船を「蛮様(高麗史104   列伝17   金方慶伝)」なんて表記しているんですが、これはご主人様の元の尻馬に乗ってそう書いているってコトなんですよねぇ。

>侵略戦争を起こす側にとっては、相手に勝って征服したとしても、その後の統治で懐柔したり、相手側の生き残った実力者と交渉して自分の勢力の側につかせなければいけないから、
ほどほどの程度にしようと計算が自然に働くけれど、

皆殺しってのもありえないわけじゃないですけど、ま、その辺は戦後の統治・付き合いにどう影響を及ぼすかという計算もありましょうから、ケースバイケースで。

>その後の処理を考える必要のない朝鮮側にとっては、手加減を考えることなく行動してしまうということなんでしょうか?

威を借りて好き放題に気持ちよく振舞っているか、ご主人様に忠勤を励んでいるってところじゃないかと。

今回紹介した皮島の戦いの場合、朝鮮軍の指揮官が林慶業ってのが笑いどころなんですよ。
林は、抗清派の武将で、後に明と連絡を取っていたことが露見して逮捕され瀋陽に護送中、脱走して明に逃げこみ、明軍の部将として戦うものの、総指揮官の降伏により捕縛されて瀋陽に送られ、さらに金自点が沈器遠を処断した権力闘争への関与を疑われ、さらに漢城に送られた後拷問を受けて獄死したという人です。
朝鮮の民間信仰じゃ神様になっているんですけどね(地方的な存在かな)。

そんな人間ですら明人を虐殺掠奪したのですからねぇ……もっとも、『丙子録』では清軍の邪魔をしたように書かれており、また小説『林慶業伝』でもそれを拡大誇張して清軍を騙して苦境に陥らせ、明軍司令官を殺したふりをしてひそかに救い出すというストーリーになっています。以前紹介した『朴氏夫人伝』でも頼もしい将軍として登場します。

れRe: 朝鮮軍の大活躍(?)

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/08/31 14:46 投稿番号: [989 / 1329]
>その後の処理を考える必要のない朝鮮側にとっては、手加減を考えることなく
>行動してしまうということなんでしょうか?

そうでしょうね。ですから、いまだに「光州事件」で何人虐殺されたかが出ていない。
「四・三事件」もそうですよね。

Re: 朝鮮軍の大活躍(?)

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/31 11:39 投稿番号: [988 / 1329]
>朝鮮軍の明人に対する殺戮掠奪は清軍のそれより甚だしかったということが、他ならぬ朝鮮側の史料「丙子録」「続雑録」にあるよねってお話です。

朝鮮民族が、元でも、日本でも、米国でも、その下でいい気になって残酷行為をしたことがすぐ思い浮かぶ訳ですが、

侵略戦争を起こす側にとっては、相手に勝って征服したとしても、その後の統治で懐柔したり、相手側の生き残った実力者と交渉して自分の勢力の側につかせなければいけないから、
ほどほどの程度にしようと計算が自然に働くけれど、


その後の処理を考える必要のない朝鮮側にとっては、手加減を考えることなく行動してしまうということなんでしょうか?

Re: れRe: 朝鮮王室儀軌、返還の〜

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/31 11:25 投稿番号: [987 / 1329]
彼の投稿記事って、基本的に朝鮮側のスタンスだけど、


で、あなたは何を思ってるのって思うのよね〜。


ここのカテの日本人が朝鮮・韓国側に都合がいい記事見ても、
ああそうですかと納得するわけないんだし、
実際、彼の投稿するニュース記事にはそういう意見の日本人側のレスつくんだし、
それに対して自分なりの意見が欲しいです。


>自分の意見を言うのは、無理です。北朝鮮製の人工無能ですから。

そっか〜どっかの言論の自由のない朝鮮系組織から言われてここに参加してるのかしら。

朝鮮軍の大活躍(?)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/08/29 21:11 投稿番号: [986 / 1329]
清に屈服した朝鮮の行動について、保守を兼ねて紹介します。
といっても、エンコリで使ったスレや自サイトの使いまわしですが。
毎度毎度手前味噌ですいません。

▲勇猛!朝鮮軍
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1853150&st=writer_id&sw=xiaero

1637年、清に屈服した朝鮮は清との約定に従って、清の皮島(鴨緑江河口にある島で明の拠点)攻略に援軍を出しました。

で、そのとき、朝鮮軍の明人に対する殺戮掠奪は清軍のそれより甚だしかったということが、他ならぬ朝鮮側の史料「丙子録」「続雑録」にあるよねってお話です。

清に屈服した後の朝鮮が、明に対してえげつないことをしたという記述は、それこそ黄文雄とか崔基鎬あたりの著書なんかにあったかもしれませんが、こういった史料に直接当たっておかないといけないと思うんですよ。

むろん、仁祖の側近だった羅万甲が書いた『丙子録』に対する史料批判も必要ですが、仁祖実録にも、朝鮮軍は仕方なく掠奪に参加したという仁祖への報告がありますし(1637(仁祖15)年4月24日条)、ここの記述は基本的に信用していいかと。

れRe: 朝鮮王室儀軌、返還の〜

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/08/28 01:20 投稿番号: [985 / 1329]
>自分の意見言わなきゃだめだよ。

自分の意見を言うのは、無理です。北朝鮮製の人工無能ですから。

Re: 朝鮮王室儀軌、返還のための出会い〜

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/28 01:11 投稿番号: [984 / 1329]
ふれあいトピの在日の学生さん?

ネット記事貼り付けるだけじゃなく、

自分の意見言わなきゃだめだよ。

朝鮮王室儀軌、返還のための出会い〜

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/08/22 23:46 投稿番号: [983 / 1329]
日本共産党議員ら訪韓


(ハンギョレ新聞)日本宮内庁が保管している「朝鮮王室儀軌」の返還を助けるために、
韓国を尋ねた緒方靖夫(おがた やすお)、日本共産党副委員長(写真右側)と笠井亮(かさい
あきら)衆院議員(写真・中央)が21日午前、江原平昌郡月精寺を訪問して朝鮮王室儀軌還
収委員会共同議長チョンニョム(右側二番目)和尚と一緒に五台山寺庫を見回っている。

朝鮮王室儀軌は五台山寺庫に保管されて来たが、日帝強占期の1922年、日本に搬出された。
裏手の五台山寺庫は1992年に立て直された。

http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2007/0822/118768422445_20070822.JPG
http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2007/0822/118768422463_20070822.JPG
http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2007/0822/118768477858_20070822.JPG

Re: 朱蒙を観てる

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/08/19 16:07 投稿番号: [982 / 1329]
>「タムル弓」っていう神器は本当にあったのでしょうか。

タムルは「多勿」ですね。これは朝鮮古語で旧領回復という意味があるとか、多勿精神は高句麗の建国精神だとか言っている韓国の「民間学者」がいるらしいですが、どーだかネェ…
あ、当然「タムル弓」なんてフィクションですから。

>昔、◆が「百済のお姫様が日本に珍しい宝物を船に乗せて嫁ぎに行った」とか真剣に真実かのように言うので、そのソースを認めたところ、
韓国のテレビ(フィクションドラマ?)でやっていたと答えてました。
百済のお姫様云々は絹を伝えた王昭君がモデルなのでしょうか?

458年、雄略天皇が百済蓋鹵王の娘で日本に送られてきた池津媛を召そうとしたところ、彼女と石川楯が密通していたので、怒って二人を殺させたと「日本書紀」にありますが、そこらあたりが元ネタかもしれませんねぇ。ま、マジメに考証するほどのものかどうかは知りませんが。

なお、日本書紀では、それ以降百済からの人質は女性ではなく男性を送るようになった、と続きます。

>まぁ、そんな感じで創作歴史が満載かもね〜と思いながら、観るつもりです。

元ネタ探しやひねり具合を「読んで」楽しむのが吉かと存じます。

れRe: 朱蒙を観てる

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/08/19 15:10 投稿番号: [981 / 1329]
>ソソノは松たか子に似てるような気がする。

http://imagesearch.naver.com/search.naver?where=idetail&query=%C5%C5%B7%B1%C6%AE%20%C7%D1%C7%FD%C1%F8&from=image&ac =- 1&sort=0&res_fr=0&res_to=0&merge=0&start=2&a=pho_l&f=tab&r=2&u=http%3A%2F%2Fcafe.naver.com%2Fisomssi%2F5

この↑おぜうさんでつか?

Re: 朱蒙を観てる

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/19 14:47 投稿番号: [980 / 1329]
>この時代は資料に乏しく、また建国神話が混在しているので、史実の追及は難しいところ。今作は、そこを逆手に取って、エンターテイメントに徹した作品として仕上げられた。

歴史をクリエイト!!!∩ *`∀´>∩

日本語版HP解説の地図はちゃんと日本海になってますね。

http://jumong.jp/introduction.html

>チュモンが誕生したと設定される紀元前58年ごろは、日本で言えば弥生時代、西欧では古代ローマの時代である。つまり、チュモンは、卑弥呼やカエサル、クレオパトラなどと同様、古代の“伝説”の人物。世界史的に、アレクサンダー大王やジンギスカンと並び称される英雄だ。因みに、キリスト誕生はチュモン誕生より遅れること約半世紀、ドラマ「宮廷女官〜チャングムの誓い」はこれより1500年ほど後の朝鮮王朝時代の設定である。
ドラマ「朱蒙(チュモン)」はちょうど古朝鮮(コジョソン)国<紀元前2333年から紀元前108年まで、朝鮮半島北部を領有した大帝国>が漢<中国>に滅ぼされた頃から始まる。当時の漢の王は武帝。既に鋼鉄の鎧や武器<刀、やじり等>を開発していた漢は、優れた鉄鋼武器の力で古朝鮮(コジョソン)を崩壊させる。後に、扶余(プヨ)は漢に対抗するべく、強靭な鉄鋼武器を開発するための“炒鋼(チョガン)法”を得るのにやっきとなるが、その“炒鋼法”がこのドラマの展開で重要な鍵を握る。
その頃、国を失った多くの朝鮮民族が流浪の民と化し、残った扶余(プヨ)や沃沮(オクチョ)などの部族諸国もそれぞれが漢の圧制に苦しんでいた。そうした中、古朝鮮(コジョソン)の流民を中心に結成されたタムル軍を率いたヘモスは、民族解放と古朝鮮(コジョソン)の失地回復のため、漢にゲリラ的な抵抗を続ける。しかし、扶余(プヨ)を始めとする朝鮮民族諸国は、漢の圧力を恐れ、ヘモスとタムル軍を見捨てる形になる。
また、「玄菟(ヒョント)郡」は朝鮮民族の封じ込めを狙い漢の武帝が設置した四郡のひとつ。ドラマに登場する玄菟城のヤンジョン太守(タイシュ)<地方官>はいわば漢側の見張り番で、漢の武力や資源力を背景に、扶余(プヨ)に鉄鋼武器の製造中止を求めるなど様々な要求を迫り、漢の支配を受けまいとする扶余にとっては厄介な存在であった。
そういった民族のアイデンティティが危険にさらされた状況で英雄チュモンは誕生し、高句麗(コグリョ)を建国する。この時代は資料に乏しく、また建国神話が混在しているので、史実の追及は難しいところ。今作は、そこを逆手に取って、エンターテイメントに徹した作品として仕上げられた。

古朝鮮(コジョソン)
韓国最初の国家。遼河と大同江流域にあった古朝鮮は、青銅器時代に国家が形成され、漢の侵入によりBC108年に滅亡した。

扶余(プヨ)
古代朝鮮の部族国家。軍事力によって近隣の諸部族を征服して拡大していった。高句麗の北側、現在の中国黒龍江省あたりが本拠地で、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長した国。

玄菟(ヒョント)
漢が設置した朝鮮四郡のうちの一つ、朝鮮民族の封じ込めを狙って設置されたもの。

卒本(チョルボン)
扶余の下にある5小国連盟体の通称(ドラマでの設定)。ヨンタバルが率いる。後にチュモンが高句麗を建国する地となる一地域。

桂婁(ケル)
ヨンタバル・ソソノの本拠地で、卒本の5小国中の1つ。

沃沮(オクチョ)
朝鮮古代部族国家の一つ。


三足烏(サンソクカラス)
オープニングに登場する三本足の烏は古代神話に出てくる、太陽の中に住むという鳥でチュモンの象徴となる鳥。中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したもの。神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということで日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。

Re: 朱蒙を観てる

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/19 14:27 投稿番号: [979 / 1329]
>朱蒙役の役者が恐ろしく下手ということくらいでしょうか。

私も主人公が魅力が無いのに失望です。

でも、韓国がどんな風に歴史を観てるのかの参考になるので、
DVDに時々とっておこうかな?

「タムル弓」っていう神器は本当にあったのでしょうか。

昔、◆が「百済のお姫様が日本に珍しい宝物を船に乗せて嫁ぎに行った」とか真剣に真実かのように言うので、そのソースを認めたところ、
韓国のテレビ(フィクションドラマ?)でやっていたと答えてました。
百済のお姫様云々は絹を伝えた王昭君がモデルなのでしょうか?

まぁ、そんな感じで創作歴史が満載かもね〜と思いながら、観るつもりです。

ソソノは松たか子に似てるような気がする。

Re: 朱蒙を観てる

投稿者: zen_no_oshie 投稿日時: 2007/08/17 01:25 投稿番号: [978 / 1329]
私も今日一話見てみました。

感想ですが、朱蒙役の役者が恐ろしく下手ということくらいでしょうか。


チャングム以来久しぶりに韓ドラを見ましたが、やっぱり私にはイマイチでした。

朱蒙を観てる

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/14 14:31 投稿番号: [977 / 1329]
フジテレビで朱蒙SPを観てる。レンタルビデオにも並んでました。

>歴史より壮大な愛、神話より偉大な英雄の誕生 韓民族のもっとも美しかった、
古代の 悲しく切ないラブ・ストーリーが蘇る!
高句麗を建国した英雄・朱蒙の 一代記を描いた歴史ドラマ 『朱蒙』(チュモン)
*8話で視聴率30%台を獲得した 2006年下半期一番の注目作

>また高句麗と百済の建国の中心にいた女傑、召西奴(ソソノ)

今、産まれたところ。

仏教の旅 朝鮮半島編

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/13 16:54 投稿番号: [976 / 1329]
お盆なので(?)仏教の旅   朝鮮半島編   五木寛之   を読んでます。

その一箇所を書き出して、あげにしたいと思います。

P98

秀吉との戦いでは朝鮮半島各地で郷土防衛のためにと多くの民衆が立ち上がったという。そして僧たちもたちあがった。
文禄の役の時、西山(ソサン)大師とその弟子の泗溟(サミヨン)大師が「義僧」と呼ばれた僧兵たちを率いて蜂起し、先頭に参加したと言う記録がある。

朝鮮仏教界の重鎮だった西山大師は秀吉の侵攻時、齢73歳。
そんな高齢にもかかわらず、全国の寺院に檄文を発する。
寺で修行中だった泗溟大師も師の呼びかけに応じて、山をおり、猛然とかけつけた。
全国から集まった義僧は五千人にものぼったという。

その後、泗溟大師は講和使者のひとりとして日本に渡り、捕虜の送還にも尽力した。

現在も韓国には徴兵制度があるが、僧侶であっても、兵役の義務は果たせねばならないという。

Re: 薯童謡(ソドンヨ)のドラマ

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/08/09 23:23 投稿番号: [975 / 1329]
>>「七支刀は百済が倭王に下賜したニダ!」と来るんでしょうなぁ。

>百済からの献上品だったというのが日本側の解釈なんですけどね。

ええ。せいぜいが「贈答品」でしょうね。
七支刀銘文の「宜供供侯王」を以て、「百済が配下の侯王である倭王に下賜した」とするのは蘇鎮轍を筆頭とする韓国のバカ学者です(もーはっきりバカと言いきりますよ、私は)。
で、おそらくそのあたりに立脚した設定でドラマをつくるんじゃないかと疑っているわけです。

なお、蘇らは「侯王」を「配下を諸侯に封じた地位称号」であると勝手に解釈し、百済は倭王を封じたとしますが、これは単純に「侯」&「王」のことであって特別な意味はないのですよ。秦に対して叛乱を起こした陳勝の有名な台詞「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(史記)は、「漢書」では「侯王将相いずくんぞ種あらんや」となっています。

さらに言えば、七支刀銘文「宜供供侯王」は漢代から使われる吉祥句であって、たいした意味は見出せない修辞なのです。ここを見れば献上品といっていいでしょうなぁ。

Re: 薯童謡(ソドンヨ)のドラマ

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/08 21:17 投稿番号: [974 / 1329]
>いろいろ勉強していたついでに得られたものとか、エンコリで使ったものの使い回しばかりといった、

いえいえ、色々参考になります。私の投稿も今はそんなものだし。
もうちょっと夏バテから脱したら、いいんですけど。

>「七支刀は百済が倭王に下賜したニダ!」と来るんでしょうなぁ。

百済からの献上品だったというのが日本側の解釈なんですけどね。

Re: 薯童謡(ソドンヨ)のドラマ

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/08/07 16:24 投稿番号: [973 / 1329]
>8月過ぎると残暑見舞いになるけれど、今が一番暑い・・・バテてます。

ウリもやばいっす。

>東亜さん、あげありがとうございます。

いろいろ勉強していたついでに得られたものとか、エンコリで使ったものの使い回しばかりといった、冷蔵庫の残り物でつくるチャーハンっぽいものばかりで恐縮ですが。

>新羅や高句麗とは違い三国のうち遺跡や史料が少なく、学問的な研究も不充分な百済王国。しかし大部分の史料が消失したにもかかわらず、その偉業は日本と中国等の史料に多く残されている。ドラマでは百済がどのような技術と文化を享受したのか、なぜ文化と技術を重視したのか、そして当時の先端技術と文化をどのように維持したのかを、登場人物をとおして生き生きと再現する。

この辺がいやーな悪寒…

>もう一つ見逃してはならないのが、百済時代の豪華な文化と技術を再現しながら、百済の博士制度にスポットライトを当てるところ。なかでも「七支刀」の発明から製作までを伝える部分は大変興味深い。

「七支刀は百済が倭王に下賜したニダ!」と来るんでしょうなぁ。

薯童謡(ソドンヨ)のドラマ

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/08/04 17:07 投稿番号: [972 / 1329]
    このトピをのぞいてくださる皆様へ

   暑中見舞い申し上げます。

8月過ぎると残暑見舞いになるけれど、今が一番暑い・・・バテてます。
東亜さん、あげありがとうございます。

http://www.kntv.co.jp/prog/dra/p0229.php
百済の王の血を引く璋(チャン)と新羅・善花(ソンファ)姫の恋物語。


李朝ではないけれど、>*「チャングムの誓い」の制作陣が作る最高の時代物!!
というから、どんなものか見てみたいな。
もっとも、>MBC『大長今(チャングムの誓い)』のキム・ヨンヒョン作家とイ・ビョンフンPDの手で再現される。
なのだから、創作史実・歴史文化てんこ盛の悪寒はするけれど。

薯童謠(ソドンヨ)とは韓国内で初めて作られたといわれている四句体の郷歌のこと。

郷歌とは三国時代、百済の薯童王子(百済武王の幼名)が、新羅第26代眞平王の時代に書いたといわれる民謡形式の歌。
このドラマは韓国では一般的によく知られている薯童王子と善花姫の説話をベースにして、百済武王の成長過程と、熾烈に繰り広げられた百済の王位継承争い、そして国境を越えた愛、百済と新羅両国の宮廷裏面史を描いた壮大なスケールの物語だ。
なかでも韓国ドラマ史上初となる百済王国の再現は、もっとも注目すべき点だろう。
新羅や高句麗とは違い三国のうち遺跡や史料が少なく、学問的な研究も不充分な百済王国。しかし大部分の史料が消失したにもかかわらず、その偉業は日本と中国等の史料に多く残されている。ドラマでは百済がどのような技術と文化を享受したのか、なぜ文化と技術を重視したのか、そして当時の先端技術と文化をどのように維持したのかを、登場人物をとおして生き生きと再現する。またこのドラマは権力争いの勝者としての王ではなく、最高経営者としての王のサクセスストーリーを映しだす。

SBS創社 15周年記念、54部作の大河ドラマ『薯童謠』は、これまで朝鮮時代を中心に描かれた時代劇から視点を大きく移し、それより1400年前、三国時代の百済にまでさかのぼり、西紀 578年百済 27代国王威徳王の時代から、西紀 610年百済 30代国王武王までの 10年間の物語を描いた作品である。
幼い頃賎民として生きるしかなかった武王(薯童)の波乱万丈な人生、新羅善花姫との燃えるような恋、そして自分の身分を知り王位につくまでの複雑な過程が、MBC『大長今(チャングムの誓い)』のキム・ヨンヒョン作家とイ・ビョンフンPDの手で再現される。
もう一つ見逃してはならないのが、百済時代の豪華な文化と技術を再現しながら、百済の博士制度にスポットライトを当てるところ。なかでも「七支刀」の発明から製作までを伝える部分は大変興味深い。そして忘れてはならないのが、両者が一番力を注ごうとしている、薯童と善花姫のラブストーリー。『大長今』でいまひとつ生かされなかった恋の部分を、こちらでは完ぺきに描いてみせるという両者の意気込みには目を見張るものがある。「賎民の子と、敵国の姫」という出会いからしてドラマティックな設定なだけに、ロミオとジュリエットよりもさらに切ないラブストーリーになるだろうと期待されている。

Re: ある兵士の物語

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/08/03 20:32 投稿番号: [971 / 1329]
あげを兼て補足。

ようは、空砲を撃って処刑された朝鮮人兵士の李士龍が、時代が下るに連れて持ち上げられてゆき、しまいには、彼の死を聞いた明軍の大将が死を悼んでその義を讃えた、とか尾ひれがついてゆき「義士」とされるにいたったわけです。

一介の兵士なのに「名将」はないだろ、と。

ある兵士の物語

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/30 15:52 投稿番号: [970 / 1329]
あげを兼ねて自スレッドを紹介。

1641年、朝鮮は清の要求で出兵し、清軍を助けて明の拠点である錦州を攻撃しますが、そのときに事件が起こりました。

仁祖実録   仁祖19年(1641)5月4日条より引用
領兵将柳琳到錦州衛交戦時、星州軍金得平放砲不中、李士龍去丸虚放。監胡知之甚怒、斬士龍、杖得平云。

清軍の監督官は、鳥銃射撃を命中させられなかった金得平を棒で打ち、まともに射撃しなかった(弾を抜いて射撃?)李士龍を斬罪に処しました。

その李士龍がどう扱われていったかのお話です。

▲義士の誕生
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1886875&st=writer_id&sw=xiaoke

ほんとは全文をこちらに載せたいんですが、漢字制限とか字数制限ではねられるので。

Re: 村井章介について報告2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/26 18:55 投稿番号: [969 / 1329]
パイレーツオブカリビアンで倭寇が出てもいいのに・・・あげ

Re: 村井章介について報告2

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/24 14:23 投稿番号: [968 / 1329]
>>倭寇のなかに明人メンバーもいたことを朝鮮も認識していた記事などが紹介されています。

倭寇から送られてきた書状に、明の年号が使われており、倭人なら明の年号は使わないはずだ。倭寇の中に明人がいるに違いない。さもなくば明に行き慣れているものがいるはずだとしています。

明宗10年(1555)5月19日条より引用
沈連源等啓曰上教至当。観此書契、則安有如是之辱乎。其中有稍解我国言語者云、此必往来我国之倭、亦非馬島之所不知也。徳堅之生還、雖由於哀乞、而倭人亦欲通其言語、故使之出送耳。且其書契、要到京師官家等語、皆中原所用語也。今之来寇者、亦必有中国之人也。不然則此倭、必慣行中国者也。且倭人不奉嘉靖年号、而今称嘉靖三十四年、尤可疑也。

>基本的には韓国の一般認識は倭寇=日本人オンリー   なんでしょうか。

現代の韓国での話ならば、そうですね。
「倭寇の中に倭人は1、2割、あとは朝鮮人が仮装している」という有名な報告書も黙殺するか、その報告を書いた李順蒙は、人柄が軽率で重んじられていなかったという評価を引用して報告の信憑性を疑う方向ですね。

Re: 村井章介について報告1

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/24 14:11 投稿番号: [967 / 1329]
>それとも、何も悪いことをしていないのに、取締る武将か役人の点数かせぎのためだけに無実の罪で処罰されたのでしょうか?

点数稼ぎの為にあえて「誤認」したようですね。

明宗即位年(1545)7月19日、荒唐船3隻が漂着し、興陽県監蘇連はそれを倭人だと思い、鉢浦・呂島・蛇渡などに援軍を要請して出陣、蘇連・鉢浦万戸安止は上陸逃亡した彼らを追跡して91人を捕殺、蛇渡権管呉世雄・呂島万戸馮継渟も108人を討ち取ったという報告がされました。ところがよく調べてみるとそれらは髪形や体つきなどから見て倭人ではなく明人だと判明。26日にその件について朝議にかけられたと。

原文

明宗実録   明宗即位年(1545)7月26日条
下全羅道観察使沈光彦啓本于政院曰観此啓本、則興陽所斬獲者、定是唐船致敗人、至為驚愕。中宗大王、若有唐人漂流而来、則極加撫恤刷還矣、今何有如此惨酷之事乎。此意言于大臣等。【啓本云今月十九日、荒唐船三隻、自大洋中、逢風致敗、泊于興陽県境、県監蘇連以為倭人、即馳書求助于鉢浦・呂島・蛇渡等鎮、仍多率軍、急往其所而結陣、陣既成、則鉢浦万戸安止及到矣。所称倭人等、見其発軍謀捕之状、皆下陸奔遁、或有登山欲避者。蘇連・安止一時掩撃、斬獲九十一級、蛇渡権管呉世雄・呂島万戸馮継渟、亦因此別加捜討於諸鎮賊路可疑処、且追且斬、凡前後斬獲并一百八級。左道水軍節度使金世幹、因興陽牒報、二十日平明、馳往親審之、則毛髮(刑)〔形〕体、殊非賊倭、縈是唐人。】

8月2日条にも同じような事件が報告されています。

8月2日条
全羅道観察使沈光彦啓本内七月二十二日、唐船依泊於鹿島外面、万戸張明遇謂是倭人、即発軍馳到、斬獲九十二名後、因其哀乞、又擒得二百八十二名。前県監喪人柳忠貞、以取槨板事、亦到此処、被奪衣糧、同力相戦。栗[山見]権管姜僖、乗船追斬唐人十三名、柳忠貞所斬亦三十六名、斬一百四十八名、擒二百八十二名、縈四百余名云云。仁鏡議啓曰鹿島万戸張明遇、不分辨唐・倭人、多所枉殺、罪當拿推、柳忠貞等亦皆效尤為之、所当推治。然駅路有弊、請令其道監司推之。答曰知道。

明宗21年(1566)7月2日条では、明人を倭寇だとして捕殺した地方役人の「乱戦の中では倭人と明人の見分けがつかず誤認しちゃった」という弁明に対し、「南部の兵士は倭人も明人も見慣れているだろう。見分けられないことなんてありえねー」ということで厳罰がくだされました。

明宗21年(1566)7月2日条
憲府啓曰欺君罔上、人臣大罪。有犯於此、常刑罔貸。於蘭浦万戸金漢・金甲島権管朴世廉、擒殺唐人、詐称捕倭、報諸主帥、以致転啓、其倖賞欺誣之罪、固難逃矣。南辺士卒、無不慣知唐・倭形状、雖交戦之時、豈有難弁之理。仮曰風波之中、未及詳察、及其捕斬之後、見其容貌物件、可以立弁、所当以戦殺唐人実状報于主将、而貧庸之徒、心若狗テイ(豚の意味)、徒知希賞之是急、而不計欺罔之大悪。此而不治、何以痛革宿弊、而振粛朝綱乎。請金漢・朴世廉、竝拿致禁府、依律定罪。全羅右道水使李文誠、素無威風、不能禁約諸鎮之将。当金漢・朴世廉擒殺唐人、詐称捕倭、収送首級及物件之際、宜即弁[覃の上に激の右]、摘発欺罔之罪、以正軍律、而徇私同悪、録功馳啓、略無顧忌、可謂無状。請命罷職、以懲其罪。答曰竝如啓。

Re: 村井章介について報告

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/24 11:59 投稿番号: [966 / 1329]
ちょっと「村井章介」で検索・・・基本的には日本史の教授でなんですね。

>なお同書本文では、『朝鮮王朝実録』から、日本人の倭寇なのか明人の倭寇なのかはたまた一般人なのかを判断し難く対処しにくい「荒唐船」という概念を紹介しています。

それによると、明の漂流してきた一般人は海禁を犯して貿易を行なった商人とは別として送還するよう対処したり、
>倭寇取締に当たっている辺将たちが軍功を焦って、明人なのは明らかに分かるのに倭人だとして処刑したのが露見して罰せられたケース、

その明人は何か窃盗行為などの悪いことをしていたのでしょうか?
窃盗行為をした明人よりも倭寇を処罰する方が上からの評価が高かったってことなのでしょうか?

それとも、何も悪いことをしていないのに、取締る武将か役人の点数かせぎのためだけに無実の罪で処罰されたのでしょうか?

>倭寇のなかに明人メンバーもいたことを朝鮮も認識していた記事などが紹介されています。

基本的には韓国の一般認識は倭寇=日本人オンリー   なんでしょうか。

村井章介について報告

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/22 17:32 投稿番号: [965 / 1329]
ほんとに別件資料の片手間になってしまいました。別件はいちおう落ち着いたのですが、また別の懸案(元寇関係)が発生しました。
とりあえず、アゲを兼ねての報告です。

まず、村井章介ですが、東大文学部卒の歴史学者で1949年生まれですから、これからも活躍が期待できる年齢ですね。
業績としては中世アジア世界、倭寇や高麗武臣政権についての研究がよく知られているようですが、その著述を読むと民俗学にもやや知識があるようですね。

くだんの記述の出典である「中世倭人伝」は93年の著作です。倭寇に明人が含まれていたことや日本人と朝鮮の交易の展開について書かれています。

該当記述の存在する最終章『中華の崩壊によるエピローグ』は、本文に比してくだけた民俗学者に近い文体・内容になっており、その分、論理の飛躍とも取れる軽さ・甘さが目につきます。

ゆえに、該当記述については、村井の言説は参考・とっかかりとしてはよいのですが、直接『明宗実録』の明宗14年(1559)7月2日条を見たほうがいいんじゃないかなぁ、というのが私の「感想」ですね。

なお同書本文では、『朝鮮王朝実録』から、日本人の倭寇なのか明人の倭寇なのかはたまた一般人なのかを判断し難く対処しにくい「荒唐船」という概念を紹介しています。

それによると、明の漂流してきた一般人は海禁を犯して貿易を行なった商人とは別として送還するよう対処したり、倭寇取締に当たっている辺将たちが軍功を焦って、明人なのは明らかに分かるのに倭人だとして処刑したのが露見して罰せられたケース、倭寇のなかに明人メンバーもいたことを朝鮮も認識していた記事などが紹介されています。

Re: 秀吉とスペインとの関係2(ヨコ)

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/07/18 22:53 投稿番号: [964 / 1329]
わざわざ、レスありがとうございます。

>確か彼は日本生まれでしたね

鄭成功
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F

日本の平戸で父鄭芝竜と日本人の母田川松の間に生まれた。幼名を福松と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、七歳のときに父の故郷福建につれてこられる。

Re: 秀吉とスペインとの関係2(ヨコ)

投稿者: kidoufighter99 投稿日時: 2007/07/18 12:23 投稿番号: [963 / 1329]
鄭成功が活躍したのは知っていましたが
相手はオランダだったのですね
全く知りませんでした
明末期の混乱時に暗躍した海賊相手とばかり思っていました
確か彼は日本生まれでしたね

情報ありがとうございます

キリシタン大名小西行長

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/17 19:50 投稿番号: [962 / 1329]
前に、ジュワン君が朝鮮出兵した大名達の行く末はどうなったのかを尋ねたことを思い出しました。李舜臣と戦った武将なんですね。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7

>父の隆佐は文禄元年(1592年)に京都で病死。母のマグダレーナはキリシタンであり、行長の刑死後まもなく亡くなったという。
正室のジュスタは夫と同様に熱心なキリシタンであったが、行長没後の行方は不明である。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nihonchristokyoshico/chrisitandaimyoco.htm
>小西行長(1558ー1600.11.6)

>堺の薬種商小西屋寿徳(小西隆佐)の次男として、堺に生まれる。
摂津守。対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。
キリシタン大名。霊名は、アウグスチィノ(アウグスティヌス)。

  備前岡山の商人の養子となり、宇喜多直家に仕える。
使者として秀吉とも交渉をもったといわれる。
後に豊臣秀吉に仕え、1584(天正12)年、秀吉から小豆島、塩飽島を与えられ、秀吉の船奉行を務め水軍を率いる。
岸和田に進出した紀伊根来・雑賀の一揆を海岸から攻撃し、翌年には雑賀の太田城を水軍をもって攻撃した。1586年には小豆島、塩飽諸島、室津などを領していた。1587年の九州の役にも水軍を率いる他食料輸送、補給役で従軍した。翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、1588.7月、秀吉から肥後南半の24万石領主に任ぜられ宇土に移った。宇土城を新規に築城し、本拠とした。

  1589(天正17)年、天草はキリシタン大名・小西行長の所領となる。
その頃、天草には約60人の神父がいて、教会も30近くあったという。
天草全島の人口、約3万人のうち約2万3千人の信者がいたといわれる。
当時、志岐には美術アカデミアのような画学舎が置かれていた。
イタリア人のジョバンニ・ニコラオの指導の下、聖画や聖像の製作、賛美歌合唱用のオルガンや時計などの製作が行われていた。
志岐で作られたオルガンは、竹のパイプを使って日本風にアレンジされたユニークなものだったという。

  伴天連追放令で追われた神父を自領の小豆島にかくまった。

文禄の役では先鋒部隊として加藤清正、黒田長政とともに朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。
その後、李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと云われている。明との講和交渉に携わる。明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日したところ、秀吉はこれに激し、このため講和は破綻、講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、とりなしによって一命を救われる。慶長の役で、加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻する。
  秀吉の死後、1600(慶長5)年、関ヶ原の役が勃発すると、石田三成、安国寺恵瓊らと共に、関ヶ原で徳川家康に敗れ、1600.10.1日、信仰のゆえに自害を拒否し、京都の六条河原で斬首刑された。
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