キリシタン大名小西行長
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/17 19:50 投稿番号: [962 / 1329]
前に、ジュワン君が朝鮮出兵した大名達の行く末はどうなったのかを尋ねたことを思い出しました。李舜臣と戦った武将なんですね。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
>父の隆佐は文禄元年(1592年)に京都で病死。母のマグダレーナはキリシタンであり、行長の刑死後まもなく亡くなったという。
正室のジュスタは夫と同様に熱心なキリシタンであったが、行長没後の行方は不明である。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nihonchristokyoshico/chrisitandaimyoco.htm
>小西行長(1558ー1600.11.6)
>堺の薬種商小西屋寿徳(小西隆佐)の次男として、堺に生まれる。
摂津守。対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。
キリシタン大名。霊名は、アウグスチィノ(アウグスティヌス)。
備前岡山の商人の養子となり、宇喜多直家に仕える。
使者として秀吉とも交渉をもったといわれる。
後に豊臣秀吉に仕え、1584(天正12)年、秀吉から小豆島、塩飽島を与えられ、秀吉の船奉行を務め水軍を率いる。
岸和田に進出した紀伊根来・雑賀の一揆を海岸から攻撃し、翌年には雑賀の太田城を水軍をもって攻撃した。1586年には小豆島、塩飽諸島、室津などを領していた。1587年の九州の役にも水軍を率いる他食料輸送、補給役で従軍した。翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、1588.7月、秀吉から肥後南半の24万石領主に任ぜられ宇土に移った。宇土城を新規に築城し、本拠とした。
1589(天正17)年、天草はキリシタン大名・小西行長の所領となる。
その頃、天草には約60人の神父がいて、教会も30近くあったという。
天草全島の人口、約3万人のうち約2万3千人の信者がいたといわれる。
当時、志岐には美術アカデミアのような画学舎が置かれていた。
イタリア人のジョバンニ・ニコラオの指導の下、聖画や聖像の製作、賛美歌合唱用のオルガンや時計などの製作が行われていた。
志岐で作られたオルガンは、竹のパイプを使って日本風にアレンジされたユニークなものだったという。
伴天連追放令で追われた神父を自領の小豆島にかくまった。
文禄の役では先鋒部隊として加藤清正、黒田長政とともに朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。
その後、李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと云われている。明との講和交渉に携わる。明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日したところ、秀吉はこれに激し、このため講和は破綻、講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、とりなしによって一命を救われる。慶長の役で、加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻する。
秀吉の死後、1600(慶長5)年、関ヶ原の役が勃発すると、石田三成、安国寺恵瓊らと共に、関ヶ原で徳川家康に敗れ、1600.10.1日、信仰のゆえに自害を拒否し、京都の六条河原で斬首刑された。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
>父の隆佐は文禄元年(1592年)に京都で病死。母のマグダレーナはキリシタンであり、行長の刑死後まもなく亡くなったという。
正室のジュスタは夫と同様に熱心なキリシタンであったが、行長没後の行方は不明である。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nihonchristokyoshico/chrisitandaimyoco.htm
>小西行長(1558ー1600.11.6)
>堺の薬種商小西屋寿徳(小西隆佐)の次男として、堺に生まれる。
摂津守。対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。
キリシタン大名。霊名は、アウグスチィノ(アウグスティヌス)。
備前岡山の商人の養子となり、宇喜多直家に仕える。
使者として秀吉とも交渉をもったといわれる。
後に豊臣秀吉に仕え、1584(天正12)年、秀吉から小豆島、塩飽島を与えられ、秀吉の船奉行を務め水軍を率いる。
岸和田に進出した紀伊根来・雑賀の一揆を海岸から攻撃し、翌年には雑賀の太田城を水軍をもって攻撃した。1586年には小豆島、塩飽諸島、室津などを領していた。1587年の九州の役にも水軍を率いる他食料輸送、補給役で従軍した。翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、1588.7月、秀吉から肥後南半の24万石領主に任ぜられ宇土に移った。宇土城を新規に築城し、本拠とした。
1589(天正17)年、天草はキリシタン大名・小西行長の所領となる。
その頃、天草には約60人の神父がいて、教会も30近くあったという。
天草全島の人口、約3万人のうち約2万3千人の信者がいたといわれる。
当時、志岐には美術アカデミアのような画学舎が置かれていた。
イタリア人のジョバンニ・ニコラオの指導の下、聖画や聖像の製作、賛美歌合唱用のオルガンや時計などの製作が行われていた。
志岐で作られたオルガンは、竹のパイプを使って日本風にアレンジされたユニークなものだったという。
伴天連追放令で追われた神父を自領の小豆島にかくまった。
文禄の役では先鋒部隊として加藤清正、黒田長政とともに朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。
その後、李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと云われている。明との講和交渉に携わる。明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日したところ、秀吉はこれに激し、このため講和は破綻、講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、とりなしによって一命を救われる。慶長の役で、加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻する。
秀吉の死後、1600(慶長5)年、関ヶ原の役が勃発すると、石田三成、安国寺恵瓊らと共に、関ヶ原で徳川家康に敗れ、1600.10.1日、信仰のゆえに自害を拒否し、京都の六条河原で斬首刑された。
これは メッセージ 959 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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