竹島

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tanakasan

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/04 20:04 投稿番号: [3570 / 18519]
1wo 2ni kaete kudasai.

1ha "kyouseiteki" no imi.
2ha "kojituke" no imi.
"kaisyaku" to iu tango ha onaji nanode sonomama de iidesu.

sorekara 1wo 2ni henkan site usironi hankaku space wo hitotu irete kudasai. "kojituke"to "kaisyaku"no aidade wakatigaki simasu.

1. 悪薦旋昔

2. 常走

連続投稿ですいません。

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/04 17:13 投稿番号: [3569 / 18519]
↓でリンクを貼った地図には観音島の東北東に小島がありますね。どうも灯台のようなものらしい?   のですが、元々は岩礁だったのではないでしょうか?   なにもない所に灯台を海底からは作らないと思います。

鬱陵島外図の観音島の横の島とも整合がとれますし、この岩礁を列立した岩に見立てると全てのつじつまが合います。

どうでしょう?

先ほど紹介したHP

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/04 16:39 投稿番号: [3568 / 18519]
ですが竹嶼と観音島付近です。

下記のHPの地図にポイントが示されてます。地図よりリンクになってますので位置関係の推測にお役たてください。

http://www.scubakorea.or.kr/scuba/map/ulrungdo.htm

こんなHPを見つけました。

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/04 16:03 投稿番号: [3567 / 18519]
とは言え韓国語は全くダメですのでよくわかりません。

竹嶼付近の海底岩礁を表示したものと思いますが、そうすれば500年前には海上にこの岩礁が露出していたとも推理できます。

この辺までが私の調査能力の限界でしょうから、あとは皆さんにお任せします。

http://www.scubakorea.or.kr/scuba/map/ulrung2.htm

http://www.scubakorea.or.kr/scuba/ulrung3.htm

HPを修正しました。

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2004/02/04 01:27 投稿番号: [3566 / 18519]
>同じところの赤字部分「仮に于山島が竹島だとして、何故この
>無人島が人の住める鬱陵島より優先し、于山国という国名に
>なるのであろうか?」ですが、これが、「仮に于山島が優先し、
>于山国という国名になるのであろうか?」と訳されています。
>ミスでしょう。これは必ず訂正してください。

出来ました。ご覧下さい。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/Takeshima/

上記2ページに書かれてある「強制的な解釈」というフレーズを
この掲示板に貼り付けて下さい。

電波少年さん

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/04 00:25 投稿番号: [3565 / 18519]
はじめまして。

私は東と言うより、北東です。「巖石列立」については正直、私もよく分かりません。文章の印象では必ずしも海中にある石とは限らず、観音島と竹嶼のあいだから見える本島のがけにそれらしきものはないか(現在の海上滝のあたりでしょうか)、という気もしますが、難しいところです。

それにしても、そのあたりの写真がどうも見当たりません。軍事施設でもあるのでしょうか。詳しい地図も見つけることができません。さしあたり19世紀の李奎遠の調査における鬱陵島外図を見ますと、まぁ記述のように見えないこともありませんが。

また、李奎遠の地図では観音島の隣にもう一つ島が出ているのですが、この島は何なのでしょうか…あるいはここに列立したかに見える島が以前は本当にあったのか…。これまた不明です。まさか、島をつぶすようなことは無いでしょうが。

浚渫などいろいろ考えて見てもいいかとは思います。でも、それにより岩を削ったり小島をつぶしたりすることなどあるものでしょうか。韓国グーグルで「鬱陵島   浚渫」で60程度ヒットしましたが、よく分かりませんでした。

ちなみにGaenaraさんは、また違うお考えのようです。鬱陵島外図についてはご存知でしょうがもしもお手元に画像がなければGaenaraさんの3547のリンクをご参照ください。

鬱陵島の詳細地図が見当たらないこと、また観音島周辺の写真が手に入らないことが大変痛いです。やはり、何か軍事的な理由でもあるのでしょうか。韓国ヤフー地図でも鬱陵島は除外ですし、地図サイトでも同様…。どうなっているのでしょう。

「見える」と「見た」とは

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 23:28 投稿番号: [3564 / 18519]
全く違います。

隠岐< -- ->鬱陵島を毎年航海していた日本人ですらその航路上にある竹島を発見するのに25年かかってることを考えると鬱陵島から竹島が見える事実をもってしても「見た」と言えないところがおもしろいんですよ。

韓国側資料に「竹島が見えた」と合理的に解釈できる資料がない事も頷けますね。

>竹島は

投稿者: neokon123 投稿日時: 2004/02/03 23:17 投稿番号: [3563 / 18519]
>国際審判に任せる。
韓国は選択条項を受託していないみたいですよ。

>鬱陵島からとにかく絶対見ること。最新兵器使用可能。

どうして鬱陵島から竹島が見えることが(竹島のことですよね?)領有権と関係するんですか?

>その時の条件を報告すること、そして素直に二人は土下座すること。

思わず笑ってしまったv(^^)

竹島は

投稿者: Jin_Kidney 投稿日時: 2004/02/03 23:00 投稿番号: [3562 / 18519]
国際審判に任せる。

観光側の参加者に、半月城さんとアホーさんを選ぶ。
寒くて気の毒ですが、アフリカの視力のいい人を連れてくる。
鬱陵島からとにかく絶対見ること。最新兵器使用可能。

その時の条件を報告すること、そして素直に二人は土下座すること。

どうして?

投稿者: neokon123 投稿日時: 2004/02/03 22:52 投稿番号: [3561 / 18519]
国際法上の権限である領域権を争うのに
どうしてみなさん歴史の話しをしているのですか?

ahirutousagi2さん初めまして

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 22:49 投稿番号: [3560 / 18519]
よろしくお願いします。

風景描写の件ですが、私も鬱陵島を東から見て本島以外を列記したと推察するのが一番合理的と思えます。

その場合の問題点はahirutousagi2さんもご指摘の「巖石列立」につきると思われます。

鬱陵島付近の写真を検索エンジンにて多数確認しましたが観音島の南東周辺には岩礁は見えませんでした。
で、推測として浚渫された可能性はないでしょうか?   岩礁があれば北から港に入るのに邪魔になります。

日本語で検索してもそのような記述は当然確認できませんでしたので何の裏づけもありません。ただの推理です。

もし、どなたかが韓国語で検索すれば見つかる可能性もあります。もちろん日本国内ですら浚渫の記録をWEB上で見つけるのは難しいので無理かもしれませんが。

現在の目

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 20:35 投稿番号: [3559 / 18519]
>いいえ、竹や木が鬱蒼と茂っていれば、土地の産物として、重要な成果を報告しないのは全く不自然です。

ある程度離れて島を見て、そのまま帰ってきたのですから、産物などの成果は詳しくは言いようがないでしょう。図に記せばそれまでです。民が逃げて住むような島(と考えたはず)なら木も生えていましょう。その点は別に不自然だとは思いません。

>そして金自周の報告を素直に読むならば、どこにも書かれていない木や竹を勝手に書き加えることもできません。

原文は以下の通り(部分引用)。

「西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巖石列立 次中島 中島之西 又有小島 皆海水通流 亦於海島之間 有如人形 別立者三十 因疑 不得直到 画島形而來 臣等…」

さて、ここにはなるほど木や竹は書かれていません。「島」(本島)のことはなにも書いてないようです。独島ならば岩礁の島とでも書いてあればいいのでしょうが、そういうのでもありません。

私は金自周が鬱陵島の北東から見たように判断していますが、鬱陵島と考えるにせよ、独島と考えるにせよ、ここに記された風景を見出すのはなかなか簡単ではなさそうです。これについてはすでに1400あたりで議論がありました。結局、あの議論に行き着くのでしょう。

私見では、鬱陵島の場合「巖石列立」「海水通流」をどう見るかというのは確かに問題がないわけではないですね。しかし移住するものがいたりするなど、周辺の資料と付き合わせれば、鬱陵島と見るのが妥当かと判断しています。

さらに、中島・小島という表現にも注目できそうです。本島を「大」として暗示しているとすると、それに次ぐ竹嶼が中島、観音島その他の島が小島となる、大・中・小の対応関係が文章の背景にあるような気もします。ま、これは完全に、私の感覚的な読み方の話ですが。

で、案内人の金漢京は咸鏡道から見えるとしているのですが、独島は咸鏡道から肉眼で目視が可能でしょうか。

>勘違いしないで頂きたいのは、現在残された記録では成宗7年の記録で初めて二島の認識が確認できるだけと云うことです。これは現在の我々の問題です。

二島論については置いておきましょう。

三峰島=鬱陵島 II

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/02/03 20:06 投稿番号: [3558 / 18519]
ところで、1476年に金自周が「於島北」と書いた理由が、2000年に日本人の盛某の「同じ風景が続くため突出した見所というと少なく感じるかもしれません。偏差値の高い地区は、やはり島の北側になるでしょう」と言っているところから、500年以上経っても、共通した認識が持てる事が興味深い。(笑)

http://member.nifty.ne.jp/VEA02651/ullungdo_2.htm

石島=観音島

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/02/03 18:55 投稿番号: [3557 / 18519]
観音島の対岸にある石圃(Seokpo)という地名だが、「後日、村名を決める時に、石が多い事から「石圃」にした」とあるように、「後日」とは何時の事なのか、そして観音島も、石から成っている事から「石島」にした時期があったのか、という疑問が湧いてくる。(笑)

http://www.ulleung.or.kr/ull/ull06_2.php

>ややこしくない

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2004/02/03 15:17 投稿番号: [3556 / 18519]
>島の東に停泊したかもしれない、そこから透視術を使って島の北側も見えるかも知れない、等々の勝手な推測

「三石列立」はアラビア数字の3説、磁極の90°移動説を再び持ち出すつもりかい(笑)

付け加え

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 14:50 投稿番号: [3555 / 18519]
さっき書き忘れましたが彼らの探している三峰島は賦役逃れの人が逃げ込んでいる島です。

ですので探索している島は緑があり、人が住める島を探したでしょうね。

>>現在の目

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/03 14:36 投稿番号: [3554 / 18519]
>>だからこそ大臣達も大竹や木々が鬱蒼と茂る鬱陵島とは明らかに異なると判別できたのです。

>それは違うでしょう。もしも竹や木が鬱蒼としげる図面であったとしても「島」が未知のものであった以上、それはそれで受け入れたことでしょう。そもそも鬱陵島の地勢を把握できる図面なるものもどの程度の精度のものがあったかは不明です。

いいえ、竹や木が鬱蒼と茂っていれば、土地の産物として、重要な成果を報告しないのは全く不自然です。
そして金自周の報告を素直に読むならば、どこにも書かれていない木や竹を勝手に書き加えることもできません。

>しかし、その後、金自周のことが出てこないで朴宗元の失敗探査が別のところなどで引用されるところを見ると、金自周の調査はあまり受け入れられていなかったのかもしれません。

勘違いしないで頂きたいのは、現在残された記録では成宗7年の記録で初めて二島の認識が確認できるだけと云うことです。これは現在の我々の問題です。
実際にはそれ以前に二島認識が確立していれば、当時は金自周の報告を殊更に重要視する必要はないのです。

そうかも知れませんね。

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 14:21 投稿番号: [3553 / 18519]
彼らの探索目的は鬱陵島本島ではなく鬱陵島の近くにあるであろう三峰島ですから。

風景描写も鬱陵島本島ではなく、その周辺の島のみを描写したんでしょうね。

そう推察すると鬱陵島本島と図画が違っていてもなんら矛盾がないみたいですね。

>現在の目

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 14:19 投稿番号: [3552 / 18519]
>承政院日記も三峯島画図も残されていない現在とは異なり、金自周の報告当時には、より詳細な報告がなされ図画も添付されていたことは明らかです。

もちろん、そうです。

>だからこそ大臣達も大竹や木々が鬱蒼と茂る鬱陵島とは明らかに異なると判別できたのです。

それは違うでしょう。もしも竹や木が鬱蒼としげる図面であったとしても「島」が未知のものであった以上、それはそれで受け入れたことでしょう。そもそも鬱陵島の地勢を把握できる図面なるものもどの程度の精度のものがあったかは不明です。

しかし、その後、金自周のことが出てこないで朴宗元の失敗探査が別のところなどで引用されるところを見ると、金自周の調査はあまり受け入れられていなかったのかもしれません。

金自周探査から5年経っても、永安道監察使が三峰島の存在さえも明確に把握しておらず、民が島に移住することなど申し述べているところを見てもそこに独島の知見はありません。

大臣たちがどう考えたかは資料から確認できませんが、結果としては三峰島は鬱陵島を指す言葉として後に随所に見られますし、金自周が独島を確認したと引用する書籍も後にあったわけでもなさそうです。

現在の目

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/03 13:57 投稿番号: [3551 / 18519]
承政院日記も三峯島画図も残されていない現在とは異なり、金自周の報告当時には、より詳細な報告がなされ図画も添付されていたことは明らかです。
実録にも画があったことは記録されています。
だからこそ大臣達も大竹や木々が鬱蒼と茂る鬱陵島とは明らかに異なると判別できたのです。

>現在の目からするとそれは鬱陵島・独島ではなく、鬱陵島ただ一島を指すに過ぎなかったのです。

どんな目をお持ちなのか、理解できません。

大事と思われる

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 13:52 投稿番号: [3550 / 18519]
風景描写のくだりが二の次三の次の問題になってしまいましたね。ご愁傷様です。笑

結局、竹島(独島)に風景描写と一致する視点は見つからなかったんですか?

>まず鬱陵島である可能性を完全に排除...
りっぱな資料理解の姿勢ですね。
感服しました。

>必然性

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 13:45 投稿番号: [3549 / 18519]
>そもそも三峯島が鬱陵島であるならば、新たに鬱陵島を捜得する必要はないわけです。

もちろん、そうです。

>成宗7年条の記述を見ても明らかなように、政府は三峯島を鬱陵島とは別の島と考えていました。

もちろん、そうです。

>同条に記された金自周の報告は、まず鬱陵島である可能性を完全に排除して読まねばならんのです。

金自周は金漢京の案内で「三峰島」に出かけたわけですが、この金自周も永興の人でした。鬱陵島の存在は知っていても行ったことはなかったのでしょう。金漢京の言うままに「三峰島」をそのまま「三峰島」と考えただけかと思います。しかし、それは結局、現在でいう鬱陵島にほかならなかったということです。

朝廷が二島と考えたことはそれはそれでいいでしょう。しかし、それは独島をすでに認識していたことを意味することにはなりません。現在の目からするとそれは鬱陵島・独島ではなく、鬱陵島ただ一島を指すに過ぎなかったのです。

「獨島」を「四峰島」と読む必然性

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/02/03 13:41 投稿番号: [3548 / 18519]
>西から見たとか、東から見たとかは、二の次三の次の問題に過ぎません。

確かにな。「三峰島=獨島と読む必然性」は分かるが、現実には「獨島」を「四峰島」と読む必然性もあるな。(笑)

http://www.ullungdo.com/spboard/board.cgi?id=kch_photo&action=view&gul=271&page=1&go_cnt=

三峰島=鬱陵島

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/02/03 13:02 投稿番号: [3547 / 18519]
>獨島を描いた絵が残されていないので、当時の様子を生々しくお伝えできないのは残念ですが、実録に要約された文章でさえも、明らかに鬱陵島と三峯島は別島だと分かります。

「西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流」の記述を1882年の「鬱陵島外図」と併せて見れば、「三峰島=鬱陵島」なのは明白だな。

同外図の北東に描かれている「四石列立」は作者のケンチャナヨなミスで実際には「三石列立」、今の「三仙岩」に当たる。その西隣に大きく描かれている岩は、実際には其の次に描かれている岩(「孔岩」=「中島」)よりも小さい「竹岩」で「小島」に当たると言える。

次に、同外図北側に内方向へ二つ描かれているのが、「巌石列立」、今の「ソンゴット山(又はソンゴット・バウィとも呼ばれる)」に当たる訳だ。 因みに、「バウィ」は朝鮮語で巌石の意味だな。(笑)

http://www.ullungdo.com/map/11.htm

三峯島=獨島と読む必然性

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/03 12:48 投稿番号: [3546 / 18519]
金漢京ら永安道の民間人が鬱陵島を三峯島と呼称していた可能性と、政府のそれは切り分けて考えねばなりません。
そもそも三峯島が鬱陵島であるならば、新たに鬱陵島を捜得する必要はないわけです。
成宗7年条の記述を見ても明らかなように、政府は三峯島を鬱陵島とは別の島と考えていました。
そのことは、往年の朴宗元は至らず還った(鬱陵島には至った)のに金自周は到達した旨を大臣達が述べたと記録されていることからも疑う余地は全くありません。
同条に記された金自周の報告は、まず鬱陵島である可能性を完全に排除して読まねばならんのです。

西から見たとか、東から見たとかは、二の次三の次の問題に過ぎません。

>ややこしい

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 12:34 投稿番号: [3545 / 18519]
そうです。資料はまずそのままに読むべきです。私は金漢京が独島のことを三峰島と考えていた可能性はまったくないと思います。咸鏡道から見えるといっているのですから。

以前に触れましたが、金自周の「西距島七八里許到泊…」ですが、これは「西に島を隔てて7・8里ばかり…(つまり船は東側)」でしょう。

こういう用例は「西距」でググると現代中国語であれば(古典もひっかかります)すぐに出てきます。逆に「西距」で主語が修飾語の西方にあるという訳し方をする場合はあるのでしょうか。私は中国語にも漢文にも弱いのでよく知りませんが。とにかく、

「島の西方7,8里(2.8-3.2km)に到着し停泊して」ではなく、
「西に島を隔てて7・8里ばかりに到着し停泊して」と私は考えています。

>現在の獨島日本領派の諸君は、島の東に停泊したかもしれない、そこから透視術を使って島の北側も見えるかも知れない、等々の勝手な推測…

まぁ、訳し方の問題でしょう。透視術は必要ありません。一冊の漢和辞典とググるインターネット環境があれば「西距」の用例確認はいくらでも自分でできることでしょう。

ややこしくない

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/03 12:13 投稿番号: [3544 / 18519]
>つまり、こういうことはできるかもしれません。二島論はあった。しかし、現在の目からみれば、その二島はいずれも鬱陵島を指すに過ぎなかったということ。当時の資料で見る限り、二島(鬱陵島・三峰島)は決して鬱陵島と独島を指していないのです。

へー(笑
とても資料は素直に読みましょうと仰った方のご意見とは信じがたいですな。
この時代の承政院日記や金自周が獨島を描いた絵が残されていないので、当時の様子を生々しくお伝えできないのは残念ですが、実録に要約された文章でさえも、明らかに鬱陵島と三峯島は別島だと分かります。
っで、現在の獨島日本領派の諸君は、島の東に停泊したかもしれない、そこから透視術を使って島の北側も見えるかも知れない、等々の勝手な推測を加えて「その二島はいずれも鬱陵島を指すに過ぎなかった」と結論しちゃうわけですか。(笑

へー(笑

ややこしい

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 11:45 投稿番号: [3543 / 18519]
そもそも竹島問題はややこしくて、なかなか議論が難しいのですが、もしかしたら私が申し上げたことも文章のまずさからアホさんに通じていない点もあるかもしれません。一応、まとめて整理しておきます。

当時、三峰島があるという話が出ることで鬱陵島とは別のこの島に対する探査は当然に必要になりました。で、探査しましたが朴宗元らのときは見当たらず、金自周の時は見当たりました(それに先立って金漢京も)。

ただし、この金自周や金漢京の見た三峰島は、現在の我々から見ると実は鬱陵島にほかならなかったのです。

私は三峰島探査を鬱陵島探索と勘違いしているのではなく、もちろん三峰島を探査しましたが、三峰島をまったく確定できなかったのであり、確定できたと思った金自周の島も、現在から見れば鬱陵島を勘違いしていたに過ぎない、と申し上げたのです。

二島論については、もちろんそういう観念をもって探査は行われましたし、民の移住も問題になったところをみると、アホさんの仰るように「確立」といっていい部分もあるかもしれません。

つまり、こういうことはできるかもしれません。二島論はあった。しかし、現在の目からみれば、その二島はいずれも鬱陵島を指すに過ぎなかったということ。当時の資料で見る限り、二島(鬱陵島・三峰島)は決して鬱陵島と独島を指していないのです。

朝鮮って不思議ですね

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 02:34 投稿番号: [3542 / 18519]
1640年ころの日本の漁師は松島(現竹島)のことを竹島への航路上にあり隠岐より60里あまりと特定していますね。竹島(鬱陵島)へも100里余りと特定されてます。

たった150年遡っただけの朝鮮の政府役人...当然教養も知識もあっただろう人間がなぜ三峯島が独島だったとして位置を特定できないんだろう?
なんで「南東の水平線上に見える」じゃなくてただの「歴々と見える」なんだろう。
なぜ朝鮮には1800年代ですら1600年代の日本の漁師が書いたような位置が特定できる書物がないんでしょう?  

不思議ですね朝鮮人って。

あっ、あくまで朝鮮国が独島の存在を知ってた場合ですよ。知らなければ書けって言われても書けませんからね。笑

松島渡海

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 01:40 投稿番号: [3541 / 18519]
私、竹島には興味がありますが、韓国語も古文も苦手です。

下記のHPに三代目九右衛門勝信が延宝九年(天和元年=一六八一年)に幕府巡検使に差出した請書があります。

http://matsu.rc.kyushu-u.ac.jp/study/takeshima/siryo-list/katsunobu.html


下部のあたりに

而御座候   廿四五年以前阿部四郎五郎様御取持を以
  拝領船渡海仕候   此小嶋ニ而茂みち之魚之油小宛所務仕候   右之小嶋江隠岐国
嶋後福浦より海上六十里余茂御座候御事

とあります。

「阿部四郎五郎の取持ちにより拝領船で松島に渡海した」との意だと思われますね。

阿部四郎五郎は老中で竹島渡海免許を幕府に上申した人物ですね。
その阿部四郎五郎が取り持った拝領船で松島に渡ったと考えるなら、幕府の渡海許可の下に渡海したと考えるのが合理的だと思えます。
「竹島渡海由来記拔書」とも矛盾がありませんね。

ただし、古文は苦手ですので間違いがあればどなたかご指摘ください。

>単に旗本の伝言を

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 01:38 投稿番号: [3540 / 18519]
歪曲はいけませんよ。

旗本の伝言は言い換えれば幕府役人の指令、もしくは命令、許可とも考えられますね。もしAHOさんの言う旗本が阿部四郎五郎のことなら老中ですね。政府要人ってところですか。

>松島に渡海する免許

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/02/03 01:04 投稿番号: [3539 / 18519]
私の提示したHPは昭和27年3月7日の朝日新聞朝刊神戸版の内容の転載のようですね。

この朝日新聞の記事に
>由来記には「その後大猷院(徳川家光)様御代、竹島海道にて松島と申す島を見出し、御注進申奉り候えば、竹島の通り支配御許し遊ばされ、右両島へ渡海仕り来り・・・」と記されている。

とあるのは前回にも書いた通りです。

「支配」の意味は国語辞典によると   「ある地域・組織を自分の勢力下に置き、治めること。」です。
すなわち上記の内容は「(松島を)竹島の通り治めることを許す」です。

私は再三根拠を示してくださいとお願いしていますがAHOさんは単に自分の考えのみで根拠を示してくれませんね。

AHOさんのおっしゃりたいことはなんでしょ?

「竹島渡海由来記拔書控」が信憑性がないとおっしゃりたいのでしょうか?   それとも朝日新聞の記事が出鱈目とおっしゃりたいのでしょうか?   はたまたHPの内容が大嘘とおっしゃりたいのですか?

くどいようですが根拠を示してくださいね。

>横レス

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 00:19 投稿番号: [3538 / 18519]
>単に旗本の伝言を書き留めたように書かれておりますが、幕府が大谷家に松島を領地として与えた記録も存在しませんし、

歴史学において「拝領」なる用語がどういう意味で使われるかは知りませんが、普通この単語はもらうこと、頂戴すること全般を指すのであって、必ずしも領地だけを指すのではありません。

この渡海許可は塚本孝も書いているように「独占的開発権というべきもの」の性格のものでしょうから、その権利を頂戴したと考えるべきではないでしょうか。領地問題ではなく権利問題です。

そう

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/02 23:55 投稿番号: [3537 / 18519]
>鬱陵島のほかに三峰島なる存在があるかもしれない(見つからなかったけど)、ある人がそういう島があるといっていた(見つからなかったけど)というだけで「二島論が定着した」と言えるかは疑問だということです。

金漢京・金自周は見つけたとして報告はしていますがね。どうみても鬱陵島を指すとしか思えない例の報告です。これはその後まったく話が出てこない(朴宗元は出てきますが)ところを見ると、あまり三峰島としての信憑性を認められていなかったのかもしれませんね。

まぁ、考えてみると、なるほどアホさんのいうとおり「二島説定着」という部分はあったかもしれませんね。民の移住の話も出てくるわけですから。それは後世の我々から考えればそれが単に鬱陵島に行ったに過ぎなかったわけですが。

>二島説確立

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/02 23:12 投稿番号: [3536 / 18519]
「二島説確立」というものの言葉の理解が私とアホさんにずれがあるようです。話が食い違ってしまいます。

私は当時、朝鮮は具体的に三峰島を全く捉えていなかったと申し上げているのです。

鬱陵島のほかに三峰島なる存在があるかもしれない(見つからなかったけど)、ある人がそういう島があるといっていた(見つからなかったけど)というだけで「二島論が定着した」と言えるかは疑問だということです。

観念として二島の考えがあったのは、太宗や世宗の時代までさかのぼることができることであって、ここで三峰島が問題になるのは、独島としての存在がどこまで具体的に捉えられたかにあるべきではないですか。

ちょっと、話がずれてしまったようです。

>腑に落ちる

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/02 23:03 投稿番号: [3535 / 18519]
>永安道観察使が「東北之海風浪険悪非他海之比、且不知三峯島」と云っているのはご存じですな。

もちろん、存じ上げています。その後に続く言葉「的在何処」は文脈から見て省略すべきではないと思いますが。「東北之海 風浪険悪 非他海之比 且不知三峯島 的在何処」。つまり、三峰島がどこにあるか知らないと言っているのです。

そもそも、三峰島の存在が分からないから永安道観察使が調査を申し出ているのでしょう。金自周探査の5年後にもかかわらず。

>三峯島探索事業の成果が浸透した結果、良く所在が知られている鬱陵島とは、明らかに別島と認識されております。

当然に別の島を念頭においています。しかしそれがどこにあるかも分からず、正しい情報であるかまったく理解できていなかったのです。そして、結局のところ、それは実は鬱陵島に過ぎなかったのだと申し上げました。

三峰島なる島があるかと思っていたが、何もなく、ただ、そこには鬱陵島があっただけであり、または鬱陵島を三峰島と勘違いした金漢京・金自周がいただけのこと。

二島に対する明確な意識はここにはありません。「話によればあるかもしれないから調査する」という次元です。結局、その後、三峰島の名は、鬱陵島を指すものとして随所に見られるようになっていくのではないですか。

アホさんは3473で「漠然とした認識など、何処にもありません」と書きました。実際は完全に漠然としまくっていたということです。始めから最後まで、何も把握できていなかったと。

成宗7年には二島説確立

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/02 22:59 投稿番号: [3534 / 18519]
朴宗元による探索では三峯島には達していませんが、鬱陵島は訪れています。

成宗実録巻72(ソウル大の原文情報ではPDFファイルの35ページ目に相当)をご覧頂きたい。
「往年朴宗元 由江原道 發船遭風 不至而還」と書いてあるのが読めますか。
鬱陵島には訪れた筈の朴宗元は三峯島には至っていないと明瞭に記されているじゃないですか。
どうして三峯島を鬱陵島と同一と言い張れるのか、全く理解できません。

電波少年さん

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/02 22:29 投稿番号: [3533 / 18519]
>1.松島に渡海する免許
許可されたと「竹島渡海由来記拔書控」にある。

愚生の投稿を良くお読み頂きたい。
「竹島渡海由来記拔書控」には領地を拝領したなどとは書かれていませんな。
単に旗本の伝言を書き留めたように書かれておりますが、幕府が大谷家に松島を領地として与えた記録も存在しませんし、渡海を免許したことを証明する「奉書」も存在しません。
よって、撤回するつもりはありません。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/

『1650年代に伯耆藩(鳥取)の大谷、村川両家が「松島」を幕府から拝領し経営していたという記録があり』とあるが、これは大嘘。
幕府が町民である大谷・村川両家に領地を与えた記録は存在しない。松島に渡海する免許すら与えていない。

腑に落ちませんな

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/02/02 22:18 投稿番号: [3532 / 18519]
>私は以下のことを指摘しました。
①「西距島七八里許到泊」を「島を西にして…」の意味で考えうること。
②咸鏡北道から行ったので当然「四昼三夜」かかること。
③金漢京は鬱陵島を三峰島を考えていたこと。
④何年か後、咸鏡北道観察使は金漢京を罰することを進言していること。
⑤朴宗元探索隊は独島をまったく見ていないこと。

朴宗元は途中で難破しましたから獨島に達していません。
④に就いて読んでいるのならば、永安道観察使が「東北之海風浪険悪非他海之比、且不知三峯島」と云っているのはご存じですな。
三峯島探索事業の成果が浸透した結果、良く所在が知られている鬱陵島とは、明らかに別島と認識されております。
貴殿は、「不知鬱陵島」だとでも主張なさるおつもりか。

バカチョンのカメラで撮って

投稿者: yosyat36nai46 投稿日時: 2004/02/02 15:26 投稿番号: [3531 / 18519]
見えた見えないは貴方が現地で調べる事です
過去の書物での議論は正確では有りません貴方が島に行って望遠レンズを使わず写真を撮って公表すれば良いでしょ
でも現在のキャメラは、肉眼以上の性能ですからバカチョンカメラで撮ってください
学校で習わなかったのですか実験と確かめる事の大切さを
南朝鮮政府が拘束した南朝鮮人の学問低さに同情します
たぶん朝鮮島から見えるのは蜃気楼です
中国東南亜細亜日本は南朝鮮人は日本同様嫌われています
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