竹島

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竹島=独島は見えるか2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/02/01 10:39 投稿番号: [3515 / 18519]
   つまり鬱陵島の、200 - 300m の高度の東南がひらけた場所からなら、竹
島=独島は水平線上に小さくではあるがとにかく見える。そうした視認可能地
点は地図を開いてみれば鬱陵島には随処にあることが分かる。
  ・・・
   1438年に空島政策が最終的に実行されるまでは少なくとも、公式的に
も鬱陵島には多くの朝鮮人民が定住していた。
   つまり当然漁業だけではなく農業を行っていたと推定されるのだが、鬱陵
島もやはり海岸部は概して急峻で、むしろ 200 - 300mの台地上に比較的平坦
な開墾適地が多く、現在もそんな土地に少なからず人家があり畑が開かれてい
る。
   特に旧時の火田式農耕なら、そんな土地がまず開墾された可能性が高いは
ずなのである。従って、(川上氏がいうように)密林にさえぎられてどこから
も見えなかったとはどうしても考えられない。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   梶村説からすると、鬱陵島から竹島(独島)が実際に見えたようです。そ
うならば、『世宗実録』にある「二つの島はそれほど離れておらず、天気が清
明な日には望み見ることができる」という記述はやはり妥当と思われます。
   同時に、多くの資料や地図が、竹島(独島)は鬱陵島の属島ないし兄弟島
として扱ってきたことも納得がいきます。これについて梶村氏はこう続けまし
た。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   両島の関係は、八丈島と青ヶ島の関係のようなもので、兄弟島と規定する
ことは、自然地理学的に不自然な主張とはいえない。
   現在の国際法ないしは慣行では、決して自然地理学的条件が領土問題のき
めてとはされていないが、兄弟島であることが歴史的経緯に影響をもたなかっ
たはずはない。
   実際、日本側でも昔は両島をそうした関係のものととらえてきたといえる。
後述のように、江戸時代の日本では鬱陵島を「竹島」ないし「磯竹島」と呼び、
いまの竹島=独島を「松島」と呼んでいたが、松も生えないのに「松島」と呼
ぶのは、「竹島」の呼称の方が先にあって、それと対になる名称として後から
生まれたものとしか理解しがたいのである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この説を裏付けるかのように、江戸時代、代表的な長久保赤水の地図など
が、竹島(独島)と鬱陵島を一対に描いてきたことはすでに記したとおりです。
   したがって、竹島(独島)は鬱陵島の近くにある属島という朝鮮側の認識
はまず妥当であると思います。

(注1)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』
    24号(1987)
(注2)視力(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』より抜粋)
  ・・・視力の単位は国際協定により決められ,視標とするランドルト環
Landolt ring(太さ1.5mm,直径7.5mm)の切れ目(1.5mm角)を5m離れて見分けら
れる視力を〈1.0〉とする。この切れ目の視角 visual angle はほぼ1分(1度の
1/60)である。外界の1点と眼を結ぶ線を方向線というが,2本の方向線のはさ
む角が視角であり,この逆数で視力が表される。そこで,この2倍の大きさ,
あるいは半分の距離で見分けられるとき,視角は2分となり視力は〈0.5〉とな
る。・・・
(注3)梶村秀樹「竹島=独島問題とは何か」『朝鮮研究』182号 1978.9
   あるいは、梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966)

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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