現在の目
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/02/03 20:35 投稿番号: [3559 / 18519]
>いいえ、竹や木が鬱蒼と茂っていれば、土地の産物として、重要な成果を報告しないのは全く不自然です。
ある程度離れて島を見て、そのまま帰ってきたのですから、産物などの成果は詳しくは言いようがないでしょう。図に記せばそれまでです。民が逃げて住むような島(と考えたはず)なら木も生えていましょう。その点は別に不自然だとは思いません。
>そして金自周の報告を素直に読むならば、どこにも書かれていない木や竹を勝手に書き加えることもできません。
原文は以下の通り(部分引用)。
「西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巖石列立 次中島 中島之西 又有小島 皆海水通流 亦於海島之間 有如人形 別立者三十 因疑 不得直到 画島形而來 臣等…」
さて、ここにはなるほど木や竹は書かれていません。「島」(本島)のことはなにも書いてないようです。独島ならば岩礁の島とでも書いてあればいいのでしょうが、そういうのでもありません。
私は金自周が鬱陵島の北東から見たように判断していますが、鬱陵島と考えるにせよ、独島と考えるにせよ、ここに記された風景を見出すのはなかなか簡単ではなさそうです。これについてはすでに1400あたりで議論がありました。結局、あの議論に行き着くのでしょう。
私見では、鬱陵島の場合「巖石列立」「海水通流」をどう見るかというのは確かに問題がないわけではないですね。しかし移住するものがいたりするなど、周辺の資料と付き合わせれば、鬱陵島と見るのが妥当かと判断しています。
さらに、中島・小島という表現にも注目できそうです。本島を「大」として暗示しているとすると、それに次ぐ竹嶼が中島、観音島その他の島が小島となる、大・中・小の対応関係が文章の背景にあるような気もします。ま、これは完全に、私の感覚的な読み方の話ですが。
で、案内人の金漢京は咸鏡道から見えるとしているのですが、独島は咸鏡道から肉眼で目視が可能でしょうか。
>勘違いしないで頂きたいのは、現在残された記録では成宗7年の記録で初めて二島の認識が確認できるだけと云うことです。これは現在の我々の問題です。
二島論については置いておきましょう。
ある程度離れて島を見て、そのまま帰ってきたのですから、産物などの成果は詳しくは言いようがないでしょう。図に記せばそれまでです。民が逃げて住むような島(と考えたはず)なら木も生えていましょう。その点は別に不自然だとは思いません。
>そして金自周の報告を素直に読むならば、どこにも書かれていない木や竹を勝手に書き加えることもできません。
原文は以下の通り(部分引用)。
「西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巖石列立 次中島 中島之西 又有小島 皆海水通流 亦於海島之間 有如人形 別立者三十 因疑 不得直到 画島形而來 臣等…」
さて、ここにはなるほど木や竹は書かれていません。「島」(本島)のことはなにも書いてないようです。独島ならば岩礁の島とでも書いてあればいいのでしょうが、そういうのでもありません。
私は金自周が鬱陵島の北東から見たように判断していますが、鬱陵島と考えるにせよ、独島と考えるにせよ、ここに記された風景を見出すのはなかなか簡単ではなさそうです。これについてはすでに1400あたりで議論がありました。結局、あの議論に行き着くのでしょう。
私見では、鬱陵島の場合「巖石列立」「海水通流」をどう見るかというのは確かに問題がないわけではないですね。しかし移住するものがいたりするなど、周辺の資料と付き合わせれば、鬱陵島と見るのが妥当かと判断しています。
さらに、中島・小島という表現にも注目できそうです。本島を「大」として暗示しているとすると、それに次ぐ竹嶼が中島、観音島その他の島が小島となる、大・中・小の対応関係が文章の背景にあるような気もします。ま、これは完全に、私の感覚的な読み方の話ですが。
で、案内人の金漢京は咸鏡道から見えるとしているのですが、独島は咸鏡道から肉眼で目視が可能でしょうか。
>勘違いしないで頂きたいのは、現在残された記録では成宗7年の記録で初めて二島の認識が確認できるだけと云うことです。これは現在の我々の問題です。
二島論については置いておきましょう。
これは メッセージ 3554 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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