竹島

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外務省パンフレットへの批判6、(3)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/27 17:25 投稿番号: [16504 / 18519]
   上記のように、地理担当当局の官撰地図や官撰地誌、あるいは国家最高機関である太政官の指令などは、ことごとく竹島=独島を日本領でないとして扱いました。パンフレットは、このような明治時代の公的な史料に素知らぬふりをして、竹島=独島を日本の「固有領土」と強弁し続けているようです。
  「固有領土」の主張が無理であることは、今回パンフレットが写真で公開した閣議決定書からも明らかです。同書は竹島=独島を無主地と判定し、国際法上の先占理論にのって竹島=独島を日本領とする閣議決定したのでした。無主地という明治政府の判断は「固有領土」の主張に矛盾することは言うまでもありません。

   しかし、実は、竹島=独島は無主地ではありませんでした。そうなると、竹島=独島を日本領へ編入した明治政府の措置は、狼どもの万国公法に照らしてさえ違法であり、無効になります。松島(竹島=独島)が朝鮮領であることは、上記のとおり、内務省や外務省、太政官なども認めていたのでした。
   一方、大韓帝国では竹島=独島は勅令により欝島郡の一部に改編され、法的にも明文化されました。それをパンフレットはこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  6-5   朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。
   そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼(ちくしょ)」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   パンフレットの間違いですが、「鬱陵郡」は「欝島郡」の誤りです。また、勅令の原文を重視するなら「鬱陵島」でなく「欝陵島」と書くべきです。わざわざ画数の多い「鬱」字を使用する必要はありません。
   パンフレットは<「独島」という呼び名はいつからどのように使われるようになったのか>と疑問を呈しましたが、これは一理あります。
   当時、現地の欝陵島ではもはや于山島の名は通用せず、竹島=独島は「トクト」と呼ばれるようになったのですが、トクトの漢字表記が「石島」からどのようにして「独島」に変わったのか、その解明はかならずしも充分ではありません。それにもかかわらず、石島が竹島=独島であることは多くの日本人研究者も認めているとおりです(注8)。
(つづく)

外務省パンフレットへの批判6、(2)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/27 17:09 投稿番号: [16503 / 18519]
   ちなみに、外務省が今でも語ろうとしない明治時代の重要史料は下記のとおりです。
(1)外務省報告書「朝鮮国 交際始末 内探書」(注3)
  報告書中に「竹島松島 朝鮮附属に相成候始末」と題する一文があります。

(2)太政官・正院地誌課『日本地誌提要』(注4)
  『日本地誌提要』は地理担当当局による官撰地誌なので、そこに竹島=独島がどう扱われたのかは非常に重要です。同書は、隠岐の小島179を「本州の属島」と記し、それ以外に竹島・松島があると記しました。この記事から明治時代の地理学者・田中阿歌麻呂などは竹島・松島が日本領でないと解釈しました。この官撰地誌でも竹島・松島が一対の扱いになっていることは重要です。

(3)内務省地理局『磯竹島事略』、『礒竹島覚書』(注5)
  両書の記述はほとんど同じで、江戸時代の「竹島一件」の顛末を網羅しました。両書は内務省が竹島・松島を日本の版図外と判断した基礎資料として重要です。
  両書はもちろん鳥取藩の「竹嶋之書付」なども所載しました。この史料で竹島・松島が鳥取藩をはじめとしていずれの藩にも属さないことや、幕府が松島(竹島=独島)の存在を知らなかったことなどが明白です。

(4)太政官「竹島外一島」版図外指令(注6)
  1877年、内務省は地籍編纂事業において問題になった竹島・松島は日本領でないと判断しましたが、版図の取捨は国家の重大事なので、念のために太政官の裁可を仰ぎました。その内務省の伺書中に「磯竹島略図」がありますが、同図からも松島は現在の竹島=独島であることが明瞭です。
  太政官は内務省の伺書どおり、竹島(欝陵島)および外一島である松島(竹島=独島)を版図外と決定する指令を2週間後に発令しました。

(5)内務省地理局の官撰地図(注7)
  国土や領土の担当機関である地理局が作成した官撰地図において、竹島・松島は一時期を除いて日本領として扱われませんでした。1905年以前における明治時代の官撰地図は下記のとおりです。
(A)1867年「官板 実測日本地図」、幕府出版(1870年に明治政府の開成学校から再版)
(B)1879年「大日本府県管轄図」、内務省地理局出版
(C)1880年「大日本国全図」、同上
(D)1881年『大日本府県分轄図』、同上(1883年に改訂版)

  これらの官撰地図で竹島=独島が含まれるのは、(D)『大日本府県分轄図』中の極東図である「大日本全国略図」のみです。ただし『大日本府県分轄図』中の島根県など各府県図に竹島=独島は描かれませんでした。これ以外の地図に竹島=独島はまったく描かれませんでした。
  なお「大日本全国略図」において、初版では竹島・松島は山陰道と同色に彩色されましたが、これは作成者の無知による誤りと思われ、改訂版では訂正され無彩色にされました。すなわち、この訂正は竹島=独島は日本領外としたことを意味します。
(つづく)

外務省パンフレットへの批判6、(1)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/27 17:08 投稿番号: [16502 / 18519]
6.大韓帝国勅令と島根県告示

   外務省のパンフレット曰「6.日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました」

   外務省が「再確認」と強調するからには、以前にも「竹島を領有する意思」を確認したことがあるはずですが、それは一体いつなのか首をひねりたくなります。現在の外務省はいざ知らず、50余年前の外務省は幻の「松島(竹島=独島)渡海免許」を信じていたので、前回の確認とは数百年前の、幻の渡海免許を指すのでしょうか?   それとも時代がくだって明治時代に確認を求めているのでしょうか?

   もし前者ならまったくお話になりません。川上健三がとなえた幻の松島渡海免許は、最近では塚本孝氏や池内敏氏などによりことごとく否定されました。つぎに、後者の可能性ですが、50余年前の外務省はこう主張しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   当時(明治時代)の外務省では、松島という島の開拓願いの提出に際し、この島がいかなる島を指すかを明らかにするため視察を行なう必要があるかどうかを検討していた。
  (途中省略)
   渡辺記録局長は、「このいわゆる松島なるもの、竹島(今の鬱陵島)なれば彼に属し、もし、竹島(今の鬱陵島)意外にある松島なれば われに属さざるをえざるも・・・その松島「デラセ」島なるものは本来、竹島すなわち鬱陵島にして、わが松島なるものは洋名「ホルネットロックス」なるがごとし、・・・このホルネットロックスのわが国に属するは各国の地図みな然り」、「旧幕府無事を好むより・・・竹島(今の鬱陵島)をもって・・・朝鮮に譲渡せりといえども 松島(今の竹島)は竹島(今の鬱陵島)よりわが近き方にあれば、日本に属し、朝鮮また異論ある能わず」と述べ、視察の結果、この松島が鬱陵島と別物ならば、因幡、隠岐、石見などに帰せざるを得ずという見解を示していた。

   明治13年9月、軍艦天城が赴いて実際にこの島を測量した結果、問題の松島は鬱陵島そのものであり、鬱陵島付属の島に竹嶼があることが明確にされた。
   松島開拓願いの審議に際して明らかなことは、明治初期においても日本国政府が竹島を日本固有の領土として認識し、その上に立って議論していたことである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   50余年前の外務省は、明治政府も「竹島を日本固有の領土」と認識していたとする根拠を、単に外務省の一局長の見解においていたようです。ところが、その渡辺洪基局長の地図などに関する見解が噴飯ものであることはすでに書いたとおりです(注2)。
   そうした見解を主柱にして外務省は「固有領土」の証明をしたと考えているようですが、これは我田引水もはなはだしいようです。というのも、当時の決定的な資料については何も語らず、史料の恣意的な選択をおこなって「固有領土」の結論を出したからです。
(つづく)

re2)1656 - 柳馨遠 『輿地志』

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 15:56 投稿番号: [16501 / 18519]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/02/1656.html
に次のとおりです。

Friday, February 22, 2008
1656 - 柳馨遠 『輿地志』 (「東国興地志」巻之七 江原道 蔚珍)


   柳馨遠(1622〜1673)は、朝鮮王朝、顕宗王の時の実学者で、1656年に全国地理の本である「東國輿地志」を編纂しました。(ソウル大学奎章閣サイト・韓国語 )


   韓国側は「東国文献備考・與地考」(1770)や「萬機要覧」(1808)に「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う引用がある事を挙げ、安龍福の渡航や日本よりも古い文献に倭の松島(現在の竹島)が于山島だと認識していたという論拠としてきました。この本は長く遺失されたとされてきましたが、2006年に済州大学の呉相学氏によって確認された「東国興地志」には下記のように書かれており、実際は従来からの日本側の主張のように、「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は無かったことが明らかになりました。

   「于山島鬱陵島   一云武陵   一云羽陵   二島在県正東海中   三峯及業掌空南峯梢卑   風日清明則峯頭樹木   及山根沙渚   歴々可見   風便則二日可到   一説干山   鬱陵   本一島   地方百里」

   ちなみにこれは「新増東国輿地勝覧」 の記録をそのまま引用していることが分かります。

   「于山島鬱陵島   一云武陵   一云羽陵   二島在県正東海中   三峯及業掌空南峯梢卑   風日清明則峯頭樹木   及山根沙渚   歴々可見   風便則二日可到   一説干山   鬱陵   本一島   地方百里」

   安龍福の竹島一件の後、安の証言である「于山は即ち倭の所謂松島なり」という言葉が「輿地志」に書かれてあったと言う、誤った記述が、1700年以降の「東国文献備考」や「萬機要覧」を始めとする朝鮮の書物に登場するようになり、韓国側もこれらの文献をを根拠に于山島が竹島・独島(倭の松島)であると主張します。しかし、以下のように文献を年代にそって並べると、申景濬が1756年の「疆界誌」の中で輿地志の記録の後に“所謂松島 ”と言う自説を追記していること、1770年の「東国文献備考・與地考」でそれを「輿地志」の記述であるかのように書き変えている事が明確に分かります。以降に編纂された「萬機要覧」 「増補文献備考 輿地考」は、原著である「輿地志」からではなく、「東国文献備考・與地考」からの孫引きで引用している為、この誤記が受け継がれていったようです。

  1756 - 申景濬「疆界誌」『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島
     「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島
      而考諸圖志二島也 一則其所謂松島
      而蓋二島 倶是于山國也」

  1770 - 申景濬・洪啓禧   「東国文献備考・與地考」  
     「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」

  1808 - 「萬機要覧 軍政篇 (1937 朝鮮総督府)」
     「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也.」

  1908 - 李萬運「増補文献備考 輿地考」
     「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也」

   このように流れを追っていくと、申景濬が「東国文献備考・與地考」を編纂する際に、自分の意見をあたかも輿地志からの引用であるかの如く改竄している事が分かります。、誤記であることが明らかな文献を根拠として領土の根拠として主張することは、愚かであると言わざるを得ないのです。

re2)世相実録を優先する理由

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 15:44 投稿番号: [16500 / 18519]
   世相実録地理誌は1454年に編纂され、輿地勝覧は1530年に編纂されたものです。「鬱陵島から見える島はなにか」を争うのに適している史料はどちらでしょうか。
   後年に編纂された史料は、旧年の史料に新たな知見を加えて編纂されたと解されますから、輿地勝覧を以って争うのが適していると言えます。

   ところが、「世宗実録地理誌がより重要である」と主張する人がいます。
   同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる」とあり、鬱陵島からチェクトは「風日清明」でなくとも見え、リャンコ島は「風日清明」でなければ見ることができないから、「韓国が古くから独島を認識していたという根拠」なのだ。と言うのです。


   どうして、頑なに「輿地勝覧」を拒否するのでしょうか。

   それは、「輿地勝覧」の解は「内陸から鬱陵島が見える」の意であると結論が出ているからです。
   肅宗実録、1694年08月14日の項に次のとおりです。[ No.16242 - 16258 ]
   「鬱陵島は、峰巒と樹木の状態を、内陸でもありありと眺めることができる・・・・と『輿地勝覧』に載っており、歴代に伝えられている。」と。
   →→結論の出ている土俵では争わない方針の様です。


   又、「鬱陵島からリャンコ島が見えるか」という命題も結論が出ています。
   朝鮮は多くの鬱陵島検察をしていますが、1694年に「300里先に鬱陵島の1/3程の島を見た」と報告し、1882年には「山に登って四望したが、海中の先に一点の島嶼の見形無し」と報告しています。この2回以外では「望見する」ことすら思いつかなっかたと考えられます。
   「知っていますか日本の島(自由国民社)」に下條正男氏の論文があり、その21頁に氏自身が「2000年9月上旬、鬱陵島の独島展望台に行ってみて、そこの売店のおばさんに「独島は見えますか」と聞いてみたが、「今年は7月に一度見えただけ」とのことで、「晴れた日には見える」ということではないらしい。」と記しています。
   これらの資料から判断するに、「風日清明」なる日は年に数日しかないものとしなければなりません。それでも「見える」と主張するのでは、最早、領有権争いではありません。
   しかし、「見える」と難癖を付けられるのは「世宗実録地理誌」しかありませんから、これにこだわり続けるのです。→→論破されていないと主張できる余地がある限り諦めない方針の様です。


   光海君・肅宗・高宗の朝鮮王が鬱陵島にかかる意思決定に、「輿地勝覧」を用い「世相実録地理誌」を用いていません。それでも尚、「世宗実録地理誌がより重要である」との認識を持ち続けるのは合理的ではありません。非合理な意図がここから読み取れます。

re4)会津屋八右衛門

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 09:07 投稿番号: [16499 / 18519]
   八右衛門は郷土の英雄の様です。*1)

   八右衛門は、窮迫した浜田藩の財政に寄与するため、浜田藩幹部と密議し「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り(大坂町奉行判決)」、朝鮮・中国・台湾・安南・ルソン等から、珍しい品々を浜田に荷場げしました。これにより浜田藩財政の確立に大いに役立ちました。

   幕府(大阪町奉行所)が、「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り」と認めているのですから、竹島一件後もリャンコ島への渡海は禁止されていなかったことが明らかです。


   この事件を、崔書勉氏は次のように解説しています。*2)
   ------------------------
−−日本が独島を固有の領土と主張する根拠が、でたらめということか。
   「日本政府の固有領土論のバイブルに該当する本は、1966年に川上健三氏が編纂した『竹島の歴史地理学的研究』だ。 外務省の協調を得て、ぼう大な文献を調べて集大成した本だ。 そこには、朝鮮時代の空島政策で人がいなくなった鬱陵島(ウルルンド)と無人島の独島に、日本人が行き来しながら漁業をしたという古文献記録がたくさん提示されている。 それは事実だ。 しかしもっと重要なのは、日本政府が自ら何度か渡航禁止令を出し、領有権を否定したということだ。 1837年に会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。従って、いくら古文書があっても、それは潜商、いまの言葉では密貿易にすぎず、領有権とは関係のない記録ということだ」
   ------------------------

   「鬱陵島まで行った後処刑された記録」→「鬱陵島渡海は禁止されていた」→「だから独島は日本領ではない」・・・おかしいですね。
   韓国人の主張はいつもこの様です。鬱陵島の話をしていて突然結論に至り、そこでは始から独島の話をしていたように装い、「独島は韓国領!」となってしまうのです。


*1)   http://www8.ocn.ne.jp/~hamadajc/paeg/haci-02.html
*2)   http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=62750&servcode=200§code=200

re6a)なぜ外一島の明瞭化が必要なのか

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 08:49 投稿番号: [16498 / 18519]
   http://www.enjyuku.com/d2/i_006.html
   に、意思表示は、次のように説明されています。
  ------------------------
   一定の法律効果を欲するという意思を外部に表示することである。意思表示は次の3つの部分から構成される。
   1:内心的効果意思=具体的にある法律効果を意欲する意思のこと。例えば店頭で品物を買おうと意欲する意思が内心的効果意思である。
   2:表示意思=内心的効果意思にもとづいて、その意思を表示しようとする意思のこと。例えば、店頭で品物を買うために、店員にその旨を伝えようとする意思である。(なお表示意思を内心的効果意思に含める考え方もある)
   3:表示行為=内心的効果意思を外部に表示する行為のこと。例えば、店頭で品物を買うために、店員にその旨を告げることである。
  ------------------------

   日本の民法では、内心的効果意思は法律効果を生じないとされています。国際法も同様で、領有権を確立させるには、公告とか実効支配等の「外に現れた意思」が必要とされています。
   1877年に太政官が「竹島外一島を版図外とする」旨の決定は、それだけで「領有権の放棄」にはなりません。天城の調査を経た後の1883年の「鬱陵島渡海禁止令」によって始めて鬱陵島の「領有権が放棄」されることになります。
   そもそも、1905年の竹島編入の閣議決定に効果を認めず、韓国への告知が無かったと主張している方が、同時に「外一島とはどこか」を論じているのは矛盾します。

   又、「外一島」とは何なのでしょうか。外一島が松島であるとの「内心的効果意思」を持っているなら、松島と明記する筈です。それを「外一島」とするのは、未だ特定していないからであり、その特定を指令の具体化に伴う官僚の判断に任せるという意味を持っています。そして、1883年に「外一島」はアルゴノート島又はチェクトとして具体化されたのかもしれません。


   さて、外務省は韓国の通信社から「外一島はどこか」旨の質問を受けました。係争国の通信社が、過去の「内心的効果意思」の明瞭化を求めるというのは無理な話です。又、この明瞭化は何の法律効果も生みません。具体的な「表示行為」を示してから質問するべきです。そして、具体的な「表示行為」を示めせないと推定でき、質問の趣旨が理解できないので、「まだ調査中」との回答しかできなくて当然です。

re4)竹島一件の決着

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 08:04 投稿番号: [16497 / 18519]
  独島に対する日本の領有権主張が誤りである理由(独島学会編)
   http://toron.chu.jp/take/krobject/dokdoob.html
  4、1696年1月に日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとあらためて確認しこれを決定した。この事実は外交文書化され、朝鮮と交換された。
   江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。同時に対馬藩主に、刑部大輔を朝鮮に派遣しこの再確認と決定を朝鮮に知らせ、またその外交交渉結果を幕府に報告するよう命じた。
   対馬藩主は江戸から国へ戻り、この外交手続を開始した。
   朝鮮の礼曹参議・李善溥(イ・ソンブ)と対馬の刑部大輔・平善真の間で外交文書のやりとりが2度行われた後の1699年1月、日本から朝鮮に、朝鮮からの返書を幕府将軍に確かに届けたという最終確認の公式書簡が送られ、外交手続は全て終結した。
   こうして対馬藩主が長崎奉行と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪おうとして始まった鬱陵島・独島をめぐる争いは、1696年(粛宗22年)1月に終結した。
   鬱陵島・独島が朝鮮の領土であり、日本の漁夫らの越境・漁業を禁止することを幕府将軍があらためて確認・決定しており、これに関する外交文書のやりとりも1699年1月に最終的にすべて終了している。
  ------------------------------

   上記の「江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。」とする文書は、
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg
にあります。たぶん、次の様な内容が書かれています。(*1)

   先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
   しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
   不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
   具体的事実に依拠して答えた。
   本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
   恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
   即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
   それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
   預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
   偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
  ------------------------------

   これは、「訳官へ達書」とされる文書です。この内容は、1696年10月16日、対馬島で朝鮮官僚に、口頭又は文書で通達されました。朝鮮官僚がソウルに帰還したのは翌年1月10日です。

   当時の徳川幕府は、竹島=鬱陵島と松島=リャンコ島を、別個の島として完全に認識していました。その上で、本決定が「竹島=鬱陵島」に関わることであると明瞭にしています。
   幕府は、(竹島には)「永久に入住・漁採を許さない様にした」のです。当然、松島=リャンコ島には、入住・漁採を継続する意思が込められています。

   1695年、対馬藩は4箇条を列挙して竹島の領有を主張しました。この様な合理的な理由を排除して非合理な決定をした理由として、上記は3点を掲げています。
   1   本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
   2   両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
   3   偏った欲を篤くして、小さな島に拘らない。

   結局、徳川幕府が選択したのは、道理ではなく、朝鮮との友好関係でした。


(*1)   先太守   因竹島事遣使   於貴国者   両度使事
    未了 不幸早世 由是召還使人
    不日上船入   覲之時   問及   竹島地状方向
    拠実具対   因以
    其去   本邦太遠   而去   貴国却近
    恐両地人   ●雑   必有   潜通私市等弊
    隨即下令   永不許入往漁採
    夫隙生於細徴   禍患興於下賎   古今通病
    慮寧勿預   是以百年之好
    偏欲彌篤   而一島之微拠付不較   豈非   両邦之美事乎

re4)多田与左衛門の4ヶ条

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 07:43 投稿番号: [16496 / 18519]
  http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
  の要約は次のとおりです。

  1695年6月10日、対馬藩士多田与左衛門は4箇条を列挙して朝鮮政府への不信を詰問しました。

   第一条、朝鮮側は鬱陵島には定期的に官吏を派遣していると言うが、鳥取や出雲の漁民達は、ここ81年来、貴国の官吏と遭遇した事はないが、何故か?
   朝鮮回答:輿地勝覧によれば1472年頃までは官吏を派遣していた。近頃は、風濤危険なので往来しなかっただけだ。

   第二条、これまで我が国の漁民が鬱陵島に出漁し、三度漂到した。それにも拘わらず、「犯越侵渉」として抗議しなかったのは何故か?
   朝鮮回答:漂流した難民をお互いに還し合うのは、優先すべき正義である。その時に「犯越侵渉」を問わなかったからといって、その意が無かったとは言えない。

   第三条、当初は「貴国の竹島、弊境の鬱陵島」としていたのに、今回は「鬱陵島と竹島を一島二名」としたのは何故か?
   朝鮮回答:当初の回答は錯誤によるものである。これを変更して貴国の信を問うものだ。

   第四条、1614年、東莱府からの書状には「本島即我国所謂鬱陵島」「他人の冒占を容れず」とあった。だが1618年*1)、鬱陵島に出漁した日本の漁民が貴国に到達した際には、領海侵犯として抗議を受けていない。両時の文意が合致していないのは何故か?
   朝鮮回答:両時における朝廷の意は変わらない。ただ、詰問しなかっただけだ。
  ----------------------------------

   輿地勝覧によれば1472年頃までは、鬱陵島が朝鮮領であったことが確認できます。しかしその後、1694年迄の200年間、朝鮮は官吏を鬱陵島に派遣することはありませんでした。この間、朝鮮にとって鬱陵島は忘れられた島だったのです。
   この200年間、1614年に一度だけ、対馬藩から鬱陵島が日本領であることの確認を受けた光海君は「本島即我国所謂鬱陵島」「他人の冒占を容れず」と叫びましたが、この実態の無い観念的領有権の主張によって、日朝交渉は頓挫しました。
   その後、日朝が鬱陵島の領有権を主張する中で、事件は次々と起こります。先ず、1618年に美保関の漁民が朝鮮に漂着しましたが、これを送還するに際し、朝鮮は領海侵犯として抗議をしませんでした。1637年と1666年に「竹島渡海免許」を所持した村川船と大谷船が朝鮮に漂着しましたが、朝鮮はこの時に「犯越侵渉」を問わなかった事を認めました。更に、1694年に「貴国の竹島」を認めました。
   こうした状況下ですから、「実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱」った竹島に、「他国がそれを争わな」いまま、81年間渡海事業を継続したのですから「それで領有するには充分であった」といえます。
   そして、朝鮮は光海君の叫び声は日本に聞こえていた筈だから、日本は鬱陵島を朝鮮領と考えなければならないと言いますが、同じことが日本側にも言えます。日本は竹島を支配しそのことを朝鮮に伝えており、朝鮮は日本の支配を知りうる機会を得ながら抗議をしていないので、朝鮮は竹島を日本領と考えなければならないのです。

   この様に、多田与左衛門の交渉は成功していたのです。


(*1)原文は「78年前」とあります。これは美保関の馬多三伊等7人が朝鮮に漂着した事件を指すと思われます。韓国の李薫氏はその論文で送還されたのは1618(元和4)年としています。

東洋大勢図 シビリアンコントロール

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/23 23:38 投稿番号: [16495 / 18519]
先日は朝鮮を「文士の国=知識人=ホワイトカラー」、そして日本を「武士の国=ゴロツキ=ブルーカラー」と、半ば強引に定義しましたが、今話題の守屋防衛事務次官の汚職事件で言うと、朝鮮は背広組で日本は制服組ということになりますね。制服組だけで教科書を作ると暴走するので、背広組が検定してシビリアンコントロールするということでしょうか。

実際、各社の教科書を文部省が検定しているのではなくて、中韓が日本の教科書を事実上検定しています。近隣諸国条項という"新たな検定制度"を背広組の中韓が行っているわけです。半月城さん、シビリアンコントロール(文民統制)ってやっぱり大切ですね。
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/F27.htm

さて、掲題の件ですが、『東洋大勢図』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/toyo-1902/
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/
(後日掲載予定)


next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『Korea and Her Neighbours』
『大日本輿地図』
『韓国地理』
『大韓帝国石島上申書』
『東洋大勢図』(本日アップロード完了!)



今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related
「スキージャンプ団体 感動の金メダル」
http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

re5)安龍福って何者?

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/23 08:53 投稿番号: [16494 / 18519]
  粛宗実録   1696-09-25
   欝陵子山島等、定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、
   (安龍福は、隠岐島主と面談し)、「鬱陵島・于山島を以って朝鮮の地界と定めた関白の書契ある。日本では徹底していない。今また越境侵犯事件が起きた。これにどういう道理があるのか。(島根藩にこの道理を問うため来日した。」と答えた。)
   吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、
   (安龍福は、島根藩主と面談し)、「自分としては関白に上疏し、(対馬藩の)罪状を歴陳したい」と要求した。島根藩主が許したので、李仁成に上疏文を書かせた。

  粛宗実録   1697-02-14
   去秋貴國人有呈單事、 出於朝令耶?
   (対馬藩が問う)去秋に貴国人が単子(上疏文)を呈じたが、これは朝廷の命令であるか?
   至於漂風愚民, 設有所作爲, 亦非朝家所知,
   (大臣が答える)漂風愚民がしたことであり、朝廷の知るところではない。

   粛宗実録で認められる史実は、
   ①安龍福は、鬱陵島・于山島が朝鮮領であると主張し、上疏文を差し出した。
   ②この事は、対馬藩の知るところとなり、詰問を受けた。
   ③安龍福の事は朝廷とは関係ない。と答えた。


   ところが、「東国文献備考(1770年)」「万機要覧(1808年)」に次のようにかかれるようになります。粛宗実録では安龍福の功を認めていないのに、「皆龍福功也」となってしまったのです。
   倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
   日本が今に至るまで、鬱陵島は日本の地だと主張できないのは、すべて安龍福の功績だ。


   そして、戦後の韓国では万機要覧史観が更に歪められ、安龍福は独島を守った英雄になります。
   この論理は、上記の粛宗実録から①の事実をのみ認めこれを前提において、これを補完するものとして②の事実を捉え、③の事実は考慮しないというデタラメなものでした。


   ところで、1696年の春に安龍福が来日します。しかし、竹島渡海禁止の決定は、1696年の正月に為されたものです。安龍福の行動は領土問題とは何の関係もありません。又、安龍福の于山島認識というのは「漂風愚民」の認識であり、かかる人物の認識は領土問題とは何の関係もありません。
   どうして、安龍福が議題にあがるのでしょうか。私には理解できません。

re6a)日韓議定書のリャンコ島

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/23 08:47 投稿番号: [16493 / 18519]
   1614年に、日本と朝鮮は鬱陵島の領有を主張しあい、結論に至りませんでした。

   1667年に、日本(徳川幕府)は鬱陵島の領有を主張した後に、鬱陵島への渡海を禁止してこの事を朝鮮に連絡しました。
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg

   1883年に、日本(明治政府)は鬱陵島への渡海を禁止して、この事を朝鮮に連絡しました。
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/2.jpg
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/3.jpg

   これら事実により、日本政府は、「鬱陵島に3度日本の侵略を受けたが何れも撃退した」という朝鮮政府の認識を知らなければなりません。
   しかし、リャンコ島は鬱陵島より日本側にありますから、朝鮮政府がリャンコ島の存在を知らなかった場合、日本がリャンコ島は日本領という認識を形成するのに問題はありません。又、朝鮮政府がリャンコ島を朝鮮領と考えていたとしても、その意思が明示的に表示されたことはありませんから、日本がリャンコ島は日本領という認識を形成するのに問題はありません。100kmも離れた島を鬱陵島の属島と認識しているかも知れないという注意義務が日本に無いからです。

   そして、1904年日韓議定書第3条に「大日本帝国政府は、大韓帝国の独立及び領土保全を確実に保証する事」とありますが、ここにリャンコ島が大韓帝国の領土であるという認識の存在を認められませんから、大日本帝国政府は第3国のリャンコ島侵略を日韓議定書に基づき撃退する義務はありません。
   すると、1905年のリャンコ島編入に際して、少なくとも韓国に対してだけは告知する義務が無かったといえます。

   更に、1906年島根県は、リャンコ島編入を朝鮮に連絡します。この時、大韓帝国は日本政府に抗議をしませんでした。仮に、日韓議定書のいう「大韓帝国の領土」にリャンコ島が含まれているとするならば、不可解な行動といわざるを得ません。この日韓議定書違反は、明らかに朝鮮侵略を意味しているからです。当時の大韓帝国に「他の事で忙しく、無人島の領有を争う暇が無かった」と言い訳できるほどに忙しかった他の事はありません。
   http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/820.htm
   http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/830.htm
   すると、日韓議定書のいう「大韓帝国の領土」にリャンコ島が含まれていなかったと確認できます。

Re: 外務省パンフレットへの批判5、(2)

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/04/23 02:07 投稿番号: [16492 / 18519]
>安龍福のこの供述に対し『粛宗実録』は何のコメントを加えずに記述したので
>すが、韓国政府はこれをほぼ事実と認める旨の書簡を日本へ送りました。

朝鮮政府が安龍福の呈書の話を「妄作」とする旨の公式の書簡を日本に送ってますからな〜。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/shiryou-4-1-8.pdf
のp201。
安龍福が見た于山島が、竹島でも鬱陵島でも隠岐なのか関係なく、前言を翻した時点でエストッペル違反ですな〜。

Re: 外務省パンフレットへの批判5、(2)

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/04/22 21:29 投稿番号: [16491 / 18519]
こういうのを史実に基づく詭弁と言うのです。

(1)安龍福は 1696年に欝陵島から竹島=独島を経由して来日したことにより、竹島=独島の位置などを当時の水準でほぼ正しく認識していた。

方位も距離も違います。半日(それも好意的に長く取ったらの話し)で到達できる距離ではありません。
北東と南南東は違います。
島が大きいと言うのも違います。
これだけ怪しい記述を事実と認定するのは紛れもない飛躍です。

(2)かれは、欝陵島は竹島であり、竹島=独島は子山島で日本で松島と呼ばれていると明確に認識していた。

一般的には、認識というのは、なにかある事実を脳内が反映することを言います。正確に言うなら、そう倭の松島=于山島だと思っていると言っただけであり、思っていたかどうかも確実ではありません。虚言癖があるのですから。
まして、その倭の松島がどこかと言う認識も怪しいです。

(3)両島は朝鮮の江原道に属する朝鮮領であることを隠岐国などへ訴えた。

これは、于山島だと思えばその通りですね。

亜細亜東部略図 文士の国vs武士の国

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/22 21:16 投稿番号: [16490 / 18519]
日本は長いあいだ武士の国でしたが、朝鮮は中央集権国家(科挙)の文士の国でした。今で言えばホワイトカラーの朝鮮と、ブルーカラーの日本、もっと分かりやすく言えば知識人(文士の国)とゴロツキ(武士の国)と、このようにかの国の国民は考えているかも知れませんね。

小林よしのりの"悪友"である西部邁が、よく「知識人」という言葉を愛用しております。「知識人」と「一般国民」はある特定分野において顕著な違いがあるのですが、半月城さんも知識人として、私のような一般国民を、進むべき道に導いて頂くことを切望しております。

文士の国の半月城氏へ、ゴロツキの国の私からのmsgでした。


さて、掲題の件ですが、『亜細亜東部略図』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1885/
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/
(後日掲載予定)


next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『Korea and Her Neighbours』
『大日本輿地図』
『韓国地理』
『大韓帝国石島上申書』
『東洋大勢図』
『亜細亜東部略図』(本日アップロード完了!)


今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related
「スキージャンプ団体 感動の金メダル」
http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

外務省パンフレットへの批判5、(2)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/22 20:56 投稿番号: [16489 / 18519]
   外務省のパンフレットは、安龍福が虚偽の供述をおこなったもう一つの例として、第二次渡日事件をこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   安龍福のこの供述に対し『粛宗実録』は何のコメントを加えずに記述したのですが、韓国政府はこれをほぼ事実と認める旨の書簡を日本へ送りました。日韓どちらの主張が正しいのか、ささいな史実の追求ですが、両国政府のメンツにかかわる問題だけに、それなりの検証を要します。

   日本政府の主張ですが、たしかに幕府が日本人の竹島(欝陵島)への渡航を禁じたのは、安龍福の渡日前である1月でした。また、鳥取藩が「竹島渡海免許」を返納したのは翌月でした。しかし、禁止されたといっても、その命令は大谷・村川家にすぐには伝えられませんでした。
   渡海禁止令の伝達は、鳥取藩主が「御帰国のうえでもって右の(禁止令の)ことを市兵衛、甚吉へ命じるようにとの(老中)大久保加賀守の御指図により、今日制禁の旨を命じられました」とされました(『御用人日記』1696.8.1)。
   すなわち、大谷・村川両家に渡海禁止令が伝えられたのは8月になってからでした。したがって、春の時点で両家は禁止令を知らず、例年どおり渡海した可能性があります。史料の上からは、外務省がいうように「当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした」とは決して断言できません。

   ただ、いろいろな状況から考えると 1696年の渡海はなかったものと思われるが、その前年の1695年なら、あるいは安龍福は竹島で日本人に出会った可能性があるとする研究もあります(注2)。
   その場合、安龍福の第2次渡日時における供述は大筋で認められることになります。第2次渡日事件に関して田保橋潔は、安龍福の供述を「徒(いたずら)に大言を弄するの嫌いはあるが、大体に於て事実と信ぜられる」と評価しました(注3)。

   いずれにせよ、安龍福の供述において注意すべきは、史実と、かれ独特の大言壮語とをよく見きわめることです。その際、些末なことにとらわれず、事件全体の本質を把握することが何よりも重要です。それを抜書きすると下記のとおりです。

(1)安龍福は 1696年に欝陵島から竹島=独島を経由して来日したことにより、竹島=独島の位置などを当時の水準でほぼ正しく認識していた。
(2)かれは、欝陵島は竹島であり、竹島=独島は子山島で日本で松島と呼ばれていると明確に認識していた。
(3)両島は朝鮮の江原道に属する朝鮮領であることを隠岐国などへ訴えた。

   これらの重要な史実は、2005年に発見された村上家古文書により確認されました。村上家古文書、正しくは『元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書』ですが、これは幕府の代官手代により書かれた公文書なので、第一級の資料価値を有します。
   ところが、外務省のパンフレットはそれには一言半句もふれませんでした。ここの章でも、同省にとって都合の悪い資料や不利な資料は一切無視するという方針が徹底しているようです。
   その一方で同省は『粛宗実録』を拾い読みしてか、あるいは意図的にか、時には『粛宗実録』の意図を曲解してパンフレットを作成したようです。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」『レファレンス』2002.6月号
(注2)朴炳渉『安龍福事件に対する検証』韓国海洋水産開発院
  (近刊予定、日本語および韓国語併記、販売は韓国の政府刊行物販売センター)
(注3)田保橋潔「鬱陵島その発見と領有」『青丘學叢』第3号、1931、P20

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

外務省パンフレットへの批判5、(1)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/22 20:55 投稿番号: [16488 / 18519]
5.安龍福の渡日事件

   外務省のパンフレットは、韓国で英雄とされる安龍福の拉致事件(第1次渡日)について、こう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。
   しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません・・・
   その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   ここでも外務省は「韓国側」という曖昧な用語を使用していますが、韓国政府の公式書簡に「安龍福は・・・竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得た」などとする主張は痕跡もありません(注1)。外務省は韓国政府の公式見解をまったく確認せず、またもや幻の主張に振りまわされているようです。
   韓国政府がそのような主張をしなかったのは当然です。安龍福と同時代の歴史を記した最も重要な官撰史書『粛宗実録』によれば、朝廷は安龍福がもらったという「書契」なるものを疑問視していたのでした。同書は、朝鮮側の「欝陵島争界」第二次交渉責任者である兪集一の見解をこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   近年、臣が東莱にて使者を務めた時に安龍福を尋問したところ、言うには「伯耆州でもらった銀貨と文書を対馬島の人が奪った」としたが、今回、彼が伯耆州に呈文したことでは「対馬島の人が2千金で私を贖って本国へ送ると嘘をつき、その銀は本国で受けるとした」としたが、前後の話がとても食いちがっている。また対馬島の人は元々銀で贖うことがなく、壬戌約條も秘密なのに、安龍福がどうやって聞くことができるだろうか?
   また、倭人は皆 竹島が伯耆州の食邑としているのに、安龍福が一度話したからといって、朝鮮領とすぐには言わないだろうし、安龍福の呈文では欝陵島は本国の地であると何度も述べたが、倭人と問答した文書や安龍福を送るとした文書には一切ふれられていない。このような事情はとても疑わしいので、再び調査して実情がわかった後に罪を論じるのが適当である(粛宗22(1696)年10月23日条)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この意見はもっともです。突然拉致された、外交使節でもない一漁夫が連行された先でいくら竹島(欝陵島)は朝鮮の領土だと主張したところで、まともに取りあってもらえないことは誰しも考えそうなことです。
   朝鮮で第1次交渉責任者であった洪重夏も安龍福の話をまったく信用しませんでした。さらに、当時の最高権力者である領府事の南九萬も同様であり、こう述べました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   安龍福が癸酉(1693)年に欝陵島へ行ったが、倭人に捕まり、伯耆州に入ったところ、本州で欝陵島は永久に朝鮮に属するとする公文を作ってやり、贈り物も多かったが、対馬島を経て来る途中で公文と贈り物をすべて対馬島の人に奪われたというが、その話を必ずしも信じられると感じはしなかった(粛宗22(1696)年10月13日条)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   このように少なくとも『粛宗実録』は安龍福の供述をそのまま載せても、それをそのまま真実と受けとめたのではなく、その真偽を見きわめた経過なども記したのでした。
   といっても、朝廷はかれの供述を完全に検証できるわけではありません。事件の舞台がほとんど日本だったので、検証には限界があります。真偽の見きわめが困難な供述に対して『粛宗実録』はコメントも加えずにそのまま載せました。そのような記事は単なる参考程度の意味しかありません。
   したがって、私人である安龍福個人がどのような発言をしようが、それ自体だけではあまり意味がありません。その発言が当時の社会や後世にどう影響したのかが重要です。

   そうした基本的なことを素通りして、外務省のパンフレットは、当時の朝廷から虚偽とされた安龍福の上記の供述を特筆大書しましたが本末転倒です。そもそも、外務省は『粛宗実録』をきちんと読んだのでしょうか?   素朴な疑問がわきます。
(つづく)

善光寺

投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2008/04/22 09:01 投稿番号: [16487 / 18519]
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=3494156&tab=five

なんか善光寺が高い評価を欧米マスコミから受けている。
時事ニュース No.3250491 投稿者: stupid_b
作成日: 2008-04-21 11:33:40 閲覧数:16531
推薦ポイント:15 / 0


「善光寺が発した静かな怒りは、世界の全仏教徒のみならず宗派を超えた宗教指導者が身を切るほどの警告となった」@CNN(アメリカ)

「ZENKOUJIは一滴の血も流さず、一個の石(投石?)も用いずに最大級のデモンストレーションを成し遂げた」@NBC(アメリカ)

「日本の対中外交の勝利をもたらしたのは、政治家ではなく若き僧侶だった」@F2

「2000年の時を越えて、遠い東の国にBuddismの精神が変わらず受け継がれていることをZenkojiはこれ以上にない方法で示した。我々は、我々と同じ価値観を共有する日本国民と日本の仏教界に強い尊敬と親しみの念を覚える。」@IDN(インド)

「物静かで政治的な主張をしないことで知られる日本が動いた。拡声器もプラカードも用いないその静かな抗議の声はしかし、どんな喧騒よりも深く強く世界の人々の心に届くに違いない。」@BBC(イギリス)

「聖火リレーのボイコットを表明したその日も、Zenkojiは静かだった。その日、Zenkojiの境内で取材を続ける私は、全身にしみこむ鐘楼の深く低い音に思わず立ち尽くした。憎しみや悲しみを洗い流すこの聖なる音色が1300年にわたり受け継がれていることは世界の奇跡である。」@AE通信(オーストラリア)

竹島の望楼は舞鶴鎮守府所管

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/04/21 23:32 投稿番号: [16486 / 18519]
鬱陵島も含めて韓国に建設された望楼は佐世保鎮守府所管
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/16.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/11x.jpg
所在の住所にも「韓國」が明記されている。

竹島の望楼は舞鶴鎮守府所管
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/27.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/14x.jpg

日本軍が竹島を韓国領と考えていたとは思えないな。

最近朝鮮事情要覧 & 島根県破綻

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/21 23:05 投稿番号: [16485 / 18519]
先ほどNHKスペシャルで地方財政の番組がありましたね。島根県は1兆円の借金があって、一人当たりの借金額は日本一とのことでした。県内に住んでいた重篤患者の入院費は以前は月額500円だったのが、月額4万200円になって年金では払えなくて隣の鳥取県に引っ越した人がいました。世帯分離して医療費の高騰を抑えようとする人もいました。

島根県は竹島問題に予算計上する余裕なんてないです。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima03/
↑ここで働いている人の人件費や光熱費、印刷物など全てトータルでいくら費用が発生しているのか知りませんが、費用対効果を考えなくてはいけません。

さて、掲題の件ですが、『最近朝鮮事情要覧』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chosenjijyo-1912/
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/
(後日掲載予定)


別件で尖閣諸島の『和漢三才図会』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/wakan-1715/
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/
(後日掲載予定)

next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『最近朝鮮事情要覧』(本日アップロード完了!)
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『Korea and Her Neighbours』
『大日本輿地図』
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『大韓帝国石島上申書』
『東洋大勢図』
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「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related
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http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/04/21 21:34 投稿番号: [16484 / 18519]
>一般人でさえかなりの知識を持つようになりましたよね

知識量の問題ではないと思います。
韓国には議論自体が存在しないんだと思います。
口論しか存在しない。
儒教倫理の問題じゃないかと思います。
特にこの問題は、言論による国土防衛戦争なんで、口数で圧倒するだけでも
いいんです。

日本だって、空気できめちゃう非論理がありますが、西欧化のおかげで事実や論理の重大性は認識されてますね。
さらに重要なのは、日本が敗戦によって、それも中途半端な敗戦によって、右左両方の激しい論戦が存在することだと思います。
事実と論理がないと、負けます。

re6a)日露戦争と現竹島

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/21 21:14 投稿番号: [16483 / 18519]
   日露戦争(日本海海戦)は、「バルチック艦隊を全滅させなければ日本の負け」という史上稀な命題を負わされた戦争でした。この時、現竹島が果した(果すべき)役割は小さなものではありませんでした。それは次の頁等で報告されています。
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations2.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations3.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-ulsan-tsushima.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-ulsan-tsushima-2.html

   しかし、上のURLでも明らかなように、監視搭が建てられたのはリャンコ島だけではなく、鬱陵島にも建てられました。この鬱陵島の監視搭は日本軍が勝手に建てたものでした。仮にリャンコ島が朝鮮領であったとしても、軍事施設は日本軍が勝手に建てられるものでした。日露戦争の遂行の為にであればリャンコ島の編入は必要ありません、リャンコ島を「臨検収用」すればよいのです。もしかしたら、朝鮮に事後連絡が必要であったかもしれませんが、事後連絡等の必要性を説いたweb頁を未だ知りません。

   すると、「肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。[No.4629]」というような非常な覚悟をする必要は無いのです。
   しかも、肝付兼行・牧朴眞・山座円次觔という3人もの者が、自分の認識とは異なる「目的のためにウソも方便」をしたと言うのです。
   この中井氏の前に現れた3人の官僚が揃って気骨の無い官僚であったなら、日露戦争に勝利することは出来なかったと思います。



日韓議定書(明治37年2月23日)
  第四条
   (一)第三国の侵害により、もしくは内乱の為、大韓帝国の皇室の安寧あるいは領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、すみやかに臨機、必要の措置を取るべし。しかして大韓帝国政府は、右大日本帝国の行動を容易ならしむる為、十分便宜を与うる事。
   (二)大日本帝国政府は、前項の目的を達する為、軍略上、必要の地点を臨検収用することを得る事。

re6a)他国の占領が認められない

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/21 20:53 投稿番号: [16482 / 18519]
   中井氏の履歴書は、半月城通信に次のとおりです。
   http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html

  「本島の鬱陵島を付属して韓国の所領なりと思はるるを以て、将に統監府に就て為す所あらんとし上京して種々画策中、時の水産局長牧朴眞の注意に由りて必らずしも韓国領に属せざるの疑を生じ、其調査の為種々奔走の末、時の水路部長肝付将軍断定に頼りて本島の全く無所属なることを確かめたり。
  依て経営上必要なる理由を具陳して、本島を本邦領土に編入し且つ貸付せられんことを内務外務農商務の三大臣に願出て、願書を内務省に提出したるに、内務当局者は此時局に際し韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむるは、利益の 極めて小なるに反して事体決して容易ならずとて、如何に陳弁するも願出は将 に却下せられんとしたり。
  斯くて挫折すべきにあらざるを以て、直に外務省に走り、時の政務局長山座円二郎氏に就き大に論陳する所ありたり。氏は時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し無線若くは海底電信を設置せば敵艦監視上極めて 届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することなし、須らく速かに願書を本省に回附せしむべしと意気軒昂たり。此の如くにして、本島は竟に本邦領土に編入せられたり」
  ------------------------ -

   上記「時の水路部長肝付将軍断定に頼りて本島の全く無所属なることを確かめ」を受けて、半月城さんは[No.4629]で次のように述べます。
   軍人である肝付兼行水路部長はリヤンコ島(竹島=独島)を「無主地」のごとく中井に回答したようですが、実はこの人こそ同島を朝鮮所属と判断し、それを『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に入れて刊行した責任者でした。
   肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。
  ------------------------ -

   又、堀和生氏は、「1905年日本の竹島領土編入」において、「日本海軍の『朝鮮水路誌』1894年と99年版には、鬱陵島と並んでリアンコール列岩が載せられている。つまり、19世紀末に、日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのないところである。(106頁)」と述べています。


   しかるに、「水路部長の回答」を1905年の閣議決定の資料にしたというのです。これは矛盾しているように見えます。
   そこで実際の朝鮮水路誌を見てみると、逆に、リャンコ島が朝鮮領でないことを明らかにしていたのです。ここに矛盾はありません。半月城さんと堀和生氏の指摘が間違っていたのです。
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/hydrograph1894/
   朝鮮国は亜細亜の東部にあり 其地勢たる狭長なる一大半島を成し 数多の島嶼 之を圍繞す 其位置は北緯33度15分より同42度25分 東経124度30分より同130度35分に至る・・・
   鬱陵島(一名松島)・・・而して其中心北緯30分東経130度53分に、・・・
  ------------------------ -
   朝鮮の東限は東経130度35分であり、鬱陵島が朝鮮の東限の東にあると記されています。これにより、「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」は、「水路部長の認識」が示されている「朝鮮水路誌」に明らかであると言えます。


   牧朴眞は、1903年の『韓海通漁指針』に発刊の辞を書いています。山座円次觔は、1904年の『最新韓国実業指針』に序文を書いています。(両著共に、リャンコ島を江原道の項で説明しています。)この様に朝鮮通のお二人ですから、その版図を熟知し、勅令41号も知っていたと思われます。それでも、リャンコ島編入を積極的に勧めたというのです。「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」は、朝鮮通のお二人がリャンコ島編入を積極的に勧めたことでより確かなものになります。


   すると、「外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答」を捜査するまでも無く、「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」が明らかです。

re6a)1905年の閣議決定

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/21 20:33 投稿番号: [16481 / 18519]
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui981-1905/

   明治38年1月28日
   別紙内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに、
   右は北緯37度9分30秒東経131度55分、隠岐島を隔る西北85浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく、
   一昨36年、本邦人中井養三郎なる者に於て、漁舎を構へ人夫を移し猟具を備へて海驢猟に着手し、今回領 土編入並に貸下を請願せし所、
   此際所属及島名を確定するの必要あるを以て、該島を竹島と名付け、自今島根県所属隠岐島司の所管と為さんとすと謂ふに在り。
   依て審査するに、明治36年以来中井養三郎なる者が、該島に移住し漁業に従事せることは関係書類に依り明なる所なれば、国際法上占領の事実あるものと認め、之を本邦所属とし、島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す。
   依て請議の通り、閣議決定相成可然と認む。


   この閣議には、次の資料が付されていました。
   一、中井養三郎より請願書
   一、水路部長の回答
   一、外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答

   この内、「中井養三郎より請願書」は、「リャンコ島領土編入並びに貸下願」として外務省のHPにありますが、他の2つの資料を私は探し出せません。

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: boshind 投稿日時: 2008/04/21 13:15 投稿番号: [16480 / 18519]
>詭弁がいくらひどくても

ごめんなさい。ここで吹いてしまいました^^;   あははw

韓国人の主張ってほとんどparkさんみたいなんですよね。
Naverなんかに出入りしてるのでよくわかります。昔は確かに竹島問題って日本人にはあまり理解されてませんでしたけど、今は日本人の職人気質もあって、一般人でさえかなりの知識を持つようになりましたよね。
だから一般人レベルでは韓国人は日本人に勝てない。だから屁理屈や感情に走るみたいですね。
詭弁を尽す某氏が韓国でこの問題の権威とされるのもわかるような気がします^^;

独島地価は8億4千万ウォン、

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2008/04/21 12:35 投稿番号: [16479 / 18519]
前年より9%上昇


【鬱陵・独島21日聯合】慶尚北道鬱陵郡は21日、独島全体の地価を約8億4824万7000ウォン(約8800万円)と公示した。昨年の7億7737万ウォンに比べ9.12%上昇した。
  独島の地価は2000年6月に初めて公示地価を算定、当時は約2億6000万ウォンと評価されたが、毎年上昇を続け、8年間で5億8000万ウォン余り値上がりした。

  独島で最も地価が高い地域は、接岸施設と独島警備隊、漁民宿所などがある10筆地で、1平方メートル当たり13万ウォンと評価された。最も安いのは名前のない独島東・西島の岩で、1平方メートル当たり380〜399ウォン。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2008/04/21/0800000000AJP20080421001100882.HTML

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/04/20 22:23 投稿番号: [16477 / 18519]
parkさん、ここは、貴方のような屁理屈を書くところじゃないです。
ほかの投稿をしっかり読んでください。
詭弁がいくらひどくても論拠や資料にもとづいて議論しているところですよ。

対馬と獨島は全然違います。
対馬には、日本語を話す人たちが、いつからかわからないくらい昔から住んでおります。
獨島は、19世紀以前には地図にのってません。
于山島が獨島だという主張はでたらめです。
現に、今世紀に入ってからでも于山島がどこだか明確でないと考える一般人はたくさんいたことが、この掲示板でも証明されたばかりです。

くだらないことを書く前に、ほかの投稿をしっかり読みなさい。

クリッパートン島と竹島の違い

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/04/20 20:26 投稿番号: [16476 / 18519]
take_8591さんのおっしゃるとおり、クリッパートン島と竹島では大きな違いがあります。それは、クリッパートン島に関して島の同一性の疑義がないということです。クリッパートン島という名前は、島に住み着いたイギリスの海賊の名前からつけられたものであり、フランスが領有を宣言する前に英国の海図にも示される等、その島の名前が世界的に認知されてました。
更に言えば、フランスは領有宣言の前にクリッパートン島の上陸を試みると共に(上陸は失敗)、詳細な地理明細を記録に残しております。つまり、フランスが領有を宣言したクリッパートンが現在のクリッパートン島であることに他国も含めて疑いの余地はなかったわけです。
まぁクリッパートン自体が実効支配の要件を緩和しすぎと国際法学者からかなり批判のある判例ですけどね。

Re: park_sinyang_corea氏の証明はまだ?

投稿者: gp01_zephy 投稿日時: 2008/04/20 20:23 投稿番号: [16475 / 18519]
>その前におまえが人間であることを証明してみろよ。<
話を逸らさないで質問に答えてくださいよw

Re: park_sinyang_corea氏の証明はまだ?

投稿者: park_sinyang_corea 投稿日時: 2008/04/20 19:46 投稿番号: [16474 / 18519]
その前におまえが人間であることを証明してみろよ。

park_sinyang_corea氏の証明はまだ?

投稿者: gp01_zephy 投稿日時: 2008/04/20 15:24 投稿番号: [16473 / 18519]
早く「独島は分明に韓国地」と言う明確な証明をしてください。

re6b)クリッパートン島事件の判例

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/20 10:28 投稿番号: [16472 / 18519]
>↑はtake8591さんと同様の結論だと思います。

   いいえ。これは、私の意見ではありません。外務省のパンフレットをコピペしただけです。
   そして、自分の意見をも付け加えようとして、背伸びしているので大変困っています。


   さて、ご紹介のWeb頁は、冒頭部分のみを読ませていただきました。
   クリッパートン島事件の判例を引いて、独島領有の正当性を主張されているようですね。

   クリッパートン島事件の事実経緯は次のようです。
   1858年秋に、フランスがクリッパートン島を発見し、ホノルルの新聞にフランスの領有宣言文が掲載された。その後、フランスによる実効支配は執行されず、又、他国がフランスの領有に異議を唱えることも無かった。1897年、同島でのアメリカ国旗の掲揚についてフランスは抗議した。1897年12月13日、メキシコが派遣した軍艦の兵士が上陸した。1898年1月8日、メキシコの行為にフランスが抗議し外交問題化する。両国は1909年その帰属問題を裁判で解決することに合意した。判決は1931年に出た。

   この判決は、先ず、「領有意思の公告により領有権が成立する」旨の判断をしています。これを引いて、或る韓国人は、「勅令41号で独島の領有を公告した」と主張します。しかし、公告された文字は「石島」であり、その意図を解読できる外国人は皆無でしょう。しかも、大韓帝国人が「石島=独島」と理解していた痕跡は無く、「石島=独島」説が生まれたのは1960年代と思われ、大韓民国人も1960年頃迄「石島=独島」と理解していた痕跡がありません。これで、他国人に「石島=独島」と理解せよというのは無理な話でしょう。
   又、違う韓国人は、「于山島が朝鮮領であることを日本人が知っていたので、日本に限っては独島の領有権を主張できない」と主張します。しかし、「于山島=独島」であることを確認できる官撰史料はありません。ただ、朝鮮王が「漂流の愚民」と切り捨てた安龍福にかかる日本側史料に「于山島=独島」の認識が残ります。

   この判決は、次に、「フランスが同島を放棄する意思をもったことはないから、成立した領有権は継続する」旨の判断をしています。これを引いて、或る韓国人は「于山島=独島又は石島=独島で成立した領有権を、韓国は放棄する意思を持ったことはない」と主張します。しかし、某日本人は「17世紀に成立した現竹島の領有権は、その後の或る時期あいまいになったが、他国により占拠された形跡が認められなかったので、1905年に領有権の継続を確認した」と主張します。

游歴日本図経 & アメリカからの証言

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/20 08:43 投稿番号: [16471 / 18519]
尖閣の資料を探すと、少なからず竹島資料にぶち当たります。久しぶりに、「シリーズ・何やってんだ日本!」です。ところで、下記のドキュメント番組は非常に面白いので見て下さい。

零戦との闘い−アメリカからの証言
http://www.youtube.com/results?search_query=%E9%9B%B6%E6%88%A6%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%97%98%E3%81%84%EF%BC%8D%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80&search_type=

さて、掲題の件ですが、シリーズ・何やってんだ日本!『游歴日本図経』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/yuureki-1889/
島根県に竹島がありませんね。中国の文献にはこのような図が多いです。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka51/yuureki-1889/a17.jpg

http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/
(後日掲載予定)



next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『最近朝鮮事情要覧』
『Korea and Her Neighbours』
『游歴日本図経』(本日アップロード完了)
『大日本輿地図』
『韓国地理』
『大韓帝国石島上申書』


今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related
「スキージャンプ団体 感動の金メダル」
http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

Re: 6b)石島への観念的領有意思

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/04/19 22:54 投稿番号: [16470 / 18519]
>6-7   いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布
>前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島
>の領有権は確立していなかったと考えられます。

「バーチャル国際司法裁判所、石島は竹島ではないか」http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3500/1115388422/
というところで次のような投稿が出ています。

55 名前:sage 投稿日: 2005/10/21(金) 06:00:55
>>42

>だいたい国際司法裁判所で解決しようと働きかける側
>すなわち事実上の提訴者が
>それを拒む側の竹島支配のもとの主張たる「石島=トクト」
>の偽を立証できなくてどうするのか?
>提訴者が相手の主張の偽を立証するのが法廷のマナーです。

立証責任は誰が負担するかということが全然分かっていない。
権利根拠規定=権利の発生を定める規定の要件事実は、その権利を主張する者が証明責任を負う。
例で言うと、相続権を主張する者は自分が相続人であることを証明しなければ
ならないということです。つまり、石島=トクトがほぼ間違いないと裁判官を
納得させなければならないのは韓国のほうなのです。
石島=トクトを主張するのは勝手ですが、裁判官に対して「発音が同じだから
石島=トクトが証明できます。」ではまず相手にされないでしょう。中学生に
だって通用しませんね。さらに、韓国はクリッパートン島の如く、ごく接近し
て領有宣言を行ったわけでもありません。トクトがクリッパートン島のごとき
絶海の孤島なら話は違うのでしょうが、1900年以降も何ら実効支配を及ぼした
形跡はありません。クリッパートン島のように絶海の孤島なら領有宣言後の放
置も大目に見られる場合もあるでしょうが、トクトはそうではない。実効支配
を及ぼそうと思えばいくらでも出来たにもかかわらず朝鮮はそうはしなかった。
結局、1905年以降の日本の実効支配に対抗できるような領有権原を韓国は持っ
ていないという結論になります。

↑はtake8591さんと同様の結論だと思います。石島=独島が証明出来てもなお韓国は領有権原を持っていたとは言えないということです。
上記投稿後、石島が独島ではないという資料が見つかっていますから、韓国の主張はもうお話にならないということです。

木村文造著『朝鮮国全図』 & 李明博

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/19 22:53 投稿番号: [16469 / 18519]
李明博大統領が来日するということで歓迎しております。ハンナラ党の系譜を辿るとハンナラ党←新韓国党←民自党ですので、日本側としては大歓迎です。半月城さんは、「韓国の民自党は日本の自民党とずぶずぶの関係だった。しかも李明博は大阪生まれである。わが国の大統領は韓国で生まれ育った人物でなければならない。100%韓国人でなければならないのに、あいつはどこの国の大統領だ」と仰るかも知れませんが、私から言わせればとても良いことです。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/president_lee_myung_bak/

さて、掲題の件ですが、下記に木村文造著『朝鮮国全図』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chosenkoku-1882/

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/
(後日掲載予定)



next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『朝鮮国全図』(本日アップロード完了)
『最近朝鮮事情要覧』
『Korea and Her Neighbours』
『遊歴日本図経』
『大日本輿地図』
『韓国地理』


今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related
「スキージャンプ団体 感動の金メダル」
http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

韓国水産業調査報告 & 台湾南西諸島水

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/19 22:06 投稿番号: [16468 / 18519]
善光寺がスタート地点になることを断った途端、外電が続々と伝えています。
http://news.yahoo.com/s/ap/20080418/ap_on_re_as/japan_olympic_torch
今まで非仏教国を通過して、今日初めて仏教国のタイを通過しましたが、その数日前に善光寺辞退のニュースが海外に流れましたので、インパクトありました。特に下記のコメントが良かったです。

「善光寺は仏教、宗教の寺だ。(中国政府が)無差別殺人を行ったということもあるし、チベットの宗教者が立ち上がって、それに対して弾圧を行った。それはやはり憂慮するものであった」
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/torch_relay/

さて、掲題の件ですが、下記に『台湾南西諸島水路誌』と『韓国水産業調査報告』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/taiwannanseishoto-1941/
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/kankokusuisangyo-1904/

http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/
(後日掲載予定)



next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『朝鮮国全図』(木村文造)
『韓国水産業調査報告』(本日アップロード完了)
『台湾南西諸島水路誌』(本日アップロード完了)
『最近朝鮮事情要覧』
『Korea and Her Neighbours』
『遊歴日本図経』
『大日本輿地図』
『韓国地理』


今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related
「スキージャンプ団体 感動の金メダル」
http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

外務省パンフレットへの批判4、(3)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/19 16:12 投稿番号: [16466 / 18519]
   以下は余談です。
  『竹嶋之書付』などの鳥取藩関係資料は、日韓で竹島=独島論争が盛んだった 1954年ころは鳥取県立中央図書館に「秘蔵」されていました。それを当時、島根県広報文書課の田村清三郎が特別に借用したり、外務省条約局第1課の川上健三や東洋文庫の田川孝三らが特別に閲覧したので、かれら三人はその内容を十分に把握していました。
   その三人は日韓竹島=独島論争で大いに活躍した「竹島三羽ガラス」ですが、かれらは日本に不利と思われる史料の内容は決して公表しようとしませんでした。特に田村や川上は、公務員の悲しいサガとでも言うのでしょうか、目先の「利益」にとらわれ、真実を国民の前に明らかにしようという姿勢は皆無だったようでした。

   その後、島根県や鳥取県はそうした情報を公開しましたが、外務省は未だに情報隠しの伝統を大事にしているようです。それを今回のパンフレットにありありと見ることができます。
   外務省は限定的に公開した情報から「竹島は日本の固有領土」というキャッチフレーズを作りだしましたが、因果応報なことに、今ではそれが自縄自縛になり、竹島=独島を版図外とした太政官指令のような重要事件に関してまったく見解を示せないという苦境に陥っているようです。
   かつての外務省は情報隠しにより、韓国政府とのディベートで一時的に優位に立ちましたが、歳月を経るうちに研究も進み、昔のキャッチフレーズが今や外務省のアキレス腱になってしまったようです。

   ちなみに、竹島三羽ガラスの主な役割分担は次のようなものでした。
田村清三郎:   鳥取藩の古文書や、竹島=独島渡海関係など島根県関係資料調査
川上健三:    江戸幕府や明治政府関係などの資料調査、大谷家古文書の調査
田川孝三:    朝鮮史書を始めとした文献調査

   田村や川上は公務員なので近視眼的な資料隠しは予想できるのですが、学者肌の田川までもが田川や田村と同様の資料隠しをおこなったようです。その一端はすでに書いたように、彼の于山島認識に見ることができます(注2)。
   現在、彼の著書『李朝貢納制の研究』は古本屋で3万円以上の値がついていますが、そのような業績も、なまじっか日韓両政府の竹島=独島論争に首を突っこんだばっかりにかすんで見えます。

   竹島三羽ガラスにより秘蔵されてきた情報は、80年代になって徐々に明るみに出されました。1985年、国会図書館の塚本孝氏により『竹嶋之書付』が翻刻されたのに続いて(注3)、1987年には京都大学の堀和生教授により太政官の版図外指令などの重要史料が発掘され、竹島=独島問題に画期をもたらしました(注4)。
   その後、鳥取藩や島根県の郷土史料が島根大学の内藤正中教授により全般的に解読されたのに続き(注5)、対馬藩の『竹島紀事』は2004年になって名古屋大学の池内敏教授により後半を中心に翻刻されました(注6)。

   以上、メルクマール的な史料の学術研究をざっと見ましたが、研究が進むにつれ、外務省の立場はますます不利になるばかりのようです。

(注1)『御用人日記』5月21日条、および『竹嶋之書付』
(注2)半月城通信<安龍福が見た于山島はチクトウ(竹島)?   下條氏への批判>
  http://www.han.org/a/half-moon/hm128.html#No.947
(注3)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図」『レファレンス』411号,1985,P75
(注4)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
(注5)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』2000、多賀書店
(注6)池内敏『竹島一件の歴史学的研究』科学研究費成果報告書、2004

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

外務省パンフレットへの批判4、(2)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/19 15:51 投稿番号: [16465 / 18519]
   対馬藩はその書簡に満足せず、あくまで竹島(欝陵島)の完全領有を狙い、朝鮮の書簡から「弊境の欝陵島」を削除するよう強く求めました。
   無理難題を突きつけられた朝鮮政府は、あらためて安龍福を取調べ、その供述から対馬藩の計略を感じとり、一転して強硬姿勢に転じました。結局、竹島と欝陵島は同一の島で朝鮮領であるとする強硬な書簡を対馬藩へ渡し、同藩の要求をつっぱねました。当然のごとく、対馬藩との交渉は暗礁に乗りあげました。

   外務省のパンフレットは、日本の要求が途方もない無理難題であったことを伏せ、日本は「友好関係を尊重」したので朝鮮に全面譲歩したかのように装い、こう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   外務省は、幕府が渡航を禁止した真の理由を無視しているようです。実は、幕府は竹島(欝陵島)の調査をおこなった結果、日本の要求が無理であったことを悟ったので日本人の竹島渡海禁止を決定したのでした。その概略はこうでした。
   1696年1月(元禄8年12月!)、老中・阿部豊後守は、竹島に関する調査のために、鳥取藩へ7か条の質問をおこないました。この時に3年前の勘定奉行による調査を知らなかったのか、似たような質問をしました。
   その第1条を口語訳にすると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころから両国の付属か?・・・」となります。老中は、竹島が因幡・伯耆の両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。

   しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。
   幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の他に両国へ付属する島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。

   この時、幕府は実は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が新たに登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。その質問書は発見されていませんが、その質問に対する鳥取藩の回答書が『竹嶋之書付』に残されました。
   それによれば、鳥取藩は「松島はいずれの国へ付属する島ではないと承知しています」「竹島へ渡海の節、通り道なので立ち寄って猟をおこないました」などと回答しました。
   このように、幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったので、同島に対する領有意識がなかったことはいうまでもありません。しかるに、外務省のパンフレットはこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   日本が竹島=独島を「自国の領土」と考えていなかったのは『竹嶋之書付』から明白なのに、その史実を無視した外務省のパンフレットは白々しさを通り越しているようです。
   また、竹島がいずれの国にも属さないので渡海が禁止されたのであるから、同じくいずれの国に属さない松島も暗黙裏に渡海が禁止されたと解釈すべきです。この点、外務省のパンフレットは我田引水が過ぎるようです。
(つづく)

外務省パンフレットへの批判4、(1)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/19 15:50 投稿番号: [16464 / 18519]
4.幕府の渡海禁止令

   1693(元禄6)年、大谷家の渡海船が竹島(欝陵島)で安龍福と朴於屯のふたりを拉致したことをきっかけに、日本と朝鮮の間で同島をめぐる領有権交渉「竹島一件」が始まりました。この交渉について外務省のパンフレットはこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であった。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るに至りませんでした。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   意見の対立は当然でした。そもそも幕府の命令は当初から無理なものでした。その命令に対し、対馬藩ではすぐに疑問の声があがったくらいでした。前藩主である天龍院(宗義真)は幕府の真意をいぶかって、次のような疑義を提起しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   竹島の儀は磯竹島ともいう。先年、大献大君(徳川家光)の時代、その島へ磯竹弥左衛門、仁左衛門(ママ)と申す者が居住していたのを召し捕えて差し出されるようにと(公儀から)光雲院公(宗義成)へ仰せつけられ、すなわち此方より召し捕られて差し出したことがあった。
   しからば、竹島の儀は日本の伯耆にある島と公儀でお考えならば、伯耆藩主のほうで弥左衛門・仁左衛門を召し捕えて差し出されるようにと仰せつけられるはずであるのに、当国へ仰せつけられたのは、朝鮮の竹島とお考えであると見られる。
   この次第を一応、公儀へ伺うことを考慮するよう留意して、朝鮮へ申し入れるべきである(『竹島紀事』9月4日)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   天龍院の疑問はもっともなことでした。かれは、朝鮮とのいきさつから竹島(欝陵島)が朝鮮領であることを熟知していたので、幕府が潜商事件の弥左衛門親子を捕える仕事を鳥取藩でなく対馬藩へ命じたのは、幕府も同島を朝鮮領と考えているからではないかと疑っていたのでした。
   しかし、この時の藩論は、幕府の公命には背けないので、幕府へ事情を正すようなまねはできないという結論でした。その結果、対馬藩は幕府の真意がわからないまま、朝鮮領である竹島(欝陵島)へ朝鮮人が来ないように要求するという無理難題を朝鮮へふっかけることになりました。

   一方、幕府内では潜商事件が忘れ去られていたのか、あるいは組織の問題で受け継がれなかったのか、幕府は竹島(欝陵島)について改めて調査を始めました。1693年5月21日、勘定奉行の松平美濃守は江戸の鳥取藩邸へ竹島渡海に関する質問をおこないました。
   これに対して鳥取藩は、竹島は鳥取藩の支配地でないと明言し、「竹島は離れ島にて人の居住はありません。もっとも、伯耆守が支配する所でもありません」と回答しました(注1) 。
   この回答書により、幕府は竹島(欝陵島)が鳥取藩領でない、ひいては日本領でないことを悟ったのですが、そうかといって、対馬藩へ出した命令を取り下げたりはしませんでした。察するに、朝令暮改で幕府の威信に傷がつくことを懸念したのでしょうか。

   他方、対馬藩の要求を突きつけられた朝鮮政府は、欝陵島が官撰書『東国輿地勝覧』などに記載されていることから、同島の領有を確信していました。しかし、日本との摩擦を避けるため、一時的に宥和政策をとって交渉に臨みました。
   朝鮮政府は、欝陵島が日本でいう竹島であることを知りながら、欝陵島と竹島をあたかも別の島であるかのように扱い、形式上で朝鮮人の竹島への渡航禁止という日本の要求を受けいれました。その一方で「弊境の欝陵島」という原則的な立場は堅持し続けて対馬藩へ書簡をしたためました。
(つづく)

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: gp01_zephy 投稿日時: 2008/04/19 15:16 投稿番号: [16463 / 18519]
>逆に質問するが、対馬島が日本地であると証明する必要があるか?<
1.質問を質問で返さないでください。
2.論点をずらさないでください。

まぁ、アホな質問ですが、返答しておきましょうか。
係争対象になれば対馬も日本領と証明する必要があります。
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