外務省パンフレットへの批判5、(1)
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/22 20:55 投稿番号: [16488 / 18519]
5.安龍福の渡日事件
外務省のパンフレットは、韓国で英雄とされる安龍福の拉致事件(第1次渡日)について、こう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。
しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません・・・
その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここでも外務省は「韓国側」という曖昧な用語を使用していますが、韓国政府の公式書簡に「安龍福は・・・竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得た」などとする主張は痕跡もありません(注1)。外務省は韓国政府の公式見解をまったく確認せず、またもや幻の主張に振りまわされているようです。
韓国政府がそのような主張をしなかったのは当然です。安龍福と同時代の歴史を記した最も重要な官撰史書『粛宗実録』によれば、朝廷は安龍福がもらったという「書契」なるものを疑問視していたのでした。同書は、朝鮮側の「欝陵島争界」第二次交渉責任者である兪集一の見解をこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
近年、臣が東莱にて使者を務めた時に安龍福を尋問したところ、言うには「伯耆州でもらった銀貨と文書を対馬島の人が奪った」としたが、今回、彼が伯耆州に呈文したことでは「対馬島の人が2千金で私を贖って本国へ送ると嘘をつき、その銀は本国で受けるとした」としたが、前後の話がとても食いちがっている。また対馬島の人は元々銀で贖うことがなく、壬戌約條も秘密なのに、安龍福がどうやって聞くことができるだろうか?
また、倭人は皆 竹島が伯耆州の食邑としているのに、安龍福が一度話したからといって、朝鮮領とすぐには言わないだろうし、安龍福の呈文では欝陵島は本国の地であると何度も述べたが、倭人と問答した文書や安龍福を送るとした文書には一切ふれられていない。このような事情はとても疑わしいので、再び調査して実情がわかった後に罪を論じるのが適当である(粛宗22(1696)年10月23日条)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この意見はもっともです。突然拉致された、外交使節でもない一漁夫が連行された先でいくら竹島(欝陵島)は朝鮮の領土だと主張したところで、まともに取りあってもらえないことは誰しも考えそうなことです。
朝鮮で第1次交渉責任者であった洪重夏も安龍福の話をまったく信用しませんでした。さらに、当時の最高権力者である領府事の南九萬も同様であり、こう述べました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
安龍福が癸酉(1693)年に欝陵島へ行ったが、倭人に捕まり、伯耆州に入ったところ、本州で欝陵島は永久に朝鮮に属するとする公文を作ってやり、贈り物も多かったが、対馬島を経て来る途中で公文と贈り物をすべて対馬島の人に奪われたというが、その話を必ずしも信じられると感じはしなかった(粛宗22(1696)年10月13日条)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このように少なくとも『粛宗実録』は安龍福の供述をそのまま載せても、それをそのまま真実と受けとめたのではなく、その真偽を見きわめた経過なども記したのでした。
といっても、朝廷はかれの供述を完全に検証できるわけではありません。事件の舞台がほとんど日本だったので、検証には限界があります。真偽の見きわめが困難な供述に対して『粛宗実録』はコメントも加えずにそのまま載せました。そのような記事は単なる参考程度の意味しかありません。
したがって、私人である安龍福個人がどのような発言をしようが、それ自体だけではあまり意味がありません。その発言が当時の社会や後世にどう影響したのかが重要です。
そうした基本的なことを素通りして、外務省のパンフレットは、当時の朝廷から虚偽とされた安龍福の上記の供述を特筆大書しましたが本末転倒です。そもそも、外務省は『粛宗実録』をきちんと読んだのでしょうか? 素朴な疑問がわきます。
(つづく)
外務省のパンフレットは、韓国で英雄とされる安龍福の拉致事件(第1次渡日)について、こう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。
しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません・・・
その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここでも外務省は「韓国側」という曖昧な用語を使用していますが、韓国政府の公式書簡に「安龍福は・・・竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得た」などとする主張は痕跡もありません(注1)。外務省は韓国政府の公式見解をまったく確認せず、またもや幻の主張に振りまわされているようです。
韓国政府がそのような主張をしなかったのは当然です。安龍福と同時代の歴史を記した最も重要な官撰史書『粛宗実録』によれば、朝廷は安龍福がもらったという「書契」なるものを疑問視していたのでした。同書は、朝鮮側の「欝陵島争界」第二次交渉責任者である兪集一の見解をこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
近年、臣が東莱にて使者を務めた時に安龍福を尋問したところ、言うには「伯耆州でもらった銀貨と文書を対馬島の人が奪った」としたが、今回、彼が伯耆州に呈文したことでは「対馬島の人が2千金で私を贖って本国へ送ると嘘をつき、その銀は本国で受けるとした」としたが、前後の話がとても食いちがっている。また対馬島の人は元々銀で贖うことがなく、壬戌約條も秘密なのに、安龍福がどうやって聞くことができるだろうか?
また、倭人は皆 竹島が伯耆州の食邑としているのに、安龍福が一度話したからといって、朝鮮領とすぐには言わないだろうし、安龍福の呈文では欝陵島は本国の地であると何度も述べたが、倭人と問答した文書や安龍福を送るとした文書には一切ふれられていない。このような事情はとても疑わしいので、再び調査して実情がわかった後に罪を論じるのが適当である(粛宗22(1696)年10月23日条)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この意見はもっともです。突然拉致された、外交使節でもない一漁夫が連行された先でいくら竹島(欝陵島)は朝鮮の領土だと主張したところで、まともに取りあってもらえないことは誰しも考えそうなことです。
朝鮮で第1次交渉責任者であった洪重夏も安龍福の話をまったく信用しませんでした。さらに、当時の最高権力者である領府事の南九萬も同様であり、こう述べました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
安龍福が癸酉(1693)年に欝陵島へ行ったが、倭人に捕まり、伯耆州に入ったところ、本州で欝陵島は永久に朝鮮に属するとする公文を作ってやり、贈り物も多かったが、対馬島を経て来る途中で公文と贈り物をすべて対馬島の人に奪われたというが、その話を必ずしも信じられると感じはしなかった(粛宗22(1696)年10月13日条)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このように少なくとも『粛宗実録』は安龍福の供述をそのまま載せても、それをそのまま真実と受けとめたのではなく、その真偽を見きわめた経過なども記したのでした。
といっても、朝廷はかれの供述を完全に検証できるわけではありません。事件の舞台がほとんど日本だったので、検証には限界があります。真偽の見きわめが困難な供述に対して『粛宗実録』はコメントも加えずにそのまま載せました。そのような記事は単なる参考程度の意味しかありません。
したがって、私人である安龍福個人がどのような発言をしようが、それ自体だけではあまり意味がありません。その発言が当時の社会や後世にどう影響したのかが重要です。
そうした基本的なことを素通りして、外務省のパンフレットは、当時の朝廷から虚偽とされた安龍福の上記の供述を特筆大書しましたが本末転倒です。そもそも、外務省は『粛宗実録』をきちんと読んだのでしょうか? 素朴な疑問がわきます。
(つづく)
これは メッセージ 16464 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16488.html