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re2)1656 - 柳馨遠 『輿地志』

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 15:56 投稿番号: [16501 / 18519]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/02/1656.html
に次のとおりです。

Friday, February 22, 2008
1656 - 柳馨遠 『輿地志』 (「東国興地志」巻之七 江原道 蔚珍)


   柳馨遠(1622〜1673)は、朝鮮王朝、顕宗王の時の実学者で、1656年に全国地理の本である「東國輿地志」を編纂しました。(ソウル大学奎章閣サイト・韓国語 )


   韓国側は「東国文献備考・與地考」(1770)や「萬機要覧」(1808)に「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う引用がある事を挙げ、安龍福の渡航や日本よりも古い文献に倭の松島(現在の竹島)が于山島だと認識していたという論拠としてきました。この本は長く遺失されたとされてきましたが、2006年に済州大学の呉相学氏によって確認された「東国興地志」には下記のように書かれており、実際は従来からの日本側の主張のように、「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は無かったことが明らかになりました。

   「于山島鬱陵島   一云武陵   一云羽陵   二島在県正東海中   三峯及業掌空南峯梢卑   風日清明則峯頭樹木   及山根沙渚   歴々可見   風便則二日可到   一説干山   鬱陵   本一島   地方百里」

   ちなみにこれは「新増東国輿地勝覧」 の記録をそのまま引用していることが分かります。

   「于山島鬱陵島   一云武陵   一云羽陵   二島在県正東海中   三峯及業掌空南峯梢卑   風日清明則峯頭樹木   及山根沙渚   歴々可見   風便則二日可到   一説干山   鬱陵   本一島   地方百里」

   安龍福の竹島一件の後、安の証言である「于山は即ち倭の所謂松島なり」という言葉が「輿地志」に書かれてあったと言う、誤った記述が、1700年以降の「東国文献備考」や「萬機要覧」を始めとする朝鮮の書物に登場するようになり、韓国側もこれらの文献をを根拠に于山島が竹島・独島(倭の松島)であると主張します。しかし、以下のように文献を年代にそって並べると、申景濬が1756年の「疆界誌」の中で輿地志の記録の後に“所謂松島 ”と言う自説を追記していること、1770年の「東国文献備考・與地考」でそれを「輿地志」の記述であるかのように書き変えている事が明確に分かります。以降に編纂された「萬機要覧」 「増補文献備考 輿地考」は、原著である「輿地志」からではなく、「東国文献備考・與地考」からの孫引きで引用している為、この誤記が受け継がれていったようです。

  1756 - 申景濬「疆界誌」『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島
     「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島
      而考諸圖志二島也 一則其所謂松島
      而蓋二島 倶是于山國也」

  1770 - 申景濬・洪啓禧   「東国文献備考・與地考」  
     「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」

  1808 - 「萬機要覧 軍政篇 (1937 朝鮮総督府)」
     「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也.」

  1908 - 李萬運「増補文献備考 輿地考」
     「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也」

   このように流れを追っていくと、申景濬が「東国文献備考・與地考」を編纂する際に、自分の意見をあたかも輿地志からの引用であるかの如く改竄している事が分かります。、誤記であることが明らかな文献を根拠として領土の根拠として主張することは、愚かであると言わざるを得ないのです。
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