竹島

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外務省パンフレットへの批判4、(2)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/19 15:51 投稿番号: [16465 / 18519]
   対馬藩はその書簡に満足せず、あくまで竹島(欝陵島)の完全領有を狙い、朝鮮の書簡から「弊境の欝陵島」を削除するよう強く求めました。
   無理難題を突きつけられた朝鮮政府は、あらためて安龍福を取調べ、その供述から対馬藩の計略を感じとり、一転して強硬姿勢に転じました。結局、竹島と欝陵島は同一の島で朝鮮領であるとする強硬な書簡を対馬藩へ渡し、同藩の要求をつっぱねました。当然のごとく、対馬藩との交渉は暗礁に乗りあげました。

   外務省のパンフレットは、日本の要求が途方もない無理難題であったことを伏せ、日本は「友好関係を尊重」したので朝鮮に全面譲歩したかのように装い、こう記しました。
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   対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
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   外務省は、幕府が渡航を禁止した真の理由を無視しているようです。実は、幕府は竹島(欝陵島)の調査をおこなった結果、日本の要求が無理であったことを悟ったので日本人の竹島渡海禁止を決定したのでした。その概略はこうでした。
   1696年1月(元禄8年12月!)、老中・阿部豊後守は、竹島に関する調査のために、鳥取藩へ7か条の質問をおこないました。この時に3年前の勘定奉行による調査を知らなかったのか、似たような質問をしました。
   その第1条を口語訳にすると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころから両国の付属か?・・・」となります。老中は、竹島が因幡・伯耆の両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。

   しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。
   幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の他に両国へ付属する島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。

   この時、幕府は実は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が新たに登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。その質問書は発見されていませんが、その質問に対する鳥取藩の回答書が『竹嶋之書付』に残されました。
   それによれば、鳥取藩は「松島はいずれの国へ付属する島ではないと承知しています」「竹島へ渡海の節、通り道なので立ち寄って猟をおこないました」などと回答しました。
   このように、幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったので、同島に対する領有意識がなかったことはいうまでもありません。しかるに、外務省のパンフレットはこう記しました。
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   その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
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   日本が竹島=独島を「自国の領土」と考えていなかったのは『竹嶋之書付』から明白なのに、その史実を無視した外務省のパンフレットは白々しさを通り越しているようです。
   また、竹島がいずれの国にも属さないので渡海が禁止されたのであるから、同じくいずれの国に属さない松島も暗黙裏に渡海が禁止されたと解釈すべきです。この点、外務省のパンフレットは我田引水が過ぎるようです。
(つづく)
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