re4)竹島一件の決着
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/25 08:04 投稿番号: [16497 / 18519]
独島に対する日本の領有権主張が誤りである理由(独島学会編)
http://toron.chu.jp/take/krobject/dokdoob.html
4、1696年1月に日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとあらためて確認しこれを決定した。この事実は外交文書化され、朝鮮と交換された。
江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。同時に対馬藩主に、刑部大輔を朝鮮に派遣しこの再確認と決定を朝鮮に知らせ、またその外交交渉結果を幕府に報告するよう命じた。
対馬藩主は江戸から国へ戻り、この外交手続を開始した。
朝鮮の礼曹参議・李善溥(イ・ソンブ)と対馬の刑部大輔・平善真の間で外交文書のやりとりが2度行われた後の1699年1月、日本から朝鮮に、朝鮮からの返書を幕府将軍に確かに届けたという最終確認の公式書簡が送られ、外交手続は全て終結した。
こうして対馬藩主が長崎奉行と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪おうとして始まった鬱陵島・独島をめぐる争いは、1696年(粛宗22年)1月に終結した。
鬱陵島・独島が朝鮮の領土であり、日本の漁夫らの越境・漁業を禁止することを幕府将軍があらためて確認・決定しており、これに関する外交文書のやりとりも1699年1月に最終的にすべて終了している。
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上記の「江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。」とする文書は、
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg
にあります。たぶん、次の様な内容が書かれています。(*1)
先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
具体的事実に依拠して答えた。
本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
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これは、「訳官へ達書」とされる文書です。この内容は、1696年10月16日、対馬島で朝鮮官僚に、口頭又は文書で通達されました。朝鮮官僚がソウルに帰還したのは翌年1月10日です。
当時の徳川幕府は、竹島=鬱陵島と松島=リャンコ島を、別個の島として完全に認識していました。その上で、本決定が「竹島=鬱陵島」に関わることであると明瞭にしています。
幕府は、(竹島には)「永久に入住・漁採を許さない様にした」のです。当然、松島=リャンコ島には、入住・漁採を継続する意思が込められています。
1695年、対馬藩は4箇条を列挙して竹島の領有を主張しました。この様な合理的な理由を排除して非合理な決定をした理由として、上記は3点を掲げています。
1 本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
2 両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
3 偏った欲を篤くして、小さな島に拘らない。
結局、徳川幕府が選択したのは、道理ではなく、朝鮮との友好関係でした。
(*1) 先太守 因竹島事遣使 於貴国者 両度使事
未了 不幸早世 由是召還使人
不日上船入 覲之時 問及 竹島地状方向
拠実具対 因以
其去 本邦太遠 而去 貴国却近
恐両地人 ●雑 必有 潜通私市等弊
隨即下令 永不許入往漁採
夫隙生於細徴 禍患興於下賎 古今通病
慮寧勿預 是以百年之好
偏欲彌篤 而一島之微拠付不較 豈非 両邦之美事乎
http://toron.chu.jp/take/krobject/dokdoob.html
4、1696年1月に日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとあらためて確認しこれを決定した。この事実は外交文書化され、朝鮮と交換された。
江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。同時に対馬藩主に、刑部大輔を朝鮮に派遣しこの再確認と決定を朝鮮に知らせ、またその外交交渉結果を幕府に報告するよう命じた。
対馬藩主は江戸から国へ戻り、この外交手続を開始した。
朝鮮の礼曹参議・李善溥(イ・ソンブ)と対馬の刑部大輔・平善真の間で外交文書のやりとりが2度行われた後の1699年1月、日本から朝鮮に、朝鮮からの返書を幕府将軍に確かに届けたという最終確認の公式書簡が送られ、外交手続は全て終結した。
こうして対馬藩主が長崎奉行と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を奪おうとして始まった鬱陵島・独島をめぐる争いは、1696年(粛宗22年)1月に終結した。
鬱陵島・独島が朝鮮の領土であり、日本の漁夫らの越境・漁業を禁止することを幕府将軍があらためて確認・決定しており、これに関する外交文書のやりとりも1699年1月に最終的にすべて終了している。
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上記の「江戸幕府は1696年1月28日、鬱陵島・独島を朝鮮領であることをあらためて確認し、日本の漁夫による鬱陵島・独島への出漁を禁止することを決定した。」とする文書は、
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg
にあります。たぶん、次の様な内容が書かれています。(*1)
先の太守が、竹島の事で、貴国に両度使者を遣わした。
しかし、その仕事が未了の内に不幸にして早世したので、使者を召還した。
不日に上京し(将軍の)謁を得た。この時、竹島の地状と方向を問われた。
具体的事実に依拠して答えた。
本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
恐らくは、両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
即座に令を下し、永久に入住・漁採を許さない様にした。
それ隙は細美において生ずる。禍患は下賎において興る。これが古今の通病である。
預かじめ定めておくが安らかと考える。之を以って100年の友好とする。
偏った欲を篤くして、小さな島に拘らないことが、両国にとって美事である。
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これは、「訳官へ達書」とされる文書です。この内容は、1696年10月16日、対馬島で朝鮮官僚に、口頭又は文書で通達されました。朝鮮官僚がソウルに帰還したのは翌年1月10日です。
当時の徳川幕府は、竹島=鬱陵島と松島=リャンコ島を、別個の島として完全に認識していました。その上で、本決定が「竹島=鬱陵島」に関わることであると明瞭にしています。
幕府は、(竹島には)「永久に入住・漁採を許さない様にした」のです。当然、松島=リャンコ島には、入住・漁採を継続する意思が込められています。
1695年、対馬藩は4箇条を列挙して竹島の領有を主張しました。この様な合理的な理由を排除して非合理な決定をした理由として、上記は3点を掲げています。
1 本邦からの距離が甚だしく遠く、貴国からの距離は到って近い。
2 両国人をこのまま放置すれば、潜通・私市等の弊害が必ずある。
3 偏った欲を篤くして、小さな島に拘らない。
結局、徳川幕府が選択したのは、道理ではなく、朝鮮との友好関係でした。
(*1) 先太守 因竹島事遣使 於貴国者 両度使事
未了 不幸早世 由是召還使人
不日上船入 覲之時 問及 竹島地状方向
拠実具対 因以
其去 本邦太遠 而去 貴国却近
恐両地人 ●雑 必有 潜通私市等弊
隨即下令 永不許入往漁採
夫隙生於細徴 禍患興於下賎 古今通病
慮寧勿預 是以百年之好
偏欲彌篤 而一島之微拠付不較 豈非 両邦之美事乎
これは メッセージ 16425 (take_8591 さん)への返信です.
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