外務省パンフレットへの批判3、(1)
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/16 21:08 投稿番号: [16446 / 18519]
3.(江戸時代の領有権)
外務省曰「日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、
遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」
外務省の「竹島」パンフレットは日本が17世紀半ばに「竹島の領有権」を確立した根拠として、大谷・村川両家が竹島=独島を下記のように利用したと記しました。
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隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
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驚いたことに、パンフレットで外務省のいう根拠はこれがすべてです。一体、以前の公式見解はどうなったのでしょうか? かつての外務省は下記のように主張していました。
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欝陵島への往復の途次、船がかりの地として、またアワビ等の魚採地として利用されていたのが当時松島の名でよばれていた今日の竹島であり、この島に対して大谷、村川両家が、さきの鬱陵島と同じく幕府から渡海免許を受けるようになったのは、明暦2年(1656年)またはそれ以降のことであった。
・・・
『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の西北の限界と見ている(注1)。
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もし、かつての外務省がいうように、大谷・村川両家が幕府から「松島渡海免許」を受けていたのなら、幕府は竹島=独島に領土意識をもっていたことになり、領有の有力な根拠になります。
また 1667年当時、隠岐国を管轄する雲州松江藩の命により編纂された『隠州視聴合紀』に竹島・松島が日本の西北の限界であると書かれていたのなら、これも竹島=独島に対する領有の強力な根拠になります。
しかし、なぜかパンフレットはそうした有力な「根拠」を満載した過去の主張には一切ふれませんでした。特に『隠州視聴合紀』の解釈に関していえば、その解釈をめぐって韓国政府から日本の西北の限界は隠岐であるとの指摘を受けたにもかかわらず、それに対する反論がないばかりか、その後も『隠州視聴合紀』に関して沈黙したままでした。
これは韓国政府がいうように、やはり日本の西北の限界を竹島・松島とするのは無理だと判明したからではないでしょうか。『隠州視聴合紀』で竹島(欝陵島)は御朱印を受けた船が行く場所と認識されていたのでした。
外務省に追いうちをかけるように、池内敏氏は日本の西北の限界は竹島・松島でなく、隠岐島であることを論証しました(注2)。また、『隠州視聴合紀』を徹底分析した大西俊輝氏も同様の論証をしました(注3)。
他方、外務省が「松島渡海免許」についても沈黙しているのは、やはりその主張も無理だと判断したからではないでしょうか。国会図書館の塚本孝氏も渡海免許は「恐らく出されなかった」と記しました(注4)。下條正男氏ですら「松島渡海免許」を主張していないようです。
日本におけるこのような研究の結果、外務省のかつての主張は音もなく崩れさったようです。それは砂上の楼閣のような存在でした。その結果、外務省はパンフレットに書かれていることくらいしか領有権の根拠を見出せないようですが、それが不十分であることは明らかです。
外務省曰「日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、
遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」
外務省の「竹島」パンフレットは日本が17世紀半ばに「竹島の領有権」を確立した根拠として、大谷・村川両家が竹島=独島を下記のように利用したと記しました。
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隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
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驚いたことに、パンフレットで外務省のいう根拠はこれがすべてです。一体、以前の公式見解はどうなったのでしょうか? かつての外務省は下記のように主張していました。
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欝陵島への往復の途次、船がかりの地として、またアワビ等の魚採地として利用されていたのが当時松島の名でよばれていた今日の竹島であり、この島に対して大谷、村川両家が、さきの鬱陵島と同じく幕府から渡海免許を受けるようになったのは、明暦2年(1656年)またはそれ以降のことであった。
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『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の西北の限界と見ている(注1)。
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もし、かつての外務省がいうように、大谷・村川両家が幕府から「松島渡海免許」を受けていたのなら、幕府は竹島=独島に領土意識をもっていたことになり、領有の有力な根拠になります。
また 1667年当時、隠岐国を管轄する雲州松江藩の命により編纂された『隠州視聴合紀』に竹島・松島が日本の西北の限界であると書かれていたのなら、これも竹島=独島に対する領有の強力な根拠になります。
しかし、なぜかパンフレットはそうした有力な「根拠」を満載した過去の主張には一切ふれませんでした。特に『隠州視聴合紀』の解釈に関していえば、その解釈をめぐって韓国政府から日本の西北の限界は隠岐であるとの指摘を受けたにもかかわらず、それに対する反論がないばかりか、その後も『隠州視聴合紀』に関して沈黙したままでした。
これは韓国政府がいうように、やはり日本の西北の限界を竹島・松島とするのは無理だと判明したからではないでしょうか。『隠州視聴合紀』で竹島(欝陵島)は御朱印を受けた船が行く場所と認識されていたのでした。
外務省に追いうちをかけるように、池内敏氏は日本の西北の限界は竹島・松島でなく、隠岐島であることを論証しました(注2)。また、『隠州視聴合紀』を徹底分析した大西俊輝氏も同様の論証をしました(注3)。
他方、外務省が「松島渡海免許」についても沈黙しているのは、やはりその主張も無理だと判断したからではないでしょうか。国会図書館の塚本孝氏も渡海免許は「恐らく出されなかった」と記しました(注4)。下條正男氏ですら「松島渡海免許」を主張していないようです。
日本におけるこのような研究の結果、外務省のかつての主張は音もなく崩れさったようです。それは砂上の楼閣のような存在でした。その結果、外務省はパンフレットに書かれていることくらいしか領有権の根拠を見出せないようですが、それが不十分であることは明らかです。
これは メッセージ 16409 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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