韓カテ資料室

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Re: 教科書フォーラムの教科書哲学

投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/12/01 15:22 投稿番号: [403 / 1474]
一応、こちらにも・・・

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/12/01/20061201000012.html

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/12/01/20061201000013.html

Re: 教科書フォーラムの教科書哲学

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/12/01 15:18 投稿番号: [402 / 1474]
chaamieyさん。

「ニューライトが教科書案公開」は流血の惨事になっているようです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0 bel&sid=1835396&mid=4707
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1794718

ニューライトのサイトで発表等がありましたら、よろしくお願いします。
また、意見がありましたら、「初心者」トピにもよろしくお願いします。

大怪獣サマのお仕事

投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/12/01 10:19 投稿番号: [401 / 1474]
400番到達、おめでとさんです。

それに相応しい(?)話題です。↓

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=kl4z9qa1a6fndabaafa5aba5fmq8lbd8 &sid=1835396&mid=571

Re: 大東亜戦争後の日本国内朝鮮人暴挙

投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2006/11/30 10:39 投稿番号: [400 / 1474]
韓国・朝鮮問題に目覚めた人が最初にぶつかる大きな疑問ですが答えは簡単です。恐ろしいことに我が国では公然と言論弾圧が行われているからです。言論弾圧といえば普通は国家権力が行い言論機関が抵抗するものですが、我が国においては大手マスコミなど言論機関がみずから言論弾圧を行っています。嘘でも冗談でも誇張でもなく本当のことです。金正日が拉致を認めて以来ようやく韓国・朝鮮批判が多少できるようになりましたがそれまでは発行部数の少ない弱小出版社の出版物以外で韓国・朝鮮を批判する意見を公表することはほぼ不可能でした。最近では検閲が難しいインターネットの普及によって多くの人が比較的自由に意見を公表できるようになりましたが、ヤフー掲示板では管理者がときおり投稿を強制削除する言論弾圧が見られます。(ヤフー掲示板では法○功弾圧など中○の暗部を告発する投稿が削除されやすいようです)

一服汁 「朝鮮人の子供」

投稿者: licky_etozero 投稿日時: 2006/11/30 09:57 投稿番号: [399 / 1474]
イブリガッコ(燻大根)のアバターを見ていて思いだしたので
ホンキトンムに無理をお願いして投稿して頂いたものです

併合下の朝鮮人の習俗が判ります

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=5jccbcbca1v0lifebdaa1w&sid=1835396&mid=11296

大東亜戦争後の日本国内朝鮮人暴挙

投稿者: innsjp 投稿日時: 2006/11/30 09:55 投稿番号: [398 / 1474]
  マスコミは   なぜ大戦後の日本国内朝鮮人暴挙に付いての特集を組んだり報道したりしないのでしょうか。
  戦後、国内朝鮮人が暴挙、略奪、非道を繰り返し、多くの日本人が被害にあったことを口伝に聞いたことは何度か有ります。   しかし、新聞とかテレビでそのことが特集されたり、朝鮮人強制連行と比較議論されたものを見たり聞いたりしたことがありません。   なぜですか。

女性トピより 平和に暮らす朝鮮の人々

投稿者: justina_eto 投稿日時: 2006/11/30 09:08 投稿番号: [397 / 1474]
怒論破さん投稿の
涙無くして見られない   悲しい写真集です

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=bdwc0ada4na4bfa4aa4nffc4z5doc0be l&sid=1835396&mid=35588

教科書フォーラムの教科書哲学

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/11/29 22:12 投稿番号: [396 / 1474]
   歴史を新しく作ることはできない。歴史とは、我々が生きてきた足跡だからだ。しかし誤って書かれた歴史は、書き直さなければならない。これが「教科書フォーラム」創立の動機である。
  「教科書フォーラム」は、韓国の過去を美化もせず、卑下もしない。右寄りでもなく、左寄りでもない。ただあるがままに、我々が生きてきた過去を、清い鏡に映し出すように正直に見たい。それこそ「教科書フォーラム」が目指す教科書哲学なのだ。

  「教科書フォーラム」では今後も、韓国の近現代史と関連した各種教科書を分析批判し、代案を提示していく。11月末にシンポジウムを開催し、その後約1年をかけて新しい代案教科書を執筆し、大衆書籍として発刊する予定だ。韓国の若い世代に植え付けられた「罪深い国に生まれてしまった。」という根拠のない原罪意識を払拭するまで、「教科書フォーラム」は活動を続けるつもりだ。







SAPIO(平成18年12月13日号)掲載、「教科書フォーラム」常任共同代表   朴孝鐘(パク・ヒョジョン)ソウル大学国民倫理教育科教授の寄稿「韓国でも自虐史観に囚われない新しい教科書づくりが始まった!   戦後否定、北朝鮮礼賛の教科書を是正しなければ子供たちの未来が危うい」より抜粋。

Re: 面白うてやがて悲しき太極旗かな

投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2006/11/29 00:31 投稿番号: [395 / 1474]
これはおもしろい分析ですね。

いちおう反論を試みてみましょうか。
もともとの太極から、陽の「―」と陰の「 -- 」が生まれます。これを「両儀」と言います。
それで、「―」がさらに「―」と「 -- 」に分裂すると「=」と「―・ -- 」となり、陰の「 -- 」が「―」と「 -- 」に分裂すると「 -- ・―」と「 -- ・ -- 」となります。

それら4つの下に分裂前の「―」と「 -- 」をつけると、「三:陽の陽」「―・ -- ・―:陽の陰」「 -- ・―・ -- :陰の陽」「 -- ・ -- ・ -- :陰の陰」となり、太極旗のマーク「左上:陽の陽」、「左下:陽の陰」、「右上:陰の陽」「右下:陰の陰」に対応します。
これらいわば、八卦や方角、家族といった解釈を添付する以前の、宇宙の生成をあらわす「核分裂」を代表する4つの卦を配置していることは極めて哲学的なことです。

もっとも、なぜ両儀の分裂が下に書かれるんだ?両儀の下に分裂前の「―」と「 -- 」をつけなきゃならんのだ?と突っ込まれますと瓦解します。易は下から上に変化して行くものですので。(笑)

まぁ、お示しのスレッドの、方角・家族の解釈は的を得ているのですが、卦の解釈は疑問です。というか、卦の具体的な解釈は、卦を読む占い師の才能・裁量でどうとでも解釈ができるもんなんです。その曖昧さこそが占いの真髄なんですよ。(笑)

それはともかく、太極旗が結構いい加減につくられたものというのは、理解できました。

面白うてやがて悲しき太極旗かな

投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2006/11/28 07:44 投稿番号: [394 / 1474]
licky_etoさんのお勧めに従ってこちらにも転載しておきます。



国旗のデザインはその国の神話とか成り立ちとか歴史とか国是とかそういう国家のアイデンティティーを象徴しているものだと思っていましたが韓国国旗(太極旗)はどうやらそうではないようです。韓国には胸を張って誇れるほどのアイデンティティーが存在しないということでしょうか。抱腹絶倒しているうちにやがて気の毒になってきました。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=2498671

国債報償運動

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/27 21:19 投稿番号: [393 / 1474]
1907年3月、日本の保護下にある大韓帝国で、日本からの借款を返済して、その影響力を排除し国家主権を護持しようとする運動が起きました。

「国債報償期成会」が結成され、指輪やかんざしを供出して返済資金に充当しようとしたり、禁煙してタバコ代を寄付しようというのです。
一説には安重根も関わっていたとかいうこの運動、どうなったでしょうか?

http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/PART1japan.html
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/PART2japan.html
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/PART3japan.html
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/PART4japan.html

















飽きっぽい朝鮮人たち、一ヶ月程度経つと、禁煙してるフリしてこっそり喫煙したり、国債報償期成会の役員が集まった寄付金を持ち逃げしたりでグデグデになったのでした。

Re: イソジンの壬辰倭乱<つっこみ②

投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2006/11/23 23:04 投稿番号: [392 / 1474]
お待ちしておりました。(笑)

戦術面で言えば、当初豊臣軍に対して有効だったのは、戚継光が倭寇との戦いで編み出した「浙江兵法」だったとかいうのも書いていました。たしかに倭寇は短兵を得意にしていましたが、正規軍の豊臣軍と一緒にするなっちゅうねん。(笑)

>・・・・・軽〜く、流し読みしただけでも、呆れ果てて、溜息が・・・orz

師父は、この文章をなかば笑いながら入力しておりました。

日本と韓国の歴史

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/11/23 22:38 投稿番号: [391 / 1474]
日本と韓国の歴史
http://www.youtube.com/watch?v=6gz-OIu8vuc

韓国の昔の迷信とパクリ文化
http://www.youtube.com/watch?v =- lgk401cmlE

Re: イソジンの壬辰倭乱<つっこみ②

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/11/23 00:00 投稿番号: [390 / 1474]
>朝鮮時代におけるわれわれの伝統的な戦術は、一般に「長兵」と呼ばれるものである。
>つまり、弓矢・火薬のような長距離兵器を主たる武器として、騎兵・歩兵二つの部類が一緒になって遠隔地から敵を征圧してしまうのがその特徴だった。
>これに対して、倭軍側の戦術は槍・剣を主たる武器として近接戦に重きをおいたので、「短兵」と称された。

あんの〜〜・・・・・
日本の、古来からの「主力武器」は「長弓」なんですがぁ・・・・
んで、騎兵(騎乗士)弓兵、槍兵、戦国期から鉄砲兵、の「諸兵科連合」は、既に「常套手段」になっていたのですがぁ・・・・

「剣」⇒「太刀」は、実際のところ、戦場の「主要兵器」じゃなかったのですがぁ・・・・

>とくに「長兵」戦術の優勢を際立たせた火器は、高麗末に倭寇を撃退する効果的手段を模索するなかで得られたもので、倭は壬辰倭乱当時でさえもこの戦術を習得できずにいた

既に、「小田原攻め」当時、秀吉は小田原城を「ぐるりと」火砲陣地で包囲していたのですがぁ・・・・
海上も、火砲火力装備の艦隊で封鎖していたのですがぁ・・・
小田原攻めは、天正18年。1590年なのですがぁ・・・

それ以前、天正6年、1578年には、織田信長が、木津川河口海戦で、装甲大安宅艦隊で、火力艦隊戦展開しているのですがぁ・・・

>鳥銃がまるでその長所を発揮できなかった海戦において、彼らが最後まで劣性(ママ)を挽回できなかった事実が、この点をもう一度確認させてくれる
>さきに述べたように、倭軍は新兵器鳥銃を得たが、火薬兵器使用の伝統がこれといってなく、海戦でも鳥銃だけを使用した。
>それに反して、火器使用の長い伝統をもっていたわれわれは、たしかに陸戦で使用した小型火器は性能面で彼らの鳥銃に立ち向かうことができなかったものの、艦船に搭載した大型火砲は、彼らの鳥銃を圧倒してあまりあったのである

あのぉ〜・・・・
日本水軍は、火砲を搭載しておりましたがぁ・・・
でもって、艦隊戦では常に朝鮮水軍を、火力・運動力・艦隊運用で、圧倒していたのですがぁ・・・
でもって、日本は既に16世紀後半には、火砲の実戦投入・戦場運用を行っていたのですがぁ・・・

朝鮮水軍のアドヴァンテージは、日本側補給船団への襲撃時だけだったのですがぁ・・・

>換言すれば、火器使用の伝統的な文化能力の優位が、ここで惜しみなく発揮されたのである。

何故、「火器使用の伝統的な文化能力の優位」が、明軍参戦まで、また、参戦後も、秀吉の死まで、生かされなかったのでしょうかぁ・・・

>こうした文化能力が、のちに陸戦でも飛撃震天雷をはじめとして、鳥銃を圧倒する新たな武器の考案へと受け継がれたことはよく知られている事実である。

「飛撃震天雷」って、実は殆ど「殺傷能力」無かったの、ご存知でしょうかぁ・・・
まともに、良いタイミングで、幸運に恵まれれば、一撃で、2,3人倒せますがぁ・・・
信管の無い時代ゆえ、大抵はあさっての方向、タイミングで炸裂してしまってたのは、ご存知でしょうかぁ・・・


・・・・・軽〜く、流し読みしただけでも、呆れ果てて、溜息が・・・orz

Re: イソジンの壬辰倭乱<つっこみ①

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/11/22 23:39 投稿番号: [389 / 1474]
>一   戦争の形勢
>七年の戦争期間のなかで、倭軍が実際に優勢を維持したのは、宣祖二十五年(一五九二)四月に乱が勃発してから翌年二月にわれわれが平壌を奪還するまでの一〇か月でしかない。

文禄の役は、1592〜1593年
慶長の役は、1597〜1598年
実働、2年なんですが・・・
アンド、休戦期間中の4年間も、半島南部は完全に奪回できなかったんですが、彼等は・・・

>戦争初期、わが官軍の防御力がなにぶんにもお粗末だったために、倭軍は一か月と一〇日ほどでソウルを掌握し、すぐに平壌へ進んでそこから一隊を咸鏡道まで送り込むという優勢を誇ったが、実際にはこのときから、戦況はすでに彼らの意図どおりには動いていなかった。

戦況自体は、日本側に完全有利に進んだのですが、何せ、明軍の「人海戦術」がその後発動しましたからねぇ・・・

>長くのびた彼らの補給線は、李舜臣の海上での活躍と義兵による陸上各地での活躍によって大きく脅かされ、さらなる進軍は困難になったのである。

ま、「長く伸びた戦線」と、「補給路襲撃ゲリラ戦」に、悩まされたのは事実。
んが、「進軍が困難」な程ではなかったがねぇ・・・

>倭軍はこれ以上進軍できないかわりに、わが義兵の背後基地となっていた全羅道一帯を掌握しようと、こちらに主戦力を投入してもみたが、これもやはり成功しなかった。
>嶺南〔慶尚道〕から湖南〔全羅道〕へ進入しようという計画が、晋州・居昌・錦山ですべて挫折し、海上では道が開けなかった。

晋州城は、1953年6月26日、日本側が本腰入れた総攻撃開始で、3日後の29日に陥落しているじゃん・・・

>われわれがよく壬乱三大捷といって指折るうちの一つである晋州大捷、そして錦山梨峙での勝利、居昌での力戦が、すべてこのときに彼らの意図を挫いたわれわれの嚇々たる戦果だったのである。

負け戦が「大捷、勝利」??
最終的に、どうなったのか、確認していないのかな・・・?

>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが、それ以前にすでに戦況がこのように補給路を脅かす形勢へ動いてしまっては、彼らの平壌線維持自体が事実上もはや時間の問題であったのである。
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが

明軍あって初めて、平壌奪還が成功したんだけどな・・・
日本側は、小西行長の手勢・寄騎併せて1万5000余
明側は、李如松の4万3000余に、朝鮮軍残党1万余の5万3000余
停戦協定を結んだ、その協定破りをついて、奇襲して、でだからなぁ・・・

>平壌を奪い返されたのち、倭軍は実際に潮に押されるように退却を繰り返し、東南海岸地域の一角にようやく拠点を確保してもちこたえることができた。

いや、これって単に「戦線の整理」なんだけど・・・
「退却」って、日本軍に突っかかって、その都度痛い敗北繰り返した明軍(w/朝鮮残党)の事は調べたのかな・・・

>そうして乱勃発六年めに入っていた宣祖三十年(一五九七)に再興を企図したが(丁酉再乱)、これも結局失敗に帰し、ついには全面撤収を余儀なくされた

元々、半島南部の安定化が主目的だったし・・・
麻貴率いる東路軍は、加藤清正の指揮する蔚山倭城で、
董一元率いる中路軍は、島津義弘の指揮する泗川倭城で、
各々こっ酷く敗北しているし?
(戦略目的、達成できなかったし・・・)

結局、秀吉の死によって「朝鮮遊び」からようやく「解放」されただけなんだけどな、諸大名が・・・

八道総図

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/11/22 22:33 投稿番号: [388 / 1474]
八道総図
http://toron.pepper.jp/jp/take/image/hachidou2.jpg

韓国の博物館の八道総図のレリーフ
http://homepage2.nifty.com/katsuya-m/other_image/takesima_4_.jpg

http://homepage2.nifty.com/katsuya-m/other_image/takesima_5_.jpg

韓国は、「我々の先祖は独島を于山島と呼んでいた」と主張している。
・・・で何で位置が変わってるの?

教えて朝鮮人

イソジンの壬辰倭乱 その2

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/22 21:27 投稿番号: [387 / 1474]
前回に続いて、『朝鮮王朝社会と儒教』(六反田豊訳   法政大学出版局   2000)所載の文章です。

細かい分析と突っ込みは、おいおいやっていきます。1980年に書かれた文章であるということを差し引いても、イタい認識が多いですね。

・・・・・・・

三   戦術上の問題点

  ここまで、壬辰倭乱の開戦当初におけるわが官軍惨敗の原因が、十六世紀から展開された戚臣政治の非理が容易には止揚されなかった点にあったことをみてきた。こうした政治体制上の問題とともに、わがほうの他の弱点として、微視的なものながら戦術上にも問題点のあったことを記憶しておく必要がある。
(中略)
  朝鮮時代におけるわれわれの伝統的な戦術は、一般に「長兵」と呼ばれるものである。つまり、弓矢・火薬のような長距離兵器を主たる武器として、騎兵・歩兵二つの部類が一緒になって遠隔地から敵を征圧してしまうのがその特徴だった。これに対して、倭軍側の戦術は槍・剣を主たる武器として近接戦に重きをおいたので、「短兵」と称された。壬辰倭乱前の時期におけるこのような戦術上の違いからすれば、実際に倭は、われわれの敵とはなりえない形勢だった。とくに「長兵」戦術の優勢を際立たせた火器は、高麗末に倭寇を撃退する効果的手段を模索するなかで得られたもので、倭は壬辰倭乱当時でさえもこの戦術を習得できずにいた。しかし、こうした伝統的な戦術上の優劣関係は、乱直前に倭がポルトガル人から鳥銃を入手することで崩れてしまった。倭にとって新しい「長兵」武器となった鳥銃は、射程距離や正確さにおいてわれわれの弓矢のみならず、火器よりもはるかに優勢なものだった。彼らのこのような新兵器の所持は、たんに同じ「長兵」武器類を圧倒するだけでなく、彼ら本来の「短兵」戦術の長所を十分に発揮させたのである。
  乱の開戦当初、われわれが惨敗を繰り返した根本的な原因は、まずもって政治体制上の問題に求められねばならないが、一方で、このような戦術上の問題にもまったく理由がないわけではなかったのである。鳥銃がまるでその長所を発揮できなかった海戦において、彼らが最後まで劣性(ママ)を挽回できなかった事実が、この点をもう一度確認させてくれる。さきに述べたように、倭軍は新兵器鳥銃を得たが、火薬兵器使用の伝統がこれといってなく、海戦でも鳥銃だけを使用した。それに反して、火器使用の長い伝統をもっていたわれわれは、たしかに陸戦で使用した小型火器は性能面で彼らの鳥銃に立ち向かうことができなかったものの、艦船に搭載した大型火砲は、彼らの鳥銃を圧倒してあまりあったのである。海戦でのわが水軍の相次ぐ勝利は、もちろん李舜臣将軍の卓越した指揮力にも助けられたところは大きかったが、このような戦術上の優位が勝利の基本的な土台となったのである。換言すれば、火器使用の伝統的な文化能力の優位が、ここで惜しみなく発揮されたのである。こうした文化能力が、のちに陸戦でも飛撃震天雷をはじめとして、鳥銃を圧倒する新たな武器の考案へと受け継がれたことはよく知られている事実である。
(後略)
     初出   『軍史』創刊号   1980

Re: 連合ニュース自爆ネタ?

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/11/20 22:06 投稿番号: [386 / 1474]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html
内務省の通達   in 1877

左の資料は、内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島と外一島が朝鮮の領土であることが明記されている。
韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の”外一島”を竹島(獨島)であると主張しているが、その論拠となる積極的な証拠は無い。「竹島外一島」とは、アルゴノート島とダージュレー島と考えるのが自然である。
この資料は国立公文書館に所蔵してある『公文録 内務省の部 一』で、下記はその文章である。

明治十年三月廿日
別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也
御指令按
伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事

最近この辺ばっかりだな、韓国は。
アルゴノート島とかダジュレー島とか知らないんだろうなあ。
いや、見えないといったほうがいいのかな?

Re: 連合ニュース自爆ネタ?

投稿者: licky_eto 投稿日時: 2006/11/20 11:27 投稿番号: [385 / 1474]
あ゛っ   連合   汚ェっ!

記事はともかく   写真差し替えやがった(笑)

「磯竹島」と書かれた地図は不都合と判断したのか消されてしまいました(笑)

だから○●人は信用出来ネェ…



大怪獣サマ
外務省に聞くだけ無駄です
外務省も我々とほとんど同じ見解ですからね
韓国人の解釈が間違ってるんだよ?
文句があったら紛争調停のための裁判所に出向くよう   韓国政府に働きかけてくださいね♪



今日は韓国ヤフーの不都合(連合の記事差し替え)を隠すためか   いつもより投稿制限が厳しいですね(笑)

Re: 連合ニュース自爆ネタ?

投稿者: suyongsaram 投稿日時: 2006/11/20 11:14 投稿番号: [384 / 1474]
こんなところで言うな!
君等の外務省に聞いてみろ!

君がこんなところでやっているのは発悪に過ぎない。

連合ニュース自爆ネタ?

投稿者: licky_eto 投稿日時: 2006/11/20 11:09 投稿番号: [383 / 1474]
大怪獣サマイチオシの記事です

鬱病島の所にきちんと「磯竹島」と書かれてありますが
たぶん漢字の読める韓国人にとってはこの文字があるが故に
「磯竹島」と「竹島」は別物と考えているのかも知れません
漢字の読めない韓国人にとっては…   論外です

http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=42&articleid=2006112006002450701

Re: イソジンの壬辰倭乱

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2006/11/17 01:52 投稿番号: [382 / 1474]
つうか、ひとつきも首都を占領されて、何が赫々たるですかね。(笑)

女性トピ F-15kのswf

投稿者: licky_eto 投稿日時: 2006/11/17 01:32 投稿番号: [381 / 1474]
姐さんご紹介のショックウェーブファイル

中々哀感をそそる秀逸なモノです

ただBGMの著作権問題が発生する場合削除されてしまう可能性が高いので   期間限定と言えそうです

今のうちにご鑑賞ください   レクサスLS430の悲劇もふまえて…


http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=4z9qbfma4ha1a28bdbcba4rmfd2ra4bb a4ha1aa&sid=1835396&mid=8881

イソジンの壬辰倭乱

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/17 00:34 投稿番号: [380 / 1474]
『朝鮮王朝社会と儒教』(六反田豊訳   法政大学出版局   2000)所載の文章です。
壬辰倭乱ってこんな推移だったんですね。(笑)

・・・・・・・

第一二章   壬辰倭乱に対する理解の諸問題

一   戦争の形勢

  壬辰倭乱〔豊臣秀吉軍の朝鮮侵略。日本でいう文禄・慶長の役〕についてわれわれは、この戦争があたかもわが国の敗北で終わったかのように理解するのが一般的である。このような認識がどこに由来するのかをたどれば、おそらくそこにはさまざまな理由があろうが、日帝時代、日本人学者がその戦況評価において自分たちの側が勝利を守ったことだけを示し、それがまるですべてであるかのように糊塗したところに大きく影響されたようである。しかし、これまでの間に壬辰倭乱についての体系的な研究がある程度進められ、それにともなって日本人学者のこのような故意性も明白になりつつある。それゆえ、われわれの認識に誤りがあるとすれば、一日も早く正さなければならないだろう。
  七年の戦争期間のなかで、倭軍が実際に優勢を維持したのは、宣祖二十五年(一五九二)四月に乱が勃発してから翌年二月にわれわれが平壌を奪還するまでの一〇か月でしかない。戦争初期、わが官軍の防御力がなにぶんにもお粗末だったために、倭軍は一か月と一〇日ほどでソウルを掌握し、すぐに平壌へ進んでそこから一隊を咸鏡道まで送り込むという優勢を誇ったが、実際にはこのときから、戦況はすでに彼らの意図どおりには動いていなかった。長くのびた彼らの補給線は、李舜臣の海上での活躍と義兵による陸上各地での活躍によって大きく脅かされ、さらなる進軍は困難になったのである。そこで、倭軍はこれ以上進軍できないかわりに、わが義兵の背後基地となっていた全羅道一帯を掌握しようと、こちらに主戦力を投入してもみたが、これもやはり成功しなかった。嶺南〔慶尚道〕から湖南〔全羅道〕へ進入しようという計画が、晋州・居昌・錦山ですべて挫折し、海上では道が開けなかった。われわれがよく壬乱三大捷といって指折るうちの一つである晋州大捷、そして錦山梨峙での勝利、居昌での力戦が、すべてこのときに彼らの意図を挫いたわれわれの嚇々たる戦果だったのである。平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが、それ以前にすでに戦況がこのように補給路を脅かす形勢へ動いてしまっては、彼らの平壌線維持自体が事実上もはや時間の問題であったのである。
  平壌を奪い返されたのち、倭軍は実際に潮に押されるように退却を繰り返し、東南海岸地域の一角にようやく拠点を確保してもちこたえることができた。しかし、このときにはすでに彼らみずからが逆に講和を探る側へとその立場をかえていた。そうして乱勃発六年めに入っていた宣祖三十年(一五九七)に再興を企図したが(丁酉再乱)、これも結局失敗に帰し、ついには全面撤収を余儀なくされた。戦争が長期化することで戦力の消耗が大きかっただけでなく、ときあたかも彼らの将主〔豊臣秀吉〕が死んだため、そのまま退却してしまったのである。

三田渡碑ができるまで

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/14 20:05 投稿番号: [379 / 1474]
李朝トピに書き込むべきか迷ったんですが。

清に降伏したしるしでもある『三田渡の碑』が立てられる過程です。
1637年(仁祖15年)1月30日、朝鮮王仁祖は三田渡において、清皇帝ホンタイジに降伏しました。
以下『仁祖実録』から経過を見てゆきます。

・・・・・・・

仁祖15年(1637)6月26日
  命改築三田渡壇所,鋪[石専]造閣。以將立碑石,撰述清人功徳故也。

清の功徳を述べるため碑をつくる命令を出したということですね。


11月25日
  命張維、李慶全、趙希逸、李景ソク,撰三田渡碑文。維等皆上疏辞之,上不従。三臣不得已皆製進,而希逸故渋其辞,冀不中用,李慶全病不製,卒用景ソク之文

張維・李慶全・趙希逸・李景ソクの4人に碑文の文章を考えろと命令した。みんな辞退したが聞き入られなかった。
そして、趙希逸の文章は滑らかではなく、李慶全は病気で作れなかった。で、結局、李景ソクの文が採用された。


仁祖16年(1638)2月8日
  以張維、李景ソク所撰三田渡碑文,入送清國,使之自擇。范文程等見其文,以張維所撰,引喩失當,景ソク之文可用,而但中有添入之語,令我國改撰而用之。上命景ソク改之。

張維・李景ソクのつくった文章を清に送らせて選んでもらった。范文程らは張維の文章は喩えに誤りがあるとし、李景ソクの文を採用し、校正を命じた
ので、仁祖は李景ソクに改めさせた。あれ?張維も書いていたんだ。


仁祖17年(1639)6月25日
  上下繁曰:“三田渡碑文,速印以送,然後可免貽弊。書寫官不可互相推[言委],其令呉竣書寫,而給馬發送,篆文令申翊聖書寫。

仁祖は「三田渡の碑文を早く彫って清に送れ。でないとえらいことになる」と言った。書写官らはグダグダもめたが、呉竣に馬で送らせ、申翊聖に写させることにした。


6月26日
  東陽尉申翊聖上箚曰:以臣爲三田渡碑文書寫之官,臣既不能死於主辱之日,常懷痛恨,決不敢以病敗之身,當此事也。竟不書。

結局、申は辞退したと。


7月28日
  印出三田渡碑文,送于清國。

ようやく清に送りました。誰が写したんだろ?
これ以降清からゴーサインが出た後に、実際に石を彫って文章を刻む作業に入ったんでしょうな。


12月5日
  以三田渡碑役完畢,賞賜監役官以下有差。按,受賞之人,苟有士夫之心,豈不以爲恥乎?

ようやく石碑が完成しました。
なお、この間に、清の朝鮮監督司令官である馬福塔が瀋陽からやってきて作業を監督しているようです。

清史稿の列伝の馬福塔の条には、崇徳四年(1639)のこととして、

十一月,[イ宗]疏言立碑三田渡頌上恩,命与禮部參政超哈爾等往察視.

とあります。

清史稿に見る下関条約第一条

投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2006/11/11 23:56 投稿番号: [378 / 1474]
小ネタですが、清史稿記載の文章です。
明快な文であるので、特に訓読や現代語訳は必要ないでしょう。

・・・・・・・

清史稿   列伝   属国一   朝鮮   光緒帝二十一年

二十一年三月、馬関条約成、其第一款中国確認朝鮮為完全無欠独立自主之国、凡前此貢献等典礼皆廃之。蓋自崇徳二年李[イ宗]帰附、朝鮮為清属国者凡二百五十有八年、至是遂為独立自主国云。

現代コリア研究所

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/11/11 01:32 投稿番号: [377 / 1474]
http://www.modern-korea.net/column/zainichi/sengo01.html

量産型の実例

投稿者: ricky_eto 投稿日時: 2006/11/09 10:11 投稿番号: [376 / 1474]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=bdwc0ada4na4bfa4aa4nffc4z5doc0be l&sid=1835396&mid=35242

リンク先の写真   右半分   ほとんど金太郎飴状態です

20数年前の「聖子カット」なんてレベルじゃありません!
だって髪型だけではないんです   顔までほとんど変わらんのですからっ!!

総督府行政の進展 3

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/11/06 21:48 投稿番号: [375 / 1474]
朝鮮統治の一進転機(一〜三)[社説]

京城日報(朝鮮総督府の機関誌)
1916.2.13〜1916.2.15(大正5年)

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00472210&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00472210


(三)

  何を指して朝鮮統治の一進転機と言うか。思うに、以上述べて来たように、過去5年間における総督政治が顕著な好成績を示すに到ったのは、万般の施策が周到綿密、適正に行われたことによると言えるが、要するに腐敗紊乱がほとんどその極度に達していた朝鮮の秩序を回復し、憔悴した国民を撫育し、もって帝国の基礎を強固にし東洋の平和を維持せんと欲するに在りたれば、主として彼らの正義と平和の観念を堅実に養成することが必要にして最も急務であったがゆえに、その施政は主に消極的方針を執ったことによる。

  総督が従来懇々として彼らが奢侈に傾くことを戒め、勤倹力行の美風を鼓吹し、そうやって滔々たる不健全な事業が乱立するのを抑えたことも、実にそのためであった。しかし、それから5年、利用厚生の施設は遺憾なく普及し、政務の諸機関もほとんど完備し、紊乱した社会の秩序は回復し、瀕死のようであった人民の生命は蘇り、鮮内一般の意気も大いに上がり、経済界に異常の発展を来し、財政の基礎もまたようやく堅実になろうとする機運が向いて来たので、今日は、最早や従来のように、主として消極的施策をなすべき時ではない。よろしく百尺竿頭に一歩を進めて、積極的方針を取り、もって朝鮮の大開発を期すべきである。我々が今日を指して朝鮮統治の一進転機と言うのはそのためである。

  そうしたら、その積極的施策はいかに実行すべきか。いかに当局が善政良法を施行しても、人民がそれを活用し、適用し、そして順応するのでなければ、到底その目的を貫徹することはできない。故に、今後積極的施策の方針により大いに朝鮮を開発しようとすれば、第一に官民の一致を要する。

  もともと日本人には官尊民卑の弊風があり、官意下達せず、民情上達せざる傾向がある。そのために官民の意思が隔てられ疎通しないきらいがあった。それも、かっては官吏がその威光を笠に着て、傲慢にして下民を軽蔑無視、甚しきは虐待酷遇したことがあったが、今日はむしろ、人民の我儘勝手のためにその意思疎隔して反目することが少なくない。その原因を探求すれば、元来日本人は余りに官に依存し過ぎることから来ている。彼らは官に依頼すれば何事にもその慾望を達し得られるものと思い、もしその目的が遂げられざる場合には、即ち官吏を以て不親切なりとて怨恨するに至る。かくして官民の一致は到底期待すること能わず、総督政治が適切に展開され、今や所期の計画を遂行して遺憾なきに至りたるは、もとより官民一致の努力も支えになっているとは言っても、実業者は更に一層奮発して独立的精神を発揮し、官にむやみに頼ることなく、官もまた、人民を頼らせ手なずけようとすることなく、官民一致協力して積極的事業に従事するならば、朝鮮の今後の発展は、時間を要せずして更に又大に見るべき成果があろう。

  第二に我々が切望するのは、朝鮮人と在鮮内地人の協同である。思うに事業家として日本人の欠点は、協同一致の精神に欠けるところにある。単に在留内地人のみならず、在外日本人の大発展をなすに困難なるは、この一致協同的精神乏しきもまたその一原因であろう。故に、彼らがその位置が自分たちよりも低いと思っている朝鮮人と互いに提携して一致協同せしむることは容易なことではないが、少数の在留日本人が、1300万人の鮮人を度外視して大事業経営に成功することが不可能であることは、誰にも分りやすい道理なるのみならず、彼らは5年間の直接経営においてそのことを実体験している。そうであれば、この大多数なる鮮人を扶導し啓発して、互いに懇親和睦、一致協同して諸般の事業に着手することは最も必要とされるところである。

  寺内総督が今回その諭告において、『朝鮮人がこのように秩序ある生活に蘇生した上は、内地人朝鮮人が相提携して諸般の事業に従事し、もって東洋の時運に貢献せざる可からず』と言ったのは、最も我々の意を得たところだ。かくして、この朝鮮統治の一進転機に当たり、積極的施策を実行すれば、朝鮮の前途は瞳々として旭日の東天に昇るがごときものあらん。併合当初の目的を貫徹するのみで止まってはいけない。


(完)

データ作成:2003.9 神戸大学附属図書館
ただし、部分的に現代語ふうに書き換えています。

総督府行政の進展 2

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/11/05 08:38 投稿番号: [374 / 1474]
朝鮮統治の一進転機(一〜三)[社説]

京城日報(朝鮮総督府の機関誌)
1916.2.13〜1916.2.15(大正5年)


http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00472210&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00472210


            (二)

  過去5年間における朝鮮の進歩発達は実に驚嘆すべきものがあり、日韓併合の当時には永久の厄介版図でしかないと見下げられたにも拘わらず、その経常歳入の増加は、年々母国からの補給金を逓減し、朝鮮総督府特別会計が設立された目的である財政の独立は、大正年度以後着々と実行の歩みを進め、純然たる独立の実を挙げるには今後3年はかからないということを聞くに至っては、誰もがその素晴らしい発展に驚くと同時に、帝国が日韓併合を断行した目的を貫徹することを慶喜するだろう。

  また、商工業の発達も同様に目を見張るものがある。貿易は併合当時に比べて二倍となり、工業製産品は過去5年間に年額1550万円から2950万円に進み、商事会社の投資格は8500万円から1億4000万円に増加した。次に農業の進歩については、耕地は日を追ってその面積が増加し、作物畜産は年々改良増殖の績を挙げ、各種副業の発達と相まって、その産額は過去5年間において殆んど倍加した。今や優に3億円を超え、米穀については国内で消費してもなお余りあり、内地及び外国への搬出は、最近一年間で総額約2400万円に上った。

  怠惰でその日暮しに甘んじ、貯蓄などに心がける者は稀な朝鮮人のことなれば、併合前年度末にて郵便貯金者の数はわずか1万400人、その金額11万7200余円に過ぎなかったのが、大正四年度には貯金者の数62万6200人、その預金額も実に177万300余円、つまり人数は6倍余り、金額は12倍余りに増加したのは、実に驚くべき好成績と言わざるを得ない。学校に関しては、併合当時は100校で生徒はわずかに1万5000人に過ぎなかったのが、今日は415校、生徒は6万4000人という多数に達している。漁業高は500万円、鉱産高は400万円の増加を見るに至った。

  これらは総督政治の成績の一部を挙げただけだが、その他にも殖林の増繁、鉄道の発達、道路の改修、港湾の整理など一々数えることができない。これを異例の成績と称しても褒め過ぎだと言う者もいないだろう。

  しかしながら、朝鮮経営は決してこれをもって満足すべきではない。なぜなら、過去5年間における総督の統治は、その成績実に顕著たりと言えども、いわゆる荒廃の邦土を開拓して無尽の冨源に化し、新附の民衆を撫育して治平の慶に浴せしめ、以て帝国の基礎を磐石の安きに置き、東洋の平和を確保しようとする、大抱負、大目的、大経綸から見れば、現在の統治成績はわずかにそのファウンデーションを築いたに過ぎないからである。まして、朝鮮の経営は着々と歩みを進めるに従って、大いに為すべきこと、又為さなければならないことが益々多くなっており、例えば、今最も進歩発達が顕著なりと称する農工業に関して一言するならば、農業は鮮人及び内地人の普段の勤勉努力の結果によって生産額が非常に増加し、各種の副業もそれに伴って隆盛の機運に向かっていると言うけれども、これはつまり多年の衰勢を挽回したに過ぎないのであって、その大改良は今後の施策に待つところである。又工業の場合も、併合以来、企業に対する機運を誘致し工業生産額は大いに増加したと称するが、朝鮮内の現況はなお原始の域を脱せず、工業の材料は各地に溢れて、有望の事業が至る所で資本家の経営を待っていると言う。

  そうであるから、寺内総督も今回朝鮮人民一般に下した諭告において、『当地5年間の成績は、ただわずかに創業の効果を収めたるに過ぎず、故に将来の大成を期せんと欲せば更に一層奮励を要す』と言い、又『もし現在の進歩に満足して心が驕り気が緩むようであれば、これまでの効果を空しくするのみならず、将来の大成も危うくなる』と訓戒されたのは、国民が皆肝に銘ずべきことである。総督のこの警告を遵守すれば、朝鮮における将来の進歩発達も期することができる。しかし今、朝鮮統治の一進転機の機会に、少しばかり我々の意見を開陳し、もって当局者及び在留同胞の参考に供することも決して無用のことではないと信ずる。



データ作成:2003.9 神戸大学附属図書館
ただし、部分的に現代語ふうに書き換えています(投稿者)

Re: とあるお人のエンコリ遠征記?

投稿者: pup_pooh_one 投稿日時: 2006/11/04 19:33 投稿番号: [373 / 1474]
在日でも「日本」になってしまうんですね。

総督府行政の進展 1

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/11/04 19:26 投稿番号: [372 / 1474]
朝鮮統治の一進転機(一〜三)[社説]

京城日報(朝鮮総督府の機関誌)
1916.2.13〜1916.2.15(大正5年)

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00472210&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00472210

               (一)

  韓国の併合は曠古の偉業、昭代の盛事にして、これによって多年の諸懸案を解決し、禍根を永久に絶ち、以て帝国の基礎を強固にし、東洋の平和を確保するの所以なりと言えども、その初め併合せらるるや、ある者はその経営が果して併合の目的を貫徹できるかどうかを危惧し、ある者は到底その歳出歳入を償わず、永久に我が国の厄介版図たるを免れないので、むしろこれを放棄すべきと主張した者すらあった。これはもとより卑見無識の傾聴する価値なき議論であると言えるが、韓国の併合は建国以来2千年になろうとする、しかも約1万4千方里、人口1300万を有し堂々たる国家の体裁を持つ他国の統治権を、挙げてこれを帝国の掌裡に収めたものであって、これを清国、ロシアから見れば、九牛の一毛たる台湾、樺太を抜きたるものとは、全くその事情を異にするのみならず、当時の韓国の民情を洞察すれば、識者は日韓併合は時勢の已むを得ざる要求なりと覚悟していたが、頑迷不霊の徒は、国家の亡滅を憤慨して小民を煽動し、火賊暴徒が随所に跳梁跋扈した次第であり、統治がうまく進み日韓併合の目的を貫徹することは、実に容易では無い状況にあった。

  しかしながら、明治43年5月寺内総督が赴任し、この大業を成就すべく新政を施行して以来5年半経過したが、この間不撓の勇気を鼓し、不屈の努力を傾け、幾多の障害を排し、しばしば危難を冒し、果敢に数百年来続いて来た苛斂誅求の積弊を除き、いわゆる盤根錯節、鋤蹶斬断、初めて成果を挙げたるものなれば、あるいは多少の非難もありたることなきにあらざれども、総督が大命を拝して赴任の際に述べた『荒れ果てし此の山川を、いかにして我が大君の旨に答えん』の献身的忠勤と熱心な勉励は、これまでの5年間に於ける経営により治績大いに成果を挙げ、事業の基礎は殆んど確立し、内外人をしてその意外なる成功に驚嘆せしめたのは決して根拠の無いことではない。

  ちなみに総督赴任当時の朝鮮を回顧すれば、一般人民は苛斂重税に苦しめられたる結果、疲弊貧弱の極にあり、はなはだしきは耕すに田地なく、居るに家室なく、流離顛沛せめて飢餓を免れられれば幸いという悲惨の状態にあった。
 
  しかしながら、一たび日韓併合せられて新政施行せらるるや、王家の待遇、功臣の任用、孝子節婦の表彰、土民の授産、教育の補助、凶歉の救済、行政、司法制度の改革、憲兵、警官の配備、殖産興業の振興、運輸交通機関の拡張、医療、衛生の設備、教育の普及、その他利用厚生の施設は殆ど遺憾なく施設せられ、政務の機関もまた大いに整備して、それにより山河の面目も改まり、千有余万の窮民蘇生の思いをなし、昭代の治化まさに全土に普及せんとするは、もとより今上陛下の稜威によると言えども、同時にまた総督の忠誠勤格の功によるものであり、思うに韓国を我が国の統治の下に置いた理由は、荒廃した邦土を開拓して無尽の富源と化し、新附の民衆を撫育して治平の慶に浴せしめんとするに外ならず、もし荒れた山河は依然としてそのままで、兇暴の徒輩があちこちに跳梁して、結局、国土と国民とを混沌の中より救出することができなければ、韓国併合の実益はまさに画餅に帰すことになる。これは実に本総督が日々苦心焦慮し、心の安まらない所であり、そうやって3年が経過した。この間における施設経営は、まだ意図したようには行かないが、陛下の威徳、政府の指導及び部下職員の尽力によって、幸にして大過なきを得て、だんだんとその効果を挙げるに到っているのは、本総督の大いにうれしく思うところであるとは、寺内総督が『朝鮮統治三年間成績』において心情を披瀝して述べた言葉である。

  それから更に2年半を経過して今日に至り、その治績が益々良好に進んでいることは内外人が皆認めるところであって、敢えて我らが賛辞を呈するに及ばない。


データ作成:2003.9 神戸大学附属図書館
ただし、部分的に現代語ふうに書き換えています(投稿者)

Re: 『玄海灘密航』

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/11/02 21:49 投稿番号: [371 / 1474]
『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 〔7/4〕 下関・兵庫 【社会】

『北鮮から密航の怪鮮人/新羅丸の石炭庫に潜伏/労働者には不似合の所持品が不審』 福岡日日 1922/5/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】

『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 〔2/1〕 下関・山口 【社会】

『鮮人十名の密航者/京畿丸に潜伏』 京城日報 1922/7/4 〔4/8〕 下関・山口 【渡航】

『密航鮮人発見(遠賀郡芦屋町)』 門司新報 1923/11/7 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】

『内地密航と取締』 大阪朝日 1923/12/6 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『鮮人の内地密航に警戒の眼が光る/釜山水上署の取締』 京城日報 1923/12/20 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『発動船で密航/鮮人九名発見』 福岡日日 1924/2/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】

『丗名の鮮人欺されて密航/山口特牛港に』 福岡日日 1924/5/2 〔1/3〕 ・山口 【渡航】

『五十余名の密航団/難船して露見に及ぶ』 京城日報 1924/5/9 夕 〔2/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『鮮人渡来制限撤廃/密航は取締る』 福岡日日 1924/6/7 〔1/7〕 下関・福岡 【渡航】

『密航の鮮人』 門司新報 1924/7/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】

『鮮人丗三名の上陸で騒ぐ/密航と誤認して(戸畑市)』 福岡日日 1926/1/4 〔1/3〕 北九州・福岡 【社会】

『鮮人丗五六名を乗せた奇怪な密航船来る/白木署に上陸して行衛不明/其筋では頗る重大視(門司市)』 福岡日日 1926/3/12 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】

『小発動機船で鮮人の密航団/三十名釜山から門司に上陸し行方を晦す』 大阪毎日 1926/3/14 夕 〔2/5〕 門司・福岡 【渡航】

『密航鮮人一部発見さる/小倉駅頭にて(小倉市)』 福岡日日 1926/3/14 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】

『長さ四間の発動機船で/鮮人三十余名密航す/氏名も目的も行先も判らぬ/時節柄厳戒を加ふ』 中国 1926/3/14 〔〕 門司・福岡 【渡航】

『鮮人密航団を発見/同勢三十六名の内/十六名を捕へて送還』 中国 1926/3/23 〔〕 下関・山口 【渡航】

『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7 朝鮮朝日 〔〕 下関・山口 【渡航】

『大胆な鮮人団帆船で密航/玄海を横切って鐘崎へ/福岡署に知れて取調らる(宗像郡岬村)』 福岡日日 1926/4/11 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】

『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『密航団鮮人取押へらる』 大阪毎日 1926/4/16 〔11/7〕 門司・福岡 【渡航】

『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17 朝鮮朝日 〔〕 宇和島・愛媛 【渡航】

『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24 広島 〔〕 ・山口 【渡航】

『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29 〔5/9〕 下関・山口 【渡航】

『又も鮮人の密航団/山口へ六十名』 福岡日日 1926/4/29 〔1/2〕 山口・山口 【渡航】

『大密航バレる』 大阪朝日 1926/5/1 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】

『鮮人が帆船で渡っても密航でない、つまらぬ取締りをされては思想上面白くないと朝鮮総督府から横槍』 神戸新聞 1926/5/3 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【社会】

『又も糸島に密航団/朝鮮から渡航六十余名(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1926/5/4 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】

『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5 広島 〔〕 ・山口 【渡航】

とあるお人のエンコリ遠征記?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/02 21:26 投稿番号: [370 / 1474]
ネイバー総督府の面々にも鼻で笑われ蹴られまくっています(しかも立てたスレの内容に他者の発言の捏造多し)。そういや、こちらでもなんだかよく似たHNの方が奮闘してらっしゃいましたが。多分他人の空似でしょう。

ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/list.php?board_id=thistory&st=writer_id&sw=apoon5&ty=

そういや、ちょっと前、エンコリ上でこいつとほとんど同じことを繰り返していたIDがいたなぁ。

ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/list.php?board_id=thistory&st=writer_id&sw=nullpo5&ty=

あれ?これも、よく似たHNがこちらで一瞬湧いていたような気が?

「貢女三千人」についての考察

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/01 20:12 投稿番号: [369 / 1474]
http://soutokufu.s145.xrea.com/index.php?%C3%C6%CC%F4%B8%CB%2F%A1%D6%C8%FE%BD%F7%BB%B0%C0%E9%BF%CD%A1%D7%B9%D7%C7%BC%B8%C0%C0%E2%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6

著者の立場に関係なく、資料を好きなように読んでしまうこと(意識的であれ無意識的であれ)はよろしくない、ということですね。
それにひっかからないためにも、できるだけ一次史料(それに近いもの)もみなくちゃ、ってことでもあります。

おうるのようなもの

投稿者: licky_eto 投稿日時: 2006/11/01 16:29 投稿番号: [368 / 1474]
「バールのようなもの」に引っかけて   おちゃらけで考えた武器でしたが…

確かに武器としては存在していませんでしたが   刑罰用として存在していたそうです

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=5jccbcbca1v0lifebdaa1w&sid=1835396&mid=10674


侮れませんな   韓国はっ!

『玄海灘密航』

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/10/27 00:12 投稿番号: [367 / 1474]
随筆・短編
『玄海灘密航』
金史良
初出:「文芸首都」1940(昭和15)年8月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/000252/files/1399_20773.html

なお、前年、ほぼ同内容の朝鮮語の随筆「密航」が朝鮮日報社の雑誌「朝光」に本名(金時昌)で発表されている。1931(昭和6)年、平壌高等普通学校在学中に反日学生闘争の首謀者とされ退学になった著者が北京への留学を志したがかなわず、釜山から日本へ密航を計画した時の心境を綴っている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000252/card1399.html

『故郷を想う』
金史良
初出:「知性」1941(昭和16)年5月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/000252/files/1400_20807.html

金 史良
きむ さりゃん
Kim Sa-riang。1914(大正3)年3月3日、日本の統治下の朝鮮、平壌(ピョンヤン)の裕福な家庭に生まれる。本名は金時昌。1931(昭和6)年、平壌高等普通学校五年生に在学中、朝鮮各地で起こっていた反日学生闘争に呼応する同盟休校事件に関与し、退学となる。その後、日本に渡り、旧制佐賀高等学校に入学したころから、執筆活動を開始。東京帝国大学卒業と相前後して執筆した「光の中に」が 1940(昭和15)年前期の芥川賞候補作となる。東京帝国大学文学部を卒業し、大学院に入学が許可されるまでの短い間、ソウルで朝鮮日報社に学芸部記者として勤務していた時、執筆された。
金史良は東京帝大在学中、「無産市民の救済および向上を計り、教育の機会を提供」することを目的として学生や教官有志が本所(江東区)に設立した帝大セツルメントの活動に参加していたほか、共産主義的な傾向をおびていた朝鮮芸術座という劇団関係者の一人として、3ヶ月間、警察に拘束を受けている。
1941(昭和16)年12月、日米開戦とともに拘束、翌年、釈放後、朝鮮に帰る。1945(昭和20)年春、日本軍に徴用された朝鮮出身兵の慰問団の一員として中国に赴いた際、脱出し、朝鮮義勇軍に参加。1950(昭和25)年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍の上陸に遭って朝鮮人民軍が撤退する中、持病の心臓病が原因で行方不明となり、死亡したと推定されている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000252/card1399.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000252/card1398.html

従軍慰安婦強制連行の実態

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/10/26 02:31 投稿番号: [366 / 1474]
削除されませんように(笑)
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&page=5&nid=433120

韓国側の反論があまりにもアレですが・・・

金総書記語録

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/10/25 21:41 投稿番号: [365 / 1474]
「ブッシュとのどがカラカラになるまで歌って、踊りたい。みんなでうまく伴奏してほしい。オーケストラは6者、そうすればデュエットもうまくいく」
(04年5月、平壌の大同江迎賓館で小泉首相に、米国との関係改善を期待して)

「たしかに、経済改革は中国にはうまくいったかもしれませんが、中国のやり方がわれわれにもうまくいくとは限りません。経済発展に平和な国際環境が不可欠であるのはその通りだと思います。しかし、朝鮮半島では米国が一貫してわれわれに敵対政策を取ってきた。われわれは、一度として平和環境を与えられたことはない」
(03年3月、白頭山のふもとの三池淵の迎賓館で銭中国副首相に)

「中国モデルに興味はない。それよりスウェーデン・モデルが面白いと思っている。タイは王制を維持しつつ、独立を保ち、市場経済を発展させている。タイ・モデルにも関心がある。」
(00年10月、訪朝したオルブライト米国務長官に)

「わが国の人民がまともに食べられず、よい暮らしができないことがわかっていながら、国と民族の尊厳と運命を守り抜き、明日の富強祖国のために資金をその部門に回すことを許可した」
(98年テポドン・ミサイル発射実験に何億ドルもの費用を要したことを認め)

とある講演の内容

投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/10/25 09:53 投稿番号: [364 / 1474]
http://www.biz.ryukoku.ac.jp/~lee/ronbun/gyouseki/pdf/ryuukokukeiei_jinkendouwa_jan28.pdf#sear ch='%E5%90%8C%E5%92%8C%20%E5%9C%A8%E6%97%A5'


まあ、何というか・・・
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