韓カテ資料室

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

三田渡碑ができるまで

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/14 20:05 投稿番号: [379 / 1474]
李朝トピに書き込むべきか迷ったんですが。

清に降伏したしるしでもある『三田渡の碑』が立てられる過程です。
1637年(仁祖15年)1月30日、朝鮮王仁祖は三田渡において、清皇帝ホンタイジに降伏しました。
以下『仁祖実録』から経過を見てゆきます。

・・・・・・・

仁祖15年(1637)6月26日
  命改築三田渡壇所,鋪[石専]造閣。以將立碑石,撰述清人功徳故也。

清の功徳を述べるため碑をつくる命令を出したということですね。


11月25日
  命張維、李慶全、趙希逸、李景ソク,撰三田渡碑文。維等皆上疏辞之,上不従。三臣不得已皆製進,而希逸故渋其辞,冀不中用,李慶全病不製,卒用景ソク之文

張維・李慶全・趙希逸・李景ソクの4人に碑文の文章を考えろと命令した。みんな辞退したが聞き入られなかった。
そして、趙希逸の文章は滑らかではなく、李慶全は病気で作れなかった。で、結局、李景ソクの文が採用された。


仁祖16年(1638)2月8日
  以張維、李景ソク所撰三田渡碑文,入送清國,使之自擇。范文程等見其文,以張維所撰,引喩失當,景ソク之文可用,而但中有添入之語,令我國改撰而用之。上命景ソク改之。

張維・李景ソクのつくった文章を清に送らせて選んでもらった。范文程らは張維の文章は喩えに誤りがあるとし、李景ソクの文を採用し、校正を命じた
ので、仁祖は李景ソクに改めさせた。あれ?張維も書いていたんだ。


仁祖17年(1639)6月25日
  上下繁曰:“三田渡碑文,速印以送,然後可免貽弊。書寫官不可互相推[言委],其令呉竣書寫,而給馬發送,篆文令申翊聖書寫。

仁祖は「三田渡の碑文を早く彫って清に送れ。でないとえらいことになる」と言った。書写官らはグダグダもめたが、呉竣に馬で送らせ、申翊聖に写させることにした。


6月26日
  東陽尉申翊聖上箚曰:以臣爲三田渡碑文書寫之官,臣既不能死於主辱之日,常懷痛恨,決不敢以病敗之身,當此事也。竟不書。

結局、申は辞退したと。


7月28日
  印出三田渡碑文,送于清國。

ようやく清に送りました。誰が写したんだろ?
これ以降清からゴーサインが出た後に、実際に石を彫って文章を刻む作業に入ったんでしょうな。


12月5日
  以三田渡碑役完畢,賞賜監役官以下有差。按,受賞之人,苟有士夫之心,豈不以爲恥乎?

ようやく石碑が完成しました。
なお、この間に、清の朝鮮監督司令官である馬福塔が瀋陽からやってきて作業を監督しているようです。

清史稿の列伝の馬福塔の条には、崇徳四年(1639)のこととして、

十一月,[イ宗]疏言立碑三田渡頌上恩,命与禮部參政超哈爾等往察視.

とあります。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)