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イソジンの壬辰倭乱

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/11/17 00:34 投稿番号: [380 / 1474]
『朝鮮王朝社会と儒教』(六反田豊訳   法政大学出版局   2000)所載の文章です。
壬辰倭乱ってこんな推移だったんですね。(笑)

・・・・・・・

第一二章   壬辰倭乱に対する理解の諸問題

一   戦争の形勢

  壬辰倭乱〔豊臣秀吉軍の朝鮮侵略。日本でいう文禄・慶長の役〕についてわれわれは、この戦争があたかもわが国の敗北で終わったかのように理解するのが一般的である。このような認識がどこに由来するのかをたどれば、おそらくそこにはさまざまな理由があろうが、日帝時代、日本人学者がその戦況評価において自分たちの側が勝利を守ったことだけを示し、それがまるですべてであるかのように糊塗したところに大きく影響されたようである。しかし、これまでの間に壬辰倭乱についての体系的な研究がある程度進められ、それにともなって日本人学者のこのような故意性も明白になりつつある。それゆえ、われわれの認識に誤りがあるとすれば、一日も早く正さなければならないだろう。
  七年の戦争期間のなかで、倭軍が実際に優勢を維持したのは、宣祖二十五年(一五九二)四月に乱が勃発してから翌年二月にわれわれが平壌を奪還するまでの一〇か月でしかない。戦争初期、わが官軍の防御力がなにぶんにもお粗末だったために、倭軍は一か月と一〇日ほどでソウルを掌握し、すぐに平壌へ進んでそこから一隊を咸鏡道まで送り込むという優勢を誇ったが、実際にはこのときから、戦況はすでに彼らの意図どおりには動いていなかった。長くのびた彼らの補給線は、李舜臣の海上での活躍と義兵による陸上各地での活躍によって大きく脅かされ、さらなる進軍は困難になったのである。そこで、倭軍はこれ以上進軍できないかわりに、わが義兵の背後基地となっていた全羅道一帯を掌握しようと、こちらに主戦力を投入してもみたが、これもやはり成功しなかった。嶺南〔慶尚道〕から湖南〔全羅道〕へ進入しようという計画が、晋州・居昌・錦山ですべて挫折し、海上では道が開けなかった。われわれがよく壬乱三大捷といって指折るうちの一つである晋州大捷、そして錦山梨峙での勝利、居昌での力戦が、すべてこのときに彼らの意図を挫いたわれわれの嚇々たる戦果だったのである。平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが、それ以前にすでに戦況がこのように補給路を脅かす形勢へ動いてしまっては、彼らの平壌線維持自体が事実上もはや時間の問題であったのである。
  平壌を奪い返されたのち、倭軍は実際に潮に押されるように退却を繰り返し、東南海岸地域の一角にようやく拠点を確保してもちこたえることができた。しかし、このときにはすでに彼らみずからが逆に講和を探る側へとその立場をかえていた。そうして乱勃発六年めに入っていた宣祖三十年(一五九七)に再興を企図したが(丁酉再乱)、これも結局失敗に帰し、ついには全面撤収を余儀なくされた。戦争が長期化することで戦力の消耗が大きかっただけでなく、ときあたかも彼らの将主〔豊臣秀吉〕が死んだため、そのまま退却してしまったのである。
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