Re: イソジンの壬辰倭乱<つっこみ①
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/11/22 23:39 投稿番号: [389 / 1474]
>一
戦争の形勢
>七年の戦争期間のなかで、倭軍が実際に優勢を維持したのは、宣祖二十五年(一五九二)四月に乱が勃発してから翌年二月にわれわれが平壌を奪還するまでの一〇か月でしかない。
文禄の役は、1592〜1593年
慶長の役は、1597〜1598年
実働、2年なんですが・・・
アンド、休戦期間中の4年間も、半島南部は完全に奪回できなかったんですが、彼等は・・・
>戦争初期、わが官軍の防御力がなにぶんにもお粗末だったために、倭軍は一か月と一〇日ほどでソウルを掌握し、すぐに平壌へ進んでそこから一隊を咸鏡道まで送り込むという優勢を誇ったが、実際にはこのときから、戦況はすでに彼らの意図どおりには動いていなかった。
戦況自体は、日本側に完全有利に進んだのですが、何せ、明軍の「人海戦術」がその後発動しましたからねぇ・・・
>長くのびた彼らの補給線は、李舜臣の海上での活躍と義兵による陸上各地での活躍によって大きく脅かされ、さらなる進軍は困難になったのである。
ま、「長く伸びた戦線」と、「補給路襲撃ゲリラ戦」に、悩まされたのは事実。
んが、「進軍が困難」な程ではなかったがねぇ・・・
>倭軍はこれ以上進軍できないかわりに、わが義兵の背後基地となっていた全羅道一帯を掌握しようと、こちらに主戦力を投入してもみたが、これもやはり成功しなかった。
>嶺南〔慶尚道〕から湖南〔全羅道〕へ進入しようという計画が、晋州・居昌・錦山ですべて挫折し、海上では道が開けなかった。
晋州城は、1953年6月26日、日本側が本腰入れた総攻撃開始で、3日後の29日に陥落しているじゃん・・・
>われわれがよく壬乱三大捷といって指折るうちの一つである晋州大捷、そして錦山梨峙での勝利、居昌での力戦が、すべてこのときに彼らの意図を挫いたわれわれの嚇々たる戦果だったのである。
負け戦が「大捷、勝利」??
最終的に、どうなったのか、確認していないのかな・・・?
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが、それ以前にすでに戦況がこのように補給路を脅かす形勢へ動いてしまっては、彼らの平壌線維持自体が事実上もはや時間の問題であったのである。
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが
明軍あって初めて、平壌奪還が成功したんだけどな・・・
日本側は、小西行長の手勢・寄騎併せて1万5000余
明側は、李如松の4万3000余に、朝鮮軍残党1万余の5万3000余
停戦協定を結んだ、その協定破りをついて、奇襲して、でだからなぁ・・・
>平壌を奪い返されたのち、倭軍は実際に潮に押されるように退却を繰り返し、東南海岸地域の一角にようやく拠点を確保してもちこたえることができた。
いや、これって単に「戦線の整理」なんだけど・・・
「退却」って、日本軍に突っかかって、その都度痛い敗北繰り返した明軍(w/朝鮮残党)の事は調べたのかな・・・
>そうして乱勃発六年めに入っていた宣祖三十年(一五九七)に再興を企図したが(丁酉再乱)、これも結局失敗に帰し、ついには全面撤収を余儀なくされた
元々、半島南部の安定化が主目的だったし・・・
麻貴率いる東路軍は、加藤清正の指揮する蔚山倭城で、
董一元率いる中路軍は、島津義弘の指揮する泗川倭城で、
各々こっ酷く敗北しているし?
(戦略目的、達成できなかったし・・・)
結局、秀吉の死によって「朝鮮遊び」からようやく「解放」されただけなんだけどな、諸大名が・・・
>七年の戦争期間のなかで、倭軍が実際に優勢を維持したのは、宣祖二十五年(一五九二)四月に乱が勃発してから翌年二月にわれわれが平壌を奪還するまでの一〇か月でしかない。
文禄の役は、1592〜1593年
慶長の役は、1597〜1598年
実働、2年なんですが・・・
アンド、休戦期間中の4年間も、半島南部は完全に奪回できなかったんですが、彼等は・・・
>戦争初期、わが官軍の防御力がなにぶんにもお粗末だったために、倭軍は一か月と一〇日ほどでソウルを掌握し、すぐに平壌へ進んでそこから一隊を咸鏡道まで送り込むという優勢を誇ったが、実際にはこのときから、戦況はすでに彼らの意図どおりには動いていなかった。
戦況自体は、日本側に完全有利に進んだのですが、何せ、明軍の「人海戦術」がその後発動しましたからねぇ・・・
>長くのびた彼らの補給線は、李舜臣の海上での活躍と義兵による陸上各地での活躍によって大きく脅かされ、さらなる進軍は困難になったのである。
ま、「長く伸びた戦線」と、「補給路襲撃ゲリラ戦」に、悩まされたのは事実。
んが、「進軍が困難」な程ではなかったがねぇ・・・
>倭軍はこれ以上進軍できないかわりに、わが義兵の背後基地となっていた全羅道一帯を掌握しようと、こちらに主戦力を投入してもみたが、これもやはり成功しなかった。
>嶺南〔慶尚道〕から湖南〔全羅道〕へ進入しようという計画が、晋州・居昌・錦山ですべて挫折し、海上では道が開けなかった。
晋州城は、1953年6月26日、日本側が本腰入れた総攻撃開始で、3日後の29日に陥落しているじゃん・・・
>われわれがよく壬乱三大捷といって指折るうちの一つである晋州大捷、そして錦山梨峙での勝利、居昌での力戦が、すべてこのときに彼らの意図を挫いたわれわれの嚇々たる戦果だったのである。
負け戦が「大捷、勝利」??
最終的に、どうなったのか、確認していないのかな・・・?
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが、それ以前にすでに戦況がこのように補給路を脅かす形勢へ動いてしまっては、彼らの平壌線維持自体が事実上もはや時間の問題であったのである。
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが
>平壌奪還が明軍の支援に大きく助けられたことも事実だが
明軍あって初めて、平壌奪還が成功したんだけどな・・・
日本側は、小西行長の手勢・寄騎併せて1万5000余
明側は、李如松の4万3000余に、朝鮮軍残党1万余の5万3000余
停戦協定を結んだ、その協定破りをついて、奇襲して、でだからなぁ・・・
>平壌を奪い返されたのち、倭軍は実際に潮に押されるように退却を繰り返し、東南海岸地域の一角にようやく拠点を確保してもちこたえることができた。
いや、これって単に「戦線の整理」なんだけど・・・
「退却」って、日本軍に突っかかって、その都度痛い敗北繰り返した明軍(w/朝鮮残党)の事は調べたのかな・・・
>そうして乱勃発六年めに入っていた宣祖三十年(一五九七)に再興を企図したが(丁酉再乱)、これも結局失敗に帰し、ついには全面撤収を余儀なくされた
元々、半島南部の安定化が主目的だったし・・・
麻貴率いる東路軍は、加藤清正の指揮する蔚山倭城で、
董一元率いる中路軍は、島津義弘の指揮する泗川倭城で、
各々こっ酷く敗北しているし?
(戦略目的、達成できなかったし・・・)
結局、秀吉の死によって「朝鮮遊び」からようやく「解放」されただけなんだけどな、諸大名が・・・
これは メッセージ 380 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/389.html