南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
投稿者: ooo_ooo_ooo 投稿日時: 2006/05/12 13:58 投稿番号: [9636 / 41162]
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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Re: 『南京事件 国民党極秘文書から読み解
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/11 23:36 投稿番号: [9635 / 41162]
>私も読み始めたが、コーヒーさんのベイツメモ説みたいなことを言ってますね。じゃなくて、コーヒーさんが東中野説を主張していたのか。
1937年12月15日に南京を去ったNY・タイムズのダーディンやシカゴ・デイリー・ニューズのスティールに出鱈目メモを渡したのがベイツ工作員だったことは結構有名。
これは、『再審「南京大虐殺」――世界に訴える日本の冤罪』でも述べられていた。
――――――
南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』一〇五頁。一九三八年一月五日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の「祕密扱い」の報告書簡(出典:Record of US Embassy to Chinam Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』
のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」
――――――
>それはとにかく、3分の1ほど読んだところでは、問題整理という感じの本です。
私は、まだ30頁くらいしか読んでません。
>個人的には共感するけど、反対派に対する説得力はどうかなという印象。
現実を直視しない連中には、何を見せても何を言っても無駄。
最初から、連中の目的は、真実の追究ではなく、日本を悪者にすることなのだから。
これは メッセージ 9627 (monkeybrain132 さん)への返信です.
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Re: ついでにもう一つ
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2006/05/11 23:28 投稿番号: [9634 / 41162]
こう言った事実をマスコミは何故言ってくれないのだろう。
所詮、自虐教育が行き渡って平和ボケの日本人が増えて来たのでしょうか。
貴方のご活躍には感謝致します。
日本人の誇りと言うよりも、事実を冷静に指摘して下さり有り難いと思います。
これは メッセージ 9633 (nmwgip さん)への返信です.
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ついでにもう一つ
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/05/11 22:35 投稿番号: [9633 / 41162]
ついでだから『「南京事件」日本人48人の証言』
からもう一つ引用。
野砲兵第二十二連隊長・三国直福大佐の証言
・・・・・・・・・
「戦争裁判は問題があると思います。
私は終戦時にハノイにおりまして、船に乗って出発という時に米軍将校により船から降ろされ、宍戸参謀長と一緒に広東に連れていかれ、戦犯に指定されました。この時の裁判というのが目茶苦茶で、私の罪状が、汪偽政権を作った、私の兵が市民に乱暴したというのです。確かに汪政権ができた時は南京特務機関長でしたが、深くかかわっていません。兵の乱暴についても私の師団は戦闘もあまりなく、軍紀については強く言ってましたのできちんとしていました。軍紀がしっかりしていたので支隊に賞詞を与えたくらいです。ですから市民に乱暴したと言われた時、証拠を見せてほしいと言ったくらいです。そうすると綴りを持ってきました。見ると、証拠というものは、中国軍が市民に被害を出せと命令して出させたものなのです。綴りにはその命令まで書いてあります。しかも、そこに書いてあることは旧暦で、場所も日も師団のいたところとはほとんど合わないのです。中国の証拠とはこういうものでした。
また、裁判を開いても、検察官も弁護士もいないこともありました。ある人の死刑の判決文には、容貌魁偉、とあったそうですが、判決に容貌は関係がないと思います。
私も、周りの噂では死刑だということでしたが、それに構わず黙っていないで全部反論しました。私の裁判は最後の方でしたが、それまで将官の死刑が多すぎたというので、私の前の人から無期徒刑となり、結局、私も無期徒刑となりました。それで広東の監獄に二年、上海監獄に移されて一年半、さらに二十七年までの三年半巣鴨に入ってました。
戦後、中国が行なった戦犯裁判というものはそんな類のものだったと思います」
・・・・・・・・・
「広東に連れていかれ」の段階で休戦条約違反であるという点はこの際、横に置いておきます。
この証言に描かれる裁判は、明らかに1929年ジュネーブ捕虜条約に違反しているものです。
それどころか、裁判の名に値しないものです。
捕虜条約に定められた裁判によらず、捕虜を処刑したのは日本ではなく中国の方です。
これは メッセージ 9632 (nmwgip さん)への返信です.
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Re: 真犯人は誰だ?(2)
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/05/11 22:33 投稿番号: [9632 / 41162]
たまたま別件でこの本を読み直していたときにふと目に留まりましたのでご紹介します。
私はこの、福岡日々新聞特集記事を鵜呑みにするものではありません。
まず、一避難民に難民区の総避難者数が分かるとは思えませんし、インタビューの中で中国の呼称が中国であったり支那であったり一定していません。全体の言い回しも芝居掛かっていますし、何より日本の新聞社に雇われているのですからどうしても日本におもねる内容になるでしょう。
ですが、そういう疑問点を割り引いたとしても、日本軍の犯罪といわれているものが実は中国軍の犯罪であったという事情がこのインタビューから垣間見えると思います。
インタビューの中で、黄真民(仮名)は12月11日に日本軍のものと思しき銃声を聞いて不審を覚えています。
しかし、12月11日時点、日本軍はまだ城壁の一部を占拠した段階であり、城内を自由に歩き回れる状態ではありませんでした。
このインタビューは南京陥落から2年後のものであり、記憶はまだまだ鮮明で信頼できるものだったと思われます。
少なくとも、何十年も経過した後の曖昧でいい加減な証言とは比較になりません。
他の箇所でも繰り返し中国軍の犯罪行為が証言されていますし、12月11日に軍のものと思しき銃声を近距離に聞いたのであれば、それは中国軍兵士によるものと考えるべきでしょう。
真偽は不明ですが、中国軍による拉致も証言されています。
よく言われることですが、中国軍の兵士は、中国人からも恐れられていたのです。
これは メッセージ 9631 (nmwgip さん)への返信です.
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真犯人は誰だ?(1)
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/05/11 22:32 投稿番号: [9631 / 41162]
福岡日々新聞・三苫幹之介記者の証言
「・・・私が南京支局に勤務している時、南京陥落二周年がめぐってきました。本社では記念特輯を企画しました。福日南京支局では中国人夫妻をボーイとして雇っておりました。二人は戦争中も南京にいて、当時のことを詳しく知っていました。私は匿名を条件でいろいろ聞きただして記事にしました。その記事は福日紙の昭和14年12月10日付第7面に載りました。難民区の有様がよくわかると思いますので、読んでみます。見出しは、
『難民に当時を聞く、
恐怖の拉夫、拉婦、
目に余る中央軍の暴虐』
で、男の名前は黄真民(仮名。27歳)で、南京より南方十里ほど距てた郷土の出身で、中学卒業の学歴があり、女は陳美君(仮名。26歳)で母は蘇州人です。
記者
日本軍がやってきた時君達は何処で如何していたか。
黄
私達夫妻は国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った頤和路の難民区にいました。難民区には三十万人の難民が混雑していました。中央軍の兵士が銃槍を持って夜となく昼となく交る交るやって来て難民を検察し、食料や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも捲上げて行きました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦で独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の横暴は全く眼に余るものがありました。
記者
日本軍がやって来たことはどうして知ったか。
黄
戦争が非常に重要時期にあり危険を感じて難民区に入ってからは屋外には一歩も出ませんでしたが、確か12月11日だったと思います。家の中で友達と話していると、後の方でパン!
パン!
と銃声が聞こえました。はてな?
可笑しい銃声だなと思わず朋友と顔を見合わせました。
記者
日本軍を見たか。
黄
日本軍を見たのは12月18日でした。日本の憲兵が巡察に来たのを始めて見ました。
記者
難民区の中には支那兵は居なかったのか。
黄
居りました。それは皆発見されて捕らえられていきました。
記者
君は支那兵と間違えられる様なことはなかったか。
黄
手や頭など調べられましたが肌の色が兵士とはちがうし、又私には妻があったので、中国兵でないと云うことがすぐ諒解されました。
記者
すると陳美君は君の生命の恩人だね。喧嘩せぬ様に仲よくしなければいかんよ。
陳
調べられる時は本当にどうなることかと恐うございました。
記者
難民区で君達の食物はあったのか。
黄
難民区が設定されると同時に私はデパートの方を退職し、米二石、油塩その他の食糧品を買込んで妻と二人難民区に避難したのです。最初、難民区には前の居住者は逃げてしまって人は全く居なかったのですが、後には一ぱいに埋まってしまいました。この事務室位の部屋に十二人も一緒に寝ました。
記者
君の郷里は南京からそう遠くないじゃないか。何故郷里へ避難しなかったのか。
黄
それは途中に土匪が多いからです。中央軍も沢山います。
記者
中央軍が居た方が土匪が来なくて都合がよくはないか。
黄
いいえ中央軍も土匪と同じです。金や品物を持って居れば、殺したり、強奪したりするのです。
陳
それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。
記者
君達は殺されたり、強奪されたりする程金銭や品物を持っていたのか。
黄
私達は勤めている時分一家を構えていたので家財道具が沢山ありました。それから私は貯蓄していた金を八百元、妻は四百元持っていました。
記者
それで土匪や中央軍が恐かったわけだネ。
黄
恐いものはもっとあります。
記者
それは何だ?
黄
悪人です。支那には悪人が沢山います。一面識のあった私の朋友が私に金があることを羨んで、悪人に通じたのです。それでその悪人が私を捉えて懐中の八百元を強奪して逃げました。
記者
それは何時頃のことか。
黄
日本軍人進城の時です。その悪い朋友は今は何処かへ姿を晦まして帰って来ませんが、金を奪った悪人はまだ南京にいて時々顔を合わせます。その悪人の被害者は沢山あります。
記者
何故警察に届けぬのだ。
黄
いいえ、それは無駄です。悪人は徒党を組んでいます。私から金を奪った悪人は今は食うものがなくひどく貧乏をしています。
記者
天罰があたったのだネ。陳の四百元もその時一緒に奪われたのか。
陳
私は蒲団の中にシッカリ縫いこんでいましたので見付け出されませんでした。
(以下省略)」
(『「南京事件」日本人48人の証言』
阿羅健一著
小学館文庫)
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Re: 『南京事件 国民党極秘文書から読み解
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/05/11 22:26 投稿番号: [9630 / 41162]
なるほど、確かに面白そうですね。
「戦争とは何か」が史料として価値を有するかどうかは、これが公正中立な観察者に著された研究書であるかどうかに掛かっていると言って過言ではありませんから、最初から中国側がプロパガンダ文書として書かれたことが明らかになれば――既に書かれていた物の翻訳権を買い取ったのではなく――「戦争とは何か」は宣伝文書に過ぎないという既に判明していた事実が補強される訳です。
今は少し調べたいことがあって板倉由明を読み直しているところですので、それが終わったら私も買ってみましょうかね。
これは メッセージ 9625 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
投稿者: abctarocba 投稿日時: 2006/05/11 19:45 投稿番号: [9629 / 41162]
もともと日本軍が慰安所をもうけたのは兵士の強姦を防止する目的だったらしいですね。問題はそれが強制的であったかどうかということですが、コレを当の売春婦たちの後日譚に任せて判断したのでは、どうしても勢い強制されてやむなくということになってしまうと思います。
実際、ドイツ軍ではポーランドなどから強制的に女性を前線の売春宿に連行して売春させたという証拠もかなりあるということです。しかしながら、無効では、「コレは戦争においてはごく普通のことだ」として問題にもなっていないらしい。
かなり国民性の違いだと思う。さいきん、「戦争責任とは何か」という中公新書の本を読んでいたら、そんなことが書いてありました。向こうでは「強制連行」でも問題なしだというのに少し驚いた。
「連行しなければみんなホモになってしまうでしょう」だそうです。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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Re: 『南京事件 国民党極秘文書から読み解
投稿者: monkeybrain132 投稿日時: 2006/05/11 19:22 投稿番号: [9627 / 41162]
私も読み始めたが、コーヒーさんのベイツメモ説みたいなことを言ってますね。じゃなくて、コーヒーさんが東中野説を主張していたのか。
それはとにかく、3分の1ほど読んだところでは、問題整理という感じの本です。ベイツなどのでっちあげ説は、推理小説的で今ひとつ確証がないような印象。個人的には共感するけど、反対派に対する説得力はどうかなという印象。
これは メッセージ 9625 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/09 23:45 投稿番号: [9625 / 41162]
新刊
『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著
昨日買って、今日から読んでいます。
まだちょっとしか読んでいませんが、面白そうです。
極秘文書中の「対敵課工作概況」のなか
――――――
「(1)対敵宣伝本の編集製作」
1.単行本
本処[国際宣伝処]が編集した対敵宣伝書籍は次の2種類である。
A『外人目睹中之日軍暴行』
――――――
とある。
つまり、『外人目睹中之日軍暴行』=『戦争とは何か』=『What war means』は、対敵宣伝本だと明記されてあるのだ。
これで、ティンパーリとベイツとフィッチが国民党の宣伝工作員だったことは明らかになった。
これは メッセージ 9615 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 小泉首相の謝罪発言
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/09 21:44 投稿番号: [9624 / 41162]
>(うーん、この人はリップサービスは止めたほうが良いのでは?)
リップサービスと言うより、小泉くんは歴史に関して無知なんだよね。
韓国の西大門独立公園の「蝋人形お化け屋敷」を見学すること自体がマヌケ過ぎ。
小泉くんは金正日にも謝罪したくらいだから、無知丸出しの奴隷根性は筋金入りだ。
これは メッセージ 9622 (fukagawatohei さん)への返信です.
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Re: 小泉首相の謝罪発言
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2006/05/09 21:33 投稿番号: [9623 / 41162]
何度も、日本国の首相は間違った歴史認識で謝っているんだよね。
それを、理解もせず唯ひたすらに謝罪せよと言ってくる反日民族には、とてもじゃないが敵意しか持たなくなるがな。
又、自虐教育に洗脳された擬似平和主義者の反日日本人の欺瞞さには、反吐がでる。
これは メッセージ 9622 (fukagawatohei さん)への返信です.
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小泉首相の謝罪発言
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2006/05/09 20:51 投稿番号: [9622 / 41162]
だそうです。
2001年 - 小泉純一郎首相。「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております…。」
(うーん、この人はリップサービスは止めたほうが良いのでは?)
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Re: 南京大虐殺とは >yamazakisabulo
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/05 23:58 投稿番号: [9620 / 41162]
>このyamazakisabulo氏というのはfukagawatohei氏ではないかと思います。
間違いないでしょう。
反論には目もくれず、ひたすら反日宣伝を一方的に垂れ流し続けるのみ。
黄泉も似たような芸風ですが、黄泉以上にも反論にレスする率が低いですね。
ラーベについても、奴がこのトピに出没している最中に#8367で「まとめ」ていたんですけどね。
これは メッセージ 9618 (thirteen_satan さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
投稿者: fumittiposupemomo 投稿日時: 2006/05/05 14:57 投稿番号: [9619 / 41162]
日本軍が支配した地域は治安がよく安心できるから、どこも、中国民間人が寄ってきたと言います。民間人20万、軍人5万とか言われた南京が、日本入場後40万人に増えたというのも、安心できるからだと思います。日本軍が、暴虐を働いたら、皆逃げ出します。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺とは >yamazakisabulo
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2006/05/05 14:10 投稿番号: [9618 / 41162]
事実トピでコピペを貼りまくり、
しかし、自身の意見は稚拙というのを見ると
このyamazakisabulo氏というのはfukagawatohei氏ではないかと思います。
いつもの根拠無しの印象操作でしょう。
非常に悪質ですね。
これは メッセージ 9617 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺とは >yamazakisabulo
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/04 19:09 投稿番号: [9617 / 41162]
>中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。
もともと無かったことなんだよ。
――――――
南京の人口は日本軍占領直前に約20万人だったが、日本軍占領1ヵ月後に約25万人に増えており、更に9ヵ月後には45万人まで増加した。
これは、日本軍による市民虐殺がなかったことの証明になる。
また、15人の安全区国際委員会メンバーや100人を超す日本人報道関係者などは、南京に長期間滞在したにもかかわらず、誰も1度も日本軍による南京市民虐殺を目撃しなかった。
更に、現地(南京)に居た日本軍(憲兵隊など)に通報された日本軍による強姦事件は約10件で掠奪事件も似たようなものだったが、殺人事件については0件だった。
――――――
以上、南京虐殺がなかったことの証明終了。
結論
日本軍による無辜の南京市民虐殺は0人。
これは メッセージ 9607 (yamazakisabulo さん)への返信です.
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Re: 731部隊新聞報道
投稿者: ooo_ooo_ooo 投稿日時: 2006/05/01 23:59 投稿番号: [9616 / 41162]
>平沢正欣陸軍軍医少佐
京都大学医学部昭和8年卒、石井四郎直属の細菌学専攻か。病理学専攻ではない。すでに死亡。
これは メッセージ 9506 (fukagawatohei さん)への返信です.
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『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/01 21:00 投稿番号: [9615 / 41162]
>新刊
>南京事件 国民党極秘文書から読み解く
>東中野 修道 (著)価格: ¥1,470 (税込)アマゾン。
>極秘文書発掘…………プロローグに代えて
現在の南京大虐殺の根拠となった『戦争とは何か』
極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』を手にして
やはり『戦争とは何か』は対敵宣伝本だった
(中略)
巧妙な国際宣伝
キリスト教団体を使っての宣伝活動
外国人記者の記事に対する厳格かつ綿密な検査
対敵宣伝の狙い
南京大虐殺が報じられるまでの序曲
南京でお茶会と記者会見が開催される
避難民の人口
安全地帯の範囲
ラーベ委員長の周辺
中国兵を武装解除し安全地帯の中に入れてしまう
南京戦の敗北を想定していた中央宣伝部
スティール、ダーディン両記者が「南京大虐殺」を報じる
中央宣伝部は「南京大虐殺物語」を虚報と認識していた
宣伝本『戦争とは何か』を改めて検証する
中央宣伝部は南京大虐殺はなかったと考えていた
(以下略)
新刊
『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著
非常に興味深い内容ですね。
読みます。
教えてくださって、ありがとうございました。
これは メッセージ 9613 (ooo_ooo_ooo さん)への返信です.
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Re: 731部隊裁判記録 >fukagawatohei宛
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/05/01 20:21 投稿番号: [9614 / 41162]
再掲です。
マトモな回答若しくは反論がない場合、「731部隊の生体実験や細菌戦などの事実はなく捏造だった」という結論に達します。
――――――――
mimimさんの#9464や#9504、また、俺の#9492や#9512などに対し誠実に回答しなさい。
●君の知人が軍の命令で、戦時中に東京で、百人以上の朝鮮人や反戦的な日本人を卑劣な手段で殺害していた件(#9459)に関して
1.その「知人」なる者に殺害を命令した日本軍の部隊名
2.具体的にどのような人物が殺されたのか
3.殺害の場所と方法
4.殺害の目的
5.中帰連の篠塚良雄は、15歳で731部隊の少年隊に入隊したそうだが(#9489)、731部隊の少年隊には全部で何人位の少年兵が居たのか?
6.研究中に感染して死んだ731部隊員は少年隊員も含めて多かったようだが(#9489)、どうして731部隊はそんな殆ど役に立たないのに非常に危険な研究をしていたのか?
7.「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」の原告の請求内容を、「政府の謝罪文」があったかのように投稿した(#9490)釈明はしないのか?
8.新京(長春)でペストに感染して死亡した住民57人の解剖結果の英文記録があるとのことだが(#9506)、どうして「生体解剖」の記録はないのか?
9.「感染したイヌノミを人間に付着させる人体実験も実施した」(#9506)という実験資料
10.「動物との血液交換実験や減圧実験などあらゆることが行われた」(#9520)というが、その結果と資料
11.1945年10月30日に京都の都ホテルにおいて行われた米軍のムーレイ・サンダース軍医中佐による田中少佐への尋問の記録によれば、ペスト蚤の増殖方法の研究を命ぜられたのが1943年で、その研究の結果ペスト蚤の人口増殖は到底不可能であることが判明したのに(#9540)、どうして「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」のペスト被害は1940年〜1942年に遭っていたのか?
これは メッセージ 9520 (fukagawatohei さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/9614.html
Re南京大虐殺事件は国民党の宣伝工作2
投稿者: ooo_ooo_ooo 投稿日時: 2006/05/01 11:57 投稿番号: [9613 / 41162]
目次
極秘文書発掘…………プロローグに代えて
現在の南京大虐殺の根拠となった『戦争とは何か』
極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』を手にして
やはり『戦争とは何か』は対敵宣伝本だった
国際宣伝処ができるまで
第二次上海事変の勃発から日中全面戦争へ
南京死守か放棄か
国民党中央宣伝部国際宣伝処の成立
国民党中央宣伝部を率いた董顕光と曽虚白
巧妙な国際宣伝
キリスト教団体を使っての宣伝活動
外国人記者の記事に対する厳格かつ綿密な検査
対敵宣伝の狙い
南京大虐殺が報じられるまでの序曲
南京でお茶会と記者会見が開催される
避難民の人口
安全地帯の範囲
ラーベ委員長の周辺
中国兵を武装解除し安全地帯の中に入れてしまう
南京戦の敗北を想定していた中央宣伝部
スティール、ダーディン両記者が「南京大虐殺」を報じる
中央宣伝部は「南京大虐殺物語」を虚報と認識していた
宣伝本『戦争とは何か』を改めて検証する
中央宣伝部は南京大虐殺はなかったと考えていた
戦時国際法から見た陥落後の中国兵
中央宣伝部は日本軍による処刑が合法か検討していた
中央宣伝部が処刑を合法と考えていた更なる証拠
戦争プロパガンダの視点に立って……ほか
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/479421488X/ref%3Dpe%5Fsnp%5F88X/250-2177042-4182601
これは メッセージ 9612 (ooo_ooo_ooo さん)への返信です.
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南京大虐殺事件は国民党の宣伝工作
投稿者: ooo_ooo_ooo 投稿日時: 2006/05/01 11:53 投稿番号: [9612 / 41162]
新刊
>南京事件 国民党極秘文書から読み解く
東中野 修道 (著)価格: ¥1,470 (税込)アマゾン。
単行本: 240 p ; サイズ(cm): 20 出版社: 草思社 ; ISBN: 479421488X ; (2006/04/25)
レビュー
出版社/著者からの内容紹介
●戦争プロパガンダの視点から再検証
本書は、16年にわたって、さまざまな角度から南京事件の検証をつづけてきた著者が、平成15年に台北の国民党党史館で発掘した党の極機密文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』に照らして、南京事件の根拠として多大な影響力を発揮した二つの史料、(一)南京陥落直後に「南京大虐殺」を報じた『シカゴ・デイリー・ニューズ』『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事、(二)陥落から半年後の昭和13年に英米で出版された書籍、H・ティンパーリ編『戦争とは何か』(英語版)に検証を加えたものです。『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』は、国民党の対敵宣伝戦を担って南京陥落の直前から活動を始めた党中央宣伝部国際宣伝処が、昭和13年から昭和16年までの三年半のあいだに、どのような工作を行ったかを総括した内部文書ですが、この新史料を得たことで、戦争プロパガンダという新たな視点から南京事件に光をあてることができたのです。
●新史料から何が判明したか
昭和48年に、南京の日本軍の暴行を目撃したという欧米人の匿名の記録を載せた『戦争とは何か』が発掘されて、これが大虐殺の根拠として提示されることとなりました。今回の検証での大きな発見の一つは、『戦争とは何か』が「対敵宣伝本」であると極秘文書に明記されていることでした(19頁および第六章)。
「南京大虐殺」の第一報をアメリカに発信した前述の二つの記事については、第五章で詳しく検証されていますが、極秘文書に照らしてみれば、中央宣伝部が取材に協力した記者のなかに、これらの記事を書いたスティールとダーディン両記者の名前が何度か出てくることが判明しました。また、記事中の「南京における大規模な虐殺と蛮行により」等々の表現は、南京在住の欧米人が組織した国際委員会が、南京の日本軍の不祥事を日本大使館に届けた「市民重大被害報告」の内容(陥落から三日間の全事件のうち、目撃された殺人はゼロ)や、同じときに南京にいた欧米ジャーナリストの証言とはかけ離れていることから虚報であると見て間違いないこと、記事の描写は右にあげたベイツ教授が、「12月15日に南京を離れようとしていた特派員に利用してもらおうと準備して、新聞記者に渡した声明」の内容と酷似していることが突き止められました。
●真実の報道ではなく、宣伝工作の材料
軍事面で劣勢だった蒋介石の国民党は、宣伝もまた勝敗を決する一つの要因であると考え、これを受けた中央宣伝部では「宣伝は作戦に優先する」を合言葉に、総力をあげて宣伝戦を展開していました。極秘文書からは、それがいかに巧みなものであったかがうかがえます(第一章~第三章)。特徴的なのは、宣伝工作にあたって、中央宣伝部は黒子に徹し、各国新聞記者と連絡して、彼らを使って「わが抗戦宣伝と」していたことでした。このような大方針のもと、「首都(南京)陥落後は、敵の暴行を暴」くことを工作活動の主眼としていたことに鑑みれば、二つの史料が果たした役割が自ずと浮かび上がってきます。すなわち日本軍の残虐さを世界に喧伝し、日本を貶めることを狙った戦争プロパガンダであったということです。『戦争とは何か』の内容説明を含めて、極秘文書のどこにも、「南京において日本軍の虐殺や殺人があった」とは出てきません。それは国民党自身、虐殺はなかったと認識していたことの証左であると著者は分析し、このことからも、二つの史料は事実を伝えるものではなく、日本を貶めるためになされた宣伝工作の材料と見なさざるを得ないと結論づぁています。地道な検証作業がもたらした画期的な研究成果であり、本書によって、南京事件の真相解明の道筋はいっそうはっきりと見えてきたと言えましょう。
内容(「MARC」データベースより)
南京大虐殺の源流は、虚報とプロパガンダ本だった! 台湾の国民党党史館で新たに発掘した極秘機密文書「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要」をもとに南京事件を検証。南京大虐殺の根拠を突き崩す研究成果。
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Re: ◆[南京]南京入城時の動画
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 22:21 投稿番号: [9611 / 41162]
分かっていることではありますが、こうして当時の映像を観ると、改めて「南京大虐殺」が嘘っぱちのでっち上げであることが実感できますね。
これは メッセージ 9606 (sapito さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 22:11 投稿番号: [9610 / 41162]
>大変興味深く読ませていただきました。
それは畏れ入ります。
以前は、
――――――
朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号
――――――
の全文を掲載したHPが2つ〜3つ位あったのですが、1つ消え、2つ消え・・・
という訳で、私としては残しておくための資料室として投稿しておいたのですが、興味深く読んでいただいたようで、こちらこそ大変うれしいです。
>それにしても朝日新聞は卑劣極まりないですね。本当に酷すぎる。非常に怒りを感じる。如何に大目に見ても彼らのやっている事はチンピラヤクザと同質だ。全く信用するに値しないデッチアゲ媒体である事がわかる。幾分かの真実があれば、まだ救われるところもあると思うが、感じられるのは偽善・欺瞞・自己保身と、それ以上に意図的な暗い邪な執着。
同感です。
ところで、4月26日、日本政府は竹島に関し、『韓国の「不法占拠」』、『韓国が「不法占拠」している竹島』というような表現を徹底する方針を決めたのにもかかわらず、報道で実践しているのは産経新聞だけはないでしょうか?(産経新聞はそれ以前からそう表現していた)
テレビも実践してないと思うので、こういうのはNHKの放送受信料不払いの口実にされることでしょう。
これは メッセージ 9605 (practice_theory さん)への返信です.
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Re: ◆[南京]南京入城時の動画
投稿者: fumittiposupemomo 投稿日時: 2006/04/30 19:36 投稿番号: [9609 / 41162]
中国軍は、南京では日本軍に絶対に勝ってると思っていた。それがあっさり負けて、敗走したときの、はちゃめちゃな行動が、(本当は中国軍のしたことなのに)(日本軍)南京大虐殺の話の原型になっている。
これは メッセージ 9606 (sapito さん)への返信です.
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オーイみんな、深川東平が
投稿者: kisimenlp 投稿日時: 2006/04/30 19:31 投稿番号: [9608 / 41162]
深川東平がまたまた別ID作って登場だぜ
もいっこのトピにも同じものをはりつける投稿スタイルも進歩なしだぜ
バレテーラ
これは メッセージ 9607 (yamazakisabulo さん)への返信です.
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南京大虐殺とは
投稿者: yamazakisabulo 投稿日時: 2006/04/30 18:53 投稿番号: [9607 / 41162]
南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。
中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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◆[南京]南京入城時の動画
投稿者: sapito 投稿日時: 2006/04/30 17:46 投稿番号: [9606 / 41162]
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記8
投稿者: practice_theory 投稿日時: 2006/04/30 10:51 投稿番号: [9605 / 41162]
deliciousicecoffeeさんに感謝します。大変興味深く読ませていただきました。
それにしても朝日新聞は卑劣極まりないですね。本当に酷すぎる。非常に怒りを感じる。如何に大目に見ても彼らのやっている事はチンピラヤクザと同質だ。全く信用するに値しないデッチアゲ媒体である事がわかる。幾分かの真実があれば、まだ救われるところもあると思うが、感じられるのは偽善・欺瞞・自己保身と、それ以上に意図的な暗い邪な執着。
以前、TVの討論番組で虚言と暴言を弄して戦時の日本人を極悪非道と決め付けた文化人と呼ばれる俗人がいたが、この男は欧州に生活拠点を置いて日本の悪い印象操作に余念がないらしい。反論される度にキチガイのように怒り狂い聞くに堪えない言葉で相手を口汚く罵った。この男が頻繁に口にする言葉が「平和」だった。この男が「平和」を口にするとその意味が色褪せるような気がしたものだ。自分の言う事はすべて正しく反論を許さないという傲慢な態度が際立っていて彼の発言は極めて不愉快だった。
後日この放送の楽屋話が報道媒体に載った。当時の出演者が彼に「よく、あそこまで日本や日本人を悪く言えますね。あなたも同じ日本人じゃないですか」と声をかけると、彼曰く「自分の言う事が正しいのであって、事実関係なんてどうでもいい。それにどうせ過去の事だし自分には全く無関係の事。私には痛くも痒くもない」と捨て台詞を残して出て行ったと、あった。
結局、この男のような馬鹿と中朝の思惑が結びついて日本をムチャクチャにしているのだと思う。朝日新聞の本質もこの男と同等。
その後この男の顔を見ないが(見なくて幸いだが)相変わらず欧州でヨロシクやっているのだろうか。
deliciousicecoffeeさんの「宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記」記事を読んで、つい話が脱線しました^^;
これは メッセージ 9604 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記8
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:32 投稿番号: [9604 / 41162]
翌18日の朝は、今日こそ日記が見られる、しかも写真に撮れる、すべてが明るみに出る、という緊張でピリピリしていたが、そこへ弁護士から通報が入った。
昨日の判決にあわてた朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、その日のうちに福岡地裁小倉支部に抗告したという。
日記はどうあっても見せるわけにはいかないという朝日の執念が、素早い対応となって現われたのだ。
朝日は結局のところ、筆跡の鑑定を極度に恐れたとしか思えない。
私と弁護士はとりあえず西部本社に出向いたのだが、もちろん日記の撮影は中止となった。
問題は地裁の判決がいつになるかだが、おそらく昭和62(1987)年の2月以降になるだろう。
そして地裁で同様の判決が出たとしても、朝日はたぶん高裁に控訴する。
時間稼ぎは朝日の最も望むところではないか。
それでなくともわが連隊会の実情は、最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏が89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。
これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。
実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。
酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになっていた。
高齢に加えて、金銭上の問題もあった。
老後のための僅かな貯えをこれ以上会員たちに放出させるに忍びない。
朝日は恐らく、露骨な引き延ばし戦術に出てくるだろう。
本裁判となれば10年はかかるだろう。
それまで我々の余命があるかどうか。
あれやこれやを考え合わせると、今後の裁判闘争を闘い抜く見通しがたたない。
私は一件の終息を考えざるを得なくなった。
私は、その日のうちに朝日西部本社の幹部と話し合い、こう提案した。
「これは今のところ私だけの判断だが、うちの連隊は南京事件に無関係であるという記事を全国版に載せてもらえないか。そうすれば、保全申し立てを取り下げてもいい」
朝日側は、まるでこの提案を待っていたかのように、「それだったら応じてもよい。検討します」との返事であった。
年が明け、今年(昭和62)の1月7日に私は鹿児島に飛んで、坂元氏の了承を得る。
翌8日には連隊会に報告し、ここでも了承を得た。
もう一つの「戦史」
昭和62(1987)1月21日、いよいよ福岡地裁に保全申し立ての取下書を提出することになった。
手続きは当然こちらの弁護士が行うものだが、後から知ったことだが、おかしなことに朝日側の弁護士がわざわざ書類を取りに来て、自ら小倉まで運んでいき、22日に手続きをすませてしまったのである。
一刻も早くこの問題を片づけたいという朝日の意見が、ありありとうかがえる一幕であった。
そして翌23日の朝刊全国版には、「証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊が表明」と見出しをつけた記事が早くも掲載された。
《いわゆる「南京大虐殺」報道に関して、都城23連隊会(宮崎市)は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の保全の申し立てを小倉地裁に行っていたが、22日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり「連隊は南京虐殺とは無関係」と表明した。この問題は、朝日新聞が59年8月、日記の内容を報道したのに対し、連隊会側が「連隊として虐殺に関係したような印象を与えた」と反発していた》
2年5ヶ月におよぶ闘いは終わった。
決して上々の結果ではない。
むしろ甚だ不本意な終戦である。
しかし、だからといって、これで朝日がすべての責任から逃れたわけではない。
連隊会が味わった苦痛もさることながら、この事件で一番苦しんだのは河野美好未亡人の吉江さんではなかったか。
「49年に死亡」という誤報のせいで、吉江さんは村人から白眼視され、老いた身で働く職場でも肩身の狭い思いをしていると聞く。
言論の自由の美名の陰で、こうした精神的苦痛をなめるひとがいることを忘れてはなるまい。
問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。
しかし、朝日新聞が連隊会の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久の残る。
連隊会はこの4月、宮崎で慰霊祭を開き、護国神社で英霊に対し事件の解決を報告し、あわせてその経緯を克明に記した前記「連隊会だより」を刊行する。
それはわれら都城歩兵23連隊の、もう1つの「戦史」となるであろう。
以上
これは メッセージ 9603 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記7
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:30 投稿番号: [9603 / 41162]
次に、翌11月5日の記述に、
《金山衛城を占領との情報到る》
とあるが、「金山衛城」なる地名が出てくるのはおかしい。
この地名を知るには地図が必要だが、地図は中隊に1枚しかなく、わが中隊では私だけが所持していた。
こうした不可解な記述は枚挙にいとまがない。
特に問題の12月15日以降、虐殺の記述に至っては疑問だらけである。
15日、2千名の中国人が逃げ場を失って現れたというが、その時の部隊配置と湖沼の多い特殊な地形を考え合わせると、水西門西方2.5キロの警備を突破しない限り、水西門付近に敵兵が現れることなどあり得ない。
さらに決定的なことを言えば、宇和田氏の所属していた第1中隊は大隊主力とともに、12月22日には南京城内に移駐している。
それなのに、当初の朝日記事によれば、21日以降、"虐殺"の日々が続き、28日には「人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる」などと書いているという。
移駐してしまった部隊の兵士が、そこになお留まっているかのように記述しているのは全くおかしい。
日記の筆者は誰なのだろう。
一兵卒でも日記を書く者が皆無であったとは言えない。
しかし、兵馬倥偬(へいまこうそう)の戦場の中にあって、一兵卒が1日も欠かさず日記をつけることなど、とうてい考えられない。
宇和田氏と同じ中隊にいて南京作戦に参加した生存者も、彼が日記を持っていたり、つけたりしている姿を見たことも聞いたこともないと証言している。
私は朝日の持っている宇和田日記は、当時その一部を空白のまま、メモとして書き残し、戦後、大幅に加筆されたものではないかと考える。
しかもその内容から見て、かなりの軍事知識と情報を持つ者の指導を受けたのではないだろうか。
最悪のケースを想定すれば、戦後、宇和田氏が昭和12年版の当用日記を持っているのを知った何者かが、これを借りるなり、譲り受けるなりして、空白の部分に勝手に書き込んだことだってあり得ないではない。
とりわけ南京陥落以降の記述については、そういう疑問を私は抱いている。
我々はすでに、宇和田氏本人の筆跡を手に入れていた。
復員後、ある知人に宛てた達筆の手紙を入手していたのである。
これと問題の日記の筆跡を照らし合わせれば、すべてが明らかになるだろう。
仮に2つの筆跡が一致すれば、宇和田氏本人の日記となるが、その場合、記述の内容から見て、何者かが戦後に指導して書かせた公算が大きくなる。
筆跡が一部でも違っていたら、特に南京以降の筆跡に違いがあれば、事は重大である。
写真のデッチあげどころの騒ぎではない。
何としても、日記を出さざるを得ない状況に朝日を追い込む必要がある。
朝日は筆跡鑑定を恐れた?
昭和61年2月5日から10日にかけて、朝日側からしきりに和解嘆願の電話が入ったが、連隊会はこれを拒否、12日に西部本社へ和解拒否の文書を送りつけた。
5月6日、闘いの舞台は宮崎から東京に移される。
朝日の東京本社を相手取って訴訟を起こすため、東京の弁護士に依頼することも含めて、事件は東京在住の私に引き継がれたのである。
6月12日には、弁護士を通じて朝日に最後通牒を出した。
連隊に対する謝罪文を出せ、要求が受け入れられない場合は本裁判にかける、という通告書である。
朝日側は、専務が海外出張中といった理由で引き延ばし戦術に出てきた。
「6月いっぱいまで回答は待って欲しい」が「7月の10日頃まで」となり、7月9日にようやく双方の弁護士が顔を合わせることになる。
この席で朝日側は、裁判にかけるならいつでも受けて立つ、と開き直ったのである。
私の顔は日記のことでいっぱいだった。
万が一にも日記が焼却されたりしたら、とりかえしがつかなくなる。
本裁判よりも日記の保全が第1だと考えた私は、弁護士を通じて8月22日、小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立てを行った。
舞台が小倉になったのは、西部本社が日記を所持していると言明していたからだ。
判決が下されたのは、それから4ヶ月たった12月17日のことである。
裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日は翌18日に西部本社で日記を見せろとの判決を下した。
ただし、全文を見せる必要はない、一番問題なのは昭和12年の12月15日から28日までの記述だから、その間の日記だけをすべて写真に撮らせるよう言い渡しただけである。
(続く)
これは メッセージ 9602 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記6
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:21 投稿番号: [9602 / 41162]
不可解なおわびではないか。
読みようによっては、写真についてはミスだったが、日記は現存するのだ、と朝日が逆攻勢に出てきたと受け取れなくもない。
朝日のそもそもの記事によれば、写真と日記は二進一体のものだったはずである。
例の記事には、「写真はアルバム3枚残っていた。・・・・・・生前家族に「南京大虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。・・・・・・生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという」と書かれているのである。
写真と日記には切り離せないものと考えるのが自然であり、それでもなお日記には信憑性があると強弁するのは、居直り強盗と同じたぐいではないか。
それでも、一方の柱であった写真はデッチあげとわかった。
残るは日記の信憑性である。
すでに述べたように、中村支局長の弁によって、日記は河野美好氏のものではないとわかった以上、該当者は宇和田弥一氏以外な考えられない。
どう調べても、他に該当者はいないのだ。
連隊会では数度にわたって未亡人に接触したが、反応は思わしくなかった。
未亡人は「朝日新聞は取っていませんし、朝日新聞社の方と会ったこともない」と繰り返し、ついには「主人の持っていた日記も写真も、昭和57(1982)年7月の洪水の折に納屋が土砂に埋まり、読めなくなったので焼却してしまった」と言い出す始末。
終始一貫、朝日との接触を認めようとはしなかった。
昭和61(1986)年1月25日、朝日新聞宮崎支局2階会議室において、連隊会と朝日西部本社との間で会談がもたれた。
出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。
この会談は、どこまでいっても平行線だった。
「日記も嘘である。日記についての詫びがなされない限り、和解は出来ない」とする連隊会側に対して、朝日側は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」と主張。
「日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じようとしない。
押し問答のすえ、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」となり、連隊会側が指摘の部分を宮本次長が読み上げることになったのである。
これは大きな収穫であった。
宮本次長が読み上げた日時のうち、7月27日と12月10日の分が、先述した「都城歩兵23連隊戦記」に引用した宇和田日記の中の日時とたまたま一致し、その内容もほぼ同一であることがわかったのだ。
朝日の所持している日記は宇和田弥一氏の日記に間違いはない。
そして、読み上げられた日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分かってきた。
例えば昭和12年7月27日の日記に、
《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された》
とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。
午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が将校全員に直接命令を下すはずだ。
週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な命令を伝達する権限はない。
また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。
11月4日の日記にはこう書いてあるという。
《・・・(不明)・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・(不明)・・・地区に先ず第5師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・・・・》
こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。
私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。
先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。
それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。
さらに、日記の中に「F」という言葉があるが、これは「敵」を意味し、将校たちが図上演習の際に用いる略語である。
あとからテープを聞いてみると、読み上げた朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読んでいるし、聞いている連隊会もピンときていない。
そんな用語が、なぜ上等兵の当時の日記に書いてあるのか。
(続く)
これは メッセージ 9600 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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最近は
投稿者: fiujifeuiweiojjog 投稿日時: 2006/04/30 02:11 投稿番号: [9601 / 41162]
南京大虐殺だの慰安婦だの
ありもしないでっち上げだったってこと
知ってる日本人増えたんじゃないの?
あれはチュウゴクとコリアのでっち上げだってのは
周知の事実
日本の学校教育でも
真実を教えて欲しいもんだな。いつまでも
自虐的教育じゃ
国際社会生き残れないわ。
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記5
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:06 投稿番号: [9600 / 41162]
昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。
《日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍による「南京大虐殺」事件について、宮崎市に事務局をおく都城23連隊会の安楽秀雄会長、中山有良事務局長ら代表がこのほど朝日新聞宮崎支局を訪れ、同連隊会は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。中山事務局長によると、都城23連隊は12年12月13日、南京城西南角から城内に入った。同事件について論議されることから、同連絡会員、関係者に対して調査を行ったが、事件に関係した証言などは得られなかったとしている。》
いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。
ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。
この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
昭和60(1985)年12月20日、"お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。
この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。
事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
中山氏はさっそく、
「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。
ところが支局長は言った。
「全国版?全国版には載せてありません」
「載せていない?それじゃ約束が違います」
「約束した覚えはありません」
「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか。」
「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」
そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
中山事務局長は、
「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、
支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。
やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。
「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」
朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。
虐殺写真はデッチあげ
それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。
「朝日、こんどは写真悪用
南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する)
年が明けて昭和61(1986)年1月となると、様々なマスコミがデッチあげ写真の件で朝日攻撃を開始する。
朝日は窮余の一策で、1月10日、中村支局長を更迭し、我々の攻撃目標から外してしまう。
以後、窓口は西部本社の宮本隆偉通信次長となるのだが、これは全くもって責任のがれの、卑怯きわまりない人事と言わざるを得ない。
1月22日、朝日の全国版に、「おわび」と題するベタ記事が掲載された。
《59年8月5日付の「南京大虐殺、現場の心情
元従軍兵士の日記」に記事に対し、日記の筆者が所属していた都城歩兵23連隊の連隊会から「連隊は無関係」との表明があったため、改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します。》
(続く)
これは メッセージ 9599 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記4
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 02:01 投稿番号: [9599 / 41162]
「家族のために助けてください」
双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。
連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。
この席で、中村支局長は意外にも、
「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。
連隊会側は色めきたった。
支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。
てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。
連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。
「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」
5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。
実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の"現物"を見せてもらっている。
しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。
朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。
日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。
よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。
ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。
連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」
と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、
「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。
つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。
小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。
4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。
抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。
今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。
前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。
その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。
支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」
2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
(続く)
これは メッセージ 9598 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記3
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 01:54 投稿番号: [9598 / 41162]
ここで無言のまま席を立った中村支局長は、やがて1枚の写真を持って現れ、連隊会の代表たちに「これを見てください。」と突きつける。
それは、建物の前の路面に生首が12、3個ころがっている写真であった。
連隊会「これはなんです、これが虐殺現場を撮影したと思われる写真なのですか!」
支局長「その通りです。中国人の生首です」
連「これを見て、支局長は即座に虐殺現場の写真だと思われたのですか」
支「その通りです」
連「おかしいですね。生首が転がっているだけでは、兵隊なのか一般人なのかもわからない。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。支局長はこれをひと目見ただけで、よくも日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたね。その根拠は!?」
支「この写真を持っていた本人が、生前この写真を見ながら後悔していたという事を聞いていましたから、てっきり虐殺の現場写真だと」
連「しかし、その本人は10年前に死んでいるんでしょう。それでは直接本人から聞かれたわけではなく、その家族の方からの話ではありませんか。信用できますか!」
このあともしばらくやりとりは続き、連隊会側は最後にこう要求した。
「先日、孫がやってきて「爺ちゃんたちは悪い人間じゃねー」と言いますので、「何を言うか!爺ちゃんたちは、日本を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。悪いことなどしてはおらん」と言うと、「新聞は嘘つかん」と逆襲されました。
私ども生きている者は我慢の仕様もありますが、若き命を散らせて消えた英霊は浮かばれません。
どうか、全国版で都城歩兵23連隊は南京大虐殺には参加せず、無関係である旨の記事を出していただきたい」
中村支局長の回答は「その事はしばらく待って下さい。私一存ではどうも」というもので、物別れのまま朝日との第1回会談は終了した。
有力な日記執筆候補者
昭和59年10月のある日、連隊会事務局に、問題の日記の筆者についての重大な情報が入る。
情報は第1中隊の代表者である山路正義氏からのもので、
「歩兵23連隊の戦記編纂の折に、「この日記は役に立つのではありませんか」と、北郷村の三浦松治氏が私に当用日記を届けてくれたことがありました。その日記は、北郷村出身で私と同じ中隊にいた、故宇和田弥一君のものでした。日記の中から何か戦記に掲載しうるものはないかと詳細に目を通し、結局、2ヵ所を戦記に載せた次第です。しかし、朝日が指摘している虐殺などのことは書いてありませんでしたから、この日記ではないかもしれませんが、一応ご参考までに」という連絡であった。
調べてみると、宇和田弥一君は昭和48年に腎臓病で世を去っている。
朝日の言う49年に死亡とは1年のズレがあるものの、戦争当時は上等兵で、農業学校を出ていて教養もあるし、筆も立つ、河野美好氏と共に、有力な日記執筆の候補者として浮かび上がってきたのである。
実は、山路氏の情報の中にある「歩兵23連隊の戦記編纂」の最高責任者は私であった。
私は、市ヶ谷にある自衛隊の幹部学校で戦史教官をやっており、戦記を編纂するなら一番適任であろうとなって、昭和49年に発案し、53年にようやく完成させたのである。
その際、各中隊ごとに編纂委員を決め、資料を集めてもらった。
その中に宇和田氏の日記も入っていたのである。
ところが、私は全体の監修者という立場にあったため、当時、宇和田日記の現物は見ていない。
実際の事務所は宮崎でやり、戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送されていることが後にわかった。
連隊会は情報入手後、ただちに仲介役の三浦松治氏に聞いてみたところ、
「年月ははっきりしませんが、ある日のこと、故宇和田さんの霊前に詣でたところ、奥さんが「こんなものがありましたが、何かお役に立ちますか」と申されて、一冊の日記帳を差し出されました」との返事だった。
山路情報は確実に裏付けられたが、奇妙なのは、「最初の北郷村調査の折に何故そのことを告げなかったのか」と問われた三浦氏が「別の日記かと思って黙っていた」と答えたことである。
さらに奇妙なのは、宇和田未亡人の対応だった。
連隊会から未亡人に電話をし、「ご主人は日記帳を持っておられたそうですね」と尋ねると、間髪を入れずに、
「はい、写真3枚と日記帳がございました」との答えが返ってきた。
日記の有無だけを尋ねたのに、なぜ聞きもしない写真の件を持ち出されたのか。
いずれの電話のあることを予期していたかのような反応は、まことに不可解であった。
続く
これは メッセージ 9597 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
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Re: 宇和田日記は、朝日新聞の捏造日記2
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/04/30 01:45 投稿番号: [9597 / 41162]
「新聞は嘘つかん」
報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。
調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。
何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。
問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。
坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。
お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。
「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ。」
北郷村には3つの寺があり、2度空振りあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。
名前は河野美好―――。
ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、
「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」
との返事である。
この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。
昭和59年9月22日。
連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。
対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。
連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
支局長「万全を期している」
連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連隊会「その兵士の名前は」
支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわかなんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長「・・・・・・・・・」
連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」
連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」
連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
支局長のポストを就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」
(続く)
これは メッセージ 9596 (deliciousicecoffee さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/9597.html
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